【白起王翦】戦国四名将について語る【廉頗李牧】 [転載禁止]©2ch.net
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中国では戦国四君だけでなく
戦国四名将という区分まであるようだが
これら四名将について
あるいは彼らの一族や子孫について語るスレ 王翦の知名度が後代で低いのは
秦が強勢になった跡
戦乱の最終期に登場した人物だからだろうか
燕、趙、楚を滅ぼした人物なのに 楚漢戦争のおかげで、王翦はまだ知名度がある方だと思うが
軍事史的には李牧が高いかもしれんけど 王翦は楚への出征時の恩賞をねだる逸話でけっこう有名だと思うが
こういう粛清を免れる身の処し様ってのは後世それなりに注視されるし ああいう逸話は王翦の子孫に伝わっていた話だったのか
造られた話だったのか 個人的には楽毅が一番すごいと思うけど
やはり多くは想像に頼らざるを得ない 史記で蒙氏、王氏の伝記だけやたら詳しいから
劉邦が関中を抑えた時に、その辺の記録も一緒に保護できたんだろうな そう考えると李氏の記録が妙に寂しいのが残念ではあるね いや
お前は廉頗のようだとか
お前は周亜夫のようだとか
俺は楽起のようだとか
いろいろな古代の将がすごい人の代名詞として
後代で使われているのは聞いたことあるけど
お前は王翦のようだと言われた人に覚えがないので
功績の割には変だなと 白起に例えられるといったら韓信や韋叡クラスだろう
性格とかじゃなく戦功とかで そらあ、弱い国の凡将を相手にすれば連勝するっしょ。 史書見る限り、白起の将才は戦略に影響するレベルだが
その戦績に至る戦略を描いた魏ゼンはもう少しセットで評価されるべきだと思う
まあ、BC258以降の一時的な秦の衰退は、半分以上魏ゼンのせいではあるんだが 戦国策で白起自身が勝ち続けられた要因を幾つもの戦役を引き合いにして語ってるけど
いちいち納得できる事ではあってもそれらを現実に全て勝ちに結び付けられる白起の
洞察力や手腕が>>17の言う様にやはり異常に秀でてたって部分もある気がする
いくら当時の秦が強国といっても常に相手よりも大兵力で有利な諸条件で戦えてる
わけでもないんよな
いくら連戦連勝だからといっても、相手が軒並み弱将だったからと断言できるものでも
ないというか、むしろ「お前が弱いんじゃない、俺が強過ぎるんだ」って感じがする 李牧の匈奴戦術は大体分かるが
白起がどういう戦術で韓魏連合軍24万を滅したのかわからない >>21
「戦国策」から白起が述べた勝因を引いておく。
「韓は孤にして魏を顧み、先づ其の衆を用いるを欲せず。
魏は韓の鋭を恃んで、推して以て鋒を為さんと欲す。
二軍、便を争いて、之の力同じからず。
是を以て臣、疑兵を設けて以て韓陣を待ち、軍を専らにして鋭を併せて
魏の不意に觸るるを得たり。魏軍、既に敗れて韓軍自ら潰ゆ。
勝ちに乗じて北ぐるを遂う。」
要するに韓は先に魏を当て馬にしようとして、魏は魏で韓の精鋭を先鋒にしたがる。
足並みが全く揃ってないもんだから疑兵で韓の注意を引いておいて、その隙に秦軍の
精鋭を結集させて魏軍の不意を衝いて破った。
魏軍が敗れると韓は自壊して逃げたんで、そのまま追撃したと。
でもって総括として白起は「皆利を形勢に計る、自然の理なり。」で締めくくって、
神業なんかじゃねーよって事を言ってる。 兵家の言う形勢は意味が広すぎて
結局、将軍の解釈次第という感じだな 史実どおり内部から排斥される以外で負けることはなさそう 孫子は実績が不明だからともかく
呉起は勝ちまくってるから分からんね。 背景にある国力の差を無くしたら
それこそ解らない部分だらけで判定不能か 呉起のアレで勝ちまくってるって判定するなら
孫武のアレも普通に勝ちまくってるって判定しないと
史記には呉の拡大は孫武の手柄ってあるんだから いや孫子列伝には某婦人兵の逸話があるだけ。
そりゃもちろん呉は孫武が強くしたってことになってるが、具体的に何したのか皆無。
だから実績不明と書いたわけ。
呉起は魯軍を率いて斉を大破、秦を討ち五城を落とす、西河太守となって秦韓を防ぐ
などなど戦歴が出てくる。
李衛公問対だったかな、「孫子」は兵書として素晴らしいが、孫武はそれほどでもない。
「呉子」は兵書としては良くないが、呉起は将軍として素晴らしい、といった評価がある。 >>29
何でやねん
伍子胥の伝記に孫武の具体的な進言とか謀略とかちょこっと載ってるわい 戦場に出て敵を撃破したとかは?
戦術能力の出来は? >>31
敵は撃破してるらしいよ
具体的な戦場は書いてないけど五城取ったどころでなく
楚軍をフルボッコにしたってくらいの大規模な勝ちで >>33
どうやって撃破したかわからんからね
とにかく楚軍に勝った、そんだけ >>30
白起とどちらが強いかという話で、軍事上の話をしてるんだが。
てかさ、ゴシショの列伝とか出すと「ゴシショ」が楚軍ぶっ潰したりしてるのばれるぞ。
>>32
同じやつよな?
つまりその具体性が皆無なんだよね。ゴシショの下にいるのも含めて。
言っとくけど別に孫武が弱いとか無能とか言ってる訳じゃなく
名著があるが実は将軍としての戦績はよく分からないっていう
「孫子」の常識的な説明を繰り返してるだけだからな。 >>37
伍子胥「も」だろ
別に背反するこっちゃないよ?
伍子胥は総司令官、孫武は前線指揮官なんだから >>38
前線指揮官?それどこに書いてあんのw
呉拡大=楚撃滅が孫武のお陰!というなら孫武がメインじゃないと。
そこで例えばゴシショ列伝で誰かが破った系のを探すと
乃興師與伍胥、伯ヒ伐楚
?使伍員迎?,大破楚軍於豫章(豫章の戦い)
王不聽,遂以其屬五千人?楚將子常(柏挙の戦い)
別に世家でも同じだが、呉は総力戦だから孫武の存在が出てこないのもたくさん。
当然対楚の功績は分割されて、呉の覇権は孫武のお陰!は苦しくなるといったわけ。
もっともこんなのは全て書かれてないだけで前線指揮官孫武のお陰だ!
ってならそれはそれだがw >>39
さてね
史記による功績の分類では拡大の成功は孫武に帰されてるけどね
呉越春秋でも読めればまた違うんでないかね? 呉越春秋だと
孫子為將,拔舒,殺吳亡將二公子蓋餘、燭傭
當此之時,吳以子胥、白喜、孫武之謀,西破彊楚,北威齊晉,南伐於越
みたいに記されてる。 ある日、藺相如が外出した際に偶然廉頗と出会いそうになったので、藺相如は別の道を取って廉頗を避けた。
その日の夜、藺相如は目に余ると言って出た廉頗とうつぼ、国のための行動だ。
この廉頗は上半身裸になり、いばらの鞭を持って罰として鞭で叩くよ、と藺相如にした。
藺相如はこれを許し、廉頗にさせた。
廉頗は「あなたに悔いはない」と言い、藺相如も同様に「悔いはありません」と言った。
こうして頸(首)を刎ねられてここに「刎頸」という言葉が生まれた。
この人が健在なうちは秦は趙に対して手を出せなかった。 中国での評価は知らんが
近年楽毅と廉頗は妙に過大評価される傾向があるな そうそう
元々は名文のおかげで義人として名声高く戦功はおまけだったのに
白起以上の戦国最強将軍かつなんでも出来る完璧超人扱いする奴がちらほら どっちもキングダム評価垂れ流してんじゃね?
廉頗は史記に誤解の源があるな、名将は名将だけど抗秦に関しては無能より
楽毅は将軍としての能力より燕趙の卿相を兼ねた所に注目したいね、おそらく燕に忠義一徹という人物ではなかったはず 楽毅はキングダムでは回想でチラッと数コマ出てきたくらいだぞ キングダム楽毅はチラッと出ただけだが戦国最強将軍(断トツ)設定と思われても仕方ない紹介だったな
ところで白起さんってなんで殺されたんだろうね、つか軍を三分して趙に進撃する途中なぜ白起だけ召喚されたのか
(昭王と便所で有名な宰相から見て)独断専行でもあったのか? それとも進撃先になにか拙いモノでもあった? >>52
白起が長平で趙兵を40万坑殺、更に邯鄲を落とそうもんなら
位階は宰相の范雎も凌ぐよという入れ知恵を承けた范雎が
白起を召還する様に昭襄王に上申した
白起が殺されたというか死を賜ったのは、召還命令に
憤慨して引きこもった後に再開された邯鄲功囲戦が
進捗しない事に対して、昭襄王と范雎の戦略のまずさを
広言したのみならず、范雎から次いで昭襄王からも
要請された出征を拒んだからってあたりだったかと
当初は流刑だったのが、いつまでも咸陽を離れないのが
昭襄王の勘にさわって剣を下して自刎を促した というお馴染みの史記エピソードは十分知った上でその裏に何があったか勘繰りたいって感じやろ?w>>52は ガチで謀反の気配アリならもっと派手に潰すだろうし
なんか病気でも抱えてたとかか 単純に、
趙の国力を過大に見積もって(長平の秦軍の被害が過大だったことも影響?)
もっと入念に準備してから攻めたかった范雎と
趙の国力を過小に見積もって、
今の内に邯鄲に突っ込めば勝てると思った白起が対立しただけなんじゃない あと何気に、白起は「上党を確保するため」に出陣したはずなのに
長平が終わった途端、今なら趙の都を落とせるので攻めたいです、と言ってるんで、
白起の独行・自立を疑われたのもあるかもな
それ以前に、秦本国の後方能力がパンクしてたのかもしれない
長平の戦いって、昭襄王がわざわざ河内に出向いて徴兵した兵力まで突っ込んで
ようやく勝てた訳だし >>56
マジで深刻な疑念なり対立があったんじゃねーかね?
仲良かったら急にそんな話になるわけないから元々君臣疎遠だったことになるが
楽毅が召還命令受けた例と似てる
・あれだけ功績ある人物殺すのは誰だって嫌なはずなのに一兵士白起をあっさり殺す
・白起も白起で専制君主(+その手駒の宰相)に対する臣にあるまじき異常な態度
こいつら互いに不信感マックス、前から冷戦状態だったんじゃ 一兵士があっさり殺した(史記というか中国の史書は基本的に事件をあっさり書くからこう評価するのはかなり早計なんだが)とするなら
案外、当人たちじゃなくて取り巻きがヒートアップしていたのかもしれんな
范雎(昭襄王)派vs旧魏ゼン派の代理戦争だったとか 趙方面には多分白起の封地があるし、穣侯期に白起が中心となって城を落としたのも趙
白起は人生の過半を宣太后政権下で過ごした人物だし、功臣が辺境に大封を得て鎮守する体制を指向しても不思議は無い
――という事なら昭王や范雎が懸念するのもわかる(ただし范雎も自領拡張すべく汝南攻めてるから同類だがw)
范雎と白起だが、范雎は秦が韓を攻撃してる時(将は白起)、
「正攻法は魏を執拗に攻撃した穣侯流だからダメでーす(超約)」「政治的手法で攻めろ(超約)」と茶々入れてるから
多分相性悪い 白起が大軍率い単独で山東にある邯鄲落すと半ば自立される危険大だしなあ
→白起をコントロールできない&韓魏健在だと上党支配は安定せず山東に手を出せない
→最悪、趙領と秦の東方侵略拠点陶郡が合わさった巨大諸侯が爆誕する
>>60
范雎は白起下げて仲間の鄭安平と王稽を趙地にねじ込んでるし正に戦争だわ 逆に言えばやって来た一世一代の大チャンスをブチ壊された格好の白起ってことになるな
そりゃ怒る 秦の制度じゃあどれだけ力のある人物でも将軍や中央の大官やってるだけでは
国を脅かし自立する事は絶対出来ない(召還する等、王が任を解けば終わりなので)
趙高や李斯みたくクーデターしちゃうアレな人間は別だが。
問題は地方官、特に千乗の大国の主に匹敵する郡守は権限が大きく危険、監視の目が届きにくし
敵と接し情勢が険しい状況で白起のように大軍を率いる将軍が(仕方なく)郡守代行する形が一番やばい。
>>63
でもそのシナリオはワクワクするwww
秦のシステムと周初(太公望とか周公旦が東方を鎮守する体制)のハイブリット。 白起さん将軍の地位で中央に戻ってそのままだろうから、何の力も権限もない無職同然だよね
飼い殺し >>66
郡守・尉・監って中央政府から派遣される格好だから、獲得した占領地で
独立しようとしても白起と私兵除いた属僚以下ががおとなしく追従しないって
事だよね?
穣や陶に封侯された魏冄の様なかたちなら可能だろうけど
白起の場合、武安君といっても僅か一県だろうし >>68
普通は
ただ(戦時)ゴタゴタの最中に不満を持つ人間に武力をチラつかされると追従する(秦末) 官僚は勿論必須だが日和だすと役に立たんし
他人の集まりなんで国はとっかえても問題ないってなるからね 李斯「誰のこと言ってんすか?」
趙高「さあ、わかりませんなぁ…」
邯鄲攻囲の頃から不安定なんだよな〜趙方面の戦線を支える河東郡守王稽は讒言され
范雎は切られるし、後任の蔡沢もすぐ辞任、宰相の地位が動揺してる
それまで黙ってた昭襄王に不満派が軍事的失敗を好機とみて一斉に反撃したのかもしれん
王を直接攻撃は出来んから范雎、王稽、蔡沢を攻撃する(直接攻撃した白起はアウト) 王の年齢が年齢だし、中央で安国君、華陽夫人、呂不韋という外戚タイプ次世代政権の存在感が高まりつつあった筈。
そりゃ流動的になる。機会ですわ。 安国君達の動きも重要ですね。華陽夫人姉弟と呂不韋の対話以外詳細不明だけど
【BC267】
太子外卒。
【BC265】
安国君立太子。宣太后薨。
年末、穣侯出国。
【BC262】
華陽君or高陵君出国。
【BC259】【BC258】【BC257】
白起失脚。鄭安平投降。白起死。
【BC255】
王稽棄市、范雎死。蔡沢宰相に→辞す。
うーん、みんな居なくなる。 司馬錯「ワシの家もここぞとばかりに文句垂れたクチかの」 その頃呂不韋に飛ばされた事で有名な張唐が高級将校のサボタージュで苦戦したり
邯鄲の大敗で元々あった范雎体制への不満爆発→人心荒廃した感じ
絶対者である王の庇護があるとはいえ失敗責任追及は王もせなあかんからダメージ大きい >>74
秦の相邦と趙の宰相を計五回ほど就任と離任繰り返すとか、
素晴らしい人生を謳歌した長生き魏冉さんはもう別にいいんじゃないすか…就国くらい。
>>66
占領地と将軍の組み合わせってーと長安君の反乱が思い浮かぶな
あれは兄王を狙ったわけじゃないし目的がイマイチわからんけど…。
呂不韋? あるいは亡命に近い何か? >>74
昭襄王が高齢なうえに正式に安国君が立太子されると、次代が間近いとみて
擦り寄る人間もいたろうに思うんだけどね
呂不韋を除くとそういう人物がいた感じでもないのがなんとも >>79
やたら高位のわりに呂不韋と直接の接点がなさそうな昌平君・昌文君一派が候補だな その二人は呂不韋のすぐ下くらいの地位につけてた上に呂不韋と一緒に失脚してない
高確率で華陽太后とその周辺が後ろ盾でしょうね
>>77
おそらく異母弟・華陽君の家系が秦の中枢に喰い込んだままやしね 立て続けに宰相、范雎と蔡沢がgdgdになり、その後の宰相が呂不韋までわからない
過渡期だったのかなー? 落ち着かせる為に客(卿)からではなく譜代を宰相に、とか。若しくは孝文王体制が半分始動してたり
その時期の丞相の名が明記された物が出てくれば手掛かりになるんだが・・・ 考古学(出土兵器銘文)で相邦(or丞相)就任が確認されたのは
たぶん相邦魏冉(三か四回目)が最後なんだよね、呂不韋まで十年以上空白ある そういや白起が製造させた可能性のある郡製造の武器が見つかってるらしいね
もしマジなら白起の官歴判明&史記の空白部分が埋まる 白起の徑(字が違う)攻撃は中央から出撃したのではなく
上郡守白起が黄河渡って城攻めしたのかもなあ >>79-80
後の趙相司空馬とかは……呂不韋にくっ付いて来た組か。
でもまあ呂不韋とかいう商人にして官界での実績がない、秦での立場皆無の人間すら接近できるワケだし近づく人間は沢山いたはず。
それにしても安国君は列侯、華陽夫人の弟も列侯、窓口になった姉も羽振りよさそう。このグループ相当力持ってそうだよなぁ。
兄の太子外はなぜ敵国の人質になってたのか、、、
子楚に決まる前、安国君の世子有力候補で勢力を持ってたらしい公子を推していた勢力が(あるだろう)気になる。 秦の太后はいつからか知らんが巨大な権限を正式に持ってるから(太后と秦王の偽印でロウアイは兵を動かした)
その姉弟はそりゃあ羽振りがいいでしょう・・って王后にすらなってない頃だな・・ 奇貨エピの陽泉君と華陽姉は恐らくまだ若い&楚人なのに、もう長いこと秦にいますよーって感じやな
>>88
封地与えられてる立派な弟(おっさん)がいるのに太子が外におっていいのかね?
もし先に昭襄王が急死しとったら始皇帝と扶蘇・胡亥みたくなる可能性あるべ 秦王弟が諸侯になる例はあるけど庶子が父王の時代に列侯になるのは珍しいね 陽泉君の陽泉ってなんか趙にあるっぽい?けど
武安君白起の武安も趙の武安なのかねえ…なんか最前線すぎる気が…… 攻勢なら前線軍事拠点、守勢なら敵を引き受ける被害担当
ケースによるけど、田宅を与えるみたいな完全ご褒美じゃねーからな、封邑は
天下治めるにゃ統治システムもメリハリ必要、難しい土地を中央から切り離して負担軽減とかも 秦なら巴蜀に封じられた諸侯、匈奴を討ち北辺に鎮した蒙恬なんかにそうゆう役目が求められる
この時代だと対楚方面や対東方も似たようなものだけど、趙なら代の相か 李牧の対異民族戦略の手並みは恐ろしいな
国力傾注できる統一国家でもなく、南方で本土が常に秦の攻勢に晒され続けている
状況でよくもまあ 確かに秦の攻勢でズタボロになってなければもっと楽に漠北の民族を制したでしょうね
ただ七雄レベルの国力があれば一方面に展開可能な兵力は統一帝国とさほど違いはない
正面からの真っ向勝負の戦闘力なら列国の軍隊は匈奴よりかなり上だろうし >>96
宣太后「国の中央で異民族を手懐ければよかろう」 閨房で蛮族を御す太后様、さすが始皇帝の高祖母は格が違った… 戦国秦は他六国より父系の宗族が弱く、母系の外戚が強い伝統ある気がするねえ
まあこの両集団は協力し合うことも多いし特別問題はないけど 公孫衍「ざまーみやがれ」
公子疾「いやー残念だよ」 向寿out白起inからの伊闕という史上稀にみる神采配
――その頃(伊闕の戦い)向寿さんなにしてたんやろ 向寿さんは実績ある上にあの辺りに詳しい、白起の佐将や近隣の秦軍を率い白起軍の援護していた可能性もあるね なるほど大戦の場合は将軍と副将いる場合多いし
前年にはそれぞれ別軍統率して韓討ってるもんなあ 王との個人的関係で、って言われる
ロイヤルファミリーに連なる向寿だけどなかなかどうして優秀そうだね
白起と一緒に韓を攻める10年以上前から名前出てるし、若いだろうに
ところでさっき気づいたんだが
白起も参加した華陽の役とその前後の戦役で楽毅の領地である観津陥落してんのな・・さすが白起さん 望諸君の封邑落ちてますねー白起がやったのかは分からないけど
そのあと秦は趙と結ぶために観津を返還しようとしてるけど結局どうなったか不明 しかし陥落した城市の中で観津だけえらい北にあるな邯鄲から東北に随分離れてるやんけ
ま〜山東諸国に楔を打つ絶好の場所やけど >>114
亡命から五年ほどなんで存命の可能性かなりあるかと
>>110-112
観津は穣侯列伝に書いてる
陥落させたのは穣侯と白起かも 楽毅と白起さんは会ったことなさそう
楽毅と魏冉さんは会ったことありそうだけど 白さんは他国の朝廷に出入りする機会あまりないからね 直接軍率いてない時は暇そうだがそういう時は郡守やってたりするんだよな >>116
会盟とかでなければ難しいなぁ白起さんと楽毅さんは、
魏冉さんと楽毅さんは伐斉の時期に趙で遭遇してそうやな、腹の探り合い。 >>117
ゼンさんの随員とかで旅行や!
楽毅って楽池の縁者なら秦と縁あることになるけど…ないかなー 楽池は趙、燕、中山と関わってますし、もしかするともしかしますね むしろ白起と魏冄の直接の顔合わせって少なくないか?
魏冄は相でありながら出張る事が多いし、白起は戦場生活と駐屯も長いし
ふたり咸陽で和んでる光景なんか想像つかない >>122
確たることはわからんが
白起も任期終わると咸陽に帰還するし関中から出撃することもある
白起はいろんな所に行ってるけど基本駐屯するのは中原の要衝
中原なら相邦魏冉が関東巡視する時にまず通るんじゃないか?あ、咸陽じゃねェな(笑) >>122
将軍として共に出撃すること多いから戦場で顔合わせる事が多いイメージだが
臣下の身だし咸陽に滞在することも多いかと多分 白起
「宜陽や函谷関の辺りで向寿さんとよく会いますね」
「伊闕を過ぎると新城君と会うことが多いです」
「楚都攻略の際は相国と王弟殿下(封邑)のお世話になりました」
「戦上手の司馬殿や相国と共闘することが多く楽しいです」
出向先に親族いっぱい居すぎィ! 魏冉氏は白起さんと任鄙さんを同年に推挙してるけど、
一方は多分年下で咸陽より西の生まれ、もう一方は同輩か年上で故・武王の寵臣
以前から交誼あったとすれば、興味深い人間関係が見えるような見えないような。 この時代、どの人物にも言えるが
生年月日の情報ホスィ えー、いやまあ可能性は極めて低いが…
地下から官吏の誕生日付き木簡が発掘されたりするジャン 雲夢簡か、その他大勢官吏なのに誕生時刻がわかる大した男 白起が出した命令とか書いた物が発掘されたらいいのになァ 白起さんは趙兵を偽って殺したのが罪に当たると考えたようだが
やっぱ正々堂々ぶち殺し斬首し溺死させるのはオケかな?軍人だし 前者は汚名だしね白起にとっても秦にとっても
後者は畏敬されるわけで違いは大きいかと 甘茂や司馬錯、樗里子あたりはまさに知恵のまわる将かね 残念なことに戦場において知将っぽいと分かるの武安君のみっすね
甘茂の宜陽戦は逸話あるけど攻撃は力攻め、罷免しないように釘を刺す知恵者っぷりは発揮してるが… 挙がった人以外にも公孫鞅・魏冉・張儀など史書に智者とあるor智者イメージの軍将はいるけど
やはり>142が言うようにその頭脳をどう戦に活かしたのか分かる具体的な情報はないですね 商鞅さんに至っては戦での詐術が没落後の悲惨な最期に繋がったというストーリーだしなぁ… 列伝に力則任鄙、智則樗里ってあるし、孝公の子、スーパーエリート秦人の樗里疾将軍は地元秦人ご贔屓の智者と思われるが――史記と戦国策に碌な逸話がねえ・・・。
智慧比べで完全に甘茂さんに押されとる上に城落としに出陣したら変な奴に丸め込まれて戦果ゼロだわ、次の攻撃目標も落ちない。こんなのおかしいよ; どうしてもその方面は、説客型の人物に盛っちゃうからなー
そこらの説話から肥三国志風に能力設定すると知力80いくか怪しいw(90欲しい) 光栄の妥当性はともかく、ぶった切って数字にする姿勢は雑談に便利だなw 商君列伝は史記列伝屈指の短編小説だと思う、筋書きのある歴史すぎるw 本籍地が楽毅所縁の場所に近いね。楽氏は春秋から栄えているので、他の楽氏後裔を称しているかもしれないけど。
>>151
後世創作されたっぽい説話が多いねえ・・・良い部分も悪い部分も。 たしかに楽氏といえば俺も宋の方が浮かぶかな
でも晋にも楽王鮒というちょっと知られた人物いるね 宋の名族と言えば向氏、華氏、楽氏、おそらく数が圧倒的に多い
楽毅や楽進は宋人の末裔かもしれませんね(楽毅の族も名門のようですし) 戦国期になるとパッとしないねえ、楽毅と向寿ぐらいか 少なくとも楽乗は度外視できないんじゃ?
閼与の救援では廉頗に次いで諮問される位置にいるし、
燕が舐めて軍勢差し向けて来た際にも廉頗と一緒に
数倍の差を覆して大破してたはず 長く繁栄したけど華向の乱で衰えた仕方ナイネン
重要人物が多数楚に流れたから絶えてはないけれど 楽乗は廉頗と同等じゃの、楽毅の一族ってひとまとめにしちゃうが 楽池忘れとったわ
>>159
楽羊の家系?は楽毅だけ挙げればいいやと手を抜いた
廉頗に伍する武襄君楽乗、あと楽間に失敬だったな 数こそ少ないけれども上がる名前を見る限り盛族って感じやねぇ 楽毅vs白起
不敗の名将対決を用意しなかった歴史に遺憾の意 その二組
戦歴が微妙で戦の腕前に関してやや疑問が残る(ただし超有名人)
VS
間違いなく戦上手で名将の誉れ高い
という共通点がありますな 名将として評価される韓信と白起は天才的発想で強敵を討ったorどれだけ殺したかよく分かるね 白起と楽毅は対峙するぐらいはあっても不思議はない状況やねんけどな
恐らくまだ楽毅存命な時期に封邑の観津が秦軍の攻撃目標になってるから 白起さんは大軍の強兵を率いてたから勝って
当然のイメージ。 強大国秦の優位性が戦場の白起を大いに助けたであろうことは疑いないけど
白起麾下の兵力はあまり多くないよ
伊闕では10万以上率いてる筈だが、それでも相手の半分未満
楚侵攻では数万(恐らく3〜4万だろう) 白起が大軍で圧する戦争してたってのは勘違いだろうなあ
戦績と抽象的な印象で凄いと思ってる人はまず「戦国策」を読む事を勧める あと長距離強行軍からの急襲を華麗に決めた華陽の役も戦いもたぶん多くない筈 ×華陽の役も戦いもたぶん多くない筈
○華陽の役もたぶん多くない筈 白起は史記よく読むだけで十分すごさがわかるぜ
まぁ史書に見えない所で少数の白起軍を補助する友軍が活動してたんでしょうが せめて三国志並に一国あたりの列伝数多ければ戦場の脇役たちの動向も分かるはず・・・ 大戦だと複数の将軍が動いてるからなあ、常識的に考えて
敵味方とも五万前後なら将軍一人、校尉数人で足りるけど まあ戦国策は史書じゃないから参考にする時は多少の注意が必要だけど 理に従っただけで特別なことしてへんでー
と言いつつ細かいところまで全問正解な白起 三晋じゃ左・中・右の三軍体制が敷かれていたらしいよ
十万を遥かに超える大兵力を前線に易々と投入できる秦や趙でも
尉(校尉)を5以上失うと将(王陵、廉頗)がクビになってるし
将軍/裨将の次に偉い校尉が統帥する兵団は万を超えるのかね? >>184
いわゆる千人将と尉の間にまだポストあり、そして校尉麾下の集団が(多分)伍から始まるユニットの最大単位、1万前後が妥当でしょう。
ちなみに兵馬俑軍団は大体1万人体(未完成部分含む)。 ↑誤字
ちなみに兵馬俑軍団は大体1万人隊(未完成部分含む)。 >>186
なるほど
校尉の下に千人隊を二三束ねた兵団があるとすればそうなるな 千人将か、
キングダムは秦の制度とか説明しとったな※序盤のみ 三晋の三軍制は武霊王の中山攻略がわかりやすいな
武霊王親征20万の出撃だけあって右軍、左軍、中軍、車騎が揃い踏み 三晋では武器製造職人も軍ごとにいるっぽい、趙の名将はそういう体制で戦ってたんやな 華陽で秦がえらい北東にある趙の都市攻めたのは恐らく趙を合従から離脱させ連衡し斉を討つ為
もし実現してれば白起vs田単というドリームマッチになったのかな?
田単の勝ちが全く見えねーけど・・・ 仲悪い趙斉燕に工作する絶好の位置やね
田単? よわそう 白起は勝つべくして勝った、勝ちまくったって感じの人だが(自軍が数的有利不利関係なく後から見れば必然)
絶対無理だろって命令で無茶振りされてたらどうしてたんかな 邯鄲の王コツになったんじゃね?
王コツが無様に大敗したのは後退して態勢を立て直す選択肢がなかったからやろ多分 実は何度もそれは無理って返してる可能性も
それで折り合い悪くなっていって最後あぼん 白起なら無茶な状況をもひっくり返しそうだが、邯鄲攻撃時みたく明らかにやりずらそうな陣容では無理だしそもそもヤル気ゼロだろうな
白起主導の趙攻略を嫌った時点で両者の溝はもう埋められないレベルになった感 主導権争いしながら戦うって脂肪フラグ以外の何者でもないからねぇ…
しかも諸侯の援軍に補給路を制される確立大かつ趙軍の突出に掻きまわされて疲弊した秦軍 鄭安平(投降)、王稽(内通)
こんなのと一緒に戦いたくねーよ 真面目な話、白起が望む時点で邯鄲攻略しても本気で危険だ
白起は戦術的に落とせる、と計算してるだろうし、実際落ちたのだろうけど
それで伸びる国境線とか考えると頭の痛い問題だし、
今度は邯鄲を孤立した状態で保持しなければならないから戦略的には邯鄲包囲は少し待たざるを得ない
翌年の秦による趙攻撃は秦から邯鄲を孤立させない交通路の確保から始まってて
皮牢、太原、上党と見事に邯鄲の北西側を確保し邯鄲包囲、陥落後も孤立しないように仕立ててる
范雎は白起を邪魔したという史観が一般的だが、地図を見れば范雎が止めるのも無理ない話しというか
白起の強攻策はちょっとやり過ぎレベル
大誤算は邯鄲が落ちなかった事でこれは結果論として范雎批判に繋がるわけだけど
秦の戦略的行動そのものとしたら范雎案で何もおかしくなかった
>>194
連合軍が結成されてしかもそれが緒戦の勝ちで勢いに乗った後は
病気を理由に戦うのを拒否ってるように、無茶振りにはある程度抵抗もするんだろう いや、おかしいでしょ
白起が主将でもそこらは陥落させてる、ほぼ同時に邯鄲に速攻かけるだろうが
上党という広域を占領しそこから更に太行山脈を越えた邯鄲を落とすという
堅実さに欠ける無茶な戦略を選んだ時点で何と言い訳しようが范雎も非合理だよ どう考えても政争が戦争に反映された結果やろ
范雎が白起を止めたのは勿論、白起が出ないどころか大声で王を誹謗したのは、昭王范雎体制の崩壊狙いだろうし >>202
白起による邯鄲攻略は史記によると上党方向だけしか抜いてない
太原を攻略しないと趙が太原、臨汾を抜けて
東へ向かえば上党を西から攻撃する等邯鄲包囲軍の後背も突けるし
西へ向かえば函谷関を落とさずに関中へ入ることが出来る
皮牢は上党のすぐ裏口でもあるし確保することで太原を避けて臨汾を抜けるルートを抑える事が可能
またここを抜かない限り逆に上党をいくら確保したとしてもちょっとした事で後背を抜かれることになる
地図を見て検討すればするほど皮牢、太原の奪取って趙に反撃を許さない水も漏らさぬ必勝の攻勢で、
長平で勝ちを収めてすぐの邯鄲攻撃は年単位を覚悟する大城への包囲という当時の状況を見ると
伸びきった状態で危険極まる攻勢の形になってしまっている
ttp://www1.axfc.net/u/3513841
一応参考までに BC280以降になると一部六国の王都を攻め潰すだけなら秦は出来たろう
けどその後背地をしっかり抑え安定した統治を続ける条件はまだ整っておらず
功を焦って多大な犠牲を払い堅城と連合軍を同時に相手する必要はない
戦国秦でその手の失策がほとんどなかったのは地味に凄いと思う >>204
白起がやろうとしてた王が皮牢、司馬が太原を落とし、自分が邯鄲に行く手は最善手だと思うよ
大胆な迂回攻撃なんぞ40万を擁しながら引きこもるだけの趙軍にできるとは思えない上に
白起軍が邯鄲に迫ればそのリスクはほとんどゼロになるし ごちゃごちゃ言っとるけど大同小異だろ?結果邯鄲に拘って惨敗
その影響で両方失脚して死んだ、范雎派なんて現王の寵臣なのに全滅
長平後に限ると両者ダメダメでしょう よくろくに残ってない地理の情報を根拠に堂々と断言できるな >>201から急にヒートアップ発熱したなw まあ偶にはいいだろう
オウセンさんについて語ろうぜ 君主に楯突いた奴と保身に汲々とした奴という意味でセットになったおふたり 司馬遷は穣侯列伝まで秦を天下統一へと導いたリーダー達の傳を並べる歴史家らしい編纂してんのに
白起王翦列伝でぶつ切りにしちゃうんだよなあ 白起王翦の後に呂不韋列傳を置いとけば繋がるんだが… 白起ぐらいになると単独で立ててもいい様な気がするけど贔屓目か 蒙傲(恬)、王翦でセットにした方がしっくりくる気はする
子孫も含めて活躍期間が近い(BC285蒙武伐斉の件除く) そらそうよ
秦の数十万の精鋭持っておきながら後見任された皇太子を自害させるわ
自分も身を真っ当できないわでクズオブクズ 王翦と一緒に燕を滅ぼす将軍・辛勝って、もしかして楚の王族かねぇ?
ビ姓は時々「辛」と書かれる… >>219
そうでない可能性が高いと思うがな
楚王家はビ姓熊氏だから史書に名前出る時は「熊○」となる筈
人名を表す時、姫姓なんかの例外を除いては氏を用いた表記が基本
秦王家はエイ姓だが始皇帝はエイ姓趙氏で「エイ政」という書き方はせず「趙政」と史記に記されてる
ただ、この氏姓の使い分けは戦国時代から形骸化しつつあって
前漢の頃には完全消滅と言っていいような状態になるがね まぁ確かに可能性は低いか
しかし熊氏の著名人はあまりいねぇな、王族はすぐ他の氏を名乗るから 春秋戦国期でパッと思いつくビ姓表記の有名人は数人・・・
まあその内1人の活動時期は辛勝と比較的近い戦国中晩期かつ辛戎と表記される事もある人だが >>222
もしかするとその数人の内何人かはビ姓じゃなくてビ氏かも知れんぞ
氏と姓が同じってことはあんまないと思うが同じ文字を使った氏と姓がないわけじゃないだろうしね
例えば姜姓も姜氏もあるしさ つまり正真正銘の楚王族以外は不確定ね
人数半分になっちゃうなw 辛勝かー
…むしろ華陽君の姓氏はホントに辛、華陽君辛戎なのかもね、つまり宣太后も
楚の国姓であるビ姓を強調してる司馬遷・史記を真っ向否定することになるが 面白いね実は辛戎説
宮城谷氏が宣太后は楚の宣王の王女じゃないかと昔どこかで少し書いてた
そこの三姉弟の複雑な関係の不思議のせいで半信半疑っぽかったけど
秦の孝公と楚の宣王の時代に両国は姻戚になってるし
宣王に嫁いだ秦の公女が生んだ子が秦王室に嫁いだと考えれば自然な流れ
しかしその割に夫人としての位階が低いんだよなー夫人と宮女の中間みたいな 太后と華陽君が王孫かもしれないね。あと華陽后も気になるところだな。
まあ、いちおう楚の王族だと思うけど、非王族説はありだと思う。
親魏色が強い秦武王の代に向寿や魏冉が既に重く用いられてたり、
異父姉の故郷をボコボコする穣侯に親楚の姿勢があまり見えないのが少し謎だった。 ほとんどの人物は六国のどこかと結ぶな、張儀や甘茂は魏だし樗里子は韓
まぁ穣侯の場合は飛びぬけて長く勤めたので国際情勢に合わせ手を結ぶ国を変えざるをえず
結果的に全方位の国を凹るはめになってしまった感じですけどww アレクサンドロス大王がタリム盆地を越えて攻めてきてたら
七国全部滅亡w >>229
インドも征服できないヘタレにセリカ征服は無理 弩の存在しない世界の軍と大量配備した軍でぶつかったら
それだけでかなり不利だしな インドで翻したのは軍隊の反対からだし
アレクサンドロスが長生きしてもう一度遠征したら中国までいったかもな マケドニアは強いけどペルシャ帝国勢力圏の外に出るのは止めておいた方が… >>232
あれってペルシア帝国とインドの勢力の国境画定の一環だから
兵士のせいで還った、と兵士のせいにされてるけどインドから帰還する過程で
3年もペルシア各地フラフラしてることからもわかるように、普通に攻勢限界で引き返して
あとペルシアの鎮定作業に移ってるだけ >>227
宜陽攻撃に名将?甘茂と共に関わってるし向寿は早くから任用されてるよなあ、昭王の幼馴染ってだけじゃないっぽいね >>234
いや、引き返すならその過程でペルシアを鎮めるのは当たり前だろ
全く根拠になってないぞ どちらにしても南アジアの端っこと中央アジアが限界なんだからどうでもええんです >>236
当たり前じゃあないんだなぁ
アレクサンドロスはインド侵攻の前にもペルシア鎮定作業をずっとやってるんで
ペルシア鎮定してからインド遠征して帰りに同じことを繰り返してるわけじゃなく
インド遠征がインド諸勢力との国境画定のための、つまりペルシア鎮定の一環に過ぎないんだんわ
むしろ鎮定作業の途中で何でインドまで行っちゃったかと考えるのが当然こと >>238
いや・・・またしてもまったく根拠にないんだけど
むしろインド遠征後のペルシア鎮定が根拠になっていないことが重ねて強まっただけだろう・・・
繰り返してるわけじゃない、とする論拠がどこにもないまま
原史料の説明無視して動機を捻じ曲げてるだけっしょ? 遠征したんじゃなくてペルシア帝国とインド諸侯との国境画定してるだけ
元々アケメネス朝はインド人諸侯も臣従させてたんだし アレキサンダーは世界の果てまで遠征する気でいたんだけど故郷に帰りたがった部下の反対で引き返す事になったと聞いた アレキサンダーの映画見たけど自分がアレキサンダーの部下だったらヒンドゥークシュ山脈に到達した時点でいい加減帰りたくなるだろうと思った サラトップどもがすぐ東側にいるからペルセポリスの時点で帰ると普通にペルシア失うがな >>243
アレクサンダーもカエサルもスケールがでかいな。 白起って邯鄲まで落とす気あったのか?
列伝だけ読んでると范?が勝手にそう思い込んだだけのように見えるけど 戦国策ではそうなってるな
長平直後には秦全体が疲弊していたにも関わらず邯鄲攻略を主張していたのに
秦の国力が十分に回復してからは逆に反対し始めたのは何故か?
と、昭襄王が白起に問う節がある >>241
当時のペルシャの版図なんてほとんどは名目的なものだったが
現地の有力者に総督の地位を与えて朝貢させてるだけで属州内でもしくは違う属州王同士が争ったりペルシャ王に公然と反旗を翻したりとかざら
ペルシャの属州は明代の羈縻衛に近い >>249-250
邯鄲攻撃云々は白起召還と和議でほんの少し遅れただけで
疲弊した秦の国力の回復は全然出来てないはずなんだよね
事実上の白起外し→後釜に鄭安平・王稽捻じ込みVS白起の抵抗
という政争でしかない、亡命しなかった楽毅的な ワンテンポ遅らせただけで戦略的な違いはほとんどないね
そのワンテンポで助かったのは明らかに趙だけど 攻囲の長期化が招いた敗北って閼与の戦いと全く同じ
昭襄王学習しねえな 何で将軍の白起への交代は極秘裏に行われたんだろう?
それに何でもっと早くに交代しなかったのかな? >>255
白起個人を極秘裏に動かしたのではなく、白起軍が増援に来たのを隠したってとこだろ
何故もっと早く交代しなかったか?そりゃ白起を使いたくなかったんだろ 白起に増援させたのは史実だしそんなところでしょうね ただでさえ持久戦に趙のみならず秦も喘いでる中で秦で増援あったとわかれば
趙は遠征軍が自壊するまで秦と戦わんものな せっかく敵将が趙括に交代しても警戒させてまた籠城されちゃったら無意味だもんな 廉頗の持久戦ってやっぱり趙よりも秦側の方が補給が大変だったのかな? 単に魏や楚の援軍を期待してたんじゃない?
孝成王は趙単独で何とかしたかったのかもしれないけど >>262
どう考えても大変なのは図体のでかい趙軍
引き篭ると補給線断たれるし現地調達も出来ない
先に上党郡の中心地を制した秦の方が遥かに楽 各個撃破された趙軍拠点の物資ごっそりパクられてるだろうしね… 更に范雎の策略で斉や燕からの物資流入も遮断されてるしな
突発的に始まった上党戦だけど、秦の対策の速さが恐ろしすぎる 趙軍が勝てるとすればどのような戦術戦略が良かったのだろう? 当時の軍事常識を考えると両軍ともにまともな輸送は出来ないと考えられるので
手持ちと周囲食い尽くした時点でどっちも日干し一直線
秦は遠征軍なので尚更条件が厳しいので趙が出来るのは秦が引くまで粘る事 >>267
まだまだ元気な最初から全力でぶち当たる、押し切れなかったら伏兵置いてさっと退く
or大軍は用いず邯鄲でやったように少数精鋭の奇襲を繰り返して削る
>>269
河川沿いなら十分輸送出来るけど、どちらも太行山脈越えなんで補給は厳しいね
近隣の食料豊かな地域を奪った方が勝つ >>266
范雎で思い出したが
そこそこ有名秦相のわりに出土資料(一次資料)で存在未確認なのが不思議だ、張禄はあるけど
まあ俺が知らんだけかもしれんが、一発屋秦相・孟嘗君でさえ確認されてるのに……
>>270
“籠城”は(趙括の2カ月含む)長く見て4ヶ月ほどだよ >>272
ウィキペディアによると
長平に到着した秦軍と趙軍の間で三度、小競り合いが発生したが趙軍は全て敗れた。
廉頗は数で劣るものの精強を誇る秦軍との直接対決を避け、守りを固めてを篭城を徹底し秦軍の疲労を待った。
二年の歳月が過ぎた頃には廉頗の目論見通り、秦軍には持久戦の疲れと焦りが出始めた。
秦の宰相・范雎は状況を打開すべく趙の国内に多数の間者(スパイ)を送り、「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」というデマを流した。
とあるけど…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B9%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 >>273
史記でも数ヶ月説と2年以上説で混乱があるんやで >>272
そりゃ秦の公式記録には張禄で、范雎と名乗っていた時代はせいぜい魏の賤臣だから
一次資料で出て来ない確率の方が高くない? >>272
【BC255】王稽「おう張禄、死ぬ時は一緒だよな!」
孟嘗君こと相邦薛君、丞相金投(武霊王の臣下)が製造監督した食膳?が発掘されたっけな。
魏冉や呂不韋の作った出土古代武器やたら多くて笑うw >>273
272だけど
そのwikiはゴチャ混ぜにしていて完全におかしい、なんかキングダム感ある
白起伝に拠るなら両軍の戦闘は半年足らずで終息、籠城期間は更に短い
他の箇所に2年説あるけど、それは“籠城”ではないかと
>>275
そうなんだが“張禄”も雲夢秦簡編年記の死亡記事しか見たことないからなあ…… >>276
それそれ
郡守ないし丞相・相国の職に就くと銘文入り兵器ザクザク出てくる
影の薄い甘茂や馮去疾すらあったはず 武器の銘文って皆フルネームではなく大体ファーストネームのみのサインだから困る
白起っぽい郡守とか司馬錯っぽい郡守とか蒙武っぽい郡守とかいるけどフルネームじゃないから断定できぬ・・
やたらとフルネームでサインする呂不韋さんを見習えよ!ww 軍人としての記録しか残ってない白起等はファミリーネーム無いとちょっと分からないっすね
宰相級は史記にある在任期間と銘文の年号を照らし合わせて確認取れるけど
ま、そうでなくとも商鞅や魏冉は名が珍しいお蔭ですぐ分かりますが 呂氏春秋の應言篇に「秦雖大勝於長平、三年然後決、士民倦糧食。」とある
史記よりはこっちの方が信憑性高いんじゃね?
まあ籠城戦の期間は不明だけど 2年とか半年とか4か月とか3年とか
史料によってバラッバラなんだな・・・ まてまて、史記より呂氏春秋の方が信憑性上ってのはどうかと思うぜ
流石に史記のがマシじゃろ?
前年から韓上党郡&その周辺に秦軍と趙軍が展開していたのは確実でしょうけど
王コツ軍が長平付近に布陣する趙主力軍に近づいたのは昭王47年(BC260)に入ってからだろう
比較的信頼性が高いとされる秦本紀、もっとも詳しい戦闘経過が書かれている白起王翦伝、睡虎地秦簡が一致してる 史記が優秀なのは網羅的だからであってその記述の正確性故ではではないよ
といっても他史料で確認取れてるのに史記が間違ってるなんてこともないけど >>282
意外と整合性とれてる気が
3年(足掛け3年)→実質2年だし、上党を巡る係争が始まってから2年で決着ということでそ
半年とか数ヶ月というのは長平で本格的な戦闘が行われた時間 長平の戦いから呂氏春秋の完成まで20年くらいしか経ってないからな
このケースでは呂氏春秋の方が信憑性が高いと見るべきでは? 改竄や書写ミスの可能性を考慮するなら、睡虎地秦簡を基盤にするのが無難な気がする 大事な資料ではあるが呂氏春秋は史実を正しく伝えるという目的を持った史書や年表じゃないからね、畑違い
まぁ史記もアレな部分結構多いけどさ 基盤つっても「攻長平」しか書いてないんじゃないの? そだよ、BC260年に攻長平
その前の年は別の場所攻めてるね 睡虎地秦簡も始皇帝時代ならともかく昭襄王時代だと一次史料とは言い難いのでは?
著者が生まれたか生まれないくらいの時代についての記述なんだから 当然、昭王紀年の大部分(五十年前後まで)は簡潔に攻○○とあるだけだし
成長した『喜』が何らかの公式一次史料的なものから転載したことになるけど
この時代についてこれ以上に正確そうな伝世史料が存在しないので相対的に一次史料なのだ リアルタイムなのは昭襄王年間末期…ラスト5年からやね
その頃から少し変わった記述が出てくる 結果論で史書が「対秦戦を避けるべきとの意見に従うべきだった」と孝成王本人に言わせちゃったからね…
そして平原君は趙括を推してた側なんじゃ
その時点で上党は秦に奪われてたから対秦強硬派に属すであろう平原君は廉頗に失望してそう 秦=イギリス
趙=清
孝成王=道光帝
廉頗=林則徐
白起=黒船
と考えると分かりやすい 長平辺りまでで趙が清のように地域覇権国家となったことはないし
秦がイギリスのように当時の清と比較して圧倒的な技術的優位にあったということもない
白起が黒船のようにそれまでの能力が清に知られてなかったということもなければ
廉頗が林則徐のように向こう見ずだったという事実もない
孝成王は道光帝と違って戦中に指揮官の首を挿げ替えたりしているし
比較にもならん ここら辺は水増しがひどいからな
この頃の中国なんて戦国日本より人口すくない人口密度スッカスカ時代なのに
数十万の大軍動かせるわけねーだろ 古代中国でいう兵員とは人口における戦闘可能年齢の成人男性の数だから
実際の兵数ではない >>303-304などと、
足りない知識と脳味噌で意味不明な供述をしており 91 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 02:43:41 ID: +9jOYaIBUj
俺の経験上その手の話題を率先してする人は先秦時代について全然詳しくなかったり
荒らしやネトウヨっぽいのが不毛なやりとりを展開するケースが多い(2chとかじゃ)
134 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 01:06:13 ID: lQrLqzSc7K
※白髪三千丈(中国史)
日本人がネット空間などでよく唱える侮蔑的な呪文、使うと高確率で知能低下
インターネッツ最大派閥NTUYニキ系の輩が使用した場合は特に注意が必要である
>>132-133
当時と地形が変わっており古戦場全体の調査は不可能、確認された埋葬坑は全体の一部に過ぎないと思われ
実際に発掘調査した坑となると更に限定的、史記の数字を肯定する材料にも否定する材料にもならないのです
いい加減うんざりするこのネタ まあその後趙は秦や燕の攻撃を退けてしばらく存続するから
数十万生き埋めはないとは思うが >>309
君は人口一億三千万の日本国陸上自衛隊は二十万人もいないから関ヶ原とか朝鮮征伐とか大坂の陣の数十万の兵力は全部うそっぱちで本当は数え切れないという意味だと言うのかね?
あと人口が今よりずっと少なかった前世紀後半のPLAと各種補助兵力の合計は四千万とかそういうレベルですよ
この手の話を日本人がネットですると十中八九アホがアホなことぬかして残念なことになるのは何でだろうね
※趙括スレ住民のことじゃないよ念のため 90 : ななしのよっしん :2016/04/14(木) 18:12:53 ID: PcCp+mfRug
>>85
君は人口一億三千万の日本国陸上自衛隊は二十万人もいないから関ヶ原とか朝鮮征伐とか大坂の陣の数十万の兵力は全部うそっぱちで本当は数え切れないという意味だと言うのかね?
あと人口が今よりずっと少なかった前世紀後半のPLAと各種補助兵力の合計は四千万とかそういうレベルですよ
>>82-85
この手の話を日本人がネットですると十中八九アホがアホなことぬかして残念なことになるのは何でだろうね
※趙括スレ住民のことじゃないよ念のため 奥州十七万騎は誇張じゃなくて絶対に事実だからそれを水増しだと主張する者は鎌倉の間者である 相手するなよ
>>303>>307氏がキャラ変えて無断コピペ連投荒らし中だ >>313などと、
足りない知識と脳味噌で意味不明な供述をしており いるよなー
釣りや荒らし指摘されると自分で文章書かず
仮想敵のレスをコピペして荒らす馬鹿 いるよなー
釣りや荒らし指摘されると自分で文章書かず
仮想敵のレスをコピペして荒らす馬鹿 裴松之「自分より数倍のかずの兵士を捕虜にすることなんて無理」 >>310
数十万分を生き埋めにする穴ほらせるとか
土かぶせるなんてどんな膨大な時間と労力になるんだよ
ちょっとした土木より大変だわ 趙一国が数十万生き埋めにされても
まだ燕に攻勢に出れて
秦の攻撃を退けられるほどの
精鋭兵を補充できるだけの人口があったとは思えないが 数字が正しければ
長平以前のたたかいでも
韓魏の兵50万を葬っている 清の道光帝の戦争の途中に総督を林則徐からキシャンに変えたのは
戦国時代に趙の考成王が司令官を廉頗から趙括に変えて自滅したのを彷彿させるな 長平の戦いの遺跡発掘されてるけど普通に戦って死んだあと埋葬されたものばかりで
生き埋めってのは明らかにウソ >>324
134 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 01:06:13 ID: lQrLqzSc7K
※白髪三千丈(中国史)
日本人がネット空間などでよく唱える侮蔑的な呪文、使うと高確率で知能低下
インターネッツ最大派閥NTUYニキ系の輩が使用した場合は特に注意が必要である
>>132-133
当時と地形が変わっており古戦場全体の調査は不可能、確認された埋葬坑は全体の一部に過ぎないと思われ
実際に発掘調査した坑となると更に限定的、史記の数字を肯定する材料にも否定する材料にもならないのです
いい加減うんざりするこのネタ
>>130-131
大都市が密集している場所で行われている会戦が多いから
野戦っぽくても実は戦果の大半は城塞の攻囲→城内殲滅という可能性はある
137 : ななしのよっしん :2016/04/27(水) 22:34:25 ID: 6rucE4rlmb
基本>>134氏の考え方で良いように思う長平古戦場は碌に調査されてないしそもそも正確な場所すらわかってない
結論を急ぐ必要はないかと 140 : ななしのよっしん :2016/04/28(木) 00:03:15 ID: 6rucE4rlmb
続けるならもう少し他人のレスをよく読んだ方が良いと思う
君の意見は一理あるけど一理で全体を確定ずみとか有り得ないとすることは出来ない
今のところ確定しようのない話なんだよ >134 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 01:06:13 ID: lQrLqzSc7K
こいつ台湾人か香港人だな
ネットスラングのチョイスが独特だからすぐわかる
つうか向こうの歴オタって史書にある数字全部鵜呑みしてるのか笑える 91 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 02:43:41 ID: +9jOYaIBUj
俺の経験上その手の話題を率先してする人は先秦時代について全然詳しくなかったり
荒らしやネトウヨっぽいのが不毛なやりとりを展開するケースが多い(2chとかじゃ) 143 : ななしのよっしん :2016/04/28(木) 19:09:39 ID: SzHyyFgiSm
秦本紀や六国年表にポンと簡潔に載ってる数字を否定するのは困難、長々と語られる説話部分に比べると粗が少ないし、完全に否定できるような材料はまず出てこない。
史記肯定の立場でも事情は同じ。
「調査した坑に未成年の遺体(ほぼ)無し」≠「白起将軍が少年兵を解放したという史記の記述は事実」
古代史は資料が乏しく、学者ですらちょっと何かあると浮き足立って定説を覆したくなるものだから、又聞きした素人が早合点して断定気味に書いてしまうのは仕方ないけどさ(自戒) 144 : ななしのよっしん :2016/04/28(木) 19:42:12 ID: SzHyyFgiSm
>>141
いえ、戦意を失ったり指揮系統が破壊された大軍が降伏する例はありますし不可能じゃないですね。
最終的に秦軍がどれほどの兵力を動員したのか不明ですが、趙軍の兵力を上回っていた可能性も。
>>142
趙世家にありますね。
どこまで信用できるのか判りませんが、秦や第三国の人間は「長平で趙の青壮年は尽きた」と判断していた模様。 青壮年が尽きてるのに秦と燕と戦えるのか・・・趙の兵は畑から生えてくるらしい 40万生き埋めは事実!!!否定する奴はクズ確定!!! 146 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 02:23:21 ID: lQrLqzSc7K
印象操作ならばご存知かもしれぬが、趙軍の燕都包囲は9年後ですよっと
やはりと言うべきかこの話題は日文wiki(←しょぼい)レベルの水掛け論になりますなあ 何が水掛け論なんだろう?
史書の記述に検証を加える行為に対して、記述を盲信して罵倒した挙句「水掛け論」呼ばわり?
たぶん先行研究とか知らないんだろうなこういう人って。 というかこの人って「青壮年が尽きた」状態からたった9年で燕都包囲できるほどに兵が増えると思ってるのか・・・ それに>>333の「〜の例があるから不可能じゃない」ってものすごい暴論だ。
その時秦や趙が置かれた状況を考慮して分析すべきなのに・・・
これじゃ義経がチンギス・ハンになるのも完全に不可能ではないから、信憑性があることになってしまう。 95 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 16:14:38 ID: 4zbTxBpTpN
この時代の軍隊を今と同レベルのものと捉えたらあかん。
ガリア戦記上の古代のゲルマンやガリア軍と同様兵士の妻子や家族を含めての数字だと思ったほうがいい。
「商君書」 兵守 第十二巻
壮男で一軍団を作り,壮女で一軍団を作り,男女の老弱の者で一軍団を作り,これを所謂三軍という。
(中略)老弱の軍は牛馬羊豚を放牧して、草水を食わせ納めてこれを壮男壮女の食料とする。
「墨子」 号令 第十五巻
諸々の男女で城壁上に有るものは十中に六は弩を持つ。丁女と老少は人ごとに一つの矛を持つ。
96 : ななしのよっしん :2016/04/30(土) 02:14:58 ID: +9jOYaIBUj
必ずしも一般化できるものではないが商君書の引用良いね
たとえば長平の半世紀前に趙の武霊王が中山に遠征した時の趙軍は20万人
恐らく趙の精鋭、主力軍はこのくらいの規模、半世紀分の上積みを考慮して25万としよう
上党郡各地に投入され強秦を相手取った趙軍の総兵力はこれに劣るまい
ここに>>95のような構成の現地上党郡の軍民10万(仮)を加える
これでかなり現実的になったんジャマイカ? 唐突に意味不明な罵倒を書き込んでいた>>305さんはどこ行っちゃったの? 140 : ななしのよっしん :2016/04/28(木) 00:03:15 ID: 6rucE4rlmb
続けるならもう少し他人のレスをよく読んだ方が良いと思う
君の意見は一理あるけど一理で全体を確定ずみとか有り得ないとすることは出来ない
今のところ確定しようのない話なんだよ >134 : ななしのよっしん :2016/04/23(土) 01:06:13 ID: lQrLqzSc7K
こいつ台湾人か香港人だな
ネットスラングのチョイスが独特だからすぐわかる
つうか向こうの歴オタって史書にある数字全部鵜呑みしてるのか笑える 40万生き埋めは事実!!!否定する奴はクズ確定!!! 40万生き埋めは事実!!!否定する奴はクズ確定!!!
95 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 16:14:38 ID: 4zbTxBpTpN
この時代の軍隊を今と同レベルのものと捉えたらあかん。
ガリア戦記上の古代のゲルマンやガリア軍と同様兵士の妻子や家族を含めての数字だと思ったほうがいい。
「商君書」 兵守 第十二巻
壮男で一軍団を作り,壮女で一軍団を作り,男女の老弱の者で一軍団を作り,これを所謂三軍という。
(中略)老弱の軍は牛馬羊豚を放牧して、草水を食わせ納めてこれを壮男壮女の食料とする。
「墨子」 号令 第十五巻
諸々の男女で城壁上に有るものは十中に六は弩を持つ。丁女と老少は人ごとに一つの矛を持つ。
96 : ななしのよっしん :2016/04/30(土) 02:14:58 ID: +9jOYaIBUj
必ずしも一般化できるものではないが商君書の引用良いね
たとえば長平の半世紀前に趙の武霊王が中山に遠征した時の趙軍は20万人
恐らく趙の精鋭、主力軍はこのくらいの規模、半世紀分の上積みを考慮して25万としよう
上党郡各地に投入され強秦を相手取った趙軍の総兵力はこれに劣るまい
ここに>>95のような構成の現地上党郡の軍民10万(仮)を加える
これでかなり現実的になったんジャマイカ?
97 : ななしのよっしん :2016/04/30(土) 19:09:31 ID: SmH8dCSyMc
>>95-96
妥当な見解だろう 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>349
まだやってんのか。
http://ctext.org/shang-jun-shu/military-defence
とりあえず英訳もついてるから商君書の兵守全部読んでみろ。
ここに書いてある程度の手段で40万人分の補給を賄うのどう考えても無理だぞ。
青壮年全滅からたった9年で燕都包囲できるほどに兵が増えると言ってみたり、
ろくに補給なくても40万の兵を維持できると言ってみたり、
趙は魔法を使えると勘違いしてるんじゃないか? >>351
お前、議論相手がいない所にわざわざコピペしては一方的に叩くって、しかも荒らし行為加担って卑怯ってレベルじゃねーぞ人格疑うわ
おまえら自演荒らしのターゲット、挑発してる奴は>>316以降一回も書き込んでないっぽいだろ
いい加減にしろやスレチども 40万生き埋めは事実!!!否定する奴はクズ確定!!! 146 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 02:23:21 ID: lQrLqzSc7K
印象操作ならばご存知かもしれぬが、趙軍の燕都包囲は9年後ですよっと
やはりと言うべきかこの話題は日文wiki(←しょぼい)レベルの水掛け論になりますなあ 何が水掛け論なんだろう?
史書の記述に検証を加える行為に対して、記述を盲信して罵倒した挙句「水掛け論」呼ばわり?
たぶん先行研究とか知らないんだろうなこういう人って。 95 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 16:14:38 ID: 4zbTxBpTpN
この時代の軍隊を今と同レベルのものと捉えたらあかん。
ガリア戦記上の古代のゲルマンやガリア軍と同様兵士の妻子や家族を含めての数字だと思ったほうがいい。
「商君書」 兵守 第十二巻
壮男で一軍団を作り,壮女で一軍団を作り,男女の老弱の者で一軍団を作り,これを所謂三軍という。
(中略)老弱の軍は牛馬羊豚を放牧して、草水を食わせ納めてこれを壮男壮女の食料とする。
「墨子」 号令 第十五巻
諸々の男女で城壁上に有るものは十中に六は弩を持つ。丁女と老少は人ごとに一つの矛を持つ。
まだやってんのか。
http://ctext.org/shang-jun-shu/military-defence
とりあえず英訳もついてるから商君書の兵守全部読んでみろ。
ここに書いてある程度の手段で40万人分の補給を賄うのどう考えても無理だぞ。
青壮年全滅からたった9年で燕都包囲できるほどに兵が増えると言ってみたり、
ろくに補給なくても40万の兵を維持できると言ってみたり、
趙は魔法を使えると勘違いしてるんじゃないか? 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>356
ガリア戦争の場合だとヘルウェティイ連合が同様の手段を使って単独で36万の兵力を集めているので
まぁがんばれば不可能ではないかなという数字
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/BelloGallia.html
>29ヘルウェティア人の陣営内で、ギリシア文字で書かれた一覧表が見つかり、カエサルのところにもたらされた。
>その表には故国を脱出した者たちの人数と、そのうちで武器を扱かえる者の氏名の一覧が作られていて、さらにそれとは別に子供と老人と女の数の一覧が書かれていた。
>総数はヘルウェティア人が26万3千人、トゥリンギ人が3万6千人、ラトブリギ人が1万4千人、ラウラキ人が2万3千人、ボイイ人が3万2千人で、全部合わせて36万8千人だった。そのうち、武器を扱かえる者は約9万2千人だった。 >>352
煽るな煽るな
まあそれはともかくRock規制が出る程に意味不明なコピペを連投してる輩はすぐにやめるべき >>352
こいつ台湾人か香港人だな。
ネットスラングのチョイスが独特だからすぐわかるぞ。
向こうの歴オタって史書にある数字全部鵜呑みしてるのが笑える。 40万生き埋めは事実!!!否定する奴はクズ確定!!!
95 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 16:14:38 ID: 4zbTxBpTpN
この時代の軍隊を今と同レベルのものと捉えたらあかん。
ガリア戦記上の古代のゲルマンやガリア軍と同様兵士の妻子や家族を含めての数字だと思ったほうがいい。
「商君書」 兵守 第十二巻
壮男で一軍団を作り,壮女で一軍団を作り,男女の老弱の者で一軍団を作り,これを所謂三軍という。
(中略)老弱の軍は牛馬羊豚を放牧して、草水を食わせ納めてこれを壮男壮女の食料とする。
「墨子」 号令 第十五巻
諸々の男女で城壁上に有るものは十中に六は弩を持つ。丁女と老少は人ごとに一つの矛を持つ。 裴松之「自分より数倍のかずの兵士を捕虜にすることなんて無理」
たぶん先行研究とか知らないんだろうなこういう人って。 まだやってんのか。
http://ctext.org/shang-jun-shu/military-defence
とりあえず英訳もついてるから商君書の兵守全部読んでみろ。
ここに書いてある程度の手段で40万人分の補給を賄うのどう考えても無理だぞ。 他所からコピペ厨のレイシストと露骨な荒しであるそいつに便乗して何故かここで論敵を攻撃する異常な輩が1ヶ月50レスも湧き続ける...稀に見る醜悪な流れだな(呆れ
こんな連中に付き合わず李牧にでも話題を変えたらどうだ? まともなスレ民が残っていればの話だが 95 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 16:14:38 ID: 4zbTxBpTpN
この時代の軍隊を今と同レベルのものと捉えたらあかん。
ガリア戦記上の古代のゲルマンやガリア軍と同様兵士の妻子や家族を含めての数字だと思ったほうがいい。
「商君書」 兵守 第十二巻
壮男で一軍団を作り,壮女で一軍団を作り,男女の老弱の者で一軍団を作り,これを所謂三軍という。
(中略)老弱の軍は牛馬羊豚を放牧して、草水を食わせ納めてこれを壮男壮女の食料とする。
「墨子」 号令 第十五巻
諸々の男女で城壁上に有るものは十中に六は弩を持つ。丁女と老少は人ごとに一つの矛を持つ。
358 世界@名無史さん ▼ 2016/05/21(土) 21:06:37.37 0 [0回目]
ガリア戦争の場合だとヘルウェティイ連合が同様の手段を使って単独で36万の兵力を集めているので
まぁがんばれば不可能ではないかなという数字
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/BelloGallia.html
>29ヘルウェティア人の陣営内で、ギリシア文字で書かれた一覧表が見つかり、カエサルのところにもたらされた。
>その表には故国を脱出した者たちの人数と、そのうちで武器を扱かえる者の氏名の一覧が作られていて、さらにそれとは別に子供と老人と女の数の一覧が書かれていた。
>総数はヘルウェティア人が26万3千人、トゥリンギ人が3万6千人、ラトブリギ人が1万4千人、ラウラキ人が2万3千人、ボイイ人が3万2千人で、全部合わせて36万8千人だった。そのうち、武器を扱かえる者は約9万2千人だった。 40万生き埋めは事実!!!否定する奴はクズ確定!!!
95 : ななしのよっしん :2016/04/29(金) 16:14:38 ID: 4zbTxBpTpN
この時代の軍隊を今と同レベルのものと捉えたらあかん。
ガリア戦記上の古代のゲルマンやガリア軍と同様兵士の妻子や家族を含めての数字だと思ったほうがいい。
「商君書」 兵守 第十二巻
壮男で一軍団を作り,壮女で一軍団を作り,男女の老弱の者で一軍団を作り,これを所謂三軍という。
(中略)老弱の軍は牛馬羊豚を放牧して、草水を食わせ納めてこれを壮男壮女の食料とする。
「墨子」 号令 第十五巻
諸々の男女で城壁上に有るものは十中に六は弩を持つ。丁女と老少は人ごとに一つの矛を持つ。
96 : ななしのよっしん :2016/04/30(土) 02:14:58 ID: +9jOYaIBUj
必ずしも一般化できるものではないが商君書の引用良いね
たとえば長平の半世紀前に趙の武霊王が中山に遠征した時の趙軍は20万人
恐らく趙の精鋭、主力軍はこのくらいの規模、半世紀分の上積みを考慮して25万としよう
上党郡各地に投入され強秦を相手取った趙軍の総兵力はこれに劣るまい
ここに>>95のような構成の現地上党郡の軍民10万(仮)を加える
これでかなり現実的になったんジャマイカ?
まだやってんのか。
向こうの歴オタって史書にある数字全部鵜呑みしてるのが笑える。
たぶん先行研究とか知らないんだろうなこういう人って。 >>367
見えない敵と戦う聖戦士様だよ。
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>365
>>370
「チベットに自由を!」「血に染まった五輪はもうたくさん」北京の冬季五輪招致に抗議 IOCホテルで騒動[6/11]
http://www.sankei.com/images/news/150611/wor1506110003-p1.jpg
チベット族の抗議者を取り押さえる中国のセキュリティスタッフ=10日、ローザンヌ(ロイター)
2022年冬季五輪開催を目指す北京とアルマトイ(カザフスタン)が10日、スイスのローザンヌで
国際オリンピック委員会(IOC)委員に対する個別説明会を開いたホテルで、北京の五輪招致に抗議するデモがあり、
侵入した数人が大声を上げるなどして地元警察に取り押さえられる騒動があった。
関係者によると、チベット族の若者らが抗議活動を行ったとみられる。「チベットに自由を!」「血に染まった五輪はもうたくさんだ」などと叫んだ。
ホテルの玄関口では女性を含めたグループがメッセージ入りの旗を掲げて抗議。男性1人は北京が設置したホテル内のブースに侵入し、
五輪に反対する一幕があった。(共同)
http://www.sankei.com/world/news/150611/wor1506110003-n1.html >>365
★★★ 英国が習近平を虫ケラ扱い、習近平の面子丸潰れ(大爆笑)
1. トイレの前で対談(爆笑)
2. 同時通訳機を使わず、演説に無関心なキャメロン首相(爆笑)
3. チャールズ皇太子は、晩餐会に欠席(爆笑)
4. 一度も拍手のない習近平議会演説(爆笑)
5. 習近平晩餐会演説では居眠り多数(爆笑)
6. キャメロン首相の戦略家のスティーブ・ヒルトン前室顧問 「英国はロシアと同じくらい悪い国である中国に、制裁を加えなければならない」
7. 英ファイナンシャルタイムス紙 「無意味な演説だった」 (爆笑)
8. AP通信 「習主席がどこかに行くたびに、人権活動家、環境活動家、チベットなどが絶えずデモを繰り広げ、
「シェイム」(Shame・恥を知れ)というスローガンが鳴り響いた」と伝えた。
9. 嫁の彭麗媛のグロテスクな化粧も槍玉に(爆笑)
http://oboega-01.blog.jp/archives/1043237395.html 終わり見えない「ウイグル問題」、中越国境の現実
2015/6/25 日本経済新聞 電子版
中国南部に位置する広西チワン族自治区憑祥市。ベトナム北部のランソン省と国境を接する
山と森に覆われた人口11万人の小さな町だ。
夜10時、市政府に勤めるチワン族男性、林盛科(仮名、25)の「夜番」が始まった。
林らの仕事はこうした密売業者を取り締まることだが、最近もう一つ、大きな任務が加わった。
「逃亡ウイグル族を捕まえるのさ」
違法行為を繰り返すウイグル族は治安を乱す危険分子だ――。今のところ共産党・政府の世論誘導は成功しているようだ。
だが折に触れて浮かぶのは「対テロ戦争」の名を借りた「迫害」の実態だ。
新疆では男性のヒゲや女性のスカーフ着用を禁止するなど、文化・宗教的な慣習に対する締め付けも強まる。
ウイグル族住民と警官隊との衝突もしばしばだ。広西や雲南で相次ぐ密出国事件も、
大半がこうした弾圧から逃れるためだったとみられている。香港の中国人権民主化運動情報センターによると、
毎月5000人近くのウイグル族が海外への逃亡を試みているという。
強硬策が暴力による抵抗を招き、さらなる弾圧を生み出すという「憎しみの連鎖」は止まっていない。
習指導部の「対テロ戦争」は終結するどころか、むしろ混迷の度合いを深めているかに見える。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO88456380U5A620C1I00000/?dg=1 >>365
チベット、ウイグル、南モンゴルに於ける中国による不当な占領こそがテロ。
テロリスト独裁国家が自分のことを棚に上げて自らを正当化するのを納得するのは
その属国の北・南の挑戦民族のみ。
これらを除くアジア各国は共産中国の自己中な詭弁は聞き飽きた。
日本を含むアジア各国はチベットやウイグル、南モンゴルの独立派を積極的に支援
すべし。
中国を数カ国に分裂させるのが世界の為。 廉頗って刎頸の交わりで有名なだけで、名将でもなんでもないだろ いや普通に名将だぞ?
あの当時の秦や斉にも一定の軍事的成果上げて
趙の軍事大国としての名声を確立したのは廉頗も一役買ってる 「廉頗藺相如列伝」では趙の良将って評価されてるが、戦歴は大したことない。
そもそも戦国四名将ってなんだよ、、、 不必要かもしれませんが、私が戦国四名将選ぶとしたら白起、呉起、田単、王翦になります >>380
孫臏は田忌とセットで評価される人物なので外しました
孫武は春秋時代の人なので時代が違います >>381
いや孫武は境界線上の人だよ
春秋と戦国の境目は明確に分かれてるもんじゃない >>382
時代区分に関しては曖昧なため、戦国時代の始まりについては紀元前403年に始まったとする説でお願いします なぜか自演認定された上に人格まで疑われてて笑ってしまった 自演はともかく人格は疑われて当然だな
コピペ厨に便乗して見えない敵と何故か当スレで戦ってる時点でアレだし
>>375
>>377
戦国四名将は南北朝時代の『千字文』からでしょう
史記から説話色の濃い部分を除いて評価すると廉頗は活動期間の長い楽乗って感じ >>385
現在に伝わる戦国時代の人物イメージは、西漢の史記(相当量ある後人の加筆部分は時代が下る)が採用した説話(戦国説話の成立も漢代に下る場合が多々ある)に拠るところ大なので、実像を探って誰が戦国を代表する名将なのか決定するのは至難やね。
戦国後期の人物、特に趙将が称揚される傾向にあるのは、それらの説話形成時期が大体漢初〜西漢半ばっていうのが大きな理由だしさ。 戦国前期〜中期にも本来たくさん名将はいたのでしょうが全然わかりませんな
呉起もあやふやなところが目立つし
後世名高い将という意味では孫子に勝る者はいないが春秋の孫武は説話の形成が随分遅かったらしいね
孫臏の馬陵の戦いといい、孫子は虚構だらけで名将とは言い難い 史書に残る戦功(落した城の数/殺した敵の数/制圧した地域の重要性)のみで判断すると廉頗以上はそこそこおるな
秦に多数、楽毅、武霊王、戦国二君、あと恐らく楚&魏に知られざる名将がそれなりにいる 四方を強敵に囲まれてる魏
強国越をぶっ潰した楚
かなりの良将がいたはずだよなぁ 確かな戦功の情報少ないけど楽羊、呉起
名前忘れたけど斉宣王の頃に楚と燕を討った斉将も廉頗レベル程度はクリアしてる希ガス 魏の芒卯、公孫喜、犀武
韓の暴鳶
あたりが史料で確認できる面子だな
殆どが白起に打ち負かされてるけど >385 >391
史記一通り読んでわかる戦歴の質はほぼ互角やし位階も同じ両者なので尤もだが廉頗レベルと楽乗レベルのイメージ差はデカいな。
>393
公孫喜と暴鳶は共に実績のある重鎮ですね。前者は白起に後者は魏冉に一蹴されたけど・・・
犀武は公孫喜と同一人物の可能性があるらしい。
芒卯は昭襄王を恐れさせた大物、しかしこれもまた白起or魏冉に敗れた。生まれた時代を間違ったか 芒卯は戦国時代中晩期の魏を代表する人だな、何気に妻の説話が伝わってたりする
秦の武王仕えていた頃の甘茂と親交があるようだから白起よりは少し上、たぶん魏冉と同世代
秦魏が友好的だった張儀甘茂の時代、魏冉の台頭により秦軍の本格的な東進が始まり魏の首都圏が危うくなる時代
最終的に敗れ去ったとはいえ、親秦と反秦に揺れる魏を長く支えたもっと注目されてもいい人物 芒卯は単なる軍人にとどまらず知恵もまわる型なんで、職掌の分業が進んだ
戦国時代ではある意味で稀少な存在ともいえなくもないのかな 戦国中期以降になるとオールラウンダーは極端に減りますね。
>>395-396に名前の出てる魏冉さんはそうだけど本当に少ない。
謀臣・外交官上がりで軍将の道に進んだ孟卯さんは更に希少な存在と言えるかも。 中期はチラホラいるけど後期は殆どいないなあ・・・魏冉、春申君(この両名にしても前者は智者賢人とされるが逸話不足、後者は戦将としての実績不足)
廉頗や李牧もいちおう将にして相だが、どちらも相としては? 知恵者っぽいエピソードもほぼ無い 廉頗は楽乗と共にしばらく副宰相しただけなんで少し微妙かな
後に彼が楽乗を不意討ちして出奔することを考えるにこの人事は裏がありそうだし >>400
張儀はまさしく該当者だね
藺相如もそうだけど>>399氏にいわせれば戦将としての実績が足りないかな 張儀世代(紀元前四世紀後半/戦国時代中期)はまだそれなりに
BC300を切ると途端にいなくなる
おそらく職掌の分業化と社会の変化が急速に進んだと思われ 智嚢らしいのに頭良さそうなエピソードが全然ない張義世代の樗里子ェ...
>>401
藺相如に対してすらアレだった廉頗と並び立つ楽乗、めんどくさい権臣功臣は厄介だわ。 張儀の一世代上の商鞅、そして戦国前期に最狂のオールラウンダー呉起 恵文王にしろ孝成王にしろ悼襄王にしろ、どの王ともぎこちない廉頗・・・
まあ権臣だからしょうがないのかも知れん。 廉氏は中山付近の盛族らしいから若くして宰相になってもおかしくないのに長年将軍止まりなのは
協調性なさそうな廉頗の人格故か 恵文王とその同母兄弟(平原君、平陽君)の世代と相性悪かったのかも?
親子二代に亘って廉頗の対抗馬となる趙奢を推挙したのは平原君
恵文王の寵臣たる藺相如を辱めようとしたのは恵文王への不満とも取れる。 廉頗はちょうど平原君が亡くなったあたりから出世してますね
戦国趙は宰相についての情報が乏しいのが残念、建信君や春平侯の時代が全然わからん
平原君ですら説話は多いけど年代記的な記述は僅かで信憑性に欠けるし、、、 建信君は李牧を重用した悼襄王の相邦だから李牧の台頭と関係あるかもしれない まぁ戦国期は今日有名なエピソードの半分くらいが「これ民話とか講談の類で史料的価値皆無でしょ」状態の世界だし仕方ない
信に足る資料がそれなりにあるのは秦国だけ いや秦も結構ダメだから
そもそも歴史と物語を区別するようになったのって現代くらいで
それ以前って歴史だろうが作った物語だろうが「史実」に入れちゃってるしもう区分けもできない事がしばしば
行政文書とか商取引の決裁書とかでないとまともに信用できないのよなぁ 現代でも地球の民の大多数が区別してないから何の不思議もない
もし現在なんらかの超常現象で国家等が管理する記録が文明ごと壊滅して後世の史家が人口に膾炙したネタを拾って各国史や列伝を編んだら奇妙奇天烈出鱈目なものになる
秦はリアルタイムの公文書に近い記録が他国と比べりゃ史書に残ってるぶんマシとはいえる >>413
現代でも民間に広まるのは人目を惹く極端かつ奇矯な情報だからなあ
最先端のメディアであるネットなんてアクセス稼ぎのガセネタが氾濫してるし
漢代の史家が戦国時代を正確に書くってのは不可能でどうしても確度の低い語り物になる ??「司馬遷という男は、何か書いたものを見せれば、すぐ騙されやすい性質の学者」
ま、この発言の主もアレなこと書いたりやらかしてるけれども笑 司馬遷は意図的に取捨選択して自分好みのストーリー作ってるから騙されやすい、というのは違う気がするが・・・
ま、いずれにせよ史書の成立は西漢以降になるからどうしても限界がありますねえ。
それに諸子百家とかは自らの影響力拡大を追求する活動家といったところなんで創作上等、リアルタイムでも信用ならぬ。 加えて史記には司馬遷死後に加筆された部分もありますしね
ところで四名将の李牧廉頗を撃沈した郭開って戦国最強だよな
ウソくさいけど 李牧の件については伝世史料に複数の容疑者がいますねえ。 廉頗のライバル趙括の逸話って史記にたくさん載ってて有名だけど戦国策じゃあまり見ない希ガス、なんでかな?
>>416
まあ、確かに司馬遷はそんな感じだな そもそも「史記」の「史」とは現代人の意味する歴史の意味じゃなくて文章の意味だし、
「記」も同様に書き表された文章とその整理を表す言葉で
言うなら「まとめて書いた」という書名でつまり、まとめブログだよ
じゃあ何を書いたのよ、と言ったら全土の口述伝承やら先行文献とその年表化と解説で
それを取捨選択して編集して自分の短評付けてるわけで
本来は歴史の本じゃないんだわな、元々そういう概念はない
今使ってる意味での学術的な言葉としての歴史ってのは割と最近できた概念なんだわ まとめブログが圧倒的大権威になっちまった……(汗
と考えれば史記の立ち位置を理解しやすいね。 >廉頗のライバル趙括の逸話って史記にたくさん載ってて有名だけど戦国策じゃあまり見ない希ガス、なんでかな?
少し訂正させてもらう、趙括メインの逸話は一章もない。 「学術的な言葉としての歴史」ってのが何を差しているのかわからんし定義論争には興味ないが
同時代の出来事を後世に残すための記録官なら春秋時代からいたし、それらの史料を検証解釈する太史令も前漢代に置かれている
一つの出来事に対して異説を列挙して中立性を保つという手法も裴松之の頃には確立されてる 現代の「歴史学」とやらもほとんどファンタジー小説だけどな
都合のいい記録は「これは事実を反映している」そうでない記録は「これは権力者によって歪曲されている」
どうしてそんなことがわかるのやら >>423
その辺の記録だけだったり検証手段が現代歴史学的な意味での「歴史」になってないので
裴松之は自らのイデオロギーに反する説に対して
合致する説を列挙して、だから自分の好みの説の方が正しい、と述べる人でもあるから
中立性は全然保たれないし筆者の好みも極力排する努力というのを放棄してるんだよなぁ >>422
まあ、確かに趙括メインor嵌められ役の章は記憶にないな 戦国策は怪しい戦国ロビイストの策謀話多いしノータッチでもおかしかねーけど
(実際白起は時々登場するけど廉頗李牧王翦なんて滅多に出て来ない)
やたらと多い応侯の説話のなかでも空気なのはちょっと不思議ですねぇ 史記の秦趙両軍同時主将チェンジ→趙括「げぇ白起!」展開の講談臭はスゴイ 史記じゃギャグ要員だけれどw
戦国策の流れを重視するなら趙括って絶望的な戦場に送られた可哀想な人よね >>429
戦国策って成立が漢代だから後知恵で長平が絶望的だったことにされてるとかはないの? 趙の人も斉の人も、戦い続けると超軍\(^o^)/オワタ な認識だからねェ
孝成王でさえ現地の趙軍でなんとか出来るとは思ってないし…。
>>430
ワイは>>429じゃないが、史記も成立漢代やしそのあたりはなんとも言えんですわ。 >>430
まあはっきり言って後知恵だらけだと思うよ
伝世した説話のほとんどの部分が 李牧失脚とか失脚という事実に後からそれっぽい犯人とお話を接ぎ木していったもんだろうしなぁ 王翦の仕業って話のテキトー感
李牧じゃなくて司空馬に防戦任せてたらどんな結果になったんやろか? 斉の顏聚(と趙葱)が李牧失脚後の趙軍を指揮してる。もしかしたら司空馬の提案した合従策の流れかもしれないね。
ま、いずれにせよ李牧ですら一方面の秦軍を撃退するのがやっとで趙の防衛線は全面的に崩壊中
誰が指揮を執っても結果は変わらず、かと。 合従つっても直接的に趙を救援できるのは斉と燕だけだしなー
しかも歴史的に両国と仲悪い、特に直近やりあった燕は李牧に怨みありそう 趙燕紛争ほど無駄なもんはない
特に孝成王十六年の燕攻めてる間に秦に三十七城も盗られるとか絶句やで
宰相の廉颇と楽乗はナニをしてたんだ・・・(遠征中) なんか趙の有名所って基本的に太行山脈の東側ばっか攻めるよね。リスク高くて怖いのか、切羽詰まらないと西側に軍を進めない 理想:自慢の機動力を活かして秦軍を翻弄する趙軍
現実:防御的な対応ばかり、しかも反応が鈍い この時代ってぱっと出の人がいきなり重用されてる印象があるんだけど
昇官とか登用法って一体どうなってたんだろう 紙ができる前でまだまだ木簡竹簡の記録の少ない時代だから
詳しい伝が残って無く、出世して活躍するようになってからしかわからないってだけではないか 尉繚子によると大将軍>左将・右将>将軍>裨将>司馬・兵尉>率長>卒長>什長>伍長ってなってるんだけど
そんな大役を「年少」だった李信に任せるとか秦の人事は一体どうなってるんだ(驚愕) 年少(三十路)の戦国秦将はそこそこいるかもよ?
公子○とか、向寿とか
>>441
二行目はその通りだけど
紙があっても戦国の終焉と秦末楚漢の動乱で記録を伝世すべき国と家と人が歴史ごと断絶してるからムリポ 当初は功臣三世蒙恬の上位にいた人物だし若くても三十でしょうね。 副将級でやっと史上に名前が残る武官
武官はハードルが高すぎて青年期の動向がわからんな
史書での活躍以前は将校クラスのポジで従軍か?と妄想しておこう 副将クラスでは名も残らんだろ
楚漢戦争でやっと都尉クラスでも名前がわかるようになった 秦は五大夫以上で軍を率いる身分だそうだからか、史料に名は出てくるな
他の国ではそうもいかないのだろうけど 副将クラス=裨将クラスはちらほら名が残ってるよ。
秦将だと蒙武、副将相当ぽい都尉なら都尉墨がいる。 趙の歴将司馬氏
こういう国に何代も渡って使えてた将軍の家にわくわくする 裨将とか都尉って普通にむっちゃ高位だからな、六国なら廉頗の副将が名有りですね
出征軍を率いる人物が二名いること多いが、あれ恐らくニ人目副将というパターン多いし、割と名前残ってるはず 王翦列伝にある李信のヘボ采配で死んじゃった7人の都尉って全員名無しだよね
郡に一人しかいない高官なのに名前省かれるとか世知辛い >>451>>453
大国になればなるほど郡兵が主力の地位を占めるようになる
名実ともに重要な武官ですね
三川郡とかだと全力動員したら10万近い大兵を掌握できそう 「戦国策」読んでると、田単が落選にさして疑問わかないのよな 史実だよ、後世の創作とか言ってた馬鹿も在ったけど
根拠も無く思い込みで誹謗してたそいつ等が愚昧だっただけ というか司馬遷も戦国策と秦の史料によって歴史書いただけじゃないの >>462
田単は上位50人とかの格でしょ伝は立つけど位の 戦国縦横家書みたいな既存の説話集→史記の説話部分、戦国策
正確に言えば >>466
戦国策の成立は司馬遷の死後だから司馬遷が戦国策を使って書く事は不能
司馬遷が戦国策の前身となったいくつかの書籍を参考にしている可能性はあるが
むしろ戦国策が史記を参考にしていた可能性の方が高いだろう
史記と戦国策では多少の異同があったりして戦国策も単純に先行史料をまとめたものだったのではなく
面白い説話にするためにある程度の編集と創作が混じってる事も覗える、それは史記も同様ではあるが まあ司馬遷の死後、史記に手を加えて現行の史記を成立させた人々は戦国策を参考にできるが >>467
さすがにその評はちと辛い、ベスト15程度でしょ
>>468
戦国期の人物列伝は中身の半分ぐらいが縦横家書系資料の切り貼りやからなぁ 二城しか残ってないところから斉の主要領土をほぼ奪還してる田単無しとかおかしいわ 奪還した領土は元々斉の領土でほとんどは燕兵がガチガチに守ってたわけではないからある程度評価が辛いのは仕方ないかと >>471
孫武、呉紀、楽毅、韓信、白起、曹操、司馬穰苴、李靖、張良、諸葛亮、李牧、管仲、先軫、項籍、廉頗、馬援、霍去病、范蠡、皇甫嵩、ケ艾、陸遜の次のグループかな 呉紀、楽毅、白起、李牧、廉頗に続いて王翦、趙奢、孫臏、田単、匡章くらいな印象 呉紀と誤記してる書いてる奴の分類とか全く信用できねぇw 穣侯、樗里子、司馬錯も
戦績優先すると上位はほとんど秦将でしょうね しかし簡単に城落としすぎだろ
というか落とされすぎだろ >>484
戦国末になると城を落とす落とされるではなく郡県まるごと降伏するからね
秦末楚漢も同じく、地方の抵抗力が戦国中期を過ぎると急速に落ちる >>486
全然違うよ
攻城兵器や土木技術の高度化と軍事行動の極大化総力戦化で
従前の防衛施設じゃ抗し切れ無く成った
落とし過ぎが正しい 鉄器の農耕器具の普及による人口増加と鉄武器の普及もあって
春秋の貴族層による戦争と戦国の農民層を動員した大規模化した戦争では
攻城戦が本当に様変わりしてるからね
貴族層の戦争では城攻めで幼少期からの戦争教育を受けた貴重な戦力の損耗って軍も嫌がるけど
農民兵の動員によって磨り減らしていい兵士が大量に供給されるから
動員コスト、つまりは食糧と多少の武器くらいで城をゴリ押せるようになるから
実際の攻城が簡単に行えるんだわな
年単位の教育コストを支払った貴重な精鋭は温存されるし
各国指導者も城攻めが選択肢に入る >>487
攻城戦が容易になったのは事実で攻撃側有利は時代の趨勢だけど
抵抗力低下もまた事実ですよ
戦国中期以降の各国は疲弊激しく弛緩してるからね
旧来の国家が崩壊した秦末楚漢戦争期になるといちいち攻城せずとも城が一斉に降伏するし 急造の防御陣地とかしょぼい隔壁しかない城は軽く落とせても元気な都市の攻略は難しい戦国中頃の秦軍でも手間取る。
捗るのは伊闕みたいな数十万規模の殲滅戦で付近一帯の防衛力を壊滅させた時くらいだろう。 >>489
その辺は史書に出ない大規模な政治勢力があったってことだよ
抵抗力低下とかそういう意味不明なオカルトじゃない
史書に顔の出ない豪族とそのまとめ役がいてそれが臣従決め込めば丸ごと降伏してるかのように見える
要は豪族の大規模化がその裏側にあるんだわ
この辺は漢代通して変わらず、後漢末期から三国時代に掛けてもまた顕在化してたりする >>491
なるほど…(それ即ち防衛側の抵抗力低下ですが^^)
てっきり攻撃側の物量で全部説明できると思っておられるのかと >>492
抵抗力じゃなくて国家以外の政治的な集団が春秋期より格段に広がってるってことだよ
それは抵抗力が低下するとかではなく個別の政治的判断をする集団があるということであって
これらが頑強に抵抗すると逆に全く統治が出来なくなる
楚漢戦争期の項羽の斉侵攻失敗はモロにコレ 戦国期の城って前後する時代と比較しても大規模なんだって読んだな
楚漢時代や前漢時代よりも >>492-493
あんたら些細な問題で無駄にスレ浪費すんなや大人げない
言ってることはほとんど同じだろうがw
>>494
戦国秦漢時代の都市と国家かな? >>494-495
都市人口が戦国〜統一秦レベルまで回復したのは西漢中期だろうしな。 >>495
全然違うよ
抵抗力なんていうオカルト用語を歴史を語る時に使うのがまずおかしい >>499などと、
足りない知識と脳味噌で意味不明な供述をしており >>497
都市人口の問題もさることながら前漢は匈奴に勝つまで
貢納のためもあったし戦費の貯蓄もしてたからそれで城塞の建造も小規模化したってのもあるだろう (コピペ厨と自重しない奴のタッグか)
なんかスレ荒らしが活動再開したっぽいな…やれやれ
>>501
というか不要なのでは?
戦国の鄭韓故城みたく高さ平均20mの城壁を数十キロも連ねるような要塞都市いらんし >>501
抑々秦も漢も城をせっせと破却してたんだけど >>229
寧ろマケドニア軍じゃ韓軍にすら勝て無い >>502-503
漢内部では要らんけど漢外縁部では必要だろ
長安の整備だってしてたように匈奴向けの防備は漢代通じてずっとやってるし
南方の開拓に応じて城の整備もしてるから戦国のようなでかい長い防壁はともかく
拠点都市はなんだかんだで必要だし後漢に向けて拡大傾向にはあるんだわ >>505
(コピペ厨と自重しない奴のタッグか)
なんかスレ荒らしが活動再開したっぽいな…やれやれ いやいや漢代には城塞要らないってのはまともな主張じゃないからな
漢は南方への拡張と外縁部防衛、前線に近い首都長安の大規模整備をしていて
城を作るニーズは常にあったんだよ >>507
塞村や都市国家の名残である小規模城郭は解体撤去
純軍事施設は辺境で増加、んな所だね >>507
城塞は不要なのでは?
戦国の鄭韓故城みたく高さ平均20mの城壁を数十キロも連ねるような要塞都市いらんし >>509
代わりに匈奴との国境を示す城壁が北部に延々と整備された
万里の長城は漢代のものもあるんだよ
この城壁の元で関市という匈奴と漢人の交易が行われてもいた 前漢代でも人口の3分の1は城塞で暮らしていたと推定されているし
壁外の集落も基本的に城壁が見える範囲の距離に集中していたことが楊寛らの発掘調査からわかっている
だから中心となる城さえ押さえればその郡県全体を簡単に占領することが出来た
韓信が異様な速度で華北を席捲できたのもそのため 未だによくわかってないんだけど
郷里制ってほんとに集落の殆どが城壁に囲まれてたの?
壁のない村みたいな集落は例外的な存在だったの? >>512
話題広がって漢代の建築まで語ってるけど一応戦国時代のスレなんで
漢代の制度については漢代のスレか質問スレへ行くべし なら質問変えるわ
戦国時代ならまだ城壁で囲まれているのは発達した要地だけなのか?
一般的な集落に城壁はないのか? 客家の建築様式から考えると城壁っぽいものは大抵の集落にあったんやろなぁ >>514
寧ろ城壁に囲まれてるのが一般的な郷村
>>511
県城辺りだと未だ人口千人とかそんな程度 春秋戦国時代に今の人間がイメージするような「村」はまずない
古代ギリシャと同じで城塞都市の周辺にパラパラと集落が点在している感じ
田畑は城壁に近ければ近いほど良いとされ特に上等なものは負郭田と呼ばれた >>505
ちゃんと元の議題を確認した方がいいよ
戦国期との比較だから基本的に漢内部の話なんですわ
あと他人のレスを勝手にコピペ→安価する野郎はスルーしてくれ もう話題変わってるのに蒸し返してはいけない(戒め) 個人的にはなぜ城が落ちやすくなったのかは興味あるから続けてほしいわ
意地張り合ってるだけなら別に無理せんでもいいけど その話は妄想にならざるを得ないし止めた方がいいかと
特に全然違うよさんは自分もオカルトな御託並べてるのに気付いてないor気付いてても強弁するタイプっぽいし危険だ
>>519
すまぬ >>518
戦国期との比較だから漢内部の話ってのは意味不明だぞ
戦国期も匈奴に向けた城塞は秦や趙なんかは整備してたんで
漢との共通点がなくなるわけでなし もひとつ
抵抗力の定義って何?歴史用語ではないよね その方と直接やりあってたのは俺一人なので521さんは無関係っすよ
最後に一回煽り気味のレスをしてしまったので反省しています まあ抵抗力って言っても各人でイメージするもんは違うから議論噛み合わないわな >>523
都市の縮小化現象は主に漢内部で確認されている現象だから
元はそういう話なので >>523はそもそも議論しようとしてない気がするぞ
見てきたように語る専門家気取りの痛いやっちゃで >>527
都市の縮小化現象じゃなくて城の規模の話だから要塞とか軍事拠点から
都市部の壁まで多岐に及ぶんだが
これが國だってんだったら都市限定の話になるけどさ >>529
ちっこい要塞とか軍事拠点の規模の変化ってわからないからなー 防衛や軍事なんて「城市」の機能の一部にしかすぎんしな
日常生活品を売り買いする「市」や共同祭礼の場や教育の場である「塾」もすべて城市に置かれていたし
それは漢代でも同様で軍事拠点以前に当時は城がないことには生活が成り立たないんだよ 流れ無視ですまんがオリンピック絡みでレスリングの吉田サオリは中国で白起と仇名つけられてるらしい >>533
その件は吉田さんのステマをしたかったのかもしれんが……ほぼデマ、中国風に言えば造謡、網絡謡言か
俺が中国のネットに吉田は白起って書き込んだレスを証拠に中国では中国人はそう呼んでいる、って吹聴するのとそう変わらんレベルのネタだ いつものよくあるネットメディア(主にまとめブログ)の話題作りの類かね、これは悪意ないけど。
そもそも中国で女子レスリングの話題が普通に通用するのは現地日本人社会くらいでしょうが。
しかし…この話に関してちょっとツイッターを監視して思ったけれど、
白起みたいな春秋戦国(始皇帝関係除く)で最も派手でわかりやすい事績持ってる将軍でも
普段は全く話題にする人いねーな、やはりマイナーなのかね? 春秋戦国。 ・教科書に載ってる始皇帝
・三国志
・圧倒的に注目度の高い現代中国
これ以外は全部マイナージャンルやぞ
春秋戦国は現代人の漢籍離れ宮城谷ファンの高齢化で右肩下がりだろう 三国志コンテンツも高齢化やばいぞw
宮城谷さんに続く大物中国史小説家はしばらく出てきそうにないね。売れないし
始皇帝が有名なのは世界史でちょっと出てくるとか関係なく始皇帝陵と万里の長城のおかげです。
王翦とかいう人は知りません。 日本史「中国史も世界史も雑魚、日本史は刀剣だけでも圧倒的人気」 せ、せやな
(春秋)戦国は三国志に飽きた人間の受け皿になればいいのだが一部史記列伝の単発話がネタになってるだけで掘り下げ足りないのがネック そりゃこの時代は魅力的な人物やエピソードが少なく底浅いから限界ありますよ、日本の戦国時代と比べたら月とスッポン 孫子異伝の糞っぷりをみてると
四名将が揃う戦国時代後期以外は魅力に欠ける気はする 四名将、同時代に揃ってると言えば揃ってるけど絡みがほとんどないよね 後期以外が魅力に欠けるとか全く思わんな
春秋から戦国を通じて一貫して面白いよ
名将のドンパチは一部に過ぎんわ 魏・呉・蜀の三国を理解する奴は世間一般にそこそこいる
春秋時代と戦国時代の区別がつく人間は10人中1人もいない
この差よ 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミ出しとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起こった事で、どこに訴えて出ると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 名将楽毅の再来と言われたのが三国志時代の知将諸葛亮 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
96QXY 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
8H7 趙・魏の連合軍を破り、燕を滅亡寸前に追い込み、楚を破って2万を斬首し、連合軍を率いて秦を破り函谷関まで追い詰めた斉の軍神こと匡章大将軍があまり話題にならないのはなぜ?
彼が存命なら楽毅の連合軍など一蹴していただろうに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています