モンゴル文明は中国文明に勝る [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
モンゴル人は中国を制圧し、中華文明に巨大な影響を与えたが、
中国人はモンゴル文明にほとんど痕跡を残さなかった。
また世界史に与えた影響力を見ても、
モンゴル文明と中国文明では比較にならないのに、日本に限らず、
従来の歴史研究や歴史教育では十分に解明も啓蒙もされていない。
日本人こそ、その先鞭を付けるべきではないだろうか。 あの偉大だった唐朝は、痕跡しか残していない。
新羅王国は、痕跡すら怪しいレベル。
だから、中国人や朝鮮人は、京都や奈良に来ると、日本の歴史と文化の古さに驚く。
そして口々に、「ここには唐の文化が残ってるアルよ」、
「これは新羅から伝わった文化ニダ」と言い出すのだが、
飛鳥時代や奈良時代ならともかく、平安時代の日本の文化は、
言うほど唐と似ているわけではない。
ましてや室町時代ともなれば、なおさら。 はっきり言えば、今の中国は、唐や宋の流れを受け継いでいるわけではない。
中華人民共和国は、モンゴル帝国の後継国家だ。
「中国4千年の歴史」ではなく、「モンゴル千年の歴史」と言うべきだろう。 実際には、金閣寺や銀閣寺を初めとして、京都の名所旧跡というのは、平安時代より室町時代のものが主力だ。
時代としては、中国でいえば明朝に相当する。
でも、室町時代の日本は、平安時代の日本と切れ目なくつながっている。
それに比べて、明は、唐の流れを受け継いでいない。
唐の都の長安は、とっくに滅んで久しく、黄土の砂塵に埋もれていた。
その跡地に、明が西安を再建した。
遼・金・元の後継者たる北京帝国の明が、西からの脅威に対抗すべく城壁を築いたのだ。 要するに何が言いたいかというと、現代の中国を考える上で、唐や宋の歴史など、たいして役に立たない。
「まあ、参考にはなりますね」という程度。
それよりもモンゴル帝国の歴史を学ぶほうが、ずっと意義が大きい。 20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。
内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホのように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。
一方で知識人ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚え、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。 ホルローギーン・チョイバルサン(光緒21年1月14日(1895年2月8日) - 1952年1月26日)は、モンゴルの革命家、軍人、政治家。
自国民を大量粛清した独裁者として知られる。 1936年から1938年にかけて大規模な粛清を行い、「モンゴルのスターリン」とも呼ばれた。
この粛清は1936年まで首相を務めたゲンドゥンらが、対日宥和政策を取ろうとした点、
スターリンからの当時モンゴル国内に約11万人いたチベット仏教僧を打倒せよとの
助言を拒否した点からスターリンと対立し、モンゴル首脳部の政策転換、チベット仏教僧の排除を行うためソ連側が計画した。
チョイバルサンはこの計画を受けて、これを自らの独裁権確立に利用しながら、多くの人民を「日本のスパイ」として処刑した。 1936年、ソ連と相互援助議定書を締結して赤軍の駐留を認め、ソ連の衛星国としてのモンゴルの立場を築くとともに同年に内務大臣として秘密警察を創設、1937年に全軍総司令官に就いて自国軍の近代化を推し進めた。
1939年のハルハ河戦争では赤軍の支援を得て満州国との国境紛争で日本軍(関東軍)に勝利した。
また、第二次世界大戦末期の1945年8月9日に始まったソ連の対日宣戦では、
ソ連と共に日本に宣戦布告をして満州や内モンゴルに侵攻し、ソ連軍の勝利に貢献するとともにモンゴル人民共和国の国際的認知の第一歩を記した。
この布告書には「モンゴル人が統一国家となるため」とあり、同年8月10日のラジオ放送では「本日政府の命令に基づいて、我が軍は越境し、内モンゴル地域に速やかに進攻した。
これは血を分けた内モンゴルを解放し、自由を獲得するためである」と汎モンゴル主義を訴える演説した。 「ロシアのスターリン」ことチョイバルサンのもとで、モンゴル人民共和国は、バリバリの反日国家としてスタートした。
それが、いかにして今日の大親日国に変わったか? ちなみに、「チョンバルサン」は、韓国に実在する鉄道駅の名前 四駿四狗(ししゅんしく)とは、モンゴル帝国の建築者チンギス・カンに仕え、モンゴルの歴史を記した年代記『元朝秘史』において、「4頭の駿馬・4匹の狗」と讃えられた、チンギス・カンの優秀な8人の最側近のことである。 ムカリ
ジャライル部の人。チンギス・カンのモンゴル高原統一に大きな功績をあげた。
1206年、モンゴルの左翼(東部)の万人隊長(万戸長)に任命され、チンギス・カンの金遠征でも活躍した。
チンギスのホラズム遠征にあたっては東方に残され、太師・国王の称号を与えられるとともに
「五投下」と呼ばれるモンゴル高原東南部の5部族(ジャライル部、コンギラト部、
ウルウト部、モンクト部、イキレス部)を配下につけられて中国の攻略を担当した。
ムカリの子孫が支配するジャライル部他五投下は、第4代モンケ・カアンの時代に彼の弟で第5代カアン(ハーン)
となるクビライに附属され、クビライの権力奪取に貢献、元における有力貴族の家系となった。
漢文では「木合黎」、「木華黎」とも表記される。 ボオルチュ
アルラト部の人で、チンギス・カンの最初の側近。
『元朝秘史』によれば、少年時代のチンギスが馬泥棒にあったとき、チンギスに馬を貸して追跡を助けたとき以来の友人であるとされる。
チンギス・カンのモンゴル高原統一にも功績をあげ、右翼(西部)の万人隊長に任命された。
右翼を率いて主に中央アジア方面を担当し、金やホラズムへの遠征にも随行した。
漢文では、「孛斡児出」、「博魯朮」とも表記される。 広大な征服活動を行ったチンギスハン。
金を担当したのはムカリで、中央アジアを担当したのはボオルチュ。 13世紀のユーラシア大陸では、東では南宋、西夏の対立が続き、西の方では十字軍とイスラム勢力が争っていました。
こららの争いは、それぞれの国の勢力弱体のみならず、東西を結ぶシルクロード周辺の国々の国力が低下にも結びついていくことになります。
シルクロード周辺の国は商業を中心とする国が多かったため、東西貿易が自由に行えないということは経済に深刻な影響を与えていたのです。
そんな時に現れたのがモンゴル帝国でした。
このモンゴル帝国の歴史は、モンゴル系部族あるいはトルコ系部族の一部をテムジン(後のチンギス=ハン)がまとめ上げたことに始まります。
テムジンは1206年、部族長会議の決定によりチンギス=ハンの称号を受け取ることになります。ハンとは、遊牧騎馬民族の間で最高権力者を意味し、漢字では「汗」と書きます。このハンにテムジンが即位したことによりモンゴル帝国が成立しました。
チンギス=ハンは、シルクロード沿いの国家に狙いを定めていきます。
まずは、1211年に金を攻撃を仕掛け滅亡寸前まで追い込みます。
1217年には、ナイマン部の支配地を攻撃(部とは部族のことですね)。
1219年にはホラズムを、1227年には西夏を滅ぼします。
チンギス=ハンが滅ぼした国や部族は、ここまでですね。ナイマン部、ホラズム、西夏。
1227年に再度、金を攻略する為に兵を上げるのですが、その半ばチンギス=ハンは病死してしまいます。
先日、知人が「チンギスハンは、中国を征服した人」と誤解していた。
まあ、世間の認識はそんなもんだろう。
実際には、南宋どころか、金すら征服する前に病死した。 >>145
そりゃあチンギス汗とフビライ汗じゃ知名度が桁違いだし
チンギス汗なら子供でもジジババでも知ってるが
フビライ汗は多少なりとも歴史に興味ある人しか知らん >>132
いや全然つながってない
平安時代ではまだ唐の影響が強く寝殿造りも地方の郡衙も左右対称
人々の服装は唐服から靴を省いて頭には烏帽子をかぶっていた
ところが室町時代になると左右非対称の書院造りに変わり柱も円柱から角柱に
服装も烏帽子がなくなり月代を剃るようになった
文章も漢文や変体漢文から崩し字を用いた候文になりまったく違う国にしか見えない 確かに、平安時代までの日本と、それ以後の日本は、文化が大きく異なる印象だな。 中国を再統一して、久しぶりに南北分裂状態を解消したフビライハンの功績は、劉邦や李世民にも匹敵する。
チンギスハンの存在感がデカすぎるせいか、一般にはそこまでの評価を受けていない。 いや、劉邦は一代の成り上がりだから比べられないか。
先代のモンケが早死にしなければ、モンケが統一してただろうしな。 金庸の武侠小説だと、モンケ・ハンは「神G俠」・楊過に討ち取られたことになっている。 歴史知識の無い一般人のイメージでは
バトゥ、チャガタイ、オゴタイ、モンケ、フビライあたりがやったことも全部チンギスハンがやったように思われてる
チンギスハンが一代で世界の大半を制服して大帝国築いたイメージ チンギスハンは「中央アジアを征服して大帝国を築いた人」だな。
中国ではない。 モンゴル人にとって中国南部を征服するのがどれほど難しいかは、魏晋南北朝400年、
遼・金の歴史が証明している。
だから、フビライハンの業績はやはり大きい。 >>1
いや、そもそも中国が世界帝国だった時代が極々短期間だからな
正確な世界帝国はモンゴル朝のみで、中華人は世界帝国作れなかった
事実上のアジア帝国も武周武則天の短期間だけだしな 2006年2月から2007年8月まで、日経新聞の朝の連載小説で、
堺屋先生の「世界を創った男―チンギス・ハン」が楽しみで、
朝も新聞配達のバイクの音が聞こえると新聞を取りに行くくらいに嵌り、欠かさず読んでいました。 なぜ、チンギス・ハンが世界を創った男なのか、
それは人類史上初めてグローバルな世の中、
国境の無い世界を目指した人間だったと堺屋先生は、
考えに至ったようです。 まず、チンギス・ハンはなぜ、世界征服を考えたのか。
世界征服を考えた国の共通の目的は二つなのです。
一つは経済的目的です。交易を広げ、資源を奪い、市場を広げて国の富を増やし、国民を豊かにしようという経済的目的です。
二つ目は、自分たちの文化や宗教を世界に広げようという文化的、信仰的目的です。たいていはこの二つが重なり合っています。
ところがチンギス・ハンには、この二つが二つとも全く見当たりません。 (堺屋太一)
では、チンギス・ハンは何のために世界征服をしたのか。
それは、他の征服者とは全く逆なのです。
「人間(ジンカン)に差別なし、地上に境界なし」こそ彼の理想でした。
どんな人種、どんな宗教、どんな言語、どんな体形の人間も、全く差別しないで実力主義で採用し、出世させる。
どこまでが本国で、どこからが植民地だという境界を地上につくらない、完全に境界のない世の中をつくろう。
無差別無境界な世界をつくろう。そのことによって、人も物も金も情報も完全に自由に動き回るグローバルな世の中をつくろう、としたのです。
だから私は、この人に「世界を創った男」という尊称をつけたのです。
グローバルな世界をつくるという思想は、チンギス・ハンが初めてでしょう。
そして、それと同じことを考えた国は、長い間、全くありませんでした。
ようやく20世紀になって、アメリカ合衆国が同じことを考えます。
だから、モンゴル帝国とアメリカ合衆国とは、多くの共通点があります。 堺屋太一も、よくここまでチンギスハンを美化できるもんだな。
「超巨人・明の太祖朱元璋」では、朱元璋をほとんど人類史上最高クラスの偉人にまで持ち上げていたが。 中華人民共和国の首都・北京。
ここは、モンゴル人や満州人がシナを支配するために築いた都市だ。 「春秋戦国時代の燕にさかのぼる」というのは、詭弁にすぎない。
地形が原因で、ここは交通の要衝なんだから、都市もできるだろう。
東京だって、浅草あたりは聖徳太子くらいの時代までさかのぼる歴史があるのだが、
実質的な東京のスタートが徳川幕府の大土木工事にあるのは間違いない。
それと同じように、北京を築いたのはモンゴル人や満州人の王朝。 もしも、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康がみんな朝鮮人だったとしたら、日本の歴史は朝鮮人の歴史になってしまうだろう。
それと同じレベルで、シナの歴史はモンゴル人の歴史。 明の永楽帝は、モンゴル帝国の継承者だ。
北京に遷都し、モンゴル帝国の再現を目指しているとしか思えない動きばかりしていた。
統治機構も、モンゴル帝国の丸ごとパクり。 現在の中華人民共和国も、本質的に、形を変えたモンゴル帝国だ。
漢や唐など、先住民による異文明。 >>171
モンゴル帝国に比べたら現代の中共なんてかなり格下だよ モンゴル帝国は、中国だけじゃないからな。
ロシアもペルシャも中央アジアも、みんなモンゴル帝国だ。
後には、インドまでがモンゴル帝国に組み込まれた。 モンゴル帝国の世界進出は、スペインやポルトガルの大航海時代に匹敵するインパクトがあった。
中共のようなローカルな勢力と比べるわけにはいかんな。 東からはモンゴル人が、西からはヨーロッパ人が世界を制覇してグローバル文明を築きあげた。 明は一時、南京に首都を置いていたが、結局は、北京に遷都してモンゴル帝国の統治機構を継承し、「漢人による征服王朝」となった。
明という王朝が長続きするためには、それしかなかったのだ。
中華人民共和国も、迷わず北京に首都を置き、モンゴル帝国の継承者となった。 つまり、中国の歴史というのは、実質的にモンゴル帝国から始まる。
それ以前の諸王朝は、先住民による旧文明と位置付けるのが正しい。 明が反動政権を樹立して、中国は一時、暗黒時代に陥った。
明は、秘密警察が人民を監視し、気に食わないことがあれば直ちに惨殺される恐怖社会。
中国史の中でも、大暗黒時代と位置付けられる。 >中国は一時、暗黒時代に陥った。
一時というよりずっと暗黒時代だと思うけど モンゴル人が野蛮だというのは、シナ人による偏見、というより捏造だ。
実際のモンゴル人は、中央アジアやペルシャの先進文化を吸収した、当時としては最先端の文明人。
彼らはシナ人を見下していた。 モンゴル人が野蛮と言われるのは皆殺しの戦法の話だぞ 文化大革命、紅衛兵による徹底破壊でモンゴル仏教は壊滅状態 | THE PAGE
https://thepage.jp/detail/20180118-00000004-wordleaf
2018.01.18 15:01
清王朝を倒した中華民国の時代も、仏教及びモンゴル人の信仰に対しては、弾圧や破壊はあまりなかった。
しかし、1949年の中華人民共和国建設に伴い、社会主義になってからは全てが一変した。
内モンゴルでは1950年代の強制的な還俗や1965年からの文化大革命を通じて、
モンゴル人の心のより所であった仏教は弾圧され、宗教的な活動や伝統的で民族的な行事はほとんど禁止された。
紅衛兵により仏教寺院に対する徹底的な破壊が行われ、倉庫や家畜小屋などに利用された一部の寺以外はほとんど破壊された。
これらによって内モンゴルの仏教も壊滅状態に陥ってしまった。 蒙古民族を操り人形にするため、清王朝は勇猛な戦士を敬虔な仏教徒にした | THE PAGE
https://thepage.jp/detail/20180118-00000003-wordleaf
2018.01.18 11:50
モンゴル仏教は、チベット仏教から由来する。
1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、チベット仏教4大宗派の1つ、サキャ派がモンゴル軍に協力し、チベットを支配した。
さらに、チンギスハンの孫であるクビライが即位すると、サキャ派のパクパが国師に任命され、仏教がモンゴル帝国の国教となった。
この時代において、モンゴル高原の原始的な宗教であるシャーマンが衰退し、仏教と融合されてきた。
そして、16世紀にモンゴルの有力な指導者だったアルタンハンが当時のダライ・ラマ3世に
「ダライ・ラマ」号を与え、モンゴル高原に仏教がさらに浸透し、普及するようになった。
因みにダライはモンゴル語で海を意味する。
アルタンハンは当時、明朝から亡命してきた白蓮教徒、災害から流れてきた農民などを積極的に受け入れ、彼らに寺と中国式の町の建設を命じた。
そのとき建設された町が、現在内モンゴル自治区の政治、経済の中心フフホト市になり、発展を続けている。
満州族の清王朝はモンゴル民族に対して、仏教の普及を国家的な戦略として行った。
ある皇帝が「十万人の兵隊を養うよりも寺一つ造れ」と述べたことが、有名な話として、後世に伝わっている。
モンゴル民族を完全に支配するため、仏教を通して、精神的に支配した。
勇猛な戦士だったモンゴル人は敬虔な仏教徒になることで、昔の戦士の魂を失い、清王朝の操り人形になったと言われている。
そして、男子を積極的に寺に送り出すことにより、人口が激減しただけではなく、
労働力が大幅に減り、それによって、モンゴル社会の生産力が低下し、経済発展が止まった。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
IHLEK 遊牧文明が滅ぼしたのが中国文明
中国はなんで先にすすんでたのに衰退したかって言ったら、あれ4世紀の遊牧の大規模南進をベースにして
4-5世紀にそれまで歴史ある王侯貴族が内ゲバと地位返上の連続で滅亡するの。
社会を支えた王侯貴族が没落して
「過去の王を直接虐殺して王都に凱旋すればいかなる平民でも下賤でも王になれる」って野蛮な悪習が定着してしまった
これで社会の自治機能の王侯貴族制が不全になってほぼ官僚独裁の原則が生まれる
ある意味随、唐はいっとき帝政が機能したが、随唐の帝政ってあわせ150年しか持たず没落した。
王侯の親族レイプで王侯の信用が崩壊して、官僚の傀儡王と低俗王の悪習が固定化された
結果この悪習が政治の無機能化+遊牧大敗北と実質南北朝状態(金ー北限までの500年)が定着
で清は滅んだ国家をさいこうさせた。腐敗も正せた。けど管理できない超巨大人口国中国は、社会を進化箚せられないような人口爆発荒廃になってしまう
すべては4-5世紀の王侯没落で通常の世界の歴史の王侯進化のステップを歩めなくなったから。
中国は4-5世紀に王侯が一旦滅び、12世紀までかけて衰退
12-16世紀は南北朝
17世紀以降は王侯の再生機
なんで、一旦崩壊して、ゼロになって17世紀からの歴史浅い国として再発した感じになんのが中国なんだよな。
あるいは金→元→明→清とモンゴルルーツ朝以降と分けるべき
そして中国は結局モンゴル貴族朝になったのは、とっくに4-5世紀に中国王侯貴族が滅んで
12世紀まで王侯の再興ができなかった結果。
血統やルーツ的に順当に継承、維持できたのは遊牧血統だけな自体になる。
中国の王侯が死んだ結果なんだよな >>193
4,5世紀じゃ、まだ王侯貴族は没落してないぞ。 遊牧文明に乗っ取られたのは、中国だけではない。
インドも中近東も同じだ。 元朝の歴代皇帝は北京より南へ行ったことがないって本当?
だとすれば、フビライは別格? >>197
最後の順帝トゴン・テムルは広西や朝鮮半島にも行っているぞ(流刑だけどなwww) 「我が国は、モンゴル人に征服されたのではない。我々自身が、モンゴル人の末裔なのだ」という脳内変換はできないのか? >>203
モンゴル自体がそうだろ。ボルジギン氏族はモンゴル高原に住む遊牧民の一部族に過ぎなかった。
だが、モンゴル人はチンギス以前の匈奴の歴史を自らの歴史ととらえることさえいまだに不完全。 もしもモンゴル人が、シナ人や朝鮮人みたいな考え方だったら、匈奴も鮮卑も柔然も全部、「わが民族の栄光の歴史」にしちゃうだろうけどな。
そんなことに興味はない様子。 その代わり、チンギス・ハーンに対する思い入れは、熱いものがある チンギス・ハーンを冒涜しようものなら、「あの方を侮辱するのだけは許さない」
と、朝青龍のツイッターに書かれる モンキチに文明はないしチャンコロにも文明はない
どっちもゴミだからさっさと死ね 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
RK5 【8月14日配信】皇帝たちの中国 第3章 第1回「チンギス・ハーンの歴史を消されたモンゴル」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】
https://youtu.be/oWXZux4HIrU 近年はモンゴル研究から愛国ポルノに移った人
『日本人が知らない満洲国の真実 封印された歴史と日本の貢献』
『残念すぎる 朝鮮1300年史』
『かわいそうな歴史の国の韓国人』 まぁ、モンゴルや中央アジアなど第二次大戦後に抑留者が強制労働させられた国は親日、とか言う人なので仕方ないでしょ。
ぶっちゃけ、彼らは日本人のことを肉の味が良い獣ぐらいにしか思ってない。
機会があれば再び狩ってきて強制労働させよう、と考えるのが北朝鮮を含めたモンゴル・ウルスの価値観。
1999年のキルギス日本人誘拐事件とか見れば民度がわかりそうなもんだが。 モンゴル帝国の支配を受けた地域は、強権的な人権後進国になる法則。 ポーランドは別にモンゴルの支配下じゃないだろいい加減にしろ! 暗殺、秘密警察、汚職が横行するのがモンゴル帝国だった地域の共通点。
ロシア人元スパイが化学兵器で殺害されたのも、民間軍事会社を調べていた記者が殺害されたのも、その名残り。
https://www.asahi.com/articles/ASL7T25GGL7TUHBI005.html
拾った「香水の瓶」はノビチョクだった 英の神経剤事件
http://www.sankei.com/world/news/180821/wor1808210001-n1.html
暗躍するロシア民間軍事会社「ワグナー」 中央アフリカの記者殺害でまた疑惑 モンゴル帝国の支配層を担ったモンゴル人は、チベット仏教が広まった後、急激に平和的になっていくのだが、
モンゴル帝国の被支配層だった人々は、強権的で権威主義的で、暗殺・秘密警察・汚職が横行する社会を育んだ。 オーストリア、ポーランド、バルト三国などモンゴルの支配を受けなかった地域と、それ以外の地域では、人権感覚に大きな違いがある。
モンゴルがもたらしたものは大きかった。 【8月21日配信】皇帝たちの中国 第3章 第2回「モンゴル帝国=元朝ではない」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://youtu.be/aH-KcR0DjEk
誇張はあるにせよ、ドイツやイラクの戦場で大量殺戮を行ったことは事実だ。
非武装の非戦闘員を巻き狩りをするように追い込んで皆殺しにすれば、戦闘員の戦意は喪失する。
大量虐殺すれば人心が離れるから統治できないなどという決めつけは間違いだ。
日本人は、アメリカに大量虐殺されながらマッカーサーを父のように仰ぎ、東京大空襲を指揮したルメイに勲章まで送ったではないか。
在日米軍が日本を去って日米関係が希薄になれば、モンゴルに支配された地域の歴史改竄に似たことが、日本でも行われるようになるだろう。
断言していい。 >>211
愛国かぁ?
結構現代日本に対しても辛辣な事も言ってるから
歴史家としてニュートラルに近い立場を取りつつ
自分は日本人としてどうであるかって言ってるだけだろ 龍谷ミュージアム元館長のつぶやき
https://twitter.com/tirisawa/status/1040784222179319808
1635年に生まれたザナバザルはモンゴル初の活仏。
チベット仏教を受け容れたモンゴルはザナバザルの宗教活動によって宗教性を高めていく。
とりわけ彼の芸術による感化力は卓越していて、多くの人々を魅了し、いまもモンゴルの誇りとなっている。
写真はザナバザルの造った阿弥陀如来像(無量寿如来像)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 日本文明のほうが上、世界最古の土器は日本
その数か月後に中国が最古の土器を発見と発表したが
日本側が調査したいと申し出たところ盗まれて紛失したとのこと
毎度中国とは嘘つきの国である モンゴルも日本も、中華文明の亜流に過ぎない。
ただ、席次はモンゴルの方が上だったようである。
(実は、日本は東亜で席次が最下位。)
日本はその悲惨な状態を織田信長に至るまで受け入れていた。
(信長は不満だったかもしれないが、当時は張居正がいたためどうにも
ならなかった。)
これに秀吉が怒って反乱を起こし、日本はそれ以降中華圏から距離を
置いている。 >>226
中国共産党は比べるところはイギリスだけw 人民革命党独裁を終わらせたモンゴル人
中国共産党に支配されてるシナ人 >>226
あーそれただの間違いだから
日本って漢代だと金印の国だから外国では最上位
唐代でも最上位の席次を用意されてる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています