創られた伝統について語るスレ2 [転載禁止]©2ch.net
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近代以降国民国家を形成する上で、どこの国も国民の文化的統合を図る必要がありました。
そこで用いられたのが、「創られた伝統」という概念です。古式ゆかしいと思われるような風習も、実は創られてからそれ程年数が経っていなかったりするものが意外と多いようです。
このスレでは古今東西の「創られた伝統」を語りましょう。
前スレ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1428752806/l50 いわゆる鎮守の森も
前近代は里山であって自然林じゃなかった例が多いとかなんとか 我が家が隣接する神社の森も戦前はカシ・シイ・ナラ・クヌギ・桜などの広葉樹ばかりだったそうだが、
どこか近くの神社が火事になりその再建費用に苦労した話を神主や氏子会が聞いて、
そんじゃ金になる(と思われていた)杉・檜に植え替えて今に至っている。
ところがその杉檜は全然下枝の整理をやらないため、建築材料としては役に立たない
のが成長した今になってわかったw 「鎮守の森」で御神木も頭に浮かびましたが、あれは各地の神社に設置されるべき
一般的なものとしては、あまり古い概念とは思えませんね。
「春日神木」は、春日大社が興福寺の宗徒と共に強訴を行う際、榊ないしはナギの
枝に鏡を掛けて神体としたものですが、境内の特定の樹木を普段から神木とし
ていたわけではない筈です。
三輪や稲荷の杉、住吉の松は有名でしたが、これらも神と直接繋がるものではない。
『三宝絵』(986年)に霹靂を受けた霊木で仏像を彫らせたとあり、百済寺建立の際
に「神ノ社ノ木」を多く用いたので神が怒り寺を焼いたという話もあるのですが、
後者は特定の樹木ではなく、社の森の木が問題であった様です。
加地伸行先生は『論語』八佾編にある、宰我(この人はこんな役回りばかり)が「社」
について問われた逸話に注して「民の社は日本の鎮守の森や社と似ており、日本の神
社は、この社の影響を受けた可能性なしとしない」と仰っておいでですが、神の社の
森(不特定多数の樹木)や特定の神木を重視することは、これ以後見出し難い。 『今昔物語集』(1130〜1150)に樹木を切ったら山鳥や牛の姿が出て来たという話は
あるものの信仰とは結びついておらず、特に後者は明らかに『捜神記』の翻案です。
春日以外で「神木」という記述を探してみると、1691年の地誌である『日本鹿子』の
中で、近江国唐崎を紹介して「志賀に続たる所也、此所にひとつ松といふあり、神木
也」としているのが出て来ましたが、近江八景で有名な唐崎の松です。
しかし倒れて久しかったのを途中で人(明智光秀とする場合もあるが、光秀と同時代
の文献にも出て来るので如何)が植え直したともいい、常に必要とはされていなかっ
たらしく、また「神木也」という紹介からしても、今のようにどこの神社でも神木が
あるという光景が一般的ではなかったことを示しているように思えます。
唐崎の松には山王権現が上ったという伝承があり、八幡や春日にも樹上に示現したとい
う逸話があるのですが、だからといって特定の「神木」が重視された形跡はない。
樹上は神に限らず異界の入り口とされたようですが、樹木自体の神聖視とは別です。
古代に社や墓地の樹木群が伐採されることをタブー視した(というものの、神や墓主に
シンパシーを感じない集団にはよく刈られている)というのも儒教思想の影響を受けた
可能性はありますが、今では境内の定番となっている「ご神木」も近世に儒教の影響で
意識されるようになった、比較的新しいものかもしれません。
少なくとも、古代や中世の日本の宗教で重視されたとは思えないのです。
樹木(大木)の霊は意識されたようですが、それと境内に必要な神木とはまた別でしょう。
一応Wikipediaで「神木」の項目を見てみると、「古神道」云々がやたら目につきます。
しかし、古神道が建前はともかく実際は新しいのは今更でしょう。
なお「神木」の項目には、出典はまるで記載されていません。 ・・今アニミズムの象徴と思われてるもんが実は舶来思想かもってこと? 「村の鎮守」で思い出した本。
ttp://www.hanmoto.com/bd/ISBN978-4-903426-26-6.html
Amazonの方には内容の記載がありませんが、批判も含めた感想が一件ついています。
「村の鎮守の神様の」という歌がありますが、あれが教科書に掲載されたのは明治の末。
しかし、地域によりますが被差別部落出身者はもとより、祭り自体を複数の特定の家が取り仕切っ
て他者を直接には入れない場合もあった(今でも一部にある)ことを思えば、住民が総出で参加す
る村祭という歌詞には、江戸時代以前の古さよりも、神道を奉ずる近代国民国家が感じられる、と
いうのはうがち過ぎでしょうか。 >>7
私は神道=アニミズムという見方には反対です。
民間に自然物への信仰はありましたが、神社の場合は神社の神体以外を信仰
させる教義を主張する道理がありません。
本地垂迹説の時代、本地のある神社の神と本地の認められない自然物の神を
分ける説もありました。前者なら信仰で往生出来るが、後者は無理。
救済する本地(仏・菩薩)を有していないからです。
自然物を差別なく崇敬するということは、今でこそ見られますが前近代では
珍しい。
本居宣長は雷や狐や木霊も「卑しいが神の内」としていますが、これはそれ
までは神と看做さない主張が一般的であった、また神としながらも序列を認
めていればこそです。
現代の宗教学者であり、神職の資格もお持ちの鎌田東二先生は、序列化自体
に反対していらっしゃいますが、そうしたアニミズム的神道観は、現代説く
にはいいとしても、歴史的なものとは思えません。
日本人が自然物も信仰して来た、なら無問題。
しかし、寺社における神祇説を読むと、それなりの理屈があり、ただ自然物
を拝めばいいという、古代以来の単純素朴な物がただ続いて来た訳ではない。 八百萬神の国の伝統の延長線上に、あまりにも堂々と登場し、街角で、テレビで、イベントで
活動している官製プロパガンダ装置。
それは、………ゆるキャラ
三大ゆるキャラ
フナッシー、くまモン、ピーポくん
イスラエルも対日工作員として、シャロウムちゃんを採用 そんな論語の一説から拡大解釈されるものか?
というか儒教の影響でありながら近世まで見られないという論理がよく分からない
アニミズム云々の話も、日本人の宗教観ではなく神社のそれを神道として捉えるべきだ、という前提があればそうなり
日本人の宗教観を中心に捉える人は違うというだけの話じゃないのか? >>11
>三大ゆるキャラ
>フナッシー、くまモン、ピーポくん
異議あり!
ふなっしー、くまモン、ひこにゃん ふなっしー「ピーポくんがやられたようだなっしー」
くまモン「(奴は四天王の中で最弱…)」 >>12
>近世まで見られないという論理がよく分からない
中世までは公家や僧侶(中世後期以降は主に禅宗)が儒学を担って来ていた
のが、林羅山以降は排仏思想を持つ専業の儒学者が出現し、従来の仏教化さ
れた神祇祭祀に異を称え、儒教式の新たな祭祀を行う様になります。
例えば現在も行われている神葬祭は、17世紀以降に朱子の『家礼』を参考に
成立したものです。
>日本人の宗教観ではなく神社のそれを神道として捉えるべきだ
自然物も、神社のそれも含めて「日本人」の宗教観だとは思っております。
ただ、私は「神道」と呼称する場合、同居するにせよ否定するにせよ仏教(仏
道)を意識し、対比させた上で教理を成立させていったものであり、民俗的な
ものよりは神社に属するものに使用されるべきではないかと考えています。
「神道」という言葉が使用された時、概観では自然物への礼拝を含めていない
ように見えるからです。少なくとも、古代・中世には。 神社の神は、8世紀以降「神身離脱」思想に、11世紀以降「本地垂迹」説にさら
されることになります。
前者は神をやめて菩薩になるというものであり、後者は神の本体は仏であると
いうものですが、これらの思想は何も仏家だけに都合がよかったのではありま
せんでした。
他の有象無象の神とは異なり、この道を選択した神社の神が、背景に三千世界
に及ぶ仏としての面を持つことは、その神自体の権威強化・差別化にもなった
からです。
先にも申し上げましたが、ただの自然物の神や怨霊と、れっきとした神社の祭
神である神(本地を観音とする道真の様な人物神も含む)は質が違いました。
現代日本人は、均等に「神」と看做して違いを意識しません。
それはそれで現代の信仰なのでよいのですが、ただの自然物への信仰とそうで
ないものが分かたれていた歴史は、意識されてもいいと思います。
井沢元彦先生の問題は色々とありますが、「怨霊信仰」と一括りにして、単に
死者が怨霊化したのを祀ったのと、仏教思想から天神に転生したとされ、後に
観音を本地とするとされた道真の様な例を区別されていないのもその一つです。
日本には自然物への信仰もあった。
しかし、日本の神信仰をアニミズムの言葉だけで説明すると洩れを生じます。
>>13
メロン熊、801ちゃん、まほろちゃんでしょう。 >>17
例えば、と言うけど別に家令に於いて神木が説かれているわけではないんだよね?
影響力のある国学者が実際に論語を引用して、あるいは直接引用してなくても神木信仰という祭祀形態を勧めていた例があるの?
儒者儒教というものを抽象化して、神木信仰に近いものを口伝か何かで伝えていたに違いないと想像しているならまだ分かるけど
そういうものを抜きに急に論語の一節が全国的な影響を与えるというのは飛躍してないか?
十七世紀の時点で神木の一般化を認めないならなおさら、国学者の興隆それ自体に影響力を求める論理は無理があるんじゃ? 「じょしらく」で、増えすぎてもはや害獣だ、駆除しろって言ってたの思い出した>ゆるキャラ そもそもゆるキャラって揶揄と嘲笑の意味が含まれていたと思われる言葉なのに
なんか人気キャラみたいな意味に変質しつつあるな
マスコミと自治体により作られた新しい意味だ
伝統とまで言うほど古くないが >>18
古墳時代は山や木を拝んでいたのが、
中国から仏教や儒教が入ってきてから
人格を持って人型の神を拝むようになった感じでしょうか 自然を「愛でる」という思想はまさか中国由来じゃあるまいな そりゃまあ、あるにはあるが
そういう素朴アニミズムなんてどこにでもあったんだし、
伝来したとかそういうものではないだろう。 ゆるきゃら製作は自治体の体のいい予算潰しにもなるからな
探してみるとご当地ヒーロやゆるきゃらが無駄に多い県なんかあるから面白い >>26
古代の信仰を見ても自然への畏怖は当然感じられるけど、
「愛でる」となるともしかしたら中国の都市に住んでいる人間から伝わったのかも 中国由来じゃなければもっと前のアフリカから移動する過程で既に持ってたんじゃね 愛でる余裕ができたのはずいぶん後だろうね。ここは山野さんに一票。 愛でるというのは花鳥風月を美術に織り込んだり歌に詠んだりすること アラブじゃやらないんじゃ無いか?
愛でるような自然の風物など無いから >>33
しかし緑園の話があるから、
彼らなりに、緑がたくさんあって泉があってとの庭園文化を楽しむ
風習はあったのではないかな? まあ日本厨の山野にとっては天皇による一極支配が理想なもんだから
日本書紀が藤笑不比等ときに大幅に書き換えられたことを意図的に無視しているが
古事記では朝鮮人の天皇にレイプされた日本人の母をもつヤマトタケルが
山に登ったときその山の神様は白いイノシシや白鹿の姿で出現しているが
日本書紀では山の神様は女神さまなんだよな
これは中国の陰陽五行を直輸入して影響を受けたせいだと 自然を愛でる余裕が無かった時代のアニミズムだと、自然は「畏れる」ものだったろうね とにかく朝鮮民族と天皇家が嫌いな事は分かるがそれ以上のことは判別不能だなw
しかし日本人のDNAから半島系のを排除したら沖縄以外はスゲェ閑散としちゃうんでないの?
つかまず自分の顔を鏡で見てみ ジャップ顔をチョン顔だと思ってる奴って何故か多いし無駄だろ ジャップ顔は、中韓ポリネシアのゴタマゼだろう
ご先祖の比率によって、おまえ北朝鮮から来たんか?という顔にもなるし
フィリピンのお方ですか?という顔にもなる
特殊な理由で右翼さんには在日の方が多いので、街宣車に乗ってる顔は
みんな半島顔・・ >>20
国学者とは申し上げておりません。
近世の儒教由来の排仏思想・神道思想を持ち合わせていた人々を想定しております。
そこから国学者も影響を受けていっただろうとは思いますが。
細部は追々煮詰める機会があるだろうとは思いますが、今の所は諸書を概観した上での印象です。
現時点で細部込みでまとめられるようなら、論文にしておりますので。
葬祭に限らず儒教由来の祭祀というものが日本で林家以下どのように実践され、広まっていったかは
近世儒教思想を専攻される方々の間でも已然未知の領域の様です。
貴方が疑問を生じられるのは当然で、正しい反応ですが、私もあくまで印象として申し上げました。
こんな便利な場所(2ちゃんねる)だからこそです。 >>24
それまでの神が人型でなかったかは分かりません。
極端な話、記紀万葉風土記が最古級の記録として、それらが成立した8世紀以降の神観念しか知る
ことは出来ない。
以下、比較的早期である8〜9世紀の事例を念頭に申し上げます。
記紀神話を除いても男女神の区別は地方でも存在しており、后・妃神や子神も観念されているこ
とから、人と同じ姿や 社会構造が広く観念されていたと思います。
しかし、阿蘇の神霊池の神は場所柄か竜神であると観念されており、多度大社や美作の中山神社
の神を猿や蛇としたような、動物神の観念も見られます。
人の手に負えない存在(あらゆる動物・自然物ではなく、人の手に負えない存在限定です)を神
とした例を文献から抜き出すと、熊・狼・猪・猿・蛇が該当しますね。
狐狸や牛馬が祀られて信仰対象になるのは後世のことで、古代の信仰とはまた別です。
朝廷から地方神への加階が行われ、神像(仏像の影響と見ていいでしょう)が製作される中で、
これらの神々の姿は、位に相応しい貴族の男女の姿で観念される様になります。
中世まで残った中山神社の様な事例は例外として、おそらく他にも少なからずあったであろう動物
の姿をした神々の姿は、少なくとも神社では時代が下るほど見られなくなる。
そして朝廷から加階が行われた神社とそこでの祭祀に関連する地方豪族が地域の名士であった以上、
祀るべき神がどういう神であるかという観念は、次第に地方でも根を下ろしていった筈です。
8世紀の時点ですでに人間型の神が観念されている以上、それ以前に存在しなかったものか、それ
とも元々人間型でも観念されていたものかは分かりません。
また、動物神が人間の姿もとるとされていたのかも分かりません。
三輪山の神は蛇でも人でも出ていますが、この形式の話自体が中国それも南部由来の様です。
ただ、自己主張が祟り(自然災害)という形で表現され、それを鎮撫する為に祀られていた神々と
人間の関係が、祈願とそれに応じた恩恵という形になったのが、元々なかった傾向であり、大陸思
想の影響によるものであろうとは言えます。 それだけ日本は神様についていろいろと作り出したりしているのに、
なぜか死後の世界については淡白なんだよな。
本居宣長なんか、古事記の研究をして、結局死後の世界は
神道の世界を研究する限りは分からんと匙を投げているし、
もう面倒だから、仏教に丸投げでいいやと
完全に匙を投げた状態だからな。 本居宣長は、阿弥陀念仏を称え、『阿弥陀経』も読んでいましたね。
実家は浄土宗で、知恩院にも参詣しています。
死後の弟子の平田は史書よりは思想を優先して大国主命を主宰者とする幽冥界概念を提唱し、
明治まで大国主を祭神として、天照と並ぶ権威であると主張する出雲派が伸張する。
結局、明治政府にはその主張を却下されますが。
記紀は現世の王権の正当化と永続性の主張という点では実に上手く出来ていて感心します。
逆に言えば、必要のないことにまでは精力を注いでいない。 鎮守の森は新しい神殿用の木材を育てる意味もあったのでは? 国>48 仏教 輪廻転生または浄土で再生(親鸞は努めて比喩的な意味としようとしたのだろうが、一般門徒は具体的な浄土と言う異界を信じただろう)
神道 一族の守護神として再生
これでいいのか。魂がリサイクルされないという点では、浄土教の死後観(少なくとも一般信徒レベル)と神道の死後観は似通ってるともいえるな
子孫のすぐそばにいるのが神道での霊で、浄土と言う異界にいるのが浄土教での霊(教義的には認めてはないだろうけど便宜的に) という違いがあるけど
でも神道の死後観も儒教の影響を受けてるのかな?祖霊信仰なんてまさに儒教と一致かも。仏教の物と思われがちな位牌も、中国で儒教の影響で誕生。
(だから真宗の家では手帳サイズの過去帳みたいなのを仏壇に位牌の代わりに置く)
そういえば道教での死後観ってどうなってるんだろう 「鎮守の森」という言葉も過去に遡及して用いると問題があると思います。
元々寺院の守護神(鎮守神)に用いられたもので、地域の神を指して用いられた
のは後代になる上、森の存在とはかかわりがありません。
>祖霊信仰なんてまさに儒教と一致かも。
他スレで申し上げましたが、現代日本の祖霊感(それも近年は怪しいですが)は
近世の儒教の影響が大きいのではないかと思います。 正直、ビックリしとる
宮崎駿さんの映画見て日本人がホロっとするような
「失われた日本の姿」は実は中国ルーツの舶来品だったのか・・と 文化なんてそんなもん、交易ずっとあるのに混ざらねえわけがねえのよ
ルーツの話なんて始めたら大抵は国二つ三つ跨いだとんでもないとこまで辿れる 稲作だって大陸から来たし、平仮名だって大陸から来た漢字を改良したんだし、
そういう意味では完全にオリジナルなものなどあるはずがない。
大元が舶来だからどうだと言うのか? んなこといやアフリカからみんなきた
そしてもっと言えば海から、そしてビックバンまで遡る ウヨみたく、朝鮮中国なんて関係ない日本固有のものなんていわないことだな
謙虚であるべき ルーツはね
様式は変化して独自性が出てくる
日本に限らずどこでも 別に言うのは構わん、解釈の違いだし
ウヨは起源主張とか叩きながら自分が同レベルなのがギャグなだけ 俺はアフリカ系日本人、七万年ほど前に先祖がアフリカを出た >>66
小林よしのりが「わしも在日47世くらいかも」と言っていたな。 関東も色々でないかな
俺の一族は群馬なんだが、あそこはもと「毛の国」つまり
投降蝦夷の強制入植地でしょ。親父や叔父の顔見ても、もしか
アイヌとかの血が入ってるんじゃないか、と思える濃い顔ばかり >>62
「旅芸人の記録」ですね。映画史に残る名セリフだと思います。
関東は高麗なんて地名がある通り、古代から渡来人が定住した地です。秩父で見つかった国産銅を献上した羊太夫は毛の国の人ですが、西域人だったという伝説もあります。 今度アメの大統領選挙で、ブッシュの弟が共和党の候補として、
名乗りを上げたけど、あと100年も経つと、アメでも貴族階級みたい
なのができるのかねぇ
民主党のほうはクリントン嫁のヒラリーが候補になりそうだし、 アメリカは制度としてないだけで既に似たようなもん
金持ちとそれ以外では住む町すら違うからな テキサスの金持ちの息子が、酒酔い運転で四人殺し、普通なら殺人罪(過失致死でなく)
となるとこだけど、「この少年は裕福な家に生まれた故に一般人のする判断をする訓練を受けられなかったので
一般人と同じ基準で裁くのは残酷で不当である」
という弁護が法廷でされた。検事は20年を求刑したが、執行猶予つきで
リハビリ施設に送られる判決だった
ttp://www.cnn.com/2014/02/05/us/texas-affluenza-teen/
こういう二重基準は昔からあったけど、このニュースの新しいところは
金持ちが犯罪を犯したら、それは金持ちは被害者であるから仕方ないのである、
というイカレタ論理が出現したこと このクソガキは、アメリカの身長180センチ以上、体重90キログラム以上のガチムチのハードゲイに肛門を開拓されてしまうがいい
見た感じゲイ受けしそうな面じゃねえか 実質貴族だから軽くなったというより、有能な弁護士雇える財力があるから軽くなったってわけだな 弁護士凄いなあ
俺がやってたら同じ論でも屁理屈捏ねてんじゃねーよバーカとしか思われんわ アメリカの裁判は弁護士の腕前次第でかなり大きく結果を変えられる。
日本の裁判では弁護士の腕前はそこまで重要ではない。 リーガル・ハイをアメリカでリメイクしても、ほぼノンフィクションと受け取られそうw ローマ教皇とアメリカの弁護士が死んで、天国に行った
天使が、まず教皇に「ここが天国でおまえの住む部屋だ」と案内する
教皇の部屋にしては、小さい部屋だった
次に、天使は、弁護士を部屋に案内した
広くて調度もすべて豪華
面食らった弁護士が尋ねる
「教皇様でさえあの程度の部屋なのに、なぜ私の部屋がこんな豪華なのです?」
天使は答えた
「天国に来るローマ教皇は珍しくない。だが、天国に来たアメリカの弁護士は
歴史上、おまえが初めてだ」 >天国に来るローマ教皇は珍しくない。
えっ?!www ぜっっっったい行ってない教皇なら10人くらい言える。 天皇なんかで天国にたどり着けた奴はいないだろうがな ソクラテスもガンジーも行けないんだからスゲェ難関だぜ キリスト教徒ではない天皇家御一行が地獄行きなのは確定だろーが 非クリスチャンとキリスト以前の人間は審判受けられずに全員門の前の整列所に放置されんだよな
だから門の手前に天国の中より文明の進んだ街とか出来てると思う多分 >>93
いやいや、高天原とか兜卒天とか補陀落浄土とか極楽浄土とか密厳浄土とかに行ってるから、地獄行きはあんまりいないと思う。 キリストに従わないものは地獄に落ちる。
仏法を尊重しないものも地獄に落ちる。
結論。
全ての人はどうやっても地獄に落ちる。
地獄に落ちない方法など無い。 私のいる所がいつも極楽なのだ。わっはっは。
とか言う奴多そう。 >>76
金持ち=被害者って考え方はアイン・ランド的だが、アメリカでは今でもアイン・ランドのファンが多かったりするんだろうか >>76
金持ち=皇族=被害者って考え方ならば、わりかし日本でも普通に受け入れられていることだし、
この判決も日本ではそれほど違和感があるわけではないのだが >>98
保守派にとってはいまだに理論的基盤だったりするんじゃないのかな。
傍目八目的には支離滅裂な人だけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています