チュルクとモンゴルはなぜ差がついたのか? [転載禁止]©2ch.net
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ともに同じような遊牧民族で、
モンゴルも一時はユーラシアを征服して世界に名を轟かしたのに
現在の領土や人口規模では大きくチュルクに水をあけられている
これはどうしてなのだろう? モンゴル人は皆殺しにした死体を放置したまんまだったのかな?
虐殺にあった都市の近辺には大量の骸骨が埋まっているのだろうか? サマルカンドの遺跡で子どもを含む大量の遺骨発見とか以前ニュースで見た気がする。 後ろ手に縛って数珠繋ぎにして周囲から矢をいかけて殺すのが
モンゴルのやり口みたいだな ジュチがチンギスの実子かの遺伝子調査って行われたの? チンギスハーンは世界で最も子孫の多い人物として知られている。
これは、各地の貴族と積極的に政略結婚を行った結果だが、とりわけ熱心だったのがジュチ家。
もし、ジュチがチンギスハーンと血縁でないとするなら間違っていることになる。 お杉はジョチの非実子説を下らない5流未満小説の妄言に簡単に流布された無能未満の戯言
とかなり感情的にキッパリ否定してたな チャガタイ自身があいつは実の兄弟じゃないみたいな感じだったろ 市場経済で遊牧民は貧困化──独裁者復活がモンゴルを救う?|楊海英|ニューズウィーク日本版
https://www.newsweekjapan.jp/youkaiei/2019/01/post-32.php?t=1
2019年01月11日(金)17時00分
<零下20度の首都ウランバートルを揺るがす反政府デモ、現地で直面した国民の怒りと「元帥」への思慕>
2019年1月1日、筆者はモンゴルの首都ウランバートルで新年を迎えた。
新春とは名ばかりで、マイナス20度に達するほどの厳冬だが、政治だけは熱気に満ちている。
1991年に社会主義体制が崩壊して民主化が実現して以来、政局は混乱が続いてきた。
最大の原因は、「草原の民」モンゴル人が自由主義市場経済とグローバリゼーションといった資本主義に慣れていないからだ。
遊牧民は大草原に分散して、一戸一戸単独で家畜の放牧を行い、緩やかな部族集団を形成してきた。
普段は独立精神が強く、上からの統率に簡単に従おうとしない。
だがカリスマ性に富んだ優れたリーダーが誕生すれば、はせ参じて全財産を寄付し、全身全霊で追随し奉仕する。
13世紀に世界帝国を築いたチンギス・ハンはその代表だ。
20世紀では「独裁者」チョイバルサン元帥がその典型だった。彼は45年8月にモンゴル国軍を率いてソ連の対日宣戦に参加。
内モンゴルや新疆北部を含めたモンゴル人による民族国家統一を果たそうとしたが、強大化を恐れるソ連によって阻止された。
国際共産主義陣営の最高指導者スターリンに度々異を唱え、国内では強権的な手法で世界第2の社会主義国家を率いた。
(続きはソースをご覧ください) 無神論のソ連は仏も当然否定し、モンゴルを根底から徹底的に否定した。その点では仏教に理解を示した帝政ロシアの方がまだましだった。 チンギスより前にモンゴルのカブル・カンが皇帝を名乗ってたらしいな ワン・ハンだかオン・カンだかいうのも皇帝ぐらいの意味だろ 皇帝がいない時代のモンゴルで王を名乗っても
それは諸侯じゃないだろ 豊臣秀吉も明の皇帝から日本国王の称号を贈られているだろ。 称号を贈られただけで主従関係になったわけじゃないだろ >>313
はるか昔の単于だって皇帝くらいの意味だろ イスラムと仏教の攻撃性の差がチュルクとモンゴルの差になったのかな? >>320
それって語源的に証明できるのか?
単于だって「漢人の王」ぐらいの相手と渡り合ってただけだろ 並び立つ存在が近隣にいる時点で皇帝ではないよ。それが東アジアの秩序。
気になるのはモンゴル・ウルスの正統な後継国である清朝とロシア帝国がどのようにお互いの地位を認定し合っていたかってこと。
どなたかご存知? 皇帝の並立なんていくらでもあるだろ
それぞれの国でどう扱おうが、客観的には同格
そもそも「王は皇帝の下」っていう理屈が漢朝以後の詭弁
周にとっては王は周王だけだ カブル・カンが皇帝を称したことが元朝秘史に載ってないのが奇妙だ 突厥以来中央アジアの主力戦力がトルコ系ばかりになったな
ペルシャ人弱すぎ モンゴル軍は意外に城攻め上手いよな
攻城兵器も現地で材料調達して作ってるっぽい >>328
トルコのオリーブオイル使うヌルヌルレスリングは、
ギリシャの影響あるらしい。もうひとつのヌルヌルでない方は、
もんごのブフと多分起源は同じ。 チンギスの騎馬隊とアッチラの騎馬隊って大差ないんでしょ? >>330
チンギスの騎馬兵は弓がトルコ式の合成弓に、
鐙も現代の鐙並に改良されているだろ。 モンゴルなんて独自の建築文化もろくなのがないしな
あらゆる面でチュルクに負けている 結局のところモンゴルは文明主義じゃないしね
価値観はそれぞれ
日本だってつい最近まで尚武の文化だった
謎の上目線でよそ様をバカにするのは無教養で滑稽 モンゴルは皿も洗わないようなヤツらだからな
悦般王もドン引きするレベル >>330
アッチラの騎馬隊と冒頓単于の騎馬隊って大差ないんでしょ? イラクあたりにもモンゴル人の子孫が結構いるのかね? >>333 でも今のウランバートルへの集中って、かつての帝国時代にもなかったような一極集中では
自治体ごとに縄張りがあって、境界線で区切られている現代の都市だと、周辺の町を併合しまくりの大都市は、市域に寒村みたいなところまで含まれることも多いから、
人口集中地域でざっとくくった歴史上の都市よりだいぶん大きな面積の概念になりそう(例:江戸VS東京23区)だけど、それにしても。
逆に定住文明に入って比較的短いから、一所に人口が偏るのかな 定住するということがモンゴル史上前例がなかった
交易の場としての都市は古から存在した様だが 100%遊牧でないブリヤートとかヤクート人とか
学校があるので妻と息子が住んでいる家がある。夫・成人男は出稼ぎで遊牧して戻ってくる。
アフリカの遊牧系は、小学生で年半分を寄宿、年半分を家で繰り返す。単身寄宿。
住所は何とか国、何とか県、何とか郡、何とか村、ひろいと何とか村落
あとは村民に聞くだけ 日本やフランスみたいにジグゾーパズルのように大小の自治体が組み合わさった物が国家というより、
アメリカみたいに都市や村があるのは一部で、特に原野など住所が定まってない状態だったりするのかな(正確には自治体を設立したところとそうでないところ)
例 ラスベガス周辺 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c8/Clark_County_Nevada_Incorporated_Areas_Las_Vegas_highlighted.svg
日本の発想だったら、この鶏ももみたいな形の土地が多数の自治体の境界線で区分けされてる
モンゴルはどっちのシステムなんだろう >>340
中国の内モンゴルだと遊牧民と言っても複数の場所に放牧を許された牧畜業という感じで、
通常は町はずれの家に家族は住んでて、父ちゃんが放牧地にバイクで通っているそうだ。
ただ、家畜の出産とか羊の毛の刈り取り等は家族総出で4WDのオフロード車に乗って出かけるそうだ。
ただ、話えおしてくれたモンゴル族の女の子は町の中心部のある学校には免許がないから馬で通ってたそうだ。 >>337
耶律阿保機の遼の子孫はイランに行ったよね(遼→西遼→後西遼) ということは県の下の住所が適当な場所も多いってことか
アメリカの場合非法人化区域と言って、自治体のない場所でも便宜上住所が与えられてる実質自治体みたいな場所もあるけど、
モンゴルだったら本当に全く住所を定めなくても問題なさそうな場所ばかりかも >>345
契丹の末裔が、バラク・オバマのバラクの同語源の名を名乗ってたとか胸熱だな >>348
兄貴がバラク・ハージブで弟がターヤンクー。
兄貴もイスラムに入信する前は弟の様な名を名乗ってたのだろう。 ケレイトとかナイマンはネストリウス派キリスト教徒だったらしいが
ウイグル文字の聖書とか持っていたのかな?
宣教師とか司祭がいたのかも気になる >>351
西遼・後西遼は漢化sinicizedしていたというから漢語だろう
黒契丹の黒も五行思想と関係あるとか >>348 小浜のバラクはルオ族の固有語由来の名かと思ってたけど、ムバラクと同源だったのか
継父のインドネシア人がムスリムだというのは聞いたことがあるけど、生物学上の父のケニア人もムスリムだったのかな >>354
アラビア語のバラク、ムバラクの同じセム語派のフェニキア語形がハンニバル・バルカの家名の
「バルカ」だね。
どちらも「雷光」を意味してる。 >>349
大楊哭(ターヤンクー)?
余計意味が判らん
てか契丹語に借用された漢字音っていつのやつ?
契丹という民族の存在自体は後期上古漢語に時代からあるよな >>356
さっき漢字でどう書くか調べてみたけどわからんかった
当てずっぽならkuだけでももっとたくさんある
酷、庫、袴、苦、堀、窟、枯… >>353
WIKI中国語(普通話と文言)、百度百科を調べたがバラク・ハージブの記事はあっても、
ターヤンクーは全く出て来ない。バラク・ハージブ、ターヤンクー兄弟の資料の大本は、
ペルシア語資料で、オスマン帝国のアルメニア系外交官のドーソンがそれを整理して纏めた
モンゴル帝国史の中の説明が最も詳しい様だ。だから、ターヤンクーはアラビア文字
使用のペルシア語資料に記されたものえ、ペルシア語訛りが入ってるから、
もとの名前の漢字表記の再現は無理だろう。
あとペルシア語資料はラシッド・ウッディーンでもジュワイニーでも、
契丹人の名前は契丹語固有名を極力音訳している。西遼は初代の大石が
重徳という漢名を持っているのみで二代目以降は中国側資料でも漢名は出て来ない。 >>352
テュルク系諸部族に布教したのはソグド人だから、聖書はソグド語かその元になったペルシア語だと思う。
ナイマン、ケレイトともソグド人他イラン系オアシス定住民と交易してたから、
ソグド語かペルシア語とのバイリンガルが多かった。
そもそもウィグル文字自体ソグド文字からの借用だろ。 >>359
ソグド人は交易活動を行う中で、突厥のような遊牧国家社会の内部に入り込んで、
かなりの程度遊牧社会に同化していた集団を生じていたことが知られている。
この現象はソグドと突厥の融合現象という側面で研究が進んでいて、
この側面の研究を国際的に先導している日本人研究者から、
これに「ソグド系突厥」という呼称をつけることが提唱されている。
安禄山とか五代の沙陀系王朝で活躍した石氏一族がその典型とされている。
沙陀系突厥の研究から五代の石氏が沙陀突厥に融合した
タシケント出自のソグド系突厥の一派だという史実が浮上したわけだが、
私が個人的に気になっているのは、五胡十六国時代の後趙の石氏一族。
彼らは匈奴別種の羯とされているが、羯は後世のソグド系突厥集団の出現と同様の
匈奴社会に半ば同化したソグド人、つまりソグド系匈奴であった可能性はないのだろうか。
実際、石氏一族ら羯はコーカソイド的な風貌であったと記録にあり、
それが匈奴の一部にコーカソイド系の集団が加わっていた証左とされているが、
彼らが匈奴社会に同化したソグド系集団であったとすると、整合がとれてしまうのだ。 >>360
羯石(ケシュ、現在のシャフリサブス)から来たから民族名が羯で氏は石って論法かい >>361
いや、タシュケントはソグド語名がチャーシュで、
その語義が「岩石」だからタシュケント出身者の漢姓は「石」なんだな。
で、「羯」ってのがもしかすると上古音では「チャーシュ」に近いんじゃないかと疑ってる。 >>359
ソグド人にとってペルシア語はそこまで必須の言語だったのだろうか
ソグド語はアラム語の単語を中心に据え、
その子音綴りを表意文字扱いしてソグド語式に「訓読み」して
この方式は同時期に成立した同じイラン系のパフレヴィー語(中世ペルシア語)と
パルティア語でも行われたが、この3言語の書き言葉が
すべてパフレヴィー語式に統一されたわけではなかった
3言語ともアラム語を読み書きの基本の文明言語として受容し、
そこから母語の文字化を進めた
ネストリウス派のキリスト教伝道にとってはアラム語(の中の東シリア語)
が重要で、ソグド語に翻訳するならアラム語から直接行われたのではないか >>363
ネストリウス派の中央アジアへの浸透は、ササーン朝がローマからネストリウス派の信者の
亡命受け入れてからで、その後聖書のギリシア語からペルシア語への翻訳が行われた。
ソグド人のネストリウス派信者も最初はペルシア語の聖書にペルシア語の典礼だったろう。
それをさらにソグド語に訳したかどうかはわかってないし、ナイマンやケレイトはペルシア語
理解できる者も少なくなかったから、彼らの典礼用語や聖書はソグド語でもペルシア語でも
どっちでもよかっただろう。
ソグド人のペルシア語についてもどうでもよくて、ソグド人にペルシア語の教養必須でなくても
最初に彼らがネストリウス派に触れたのはペルシア語聖書であることは間違いないだろう。
ギリシア語からソグド後にダイレクトに翻訳されたわけではないのだから。 >>364
シリアの教会もシリア人司祭も東方の宣教にまったく関与していなかったの?
アラム語はイエスが実際に話した言語でもあり、
ペルシア語もソグド語もアラム語の語形だらけなのに >>365
新約聖書は何語で書かれたのかな。
シリア正教会はネストリウス派ではないぞ。
ナイマンやケレイトの西方の交易相手は
テュルク語系かペルシア語系言語の話者。
シリア語までいくなら、彼らはより交易の
メリットの大きいアラビア語を選択擦るだろう。
テュルク語系の言語なら、方言覚える様なもので、
ササーン朝健在の時から交易での付き合いあったわけだから。 モンゴルのネストリウス派についてはカルピニ・ルブルックの紀行が詳しいのかね? >>366
ネストリウス派を受け入れたササン朝の東方教会は
ローマ教会と対立したろ
そこでギリシャ語もラテン語も要らなくなり、
中央アジアからは一文字も出てこなくなった
中央アジアの「ペルシア語」はソグド語を意味した可能性もある
イスラム化以後のアラビア文字のペルシア語とは似ても似つかないから
ソグド語の文字体系は古ウイグル語、蒙古文語の文字の元になった
パフレヴィー文字は縦書きのものはないだろう >>365
モンゴルの遊牧諸部族に布教したのは、中国に来た亡命ササーン朝ペルシア人の末裔だったそうだ。
特に会昌の廃仏以後、中国本土での布教が出来なくなったので、北方遊牧諸民族への布教が始まった。
東洋大の先生が書いた論文にそう解説してあった。
だから、シリア人は無関係だな。聖書と典礼用語はペルシア語で間違い名だろう。 >>371
残念!
前趙石氏タシケント出身匈奴系ソグド説は無理筋か。 >>369
シリア人が無関与なのはわかったが、
ササン・ペルシャ人の言語と文字は
イスラム化された新しいペルシャ語とは
かなり違う別の言語だったはずで、
交易にも使えず時代遅れになっただろう
亡命したペルシャ人は言語的に孤立し、生存のため西モンゴルに同化していき
言語の交替も起こったはずだから、状況から見て
聖書は遅かれ早かれモンゴル語(の方言のうちのどれか)に翻訳されたか、
翻訳されずに訓練を受けた聖職者にしか読めないものになっていっただろう
モンゴルにおけるキリスト教の衰退の原因は、案外そんな所にあったのかもしれない エベンキってジンギスカンの時代にモンゴルと交流あったの? ツングース系集団の中でエヴェンキ集団が分化したのは比較的最近だろ。
確か、清朝の満州八旗の中にも彼らは組み込まれている。 >>373
オルドス周辺にはキリスト教を信仰する集団は明末迄は残っていて、
今でも嘗てキリスト教を信仰してた集団の末裔はいるみたい。
オルドス キリスト教でググると出て来る。 契丹語はアルタイ語族の中世モンゴル語とよく似ていて、
それは同時に鮮卑のうち北朝や隋唐を建設した拓跋氏集団の使っていた言語と
よく似ていることが、語彙から判明している。
エヴェンキ集団は完全にツングース語族の内部の部分集合。 エベンキはバイカル湖のさらに北方にいたのかな?
当時はまだ満州の方に住んでいたのだろうか? ツングース語とエスキモー語との間に古い借用語が見られるという
間違っても南方起源ではないだろう >>373
オルドス地方にはエルケウンというネストリウス派信徒の末裔が、
1930年代までは居た模様。ただ、日本の隠れキリシタンみたいに自分の宗教がなんだかわからなくなっていた。 >>378 シベ=鮮卑の末裔というのは誤りなのかな
それかある時点でモンゴル系からツングース系に言語交代を起こした?
それとも「マケドニア人」みたいに、古代と現代で全く別の集団とか?(血のつながりは一応かろうじてあっても) >>382
鮮卑系集団で語彙が著しく中世モンゴル語に類似していたことが実証されているのは拓跋語だけ。
慕容鮮卑などマンチュリア西部を本拠地にした集団もあるわけで、
ツングース系の語の話者の鮮卑がいても不思議はないのかもしれないね。 >>370
オン・カンって名前の音感、すこぶるいいな!(´・ω・`) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7#%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%B3%BB%E7%B5%B1
>出雲弁とツングース諸語の類似[35]などから、蝦夷(えみし)はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイドの騎馬民族とする説もある。
http://seneca21st.eco.coocan.jp/working/nakashima/10_03.html
>もう一つは、農耕化が進んだグループとして、アムール川流域ウリル文化であり、アワ、キビ、大豆、オオムギの栽培、豚の飼育が挙げられる。
わが国の在来作物には、シベリア、中国東北部からサハリン、北海道を経由し、あるいは朝鮮半島を経て日本列島に入ってきたものがある。
オオムギ、カブ、ゴボウ、ネギ、カラシナ、タイマ、筱麦型エンバク、雑草性ライムギ、ムギセンノウ、この他、北回りのアワ、キビ、ソバ等の北方系作物群がある。
生活様式 狩猟採集民・遊牧民
民族系統 モンゴル・ツングース・二ブフ・チュルク・エスキモー・チュクチ
北アジアの東の方の先住民の民族系統と生活様式は現在ではざっとこんな感じだけど、大昔は現存するどの言語系統とも該当しない農耕民グループというのもいたのかな
今は北アジアの農耕民って思いつかないけど、日本に確かに北方系の作物は渡ってきてるわけだし ネギは昔から、西日本の品種群が山東・朝鮮半島由来、東日本の品種群が北方由来で、
渡来軽油が根本的に違っているという議論があるね。 >>385
トンデモ本引っ張り出してきて「説もある」とか抜かすんだからウィキペディア終わってんな
ちゃんと要検証テンプレート貼っとけ乎 >>387
日本語版をソースにするやつはバカかバカ記事書いた本人だけ
世界中の日本語学習者に「日本人は馬鹿」って宣伝する媒体、
それがウィキペディア日本語版
討論の経験がなく、誤りを素直に認める習慣がなく、
自説を自我と同一視して珍説に固執し、
世界一みっともなく珍記事を保守し続ける
それが日本のウィキペディアン(笑) オロンスム遺跡のキリスト教関連の碑文?には
アラム語が記されているらしい
江上波夫氏の研究が詳しいようだ 貴の岩の本名バアサンドルジのバアサンってどういう意味? >>390
多分、チベット語由来の誕生曜日名
金星と金曜日のことをチベット語で「パサン」という
それのモンゴル語転訛が「バーサン」
チベット文化圏(モンゴル含む)では、
子供が生まれると、その子の生まれた曜日をその子の名前として付ける事例が多い >>392
日曜日 サー・ニムマ → ニャム
月曜日 サー・ンダワ → ダワー
火曜日 サー・ミクマル → ミャグマル
水曜日 サー・フラクパ → ルハグワ
木曜日 サー・プルブ → プレヴ
金曜日 サー・パサン → バーサン
土曜日 サー・ペンパ → ビャムバ そういえば、バーサンジャブってモンゴル人俳優がいたっけ。
そうすると、「ジャブ」や「ドルジ」の意味って何なんだろう。 >>394
ジャヴもチベット語由来らしいけど、自分は不勉強でまだ覚えてない ごめん
ドルジもチベット語ドルジェが由来で、宝石の「金剛石」や密教法具の「金剛杵」といった意味 >>395
ありがとう。
ドルジはサンスクリットのヴァジュラか。 >>396
そのとおり
そしてサンスクリット由来のヴァジラのモンゴル語転訛で人名にも使われる語彙がオチル >>397
日本語の漢字音読みに似た感覚なのがオチル、訓読みに似た感覚なのがドルジ
ということだね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています