中国の王朝で一番好きな王朝 [転載禁止]©2ch.net
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杞
小国のくせに1000年以上も存続したと言われる。
我もこのように細く長く生きたいものよの。 特にないな
王朝の移り変わりや其の原理を考えるのは好きだけど
好きとかはないわ 宋は確かにいいな 戦争弱いけど文化や日本の寺院建築などの影響も凄いし
ずっと続いて欲しかった 宋は暴君が少ない
寵臣や宦官の横暴も少ない感じ
版図も満州や雲南を含まず調度いい 戦国時代の宋や南北朝の劉宋だとだいぶ事情が違ってくるがw 古代の宋は殷の末裔の国だったっけ
だから蔑視されてて宋人は愚か者として書かれることが多かった ということは本意ならあまり尊敬される出身ではなかったということか 明は皇帝権力の拡大がのちの政治的停滞を起こしたからあまり好きではないな。政治面ではね。
文化面では白文とくに水滸伝には子供の頃から美惑されてるから好きだ。
全てのの国では都市や中心地の記録が多く残っているけど、日本で言うところの沖縄の『おもろそうし』みたいな辺境の風物誌みたいなのがあれば教えて。
とくに唐や宋などの古い時代のを。 中国共産党
中国の抗日戦争勝利70周年 軍事パレード
軍事パレードや周辺情勢をまとめてみた。
【動画】
https://youtu.be/ILrTQ0xc-VU じゃあみんなに聞くけどタイムマシンがあったらどの王朝の都に行きたい?
俺は唐の長安か北宋の開封で迷うな〜
漢代の長安にも行ってみたい(どんな街並みが広がってるのか見たい) 俺は西周の都、宗周(鎬京)だな
そこで幽王が愛妃を笑わせたいがために必死にニセ松明を挙げ捲ってるところを見てみたいw 俺は酒池肉林が見たい。
ようは乱交パーティだよなw 毛沢東の中共が
チベットもウイグルも完全制圧しているから
最強ではないかw >>30
惜しいところを突いてくるなあ
唐の長安も北宋の開封も魅力的だが
一番は臨安(杭州) 明の南京と北京にも行ってみたいけどなんか暗そう
国民は平和だと聞くがやっぱり暗そう 漢代の長安ってほとんど宮殿の敷地で占められてて庶民とか一体どこで暮らしてたのかさっぱりわからん 漢代→暗い
唐代→華やか
宋代→明るい
元代→カオス
明代→かなり暗い
清代→やや暗い >>33
酒池肉林は実際は神々の祭祀を盛んにしてただけって話が… 後世の漢文では肉山脯林と酒池肉林はほぼ同義語で使われてるが
肉山脯林は夏王朝、酒池肉林は殷王朝に由来し、
本来はまったく別の意味だった可能性がある >>33
>俺は酒池肉林が見たい。
>
>ようは乱交パーティだよなw
ちがうよ
お酒のみほうだい、焼肉くいほうだいの、グルメ向きパーティーだよ
(しかも古代のことだから、まっずい濁り酒と、塩ふっただけのまずい焼肉) >>41
>肉林の具体的なイメージ
丸太に、口から肛門まで突き刺したヒツジの丸焼きの串焼きを、
床の大穴に突き刺して林立させた、要は「量」だけは大量な
ヤキニク
酒池肉林の時代にはまだ料理なんて発達してなかったから
贅沢するのも量的な贅沢だけで
質的には大して美味いものではなかっただろうという想像は容易にできる。
質的な贅沢もしてるなら「どこの産地の酒」とか「どこの産地の肉」まで書くはず。 ステーキ・バーベキュー食べ放題したいなあレベルの話でしかないのか・・・ >>41
東京だとついこないだまで黄河文明展とかちょいちょいやってた印象がある
ああいうの回るといいよ
だいだいほとんどの青銅器って肉盛り皿か酒器ばっかり
>>42-45
だからそれは周王朝の政治的プロパガンダなんだよw
神々の祭儀を盛大に営んでただけw >>46
>神々の祭儀を盛大に営んでただけw
だから、祭壇に、
薄〜〜〜〜いまず〜〜〜〜いどぶろくとか、
塩ふっただけの焼肉をもりつけた饕餮紋(とうてつもん)のお皿とか、
イケニエの羊を血抜きした血をひたひたに満たした饕餮紋(とうてつもん)のバケツとか、
イケニエの羊の内臓を盛り付けた饕餮紋(とうてつもん)の鼎(かなえ)とか
を盛大にならべてたんでしょ? あの時代で酒池肉林の楽しみをするのと、
今の日本で負け組み引きこもり生活を送るのだったら、
やっぱり負け組み引きこもり生活を送るなww
せいぜいSEXくらいしか楽しめそうにないもんなぁ
酒だって、ろくなのがなさそうだし、しょうゆも味噌もソースも
唐辛子もなさそうだし
果物にしても、ブドウはあったか?ミカンはあったか?
スイカ、メロンはとなるとなぁ
殷周の時代で酒池肉林を楽しむのなら、絶対今の日本で
負け組引きこもりを選ぶよ
食べ物だけでも、中華皇帝で今の負け組引きこもりよりもいいものを
食えるようになったのは、唐の時代からかねぇ
それとも宋の時代に入ってからかなぁ やっぱ皇帝が楽できて豪華なもの食えるのは唐じゃね
玄宗とかそのイメージだけどやらかして酷い目にあったという 呂氏春秋に出ている、鉄の鎧を身に包み鉄の錫杖を持って敵を大いにへこますと書いてある程に屈強だった中山国の兵に関心がありますね。 やはり体格のいい北狄人すなわちチュルク系だったからでしょうか?>>52 >>49
>肉林
原義では、ヤキニク・パーティーのことだからな
串焼きが林立している様をさす
女性の肉体は関係ない ベタだけどやっぱ唐だな。
日本との関わり
国際色豊かな文化
安史の乱以後の変動っぷり >>49
あの時代の華北だと主食はコメではなくアワかな?
その点でも侘びしいな
まあ皇帝ならコメも食べられたろうけど >>43
シェラコみたいなものか。美味そうじゃん。ガウチョ料理のシェラスコみたいだ >>58
伯夷と叔斉の故事に因んで、面従腹背を良しとせず、雇い主の許を去る行いを
ナントカの粟をはまず
とか言うだろ。 なにその801板の歴女の食い付きそうなエピソードは 世界の流れから隔絶した孤立感
それが中国史の特徴だ
例外は唐とモンゴル帝国
この2つは中央アジアとダイレクトにつながっていた 長安には明教(マニ教)・祆教(けんきょう:祆は示偏に天。ゾロアスター教)
・景教(ネストリウス派キリスト教)・イスラム教などの寺院が立ち並び、
国際都市としての景観を持っていた。 後の時代よりも、唐のほうがずっとグローバル化していた
この頃は、日本も東アジアとダイレクトにつながっていた
その後、グローバル化が後退したのはなぜなのか? ひとつには、海洋貿易が中心になってきたため、陸路のシルクロードが衰退した
唐とサラセン帝国の国力が衰え、中央アジアへの影響力が低下した
外来文化は、もう十分に取り入れたので、もういいやとなった この歴史的な事例を見れば、現代のグローバリゼーションの流れも、やがて反転するのかもしれない
日本や中国が、欧米の文化を取り入れなくなり、国風文化へと移行するということ ウイグル人のテロリストは、現代の突厥
突厥の脅威から国を守るための城塞都市は西安 かつて西安(長安)はシルクロードの出発点でした。
そのシルクロードで大きな役割を果たしたのがイスラム人で、ここ西安の回民街
(回民というのはイスラム人のことですから、日本語に直せば「イスラム人街」になります。)
の近くには西安大清真寺(モスク)があり、かつてはイスラム教徒が数多く住んでいたのでしょう。
今では西安随一のB級グルメ街になっていますから、
ここで店を出している人たちすべてがイスラム教徒だというわけではありません。
http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantown00.jpg 唐三彩
絢爛豪華な明の万暦赤絵とかと比べたら、とても素朴な陶器で、
弥生時代のハニワよりはマシという感じなんだけど、
これでも当時としては最先端の工芸品で、周辺諸国の憧れのマトだった
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Westerner_on_a_camel.jpg よく思うのだが、漢や唐の大帝国ぶりを歴史地図で見ると、
同時代の日本の状況のささやかさと比べて大差を感じるんだが、
実際に国立博物館で骨董品を見ると、漢代のものは、
やっぱり弥生時代の土器や青銅器と大差ない。
もちろん、漢は先進国だから差がないわけじゃないのだが、現代人から見れば
あまりにも素朴で、似たようなものだ。まあ、同時代だから当たり前なんだが。
ていうか、あれでよく大帝国を作れたもんだよ。
あんなアフリカの原住民みたいなレベルの人たちが、
大軍を編成して広大な領域を制圧した。
人間ってのは、不思議なもんですな・・・。 オリエント博物館で古代メソポタミアの粘土版を見ると、
4000年以上も前のイラクの文化水準の高さに衝撃を受ける。
縄文時代に、これかよ・・・という感じ。
さすがに、同時代の日本じゃ考えられないレベル。
やっぱり、中国の水準が大幅に上がったのは、
唐の時代にシルクロードを通して西域の文化を
導入したときだと思うんだな。
それまでは、明らかに世界最先端は中東の西アジア。
中国信奉者の人には悪いけど、やっぱり、そうとしか思えない・・・。 >>76
わざわざ貧しい地域に遷都することは無かろう
順当なら最も豊かで文化の中心でもある地域、つまり江南
だから遷都するなら南京がふさわしいだろう 日本史の教科書には、「平安時代の日本では、逃亡する農民が増えて、
貴族の荘園も増えて、律令制が崩壊しました。」と書いてある。
「当初は大陸から文化を導入しましたが、やがて国風文化に移行しました」
とも書いてある。
実際のところ、唐の歴史もこれとよく似ている。
同じように、律令制が崩壊して貴族の荘園が増えた。
当初は西域から文化を導入したけど、後には中国風の文化に移行した。
平安時代の日本には帰化人が多かったが、やがて土着の日本人と融合し、新しい日本人が形成された。
唐の時代の中国も、これと同じような状況だった。
こういう東アジアとしての同時代性に、もっと着目してよいんじゃないかと思う。 というのも、数年前に、「中国の文明は、宋の時代に完成した。
日本はそれを追いかけて、江戸時代くらいでやっと宋のレベルに達した」
というような本が出てたのだが、それは全くおかしい。
確かに、宋は当時としては大変な先進国で、同時期の日本とはかなりの差があったが、
ほぼ近代国家に近い江戸時代の日本と並べるのは、いくらなんでも無理がある。
中国のことになると、どうも客観的な判断ができなくなる人が多いようだ。 日本からの遣唐使は、長安で皇帝から下賜されたものを、市中で交換して本を買い漁った。
日本人が欲しかった本はいろいろあるが、その最たるものは仏教の経典。
玄宗皇帝から「なぜ、道教も伝えないのか?」と文句を言われても、日本人の関心は仏教にあった。 戦前の皇国史観教育の反動で、戦後の復興期には、
「未開の土人国だった日本は、世界の中心の中国に遣唐使を送って、
先進国の文物を学びました」という自虐史観がやたらと刷り込まれたため、
その頃に教育を受けたクソマジメな爺さんたちが、今でもそれを信じ込んでいる。
たしかに、そういう面もあるのだが、日本人が唐で最も得たかった情報が何だったかを考える必要がある。
それは、なんといっても仏教の経典。
つまり、それは信仰の問題であり、宗教的情熱が最大のモチベーションだったことを忘れるべきでない。 吉備真備が持ち帰ったものは続日本紀に書いてある
入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百卅巻。太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻。測影鉄尺一枚。銅律管一部。鉄如方響写律管声十二条。楽書要録十巻。絃纒漆角弓一張。馬上飲水漆角弓一張。露面漆四節角弓一張。射甲箭廿隻。平射箭十隻。
つまり
礼儀に関する本、暦に関する本、音楽に関する本だね
礼儀は律令制運営に必要な政治書
暦は当時の最新天文学だね >>81
青銅器は知らんが、陶磁器について言えば漢代の頃にはすでに自然釉じゃない釉薬が使われてるぞ
日本で意識的に釉薬が使われるようになったのは奈良時代
さすがにここら辺の技術差を無視して大してかわんねーwwっていうのは無理がある
漢代に万暦赤絵レベルのものが出てこないと納得できない人?
あと、黒陶っての見たことある?
陶器なんだが、最初実物見た時はどうして陶磁器の並びにいきなり金属器が出てきた?って首をかしげるくらい完成度が高い
これ、龍山文化だからBC2000くらいだぞ
日本age中国sageの昨今流行りのイデオロギー持ってる人か知らんが、さすがに乱暴だわ いや別に、日本アゲ中国サゲしたいわけではない。
朝鮮人じゃあるまいし、「どっちの国の格が上か下か」なんてことに
コダワってるわけじゃないんだな。
それよりも、「未開の土人国だった日本は、超大国の唐に使節を送り、
先進的な文化を学びました」というイデオロギーを刷り込まれたおかげで、
唐のイメージがどうも歪められている。
というのも、自国のことだけに、奈良や京都のことはよくわかる。
しかも、平安時代の貴族の日記やら絵巻物やらが多量に残っていて、
千年前のことが妙に詳しく分かっている珍しい国だから、
奈良時代や平安時代の日本のことは、よく分かる。
それを基準にして「遥かに先進的な文明でした」と言われると、
どうしても近代に近いような、近世レベルのイメージになってしまうんだが、
それにしては、唐の建築やら陶磁器やらを見る限り、
やっぱり、素朴な古代人という感じしかしない。
明や清のそれと比べたら、原始人に近い・・・。 唐三彩の人物俑も、「ラクダに乗った人」とか、西域っぽい。
日本の雅楽を見れば、唐の音楽が分かる。
西域から伝来した西アジアの楽器だ。
やっぱり、唐は基本的に「遊牧民帝国」と思うんだけどねえ。
まあ、「右翼だ、反中だ」というのなら、それでいいけどな。 現代でいえばアメリカのような存在だ
ひとつの国というより、「世界の半分」という感じ >>91
黒陶の黒い色の成分は鉄
だから外見は南部鉄器みたいに見える 唐は移民国家で、民族のルツボ
「アメリカ合衆国」に似た国 >>93
なんで西域趣味が流行ると基本的に遊牧民帝国とやらになるのか意味が分からない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています