中国の王朝で一番好きな王朝 [転載禁止]©2ch.net
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社会主義国の集団農業みたいな均田制は崩壊した。
ついでに、社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制も崩壊した。
官僚国家で、自由主義経済で、志願兵制。
なんという先進国なのだ、宋すごすぎ・・・。 国民皆兵(こくみんかいへい)とは、国民全員で国防を担おうという国家の姿勢を指す。
イスラエルやスイスが代表例。
対象国では主に男性に兵役が義務づけられているところが多い。 徴兵制度から志願制度への移行は、世界的な潮流となっており、
現在でも徴兵制度を維持している国家は少数派である。 千年以上前の中国で起きた、国民皆兵制度の崩壊。
現代の世界でも、徴兵制から志願兵制への潮流が起きている。
さすがは、中国。
世界を千年はリードしている。 >>84
中国首脳部の間で西安遷都計画があるという情報をブッシュ大統領が言ったことがある。
北京は水不足で限界が来ており、西安に遷都するという。
その後は全く情報を聞かないが。 >210
隋・唐は言わずもがな、明や清でも皇族や功臣の子孫から世襲の特恵を剥奪することに結構難儀してたけど、なんで間の宋では貴族社会ではなかったの?
まっとうな印刷技術もない宋の時代に紙幣? 騙してナンボの中国人だよ、贋金だらけにならんかったのかい?
銅が相当に高価だった時代でも私鋳銭の禁止に手を焼いてたのに。 >>221
殿試に数百人? 皇帝のお仕事たいへんだねえw >>224
近代国家のクセにモンゴルのような中世的封建体制の国に負けたの?
普通は戦争なんて開明度の高い方が勝つものだけれどねー
人口・経済力も宋が圧倒的だったよね? 生産は土地の国有を前提とする均田制から、土地の私有を前提とする地主=佃戸制(地主が所有する土地を小作人である佃戸が耕作する体制)へと移行した。
徴税体系は、均田農民を負担者とする租庸調制から、地主を負担者とする両税法へと転換した。
これは現物経済から貨幣経済への転換も意味する。
国家財政は地税収入よりも、貨幣経済と商業流通の発展に即応した専売収入に依存してゆく。
軍事体制も均田農民を徴兵する府兵制から、兵卒を金銭で募集する募兵制へと移行した。 >>235
宋には近代的な官僚機構があったが、軍隊は弱かった
そこが、18世紀のプロイセンとの違い 解決済の質問
両税法の意義として「国家が支配の基礎を農民から大土地所有者に、そして課税対象を人から土地に変えたことであった」とあるのですが、
後半の「課税対象を人から土地に変えたことであった」がピンとこないのですが、これについてどういうことなのかわからないので説明してください。
よろしくお願いします。 ベストアンサー
従来は租庸調などを個別の人民に人頭税のように課したのが、所有している土地の面積や収量を基準にした税制に移行したということです。 つまり課税対象が人間であった租庸調から、土地所有に対して課税する両税法へと変化した。このことは国家が人民の私的土地所有を認めたものとして大きな歴史的意義を持つものといえる。 古代中国は厳しい身分制社会で、人民は奴隷のような存在だった。
社会主義国の集団農業みたいな均田制で口分田を配給され、租庸調の税金を課された。
これまた社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制で、容赦なく徴兵された。
それが崩壊して、個人の自由が大幅に拡大したのが、唐宋変革期。
税金は、土地に対して課税される固定資産税みたいなものが主体の、両税法に変わった。
国家が、土地の私的所有という現実を追認したのだ。
しかも、徴兵制は廃止され、志願兵制に変わった。
こうして、宋では個人の自由が大幅に拡大した。
先に、両税法の成立を国家によるきびしい支配が農民を逃亡させ、租庸調制が実施できなくなったためであると述べてきたが、それでよいのであろうか。
それは支配者の論理・歴史ではないのか。むしろ生産力の発展によって両税法が実施されるようになったのではないか。
唐代に2年三毛作が普及し、江南でも水稲栽培に田植えの技術が加わったことに着目し、そうした生産力の発展を基礎に地主制が展開され、一方で自作農=中小農民の土地に対する所有権を強めていったのではないか。
両税法施行の意味は、たんに均田制を否定して土地の私有化を国家が認めたことや、搾取の形態が労働中心から生産物中心に移っただけでなく、土地の占有権しかもたなかった農民が土地の所有権を獲得できたことを意味すると私は思う。
このような観点に立てば、宋代の社会経済の発展、商業都市の成長、さらに庶民文化が生まれてくることが理解できるのである。 なんか、唐宋変革期の話ばかりを延々と続けてしまった
スレ違いなので、別スレを立てますた
https://lavender.5ch.net/whis/#1 明が大好き
胡惟庸(こいよう)の獄(1380)、李善長の獄(1390)、藍玉(らんぎょく)の獄(1393)という事件がある。
それぞれ、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍になったものたちが、謀反の罪で処刑された事件です。
事件そのものが、朱元璋によるでっち上げらしいのですが、それぞれの事件で処刑された人数がすごい。
胡惟庸の獄が1万5千人、李善長の獄も1万5千人、藍玉の獄が2万人。合計すれば5万人ですよ。
一族郎党、関係者、ちょっとででも疑われたもの、みんな殺されてしまった。
皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者はみんな殺されたということです。
乞食坊主だったことは、そうとう朱元璋のコンプレックスになっていたらしい。
役人が作成文書に「僧」「禿」とかいう文字があったら、とんでもないことになった。
杭州府学という官立学校の教授の文章に「光天の下、天は聖人を生ず」という一節があって、
この先生は死刑になったそうです。光という文字が、坊主を連想させたらしい。 やっぱり、明が最高
朱元璋の奥さんに馬皇后という人がいた。反乱軍時代に二人は結婚して、互いに皇帝、皇后になってからも馬皇后は以前と同じように、夫の食事を作ったり身の回りの世話をしていた。この人にこんな話がある。
馬皇后は、51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいた。ところが、医者にも診てもらわないし、薬も全然飲もうとしない。朱元璋が心配して差し向ける医者もすべて追い返してしまう。
心配した侍女が、「どうして医者に診てもらわないのですか」とたずねたら、こう答えた。
「私はもう歳だし、どんな名医に診てもらっても助からないことは自分が一番よくわかっている。もし、診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわないのです」。
馬皇后は、夫の残虐なおこないをたしなめることができる唯一の人でした。こんな人柄だから、朱元璋が人気がない反面で、みんなから敬愛されたようです。 洪武18年(1385年)には郭桓の案が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。
官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明代には試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。
これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。 >>238
いやいや、いくらなんでも開明度が高くてホーム戦で人口財力文明力に劣る勢力に負けないでしょうに 宋はあまりにも文化が高かったため、野蛮人の暴力に屈してしまったな 僕たちが普段使う「近代化」はほとんど「西洋化」という意味だ。
日本は近代化に成功したが、歴史という長いスパンをとって考えれば、必ずしも西洋の「近代化」を進んだ考えと言うことはできない。
だが、アジアの中で真っ先に「近代化」を進めた日本は優秀な国で、「近代化」に必要な「法の支配」や「議会制民主主義」が欠如している中国は遅れた国だと多くの日本人は考えがちだ。
しかし、中国は本来、人類史上最初に身分制を廃止し、かつて世界のほどんどの富を独占する「進んだ」国だった。
しかし、どうしてそれが「遅れた」国とみなされ、逆に西洋は現在「近代化」と言われているものを成し遂げたのか。 西洋の持つ、他の社会とくらべて最も魅力的な考え方、「法の支配」や「議会制民主主義」は、もともと中世貴族の既得権益だった。
ヨーロッパ型の近代化とは、貴族の既得権益を下位身分のものと分けあっていくプロセスだった。
だが、中国は宋朝の時代に身分制を廃止した「進んだ」国家であり、そもそも貴族がいなかったから、政治の面での「西洋化」が進まなかった。
実は日本は、「近世に貴族が絶滅した」という点では、西欧よりも中国に近い。
だから、日本がヨーロッパの考えを取り入れて「近代化」していった、とは別の捉え方で歴史を考え直す必要があるのではないか。 今の中国の元となる仕組みができたのが近世の宋朝だった。
世界で最初に身分制や世襲制が撤廃され、移動、営業、職業選択が自由になる。
「科挙」という形での身分に関係なく支配者層へ成り上がる方法も行き渡った。
しかし、「科挙」以外の政治的な自由は極めて強く制限されている。
宋朝以降の皇帝は、朱子学という全世界的な理念をもってして人民を統制した。 宋は、いちはやく身分制社会から脱して、官僚国家へと変身を遂げた。
近代の日本や西欧は、「宋」というゴールに向かって社会変革してきたようなものだ。 宋朝時代の中国では、世界で最初に(皇帝以外の)身分制や世襲制が撤廃された結果、移動の自由・営業の自由・職業選択の自由が、広く江湖に行きわたることになります。
科挙という形で、官吏すなわち支配者層へとなり上がる門戸も開放される。
科挙は男性であればおおむね誰でも受験できましたので、(男女間の差別を別にすれば)「自由」と「機会の平等」はほとんど達成されたとすらいえるでしょう。
……え、「結果の平等」はどうなるのかって?
もちろん、そんなものは保障されません。
機会は平等にしたわけですから、あとは自由競争あるのみです。
商才を発揮してひと山当てた人、試験勉強に没頭して頑張りぬいた人にのみ莫大な報償を約束し、
それができないナマケモノは徹底的に社会の底辺に叩き落とすことによって、
無能な貴族連中による既得権益の独占が排除され、
あまねく全員が成功に向けて努力せざるを得ないインセンティヴが生み出されるのです。 飯田 與那覇さんの新著『中国化する日本』は各方面で話題騒然となっていますね。
ご自身で注意書きを加えられていますが、「中国化」という言葉には、今の情勢では全日本人が「ドキッ」としてしまう。
與那覇 事前の予想通り、「中国の国家資本主義」とか「南シナ海政策」といった、経済学または地政学的な話だと思って手に取られた方も多かったんじゃないでしょうか。
しかし、本書の「中国」が指すモデルは「宋」のことなんですよね。1000年前からの時間の幅のなかで、日中両国の現在を見てみようという発想になっています。
宋朝のしくみを目指すのが「中国化」、それと180度逆の日本独自路線でいくのが「江戸時代化」という、二つの軸で歴史を書いてみようと。
與那覇 それにしても日本人の中国史への興味が、なぜあんなにも三国志に集中してしまうのか不思議です。
戦前の内藤湖南からすでに指摘があるにもかかわらず、日本人があまりにも知らなすぎる「世界で最初の近世社会であり、グローバル化の先駆けである宋」のイメージから、本書を書きはじめました。
アジアに燦然と輝く中華帝国をメインに捉え、その歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」という内藤湖南の史観に始まる。
内藤は10世紀の宋にすでに「近世」が確立していたと論じている。
内藤のこの史観を述べながら、著者は次のように書く。
「宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。
同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で
競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。」 宋は、いちはやく身分制社会から脱して、近代的な官僚国家に変身を遂げた。
それに比べて日本は、その数百年後の江戸時代に、逆に士農工商の身分制を強化した。
隣の国なのに、じつに好対照をなしている。 三大発明に代表される技術進歩も、自由競争社会の産物 江戸時代の日本は、宋とは逆の方向に向かって進んでしまった
その結果、深刻な停滞に陥った 中国で一番残念なのが秦と明だな 異端を弾圧しすぎて秦の前の春秋戦国、明の前の宋時代の面白い部分を全部潰してしまった感じ
高麗の後の朝鮮もそうだ 朝鮮も初期より後期の方が明らかに劣化して益々見るものがなくなった感じ
宗教で言えばキリスト教やイスラム教みたいだ 今のタリバンやISと一緒 やっぱり、中国はバラバラなときのほうが面白いな
明や清はデカすぎて、つまらない 明代の北京は封建的な儒教社会だが、江南は伸び伸びと発展した面白い時代 唐に生まれるなら、貴族じゃないと
平民にとっては最低の時代 >>256
>それができないナマケモノは徹底的に社会の底辺に叩き落とすことによって、
バカじゃね?
宋と言えば形勢戸と呼ばれる新興地主や商人が力を持った時代と習ったろ
本来は官戸層が担っていた行政権を民戸でありながら多くの胥吏を使役して代行する者が現れたり
貴族も文武百官も力を失って、とにかく金持ってる資産を蓄積できる奴が偉いとなったのが宋代 >>242
>社会主義国の集団農業みたいな均田制で口分田を配給され、租庸調の税金を課された。
>これまた社会主義国の国民皆兵みたいな府兵制で、容赦なく徴兵された。
はぁ?お前世界史の授業の時寝てただろ?
府兵は租庸調や力役といったすべての税を免除されるだが
この府兵はかつて宇文泰が組織した漢人郷兵集団の末裔と考えらおり民戸と区別され旧西魏以外の州にはほとんど存在しなかった
つまり一種の軍事カーストが若干の特権と共に軍事を担う構造になっていたわけで
社会主義とも国民皆兵とも全然違う >貴族も文武百官も力を失って、とにかく金持ってる資産を蓄積できる奴が偉いとなったのが宋代
現代中国の拝金主義の原点だな おカネある人、えらい人
おカネない人、だめな人
中国では、それ以外の価値観が消滅した 征服王朝が古来からの伝統を廃絶してしまうおかげで、高貴な家柄が消滅
カネ持ちだけが偉くなった 明清の時代は、王朝は交代しますが、社会・経済・文化はひとつづきのものとして発展していきます。
特徴的なことを何点かみていきます。
蘇州、杭州など、特に長江下流地域に商工業都市が発展します。
工業では綿織物、絹織物工業が発展。
宋代からはじまる景徳鎮の窯業も盛んです。
商業も盛んで、山西商人、新安商人などによる遠隔地交易が盛んになる。
山西商人は山西省、新安商人は安徽省徽州府出身の商人で、同郷者どうし協力しあい、ネットワークをつくって中国全土を舞台に活躍した。
各地に「会館」「公所」と呼ばれる自分たちの宿泊施設や、商品の倉庫をつくりました。会館という名前は、日本語にもなっていますね。 銀の大量流入。
明清時代に中国国内に大量の銀が入ってきます。
これは、海外貿易で中国からの輸出品の代金として支払われたものです。
当時、アジア地域の国際貿易は銀で決済していたのです。
なぜかというと、大量の銀があったから。
出所は、日本とメキシコ。
戦国時代から江戸時代の半ばにかけての日本は、世界的にみても大量の銀が採掘されていたのです。
代表的な銀山が兵庫県の生野銀山。
これが、オランダなどを通じて中国に流れる。
メキシコからはスペインが大量の銀をアジアに運んだのです。
大量の銀が中国国内に流通するようになるので、明の一条鞭法や、清の地丁銀など税の銀納化がすすんだのです。
戦国時代や江戸時代の日本の農民が、年貢を銀で支払う、なんていうことを想像できますか。
できないでしょ。
そう考えると、いかに明清時代の中国で貨幣経済が発展していたかということがわかるとおもう。 ヨーロッパはやっぱ国が投資して工業が発展したのかね?
明だと民間は活力あるのに工業の発展とかがあまりない 明代には、北京は封建的な儒教社会だったけど、長江下流デルタが大発展して近代資本主義経済の一歩手前までいった。
穀物の生産は長江の中流に移り、下流では商品作物の生産が中心になった。
それを原料として、繊維工業が盛んになった。
商業も発達して、ほとんど高度大衆消費社会の域に近づいた。
「なんで、あそこまで行ったのに近代資本主義への飛躍が起きなかったのか」というのが、
むしろ社会学における大きなテーマ
なんでヨーロッパのほうがすべての点で上になるんだろう?
日本だってすべての分野でヨーロッパを規範にしてるしな
柔道とかですらヨーロッパの学問をおさめたやつが柔術を改造したものだし 柔道と洋学に何の関係があるんだが
レスリングには一つの技が次の技の布石になる(連絡技)、関節技、絞め技、急所の概念がないだろ
中国武術にも同様の概念があるけど、戦闘の際に技や相手の状態を系統だって考察するのは東アジア系の特徴なんだろうな まあ、アチラは、エジプトやシュメールからの歴史とつながってるからな
人類発祥の地はアフリカだ
歴史の長さで東アジアは及ばない しかし、東アジアが世界の最先端だった時期はある
宋・元・明あたりでは最先進国だろう
預言者マホメットも、「宗教はアラブ、技術は中国」、「知識を求めよ、中国にまで」という言葉を残している >>281
>なんで、あそこまで行ったのに
よっしゃこれから、というところで農民大反乱&女真族乱入 清の時代の中国人といえば、闘将ラーメンマンとか、らんま1/2とかを見ればイメージわくけど、モンゴル帝国はどうだったんだろうな?
やっぱり、元の時代の中国人も、辮髪に胡服を着てたんだっけ? モンゴル人の辮髪は、清のようなお下げ髪とは違って、三つ編みを左右のツインテールにしていた。
アタマは河童のように剃っていた。
清とは違って、漢民族にはこのヘアスタイルを強要しなかった。 なんで何度も北方民族に支配されていたのに、
清だけが髪や服装を押し付けたのか? 解決済の質問
辮髪令は清王朝のものが一番厳しく、禁令を破ると死罪という事が王朝滅亡まで続きましたが、
遼、金、元代の時はどうだったのですか?辮髪令は一時的な事だったのですか? ベストアンサーに選ばれた回答
桑原隲藏の『支那人辮髮の歴史』によると、
遼は不明、金は強制、元は迎合、清は強制だったようです。
「金」以前にも辮髮種族が中国内地を占領して、
国を建てたことがあるものの、
その領内の漢民族が、
辮髮にしていたかどうかの記録は残っていないようです。
漢民族が辮髮した記録が残るのは、
「金」時代に遡ります。
「金」はご存知のように1114年に遼より独立し、
1125年、その遼を滅ぼして、
ついで1127年に北宋の都開封を陷れてから、
直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、
及び江蘇・安徽二省の北部を、
金の勢力下に置きます。
「金」の太宗は1129年にその領内の漢人に対して、
胡服・辮髪の令を下しました。
「是年六月行下禁。民漢服及削髮不如式者死。」
(『大金國志』卷五) 実際に、辮髮令に背いたため、
青州の觀察使李邈、保義郎李舟、右武大夫の郭元邁らの、
宋の忠臣が死罪にされた記録が有ります。
『北轅録』や、『北行日録』等、南宋時代に金へ使いした紀行にも、
金の領内の漢民族が、
胡服を着用していたとされ、辮髮していたと推察されます。
章宗時代(1200年)に、
女真族・漢民族の拜儀について議論があつた時、
司空の完顏襄が、
「今諸人袵髮皆從二本朝金之制一。宜レ從二本朝拜一。」
と主張しており、金宮廷の官吏は、
民族の区別なく胡服・辮髮したことがわかります。 金の後に蒙古が興ります。1234年金を滅ぼし、
1276年南宋を併せて天下を統一します。
この蒙古も女真と同樣、辮髮種族ですが、
形は違い左右両耳の後に二個の辮髮を垂れたものです。
フランス王の命を奉じて1253〜54年に、
蒙古の憲宗を訪問した「ルブロック」は、
蒙古人の辮髮について、
「男子は皆その頭の頂上を四角形に剃り開き、
この四角形の前方の両隅からこめかみまで、
頭の両側を剃り下げる。
頭の後部も同樣ぼんのくぼまで剃り下げる。
前頭には一束の髮を殘して、その餘は剃り捨てる。
この殘した一束の髮はそのまま眉際まで垂れ散らし、
頭の左右両側に存する髮は、編みて両耳の邊に辮髮とする。」
と記しています。 蒙古人の直間接の支配を受けた朝鮮やペルシアでは、
一律に辮髮が流行したようです。
13世紀のペルシアではキリスト教徒、イスラム教徒を問はず、
多くの者が辮髮をしていたとされます。
朝鮮の忠烈王は、元の世祖の娘を娶ったこともあり、
1278年、朝鮮国内に辮髪胡服令を下し、
(『高麗史』卷七十二輿服志)
頭髪を辮髪にしてモンゴル服を着用する よう強制します。
これは1387年まで続きます。 漢民族はというと、
明の太祖時代(1368年3月)に、
「明の太祖が中原を光復するや否や、胡元の風俗を改め、
中国古来の衣冠を再興した」
とありますので、元時代の漢民族は辮髮・胡服していたようです。
ただし、朝鮮宮廷が辮髮・胡服を令として強制させた際に、
元の世祖は、
「みだりに国の風俗を変えた」ことを戒めたそうですので、
恐らく強制ではなく、
元時代の漢民族は自から進んで蒙古名に改名し、
蒙古語を習ったという記載もあり、
征服民族への自発的な迎合かと思われます。 長いコピペになってしまったが、要するに、金や清といった満州人の王朝は、漢民族に辮髪を強制した。
でも、モンゴル人は寛容というか、「俺たちは俺たちで、アイツらはアイツらだ」というような割り切りがあったためか、異文化を強制しなかった。
しかし、漢人も、モンゴル帝国に迎合するため自発的に胡服辮髪する人は多かったようだ。
そんな中で、高麗の宮廷は、言われてもいないのに朝鮮人に胡服辮髪を強制した。
かえって北京からたしなめられるほどの露骨な迎合ぶり。
さすがは、朝鮮半島の王朝。
韓国の歴史ファンタジードラマ「奇皇后」では、モンゴル帝国の皇帝たちが明の宮廷みたいな格好をしていて、
高麗の王様たちは李氏朝鮮みたいな格好をしていた。
これはもちろんファンタジードラマだからで、本当は、モンゴル帝国も高麗も、上層部は全員が胡服で辮髪。
中国には伝統漢服の人もいたが、高麗は一般民衆まで胡服辮髪だったはずだ。
>>299
日本だって明治に洋服にてわらいものになったしたいして変わらん 日本では、神社の神主さんとか、いまでも衣冠束帯して笏を持ってる人がいるけど、
中国人の観光客があれを見ると、「唐の時代のコスプレか?」とビックリする。 奈良時代の日本は、自発的に唐そのものと化した
奈良の古墳の壁画に描かれた人たちも、高句麗の壁画に描かれた人たちも、
唐の貴族の服装とあまりにも似ていて見分けがつかない
現代の日本人の服装は、欧米そのものと化した
一度も強制されたことはないが 服を変えるというのは相手のほうが強かったり文明的に優れていたりかっこいいと認めるということ >>287
でも日本にしろ中国にしろ、
近代ではすべてのジャンル(農業とか音楽とかすべて)で西欧に負けてるのはなぜか >>306
ヨーロッパ男性はギリシャ・ローマ文明の服装じゃなく
非文明なスキタイの服装を選んだ >>306
戦国七雄の武霊王が北方騎馬民族から胡服文化をパクったのは、
中華文明よりも異民族の文明が優れてかっこいいからなのか 農耕民族の服より、騎馬民族の服のほうが機能的で動きやすいから、利便性で勝ち目なし
これは東洋と西洋を問わない、世界的な傾向 >>307
電子工業など、手先の器用さが勝負の分野では完全に追い抜いた 音楽・美術・文学・建築は、近代ヨーロッパの作品が世界共通の古典になった
あれに匹敵するようなものが、今後も出てくる気がしない アメリカでも東アジアでも、ヨーロッパのクラシック音楽を必死で練習して演奏している 日本では、唐の雅楽がいまでも神社で普通に演奏されている。
神職の関係者は、烏帽子をかぶって笏を持った衣冠束帯という、唐朝様式のコスプレみたいな人たち。
建物も、唐の様式そのもの。
日本の神社には、タイムカプセルのように唐の文化が残っているので、中国人はビックリ。
仏教寺院より、神社にとくにそういう傾向が強い。 >>316
ペルシャ・インドの音楽や踊りを唐がマネしたんだよ これに対して朝鮮は、明の文化に染まった。
明から清に代わっても、明の様式をガンコに守り続けた。
チマチョゴリも、明の女性衣装がベースになっている。
それ以前の古い文化がほとんど無いせいもあって、朝鮮の古い建築や伝統衣装は、基本的に明の様式。
このため、最近の中国では、「唐の文化を見たければ日本に行け。明の文化を見たければ韓国に行け」と言われている。
台湾はどうかというと、台湾には中華民国の文化が残っている。 >>316
ペルシャやインドは烏帽子も笏も衣冠束帯もないが
唐の頃の日本の文化レベルは原始時代に毛が生えた程度なのだから唐のまるまるコピーになるのも無理はない だが平安時代に唐は消滅してしまった
日本国は今日までずっと存在し続けるのに 日本では、鎌倉幕府や江戸幕府の時代にも、京都では皇室と公家が脈々と続いていた。
おかげで、平安時代の貴族の文化が、幕末維新まで残った。
唐から宋にかけての大きな変化に挙げられるのは、貨幣経済の進展だ。
唐の後期でも、農民が作物を換金して金銭納税するほどに貨幣経済が進展していた中国だが、
宋になると、宋銭が大量に発行され、貨幣の使用が極めて盛んになった。
宋銭の使用は、日本や東南アジア諸国・中央アジア諸国にまで広がった。
アジアでは、今の米ドルをもしのぐ基軸通貨であった。
鎌倉時代や室町時代の日本は、宋銭や明銭を大量に輸入して、自国で流通させていた。
日本からの輸出品を持って出航した船は、中国の銅銭を満載して持ち帰ってきた。 唐代から飛銭と呼ばれる役所発行の手形が用いられていたが、北宋になると商人によって交子・会子と呼ばれる手形が使われるようになった。
特に銅銭に比べて重く銭価の低い鉄銭流通が強制された四川・陝西では、全国一律で同じ価値を持つ交子は他地域との交易には欠かせないものとなった。
交子は仁宗の頃から、会子は南宋になってから政府によって発行されるようになった。
これが世界で最初の紙幣である。
しかし、後に大量発行されてインフレーションが発生した。 明では宝鈔という紙幣と銅銭を併用していた。
また、金銀を貨幣として利用することは禁止され、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じられた。
宝鈔は金銀と兌換できず価値は徐々に下落したために、銀が通貨として用いられるようになっていった。
金銀の貨幣利用を禁止していた政府も民間の流れに沿い、銀による納税を認めた。
清代は基本的に明代と同じような通貨政策がとられが、銅銭の普及が本格化し、各皇帝が良質な銅銭の普及に力を入れたため銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。 唐の貴族の服装は、日本の平安貴族の衣冠束帯と似てるっていうか、ほぼ同じ。
ただし、それは男性の正装、いまでいえばサラリーマンのスーツみたいなものに限った話だけど。
聖徳太子みたいな笏を手に持ってるのが特徴で、古代の東洋の神秘を感じさせる。
実際には笏は神秘的なものじゃなくて、儀式進行とかの備忘録が書きつけてあったらしいが。
中国の服装の基本には、「弁服」「長袍」「深衣」の3種類がある。
こうした三種類の服装に共通する特徴は、長衣がゆったりしていること、袖が大きいこと、直線の組み合わせによる構成。
生地がたっぷり使われているので、垂れ下がったり腰紐で東ねられたりすることで自然に作り出される美しい装いも大きな特徴である。
服の基本構造がシンプルだからこそ刺繍や別布で縁どりする、絹織物を羽織る、肩掛けをまとう、腰を飾るなど、着こなしが工夫された。
そして、袖や襟への縁どりやさまざまな刺繍は中国服飾の特色の一つとなり、その美しさを花咲かせたのである。 宋は漢人、遼は契丹人、金では満州人、元はモンゴル人、明は漢人、清は満州人と、支配者が変わるたびに、そこの民族衣装が主流になり、服装が激変した。
だから、時代劇を見ると、じつは時代背景が分かりやすい・・・はずなんだが、実際には金や元が舞台になってることは少ない。
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