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中国の王朝で一番好きな王朝 [転載禁止]©2ch.net
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0279世界@名無史さん
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2017/10/06(金) 21:30:18.590
ヨーロッパはやっぱ国が投資して工業が発展したのかね?
明だと民間は活力あるのに工業の発展とかがあまりない
0280世界@名無史さん
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2017/10/06(金) 22:55:52.120
明代には、北京は封建的な儒教社会だったけど、長江下流デルタが大発展して近代資本主義経済の一歩手前までいった。
 
穀物の生産は長江の中流に移り、下流では商品作物の生産が中心になった。
それを原料として、繊維工業が盛んになった。
 
商業も発達して、ほとんど高度大衆消費社会の域に近づいた。
 
0281世界@名無史さん
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2017/10/06(金) 22:58:01.840
「なんで、あそこまで行ったのに近代資本主義への飛躍が起きなかったのか」というのが、
むしろ社会学における大きなテーマ
 
0282世界@名無史さん
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2017/10/06(金) 23:19:02.120
なんでヨーロッパのほうがすべての点で上になるんだろう?
日本だってすべての分野でヨーロッパを規範にしてるしな
柔道とかですらヨーロッパの学問をおさめたやつが柔術を改造したものだし
0283世界@名無史さん
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2017/10/07(土) 01:01:57.110
柔道と洋学に何の関係があるんだが
レスリングには一つの技が次の技の布石になる(連絡技)、関節技、絞め技、急所の概念がないだろ
中国武術にも同様の概念があるけど、戦闘の際に技や相手の状態を系統だって考察するのは東アジア系の特徴なんだろうな
0284世界@名無史さん
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2017/10/07(土) 06:11:21.480
まあ、アチラは、エジプトやシュメールからの歴史とつながってるからな

人類発祥の地はアフリカだ

歴史の長さで東アジアは及ばない
0285世界@名無史さん
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2017/10/07(土) 06:12:31.220
しかし、東アジアが世界の最先端だった時期はある
 
宋・元・明あたりでは最先進国だろう
 
0286世界@名無史さん
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2017/10/07(土) 06:13:50.790
預言者マホメットも、「宗教はアラブ、技術は中国」、「知識を求めよ、中国にまで」という言葉を残している
0287世界@名無史さん
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2017/10/07(土) 06:14:28.750
東アジアには科学がないが、技術は昔から高い
0288世界@名無史さん
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2017/10/07(土) 07:44:28.910
>>281
>なんで、あそこまで行ったのに

よっしゃこれから、というところで農民大反乱&女真族乱入
0289世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:14:18.960
清の時代の中国人といえば、闘将ラーメンマンとか、らんま1/2とかを見ればイメージわくけど、モンゴル帝国はどうだったんだろうな?

やっぱり、元の時代の中国人も、辮髪に胡服を着てたんだっけ?
0290世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:18:21.260
モンゴル人の辮髪は、清のようなお下げ髪とは違って、三つ編みを左右のツインテールにしていた。

アタマは河童のように剃っていた。

清とは違って、漢民族にはこのヘアスタイルを強要しなかった。
0291世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:23:26.110
なんで何度も北方民族に支配されていたのに、
清だけが髪や服装を押し付けたのか?
0292世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:23:48.500
解決済の質問

辮髪令は清王朝のものが一番厳しく、禁令を破ると死罪という事が王朝滅亡まで続きましたが、
遼、金、元代の時はどうだったのですか?辮髪令は一時的な事だったのですか?
0293世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:23:49.430
>>288
秀吉もあるな
0294世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:24:38.200
ベストアンサーに選ばれた回答

桑原隲藏の『支那人辮髮の歴史』によると、
遼は不明、金は強制、元は迎合、清は強制だったようです。

「金」以前にも辮髮種族が中国内地を占領して、
国を建てたことがあるものの、
その領内の漢民族が、
辮髮にしていたかどうかの記録は残っていないようです。

漢民族が辮髮した記録が残るのは、
「金」時代に遡ります。
「金」はご存知のように1114年に遼より独立し、
1125年、その遼を滅ぼして、
ついで1127年に北宋の都開封を陷れてから、
直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、
及び江蘇・安徽二省の北部を、
金の勢力下に置きます。
「金」の太宗は1129年にその領内の漢人に対して、
胡服・辮髪の令を下しました。

「是年六月行下禁。民漢服及削髮不如式者死。」
(『大金國志』卷五)
0295世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:24:55.980
実際に、辮髮令に背いたため、
青州の觀察使李邈、保義郎李舟、右武大夫の郭元邁らの、
宋の忠臣が死罪にされた記録が有ります。
『北轅録』や、『北行日録』等、南宋時代に金へ使いした紀行にも、
金の領内の漢民族が、
胡服を着用していたとされ、辮髮していたと推察されます。
章宗時代(1200年)に、
女真族・漢民族の拜儀について議論があつた時、
司空の完顏襄が、
「今諸人袵髮皆從二本朝金之制一。宜レ從二本朝拜一。」
と主張しており、金宮廷の官吏は、
民族の区別なく胡服・辮髮したことがわかります。
0296世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:25:32.160
金の後に蒙古が興ります。1234年金を滅ぼし、
1276年南宋を併せて天下を統一します。
この蒙古も女真と同樣、辮髮種族ですが、
形は違い左右両耳の後に二個の辮髮を垂れたものです。
フランス王の命を奉じて1253〜54年に、
蒙古の憲宗を訪問した「ルブロック」は、
蒙古人の辮髮について、
「男子は皆その頭の頂上を四角形に剃り開き、
この四角形の前方の両隅からこめかみまで、
頭の両側を剃り下げる。
頭の後部も同樣ぼんのくぼまで剃り下げる。
前頭には一束の髮を殘して、その餘は剃り捨てる。
この殘した一束の髮はそのまま眉際まで垂れ散らし、
頭の左右両側に存する髮は、編みて両耳の邊に辮髮とする。」
と記しています。
0297世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:26:07.280
蒙古人の直間接の支配を受けた朝鮮やペルシアでは、
一律に辮髮が流行したようです。
13世紀のペルシアではキリスト教徒、イスラム教徒を問はず、
多くの者が辮髮をしていたとされます。
朝鮮の忠烈王は、元の世祖の娘を娶ったこともあり、
1278年、朝鮮国内に辮髪胡服令を下し、
(『高麗史』卷七十二輿服志)
頭髪を辮髪にしてモンゴル服を着用する よう強制します。
これは1387年まで続きます。
0298世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:26:30.210
漢民族はというと、
明の太祖時代(1368年3月)に、
「明の太祖が中原を光復するや否や、胡元の風俗を改め、
中国古来の衣冠を再興した」
とありますので、元時代の漢民族は辮髮・胡服していたようです。
ただし、朝鮮宮廷が辮髮・胡服を令として強制させた際に、
元の世祖は、
「みだりに国の風俗を変えた」ことを戒めたそうですので、
恐らく強制ではなく、
元時代の漢民族は自から進んで蒙古名に改名し、
蒙古語を習ったという記載もあり、
征服民族への自発的な迎合かと思われます。
0299世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:30:00.210
長いコピペになってしまったが、要するに、金や清といった満州人の王朝は、漢民族に辮髪を強制した。

でも、モンゴル人は寛容というか、「俺たちは俺たちで、アイツらはアイツらだ」というような割り切りがあったためか、異文化を強制しなかった。

しかし、漢人も、モンゴル帝国に迎合するため自発的に胡服辮髪する人は多かったようだ。

そんな中で、高麗の宮廷は、言われてもいないのに朝鮮人に胡服辮髪を強制した。
かえって北京からたしなめられるほどの露骨な迎合ぶり。
さすがは、朝鮮半島の王朝。
 
0300世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:33:28.990
韓国の歴史ファンタジードラマ「奇皇后」では、モンゴル帝国の皇帝たちが明の宮廷みたいな格好をしていて、
高麗の王様たちは李氏朝鮮みたいな格好をしていた。

これはもちろんファンタジードラマだからで、本当は、モンゴル帝国も高麗も、上層部は全員が胡服で辮髪。

中国には伝統漢服の人もいたが、高麗は一般民衆まで胡服辮髪だったはずだ。
 
0301世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 10:47:23.590
>>299
日本だって明治に洋服にてわらいものになったしたいして変わらん
0302世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:12:16.120
まあ、確かに
0303世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:13:18.010
日本では、神社の神主さんとか、いまでも衣冠束帯して笏を持ってる人がいるけど、
中国人の観光客があれを見ると、「唐の時代のコスプレか?」とビックリする。
0304世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:15:14.070
奈良時代の日本は、自発的に唐そのものと化した

奈良の古墳の壁画に描かれた人たちも、高句麗の壁画に描かれた人たちも、
唐の貴族の服装とあまりにも似ていて見分けがつかない
 
0305世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:23:22.590
現代の日本人の服装は、欧米そのものと化した

一度も強制されたことはないが
0306世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:40:31.250
服を変えるというのは相手のほうが強かったり文明的に優れていたりかっこいいと認めるということ
0307世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:42:09.470
>>287
でも日本にしろ中国にしろ、
近代ではすべてのジャンル(農業とか音楽とかすべて)で西欧に負けてるのはなぜか
0308世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:52:37.360
>>303-304
唐の文化は鮮卑の文化
0309世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 11:59:30.320
>>306
ヨーロッパ男性はギリシャ・ローマ文明の服装じゃなく
非文明なスキタイの服装を選んだ
0310世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 12:24:43.180
>>306
戦国七雄の武霊王が北方騎馬民族から胡服文化をパクったのは、
中華文明よりも異民族の文明が優れてかっこいいからなのか
0311世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 14:34:44.920
農耕民族の服より、騎馬民族の服のほうが機能的で動きやすいから、利便性で勝ち目なし

これは東洋と西洋を問わない、世界的な傾向
0312世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 14:36:34.920
>>307
電子工業など、手先の器用さが勝負の分野では完全に追い抜いた
0314世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 14:50:43.730
音楽・美術・文学・建築は、近代ヨーロッパの作品が世界共通の古典になった

あれに匹敵するようなものが、今後も出てくる気がしない
0315世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 14:51:33.640
アメリカでも東アジアでも、ヨーロッパのクラシック音楽を必死で練習して演奏している
0316世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 14:59:41.360
日本では、唐の雅楽がいまでも神社で普通に演奏されている。

神職の関係者は、烏帽子をかぶって笏を持った衣冠束帯という、唐朝様式のコスプレみたいな人たち。

建物も、唐の様式そのもの。

日本の神社には、タイムカプセルのように唐の文化が残っているので、中国人はビックリ。

仏教寺院より、神社にとくにそういう傾向が強い。
0317世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 15:07:02.870
>>316
ペルシャ・インドの音楽や踊りを唐がマネしたんだよ
0318世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 15:07:11.070
これに対して朝鮮は、明の文化に染まった。
明から清に代わっても、明の様式をガンコに守り続けた。
チマチョゴリも、明の女性衣装がベースになっている。

それ以前の古い文化がほとんど無いせいもあって、朝鮮の古い建築や伝統衣装は、基本的に明の様式。

このため、最近の中国では、「唐の文化を見たければ日本に行け。明の文化を見たければ韓国に行け」と言われている。

台湾はどうかというと、台湾には中華民国の文化が残っている。
0320世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 20:26:48.460
>>316
ペルシャやインドは烏帽子も笏も衣冠束帯もないが
唐の頃の日本の文化レベルは原始時代に毛が生えた程度なのだから唐のまるまるコピーになるのも無理はない
0321世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 21:01:39.790
だが平安時代に唐は消滅してしまった
日本国は今日までずっと存在し続けるのに
0322世界@名無史さん
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2017/10/08(日) 21:22:52.960
日本では、鎌倉幕府や江戸幕府の時代にも、京都では皇室と公家が脈々と続いていた。

おかげで、平安時代の貴族の文化が、幕末維新まで残った。






 
0323世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 07:18:06.370
唐から宋にかけての大きな変化に挙げられるのは、貨幣経済の進展だ。

唐の後期でも、農民が作物を換金して金銭納税するほどに貨幣経済が進展していた中国だが、
宋になると、宋銭が大量に発行され、貨幣の使用が極めて盛んになった。

宋銭の使用は、日本や東南アジア諸国・中央アジア諸国にまで広がった。
アジアでは、今の米ドルをもしのぐ基軸通貨であった。

鎌倉時代や室町時代の日本は、宋銭や明銭を大量に輸入して、自国で流通させていた。
日本からの輸出品を持って出航した船は、中国の銅銭を満載して持ち帰ってきた。
0324世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 07:19:18.320
唐代から飛銭と呼ばれる役所発行の手形が用いられていたが、北宋になると商人によって交子・会子と呼ばれる手形が使われるようになった。
特に銅銭に比べて重く銭価の低い鉄銭流通が強制された四川・陝西では、全国一律で同じ価値を持つ交子は他地域との交易には欠かせないものとなった。
交子は仁宗の頃から、会子は南宋になってから政府によって発行されるようになった。
これが世界で最初の紙幣である。
しかし、後に大量発行されてインフレーションが発生した。
0325世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 07:20:42.800
明では宝鈔という紙幣と銅銭を併用していた。
また、金銀を貨幣として利用することは禁止され、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じられた。
宝鈔は金銀と兌換できず価値は徐々に下落したために、銀が通貨として用いられるようになっていった。
金銀の貨幣利用を禁止していた政府も民間の流れに沿い、銀による納税を認めた。

清代は基本的に明代と同じような通貨政策がとられが、銅銭の普及が本格化し、各皇帝が良質な銅銭の普及に力を入れたため銅銭の信用が増し広く流通するようになり、銅銭の供給量が増えているにもかかわらず対銀レートが高騰する銭貴という状態になった。
0326世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 10:47:38.620
唐の貴族の服装は、日本の平安貴族の衣冠束帯と似てるっていうか、ほぼ同じ。
ただし、それは男性の正装、いまでいえばサラリーマンのスーツみたいなものに限った話だけど。

聖徳太子みたいな笏を手に持ってるのが特徴で、古代の東洋の神秘を感じさせる。
実際には笏は神秘的なものじゃなくて、儀式進行とかの備忘録が書きつけてあったらしいが。
 
0327世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/09(月) 10:57:40.480
中国の服装の基本には、「弁服」「長袍」「深衣」の3種類がある。
こうした三種類の服装に共通する特徴は、長衣がゆったりしていること、袖が大きいこと、直線の組み合わせによる構成。
生地がたっぷり使われているので、垂れ下がったり腰紐で東ねられたりすることで自然に作り出される美しい装いも大きな特徴である。
服の基本構造がシンプルだからこそ刺繍や別布で縁どりする、絹織物を羽織る、肩掛けをまとう、腰を飾るなど、着こなしが工夫された。
そして、袖や襟への縁どりやさまざまな刺繍は中国服飾の特色の一つとなり、その美しさを花咲かせたのである。
0328世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/09(月) 11:10:10.730
宋は漢人、遼は契丹人、金では満州人、元はモンゴル人、明は漢人、清は満州人と、支配者が変わるたびに、そこの民族衣装が主流になり、服装が激変した。

だから、時代劇を見ると、じつは時代背景が分かりやすい・・・はずなんだが、実際には金や元が舞台になってることは少ない。
 
0329世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 11:16:22.430
清はセコすぎるよな
中国のほうが遥かに上だからといって、
そちらの文化を破壊して自分に近づけるとは
0330世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 11:16:58.670
明の官僚は、外套みたいな長衣を着て、カラスの羽飾りみたいなものが左右についた烏沙帽をかぶっている。

胸には四角い刺繍があって、それを見れば文官・武官の区別や官位が分かったという。
0331世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/09(月) 11:20:22.300
朝鮮の両班の服装は、明の官僚そのものなので、明の服装を知るには韓国の時代劇を見るのが手っ取り早い。

ただし、ウソをウソと見抜けない人には、韓国の時代劇はオススメできないが・・・。
 
0332世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/09(月) 11:21:27.090
>>329

辮髪とチャイナドレスのない中国文化には、魅力が乏しい
0333世界@名無史さん
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2017/10/09(月) 11:24:05.180
清一代で中国は「昔すごかった国」にまで転落した
清は疫病神
0334世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/09(月) 12:02:06.490
やはり、明が中国文明の黄金期だったか?
0335世界@名無史さん
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2017/10/10(火) 18:56:59.670
>>320


唐の頃の日本はひらがなを発明できたが
唐王朝は表音文字を発明できず、
漢族が原始時代に作った象形文字だけに依存した
0336世界@名無史さん
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2017/10/10(火) 22:43:41.400
そうだな。

実際には、唐は鮮卑系の移民が建てた国。

文語はともかく、話し言葉ではアルタイ化が進んでいたはずで、表音文字がなければ不便だったはずだ。
0337世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/11(水) 00:35:15.810
道武帝の鮮卑語禁止令以後公の場で話されなくなって数百年たってるから
唐代になると誰もしゃべれない
だから遼や女真みたいに辞典もないので永久にナゾ
0338世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/11(水) 11:56:24.350
鮮卑語をしゃべらなくても、彼らのしゃべる中国語は、アルタイ系の影響を受けるはず。

中国語と違って「テニヲハ」がつくし、漢語でない語彙も多くなる。

表音文字があったほうが間違いなく便利。
0339世界@名無史さん
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2017/10/11(水) 20:02:30.860
ゲルマン人の大移動でドイツができたように、唐は鮮卑族の大移動でできた国
0340世界@名無史さん
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2017/10/11(水) 20:03:28.750
長安の人口のかなりの部分を、鮮卑とその子孫が占めていたはずだ
0341世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/11(水) 20:06:07.910
もともと、周や秦は、西の牧畜民族の国家が発展してできた王朝

長安の本質はそこにある
 
0342世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/11(水) 20:31:45.280
北京語は満州語なのか
0343世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/11(水) 20:41:13.290
「満州語」とまでは言い過ぎだが、長い清代を通じて、満州人の影響を受けて大きく変わったと言われている。
0344世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 06:18:16.780
朝鮮語も、昔は「テニヲハ」が少なく、今よりずっと中国語に近かったと考えられる。

今でも、たとえば、「日本の東芝」というのを、「日本東芝」というように、「の」を省略する傾向がある。
 
0345世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 06:19:50.850
関西弁にも、そういう傾向はある。

「目が痛い」を、「目ェ〜痛い」というように、助詞の省略が結構多い
 
0346世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 19:54:55.420
明は清に滅ばされたのではなく、李自成により滅ばされました。
清はその李自成を滅ぼしました。
李自成とその残党を滅ぼすことで正当性を主張し、殺された崇禎帝を祀ったり明の制度を活用するなどして明との継続性を示して安心させました。
逆らわない限りは寛容な方針でした。
少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を支配するためには、力で抑えつけることなどできず、漢民族の協力が必要だったのです。
0347世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 19:56:27.740
李自成が明を滅ぼしてくれたのは、清にとっては幸運だった。

正統王朝の明を滅ぼした逆賊・李自成を討つことによって、明の継承者になれた。

李自成には、足を向けて寝られない。
0348世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:01:49.430
唐は貴族

宋は士大夫

元はモンゴル人とトルコ人

明は郷紳

・・・と、中国の上流階級は移り変わっていった
0349世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:03:19.410
士大夫

宋代の支配者階級を形成した階層。その性格は、次の三つの面を併せ持っているとされている。

1. 政治的には科挙に合格して上級官僚となったもの。

2. 経済的には新興地主(形勢戸)であることが多い。

3. 文化的には儒教的教養を身につけた「読書人」。

なお、宋代の士大夫は、明清では郷紳と言われるようになる。
0350世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:04:28.930
宋学の主体は誰であるか。
それは「士大夫」にほかならない。
宋学とは、士大夫の学なのであり、士大夫の思想なのである。

士大夫とは何か。

唐代、科挙制度の確立とともにおこり、宋代にいたって確乎不動の勢力となったところの独特の支配階級である。
経済的には地主であることを例としたが、しかし、それは必ずも必須の条件ではない。

士大夫の特徴は、なによりもまず、知識階級である点に、いいかえれば、儒教経典の教養の保持者たる点に、すなわち「読書人」たる点に求められる。
いま少し周到にいえば、その儒教的教養(それは同時に道徳能力をも意味する)のゆえに、その十全なあり方としては科挙を通過して為政者(官僚)となるべき者と期待されるように、そのような人々の階級である。

<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.14>
0351世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:04:53.840
また、宋代の美術の主流となった文人画を支えたのも、士大夫であった。
右図では、風雅な読書人、文人としての士大夫の生活の理想が描かれている。
0352世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:05:33.130
次の征服王朝である元の時代になると、科挙が停止されたこともあったため、士大夫層は没落した。

かわって明代に農業生産力の向上に伴って成長した地主層が科挙の合格者としての地位もしめるようになり、彼らは郷紳といわれるようになる
0353世界@名無史さん
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2017/10/12(木) 20:07:12.510
郷紳(きょうしん)

明、清時代に農村における地主で豊かな財力を持ち、地域での名望家として力を持っていた人を言う。
多くは科挙の合格者として官途につき、引退後は故郷に隠棲した人であり、知識人としても活動し、読書人とも言われ明の文化を担う存在であった。

宋代の士大夫に相当する。
イギリスのジェントリーにも郷紳の訳語をあてるが、たしかににかよった存在である。

明から清にかけて、地方の社会の支配階層となり、また小作農からの小作料で生活していたので、しばしば抗租運動の襲撃の対象となった。
0354世界@名無史さん
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2017/10/12(木) 20:09:28.810
郷紳とは読んで字の如く、在郷の搢紳(しんしん)、すなわち地方在住の知識階級にして官位を持ち、同時に大地主、又は資産家を兼ねたものであるが、この階層が社会に及ぼす作用は三つの面に要約することができる。
 
第一は郷曲に武断することであり、これは土地の弱小民衆の上に権力又は財力を以て影響を及ぼし、意のままに動かす作用を言う。
ここで注意しなければならぬのは、この作用は必ずしも常に地方民衆を抑圧するとは限らず、時には民衆の希望を代弁する場合もあったのである。
 
第二は官政を把握することであり、郷紳はその実力によって、地方官庁の政治に圧力を加え、政治方針に干渉したり、その実施に異議を唱えたりすることであった。
これもその結果がいつも害毒を地方に流すとばかりは限ったわけではない。ずいぶん、弱きを助け強気を挫くといった義侠的な行動もあった。
 
第三には更に進んで遥執朝炳、遠方に居ながら中央政府の方針を動かすに至るが、これはどんなことであろうか。
このことばは、先には東林の際に(顧憲成に)、後には復社の張溥(ちょうふ)の場合にも用いられている。

<宮崎市定『中国史の名君と宰相』2011 中公文庫 p.224-225 読みやすいように改行した。>
0355世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:12:21.340
郷紳、それは、古代の豪族と、近世の科挙官僚を兼ねるような地方の有力者だった。

インドのマハラジャ、日本や西欧の封建領主みたいなものだ (ちょっと違うが)。

やがて、清末民国初の激動期には、彼らが中国社会を動かしていく。
 
0356世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:17:46.570
明代ともなると、農業生産力の向上に伴い、地主のパワーが極めて強くなった。
その結果、地主は地方の権力者となった。
ついでに、科挙官僚も彼らが占めた。

それに比べて、宋の士大夫は、地主が多かったとはいうものの、「文人」、「科挙官僚」という側面がより強かった。

宋を高く評価する人が多い理由が、ここにある。
0357世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:21:34.120
周王朝だろ
それ以後の歴史は学ぶ価値無し
0358世界@名無史さん
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2017/10/12(木) 20:54:17.050
いや、中国の最盛期は明王朝
0359世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/12(木) 20:55:11.030
それ以前の歴史も、明へと至るプロセスとしては学ぶ価値がある
0360世界@名無史さん
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2017/10/12(木) 22:50:03.260
>>339
移動するも何もドイツがゲルマン人の故地だが
>>340
鮮卑族のほとんどは六鎮で防人やらされてただろ
暴走した武川鎮は内陸部に入って来たけど他は脱走するかそのままずっと防人
0361世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 03:06:45.570
郷紳(きょうしん、満州語:tesu ba i sula hafan)とは、1911年までの君主制下の中国の地方社会で、社会的・文化的地位を有する人を指す。紳士・士紳・縉紳ともいう。

一般的に科挙で得られる肩書き(生員以上)を持っている人を指す。
郷紳は君主制中国の地方社会において大きな役割を果たした。
官員と民衆とのパイプ役として、一方では官員の地方統治に協力し、また一方では官員に対して民衆の意見を代弁する役割を果たした。

しかしその地位を利用し、中間の利益を得て、郷里の民衆を食い物にしていた「劣紳」も少なからず存在していた。
郷紳は、科挙が廃止された後の中華民国でも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。
0362世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 03:08:01.730
ジェントリ(gentry)は、イギリスにおける下級地主層の総称。郷紳(きょうしん)と訳される。
貴族階級である男爵の下に位置し、正式には貴族に含まれないものの、貴族とともに上流階級を構成する。
貴族とジェントリの間には称号(及び貴族院議員資格)以外の特権的な差異はなく、一つの「地主貴族層」として扱われた。
ジェントリは治安判事など地方行政職を無給で引き受け、地方の行政機構の一翼を担うとともに、中央官職へ人材を供給した。
家柄や所領規模に応じて、バロネット、ナイト、エスクワイアに分類される。
0363世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 03:13:31.920
明清は、郷紳の時代。

イギリスのジェントリと同様、地方の地主貴族(そういうのを豪族というんじゃないかと思うが)で、
官僚になる者が多く、教養があってノブレス・オブリージュを自覚していた。

地方で大きな勢力を持っていた。

イギリスも中国も、大陸欧州ほど貴族階級が育たなかったので、そういう連中が代役を務めたということだろう。
0364世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/14(土) 03:15:31.410
それだけ、明清では農業生産力が向上して余剰が発生し、地方が大きな力を蓄えたことを意味する。 
0365世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 21:58:07.720
>>363
清は、女真族による植民地時代だろ
アヘンに法外な関税を掛けて政府が専売していた
0366世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 22:03:41.830
そこへ、お前たちだけズルいぞと、紳士の国が乱入

はれてシナ人たちは、良心価格でアヘンを購入出来るようになった
0367世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 22:55:29.990
安史の乱で、中国は終わった
0368世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 22:59:46.780
唐は、滅びた先住民による失われた旧文明
0369世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 23:01:10.520
宋はトルコ系王朝
0370世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 23:02:10.560
明も、漢族王朝だったのは最初だけ

永楽帝からはモンゴル系王朝
0371世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 13:03:19.180
本来、中華とは河南省のことだ
0372世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 13:04:39.760
河南省だけが中華と呼ぶに値する
0373世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 13:12:26.620
春秋の鄭・宋・衛・陳

このあたりが中華
0374世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 13:13:47.090
中原情勢の推移

B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年   鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月  鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月  衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月  邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年    宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋   宋が長葛を占領
B.C.716年7月   宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春    斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月   宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。
0375世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 13:15:50.730
↑ こんな調子が延々と何百年も続く
0376世界@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 16:23:34.540
春秋時代は、一応朝廷と諸侯の秩序があって
日本の中世(平安末期〜戦国)に近いんだよ
それ以後ぐちゃぐちゃに成る
0377世界@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:44:10.930
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

5DBUP
0379世界@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 12:39:48.790
友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

NRY
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