大陸でモンゴル軍を食い止める方法教えて下さい。 [転載禁止]©2ch.net
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モンゴルの弓騎兵に対抗するのに、
ヨーロッパはどう立ち回れば勝てたのかな?
詳しい人教えて下さいな。 退却する弓騎兵を追撃しない
重槍騎兵が待ち伏せしている 馬の食糧が無くなればモンゴル騎馬軍団はそれ以上進めない。
国民総出で草むしり大作戦を敢行だよ。 どの道モンゴルはワールシュタットの戦いのあと、ヨーロッパは森しかないと思ってそれ以上侵攻しなかったんだけどな。
原生林に手をつけないのが一番有効なんじゃないかな。 2chの厨が大勢居ればモンゴル人が好みそうな大草原ができる _, ._
( ・ω・) これでモンゴル軍も来なくなるぞ
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、、、、し 、、、(((.@)wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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w、、、、、、、、 し 、、、(((.@)wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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(・ω・ ) !?
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wwwwww、、、、、、し 、、、(((.@)wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 楠正成や真田親子が当時の白人だったら、水堀、ダミー人形、火攻めかな? 火牛のオリジナルは田単で、宋代の文献にも動物による放火は出て来るのですが、
それで止められたかというと。 鎌倉武士団が三別抄に援軍送っていたらどうなっていただろうか? F1ベルギーGPを見た事がある人なら分かると思うが、サーキットがあるスパはアルデンヌの森の中にある。
このアルデンヌの森はWWUの時にナチスドイツがマジノ線を迂回してフランス侵攻したルートであり、当時のフランスはアルデンヌからまさか攻めてくるのは想定の範囲外でたちまちパリは陥落した。
中世ヨーロッパはアルデンヌの森のような森林ばかりで、モンゴルはそこになんの価値も見出さず、ヨーロッパには深入りしなかった。 アルデンヌの森まで侵攻したことはない。
ヨーロッパに勝てないので勝手に撤退していった。 最強46センチ砲を搭載した戦艦大和は無敵だったか?
米の飛行機大群の猛攻に太刀打ちできずあえなく沈没した もしオゴタイが史実より十年くらい長生きしてたらどうなってたろう オゴタイが史実より十年くらい前に死んでいたらどうなってたろう
と同じで意味がない。 史実と違うシミュレーション結果を出せるなら意味はある。
オゴタイが史実より10年早く死んでたら東欧諸国は健在だったろうし、
10年遅く死んでたらポーランドは勿論、神聖ローマもヤバかった。 >>40
1240年には「神聖ローマ帝国」はないけどな
フリードリヒ2世と教皇との対立がどうなるかは見ものではある 金は中国北部に本拠地を移してから
満州は手薄になるわ兵は弱体化するわ挙句の果てには
南宋に侵攻して成人男子の多くを失うわでどうしようもない
北宋と金が遊牧民を共通の敵として同盟関係を結べればよかったのだが
北宋が燕雲十六州を取り戻し
金に対して遼に払っていたよりちょっと多い金額を支払うとかなら良かったのに
遊牧民を抑えるための必要経費と思えば別に腹も立たないだろ 欧州救出のカギは低地諸国にあり
奴らが強いのは馬の機動力が及ぶ範囲までなのは日本やベトナムの例でも明らか
堤防決壊させて一網打尽にしたれ モンゴルに支配された地域は例外なく衰退してるってのが 界濠ってショボすぎ
モンゴルより千年以上前の戦国時代だって
匈奴に備えて各国は長城を築いていたというのに ユーラシアで騎馬民族に支配されなかった地域って日本とイギリスとあとどこだ 東南アジアあたりか?
欧州もフン以外は結構防いでるよな ゲルマン自体を騎馬民族の侵略ととらえなければ 東南アジアでは、フィリピンだね。
あとインドやエジプトのマムルーク朝もモンゴルを撃退してるね。 夏将軍(暑い気候)がーってよくいわれるけど、単にモンゴル本国から遠すぎたからってのもあるでしょ 中国で最初に火薬兵器を本格運用したのは呉越建国者の銭鏐だしな >>50
アラビア半島や北アフリカ(ベルベル人、ベドウインなど)なんかにも遊牧民はいる
「遊牧民は暑さに弱い」 は誤りじゃないのか? 馬でもラクダでもトナカイでも遊牧民でひとくくりにするのが悪い
馬に乗って襲い掛かってくる連中は騎馬民族と呼ぶべき ないね。
機動力は全ての戦闘力に勝る。
その上彼らは自然界の中において馬とコミュニケーションを取る。
長年の遺伝子が本能で走力をコントロールする。
動物としても機械としても強い。
自動二輪と武闘家が戦って武闘家が勝てると思うか。 騎馬民族ってきちんと定義して使ってないのか?
遊牧ってわりと新しい生活スタイルだぞ、分かってないのがいるようだが >遊牧ってわりと新しい生活
は? 人類の全職業うちで古い方から1%に確実に入る
遊牧なめんな >>53
洛陽の唐皇帝を傀儡にして
朱全忠が大梁覇王とか名乗って会盟を主催して遊牧民との戦いを指揮すればよい 遊牧と農耕って同時期くらいに始まってるから人類のライフスタイルとしては相当古いよ 最近の研究だと騎馬遊牧民の発生は前9世紀頃まで落ちるとされている
かつては農耕以前からあったと言われていたんだが >>62の言う通り、遊牧文化は農耕文化より起源がかなり新しいと言われるのが最近の主流
単なる牧畜と遊牧は別な >>64
先史時代の壁画に既に騎乗する人の絵があったりするから
前9世紀とか言うのはさすがにさすがに
それBC9000を前9世紀と読み違えてない?
BC9000は前90世紀だしさ 前9世紀だよ
情報源は『スキタイと匈奴 遊牧の文明』。 それは、遊牧じゃなくて騎馬遊牧民の社会システムと生活スタイルの確立でしょ
所謂今に続くモンゴル高原周辺の形が出来たのはその頃でもおかしくはない
遊牧生活そのものは前85世紀頃にカフカースの辺りで遊牧社会が成立して以降ずっとあるよ モンゴル帝国が北遊牧民の強さを世界史に深く刻んでくれてよかったよね 中国にとっては
大国のくせに北の蛮族に何度も蹂躙された雑魚って評価も
その蛮族が大活躍してくれたから、かなり薄らいでるよね 日帝が侵略してくれたので発展できた。良かったねレイプされて。 >>67
なんか中国のサイトで西周を攻略した犬戎がどうみても騎馬民族に描かれてる絵があったな
あの時代は遊牧蛮族もチャリオットで戦ってたってのが定説じゃなかったのか
スキタイとコネクションがあったらもしかして騎馬民だったか 日本もGHQにレイプされて発展できた。
レイプ最高。 GHQのせいで日本の発展が遅れたのに何寝言言ってんだ >>73
戦前の経済成長のラインにやっと回帰できたのって70年代なんすけど
GHQは経済成長を遅くさせた元凶 >>75
GHQのせいなのか、はたまた敗戦のせいなのか 敗戦だけならまだしも、マッカーサーは日本の国家予算から使途不明金盛大に搾り出して
どっかに持ってった、ってところまでは事実だからな >>61
あと、武器職人や墨家やフス派のような集団が
各国を渡り歩けるような感じが理想 >>73みたいな頭の悪い煽りに煽られて
脱線するのも情けない話だな 苦労したんだぜ、大日本帝国を崩壊させてGHQにおいでを願うには モンゴル軍って虐殺と強姦以外何の文化もない連中だな
そんな奴らにやられるとは情けない
しかしいずれまたこういう蛮族が天下をとる時代が来るのかもしれん ロシアのコサック軍だって蛮族みたいなもんだったがな 五代十国はすぐに北半分が統一されたのがよくなかったのか 燕が河朔三鎮を瞬時に統一する&
後百済に追い出された後高句麗軍が渤海に合流して契丹を北に追い返す
それで華北が晋や契丹に統一される流れを防げる→
分裂の恒常化 モンゴル軍って条件特化した軍隊だから不利な地勢に誘引できれば潰すのは難しくない。
後退の自由を奪っておいて重装兵で叩き潰すとか。 紀元前9世紀になるとキンメリアが登場しており、
遊牧民は組織化した軍事力を行使するようになっている。
騎乗発生は少なくともキンメリアが勢力を形成するより1世紀ぐらいは前だろう。 オクシデントでキンメリアがでたころ、オリエントでは
殷や周時代に中原を脅かしてた北狄や西戎といった遊牧民は騎乗してなかったのだろうか
鬼方や犬戎といった 国力が充実したり、名将が出たところでその時期が終われば
北方民族からの略奪は激しくなるのだから
新兵器が出ない限りは永久に問題は解決しない 馬が嫌いな臭いってあるだろ
牧場とかで柵に塗っている忌避剤みたいな。
その時代で手に入れられる材料で開発して大量生産。
モンゴル騎馬軍団の予想進撃路にばらまく。 >>96
防寒対策さえしている軍隊なら
冬の方が河川が凍結して進軍しやすいという土地柄だからなw 宋はあれだけ北方民族と戦ってたのに火薬兵器を改良しようと思わなかったのか
火薬以外に兵器はあり得たのだろうか(弩とか) 宋の技術力では改良してもたいした発展はしないだろう。 >>101
連弩なら少なくとも秦代から使われてるんだが >>89
モンゴル軍の強さの秘密の一つに斥候偵察と情報収集力にある。
地形を味方にしようと思っても、
モンゴル側の方がすでに地形を把握しているため、
こちら側の思惑通りに罠にはまってくれない。 やっぱり宋は統一王朝だから兵器の技術が進歩しないんじゃないの
明だってモンゴルと戦うときに銃火器をポルトガルから輸入してたしな 日本に援軍を乞えば?
鎌倉幕府はあっさり粉砕したんだし 同じような立場のアラブ・イランや東ローマと兵器の技術を交換するというのはどうか
ソグド人を仲介とする。 >>105
日本の将軍も大陸で戦えば瞬殺されたろうな 欧州まで大ハーン攻め上がったんだろ?
ドラキュラの人がアレしたらしいが恐ろしいわ 平家を破った屈強の鎌倉坂東武者騎馬隊をもってしても瞬殺だったかね? 源氏でもクリカラ峠の火牛作戦で有名な木曽義仲軍も強かった
木曽武者=野蛮とされていて、平家物語中でも大陸の北方蛮族軍のような立ち位置だった リトアニア人ラトビア人兵士を前線に出す
一言でいうならバルト語族の兵士 モンゴル帝国の強さ
・巧みに降伏させる戦略 ・商人を使った情報収集力 ・遠征の得意な騎馬兵。
局地戦でモンゴル軍に勝ってた者も、最終的に周囲の圧迫され味方が裏切るとか
政治的に負けてる(※豚飼いイヴァイロとか)
最終的に圧勝と言える例は、日本の他は、バイバルスのマムルーク朝くらいか
元寇の場合、日本が戦略的にも、戦闘でも圧倒的有利だった
・まず周囲から落とし、圧迫し降伏させようにも、日本は荒海の向こう
・得意の情報収集も、半島・中国経由のダメ情報で
・荒海を越えて騎馬兵は送れないし、
船旅で疲れた歩兵を数万送れば、騎馬の鎧武者が数万でお迎え、これはどうしようもない
※イヴァイロ(豚飼い→第2次ブルガリア帝国皇帝)
モンゴル帝国・ビザンツ帝国の両軍相手に、農民集団率いて勝利し
そのままいけば、VSモンゴル帝国の最優秀賞候補だったが、クーデター起こされた 高麗だって一度や二度はモンゴルに勝っている
波状攻撃にはどんなんでも耐えられない >>113
ジャワ
北インド
もモンゴルに勝っている
というかチンギス以降のモンゴル軍なんて
美化されてるけど雑多な民族の寄せ集めだからな インドのハルジー朝は、モンゴル相手にかなり苦戦しただろ・・・
あと、ジャワ侵攻は、簡単に制圧成功した上で、味方の裏切りで追い出されたし
撤退の際に、地図や重要人物などの膨大な戦利品を持ち帰ったし
結局、マジャパヒト国が元に朝貢にしてるしね・・・ 苦戦したがモンゴルは退却した
ポーランドも最終的にはモンゴルを退けたし
ミャンマーの勢力もモンゴルを退けた
Second Mongol invasion of Burma
https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Mongol_invasion_of_Burma ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。 チンギスハンは源義経だから
ニッポン凄いってFAやけどな
どうやったら奥州から大陸へ逃げられたのか・・・世界的ミステリー >>115
そのインドはのちにムガール帝国なる名の国に支配されるとは何たる皮肉なんだよw 秀吉の朝鮮出兵みたいに
戦闘で勝ちを重ね、作戦目標を達成するも
戦略目標が不明になって撤退した場合、勝敗をどう判断するかだな
モンゴル帝国に文句なしに勝ち、と言えるのは日本とマムルーク朝で
陳朝は現実的判断
× パガン朝 戦象で立ち向かうも負け首都陥落、属国化
○? 陳朝 戦闘で勝っておいて、元に臣従
△ ハルジー朝 デリー包囲され拠点移すが、突然撤退してくれた 明時代の中国人は、
火器を外国から買ってることに疑問を感じなかったのだろうか >>1
カルピニによると、モンゴルはクロスボウを恐れていたそうだぞ
だからクロスボウを活かした戦いを、つまり強固な陣地を築いてそれに拠って戦うのが良いかと
優れたクロスボウの射手として有名なジェノヴァ人を大量に雇うとなお良しか
そして、挑発に乗ったり、下手に追撃したりしないこと >>126
だから中国で弩と火薬兵器を並行して発達させるのがいいかと >>111
中華太古の有名な奇策が有効とか、どれほど遅れてたんだよ ミャンマーのパガン王朝は、元に負けて属国になったよ>>123 ウラジミルはモンゴル軍を撃退したけど臣従している。 シチ川の戦い:モンゴル帝国の勝利
戦闘の経緯 より
> ウラジーミル・スーズダリ軍は包囲され、ほぼ全員が死ぬか捕虜となった。
> 大公ユーリーは戦死し、首はモンゴル征西軍の総司令官・バトゥの元へ送られた。
結果 より
> シチ川での敗北は、ウラジーミル大公国の、モンゴルの侵攻に対する抵抗を無力化させた[2]。
> ウラジーミル大公国はモンゴル帝国へ従属することが決まった。
ルーシ侵攻については、モンゴル帝国の圧勝だが
疫病や、オゴタイ・ハン没後の大ハン選出などで軍が撤退する例はある モンゴル軍から撤退のウサ晴らしに
病人の死体を投げ込まれて
B兵器の恐ろしさを知る前に撃退できませんか? むしろ、中国・イスラムの技術(火薬・投石器)を取入れ、騎兵戦術と組合せるのがモンゴル帝国の強み 金は末期に大兵力で南宋を攻撃して失敗し、
大損害を出しているんだな
たぶんこれがモンゴルを抑えられなかったことに繋がっているはず 戦闘力は、農耕で発展したマオリ族>原始的狩猟のモリオリ族の例もあるが
モンゴル
狩猟から進化し、動物の群れの制御を覚えた遊牧民
毎日が訓練みたいなもので、弱者は脱落し
すぐ騎兵集団を編成し、移動が速い戦闘集団になる
女真族
農業は副業として主に奴隷にやらせ、騎馬集団で狩猟
戦闘民族にも様々なタイプがある
女真は、個人の戦闘力はあるが、全体の機動力ではなあ この時代の文明レベルって東高西低なんだな。
ポーランドに攻め込んだモンゴル軍なんて1万人しかいなかったのに
まるで歯が立たない。
その10倍以上のモンゴル軍に圧勝した日本から見ると雑魚すぎて・・・ >10倍以上のモンゴル軍に圧勝した日本
厨房は巣へ帰れw 戦闘民族としては、狩猟主体で奴隷に農耕させる、女真族が最強クラス
ただモンゴルの遊牧民は、移動力に優れ、交易も盛んで情報力もあったから
政治力も含めた総合的には
モンゴル・南宋の連合軍により、女真族はモンゴルに服属した >ポーランドに攻め込んだモンゴル軍なんて1万人しかいなかったのに
一般に言われているヘンリク軍4万VSバトゥ軍15万ってガセ? >>145
ガセに決まってるじゃん。
モンゴル帝国なんてチンギス死亡時には総兵力でも12万9000人だよ。
その中から3万人をホラズム・シャー国残党の掃討に派遣して、高麗にも兵を送り、
残った兵力を二分して一方は南宋へ侵攻し、もう片方が欧州遠征部隊。
その欧州遠征部隊が更に二つに分かれてハンガリーとポーランドで戦ったんだよ。
15万なんて数字になるわけがない。 もし仮に日本の鎌倉武士とモンゴル軍が中央アジアのオアシス地帯かどこかで
同数ぐらいの兵力でぶつかったらどちらが勝つだろ? 世界最高弓と世界最強近接ウエポンを装備しているんだぞ 日本刀で思い出したが、戚継光の対騎馬民族戦術はそれなりに効果があるだろうな。
なんだかんだ言ってかなりの名将が必要だけど。 >>147
源平合戦期の義経軍や鎌倉武士は強かったが、北条氏政権が確立して後は暫らくまともな戦がなく
なまってしまったと思われ >>148
「モンゴル」は平原ではなく丘陵地帯なのに? >>154
日本も集団戦術あるけど何言うてんですかね >>152
鎌倉武士はなまってたのにモンゴル軍に圧勝したのか >>1
ライフル銃で銃撃
エンフィールド銃を装備した赤服部隊なら、500人で5万のモンゴル軍を一方的に虐殺できる >>75
50年代にはもう回復してたぞ。70年代はイギリスやソ連抜いて世界2位だ
マッカーサー最強 >>141
マッカーサー相手にはキルレシオ20で惨敗の連続だけどな >>75
どこの異次元世界で育ったの?
そもそも戦前の経済力なんて元々大したことなかったし
「もはや戦後ではない」は昭和31年のことだ
所得倍増計画がブチ上げられて高度成長時代が始まったのが昭和35年からで
昭和39年に東京オリンピックと東海道新幹線開業
昭和44年に東名・名神高速道路全通
昭和45年に大阪万博
そして昭和48年に第一次オイルショックで高度成長時代終了
君は「戦前の経済成長のラインにやっと回帰できたのって70年代」と言ってるが
戦前の日本に東名・名神高速道路を建設するほどの能力と自動車需要があったとでも?
オリンピックと万博だって戦前には頓挫して開催できなかったし 泥濘期のロシアで苦戦したように、騎兵部隊は足元の地盤が緩いと戦えない。 馬はラクダのにおいを嫌がると言うが、なんでアッバース朝はモンゴルにあっさり負けたんだろうな。
モンゴルはラクダ対策をしていたのかな。 アッバース朝はモンゴルとの戦いの時点で2万程度の軍勢しか用意できないザコになってたから
ブワイフやセルジュークに生かされてただけの過去の残滓がモンゴルに敵うわけない 実はモンゴル軍より冒頓時代の匈奴軍のほうが勝率高かったろ? 質問がおかしいよな、ホラズム朝とでもしとけばよかったんだ
それは置いといて、チンギス軍は軍団編成のなかでラクダを組み込んでたよ
騎兵に合図を送る太鼓奏者が、高いところから打音を伝達できるようラクダに騎乗させていた アッティラ軍のほうが相対的に強かったから彼らは西欧まで侵入できた
モンゴルは東欧止まり アッティラ軍はゴートやゲピードなどの地元兵が主力。
ガリアやイタリアの地理に明るい。
バトゥ軍はチュルク兵が主力で西欧に土地勘が無い。 >>173
結果論だな。西欧まで攻め入っていれば西欧人を進軍の先払いに利用してたわけで。 そういや、モンゴル軍の中にイギリス人もいたらしいしなw >>1
史実で撤退していったんだから。
考える必要も無い。 >>1
まず、モンゴル人に自分の食った皿を
洗わせる習慣をつけさせることだね。
奴等は水のない地域に住んでるせいか
先祖代々、食器洗う習慣が無い。
周知の通り、舐めて洗う。
しかも、その食器もすべて中国製である。
剣も中国製である。
ゲルも考案したのは、恐らく中国人であろう。
これで、どれだけモンゴルが非文明的な野蛮な民だということが
おわかりだろうか。
元だ?何だそれ?ッて感じだ(笑) >>173
アッティラの時代と13世紀のモンゴル軍では情報伝達スピードは特に変わってなかったのかな >>165
同じことが象でも言えるな
初めて象を見た馬は怯えて戦場で使い物にならないらしいが、
馴らしておけば怯えることもなくまともに戦えたようだ
カエサルがヌミディアのユバ王と戦う前にあらかじめ象を入手して、
馬を象の匂いになれさせたとある
モンゴルの場合もラクダの入手は容易だっただろうし、
普段から一緒に飼っておけば怯えて馬が動かないということもないから
存分に戦えたのだろう エフタル(白匈奴)のミヒラクラ王のインド侵攻を食い止めたのもグプタ朝のヤショーダルマン王の象軍団だったな 馬防作作って鉄砲三段構えでモンゴル軍に余裕で勝てる エフタルは悦般が変化したんだっけか
インドに行ったら戦術を変えなきゃだめだな
炎暑多湿だと寒冷乾燥より騎兵のアドバンテージは低くなる 中国は孔子のせいでヨーロッパのように文明を進化させるチャンスを失ってしまった
たしかに儒教は封建社会での統治には有利だが、先人至上主義のせいで技術の革新を妨げる要因でしかない
イスラム教とかも似たようなもので、時代は2016なのにムハンマドの時代が黄金時代であったとかほざいてやがる
孔子ではなく墨子の説が受け入れられていたら、中国で1000年以上前に産業革命が起こってもおかしくなかった
儒教の教えを受け入れた民族や国には進化する可能性が永遠に失われる
金や宋がモンゴルに食われたのは儒教政権の必然的宿命であり、儒教型統治を施した元もあっさりと滅んでしまった 当時の人口比較
遼 1000-1500万
北宋 約1億
日本 約1000万
金 約5000万
南宋 約6000万
モンゴル 数十万
ホラズム 日本より少ない(数百万〜1000万以下)
国力だけで言えばモンゴルに勝ち目はなかったが
モンゴルはカリスマ性のあるリーダーがいるのに対し
金も南宋も儒教政権の末期でいつ崩壊してもおかしくなかった
それでもチンギスが生きている間は南宋どころか金すら倒すことが出来なかった
金も少しはまともなリーダーなら立て直すチャンスはいくらでもあったが内部があまりにも腐りかけていて自分からゆっくる崩壊していきトドメを刺したのがモンゴル
南宋は金以上に腐っていたがモンゴル侵攻開始から40年以上持ちこたえたがこれも内部崩壊が原因で滅んだに近い
ホラズムは元から兵力でモンゴルに劣っていた上に分散戦法であっという間に滅んだけど ロシアの泥濘状態の大平原がモンゴルが一番苦戦した戦い。 生まれてこのかた海なんか見たことも無い蒙古兵は海戦でもっと苦戦しそうだが >>185
まず後梁時代で分裂状態を固定する
これで武器は進歩する >孔子ではなく墨子の説が受け入れられていたら、中国で1000年以上前に産業革命が起こってもおかしくなかった
墨子は自ら身体を動かし、率先して自ら実践することで弟子を教育した。
孔子は基本的に机の上で弟子たちを教育した。
骨の折れるやり方の墨子が中国人に受けるわけがない。 >>185
モンゴル支配下の中華は結構自由だったみたいだぞ
彼らは儒教に大した価値を認めなかったから
モンゴル時代こそ、中華が儒教の車厄から脱する好機だったと思うわ
14世紀が天災続きでなければ、朱元璋みたいなサイコパスによって儒教を超絶重んじる世に逆戻りすることもなかったろうなと 天災続きを言い訳にするんじゃなくてさ、そもそも人モノ金が動き回る社会をコントロールするのって大変なんだぜ?
元は経済的に自由度が高かったとはいえ、あの時代には長期に渡ってそれを維持できるだけのシステムを構築できなかったんだよ
朱元璋がやったのは農本主義的復古だけど、暴れ馬をとにかく鎮めるって意味では時宜に適った政策だった 馬が使えない所で戦えばいいだけ
山や森や狭い路地におびき入れてゲリラ戦で戦う 実際湿地だらけのベトナムでは散々に蹴散らされたらしいし。 >>195-196
"大陸でモンゴル軍を食い止める方法"とタイトルにあるから平地での戦いを想定しているのでは? 純歩兵部隊を率いて野戦で遊牧騎馬軍団に抵抗し続けるとかいう神業をしまくった事例といえば李陵の撤退戦だな 【ゲスウヨ悲報】 国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。 【サヨク朗報】
日本国民はどう対処すればいいのか。
新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
今日のように軍備や競合において資源を浪費することは終わります。今日、多くの国家が優先しているものの中に、戦争のための武器の製造が不気味な比重を占めています。
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
ファッシズム政権の終わりは、いつでも残酷な結末しかない。安倍晋三はどんな殺され方をするんだろう?
https://twitter.com/tokaia mada/status/605899171313246209
アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。
世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないでしょう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動(1種類の政治形態が世界中を支配する)をコントロールするのは、マイト レーヤの任務です。
6月15日(水)18時半から「『平和と人権を求める市民フォーラムおきなわ』−第一回 参議院議員 山本太郎と語る会」を中継します。
https://twitter.com/iwak amiyasumi/status/742702872270413824
史上初の世界演説は英国BBCが放送
それは非常にまもなくです。マイト レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。
この時、初めての本当の身分を明らかにされます。25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。 水堀を掘って藁人形と煮えたぎった糞尿を用意して、楠木正成勢を置いておく。 ジャワのラデン・ヴィジャヤはモンゴル軍の首脳陣を小屋に誘い込んで不意打ちした模様 インドネシアやベトナムが独立戦争で独立を勝ち取った素地はモンゴルを追い返した頃からあったのかな? エジプトもモンゴルを追い返したが独立は自力では無く
支配者のオスマン帝国が第一次大戦で勝手に滅びただけ エジプトはアッシリアやペルシャからの独立に際しても自ら戦って独立したというより
アッシリアやペルシャが崩壊して新たな支配者に恭順しただけだろ。 遊牧民は馬に乗れるのと弓扱いに慣れてるだけが取り柄で
白兵戦になったらフルボッコだからね
金を倒す時は襲撃しては撤退を数十年単位で繰り返し
南宋を倒す時は漢人使って中国式の軍隊作り上げてから征服した
モンゴル人自体はそれほど脅威的ではないみたい
やばいのはチンギスカーンという冷兵器史上最強の征服者 火器を知っている中国が、なぜ当初は火器を知らなかったモンゴルに勝てなかったのか。 マムルーク朝に撃退されたと見せて、そのマムルークのトップの座を
モンゴル人がゲットしていたな。 Al-Adil Kitbughaか。
かつてマムルーク軍団が戦ったモンゴルの将軍と同名だな。
それでもあっさりスルタンになれてしまう
マムルーク朝ってとことん実力主義集団だな。 >>215
そりゃ、チャイナだから。
この二十一世紀にも、畑のスイカから携帯電話から椅子から手術中の患者から走行中の自動車から発射台のロケットから外洋航行に出すタンカーまで
なんでも爆発してんだぜ。
近代工業の入ってない13世紀14世紀だろ、そりゃ、爆発して味方が死ぬわ。 >>43
歳費を使って、食料を買いって人口=兵員を増やし、武器を買って兵力を増強。 >>221
モンゴルも最初はチャイナっていうか女真族の金王朝にいじめられっぱなしだったんだよな
減丁っていう政策のもと、モンゴル人同士で殺し合いをさせられてた
まるで学級のボス猿にタイマンをはらされる底辺猿のように
100年近くいじめられ続けた鬱憤が溜りに溜まったせいか、モンゴル人の屠城に始まる残虐性の原因になったとかないとか >>223
そのモンゴルのもってきた「てつはう」にコテンパンにやられてしまう鎌倉御家人たち。
この頃は堺の鍛冶屋はまだ鎌倉方の味方ではなかったから、「おなじもの作れ」ができたのは270年くらい後。 >>224
鎌倉御家人たちがコテンパンにやられたなどという事実はないぞ。
鎌倉御家人にコテンパンにやられたのはモンゴル軍の方だからな。 >>225
台風が来なきゃあ侵略されてたでよ。
だから、公式に、鎌倉御家人衆によって退散ではなく、加持祈祷で台風が来て退散だから、恩賞は、寺社に厚く、武士に薄いじゃん。 >>226
台風が来るまで2ヶ月間も九州の武士団から逃げ回るのに精一杯だったモンゴル軍に
日本が征服できるわけないだろ。
文永の役でも弘安の役でもモンゴル軍は戦闘で御家人に全く歯が立たなかったじゃん。 >>227
ホラムズでもキエフでもバクダッドでも開封でも、基本、モンゴルの戦術はヒットアンドアウェイだから、逃げるのも最初から戦術に織り込んでるものだけれどねえ。 元寇のモンゴル軍なんて実質、高麗と南宋の寄せ集めだろ >>229
ジンギスカンの時分からモンゴル軍の兵員の大半は占領地から駆り出された人員。 とは言っても被征服民だけで軍を組織じゃ反乱しそうで危険だし
指揮官くらいはモンゴル人にしたんでないの? 指揮する人がモンゴル人なら、当然、戦略や基本戦術はモンゴル的なものになるだろ。
雑兵が高麗人・宋人でも、部隊の動きはモンゴル戦術のヒットアンドアウェイだな >>232
1万3500余人の犠牲者出しながら1日で逃げ帰った文永の役とかヒットアンドアウェイでも何でもないだろ。
単なる大惨敗。 >>233
下調べ、威圧が目的だし、死ぬのはどうせ冬季に餓死してしまう高麗棒子だから痛くも痒くもないし。 >>234
モンゴル帝国大カーンの娘を高麗国王に嫁入りさせて箔付けした文永の役の目的が
下調べ、威圧なわけないだろ。
帝国の威信を賭けて送り込んだ遠征軍が鎌倉武士に秒殺されただけ。
当然クビライの面子丸つぶれだわな。 ハーンの娘なんてオルドで作り放題だろ
高麗ごとき大した特別扱いでもない
メンツなんて気にするのは漢人の感覚
モンゴルは割に合わないと思ったらあっさり諦めることも多い >>235
嫁入りwwwww
空位監国として次皇選出のクリルタイを主宰しうる正后の産の腹ではないだろ。
遊牧政権らしく、クビライ皇帝の元には占領地や土豪の娘がワンサカ送られてきて、妾妻多数、皇子さま皇女様もウジャウジャ居て、各地の有力者との縁組をさせている。
そういう中の一人に、忠烈王も高麗の土侯への懐柔策としてところにもランクの低いお姫様が送られてきただけ。
それを正后腹の姫さんが降嫁してくるキュレゲン家格とゴッチャにするなよ。
ついでに、宋のラストエンペラー恭帝趙顕も、宋国滅亡でモンゴルに生け捕りにされた後、瀛国公に封じられてクビライ皇帝の娘をあてがわれているで。
瀛国公だから名目の領地は日本な。でもハンバリクで軟禁生活。 >>235
忠烈王の時代、高麗王室には分家が用意されていて名目的に瀋陽王という位が与えられていた。
がっつり支配するより、地元の名家でワンクッション置いて間接統治の方がうまくいくことが多いから、そのために、高麗で反乱でも起こったり跡継が途切れたり賢すぎたりバカすぎたりしたときには
同門分家の瀋陽王と差換える。
忠烈王はモンゴルから見ると頼りない土候でモンゴルに反抗的な臣下を抑え切れてるとは言い難い。下剋上はありそうだし、あっては面倒だから、予め高麗の地力を削っておく必要があった。
そこでモンゴルに見捨てられたくない忠烈王は、日本遠征を具申、遠征するからに戦奉行やら軍師やら騎馬兵やらが本国から送られてくるからとりあえず地位は安泰、モンゴルの見張りの下で、
高麗の国力を削るべく、船舶や食料の徴発に勤しむわけよ。 >>237
忠烈王はクビライの娘を嫁にしたおかげでキュレゲン家格だよ。
1294年のテムル・カーン即位式の席次は諸王駙馬の第七位。 >>239
もう元朝も末期、漢土放棄の衰退期じゃないか。
元寇とかやっていた意気盛んな時期では高麗なんてどうでもいいレベルの土司だったろ。 >>234
下調べ、威圧目的の遠征でその規模のものを送り込んだ事他にあったっけ?
さもなくば単なる失敗を下調べとか言い張ってるだけになってしまうが 北の元寇で元軍と渡り合った蝦夷、樺太アイヌ人こそ最強!!
ジャナイ...? >>240
1294年が衰退期とか適当なこと書いてんじゃねーぞ。
パクスモンゴリカの元朝最盛期はこの後だ。 モンゴルが西欧に進めなかった要因を見ればわかる。
内部で自給自足できる石造りの城塞都市を作って住めばいい。 A stake, a stake, my kingdom for a stake! 単に大遠征が帝位争いで終わったから西欧に行かなかっただけだろ
城砦とかの問題じゃないよ >>23
源平盛衰記中の屈指の蛮族・木曽義仲の火牛作戦も見てみたい
アジアの蛮族vs日本の蛮族って感じで 客に出すお椀が汚れてて、
御飯とおつゆの具の平茸が山盛で、
お公家さんに対して猫みたいに小食だの言ったり、
塩物でない生の平茸だと喜んだりで
ちょっとお行儀悪いだけだろ >>249
これによってシツ支単于はおごり高ぶるようになり、次第に康居王が礼を尽くさなくなったと感じると、
娶った康居王の娘や貴人、人民数百人を殺し、死体をバラバラにして都頼水(タラス川)に棄てた。(wiki)
とんでもない残虐さだな
匈奴(凶奴表記もあり)やフン=神の鞭なんて呼ばれた民族に相応しい モンゴル軍に編成されたトルコ人は能力的に同じそうだけど
漢人はどうだったんだろうね ブルガリアの豚飼いイヴァイロは
最終的に政治的圧迫で負けたが、戦闘ではどんな戦術で勝ち続けたんだっけ 「恟奴」=ビビり野郎、が語源とする説もあるな。
漢人のせめてもの憂さ晴らしなのかw 湿地帯とか苦戦しそう。実際泥濘期のロシアでは苦戦している。 騎馬民族の戦法はヒットアンドアウェイで
常に逃げ場を確保しつつ、機動力を活かして攻撃即離脱を繰り返す
機会あれば包囲や挟み撃ちの状況に持ち込んで大打撃を与え
略奪、講和、殲滅と目的に応じて恐怖を刻みつけつつ何度も攻撃し
敵に予想外の援軍が現れて不利になったらすぐ撤退する
戦闘も飛び道具や馬を活用した接近即離脱なども多く
勝ちにこだわらず当面の目標もあっさり変える
勇者(バアトル)とは結果としての勝利をもたらす指導者に与えられる称号か 騎馬民族の「勝利」は戦利品の獲得だから
勝ちも負けも農耕民とは違い過ぎる ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ ロシア人とモンゴル帝国元朝
ロシア(ルーシ)の諸公国と中国の初めての繋がりは、13世紀にさかのぼるものと推定できる。
現在の中国領土内におけるロシア人の存在について信頼できる最初の史料は14世紀のもので、
モンゴルによるルーシ諸国への侵攻に関連しており、ルーシ侵攻の結果として多くの虜囚たちが
モンゴル帝国の一角を成す元朝の中国へと連行されたのである。ロシアと中国の大地は、
長きにわたってたった一ヶ国の影響圏を構成する一部に過ぎなかった。その一ヶ国とは、
モンゴル帝国である。16世紀のイヴァン雷帝による治世の頃には、既に二つの使節団が
中央アジアとモンゴルを通過して中国へ行く経路を確保していた。シベリアにトボリスクを
建設した後、トボリスクの首長が極東にコサックを派遣した。ロシア人コサックや農民は、
ザバイカリエ(ザバイカル)地方と沿アムール地方に定住してアムール川沿いにオストログ
(防衛機能のある植民拠点)を建設し、その数あるオストログのうち最大規模であったのが、
アムール川左岸のアルバジンとシルカ川沿いのネルチンスクである。
『元史』によると、「至順」を元号に掲げた最初の年(1330年)に中国へ連行されたロシア人
虜囚たちが屯田兵として国境防衛と耕作の任に充てられた。元朝政府は、大都(北京)に
屯田兵を管理する特別機構を設置した。
大都(北京)で、ロシア人虜囚たちはハーンの親衛隊に入隊させられた。キプチャク人
(キプチャクすなわちポロヴツィ人)、アス人(アスすなわちアラン人)、ロシア人の連隊が
編成された。ハーン親衛隊のロシア人部隊は、「忠誠心に篤いロシア人連隊」を意味する
「宣忠斡羅思衛親軍」と称された。結成当初の部隊の人数について現存する史料では
確認できない。しかし、1331年の人数は明らかにされており、600人であったと記されている。
『元史』の1332年の条によると、ロシア人虜囚たちの到着が三度あったことが言及されており、
その人数は一度目が170人、二度目が2500人、三度目が30人の青壮年と103人の未成年で
あった。また、モンゴル人、キプチャク人、ロシア人の混成部隊の指揮官として、モンゴル人の
指揮官ボヤニ(Боянь)が任命された件についても言及されている。 後知恵ではあるが、オランダ人がやったように人工的に洪水を
起こして泥濘地帯を形成すればよかったろう(洪水線、ウォーターライン)
この泥沼からなる防衛線は浅すぎて船で渡ることはできない。
人や馬が通ることも出来ない。泥にはまって動けなくなる。
無理をおして渡ろうとするモンゴル兵が居たとしても、
もはや殆ど動きが取れない射的の的にすぎない。
クロスボウの練習台にはちょうどいい。 南宋は滅亡直前じゃなく、もっと早くから鎌倉幕府と連携して抵抗するべきだった
鎌倉武士を雇えばモンゴル騎兵に勝てるのに >>266
鎌倉武士がモンゴル騎兵に勝てる要素は
残念ながらひとつも無い。 >>267
現実に鎌倉武士はモンゴル騎兵に圧勝してるじゃん。
福岡平野で野戦やってボロ負けした忽敦が「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」
って泣き言言ったと史料に残ってる。 あんな狭い範囲と広大な大陸とじゃなあ…
しかも上陸戦だし 福岡平野ってワールシュタットの戦いとかモヒの戦いとかの戦場と比べるとかなり広い。
実際、文永の役でボロ負けしたモンゴル軍は日暮れまでに15キロくらいの距離を敗走してる。
モンゴル騎兵が鎌倉武士より軍事的に劣っていたのは確実だね。 まあ、博多をむざむざ焼かれた鎌倉武士の言い訳としてはこんなとこでいいか。 >>272
文永の役で博多が焼かれたなんてことを裏付ける史料は無いって知ってる? >>273
八幡愚童訓って知っている?
都合が悪いからといって存在する史料を無視するのは、
歴史を曲げる方法として安易に過ぎ、賢い方法ではない。 >>274
現地博多の筥崎宮に伝わる八幡大菩薩愚童訓には火災の原因がモンゴル軍ではなく
内部出火と明記してあるんだよね。
「去程ニ、其夜社檀之中ヨリ火出テ焼ニケルコソ悲ケレ」
「神功皇后海水ヲ揚ケ、文永ニハ猛火ヲ出シ、弘安ニハ大風ヲ吹テ異賊ヲ平ケ、
御在水火風之三災、刧未成テ共、出デ来ル事、神慮ニ任テ自在也」
博多の筥崎宮は文永11年だけじゃなくその前後の文永2年と弘安3年にも火災を起こしてる。
もともと内部出火が頻発してたわけよ。 >>275
筥崎宮に火災の歴史があったことと、元寇によっても焼失したことには何ら矛盾は無いよ。
東京下町で火災が頻発したことと、東京大空襲でも焼失したことに何ら矛盾が無いのと同じ事。
下町で火事がよくあったという話から、東京大空襲は無かったという結論を導く人間が居れば、
さすがに滑稽な話だと理解できるだろう。
当の筥崎宮が「文永11年(西暦1274)蒙古襲来により」社殿が焼けたと言っているね。
http://www.hakozakigu.or.jp/history/ >>276
いや、元寇によっては焼失してないだろ。
内部出火で焼失したと現地の史料に明記してあるんだから。
モンゴル軍と火災は無関係。 当人が言っていても断じて認めない。何故なら都合が悪いからwww >>278
は?
当人は内部出火と言ってるんだが。
「去程ニ、其夜社檀之中ヨリ火出テ焼ニケルコソ悲ケレ」
「神功皇后海水ヲ揚ケ、文永ニハ猛火ヲ出シ、弘安ニハ大風ヲ吹テ異賊ヲ平ケ、
御在水火風之三災、刧未成テ共、出デ来ル事、神慮ニ任テ自在也」
当人が内部出火と断言してるんだから出火原因はモンゴル軍じゃないだろ。 >>279は>>276を読み返すこと。理解できるまでねww 福岡市博物館「箱崎を考古学する」
http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/240/index02.html
(前略)この都市遺跡を調査していて、度々目にするものがあります。
それは、焼土や炭化物が厚く堆積した土層です。
文献史料によるとこの地は、文永2(1265)年に筥崎宮の神殿が火災のため
全焼しており、神宝もことごとく焼失してしまったと言われています。
また、その9年後の元寇(げんこう)、文永の役(1274年)では、戦火のため
筥崎宮一帯は焼け野原となり(後略) >>280
>>276に書いてあることは無意味だね。
なぜなら博多の街がモンゴル軍に焼かれたなどと証明する史料は存在しないから。
あるのは筥崎宮が内部出火で焼けた史料だけ。
>>281
残念ながらその火災はモンゴル軍と関係ない。
筥崎宮自身の史料に出火原因は内部出火と断言されてるからね。
モンゴル軍は赤坂で日本軍に撃退され、博多の街には指一本ふれることができなかった。
蒙古襲来絵詞
『武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く。』 >>282
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本
博多筥崎ヲ打捨テ多クノ大勢一日ノ軍ニ絶カネテ(堪えかねて)
落事何卜成スヘキソト恠(あやしみ)ノ民ニ至ル及(まで)、泣嘆カヌハ無リケリ
(中略)
逃ツル跡ヲ顧レハ、猛火ヲヒタゝシ(おびただし)雲へ上リテ >>283
その猛火の出火原因は筥崎宮の内部出火な。
「去程ニ、其夜社檀之中ヨリ火出テ焼ニケルコソ悲ケレ」
「神功皇后海水ヲ揚ケ、文永ニハ猛火ヲ出シ、弘安ニハ大風ヲ吹テ異賊ヲ平ケ、
御在水火風之三災、刧未成テ共、出デ来ル事、神慮ニ任テ自在也」 >>284
まあここらで出てきた内容いったん整理してみようかね。
【モンゴル軍による博多炎上があったとする見方】
@モンゴル軍の攻撃を防ぎきれず日本側の軍勢は博多を撤退し、
博多・筥崎方面は猛火に包まれたとする史料が存在する。
A筥崎宮は文永の蒙古襲来で社殿が焼失したと認識している。
B福岡市立博物館は現地の発掘も踏まえて、蒙古襲来により
筥崎宮一帯が焼け野原になった見方を肯定している。
【モンゴル軍による博多炎上がなかったとする見方】
@筥崎宮内部の出火と解釈できる部分から蒙古による放火は
なかったとする。
しかし町が燃えれば飛び火で宮の敷地内から火が広がる
こともあり得るし、モンゴル軍の侵入が間近に迫る恐怖で、
火の始末まで気が回らず火災になったとも解釈出来、
博多がモンゴルに蹂躙された事を否定する材料とはならない。 >>285
残念ながら博多がモンゴルに蹂躙された可能性はゼロだよ。
何故なら鎌倉時代の文献には、博多がモンゴルに蹂躙されたなどと書かれた物が一切ない。
当時から博多の街にあった聖福寺や承天寺、櫛田神社にも文永の役でモンゴルに蹂躙された
などという記録はない。
記録が一切無い以上、モンゴルが博多に指一本触れることができなかったことについては
議論の余地がない。
それは当然で、当時の史料でモンゴル軍は博多の手前の赤坂で武士に撃退されてるからね。
『蒙古襲来絵詞』詞書
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
その上、麁原に逃げたモンゴル軍も武士に蹴散らされている。
『福田文書』福田兼重申状写
「右、去年十月廿日異賊等龍衣(襲カ)渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、
令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、
兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」
史実のモンゴル軍は武士にボコられて逃げ回ってただけだよ。 >モンゴル軍は武士にボコられて逃げ回ってただけ
なんともはや、負け犬の遠吠えっぽいな 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
XUUTX 日本のパタリロ四条天皇が最高司令官だったら、川底につるつるに磨いた石板を並べ、蒙古の馬を転倒させ兵に矢を撃ちかけて全滅させ、ついでに自分も転んで後頭部を打ち付けて死亡だろうな。 チョン王が最高司令官だったら、女真族に命乞いして、蒙古の馬を転倒させ兵に矢を撃ちかけて全滅させ、ついでにチョン王も女真族に土下座してたろうな。 ハンガリーあたりにもモンゴル軍を大敗させた王様がいたような
案外弱いんじゃモンゴル軍 >>1
オゴタイが死んでモンゴルの西欧侵攻は止まった モンゴル軍の弱点
1.水に弱い
2.暑い土地に弱い
モンゴル軍への抜本的対策・・・地球温暖化 モンゴルは山岳戦にも慣れていないはずだよな。
でも千早城みたいなところにこもっても、無視して通り過ぎていきそうな気もするが。 >>306
どのレベルの山岳を想定してるか知らんが
チベットの山奥とかはジュンガール帝国が根城にしてたし
全然山岳苦手ではないよ 暑さも、思われてるほど苦手じゃないんじゃないか?
中央アジア、タクラマカン砂漠、タリム盆地なんかは、この時期などは熱帯地方よりはるかに暑い 単純な暑さだとそうなんだけど暑くて人口密集してる地域に行くと
マラリアと天然痘になっちゃうから… 遊牧民は乾燥した暑さはけっこう平気だよ
モンゴル高原だって夏は30〜35℃になる インドや中東や日本やベトナムやインドネシアでは負けてたねモンゴル軍
放牧というイメージがない土地ではモンゴル騎兵はダメなのか・・・ >>312
シリア、エジプトでは負けたんじゃなくて大ハーンの主催する大遠征が終わって
もう攻め込まなくなっただけ
モンゴル帝国は〇〇に負けたっていうのは大体、帝国外延部にあって
クリルタイによって帝国を挙げての大遠征をする前に内訌始まって
総力を結集した遠征が行われなくなったこと以外の理由が基本ない そのいっぽう、全力のモンゴルを撃退したインドのハルジーはすごすぎる。 食い止めるから、反抗するんだ。行軍を見送ればよい。 >>315
城門を固く閉めて取り敢えず行軍を見送った都市(城)は多い。
モンゴル軍も不必要な城攻めを強行しないで先に進軍していく。
こういった都市は後でゆっくりと攻め込んで皆殺しにする。 >>314
ずっと前、エフタル(白匈奴)も、インドに侵攻したが撃退されたな
ヤショーダルマンの戦い ハルジーの戦ったモンゴル軍が全力な訳ないだろ。
大カーンのいる元朝は地理的に遠征不可能だし、国境接してるカイドゥとイルハン朝は対立してて、
インド侵攻どころじゃない。
カイドゥが死んだ後はオゴデイ家とチャガタイ家の対立が始まるし。 >>301
国王が降伏勧告をけって国民見捨てて自分だけ逃げたせいで人口を2分の1にされてるんですけど インドに攻め込んだモンゴル軍の実数は、諸説あってよくわからんのだよな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴルのインド侵攻 でも、その後インドの地にムガール帝国なんて名前の国ができるんだから皮肉なもんだ 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
SSI 宋が火槍の技術をモンゴルに渡さなければよかった。
撤退するときは技術者を残さず連れて行く。
一方でヨーロッパや中東には技術者を派遣して
火器の制作方法を指導する。 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 馬がは入ってこれないようにすれば、モンゴルは止めらるよ。 >>307 >>326
国境に馬酔木を大量に植えておけば、モンゴル騎兵は入って
これないかもな
隙間なくびっしりと、厚みも数キロぐらいの馬酔木地帯を >>235
高麗に嫁入りなんて嫌だろうな
格下の全くの外国だよね >>326
バヤン「南宋は河川や水田が多くて騎兵が使いにくいです」
フビライ「じゃ歩兵と水軍で」 モンゴルの駅伝制をよく研究して工作員を各地に潜入させ、
一斉にニセ情報を流したら、あとは〇〇ハン国同士で
仲間割れ戦争を起こして勝手に自滅してくれませんかねもう。 敵を深追いさせて包囲殲滅とかいう戦術は1000年以上前に孫子などがやっている
古い戦法なのにそれにひっかかるドイツやハンガリーのヨーロッパ勢は
それまで正規軍が正面からぶつかる闘いばかりしていたのだろうか
ヨーロッパ勢も軍勢としては多かったのだからハンニバルみたいな名将がいれば違ったろうに モンゴル同士の戦いでも釣り野伏はやったりやられたりだから 敵が崩れたと判断したら、追撃して戦果を拡大しよう、というのが軍事上のセオリー
相手の崩れが偽りか否かの見極めは、言うは易く、行なうは難し、なのだろう
また、お互い対等な関係にある諸侯達による連合(君主といえども、その最大なる者にすぎない)というのが本質である封建制の軍隊では、
指揮命令系統が明確でなく、末端まで軍令を行き届かし、共同歩調を取らせ、全体を一つの意思のもとに統帥するというのも困難であろう
独断専行、抜け駆け、不和から来るサボタージュ等を生じさせがちになってしまう
下手をすれば裏切りすら
全盛期の共和制ローマ軍のような統一、組織、練度、規律があって初めて、
一糸乱れぬ統帥や複雑な軍隊行動が可能となるのではなかろうか モンゴル人は宗教に抵抗がないから、自分たちの宗教に
改修させて一部を味方につけてしまうのがよい。 チベット仏教の真似をすれば、モンゴルの攻撃を受けずに済むわけか 一回の会戦という話ではなく、長期間に渡る戦争という話でだが、
半世紀近くモンゴルに粘り強く抗戦した高麗のやり方は参考になるだろう
海と河川によって陸地から隔てられた江華島に首都を移して中央政府の機能の安全を確かなものとし、
各地では朝鮮式山城に籠もって堅壁清野に務める、という >>341
生れてはじめてラクダを見たウマは怖がる場合があるかもしれない。
だがそれは相手がサルやイヌでも同じこと。
モンゴル軍はウマは日ごろから友軍のラクダを見慣れているので
そのような効果は望めない。 >>342
ミャンマー侵攻時における戦像に対するモンゴル軍の将校の対処は見事だわ
自分なら未知との遭遇なんて恐慌状態になるw
命がかかってる戦場ならなおさら 騎馬隊めがけて投石機で1kgくらいの石を何百個と発射すればいいんじゃないの? >>344
投石器というのは腰を据えて城を攻める分には使える兵器だが、
野戦で使うのは人手を使いすぎ取り回しが効かない。
なかなか映画のようにはいかない。
Wikipedia 「元寇」より
「明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い
1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。」 焦土戦術とか堤防の破壊による国土水浸し、あとでどうなるかは知らないが モンゴルの予想侵攻路上に小さくてもいいので堅固な城を築き、わざと包囲させる。
十分にモンゴル兵が群がったところで管制地雷のスイッチオン。
下図は明代のものだが、宋代でも技術的に問題ないだろう。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/%E7%81%AB%E9%BE%99%E7%BB%8F_%28109%29.jpg 圧倒的に人口で勝るホラズムが完全に守勢に回ってしまったのが悪いな
全兵力を上げてモンゴル部隊を一個ずつ潰して行けば勝てたはず >>348
馬邑城事件というのがあってな
匈奴の軍臣単于を誘き出してジャーンジャーンジャーンしようとしたら、察知されて逃げられましたわ
遊牧民は斥侯を放って戦場諜報を入念にやるみたいだから、そういうのは通用しないだろな >>350
モンゴルの斥候とていちいち地面を掘り返して調べたりはしないだろう。 伝染病の病原菌のついた布とかを矢にくくって飛ばす
自分らも被害を受ける諸刃の剣 >>351
大量の火薬を運ぶのを隠すのは非常に難しいと思われ メアリー・マローン(腸チフスのメアリー)のような逸材を
なんとか見つけ出して、モンゴル帝国奥深く送り込む。 >>355
実際問題、帝国崩壊にはペストが関わってるしなぁ むしろ細菌兵器を使ったのはモンゴルではなかったか。
攻城戦でペスト患者の死体を投石器で投げ込んだとか。 >>357
そりゃ自分の中で流行ったものを利用したつー話でな
カッファにペスト罹患者投げ込んだジャニベク・ハンの軍だって
もともとペストで大損害受けてるし 実際のところペストのような疫病は衛生環境に問題を抱えた
定住民の側に大きなダメージを与える。ライフスタイルとして
集住しないモンゴルは都市包囲で長期滞陣しない限り疫病の
大流行は起こらない。
生物兵器は諸刃の剣というが、その刃の大きさは対称ではなく
モンゴルに攻められる側にとってより危険である。 ブルガール人 定住
マジャール人 定住
モンゴル人 さようなら 結局モンゴルの強みは機動力と長射程の弓だろ。
より長射程の弩砲を開発して矢の雨を注ぎ掛けるとかが有効だろうな。 モンゴルは中射程の弓だけ、短射程の弩が装備されると撤退。
ウェールズ長弓兵の出番なし モンゴルの弓は強力な複合弓だけど馬上で扱いやすいように小さいから長射程ではないわな。 勘違いしてる人いるが複合弓の中にも短弓と長弓があって
モンゴル軍は両方持って用途に応じて使い分けてたからね?
短弓のが有名で教科書とかにも掲載されてるけど
実際は長弓使って長射程から一斉射撃を馬に乗りながら繰り返すなんてこともあったし
ナーダムの騎射は75m程度だけどこれは「マンターゲットを狙撃出来る距離」であって
射程距離とは全く違う話だし >>364
当時の絵を見ても、モンゴル軍が持ってるのは
短弓ばかりの気がするがな。長弓持ってる絵ってある? 城壁。
移動し続けてるのは補給を略奪で賄ってるから。
釘付けにされると補給が出来なくなる。 >>333-335
海軍には「頭より早く船を走らせるな」という格言があるけど、
追撃となると勢いがつくから、情報収集・判断・命令伝達の速度を容易に超えてしまい、軍機能を自壊させた状態で追っかけてるだけかもね。 長弓より短弓のが的に当てやすそうなんだけど、どうなの? >>365
エフタル・白フンがインドに撃退されたのもまさにそれだよ >>49
インドはまだ分からなくもないけどエジプトまで行ってたのはすごい 13世紀はホントにモンゴルが世界最強の軍隊だったの?
あんな文化度の低いトコにフルボッコって情けないわ >>269の1面白いねw
1 愚礼 2001/04/11(水) 08:37
はい、おはようございます。
今日も一日、元気ににっくきモンゴルをブッ倒しましょう。 >>360
マジャール人ってのはフン(=匈奴)らしいけどブルガール人もアジアから来たの? >>366
横山版のチンギス・ハーンに金攻略のために9mの槍を練習した話があった気がする >>381
榴弾か散弾撃てる大砲でないとだめだろ。 初期の大砲の弾は石だったんだな
じゃあ霹靂車みたいなのでたくさんの石を飛ばす方が有効だな >>1
モンゴル騎兵に圧勝した鎌倉武士を傭兵に雇う と博多を捨てて敗走した落ち武者の亡霊が申しております 日本軍が圧勝したので当然だが、元寇で博多の街が被害を受けた記録は無い。
文永の役でもモンゴル軍は赤坂までしか到達できなかったし。
菊池武房や少弐景資が頑張ってモンゴル軍を蹴散らしてる間、戦場から遠く離れた博多に
駐屯していた武士たちは、そのまま戦闘に参加することなく夜になると水城に引き上げた。
だから戦後臆病だと批判を浴びることになった。 >元寇で博多の街が被害を受けた記録は無い。
君が知らないだけだろう。過去スレを見直しのこと。 過去スレを見直したらモンゴル軍は赤坂までしか到達してないって結論出てた 確か赤坂で戦い博多を捨てて、水城まで撤退したんだっけ 当時の博多なんて大した町ではない。
水城まで引いたのは作戦。敵を引き込む戦略的撤退という奴だ。 水城がダムなら、モンゴル騎兵をその前に誘い込んで水を流し込み
一帯を泥濘にしてゴキブリホイホイ状態にしてしまう高度な作戦だったのかもよ。 >>392
それはない。
博多の武士が水城に引き上げた時点で、戦場ではまだ少弐景資の手勢がモンゴル軍相手に奮闘してた。
最後は少弐景資がモンゴル軍の副将劉復亨を射倒して勝利してる。 >>389
いま連載中のマンガ『アンゴルモア 元寇合戦記』は史料として
『八幡愚童訓』に依拠してるところが多いから、
モンゴルに博多を占領される流れかな。 執権との御恩と奉公で主従関係を結び、幕府に問題があれば滅私奉公的に
「いざ鎌倉へ」急行する鎌倉武士は外国兵とはわけが違うな
元軍が誤算だった1つに、敵将の首を投げつけたり、掲げたりすると
相手が肝を冷やすと思い込んでいたところかな
しかし、これがかえって鎌倉武士の士気を高める結果につながった モンゴル軍を塹壕戦に誘いこむのはどうかな?塹壕戦は現代でも通用している。
地下トンネルを掘って、要所に伏兵を置き、バルチザンを使って地下トンネル経由で
襲撃または補給路を脅かせばいい。暗闇の中なのであらかじめ情報伝達はきっちり行っておく。
塹壕戦になると弓馬は使えないから、純粋に斬り合いになるし、トンネルの中だから
敵味方の区別も容易ではない。さすがのモンゴル軍も苦戦するだろう。 モスクワ大公国がモンゴルを破ったヴォジャ河畔の戦いやクリコヴォの戦いを見ると
モンゴル騎兵の動きを制約する川のそばを戦場にしたのが勝因のひとつ。 モンゴル軍が勝ったカルカ河畔の戦いやサヨ河の戦いも川のそばが戦場だ 「わざと退却して誘い込む戦法」に用心するだけでも
対モンゴルの勝率はだいぶ変わってきそう。 >>384
元寇は、南宋や高麗人で固めてるので、もはやモンゴル兵でもない。
ジェべやスブタイあたりのサイヤ人系の主力モンゴルを止めるにはどうすれば‥‥ >>404
元寇で南宋や高麗人なんてモンゴル兵の数分の一。
サイヤ人系の主力モンゴルは元寇で鎌倉武士にフルボッコにされたよ。 史料に記されている弘安の役における民族別動員数
高麗兵 1万人
南宋兵 10万人
蒙古兵 40万人 白馬将軍と恐れられた公孫瓚を撃破した袁紹をみると(界橋の戦い)
白馬義従を倒すために屈強な盾兵で突撃を食い止め
周りから弓より射程が長い石弓を一斉射撃 >>43
南宋からすれば女真族の金は本音は殱滅の対象で一円も払いたく無いだろう
攘夷のまず第一は宿敵女真族を討つ事だろ
何とか金を得させずにモンゴルを防ぎたいよな マルコ・ポーロが元ではなく南宋に投石器を
教えてくれれば良かったのだ
あの毛唐は余計な事をしてくれたものだ 湖をわたれないよね?
カスピ海はわたれず、ウラル川もわたれなくて
ペルシャ側から攻略した 核兵器の発射をちらつかせて周辺諸国を征服と聞くと単なるきちがいだが、誰にも撃ち落とせないミサイルを発明してからの軍事行動だもんな。こんなに強い軍団はモンゴルにも存在しなかった >>410
元の投石機はイスラム由来だろ。
でも、バグダッド攻めは南宋由来の投石機と火箭を使った。 >>1
超デカい落とし穴作る
あと馬の耳をおかしくするぐらいの爆音ならす 究極的にモンゴルは本気モンゴル総軍で他国と戦ったことなかったからな
本気の戦力ならワールシュタット×3-5倍の破壊ができる
モンゴル帝国くるまで無敵といわれたアレクサンダーも敵わないし、その後の火縄銃とかの時代でも
不完全な火器では同数以上の戦力がないと応戦厳しい
完全にモンゴル克服できるようになるのは戦列歩兵以上の戦力が実現したらであり、モンゴルの騎兵のリーチと回転の速さは戦列歩兵の回転速度でしか応戦できない
カルバリン砲とかの火力ではまだ歩兵捉えられないしな モンゴル兵の本隊の性質の強さは
騎兵力により、一個の師団単位の攻勢力範囲は縦10-20kmに及ぶので、歩兵の防御では6師団2軍団ないと防御しきれない
一隊の騎兵は1-2kmを前進後退し、射程150-200メートルの曲射の雨を降らせ、中隊単位で1000発の斉射ができる
これはフリントロックやカートリッジ式装薬ありの17-18世紀の銃の回転速度でないと応戦できない
モンゴルが巨大な騎兵を維持できたのは13世紀だけだが、17-18正規の武装でやっと応戦ができる
それまではこの騎兵軍団は13世紀の完全編成状態ならば、十分16世紀の戦場でも厄介な存在であった
そもそもモンゴルのあとにコサック騎兵やドラグーン、トルコ騎兵などの銃騎兵が登場し、これはモンゴル騎兵の延長にある作戦集団
完全な上位互換は19世紀型竜騎兵で、それをもってしかまともに応戦できない
故に欧米は19世紀無敵だった 三菱UFJの株取引で800万円を稼いだ
モンゴルに詳しい研究者「猫准教」とは
https://finance.yahoo.co.jp/cm/personal/history/comment?user=752c60aaa248773c9a72d4218b5e36e46aec205200bc61cf14f147d17dc35a3d
Yahoo掲示板でやっていること
・女性教員を自称
・准教授を自称
・モンゴルに関する自分の考えを投稿
・名古屋大学の学生が掲示板に書き込みをしていたから、みずからの京都大学の身分証の画像を貼る(既に削除済み)
→モンゴル史を専攻している該当の「准教授」は存在していない。講師・助教・研究員については不明。
・個別銘柄である、三菱フィナンシャルグループ(8306)の株式を2023/2/20に売買し、800万円以上の利益を得たスクショを投稿(既に削除済み) 「猫准教」の投稿
13~14世紀は、ユーラシア大陸を語るに於いて、モンゴル帝国の時代だといってもいいでしょう。彼らは破壊の限りを尽くしたけれど、奇しくもそれが東西交流の発端にもなった。なにせ中東・イスラム文化の殆どを破壊し、果ては今でいうルクセンブルクを超えるぐらいにまで迫るもんだから、欧州文化はこの破壊の疾走に恐怖を覚えたものでしょう。その証拠に当時のローマ教皇は、タタール人をキリスト教に改宗させるために修道使節を派遣しているし、同じくフランス王も懐柔使節を派遣しています。
その甲斐もあったんでしょう、東西交流は矛戟を構えることなく進み、安全が確保されたことから、後のマルコ・ポーロが出てくる地盤が構築されました。
このように、曲がりなりにも交易路というものが獲得されれば、自然と文化の成長変化もあらわれます
今回特筆しようものは、アジアに於けるその学問で、元の郭守敬はアラブの数学を会得して授時暦という太陰太陽暦を編み出し、これは後の日本で頭角を現し、日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる渋川春海が考案した貞享暦にもおおいに影響を与えたもので、歴史的発明のひとつといえるでしょう
しかしながら、元国内に限っては、官吏登用制度である科挙が一時廃止されたこともあって、士大夫(上級官吏)階級の地位が低下したため、中国(元)由来の学問や思想は生じなかったという側面があるものの、政界から離れた知識人が市井郷里に戻ることで、かわりに庶民文化というものが発達し、なかでも趙孟を原点とする文人画家は、黄公望、倪、呉鎮、王蒙ら四大家によって漢代発祥とされる宗炳が方向づけた山水画の描法が様式化され、南宋画というものが確立されました
余談にはなりますが、この中国から伝播した南宋画の模倣から脱却したのが、かの有名な雪舟であり「天橋立図」や「秋冬山水画」などは国宝として今でも国に管理され、日本の絵画史において格別の評価を得ています
末尾として、もう少しだけ中国文学に触れておくと、日本でも不朽の名作として万人に知られる「水滸伝」や「三国志演義」などの劇場型文学は、その原型が元代にできあがったといわれています。この両作品に共通する傾向は、社稷を蝕む高級官僚に国を憂う正義の英雄たちが挑むも、志半ばで悲劇的な結末を迎えるという内容で一致しており、当時の抑鬱された民衆感情が色濃く出た、わかりやすい作品です ムハンマドが塹壕思いつくまで誰もやらんかったんだから
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