正史『三国志』 三十一巻 [無断転載禁止]©2ch.net
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でも、曹操は詩文「善哉行」の中で自らの半生を、賤しい身分に生まれ孤独に苦しみ両親からの愛情に乏しく身が裂ける思いをした(意訳)と述懐しているし、はっきりと庶子の生まれと明言していないが、恵まれた少年時代を過ごしたわけではなかったのはガチっぽい 宗家以外だと長男でも孟なんて法則があるわけでもないのかね 叔父さんをてんかんの振りして騙した話もあるし
曹操なんて基本的に子供のころからやりたい放題だよ
宦官の家に生まれた俺って苦労人でかわいそーってアピールしてるだけw あれは曹瞞伝のエピソードだろ、どれだけ信憑性があるんだろな
ところで曹操の叔父って何者なんだろうか? 他の正史だと
島夷 劉裕伝 とか最初から叩きが入ってるけど
あれ見るとああこれそういうもんなんだwってわかるけど
三国志や史記あたりだとあんまり感じられないのかね 曹丕の息子の曹協って、劉協が皇帝やってる時には
そんなん名付けられないだろうから魏朝成立後に生まれたんだろうけど、
仮にも自身に禅譲した皇帝の名を息子に付けるって
当時のモラル的に問題なかったんやろか 陶謙の配下に曹宏ってのがいて(曹豹の親族だろうか?)、王允にも王宏っていう兄がいて、両方とも霊帝劉宏と諱が被っている
これが問題にされなかったのかはわからないし当時は避諱という概念がどれだけ浸透していたのかはわからない
案外皇帝に諱が被ってても不問にされていたのかも >>673
ふたりとも霊帝より先に生まれたんじゃね? >>674
でも孟達みたいに劉備の叔父とあざなが被ってるから改めたって例もあるし
案外ガバガバだったのかも >>675
改名が伝わってない人は、仕方がないからわかっている範囲で書いたんじゃないかな。 法で定めてない限りはモラルの範囲内ってことなんじゃない
戦乱の時代だからモラル破り気にしない人も出るしそれをとがめて
とばっちり食うのも割に合わないし
不遜な乱暴者はやりたい放題 献帝ならともかく霊帝のときに戦乱だからってのは違わないか?
即位から黄巾まで16年あるぞ 霊帝の時代は宦官の専横と本人のやる気のなさが下々にまで伝播してモラル崩壊
モラル崩壊の一端で諱かぶりがする者が現れたとか? 呉壹も宣帝・司馬懿への避諱で実の名は呉懿だってのは
本当なのかどうか 司馬懿や司馬昭は三国志本文中で避諱されてる形跡があるけれど司馬師はされてないのは何故だろう
軍師将軍とか出師表とか普通に使われてるよな 呉壹は華陽国志では呉懿と書かれる。
張壹は後漢書では張懿と書かれる。
だからといって呉壹は呉懿が正しいとは限らない。華陽国志も後漢書の編纂者が、これは司馬懿の諱を避けたと思い込んで改めただけかもしれない。 呉懿とかいうよく分からんけどとにかく凄かったらしい武将 呉懿のつっぱりはいらんですよ
言葉の意味はよく分からんがとにかく凄い武将だ 呉懿は確かに謎が多い…実績もあって皇帝の外威っていう地位なのに正史に伝が無いのは妙な勘繰りを入れてしまう
伝を残すにはなにか不都合な点があったのかなあ ・諸葛亮に警戒されてあまり要所を任せてもらえなかった
・外戚呉氏が古参組から嫌われてた
・伝が紛失した
・陳氏との確執
・呉漢の子孫という理由で実は益州人に嫌われてた 「失其行事,故不為傳。」
って言ってるけどその割に季漢輔臣賛への補足ではちゃんと姓名字、本貫、来歴、魏延と共に挙げた戦功、
官位・爵位に没年まで書いてあるんだよな陳壽。
短いといや短いが蜀志なら黃忠伝や尹默伝の文字数を見ると十分伝は立てられそうに思えるんだが、後どんな事績が足りなかったのだろう。
それとも>>691みたいな別に理由があってそれの言い訳にしただけなのか。 >>692
張コウに対しても事績がよくわからんって書いてるし根本的にあちこちの資料が足りないんでは 置かなかったのか孔明が置かせなかったのか
その意味でも史官の意味は大きそうだが ポジション的に盛られているだけで
実はそれほどでもなかったとか >>>694>>695
後主伝に気象の記録が残ってるから史官がいなかったというのは諸葛亮時代の約10年間という可能性もあるがね 陳寿自身、蜀漢の東観秘書郎、史官だったんじゃなかったっけ
なんで蜀は史官を置かなかったなんて嘘ついたんだろう だから孔明はなぜ史官を置かなかったのかが問題になる 陳寿は父親が孔明に処刑されてるし
孔明の息子に虐められていたから恨みがあるんだよ
体裁を整えるために時々は孔明を褒めてるけど 晋書陳寿伝によると、陳寿は蜀漢に仕え黄皓に屈しようとせずに左遷され、その後父親の喪中に婢女に丸薬を作らせていたことが不孝として失脚している
時系列に直すと、諸葛亮の死(西暦234年)→陳寿仕官(時期不明)→黄皓の専横(董允が死んだ西暦246年以降)→陳寿の左遷(時期不明)→陳寿の父親の死(時期不明)→陳寿の失脚(時期不明)ということになる
俗に言われてるような陳寿の父親が諸葛亮に処刑されたっていう説はこれで見るとまったく根拠のない出鱈目だと思う
陳寿が諸葛亮の評価に辛いのは北伐反対論者だった師匠の譙周の影響だったのでは? 連弩ってベルセルクのガッツが装備してるようなヤツ? 本当かどうかは別として
普書で陳寿の父親がされたというのは
コン刑(断髪の刑)だから別に矛盾はしない。
個人的には陳寿の評価は客観的だと思ってる。 晋書は「壽父為馬謖參軍」
と書くが参軍は馬謖なので
よく知らない人が書いていると判断すべき 参軍って何人いるの?
馬謖擁護してる人物に参軍李?がいるけど 陳壽が最初に就いたのは衛將軍主簿らしいけど
この衛將軍とは姜維(247〜256)なのか
それとも諸葛瞻(261〜263)なのか
はたまた記録に残ってない第三の人物なのか。 なみの諸葛亮ファンじゃ、晋全盛期に『諸葛亮集』とか出せないし
宣帝・司馬懿さまに「天下の奇才」と言わせられないよ >>710
全面礼賛以外は全て誹謗にするのが孔明信者
南宋の朱子なんか悪いのは全部劉備のせいに 三国志群雄録
正史三國志群雄銘銘傳
コレって両方共坂口和澄著だけど
内容的には似通ってるの? 劉備と高誘が仲良かったっていう話ってどっかにのってる? >>715
正史三國志群雄銘銘傳こっちだけでよい
もう一個のはこの中から抜粋してるようなもん >>718
井ノ口哲也氏の書評,津田資久氏の書評,村田哲也氏の論文(書評が主)を読めば,
渡邉氏の学術的態度に対する周囲の評価が見えてくると思います。 渡邉義浩氏って中国大河ドラマのThree Kingdomsやレッドクリフの日本語訳をやっていたんだよな レッドクリフは監修だな
訳してたのはいつものおばさん
レッドクリフの副音声で渡邉が解説してたけど
めっちゃ面白かった
この人の授業受けてみたと思った 坂口和澄
渡辺精一
渡邉義浩
資料本はここらの漁ってたら十分? なんかさ、曹操の子孫のDNAサンプルを調査する研究ってあったじゃない?
そっちの方と照合したり裏取りは取れてるのかなぁ? 裏取りといっても遺骨の方じゃなくて
子孫の方の検証になりそう 曹操の父、夏侯氏からの養子説の出典は曹瞞伝や魏晋世語だし史料的評価の低いゴシップもどきだから無視してもいいんじゃね?
そうなると何故曹操が夏侯惇を常に武官筆頭格として厚遇し続けたのかがわからなくなるが 因みに
曹操の墓は「西高穴2号墓」と呼ばれ
遺体の無い「西高穴1号墓」は張繍の戦争で亡くなってしまい、最後まで死体が発見出来なかった
曹昂の墓ではないのか
と推測されています
http://m.51.ca/info/news/china/2018-03/633393.html 衣冠墓だっていう話だよね
典韋の墓はまだ残ってるんだろうか >>728
曹家夏侯家卞家が通婚を重ね合った連合組織だったからでは
曹操の旗揚げ時の夏侯家の首魁が惇だったと
後に気に入っていた淵の優遇が始まるけど 墓の上に立ってた建物って、やっぱり関羽に降伏した于禁の絵があったんかなぁ >>718
発想の原型は程cの故事にある「民の望」を集めうる人間という事なんだろうな こんなところで言うのも何だが、曹操の声を野沢雅子にする
日経って頭おかしいのか? 逆じゃないのか
趙雲なんかは人気あるからって知力や政治も高めに設定されてるし >>748‐750
そのへん、みんな演義の影響ってんだから凄い 僕が見た希望
趙雲 それはふれあいの心 幸せの趙い雲
趙雲 怒ったり恥じたりしてすぐ死ぬやつ多すぎだろ
なんて病気何コレ 曹操の墓が見つかって
本当の身長って割り出せないのかね〜
史実じゃ低かったみたいだけど その辺のことは「曹操墓の真相」って本に詳しく書いてあったはず 曹操クローンを作っても現代の食糧事情だと
すっかり大きく育ってしまいそう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています