正史『三国志』 三十一巻 [無断転載禁止]©2ch.net
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戦後、漢中太守に抜擢された魏延なんじゃね?
具体的にどんな戦功があったのかわからないけどさ >>806
普通に劉備では
劉備が張コウをボコって夏侯淵が予備を救援に差し向けたところで
黄忠の襲撃が成功したんだから 孔明「法考直が健在だったなら、よく主上を抑えて東征せずに済ませたであろうし、 たとえ東征しても、きっと危険を避けえたであろうに」 >>774
ないない
何故なら中国では女も体が大きいければ大きいほど徳が高く立派だとされるから
何皇后もわざわざ正史に身長が高かったことが記されているのもそのため 今だっておっぱいが大きくてセクシーな女性が人気ということになっているが
一方で貧乳童顔スレンダーの子どもっぽい女を好む人もいるわけで
んで後者の趣味はあまりおおっぴらにできない 外来の蜀漢政権ってのは要するに台湾の中華民国みたいなもんか 蜀正統論をもってしても正当化し切れない入蜀時の騙まし討ち
南宋の朱子があれは劉備のせいで孔明の意思ではないとしたが単なる贔屓というだけでなく君主と士大夫は本質的に対等という意識も伺えそうで興味深い
少なくとも家臣は主君の泥を被るべきという意識は見えない 物の見方はいろいろあるから正統論云々について深く踏み込むのもなんだけど、そもそもを云うならば劉焉は朝廷に任命された益州牧にすぎず、巴蜀は江夏劉氏の封土ではなく、劉璋が益州牧を世襲する正統性自体が無いんじゃないの?
それを踏まえると劉備の入蜀は、益州別駕張松ら益州豪族が法正、孟達ら扶風人士と組んで仕掛けたクーデターであり、劉備は「たまたま」盟主として担ぎ上げられた御輿に過ぎないとも言えなくもない その三人がその後にどうなっていったかも面白いんだよな
とにかく劉焉親子の政権は現地の支持が強く劉備でも平定に二年を費やしてるし そういや劉備にしろ劉焉親子も
白帝城にあった公孫述由来のもの破壊しなかったのって
公孫述に人気があったからかな
破壊されたの明代だったし
李雄が劉玄尊重したのと同じ感覚かな ばかにするなよ
台湾は製造業ででかい方よをリードしていた時期があるだろ はっきりいって荊州失陥後の蜀漢は中原への道も塞がれ益州での政権を維持するだけで精一杯の状況だったんだよな
だから南征だけでなく北伐ですらもいわばその負担を減らすための資源獲得と政治的パフォーマンスに過ぎなかった >>821
お前、劉二牧伝読めよ・・・
益州どんだけ荒れてると思ってんだよ
支持なんか全然強くねぇし、平定に時間掛かるのって
劉焉、劉璋の統治云々と関係なく、その後の諸葛亮時代見てもわかるように
現地勢力がそもそも従わない+強いんだよ
>>822
人気より何より余力もないのに破壊する意味あるか?
しかも後漢末に破壊しなきゃ!ってなるようだったらそもそも後漢初期〜盛期にやっとるだろ
あんまアホなこと言うなよ でも面白いこじつけじゃん
諸葛亮が北伐の際に子午道を使わなかったのは王莽が整備した道だから、みたいな 誰が何を言ったかって史書の中でも特に信憑性が怪しい部分じゃね? >>830
そうでもない
上奏文、勅書なんかは公式文書の引き写しだと考えられるし >>825
劉焉親子の基盤はこちらも外来の東州兵だったんだよな
要するに地元にしてみれば所詮は外省人同士の戦いに過ぎない
それも含めて孔明が如何に地元豪族を支持を苦労して取り付けていったのかも重要なわけだが じゃあ外州人とでもするか
とにかく後の台湾でも蒋介石が漢賊不両立を唱えていたし
大陸反攻と漢室光復も似たスローガン
もっとも入蜀がすんなりいかなかったため龐統を失い荊州の本軍の多くを呼び寄せねばならずそれが後の荊州失陥にまでつながるわけだが ホウ統生前から荊州軍呼び寄せしてるから時系列おかしいぞ
劉循率いる劉璋軍主力を劉備が1年抑え込んでる間に
益州に入り込んだ張飛ら率いる別動隊が各地を制圧してったんだから
「すんなり行かなかった」ってどうかと思うよ
むしろ1年で一州を完全にもぎ取ってるのは三国時代では結構早い方 演義では龐統を失った後に増援を呼んだ事になってるからその辺りの違いが面白い
そもそも最初から増援を呼ぶ計画があったのかどうかも含めて
いずれにしてもその結果として荊州方面の戦力が大きく減ったのに違いはない 劉循対策はしなきゃいけないだろうし
予定内の第二陣という気がしないでもないな 劉備の入蜀って蜀漢側の資料を見ると降伏者が相次いで出てすんなりいけたように思えるけど、同じ時期に漢中に偵察?に行った呂岱が劉備軍の敗退を予想していたり、同じ時期に魏国領内に劉備が死んだって誤情報が流れていたり、侵攻当初は相当苦戦していた様子も伺える 増援の派遣は益州の早期平定に役立ったろうがそれまでの本拠である西南荊州の防衛という観点としてはどうだったんだろうな
成都陥落後にはいくらかでも戻せたのか否か
その後の関羽の北進攻も絡めていろいろと気になる >>839
だから孟達が西から荊州を支えられるように宜都郡入りしてる たったそれだけ?
後の事を考えればまさに色々な意味で運命の人事だったわけだがどうして新参の孟達でなければならなかったかも気になる 現にホウトウが死んだり、張任殺したりしてる時点ですんなりとは行ってないよな >>841
人事見たら劉備が他にバックアップ用意してたのわかるようになってんだから
さすがにちょっと調べてから書き込もうか
無知なのはしょうがないにしても回答に対して「たったそれだけ?」とかいくら何でも失礼だよ 呉は呂岱のときも丁奉とのときも悉く蜀介入に失敗してんな >>844
孟達のサボタージュで機能しなくなるバックアップなんてその程度でしかなかったってことだろ
それ以上一体何を知る必要がある? >>848
孟達って関羽の動きに呼応して宜都から長躯して房陵、上庸を見事確保して
荊北西部方面から関羽に掛かる圧力を止めるサポートしてますけど…… >>851
寧ろ動いてたら荊州どころか蜀も危なかったんだよなぁ 陸遜が仮病で任地を離れた呂蒙の後任として陸口の督となったのが、関羽が于禁を捕えた建安二十四年八月以降
そこから三ヶ月あまりで呉は公安、南郡を陥して宜都郡を陥したのが十一月
更に房陵、南郷を降伏させその月のうちに麦城で関羽を捕えている
関羽の首が曹操に届けられたのが十二月
呉の荊州攻略が迅速すぎて孟達には上庸を堅守する以上のことは出来なかったはずだ
むしろ孟達を逆恨みする劉備の方がおかしいと思うのは俺だけだろうか 身近な人間が殺されたら判断もおかしくなるのは道理だと思う >>856を読んで呂蒙の軍略の才と実行力半端ないと思いました。 蒼天航路で鼻血バカみたいに描かれていたのが納得いかない 見事な電撃戦なのとそれを許す防衛力の低下ぶりが際立つね 呉書呉主伝によるとこの歳の荊州では疫病が蔓延していたらしく、孫権は荊州を獲った後にすぐに租税の免除を宣言している
呂蒙が孫権に医術の心得がある虞翻を戦に参軍させることを願い出たのも、呂蒙が南郡を獲った後に疾病者に医薬を給付したのもそれを踏まえた処置だったのだろう
麋芳、士仁らがほとんど抵抗することなく呉に降ったのも、もしかしたら疫病の影響で兵たちが満足に戦える状態でなかったのかもしれない ということは呂蒙はひょっとして南郡で罹患したのが死因か 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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6RT 蕭何「張良どのが引退されてなかったら主上の匈奴討伐を止めてくださっただろう、或いは討伐は止められなかったとしても冒頓単于に敗れることはなかっただろうに…」 冒頓戦はともかく荊州回復はあそこで動かないと不可能だし
劉備の信用を得られず良策のない諸葛亮が駄目なだけだろう 潘濬があの後も蜀にいたら何処まで出世出来たんだろうか?それとも干されて閑職に押し込められて終わりだろうか?
どちらにせよ劉備が生きてる内(呉と和解するまで)は風当たりが強いだろうが >>872
潘シュンが荊州治中従事だった時点で義兄の蒋琬は什県令、潘シュンの方が出世コースにいたように思える
蒋琬が諸葛亮に気に入られて異例の抜擢を受けたのを考慮しても同じとはいかなくても近いくらいの出世ができたのでは? 潘濬みたいな有能かつ節度のある幕僚がいたら諸葛亮の寿命がもう少し延びたかも
どちらにせよ蜀の文官は性格になんがあるやつ多いな 呂壱絶対殺すマンさんは有能かつ清廉の士だけど節度のあるというにはちと過激な性格をしているわ
その清廉さが酒色を好む劉禅とぶつからないとは限らない >>874
諸葛亮が劉備死後に政権の中心を獲得したとするなら
?義がもう一人できるだけじゃないかね 呉懿って何者だったのかな
・劉備の外戚
・魏延と並んで推される優れた武将
・尚且つ、「非常に剛毅な人物であり、博愛の心を持っていた。」と人望も申し分ない。
ホントに記実が焼け落ちたんですかねえ 後継に列伝を立てるほどじゃなかったけどしっかり出世した族弟の呉班がいるから
実際は呉匡没後に呉一族の代表になっただけでの人で、特に事績がなかっただけなんじゃないかな
書くことないのでふわっとした美辞麗句とかー伝焼け落ちたわーで誤魔化しただけで 呉懿の妹の呉氏が劉備に嫁いだ経緯もよくわからんよな
劉備本人が同族である劉璋の兄の未亡人を娶るのは礼教に反するとしてこの縁談に乗り気ではなかったのに、法正が晋の文公が甥の未亡人を娶った例もあると強引に説得してこの縁談をまとめている
政略結婚ありきの縁談だったってことなんだろうけど、つまりそこまでして懐柔しなければならないくらい呉懿ら呉一族が蜀領内で力を持っていたということになるんだろうか >>880
穆皇后呉氏はそう
呉匡の最期が伝わっていないけど、呉一族が劉焉を頼って益州入りした時もいたんじゃなかなあと
武官やっていた呉匡とその一族の力は外部から来た劉焉には頼りになっただろうし
そこから呉懿の妹を息子の嫁に迎えることによる強固な結びつきと政権の安定化を目指しただろうというのが推測しやすい >>882
昔は親子程に歳の離れた兄弟姉妹も珍しくない
三国時代の結婚観に関して鍾ヨウと鍾会の母だった後妻の関係でちょっと触れられてるが
地位ある男性はヤモメであることがよくないとして常に後添えを娶るように勧められるという話
呉懿の父親もそういう結婚をしていた場合、ある程度若い妹が呉懿に居た可能性は全くもって否定できない 劉焉存命中の婚姻なので劉備が回収した時に年齢がいっているのは確かだろう 政権を獲得するより新しい仕事に就いた方がかぶらずあらゆる面で
礼儀正しかったのでは。 結構劉備の子供は死んでそうだよな
家族見捨ててよく逃亡してたから捕まって殺されてそう 一回目の徐州失陥で妻子消滅、二回目は関羽降伏で生存
長坂で娘消滅
本拠地を失うとこうもなろうって感じだね 「国はまた作れば良い」
こんな考えだから何回も同じ歴史を繰り返す かんていだに渡辺崋山の描いた魯粛像が出てたんだが三国志好きだつたのかね?
見事な絵だったので他にもあれば見てみたい。 関羽と張飛は蜀創業の時代ではまぎれもなく英雄だったのは確か、ただ晩年の体制維持
特に大軍統率のカードとしては人格的にも器量的にも欠落点が多かっただけ
その欠点が事件として表れてしまったのが関羽の荊州喪失事件
張飛にいたっては昇進こそすれ実質的には田舎町の閬中に左遷だからね そういう思い込みで語るのよくないと思うよ
両方に対する指摘それぞれ間違ってる
関羽の敗戦って劉備のミスが目立つし張飛が任された場所って
益州の田舎どころか最重要拠点の一つだし 入蜀後の展開としては
荊州は関羽、諸葛亮
取り立ての蜀は劉備、張松、法正に呉一族
漢中方面進出に張飛、龐統的な人材配置をイメージしてたんだろうか
そうだとすると入蜀時に張松、龐統を失い法正も早くに亡くし軍事戦略、行政指導が諸葛亮がほぼ全部しないといけない時点で苦しいわね >>893
かんていだって何だ・・・
鑑定団と打ちたかった。 北、東より南西にスペースが広大。劉家の勝ちだろうね。 >>897
優秀な文官ならいくらでもいただろう
諸葛亮が彼らの権限を奪って独裁体制を構築していっただけ >>900
その独裁者の腰巾着の一人が晩年に実働部隊の魏延を謀殺に追いやって蜀の滅亡が規定路線に入った
蜀の末期は本当に酷い終り方 魏延の死が蜀の滅亡につながるとか重度の魏延オタでも言わないと思うw レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。