ヒンドゥー文明・インド文化圏・インド人の歴史2 [無断転載禁止]©2ch.net
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パンジャーブ地方と並ぶ穀倉地帯は、南西部にある。
ゴーダヴァリー川とクリシュナ川のデルタ。 北西部のインド側にも大きな低地があり、四角い半島がある。
ここがグジャラートで、インドの工業生産の4割を占めるとされる大工業地帯。
モディ首相は、ここで知事をやってたときの経済実績を買われて、
全国の首相になった。 早い話が、南インドというのは、中国の江南みたいなところではない。
どっちかっていったら、チベットと似ている。
簡単に征服できる地形ではない。 デカン高原(大したこと無いなんちゃって高原)とチベット高原(標高5千mの超高原)じゃ大違い >>136
ローマの威光ではなく、消去法だったらしいよ
サルディーニャの都トリーノを首都にするのは明治新政府の都を鹿児島を都にするがごとく、
ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリが有力だがどこを都にしても他が納得しない。
ローマは当時はキリスト教世界の都であって、一国の都とは考えられていなかったが、
消去法でローマに決まったらしい >>157
まあ確かに
中国でいえば黄土高原といったところか >>159
プロイセンは、ベルリンを帝国首都にしたのにな
サルデーニャには、そんな力はなかったか >>147
ビョンヤンは、半島に南下してきた高句麗人の都 中国の北部は、東の華北平原と、西の黄土高原に分かれる
黄土高原もたいしたことないが、周から唐までの中国史は
西が東を征服するパターンの繰り返しで、逆は少ない タール砂漠も、昔から砂漠だったわけではない。
古代インダス文明の頃には、広大な緑地だったと考えられている。 中国は環境破壊で象が滅びたけど
インドも環境破壊があると思うけど滅びないね ランタンボール国立公園なんか、デリーの近くということはたぶんステップ気候で、うっかりすれば動物はおろか森林自体をなくしてしまってたはずだけど、
今でもトラとか野生動物がすむ野生の楽園だもんな
http://www.saiyu.co.jp/blog/wildlife/?tag=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%85%AC%E5%9C%92
ジャイプールのマハラジャのお狩場だったそうだけど、それ以前にも周囲に人の営みはあったはずなのに
それどころか
>エリア内には10世紀に建てられた要塞遺跡があり、その文明を呑みこむように森が再生しています。 人口過剰といっても、インドの場合はガンジス川流域に
極端に集中しており、他の地域は意外と普通。 思うに、ガンジス川の流域が、インドのイメージをあまりにも悪くしている
南インド諸国が独立すれば、リゾート地として人気が出るだろうに ギリシャ文明の広義の仏教への影響に関し、ごく簡単に仮説的私見を述べておきたい。
ギリシャ人たるアレクサンドロスは、中央アジアから北西インド亜大陸にまで攻め込んだわけだが、
「インダス川流域は・・・アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)
達の支配するところとなっていた<ところ、>・・・ガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタは
インダス川方面の制圧に乗り出した。・・・<アレクサンドロス死後のその帝国の跡目争いである>
ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世が
インダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒
して彼の侵入を排し、・・・インダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
という史実から見えてくるのは、
「プルタルコスは、チャンドラグプタが・・・青年時代に、インド北西部へ侵入したアレクサンドロス
大王のもとに出向き、インド東部への道案内を申し出たという逸話を伝えている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
ところ、その真否はともかく、
チャンドラグプタが、「インド最初の本格的な統一王朝<たる>マウリヤ朝」の創始者となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%A4
契機は、アレクサンドロスによる東征、大帝国の形成の衝撃であった、という事実だ。
私は、このマウリヤ朝は、ペルシャより東の世界における最初の帝国であった、という認識を持っている。
帝国とは、多民族からなる大領域国家のことであり、(「夏」の実在性はまだ確立していない)
「殷」にしても「周(西周)」にしても、漢人のみからなる都市国家に毛が生えた存在に過ぎず、
支那における帝国の成立は、マウリヤ朝の成立よりも半世紀後の紀元前247年における、
秦による、漢人プラスアルファからなる大領域国家の成立を待たなければならない。 >>172
帝国を形成、維持するためには、現に、或いは、企図された征服対象として将来的に、
その統治下に抱える諸民族を超越したイデオロギーが必要となる。
秦の場合は、本音ではそれは諸子百家中の墨家の思想で、建前上では、それを帝国成立前から
採択していた法家の思想に求めたわけだが、それは極めて実務的な選択であったと言えよう。
マウリヤ朝の場合は、簡略化して述べれば、(いわゆるヒンドゥー教の前身たる)バラモン教の
信者が多いガンジス河地域を本拠としつつ、旧アレクサンドロスの帝国ないしセレウコス朝の
上澄み部分に、古典ギリシャ哲学/ギリシャの神々/プラトン・アリストテレス流の哲人君主制を
信奉する者達を抱える、インダス河地域も取り込んだ形
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
で成立した帝国である(そもそもチャンドラグプタは、後継ぎの息子ピンドゥサーラの后の一人として、
セレウコス1世の娘を貰い受けている。)ことから、インド亜大陸で生まれてからそれほど年月を
経ていない新興宗教ないし思想に、帝国イデオロギー候補として目を付けた、と見たいところだ。
「チャンドラグプタはジャイナ教を熱心に信仰したが、<二代目の>ビンドゥサーラはアージーヴィカ教
の信者であったと伝えられ、<三代目のあの有名な>アショーカ<は>仏教を熱心に信仰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
のは、どれが国家イデオロギーとして一番適切であるか、試行錯誤を続けたということだ、
と見たらどうか、というわけだ。
ここで注意が必要なのは、一般にアショーカは「仏教」を「信仰」したとされてきたけれど、
彼が信奉していたのは、釈迦の唱えた「ダルマ」であって、当時、まだ本格的には成立していなかった、
「仏教」では必ずしもなかったことだ。
アショーカ自身、
「彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
いることから、このことは明らかだろう。 >>173
しかし、その意図せざる結果として何が起こったかと言えば、釈迦の唱えた「ダルマ」の、
マウリヤ帝国内、及び、セイロンへの普及であり、そのことを奇貨とした、釈迦を祖師とする
仏教なる新宗教の勢力大伸長であり、「ダルマ」の普及・保護のための過度な財政支出や
国家財の供出、及び、平和志向によるマウリヤ帝国の財政的・軍事的破綻であり崩壊だった。
尚、アショーカの事績中、最も重要なのは、釈迦の思想の中核であるダルマ
・・人間主義回復方法論、と言い換えてよかろう・・
が、彼によってセイロンに伝えられたおかげで、それが、上座部仏教の一環として、
(インド亜大陸における仏教の事実上の消滅にもかかわらず、)忘失を免れることになり、
やがて、チベットにおいて、それが大乗仏教の中に組み込まれることによって、現代にまで、
念的瞑想として生命を保ち続けることができたことです。
その後、インド亜大陸北西部において、セレウコス朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%9C%9D
から分離したグレコ・バクトリア王国から更に分離した、インド・グリーク朝が成立した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
そこで、アショーカの下で興隆し始めた初期段階の仏教に起こったことを、
論理的に想像した下掲は説得力がある。↓
「紀元前2世紀に現在のインド西北部を支配したギリシア人のミリンダ<(メナンドロス)>王は、
仏僧のナーガセーナとの問答を通じて仏教に帰依し、出家したと『ミリンダ王の問い』は伝える。・・・
<しかし、>ナーガセーナの教義は、もしもミリンダ王にギリシア哲学の素養があるのなら、
論破できる類のもの<なので、疑問>だ。
もちろん、ミリンダ王ならびに彼の後継者となるギリシア人の王たちが仏教を保護したことは
事実と認めてよい。だが、彼らは、出家しなかったことからもわかるように、仏教に心底帰依した
というよりも、むしろ政治的に利用しただけではないのだろうか。 >>174
<(そもそも、ダルマを通じて悟りを開いた、つまりは人間主義者になったと思われる
アショーカが、それが故にこそマウリア朝を没落させてしまったという教訓も、地理的等から
マウリヤ朝の後継とも言える、インド・グリーク朝のミリンダ王等は承知していた可能性が高い。)>
インドには伝統的なカースト制度が根強く残っており、ギリシア人を初め外国人はアウト・カースト
(不可触賤民)として蔑視された。そんな中、カースト制度を否定する仏教は、外国人支配者に
とっては都合がよく、そのため、ギリシア人のみならず、その後インドに侵入した外国の支配者
たちはたいてい仏教を保護したものなのである。仏教を保護することには、支配者が外国人で
なくても、メリットがあった。カースト制度では、王といえども、バラモン(聖職者)の下に位置付け
られていたのである。バラモンの下のクシャトリヤ(王侯貴族)や、そのさらに下のヴァイシャ(商人
など)にとっては、自分たちの権力や富にふさわしい地位を求めて仏教を保護したという事情がある。
また、支配者、つまり権力や富を持つ者にとって、被支配者、つまり権力や富を持たない者に
反乱を起こさせないようにすることは、自分の地位を維持する上で極めて重要である。
反乱を起こそうとするのは、権力や富への執着が強いことが原因であるから、仏教を広めて
下層民に権力や富への執着を捨てさせ、無欲にすることは、不満分子の反乱を予防するのに
効果的である。表向きの理由はともかくとして、インドの王侯貴族や富豪が仏教を保護した裏の
理由は、そこにあると考えることができる。
王侯貴族や富豪の保護のおかげで、仏教は世俗的な繁栄を享受することとなった。
しかし、権力や富への執着を否定する宗教が、権力と富を持った支配者と癒着するという
パラドキシカルな関係が続く中で、民衆の心は、支配のためのイデオロギーと化した偽善的
宗教から離れていった。仏教に代わって民衆の心を捉えたのは土着の宗教であるヒンドゥー教
であった。そして仏教は、イスラム国家とイスラム商人が台頭する中、パトロンを失って、インド、
パキスタン、アフガニスタンの地から跡形もなく消えてしまったのである。」
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2012/milindapanha/ >>175
つまり、インド・グリーク朝は、初期段階の仏教(原始仏教)を大興隆させることになったけれど、
そのインド亜大陸における没落の根本原因をも同時に作った、ということになる。
さて、ミリンダ王等、インド・グリーク朝の君主達は興隆しつつあった原始仏教に帰依しなかった
としても、支配層たるギリシャ人の中には、帰依した者は少なからずいたと考えられる。
その結果起こったことが下掲だ。
「原始仏教では身体は不浄で、人生は苦と考える。だが、ギリシャ文化では「身体は美しく、
苦しい人生でも生きるに値する」と考える。この肯定的人生観と仏教の否定的人生観は互いに刺激
し合って、仏教はインド西北部のギリシャ人に受け入れられる。原始仏教の高い論理性と合理性が
受け入れ理由だった。紀元前後につくられ始めるガンダーラの仏像はギリシャ人の容貌を持っている。
ギリシャ人に受け入れられた仏教はギリシャ人の影響を受け、人生肯定の思想を持つようになる。
否定的人生観からこの肯定的人生観への変化が大乗経典の特徴になっている。」
http://huukyou.hatenablog.com/entry/2016/09/20/091358
そして、その更に結果として生まれたのが、写実的な仏像と物語性豊かな仏典とを伝道の両輪
とした大乗仏教である、というわけだ。この大乗仏教は、伝道僧達によって、中央アジア経由で
北伝し、支那、更には日本へと伝播していくことになる。
大乗仏教には、ダルマ(悟りの方法論)が欠落していることは、既にご承知のことと思う。
しかし、仏典が説く人間主義は、仏像を中核として発展したところの、仏教美術・建築・庭園・
生活様式、等、と相まって、(孤立したチベットを別にすれば、)日本だけで失われることなく
維持されてきていた人間主義(縄文性)に滋養強壮的な刺激を与えることで、その引き続きの
維持に不可欠な役割を果たすことになるのだ。
また、大乗仏教の人生肯定性は、日本における弥生性が維持されることに貢献し、人間主義文明
たる日本文明の存続を、安全保障面から、引き続き、強固に担保し続けることにつながった。 >>153
インドの山地(丘陵)と日本の山(ほぼ崖)では全然違う >>169 共産党の強いケララ州は「ケララ人民共和国」かw 残りの南部諸州はまとめてマヒシュマティ王国でいいね >>178
ケララは「共産党が強い」んじゃなくて共産党政権だ >>177
まあ確かに。
デカン高原は、あくまでも高原であり、日本の中央高地みたいに峻険ではない。
十分に人が住める。 >>178
>>180
しかし、バリ島なみに民俗芸能の宝庫 平地面積(平方キロ)
インド
2,287,400
イラン
1,517,800
トルコ
655,102
日本
114,622 平地面積でも世界で一番広いのはロシアなのだろうか
だがロシアの場合は山岳とは別の理由(寒い)で居住不可な土地が多そうだが フランスからロシアまでは大平原
ただし、ドイツは森林地帯、ポーランドは中世まで湿原地帯だったため、統一は不可能だった >>185
イランの場合、東部は平地と言っても大半か砂漠で、人の住むところではない。
平野がほとんどないイランでは、西部の山地に人口が集中している。
高地特有の気候条件のため、サッカーのホームゲームは有利。 アナトリアって地上からだと平原が広がってるように見える
上空からだと山しか見えない
そんな感じのところ 平地面積というのは統計データがまず無い。
可住面積=平地面積という勘違いによるものだろ。
トルコは、国土78万km^2に森林面積割合15%あたりから割り出しているんだろう。
フィンランドは73%が森林なので山国で、スイスは30%が森林なので平らな国になってしまう。 多分コイツは
>トルコは冬の寒さで知られる高原の国
>「平地が多い」というのは、統計の取り方の問題か?
と言ってることから山間部と高原の区別がついてなんだろうな
高原ってのは標高が高い平野に対して使われる語なんだが
http://www.weblio.jp/content/%E9%AB%98%E5%8E%9F
>海抜高度が高い平原。起伏が小さい高地。 平野とか平地ってのは、普通は低いところを指す言葉だろ。
とくに平野は、沖積平野を指す場合が多い。
高原のことを平野と呼ぶことはまずない。 >>192
そりゃそうだ
岐阜や長野みたいなところに、あんなに人口が集中してるわけがない イランの首都テヘランは、標高1200メートル。
高山病になるほどじゃないが、かなりの高さだ。
高地特有の気候条件のおかげで、テヘランでアウェーゲームを戦う
各国のサッカー代表は、いつも苦戦する。 高地でのサッカー試合として世界的に有名なのはボリビアで、
首都ラパスのスタジアムは標高3600メートルと富士山なみの高さ。
南米大会で、ブラジル代表やアルゼンチン大流行がいつも苦戦する。
酸素不足による選手の健康への影響を懸念したFIFAが高地試合禁止の規則を作った。 ちなみに、インドの高原都市として有名なバンガロールの標高は、
「平均海抜920メートル」だそうな まあ確かに、標高が高くても平坦な地形なら、平地と言えるだろうな。
長年に渡って浸食されてきた大陸の古い地盤なら、高くてもそうなるだろう。 >>192 新期造山帯といってもその地形は様々だってことだな
ちなみにイランやトルコを極端にしたのがキューバか。山らしい山は南東部にしかなく、それも高くても1000mちょっと
これでも新期造山帯の一部。千葉県の海外版みたいなもんか >>200
人口が密集しているからといっても、都市じゃないんだよ
農村に何億人も住んでいるという、現代の日本にいては想像しにくい状況 >>203
イギリスも、そんなもんだ
山らしい山は北部のスコットランドにしかなく、
それだって日本の山とくらべたら全然たいしたことない >>202
それはNASAの衛星画像にインド人のup主が塗った色だよ(笑)
インターネットに貼られている画像を信用しちゃいけない >>202
画像にfestivalってあるし祭りのじゃない?
>>206
あんたの言う通りインターネットの情報は信用しちゃいけないからそのインド人のうp主が画像に色塗ったって言うソースを出してくれ >>208
↑本当はこんな感じ
インドの田舎は真っ暗 日本ってほっんと人の住める土地って少ないんだなってことはよくわかった >>213
でも人口はむかしからメチャクチャ多いぞ >>213
巨大都市を展開できるような平野は少ないが、
バラければ、もっと住める
中央高地とかを除けば、たいていのとこには人が住める これから、リニアモーターカー、自動運転車、自家用飛行機で交通革命が起きる
そしたら、地方に人口が分散するだろう >>214
18世紀あたりの世界だと、清とムガール帝国が横綱で、
日本とオスマン帝国が大関という感じ ムガールよりオスマンのほうが強大なイメージなんだが
でも人口なら確かにムガールのほうが上だろうな >>205 そりゃイギリスの山なんかヒマラヤやアルプスよりはるかに昔にできて、後は削られていくだけの存在だもん
千葉やキューバのは地球規模では比較的新しい山なのに、なんでこんなにしょぼいんだろう >>220
中国とインドは、当時から人口だけはケタ違いに多いけど、
その大半が農村にいる余剰人口なので、頭数ほどの力がない。
これは今に始まったことでなく、当時からそういう傾向があった。 今の世の中だって、後世の人々から見れば、
中国よりも
ロシアのほうが強大な国に見えるだろう。 インド人は本当に、「土人」という言葉がよく似合う人々 でも、色黒だけど、顔立ちは北欧系かドイツ系みたいな顔をしている >>225
そうかな
アボリジニ的な要素がある
ほかのコーカソイドとは明らかに違う アボに一番風貌が似ているのはインド人。
特に東と南 オーストラロイドにコーカソイドやモンゴロイドを適量混ぜると、丸っこい愛嬌のある顔立ちになるか インド美女の笑顔には、ほんと癒されるな
それに比べて朝鮮人顔は・・・(以下略) >>227
世界広しといえど、顔だけで国を特定できる民族はインド人だけだろうな と思ったけど、アフリカならいるか
ピグミーやコイサンとか >>236 インド人とバングラデシュ人とスリランカ人とネパール人とパキスタン人とモルジブ人だと見分けがつくかな? インド人同士なら、顔を見ただけでカーストの見当がつくというのは聞いたことがある チャンドラ・ボースが、1945年に事故死していたことをインド政府が公式に認めた。・・・
https://news.infoseek.co.jp/article/170605jijiX362/
インドって変わってると思わず、インドにとって、ボースがそんだけ巨大な英雄だった、
と受け止めるべきだろう。 >>238
バングラデシュ人は知らんが、近所のパキスタン人は全員完全なインド顔だな 正直、インド半島は純オーストラロイドで、
コーカソイドとの交雑地帯はもっと北でも良かったな
オーストラロイドが全体的に不甲斐ないので、
もう少し活躍してほしかったところ しかし、アーリア人なしでインド哲学が成立したとは思えない
観念的な思考にかけて、アーリア人に並ぶ者はいない >>244
インドネシアの人口が爆発的に増え続けているから心配ない >>245
しかしインダス文明はオーストラロイドなんだろ?
混血はあるだろうが >>246
インドネシアはオーストロネシア語族で台湾発祥のモンゴロイド
南下過程でオーストラロイドのネグリトと混血はしてるが、どう見ても南インド以下 フリーマンの先達ともいえるイボンヌ・グーラゴング
http://3.bp.blogspot.com/-DCgX_tAQ7T4/Tf8CHM2KjOI/AAAAAAAACy0/W3gVwWSbTEQ/s1600/%25E3%2582%25B3%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC.jpg
このタイプは南インドにはあまりいないかな?一応姓からも分かるようにアボリジニ系だけど
アジアン隅田みたい
両親ともにウィラジュライという民族の出身だそうだけど、混血は進んでる感じだな
>Her parents, Kenny Goolagong (an itinerant sheep shearer) and Melinda, are members of the Wiradjuri people. そもそもインドには中東要素が濃すぎてアカン
中国並みの孤立度はほしい >>250
それは仕方ない
陸路はともかく、海では、アラビア半島とものすごく近い >>245
インド思想って観念的になるの?
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