ヒンドゥー文明・インド文化圏・インド人の歴史2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>649
そりゃ、ガンジーの子孫で国民会議派の人が書いてるんだから、それくらいは言うだろ >>650
>>641が引用している以下の部分は、別にガンディーが忘れ去られようとしている、という趣旨のことが書かれている
わけではない、ということ
The Gandhi of a hundred battles, scarred but not fallen, is facing his greatest challenge in India today.
The challenge of neglect, of obfuscation, of cunning co-optio
その記事を、ガンディーが忘れ去られようとしている、という趣旨の記事として引用したのは
間違っていると思う、という話なんだが・・・・・
ガンディーの融和思想は当時から試練に晒されていたから暗殺されてしまったわけで、
当時も今も試練に晒され続けている、というような話でしょ、その記事
記事全体の趣旨が、ガンディー流の融和主義が現在のインドで廃れようとしているから
ひ孫がそれを否定するためにこの記事を書いた、という解釈はできなくもないが、どうみても>>641は、
この記事自体がガンディー忘却が進んでいることを指摘しているような書き方だよね
それは違うでしょ、という話 >>651
「ガンディー流の融和主義が現在のインドで廃れようとしているから
ひ孫がそれを嘆いている」
というのが、この記事の主旨 >>652
ひっかかったね
この記事は融和主義のことなど書いてない。
記載されているのはガンディーの非暴力主義についてだ
ただしくは、
「ガンディー流の非暴力主義が現在のインドで廃れようとしているから
ひ孫がそれを嘆いている」
だ >>653
ムスリムとヒンディーの融和が、この記事のテーマ ガンジーは、ヒンドゥー教の国(インド)と、イスラム教の国(パキスタン、バングラデシュ)に分かれることに強く反対していた。
もはや、それは遠い過去となり忘れ去られつつある。 >>654
>ムスリムとヒンディーの融和が、この記事のテーマ
内容ちゃんと読もうよ
>>641の文章がそのまま某サイトに書いてあるが、
ちゃんと英文の内容を読まずにコピペするからこういうことになる
記事のリンク貼っとく。 ちゃんとした人はリンク先を読めばわかる
https://www.nytimes.com/2017/08/14/opinion/gandhi-wont-leave-india.html
結局、>>641、>>652、>>654は読みもせず、コピペ元を鵜呑みにして、人に訳させて、
自分の都合のいいように「この記事のテーマは・・・・」とわかったように語ってみせてるだけだ、
ということが良くわかったよ・・・・・ >>656
記事の最初から最後まで、ヒンドゥー教徒とムスリムの対立の話ばかりなんだが。
・・・大丈夫か? >>656
文系学問板の住人を、あまりにもナメているな(笑)
こんな英文記事のひとつやふたつ、日本語で書いてあるのと変わらんわ。
一体、どーなってるの? >>657
違うね。ムスリムの話は最初の方だけで、ヒンドゥー至上主義とその暴力の批判に展開し、
カンディーの非暴力を説く、という展開だよ。いい加減読みなはれ >>657
>日本語で書いてあるのと変わらんわ。
凄いね。新聞特有、及びインド人特有と思われる言葉遣いもあるのだが、日本語と同じレベルで読めるとは・・・ リンク先訂正
>>658
>日本語で書いてあるのと変わらんわ。
凄いね。新聞特有、及びインド人特有と思われる言葉遣いもあるのだが、日本語と同じレベルで読めるとは・・ 追加
>>657
>文系学問板の住人を、あまりにもナメているな(笑)
以下の文言は、文科系住民をなめているのではなく、逆に文科系住民なら、
ちゃんと読むし、読めるだろう、という意図で書いた
>記事のリンク貼っとく。 ちゃんとした人はリンク先を読めばわかる
>https://www.nytimes.com/2017/08/14/opinion/gandhi-wont-leave-india.html >>659
>ムスリムの話は最初の方だけで、ヒンドゥー至上主義とその暴力の批判に展開し
だから、その「ヒンドゥー至上主義とその暴力」が向かってる対象がムスリムなのであり、
それが要するに、ムスリムとヒンディーの対立の話なんだっての。
記事を書いた人が今、何に対して問題意識を持っているのか。
そこを考えてみよう。 >>663
「「ヒンドゥー至上主義とその暴力」が向かってる対象が「ムスリムだけ」とは書いてないでしょ
中段で、何が今日のインドで問題となっているか、読んで考えてみよう
#土曜日深夜だから(もう日曜早朝に近いけど)、このまま朝までつきあってもいいけど、君の代わりに翻訳させられる気がしてきているので、それも何か嫌なので、そのうち寝るかも >>664
だから、翻訳なんかしてくれなくていいんだっつーの。
こちらは、日頃から英文も日本文もごちゃ混ぜに読んでいる。
両方とも、読むのが速い(笑) >>664
そう。それなら>>652みたいに、「融和を説いてる」なんてひっけにひっかからないのでは? なんか、インド史やインド情勢の話じゃなくて、英文解釈の話になってきたな。
そんなことより、今のモディ政権はヒンドゥー至上主義者の政党で、
ガンジー一族のような保守本流から見れば危険な政権だ。
インドは、パキスタンとも、中国とも、戦争勃発寸前なほど国境が緊張している。 >>666
ていうか、今のインドで何が一番の問題になっているかって言ったら、
ヒンドゥー至上主義者とムスリムの対立が激化してることなんだよ。
日本の「嫌韓」とは、深刻さが比べ物にならない。
モディ首相みずからが、根っからのヒンドゥー至上主義者だ。
保守本流の「ガンジー王朝」から見れば、これは危うい。 ナレンドラ・モディの二つの顔 ―― 経済成長とヒンドゥー至上主義の間
経済改革を主張するインドのモディ首相。
ヒンドゥー教指導者を州首相に指名したモディの動きを前に、この国の民衆は大きな疑問を持ち始めている。
・・・改革がうまく進まない場合にはヒンドゥー至上主義というアイデンティティ政治に軸足を移し、アイデンティティ政治でうまくいかなければ改革と経済成長を主張する。
モディは改革者であると同時にヒンドゥーナショナリストでもあり続けている。
この二つの顔を併せ持っていることが、モディがもつ最大のセールスポイントなのだ。 >>648
にわかがよくやる勘違いだが今のガンジー王朝はネルーの子孫であのガンジーの子孫ではない ルー・ガンディー・ファミリーは、主にインド国民会議(INC)を担ってきたインドの著名な政治王朝である。
1947年のイギリス支配からの独立以降の最初の65年のうち、合わせて約37年間にわたって首相を務めてきた。ザ・ガーディアン紙は同じく悲劇に彩られたケネディ家と対比し、「ネルー・ガンディーのブランドは世界で他に類を見ないほどである」と評した。
ジャワハルラル・ネルーの娘、インディラ・ネルーはフィローズ・ガンディー(マハトマ・ガンディーとは血縁関係は無い)と結婚した後に、インディラ・ガンディーと名前を変更した。 解決済の質問
ガンジー様のご子孫って現在もいらっしゃるのでしょうか?
教えてください。
おねがいします。m(_ _)m ベストアンサーに選ばれた回答
マハトマ・ガンジーならば、
36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って
(どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しいですが)
禁欲を開始するなどのブラフマーチャーリヤの誓いを果たしたことで、
子どもは作りませんでした。
インディラー・ガーンディーはネルーの一人娘で、ガンジーとの血のつながりはありません。 その他の回答
インドの独立運動リーダ−で世界から尊敬されたマハトマ・ガンジー翁ですね
伝記によれば男の子が3人あったそうです
25年ほど前に世界で公開された映画"ガンジー"には翁が若い頃住んでいた南アフリカの自宅で男の子達と遊ぶ若き日のガンジーの姿が映ります
ですから現在お孫さんや曾孫の人たちも大勢居られると思います
なお翁の伝記にはガンジーの長男があまりに偉大な父の名前に押し潰されてアルコール中毒になり、父親の国葬の日に貧民窟で酔い潰れていた悲惨な姿を伝えています GOPALKRISHNA GANDHI は、「マハトマ・ガンジーのひ孫」ということだが、
ガンジーは禁欲主義者で子供がいないんじゃなかったのか?(笑) >>677
ガンディーの子供について書かれた本
『ガンディーを継いで―非暴力・不服従の系譜 (NHKスペシャル 家族の肖像)』 単行本 – 1998/3
塩田 純 (著)
映画もある
https://en.wikipedia.org/wiki/Gandhi,_My_Father 普通に結婚して弁護士してた時代長いんだがそういうことも最近のゆとりは知らんのかな 歴史スレ的には、ヒンドゥー至上主義の最大の問題(あくまで学問版としての)は、
御用学者を用いて歴史を捏造している点(インダス文明はアーリア人の文明だったと「学問的に証明」する
とか、古代インドで食用された牛の骨が発掘されているのに、それを主張するインド人学者を
弾圧するとか)と、インドでもやってるんだから、日本でも神話を歴史として扱うことをやっていいだろ、
と主張する人々がでてきているところだと思うんだが >>684
歴史を捏造するとは、朝鮮人みたいだな? >日本でも神話を歴史として扱うことをやっていいだろ、
と主張する人々がでてきている
神功皇后の三韓征伐とかは、「史実」という位置づけでOK? >>686-687
日本会議のような人々に聞いてくれ 岸信介と佐藤栄作、安倍晋三と岸信夫
この人たちの兄弟関係のほうが、よほどややこしい 麻生太郎は、大久保利通・吉田茂の子孫
本人は炭鉱会社のオヤジだが、外国では「日本を代表する名家の血筋」として、なぜか一目置かれる
ネルー・ガンジー・ファミリーの権威もすごい 宗教やカーストを意識しない
西葛西の“リトル・インド”は2000年代以降に急激に増えたニューカマー(新参者)の集団であり、
しかも短期滞在のIT技術者が多いので出入りが激しい。その裏返しとして、宗教施設がない。
正確にいえば、ヒンドゥ寺院があるにはあるが、“リトル・インド”のための寺ではない。
ISKCON(International Society for Krishna Consciousness〈国際クリシュナ意識協会〉の略称)と呼ばれる、
1960年代半ばにインド人が米国で創立した宗教団体の寺。
「ハレー・クリシュナ」と唱え続けるのが特色の新興のヒンドゥ教で、ビートルズのジョージ・ハリスンが関わったことで知られる。
逆上陸する形で、今ではインドにも寺院を建てている。
日本で活動を始めたのは70年代だが、中野区から江戸川区の船堀駅そばに移ってきたのは6年ほど前である。
それまで日本人による活動が主だったが移転前後からインド人が関わるようになり、
いまでは寺の運営方針を決める7人のメンバーのうち4人がインド人だという。
ひとりに話を聞いたが、ムンバイ出身の彼は日本の有名なIT企業に勤務するIT技術者だった。
日曜の礼拝では日本人の信者たちが熱心に「ハレー・クリシュナ」を唱和するかたわらで、子供連れのインド人家族が静かに参拝している。
この寺では、日本人僧侶がインド人から「プージャ(お祈り)」を頼まれることが増えた。「ムンダン」と呼ばれる、子供の髪を切る儀式などだ。
西葛西周辺には僧侶がいないので、ISKCONの寺院にその役割が求められるようになっている。
インド研究者の神戸大学の澤宗則教授は、西葛西の新しいインド人コミュニティが神戸のインド人共同体と違う点は、
宗教やカースト・コミュニティの集団的なアイデンティティを育む装置がほとんどないことだと指摘している。
宗教施設がその典型だ。タトゥワ・インターナショナルスクール教師のカーラは、
東京のインド人学校で育つ子供は宗教やカーストをインドにいるときほど強く意識しなくなると語っていた。
インドで暮らせば、日々、自分が属する宗教やカーストを再確認させられる。
逆説的だが、東京では、「インド人」というナショナリティによって自己を確認する傾向が強くなる。
だから、「新しいインド人」が育つとカーラは考えている。 新たな共同体として
西葛西に「リアルなリトル・インド」を建設しようという動きがある。一般社団法人「リトルインド東京」は2年前に設立された。
ヨガ教室やカレーショップなどが立ち並ぶ「インドストリート」をつくるなどの目標を掲げるが、もっとも重要な課題がヒンドゥ寺院の建立だ。
リトルインド東京の発起人は江戸川インド人会会長のチャンドラーニと江戸川区議会議員の桝秀行。
桝は、これといって特色のない江戸川区をアピールする方法を思案していた際、
どんどん増えるインド人の存在に気づき、交流を深めるようになったという。
「寺院を建立する候補地は決めています。4億円程度と考えてはいるんですけど、建設費のめどはまだついてない」
IT技術者は出入りが激しく、長期のプロジェクトに巻き込むのは難しい。
担い手の中心は「オールドカマー」になってしまうが、最古参のチャンドラーニはそれでも「リアルなリトル・インド」が必要だと説く。
「日本でこれだけたくさんのインド人が同じ地域に住んだことはなかった。
ここはインド人のフロンティアですよ。わたしはインド人のためにファシリティ(施設)をつくりたい」
いずれ東京を離れるIT技術者と定住者とのあいだに温度差があるのは致し方ない。
興味深いのは、チャンドラーニが「シンド商人」の末裔だということである。 シンド州は現在はパキスタンに属する。州都はパキスタン最大の港湾都市カラチ。シンド州はかつてはインドだった。
1947年にパキスタンがインドから独立した際、パキスタンに編入された。
チャンドラーニ家はシンド州タッタの地主で、カラチを拠点に国際貿易を行っていた。シンド商人である。
チャンドラーニがカルカッタで生まれ育ったのは、イスラム教の国として建国されたパキスタンが独立する際、
両親が命からがらインドへ逃れてきたからだ。ヒンドゥ教徒が大量に難民化したのである。
シンド州には一度も行ったことはないが、喪った故郷へのチャンドラーニの思い入れは深い。
近代国家日本が開国した際、いち早く日本にやってきたのがシンド商人だった。
1880年代のことである。シンド商人は神戸に共同体を形成している。
チャンドラーニが来日する前、従兄が関西に住んでいたのもそのためだ。
UR住宅にインド人を送り込むことで“リトル・インド”に貢献している石川カマルも、じつは、シンド商人の一統だ。
祖父母の代にシンドからボンベイへ逃れた。母方の祖父の弟が今も神戸に住む。
多くのIT技術者を知るカマルは、「残念ながら、日本に興味をもつ人は少ないです」と明かす。
関心事は日本でどれだけ蓄えを増やせるか。「日本にも原因はあるよ」とカマルは控え目に付け加えた。
UR以外の物件ではインド人の入居を渋る家主は多いし、UR住宅でも「インド人の子供がうるさい」と隣人が苦情を寄せることが珍しくない。
よりよい報酬を求めて国際労働市場を渡り歩く技術者たちは、フェイスブックなどを介してつながる、いささかバーチャルな集団である。
ニューカマー(新参者)がオールドカマー(古株)に支えられながら、“リトル・インド”は大海に漂う小舟のように存在している。
「リアルなリトル・インド」を西葛西に建設する試みは一筋縄ではいきそうにないが、
そんなことに頓着せず、「新しいインド人」を育む学校で子供たちは学ぶ。
東京に生まれた「小さなインド」では、グローバリゼーションという濁流のただなかに共同体を創造する実験が今日も密やかに進められている。 インドは長い州名が多い、覚えきれない、ウッタルプラデシュ州ってどこらへん
>インド北部ウッタルプラデシュ州ムザファルナガル近郊で19日、旅客列車が脱線し、
>地元メディアによると、少なくとも23人が死亡、60人以上が負傷した。 ウッタル(北の)
プラデシュ(州)
ネパールの近く
Gのあたりがウッタルプラデシュ
パ A
キ B チベット
ス C D ネパ
タ E −ル★ブータン
ン F G H ★★★
I J KLバングラデシュ
M N
O
P
Q
RS
スリランカ
★は七姉妹州など >>691
別にややこしくはないだろう
昔は親戚から養子を取るなんて普通だったし
細川と近衛なんかもそうだろ 中央(マディヤ)プラデーシュってのはある(J)
意味は知らないが
アーンドラ・プラデーシュ(P)
アルナーチャル・プラデーシュ(★)
ヒマーチャル・プラデーシュ(B)
などがある ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール
「1947年までにはガンジーの活動はすっかり尻窄みとなっていたというのに、
どうして英国は慌ただしくインドを去る必要があったのか?」
クレメント・アトリー
「いくつか有るが、最大の理由は、ボースの軍事活動により、英印軍のインド人兵士達の
英国に対する忠誠心が崩壊したからだ。」
ラメシュ・チャンドラ・マジュムダール
「英国がインドから去る決定を行うに当たって、ガンジーの影響はどれくらい有ったのか。」
クレメント・アトリー
「ほぼ無い。」 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「くろんぼ共は、概して文明化されておらず、受刑者達は一層そうである。
連中は手に負えず、不潔で、ほとんど動物のように生きている。
くろんぼ達の生業は狩猟であり、妻を買うために必要な数の牛を集めるのが
彼等の唯一の大志であり、妻を買った後は怠惰と裸体のうちに人生を送る。」
「君はゴスペルを牛に教えようというのかね?
不可触賤民の幾ばくかは、その理解能力に於いて、牛より酷いのだよ。」
「不可触賤民制を廃止したとしても、それは、カースト内のヒンドゥー教徒が
元不可触賤民達と食事を共にしなければならない事を意味しない。」
─── マハトマ・ガンディー 「残虐超人の戦いは冬の太陽の光を同じである
それは照らしはするけれど
決して暖めはしない」
―――カレクック 解決済の質問
ムガル帝国時代の質問です。
なぜ東イスラーム世界では公用語がペルシア語になったのかを詳しく説明してくださる方お願いします。
具体的に言うと、
イラン人が行政官僚で、トルコ人が軍人
とか、
セルジューク朝が行政用語としてペルシア語使用とか、
モンゴル政権でペルシア語が広く使われたなど ベストアンサーに選ばれた回答
イスラーム誕生以前、ササン朝ペルシアは非常に高い文化を持っていました。ペルシアからみればアラブなど砂漠の野蛮人です。
征服当初こそアラブの勢いに呑み込まれたものの、時間がたてばペルシア文化の底力が出てきます。
ウマイヤ朝を打倒したアッバース革命の主力はイラン(ペルシア)人たちだったので、アッバース朝の時代からペルシア人が重用されます。もともとペルシア人には知識や教養の伝統があるので、文治官僚には最適だったわけです。
アラブ人はコーランこそアラビア語で読ませたものの、日常会話までアラビア語を押しつけてはいません。アラブ人が大挙して移住した北アフリカはアラビア語圏になりましたが、もともとペルシア人が多いイラン高原は一貫してペルシア語圏のままです。 それでもアッバース朝時代の政府公用語はアラビア語でしたが、帝国が衰えると傭兵としてイラン系ダイラム人や中央アジアのトルコ系遊牧民が活用され、ついには彼らが国を乗っとる。
ブワイフ朝やサーマーン朝はもともとペルシア人の傭兵隊長(ブワイフ)や地主貴族(サーマーン)が建てた国だから、わざわざアラビア語を使う必要はありません。
またトルコ系のガスナ朝やセルジュークにしても、官僚として使えるのはペルシア語を話すイランの知識人たちなので、公用語はペルシア語一択です。 こうして東方イスラーム世界の共通語はペルシア語となりました。
しかも、もともとペルシア語は「中東のフランス語」と言われる優雅で洗練された響きをもつ言語であり、ササン朝以来の文学の伝統もあります。
トルコ人やモンゴル人も多数のイラン人を支配するのにペルシア語は便利だし、ペルシア語の持つ高い文化性に魅了されていったのです。
かくてモンゴル帝国とその後継国家もペルシア語を公用語として採用します。 解決済の質問
ムガル帝国の公用語はペルシア語とウルドゥー語のどちらですか!? 公用語というのは政府内で使用されていた言葉ですか?それならペルシャ語です。
バーブルの時代はチャガタイトルコ語が使われていましたが、フマユーンやアクバルの時代からペルシャ人の影響が強くなり、ペルシャ語が使われるようになりました。
ちなみにアクバルの時代にフマユーンの妹によって書かれたフマユーン記はペルシャ語によるものです。 ウルドゥー語は政府公用語としてではなく民衆語としてシャージャハンもしくはオーラングゼーブの時代あたりからデリーなど北インドで使われはじめました。
ただし原型はもっと古かったという説もあります。
そして18世紀のはじめくらいから抒情詩などもウルドゥー語で書かれ始めました。
ムガル最後の皇帝バハドゥール=シャー2世はウルドゥー抒情詩の著名な詩人ですが、その時代も政府公用語はペルシャ語でした。 ペルシャ語は当時知識人の言葉としてとらえられており、今の英語のような感じで学ばれていました。
ムガル帝国の領土は広大で様々な言葉を話す民族がおり、彼らはペルシャ語という公用語により結ばれていました。
ウルドゥー語はあくまでも北インドの民衆語でした。 インドは、ペルシア語を公用語としていた国
あまりにもペルシアから受けた文化的影響が大きいため、それなしのインドを想像するのは不可能 イラン人が中華思想を持つのも、無理からぬところがある 20世紀でもムハンマド・イクバールも最初ペルシャ語で詩集出して、なかなかウルドゥー語で出そうとしなかっったしペルシャ語の権威は強かったんだろうな >>719
欧州だったら、似てるというほど似てる言語は無いでしょ >>722
だから、>>721で答えてるじゃないの?
日本語が苦手なのか? アスぺの子かな?
その似てない欧州語の中で強いて似てるものを挙げるとすればどれ?と
聞いてるんじゃないのか>>719は まあ、強いて言えば(ホントに強いて言えばだが)、
バルカン半島のスラブ系言語でしょうな。 [参考] 印欧語族の系統樹
http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/lib/indo-european_family_tree_by_fortson_small.png イラン人に言わせれば、「俺たちはドイツ人と同じアーリア系なのだ」ということになるわけだが、
実際にイラン人とドイツ人がどれだけ系統的に近いかっていったら疑問符
でも、ペルシア語とサンスクリット語は明らかに系統が同じ アーリアン学説
アーリアン学説(アーリアンがくせつ)、アーリア人種論 は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語を使う全ての民族を、共通の祖先アーリア人から発生したものとする学説。
この場合、アーリア人という名前は拡大解釈される。
この拡大解釈された意味でのアーリア人をアーリア人種(アーリアじんしゅ)と呼ぶことがある。
学説としての根拠に乏しく、アーリア神話とも呼ばれる。 アーリアン学説は、インド滞在中のイギリスの法学者・言語学者ウィリアム・ジョーンズの諸言語の比較研究を端緒とする。
彼は1786年にイギリス植民地下のインドのカルカッタに高等法院判事として赴任し、サンスクリット語の研究を手掛けた。
サンスクリット語の語彙の豊富さや文法構造を称賛し、それがギリシア語やラテン語をはじめとするヨーロッパ諸言語と非常に類似していることを指摘した。
ショーンズはこの事実から、それらの言語のほか、ゴート語、ケルト語、ペルシャ語などインドやヨーロッパの諸言語が全て「ある共通の源」から派生したという学説を立てた。 この学説は、多くの学者によって継承・展開され、比較言語学におけるヨーロッパの諸言語の起源への問いは、徐々に「ヨーロッパ文明の起源」そのものへの問いに移り変わっていった。
ヒンドゥー教の聖典『リグ・ヴェーダ』を翻訳したドイツ人のマックス・ミュラーが、この潮流に大きな役割を果たした。
ミュラーは、インド・ヨーロッパ諸語の原型となる言葉を話していた住民は共通した民族意識を持ち、
彼らがインドからヨーロッパにまたがる広い範囲を征服して自らの言語を広めた結果としてインド・ヨーロッパ諸語が成立したとする仮説を唱えた。 英語three ラテン語tres ギリシア語treis サンスクリット語traya
英語you ラテン語tu ギリシア語tu サンスクリット語tvam
英語father ラテン語pater ギリシア語pater サンスクリット語pitar
英語mother ラテン語mater ギリシア語mater サンスクリット語matar
英語new ラテン語novus ギリシア語neos サンスクリット語nava ジャハーンギールの治世は、ミールザー・ギヤース・ベグなどイラン系の人々が官僚として宮廷で活躍した時代でもあった。
16世紀から17世紀、ムガル帝国とサファヴィー朝のカンダハールをめぐる争いを除けば、インドとイランの関係はおおむね友好で、ムガル帝国やデカン・スルターン朝では官僚として雇用された。
ムガル帝国はサファヴィー朝の十数倍の人口をもち、首都デリーを中心に栄え、宮廷の公用語がペルシア語で、宗教的にも寛容であり、彼らにとっては最高の仕官先だった。 近世イスラムの三帝国といえばオスマン帝国・サファヴィー朝・ムガール帝国だが、ムガール帝国だけ他の2つとは桁違いに人口が多かった。
でも、文化的にはペルシアがインドを圧倒していた。 極東アジアの三大国といえば日本・大韓民国・中華人民共和国だが、中華人民共和国だけ他の2つとは桁違いに人口が多い。
でも、文化的には韓国が中国を圧倒している。 そういえば、人口比が似ているな
オスマン:サファヴィー:ムガール
日本:韓国:中国
3:1:30
(サファヴィー朝については人口統計が存在しないが、オスマン帝国よりかなり少なかったと思われる) オスマンでもムガールでも、華やかなサファヴィー朝のペルシャ文化に人々は魅了されていた
日本人や中国人が、韓流に熱狂するのに似ている <丶`∀´>日本人や中国人が、韓流に熱狂するのに似ているニダ ロヒンギャ人とベンガル人って、言語的には日本の本土と沖縄位違うもんなのかな 日本では、奈良時代から平安初期にかけて、唐の文化を積極的に導入した
ムガール帝国の200年におけるペルシャ文化の受容は、それに匹敵するものがある
インドは、それ以前とは別の国になってしまった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています