蒙古に勝った鎌倉武士最強説 [無断転載禁止]©2ch.net
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一騎打ちの名乗りを上げてるうちに殺された鎌倉武士多数 武士は名乗りなんて上げずに最初から集団戦法で戦ってた(そもそも武士から見て蛮族であるモンゴル相手に名乗りを上げるはずがない)とか、
台風が来たのは日本がモンゴルをボコボコにしてモンゴルが船に逃げ込んだ後だとか、この手のスレではこういう事実をテンプレにすべきだよな
日本史板にいる癖に武士が名乗りを上げてる間に殺されたとか武士が劣勢だったけど台風のおかげで助かったとか、そういう事実に反した捏造に騙されてる方もどうかと思うが インドは知らんがベトナムは撃退した。
ただ、ベトナムは現代最強のアメリカも退けた精鋭国家なんで、別に武士の価値が下がるわけじゃ無い。
後、真偽は知らんがフビライの遺言に日本とベトナムには手を出すなってのがあるらしい。
因みにインドは、後に侵略されてムガル帝国になってる。 ムガールはどっちかっていうとイケメントルコ系もしくはイラン系の血筋じゃなかったか
アクバルやアウラングゼーブは完全彫りの深いイケメン顔
だが、バーブルは知らんがチムールはややモンゴル系顔の要素もはいっていたとか 「モンゴル」を北部インド風に発音すると「ムガール」になるのよw
ぶっちゃけた話、ムガール帝国=モンゴル帝国。 ムガール帝国を乗っ取っちゃったので、最後のモンゴル帝国皇帝はジョージ6世。(なんでやねんw) >>2
>一方蒙古にフルボッコにされた西洋騎士w
西洋を攻めた部隊はトルコ系で、日本を攻めた部隊の主流は朝鮮系だった。 でも欧州を相手にするとフェートン一隻にチンチンにされるレベル >>15
そんなわけねえ。
西洋を攻めた部隊はその後東アジアを転戦してる。
元史はモンゴル軍の東欧侵攻についても最重要史料の一つだぞ。 鎌倉頃の日本武士の弓は名人芸の域だぞ
伏せたり、遮蔽物を盾にしてる人に山なりに射って命中させてたそうだし
和弓は扱いこなすのに技術がいて習得に年数かかるけど
習得すれば命中率、飛距離共に凄い ───────v───────────────────
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( 二二二つ / と)
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|  ̄| ̄ >伏せたり、遮蔽物を盾にしてる人に山なりに射って命中させてたそうだし
ちなみにこれはどういった史料から確認できるの? >チョンは歴史上ホルホルできる時代ないw
マジレスしておくと、高句麗は隋や唐とガチバトルして幾度も撃退していたぞ。
太祖・李世民の遠征すら退けたのだから、半端ない。
いや、胡人(北方遊牧民)の国だと言われたらそれまでだけど。 スレタイで気づくべきかもだけど、なんか面倒臭いスレだな スレタイを「蒙古に負けたシナチョン土人最弱説」に汁 てか、高麗も実は高(句)麗だったんじゃないのか 厳密にいえば 王帝建は、高麗の太祖王建の祖父。
中国人の父が新羅に来たときに、地元の女辰義とのあいだに生まれる。王帝建は、父を探しに唐へ行く旅の途上で、西海龍王の娘の龍女(元昌王后)と結婚して、息子の王隆を生む。
『聖源録』によると、西海龍王の娘の龍女というのは、中国平州出身の頭恩?角干の娘である。その王隆の息子が高麗の初代王王建である。 厳密にいえば
高麗はモンゴルに支配される前は支那系王朝だった 高句麗の版図の北縁は匈奴や鮮卑なんかと接していたのだから
騎馬民族のDNAも汲んでいたともいえる 半島は金魚のフンだから黒歴史にしてやろうと思ったんだけどなあ >>40
というか、鮮卑系の夫余国から分派した国なので、支配階層は民族的には思いっきり北方遊牧民>高句麗 なんで夫余が鮮卑系なんだよ?
まあ少なくとも(ウィキペディアで謎のごり押しがされてる)ツングースではないことは間違いなさそうだが >>32
マジレスするとずーと大国の奴隷かコバンザメやってるだけ >>1
その時の征夷大将軍は武士じゃなくて皇族だよ >>40
そう、高句麗はいまの北朝鮮の領土と同じくらいの版図だと思ってるやつが多いが、大いなる誤り 都の位置からして朝鮮と違うもんな
あれは北方で発祥して南下して北部朝鮮を版図の一部にした国家 エベンキ奴隷として日本に侵略しようとしたら返り討ちにあった チョン王「処女をたくさん集めてモンゴル様に差し上げるニダ」 チョン王「アイゴ―!モンゴル様は世界最強じゃなかったニダ」 >>32
歴史よりも妄想を重視するのがチョン流だからケンチャナヨ 中国文革期の虐殺をユネスコ記憶遺産申請へ 「『モンゴル人だから』で虐殺」 世界南モンゴル会議が発表 [無断転載禁止](c)2ch.net
http://egg.2ch.net/test/read.cgi/dqnplus/1496324380/ 武士(世界最強)>>>蒙古(ユーラシア最強)>>>騎士>>>チョン(奴隷) チョンファン陛下「アイゴ―!ウリは世界最強じゃなかったニダ」 >>63
日本侵攻のうち台風の影響があったのは2回目だけだな。
モンゴル軍は6月初めに博多へ来てあっさり撃退され、それから2ヶ月間も九州近海を
日本軍の追撃から逃げ回った挙句、7月末に台風で船が沈んで逃げられなくなったところを
鎌倉武士の総攻撃で全滅したんだよな。
別に台風の影響で勝ったわけじゃないし。 西洋騎士団は雑魚
奴らはイスラム教徒にスペイン征服されたりコンスタンティノープル陥落させられるほど弱い >>67
イスラムに征服された時のイベリアや
コンスタンティノープル陥落した時の東ローマに
「騎士団」なんてものは無いぞ >>68
元寇の後なら勝った国もいっぱいある。
日本が10万人のモンゴル軍壊滅させたんだから元だって当然弱体化するし。 >>69
コンスタンティノープル陥落させられた西洋騎士団なんだから東ローマじゃなく
ラテン帝国だろ 最初だけ片足踏み入れてあと何か月も上陸できないとか大敗北じゃないか
というかどんだけ無能なんだよ
論外すぎる 14万人のモンゴル軍相手にこれだけワンサイドゲームなら、この時代は日本の武士が世界最強だったと
考えるのが普通だよな
鎌倉武士に勝てる国が他にあるか? 越南陳朝を忘れとる。
でも陳朝は3回もの元寇を跳ね返したはいいものの、
生産力を減滅させてしまい、結局は外戚に国を奪われてしまった。 >>78
陳朝が3回もの元寇を跳ね返したってインチキじゃん。
1回目の元寇の後、王族人質に出したり国内にはダルガチ送り込まれたり、モンゴルの属国化してる。
その後で反旗を翻して勝てたのは、日本が江南軍10万人を壊滅させたから。
つまり日本のお陰だ。 >>84
>日本が江南軍10万人を壊滅させたから
江南軍を壊滅させたのは台風ではないのか?
ヴェトナム人側から見ればインチキに見えるんじゃねえの >>85
江南軍を壊滅させたのは台風じゃないよ。
台風で船が沈んで逃げられなくなったところを日本軍が総攻撃で壊滅させた。 >>85
インチキだと言ってるヴェトナム人はたくさん存在するのか >>87
ベトナムでは1回目の元寇の後で陳朝がモンゴルの属国化したことを教えてないから >>88
インチキだと言ってるヴェトナム人はたくさん存在するのか
って>>85に聞いてるのに、インチキだと言ってるヴェトナム人とやらについて何も説明できてないじゃんか <丶`∀´>ワタシは生粋のヴェトナム人ニダ
<丶`∀´>日本の勝利はインチキに違いないニダ >>89
ベトナム人が何と言おうがインチキはインチキだろーが。
モンゴルの属国化した戦いを跳ね返したことにしてるんだから。 >>91
> モンゴルの属国化した戦いを跳ね返したことにしてるんだから。
なんだよこの国語力のなさはw >>92
インチキだってことについては反論できなくなったわけね >>91
日本史の教科書にも世界史の教科書にも
インチキとは書かれてないんだよねえ 日本史の教科書に日本が世界最強と書かないのは日教組の陰謀だ >>95
「世界最強」を主張しても「元寇」の史実を打ち消すことにはならないけど、
「インチキ」を主張することは「元寇」の史実を打ち消してしまう >>95
歴史の教科書なんてイデオロギー上都合のいいことが書いてあるだけで、歴史の真実じゃない。
史料では、ベトナムは1回目の元寇の後で明確にモンゴルの属国化してる。
跳ね返してないのに跳ね返したと主張するのはインチキとしか言いようがない。 >>98
それは言いだしっぺの>>85がちゃんと説明すべきなんだけど
ずっと逃げまくってんだよねえ >>99
>ずっと逃げまくってんだよねえ
すまんね。社会人なもんで平日は仕事でね
>>86
>江南軍を壊滅させたのは台風じゃないよ。台風で船が沈んで逃げられなくなったところを日本軍が総攻撃で壊滅させた。
これは次の『元史』巻二百八の一文のことを言っているのだろう
>八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去
確かに、船が沈み、帰還するための木材を伐採していたところ、日本軍がやってきて2,3万余を捕虜とした以外、悉く死した、とある。
しかし、この一文は以下の二史料と合わせて解釈する必要がある。
蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一に以下の記載があり、船は悉く壊れ麻の如く溺死したとあり、
>八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。
日本側の史料『鎌倉年代記裏書』にも
>閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々
と書かれている。もちろんこの史料そのものの妥当性を検討する必要があるが、とりあえずこれら史料にもとづくと、
兵士の半分は溺死し、范文虎は残りの兵士を見捨てて帰ろうと主張したが、張禧は生き残った者たちで
木材を伐採して船を造り、敵から食料を奪って帰還しようと提案した、ということになる。
船が沈んで半数が溺死して、指揮官の一人が生き残った兵士を捨てて、帰国しようといい、もうひとり
の指揮官も、敵から食料と木材を調達して兵士を回収して帰国しよう、といっている。つまり、敵指揮官二人とも
帰国しようと言っている。こんな状態の敵兵を日本軍が壊滅させた、というのは無理がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています