>>99
>ずっと逃げまくってんだよねえ
すまんね。社会人なもんで平日は仕事でね

>>86
>江南軍を壊滅させたのは台風じゃないよ。台風で船が沈んで逃げられなくなったところを日本軍が総攻撃で壊滅させた。
これは次の『元史』巻二百八の一文のことを言っているのだろう
>八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去
確かに、船が沈み、帰還するための木材を伐採していたところ、日本軍がやってきて2,3万余を捕虜とした以外、悉く死した、とある。
しかし、この一文は以下の二史料と合わせて解釈する必要がある。

蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一に以下の記載があり、船は悉く壊れ麻の如く溺死したとあり、
>八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。
日本側の史料『鎌倉年代記裏書』にも
>閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々
と書かれている。もちろんこの史料そのものの妥当性を検討する必要があるが、とりあえずこれら史料にもとづくと、
兵士の半分は溺死し、范文虎は残りの兵士を見捨てて帰ろうと主張したが、張禧は生き残った者たちで
木材を伐採して船を造り、敵から食料を奪って帰還しようと提案した、ということになる。

船が沈んで半数が溺死して、指揮官の一人が生き残った兵士を捨てて、帰国しようといい、もうひとり
の指揮官も、敵から食料と木材を調達して兵士を回収して帰国しよう、といっている。つまり、敵指揮官二人とも
帰国しようと言っている。こんな状態の敵兵を日本軍が壊滅させた、というのは無理がある。