蒙古に勝った鎌倉武士最強説 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>99
>ずっと逃げまくってんだよねえ
すまんね。社会人なもんで平日は仕事でね
>>86
>江南軍を壊滅させたのは台風じゃないよ。台風で船が沈んで逃げられなくなったところを日本軍が総攻撃で壊滅させた。
これは次の『元史』巻二百八の一文のことを言っているのだろう
>八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去
確かに、船が沈み、帰還するための木材を伐採していたところ、日本軍がやってきて2,3万余を捕虜とした以外、悉く死した、とある。
しかし、この一文は以下の二史料と合わせて解釈する必要がある。
蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一に以下の記載があり、船は悉く壊れ麻の如く溺死したとあり、
>八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。
日本側の史料『鎌倉年代記裏書』にも
>閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々
と書かれている。もちろんこの史料そのものの妥当性を検討する必要があるが、とりあえずこれら史料にもとづくと、
兵士の半分は溺死し、范文虎は残りの兵士を見捨てて帰ろうと主張したが、張禧は生き残った者たちで
木材を伐採して船を造り、敵から食料を奪って帰還しようと提案した、ということになる。
船が沈んで半数が溺死して、指揮官の一人が生き残った兵士を捨てて、帰国しようといい、もうひとり
の指揮官も、敵から食料と木材を調達して兵士を回収して帰国しよう、といっている。つまり、敵指揮官二人とも
帰国しようと言っている。こんな状態の敵兵を日本軍が壊滅させた、というのは無理がある。 >この一文は以下の二史料と合わせて解釈する必要がある。
すまん。もうひとつあった。史料は全部で四つになる
『元史』巻一百六十五
>八月、颶風大作、文虎、庭戰艦悉壞、禧所部獨完、文虎等議還、禧曰、士卒溺死者半、其脱死者、皆壯士也、曷若乘其無回顧心、因粮於敵以進戰 >>98
>越南の歴史教科書にはどう記載されているんだろう?
そのうち図書館で邦訳版を参照してみるよ
一応大越史記全書を参照してみるが、小倉貞男の『物語ヴェトナムの歴史』でもスルーしているから、
書いてないと思う。小倉では第一次も陳朝が撃退したことになっているから、大越史記全書には
そのように書かれている可能性が高い >>100
インチキだと言ってるヴェトナム人はたくさん存在するのか
って>>85に聞いてるのに、インチキだと言ってるヴェトナム人とやらについて何も説明できてないじゃんか >>103
>インチキだと言ってるヴェトナム人とやら
すまんね
>ヴェトナム人側から見ればインチキに見えるんじゃねえの
これ、文法的に仮定法だから >>104
なあんだw妄想だったのか
平日は仕事ってのも妄想だったりしてなw >>105
妄想かどうかは、ベトナム人とそういう話ができる時がきたら、してみるよ
>日本が江南軍10万人を壊滅させたから
で、本題に戻ろうか。
>>100-101に書いた通り、史料を読む限り、江南軍を壊滅させたのは台風になると思うが >>106
結局まだベトナム人とそういう話をしたことないんだよねえ
なら、妄想じゃんか
それと「平日は仕事」ってのはちゃんと証明できるよな?言いだしっぺは>>100 なんだしさ >>107
>それと「平日は仕事」ってのはちゃんと証明できるよな?
はあ、つまらんところに絡んでくるな?そんなにワーキンアワーに返信して欲しかったのか?
>ヴェトナム人側から見ればインチキに見えるんじゃねえの
こっちからもききたいけど、これが仮定法だと一読して理解できないのはどうして?
中学生? >>108
やっぱ証明できないんだなw自称社会人クン
ベトナム人と元寇の話をしたこともないくせに、
ベトナム人の視点を妄想してるようなキチガイなんて全く信用できんわ >>108
>やっぱ証明できないんだなw自称社会人クン
何をどう証明すればいいのかわからないが、日中の返信を待っていたようなので、申し訳ないからと
理由を書いたら、なにやらわけのわからん粘着・・・・
江南軍の壊滅について史料の話をする気はないのかね?それとも会社員がどうとか粘着して逃げるつもり? 失礼、アンカミス
>>109
>やっぱ証明できないんだなw自称社会人クン >>110-111
お前と職場の住所・名前・連絡先を言うか、
在職証明書と身分証明書の画像出すか、をすれば証明になるだろ
言いだしっぺは>>100 なんだしさ
江南軍の壊滅とやらの会話は他のヤツとやってたことだろ
ベトナム視点が妄想だったことを暴かれたからって逃げようとしてんのはお前だろが >>85
台風で壊滅させたらインチキだってルールはないだろ >>102
ベトナムの歴史教科書の邦訳版には1回目の侵攻の後でベトナムがモンゴルの属国化したことは
書いてないよ。 暴風雨>蒙古戦闘員>鎌倉武士
というわけで、暴風雨の勝ち 蒙古は戦闘で鎌倉武士に勝てなかったから暴風雨に遭うまで九州に上陸できなかったんだが >>112
日中返信が出来ないのは仕事しているからだが、それを証明する必要がある、という思考回路がまったくわからん
>ヴェトナム人側から見ればインチキに見えるんじゃねえの
何度も書くが、>>85のこれは仮定法だ。文章読解できるようになれよ >>114
>台風で壊滅させたらインチキだってルールはないだろ
これは、>>84に対する発言
84では、
>陳朝が3回もの元寇を跳ね返したってインチキじゃん。
>1回目の元寇の後、王族人質に出したり国内にはダルガチ送り込まれたり、モンゴルの属国化してる。
>その後で反旗を翻して勝てたのは、日本が江南軍10万人を壊滅させたから。
>つまり日本のお陰だ。
ベトナムが属国化していたのは確かだが、これには段階がある。1257年当時は一応反撃してモンゴル軍は
撤退し、貢納だけですんだ。兵も出さずにすんだ。第一回を勝利したと呼ぶのは違う、というはわかるが、
インチキと呼ぶのはどうかね。第二回、三回目も、モンゴル軍は約10万を派兵していて、日本の元寇の勝利で
弱体化していたことが陳朝勝利に結びつくとは言い切れない。それを>>84が陳朝の勝利をインチキと呼ぶので、
>>85の発言をさせていただいた。暴風雨の壊滅はインチキとよばないのであれば、
その間接的影響を受けた陳朝の勝利もインチキと呼べないのでは?という話
ところで、元軍に従属して南宋滅亡や元寇に参加した陳朝軍はいるのだろうか? >>119
確かにそう。日本軍が耐えたように、仮に元寇でモンゴル軍が消耗したから陳朝が勝利したとしても、
陳朝も、モンゴルがどっかで敗戦して消耗するまで耐えて最終的に勝利した、といえるのではないだろうか >>122
台風の話をしてるのは、>>84じゃなくて>>85だよ
で、台風で壊滅させたらインチキだってルールはない。
ということは理解できたよね >>124
では君も、陳朝も、モンゴルがどっかで敗戦して消耗するまで耐えて勝利したわけで
インチキとはいえない、ということは理解しできたよね? >>125
陳朝の話をしてるのは、>>85じゃないよ
こっちは>>85と元寇の台風の話をしてるの
で、台風で壊滅させたらインチキだってルールはない。
ということは理解できたよね 学校内に駐車したウェンデルの車の中で性的行為に及んだとされている。
女子生徒の父親がメールのやりとりに気づいて発覚した。 >>126
陳朝の話は>>78から>>83-86と継続している話なので、ことの本質の話なので切り離せない。
この話題の本質は、陳朝がモンゴルを撃退できたのはインチキかどうか、という話。
書き方が悪くて話が理解できていないのかも知れないので整理すると、
「台風という外部要因」「他国との戦争での消耗という外部要因」がインチキかどうか?という話。
外部要因をインチキ、と定義するなら、「台風による江南軍壊滅もインチキじゃない?」、そして、
「インチキにより戦力を消耗したモンゴル軍に勝利した陳朝の勝利もインチキじゃない?」
ということになる。逆に、「外部要因はインチキとするルールはない」と定義するなら、
「江南軍の台風による壊滅もルールのうち」ならば、「陳朝の弘安の役敗北によるモンゴル軍戦力低下による勝利もルールのうち」ということになる。
ところが>>86は、それを否定して、
>江南軍を壊滅させたのは台風じゃないよ。
と書いてきたから、>>100で史料ベースの説明をさせていただいた。
ここでいうインチキという言葉は、幸運とか、外部要因という言い方もできるし、
日本軍と陳朝が、予測して持久戦に持ち込んだ結果、といえるかも知れない。 >>129
インチキで押し通せないから後出しで幸運とか言い換えるのかな
でもインチキという言葉に幸運なんて意味はないはず
いんちき
一
( 名 )
勝負事・賭博などで、相手にわからないように不正をすること。いかさま。 「 −をする」
二
( 名 ・形動 )
ごまかしや手抜きがあったり、にせものであったりすること。ほんものでないこと。また、そのさま。 「 −商品」 「 −なやり方に引っかかる」 >>129
それとこのスレ読めば陳朝の話をせず台風の話をしてる書き込みもあるんだから、
>切り離せない。
なんてことはないよ >>130
>インチキで押し通せないから後出しで幸運とか言い換えるのかな
後だしのつもりはなく、こちらは最初から>>129の意図で書いていたのだが、
意図が伝わずに話がくいちがっている可能性があるので、>>129で
>書き方が悪くて話が理解できていないのかも知れないので整理する
と書かせていただいた。
>>131
>>85でヴェトナムの話を出しているのは、>>84を受けたもの。84は>>78を受けたものなのだから、
この流れを理解していれば、陳朝含めた話をしていると理解できるはず。しかしそれでも
説明不足だと考える人もいるかも知れないので、129を書かせていただいた。 >>1
いやいや、台風のおかげだからw
日本は何もしていないw >>132
いや、このスレで最初に幸運という言葉を使ったのは>>129なのだから後出しでしょうよ
しかも>>85は>>84に反論してるだけじゃなく
台風での壊滅をインチキだとするルールを、
新たに設けてしまったんだから、その部分で意見が出るのは当然だと思うよ >>134
混乱させてしまったのであれば、謝る
いずれにしてもこちらの意図(>>85,>>100等)は>>129で書いた通り >>133
自軍は壊滅せずに敵軍だけを壊滅させる台風なんて、
オカルトや魔術のファンタジーじゃよくありそうだけどな >>122
あほくさ
ロシア遠征の後もナポレオンは数十万の兵を集めてるが
それがかっての精鋭と同じものかよ
失った熟練兵の代わりに頭数だけいればいいもんじゃない ベトナムが元に勝てたのは、バクダン川に爆弾がしかけてあったからだよ >>122
いやいや、1257年当時のモンゴル軍はベトナム軍の反撃で撤退したわけじゃないし。
ベトナムの属国化が段階的だったのは、直後に南宋侵攻を控えてたからじゃん。
もともとベトナムへ攻め込んだのも南宋への侵攻路確保が目的だったわけで。
ベトナムが1259年のモンケの南宋侵攻の際、モンゴル軍の自国領通過を許したのも、
その後段階的に属国としての負担増を受け入れたのも、第一回目が明確にベトナムの
軍事的敗北だったからだろ。
あと、第三回目は明らかに日本のお陰な。
陸上で圧倒的だったモンゴル軍が撤退に追い込まれたのは、江南海軍が兵糧の海上輸送に
悉く失敗したから。
もろに弘安の役で日本軍が江南海軍3500艘を壊滅させた影響じゃん。 >>141
>陸上で圧倒的だったモンゴル軍が撤退に追い込まれたのは、江南海軍が兵糧の海上輸送に
>悉く失敗したから。もろに弘安の役で日本軍が江南海軍3500艘を壊滅させた影響じゃん
この部分は元史巻209に以下の記述がある
「船五百艘,雲南兵六千人,海外四州黎兵萬五千,海道運糧萬戶張文虎、費拱辰、陶大明運糧十七萬石,分道以進。」
「張文虎糧船以去年十二月次屯山,遇交趾船三十艘,文虎擊之,所殺略相當。至告洋,賊船益多,度不能敵,
又船重不可行,乃沉米於海,趨瓊州。費拱辰糧船以十一月次惠州,風不得進,漂至瓊州,與張文虎合。
徐慶糧船漂至占城,亦至瓊州。凡亡士卒二百二十人、船十一艘、糧萬四千三百石有奇。」
500隻の船で17万石の食料を運んでいた。ベトナム水軍に攻撃され、退却時に捨てたのは、11隻14300石に過ぎない。
この程度の損害でモンゴル軍が退却した理由が日本のお陰というのは無理があるように思える。
この輜重船団は、張文虎、費拱辰、陶大明の3隊に分かれていたと考えられ(陶大明の指揮官はどこかの時点で徐慶に代わったようである)、
張文虎は、ベトナム水軍に阻まれたのは確かだが、大した損害もなく、
船が重くて進めず米を海中に投棄して海南島に帰還している。費拱辰は恵州を出発したが、
風を得ることができずに海南島に漂着している。更に徐慶もチャンパーに漂着してしまい、その後
海南島に帰還している。500隻がどういう風に三分されていたのかは不明だが、均等にわかれていたとして、
2/3は漂流して補給できなかったのだから、漂流の理由を日本のお陰というのも無理がある。 なお、新元史卷二百五十一によれば、同じ箇所の記載が時系列順に記載してあって、
張文虎の輜重船が到着しなかったので、モンゴル軍は越軍を破り米十一萬三千餘石と米四萬餘石を奪った。
という順番となっている。つまり、輜重船団が持ってくる筈だった食料の88%は越軍から奪うことでまかなうことができていた。
それでも食料不足に陥ったのは、長期戦になり食料が不足したからだと思われる。何故ならば、
「諸将又言天時已熱,粮且尽,宜還帰」とあり、「天時已熱」即ち季節はもう初夏に差し掛かり食料が尽きたということになる。
勿論輜重船団が到着していればまだ継続できたかも知れないが。 >>140
元史卷二百五十一に「此至元二十五年之再敗也」と書かれていて、
元側も二度目の敗北だと認識していたことがわかる 文永の役で逃げ帰ったのを
「矢がなくなったので帰って来ちゃいました、テヘッ」と書いている奴等が
そこまで書いている時点でどれ程苦戦したかわかる
日本にぼろ負けして精鋭を失ったことでまともに遠征できなくなってたんだな そもそも補給艦をまともに動かせなくて、兵糧を投棄したってことは、船員の質も落ちてるな
まあ優秀な船員は博多湾の底だからな >>146
>又船重不可行,乃沉米於海
船が重くて進めないため海中に投棄したとある。船員の能力とは関係がない
ハロン湾のような海賊の巣窟のようなところで早く脱出しようとするために荷物の一部を
捨てることは特に無理がない
>>147
1285年については、「此至元二十二年之一败也」とあり、これに対して
「此至元二十五年之再敗也」と、二度目の負けと書いてあるが?
ベトナム側の大越史記全書にはモンゴル軍に勝利したと書いてあるが? >>148
だからそのアホな言い訳が、矢がなくなったので帰ったって言うのと同じノリだろ
艦隊運動の話をしてんだぞ。
足の重い補給船を先に逃がして、がっちり守りながら下がれよ、水夫に能力があるんなら。
つか戦闘い開始時点で下げとけ
それが出来ないから、足の早い船が先に逃げたんだろ 蒙古とかいう一発屋にフルボッコにされたポーランドwww >>149
輜重船500隻のうち、1/3が張文虎の船団だと仮定すると167隻。失った船団は、
費拱辰と徐慶の船団含めて11隻だが、仮にこの11隻が張文虎の船団だけのものだとしても
損失率は6.6%。寧ろ守れたからこの程度の損失で済んだともいえるのではないか?
その前段で越軍30隻を撃破しているわけだし。
張文虎の船団の運んでいた食料は、17万石の1/3で約5万7000石と仮定
すると、1隻あたりの搭載量は約340石。損失した11隻では3740石。すると、1万560石が
投棄された計算になる。張文虎の船団の167隻のうち11隻を除く156隻に搭載されていた
食料57000石のうち10560石が投棄されたとすると、一隻あたり18.5%を投棄している計算になる。
結構な割合を投棄している計算になるが、それでも6.6%程度の損害で済んでいるのだから
守備隊は善戦した方ではないかな。もし本当に水夫や兵士が無能ならば、自分たちが帰還する間の食料分だけ
残して残り全部投棄して逃げようものだが、輸送量の8割を残して帰還したのだから、無能だとは思えないのだが
寧ろ自分の受けた印象は、張文虎、費拱辰、徐慶三名とも、あまりやる気がないのでは
ないか、というもの。三名とも結構あっさり海南島に戻っている。戻った場所が海南島だというのは、
帰還場所があらかじめ打ち合わせてあったからだと思われる。整然とした退却ぶりには有能無能以前に
やる気のなさを感じる。費拱辰、徐慶は他の場所に登場していないので不明だが、張文虎は
南宋の武将だったとあるので、元軍の余計な海外遠征にまじめにつきあう気がないようにも推測できる。
もちろんあくまで推測だが。 ところで、「艦隊運動の話をしてんだぞ」というからには、艦隊について詳しいのだろうね。
そこでこちらから質問だが、張文虎の船団のうち純粋な戦闘艦も含まれていたと考えられるが、
史書にはこの遠征での船団構成の詳細について記載がない。当時の元軍艦隊構成として
輸送船団のうち、戦艦・輸送船の構成と一隻あたりの平均的な輸送量、護衛兵士数などを教えて欲しい
そういうデータや議論がないところで、
>矢がなくなったので帰ったって言うのと同じノリだろ
というような断定は、自分にはできないので
あと、バクダン江の戦いは、元史安南伝に記載がないので
>>矢がなくなったので帰ったって言うのと同じノリ
で適当に敗戦をごまかしたのかと思っていたら、列伝の方に記載があった。
文永の役も日本伝にはほとんど記載がないが、他の列伝や史料にあるかもね
いろいろ発見があって面白い >>151
自分で長々書いてて気づかんのか?
要するにお前は「元は健闘したし、被害は少なかった。だけどやる気がなかったたから帰って来た」
って言いたいんだろ。
それと文永の役の「十万の日本軍とさんざん戦ったが、矢がなくなったので帰って来ちゃいました」
っていうふざけた記述と何が違う?
同じ事何度も書かすな >>152
後こっち
お前一つ上のレスやそれ以前で、どんだけ仮定や推測してんの?
今さらデータだの詳細ないと議論できないっていうんなら、遡って全部文直してきて >>153
>要するにお前は「元は健闘したし、被害は少なかった。だけどやる気がなかったたから帰って来た」
少し違う。決め付けないし、単純化してないだけ。あんたのは単なるきめ付け。議論について来れないのにギャーギャー煩いなあ
>今さらデータだの詳細ないと議論できないっていうんなら
詳細を調べずに自分本位の結論を振り回すあんたよりはるかにまし。俺は少なくとも調べているから。
あんたこそ、わかったようなことを書くのなら、もっと内容のあることを書こう。
で更に追加すると、張文虎の隊は食料運搬だけで、戦艦隊はウマルが指揮していた。
しかしウマル隊だけが先に1287年11月に交趾に到着し、張文虎隊は12月時点で
バンドンを出発した。ウマル隊と離れてしまった時に越軍の襲撃を受けたので退却した、
という展開。護衛すべき戦艦隊が離れてしまったのだから、この点に関しては作戦ミスだと思えるね。 決めつけてんのはお前だろ、
元史にこう書いてある
↓
書いてないところはこう仮定する
↓
結論はこうだ()
書いてあることがどこまで信頼できるかどうか
文永の役の記述をみてみろよってだけ
あっちを調べたのこっちを調べたの勉強アピールしてんのだから
そこも調べられるだろ >>156
>書いてあることがどこまで信頼できるかどうか
それに異論はない。元史も大越史記全書も、双方自分に都合の良く書いてある、と考えるのが普通だ。
すると両方の書籍に書いてあることが、一応確度が高そうな記載ということになる。片方にしか
書いていない部分こそ、議論の対象になる。いままで大越史記全書をあまり引用していなかったのは、
強大な元軍を破った陳軍、という風に元軍を強大に描くバイアスが入っていると考えたため
(例、元史で輸送船の食料17万石とあるのに大して、大越史記全書は70万石とある。
どっちが正しいかを判断するためにも当時の船の積載量などのデータは必要となる)。
元史日本伝の文永の役の記述は二行しかないが、第三次ベトナム侵攻については安南伝には18行記載がある。
大越史記全書の方は面倒で数えていないが、数百行あるかも知れない。文永の役が二行しかないから、
元史の他の部分も駄目という議論は乱暴すぎるし、大越史記全書は確かに詳細だが、「盛っている」部分も
多いと思われる。元史安南伝にはバクダン江の戦いの記載がないが、これだけで元史が信頼できない、
ということにはならない。なぜなら元史166巻樊楫伝に数行にわたる記載がある。
>文永の役の記述をみてみろよってだけ
あなたに指摘される前に当然見ている。で、俺もお前に元史安南伝と樊楫を読んみろよっていいたい
その上で記載すると、元史によれば、ウマルとともに戦艦を率いていた漢人武将樊楫は元朝になって採用された人で南宋の家臣ではなかった。
一方張文虎は南宋の元家臣だ。樊楫ハグダン江の戦いで戦死しているが、張文虎はなぜかバンドンを
なかなか出発せず、陳朝軍の少しの襲撃で大した損害のないまま引き返している。樊楫と比べると、
張文虎はサポタージュという印象すらうける。で、俺がいいたいのは、この「その上で記載」以降は、
俺の解釈で推測であり、こういう可能性や解釈も考えられるよね?という話であって、こうだった決め付けているわけではない。
同様に、陳朝と戦った元軍が、日本遠征で精鋭がいなくなった凡兵ばかりだったのか、そうではなかったのか、を
決め付けることもできない、ということ。 >>157
だからなんで枝葉に枝葉にと目をむけんだよ馬鹿だな
歴史書に、「一万で四十万を破った」だの「七万で百万を破った」だの書いてあるのは珍しくないが
この百万なんてものを真に受けるものは今時おるまい。
そこでこっちは「じゃあ百万の実数はいくつか」なんて考証屋もどきの話してないんだよ
要するに話の幹は「劣勢だが大軍を破った」っていうことで、それは間違っていないだろ
信頼できる部分ってのはそこなんだよ
そういう大枠ボンボンと押さえろや
今回のは上の逆パターンで、ようは「大軍で攻め込んだが敗けて逃げた」ってだけの話
それに見苦しく「矢がなくなっちゃった」だの「糧は棄てたがちょっとだよ」だのグチグチ言い訳書いているだけだっつうの
勉強屋ぶってチマチマそんな細かいとこばかり見てるから、まんまと書き手の術中にはまってんじゃねえか
大 軍 率 い て 負 け た ん だ よ 追記
文中に文永の役が二行だから元史が駄目云々って書いているが、
まさか俺がそう考えているとでも思ってるのか?
そんなら読解力なさすぎるぞ >>158
>だからなんで枝葉に枝葉にと目をむけんだよ馬鹿だな
馬鹿で申し訳ないが、歴史学は細部の研究の積み重ねの上に成り立つものだからね。
あたりまえのことをしているだけ。それを馬鹿呼ばわりされるとは・・・・ここは学問版だよ?
第三次モンゴルのベトナム遠征に関する学術書籍が見当たらないのだから、細部を
検討することになる。
>大 軍 率 い て 負 け た ん だ よ
そうだよ。それに反対はしてないよ。
ただし数字は大事だよ。元史は最初に約9万の軍勢と書いているのに、撤退する時は30万、
大越史記は50万と書いている。えらい違いだ。こういう違いがどうして出てきたのか、実際の兵力は
どのくらいだったのか、を検討するのはおかしなことでもなんでもない。
俺が反論しているのは、
>>141が、
>あと、第三回目は明らかに日本のお陰な。
>陸上で圧倒的だったモンゴル軍が撤退に追い込まれたのは、江南海軍が兵糧の海上輸送に
>悉く失敗したから。もろに弘安の役で日本軍が江南海軍3500艘を壊滅させた影響じゃん。
と断定しているから、史料からはそこまで断定できない、と細部を列挙しているわけ
その結果、現状日本のお陰だとは思えない、と主張しているわけ。
細部の積み上げを無視した印象論のような話をしているわけではない。 >>157
戦艦を率いてた樊楫と糧船を率いてた張文虎の行動が違うのなんて当たり前じゃん。
糧船なんて基本は制海権確保してる海域でしか活動できないんだから消極的になるしかないだろ。 >>161
その通り。しかしその動きを読まれていて攻撃され撤退しているのだから、現段階では、以下の仮説は成り立ちそうもない、と思う。
>、江南海軍が兵糧の海上輸送に悉く失敗したから。もろに弘安の役で日本軍が江南海軍3500艘を壊滅させた影響じゃん
一方別の考えも取れる。張文虎は海南島まで戻らずに途中停泊していたバンドンに戻り、陸路か何かで
タンロンのウマルに遅延の理由を説明する、という方法もあったが、史料を見る限り、この動きはなく、
ウマルは何度かバクダン川河口へ出向いているので、連絡は無かったと考えられる。張文虎は少し消極的過ぎるように思う。
いづれにせよ輜重船に関しては、戦艦隊は最後まで護衛すべきだった。これは元軍側の作戦ミスだと思う(個人的印象)。
寧ろ元軍のスキルを検討するならば、戦艦隊であるウマル軍を壊滅させたバクダン江の戦いの方となる
のではないかと思う(しかしこれも罠に嵌まったわけだが。とはいえ罠も実力のうちだと思うが)。 >>160
>大 軍 率 い て 負 け た ん だ よ
そうだよ。それに反対はしてないよ。
まてやこら、これ元史に書いてあるんだろうな。
俺の知ってる元史では
「其国(日本)に入って之(日本)を破った。だけど矢がなくなったので帰った」だの
「四万を率いて、十万の日本軍に遭遇してこれを破った」
だの書いてあったぞ、
これをお前は「大軍を率いて負けた」と読むんかよ。元史のどこ前提だよ
だからまず幹だって言ってんだよ。
少数の兵で日本に勝った元軍なのか、大軍で日本に負けた元軍なのか?細かい数はそれからだ。
後俺は>>141ではないが(だから以下の文はあくまで俺の考えでなく二人の意見を敷衍したらという前提になるが)
敗北したという点で合意があるなら、むしろその敗因を史料から読み取れないかという方向でアプローチしてしかるべきだろうな
(つまり、>141のほうが、まだ姿勢としては分かる) >>163
>いづれにせよ輜重船に関しては、戦艦隊は最後まで護衛すべきだった。これは元軍側の作戦ミスだと思う(個人的印象)。
それこそ弘安の役の影響だろ。
江南海軍が3500艘なら輜重船に護衛艦隊付けるなんて余裕だった。 >>163
>大 軍 率 い て 負 け た ん だ よ
これは第三回ベトナム戦のことを書いているのだが? >>164
>それこそ弘安の役の影響だろ。江南海軍が3500艘なら輜重船に護衛艦隊付けるなんて余裕だった。
ちゃんと読みなよ。戦艦隊は護衛についていた。しかし理由は史書に記載がないので不明だが、
バンドンからわかれて、11月に戦艦隊だけ先にタンロンに到着し、12月に張文虎がバンドンを出発した。
戦艦隊が11月末にタンロンに到着したとしても、一週間は間があいている。江南海軍が3500艘云々は
関係がない。寧ろ、ハロン湾のような海賊を跋扈するところで最後まで護衛しない方が不自然。
ハロン湾のあたりの地形と海賊が出没する状況がわかっていれば、戦艦隊だけ先にいくことなど
なかったはず。ハロン湾のあたりの地形に詳しくないようなら、グーグルサテライトで確認してよ
中世日本の瀬戸内海が海賊の協力なしに普通に航行できなかったのと同じで、当時のハロン湾は
険阻な島々に海賊が跋扈して付近を護衛艦なしで航行するなどは考えられない。
寧ろ、蒲壽庚が1285年に死去して、この海域の情報がつかめなくなったことが、作戦ミスの敗因ではないかと思うね >>167
何を引用するのかわからん
ベトナム戦の話をしているのに
>少数の兵で日本に勝った元軍なのか、大軍で日本に負けた元軍なのか?
なんでこんなことを俺がきかれなきゃならんの? >>166
何いってんだか
大将一人死んだって、百戦錬磨の幕僚精鋭がいればヤバい地形なんざ分かる。
それが分かってる熟練は博多湾の底だ >>167
あとさ、あんた少し口が悪いよ
>枝葉に枝葉にと目をむけんだよ馬鹿だな
>勝手抜かさずとっとと引用しやがれ
もう少しマナーを意識したらどう? >>169
蒲壽庚の部下が弘安の役で戦死したなんてどこに書いてある? >>169
>大将一人死んだって
あんた、蒲壽庚が誰だか知らないな?
こんな奴と議論しているのか・・・・ >>168
俺のレスに、一旦反対してないって書いといて、後出しで違う話だってなんだよ
俺 の レ ス だ ぞ
じゃあ>>163の時に何みて大軍が負けたとしたんだよ >>173
>>160で書いた通り、
>元史は最初に約9万の軍勢と書いているのに、撤退する時は30万、大越史記は50万と書いている
ベトナム戦の話をしている。モンゴル側、ベトナム側双方が大軍だと書いているのだから、
大軍だと判断した。問題があるのかね? 俺のレスだって言ってるだろ、
早く文永の役の話を出せ >>175
申し訳ないが、>>160のレスは文禄の役ではなく、ベトナム戦の話として回答した。
文禄の役のソースのソースをなぜ俺が出すのかわからない
あんた、完全にいちゃもんつけてるだけだな
ソースレベルの話は文禄の役の二行についてしか話してないし、それしかできないのだろう いきなり持ち出したんならまだしも、何回も文永をって言ってたのに何いってんだかわからんわ。
それをいちゃもんだと、いい加減にしろや >>177
>>159に今、回答しよう。
>文中に文永の役が二行だから元史が駄目云々って書いているが、
>まさか俺がそう考えているとでも思ってるのか?
まさに、あんたがそう考えていると思っている。
当方は、最初から元史、大越史記全書双方を用いて話をしている。
各々にのみ記載のない事項と、両方に記載のある事項を書き分けていない部分が過去にあった点は
申し訳ないが、今は書くようにしている。両方の事項に共通して記載のある事項ならば、
確度は高いと思ってよかろう、と>>157で記載している。
今回の議論は、第三回ベトナム侵攻時の議論であって、いつまでも文禄の役の記載に拘る理由が理解できない。
元史における文禄の役の記載があやふやだから、元史は駄目、といっているようにしか思えない。 >>177
今後、口汚いレスについては、以下の内容をレスさせていただく。
史料も検討しないで見当違いの議論をいつまでも粘着する奴は、
以下のような下品なレスで相手を罵るしかなくなるようである。
今後、どこまで増えるか楽しみである。
>>158 >枝葉に枝葉にと目をむけんだよ馬鹿だな
>>167 >勝手抜かさずとっとと引用しやがれ
>> 177 >いい加減にしろや >>178
とんちんかんなこと言うな、例えば「三万で攻め込んだがそれより少数の日本軍に撃退された」って書いてあれば、少量でも駄目とは書かんわ
信頼性がなんで字数で決まるんだよ
上の文を漢文にすれば一行でも良さそうだが
じゃあそれだけ一行の史書と矢が尽きただの十万を破っただの何行も書いている史書とがあったとして
どっちが信頼できるんだよ 5.地図 どのように地名を特定したのか不明なので参考程度の資料だが、以下に復元地図を掲載したサイトを掲載する
http://www.360doc.com/content/16/0922/09/253213_592703348.shtml
当方日本の弘安の役がベトナムの勝利にまったく影響してない、とは思っていないが、弘安の役が
主要因かどうかは安直に断定できないと考えている。影響度が50%程度なのか25%くらいなのか、もっと低いのか、
を知りたいと考えている。弘安の役で精鋭兵士が死没したとしても、1281年に25歳の経験、体力ともにピークにある時期の
兵士は、1288年には32歳で老兵に入る時期となる。逆に1281年当時15歳の少年が1288年には25歳となる。
艦船の年間あたりの建造力も考慮する必要がある等、数多くの要因が検討されるべきだと考えている。 >>180
文禄の役への言及が非常に少ないのは、
何か理由があるのだろう。文禄の役なら日本の研究者が大勢研究しているだろうから、
何か理由が見つかるのではないか?必要だと思うのならあんたが調べれば?
文字数で決まるとは確かにいえないが、利害の相反する元史と大越史記全書が共通して書いている
点は確度は高いと考えている。元史と大越史全書は細部で相違も多いが、共通部分も多いので、
検討に値すると考えている。バクダン江は遺跡も残っているしね。様々な要素を検討して
「おおむねこのくらいが史実といえるのであろう」となるものもあれば、「この点は片方にしか書いてないから、
あくまでこの史書によればだが」という程度に留まることもあるだろう。
学者の研究では隔靴掻痒の部分も多いが、わからないことを断定されるよりは遥かにましだ。
俺も断定できないことまで断定しようとは思わない。 それとこれ
>>157の
いままで大越史記全書をあまり引用していなかったのは、
> 強大な元軍を破った陳軍、という風に元軍を強大に描くバイアスが入っていると考えたため
これは、可能性はあるが、逆もしかりで元史が負けた相手を大きくあるいは自軍を小さくバイアスをかけている可能性もある、(兵糧の話なら、真実は七十万石持ってたのに十七万石しか持ってなかったとかな)
俺は少なくとも文永の役を根拠にして元史のバイアスの存在を指摘してるが、
そっちは何? >>184
>逆もしかりで元史が負けた相手を大きくあるいは自軍を小さくバイアスをかけている可能性もある
確かにその通り。だから、以下の箇所は、当時の輸送船の搭載量などを検討しなくてはならないと考えている。
>(兵糧の話なら、真実は七十万石持ってたのに十七万石しか持ってなかったとかな)
この辺を全部書いた研究書が見つかれば話は早いのだが、そういう書籍が見つからないので、
細部をいろいろと検討する必要に陥っている >>185
補足
細部の検討といっているのは>>151のようなことも含んでいる >>185
じゃなくて
どんな史書も同じ程度に割引きゃいいってもんじゃない。
信頼性の高い史書も低い史書もある
こっちは文永の役のように信頼できない記述があるから割引けっていったんだ
そっちは、特に根拠はないが大越にバイアスがあると思ったから(元史に比べて?)あまり引用したかったと書いたのか? >>187
今回の話の発端は、>>141の
>もろに弘安の役で日本軍が江南海軍3500艘を壊滅させた影響じゃん。
にある。検討課題は、ベトナム遠征時元軍が日本遠征の影響で弱体化していた、という点にある。
大越史記全書と元史の当該部分を読み、大越史記の方が元軍の数値を大きく書いていたため、
数値が少ない=元軍が弱い、という点で検討課題に近い元史の数値を引用して検討していた。
大越史記の数値をそのまま使えば元軍強い、という結果になり、検討する意味がない、と考えてしまった。
しかしこれは今は浅はかだったと思う。
>信頼性の高い史書も低い史書もある
元史については編集が杜撰なのはよく知られているところだが、1331年まで編纂された「経世大典」を引用している
など、史料性の高い部分もあると考えられている。元史と大越史記双方で記載がある部分については
信頼性についてあまり議論の余地はないだろうと考えていた(しかし違うかも知れないので、信頼性について
記載した論文がないか探してみる予定)。また、新元史は、後世の著作とはいえ、文禄の役も詳細が記載されており、
その新元史と元史の陳朝遠征の記載がほぼ同じなので、元史安南史の信頼性については
あまり問題にしていなかった。
大越史記全書も、全書にしか記載のない部分は矛盾が散見されるのでこれまで
あまり引用しなかったが、今後はもっと多用しようと思う。また、同時代史料として信頼性が高い
とされる(「アジア歴史研究入門5巻のベトナム史料解説にそのように記載がある)
ベトナム人が記載した「安南史略」がネットで公開されているようなので、読んで比較してみようと思う。 >>189
>「安南史略」がネットで公開されているよう
中国のサイトでユーザー制限されていて閲覧できなかった
国会図書館にあることはわかった 何度も申し訳ない
「安南誌略」、こちらのサイトでも公開されていた
http://ctext.org/wiki.pl?if=en&res=588578&remap=gb >>192
自己レス
「安南誌略」20巻に1287-88年の情勢が書いてあるが、著者は元軍の傀儡政権である
陳益稷(昭國王)に仕え、元軍撤退前に安南を離れ、バグダン江の戦いのあった3月には
北方の漢陽にいたらしく、その後は元国での人生や敗戦で避難してきた傀儡政権関係者に
ついて書いていて、戦役に関する有効な情報はほとんど無かった
しかし傀儡政権については元史・大越史記ともにほとんど言及がないようだから収穫はあった 要するにお前が元寇の影響を検討すると言いつつ、肝腎の元寇を調べない馬鹿だということは分かった
「ライプチィヒの戦いで三十万のフランス軍がいる。ナポレオンはロシア遠征の影響没落した訳ではない()」
「ロシア遠征でどれ程の損害を出したのか知らないのか」
「そんな話は関係無い、以下フランス軍の兵数を検討する()」
「なんたら将軍が、戦いの前に死んでいる。敗戦はこの影響ではないか()」
「ロシア遠征でフランス軍自体がどれ程弱体化したのかって言ってるだろ」
「なんたら将軍はロシア遠征には行っていない。そんな事も知らんのか()」
誰に対してもこんなのの繰り返し 何かでみたと思ったらこれだ
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」
「現在問題なのは犬の広義の非哺乳類性であり、哺乳類であるかどうかは問題ではない。話をそらすな」 元寇ってやつは小学校の教科書に乗せてもいいけど数行で終わりでいいよね
大陸のやつらが無様に蹂躙されていたから世界史的に重要なんだろうけど
日本には無様に負けたアホってのが元だから誇るようなことでもない 都合が悪いから数行で終りにした方がいい。
チョンが喜ぶだけ。国益に反する。 九州勢「モンゴルつえええwwwww(恩賞くれえええ)」
鎌倉幕府「嘘つくな余裕で勝ってんじゃねえか。絵巻まで書いてプロパガンダすんなks」
現代日本人「モンゴルつえええwwwww」←ガチで信じてる模様 >>200
蒙古襲来絵詞なら竹崎季長へ恩賞を取り計らってくれた安達泰盛が死んだ後に
描かれたもので竹崎が安達に直訴する場面も描かれてるんだけど
まさか恩賞要求のために描かれたなんて思ってないよね? 大陸のやつらは蒙古ごときに蹂躙されすぎなんだよw
あんな雑魚に勝っても誇るべきものではないんだが 以上、陸戦でさんざん蒙古にやられた日本が死んでも言えないセリフでした。 まあ口ほどにもなかったジャパニーズサムライ軍だったけど
モンゴル軍の副将を射落とした少弐景資のスナイピングは評価に値する >>204
具体的にはどういった史料から陸戦で散々にやられたことがわかるの?
まさか蒙古撃退は自分たちの祈祷のおかげですと主張するため書かれた宗教書? >>205
それも宗教書にしか出てこない記述だなあ 恩賞目的で幕府や朝廷に超常現象を報告ってのは色々な寺社がやっていた
こういうところでは武士は不甲斐ない役割を演じさせられることになる
関幸彦『神風の武士像』(吉川弘文館)
・真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
矢を蒙古軍に放ったという。その光景は「身ノ毛モ竪テ怖シク」なるほどで、「波ノ中ヨリ猛火」が
あって、これがために蒙古軍は肝を潰し敗走したという(『八幡愚童訓』)。まさしく「神軍ノ威勢」だった。
同様の報告は各地から届けられた。紀伊国高野山金剛峯寺の鎮守丹生明神の場合もそうだった。
弘安合戦に際し、日本国の神々も蒙古に発向することになった。天野明神(丹生明神)は第一陣として
四月二十八日丑刻(午前二時)と決し、それにむけて不動火界呪を修して神の威光を増すべし、
そうすれば、六・七月中には本朝安全なるべし、との霊托の旨が報ぜられた(『紀伊興山寺文書』
正応六年三月二十八日「太政官牒」)。
・この異国との戦争で神慮なり神威なりが、いやがうえにも高められた。日本国中の神仏を総動員しての
異国撃退の祈願、それはあたかも武士達の警護番役に対応するかのようであった。春日・住吉・日吉・
祇園の各社が、各月を分担し異国降伏の祈祷をした。
神や仏も動員され、加持祈祷という世界で戦った。当然ながら、諸国でのこうした神々の
軍忠状に対し、武士と同様に恩賞の要求も激しかった。
・肥前国武雄社の場合もそうであった。(中略)文永合戦のときには神殿から発せられた鏑矢が賊船を射ぬき、
これがために敵は撤退したこと、弘安合戦では紫の幟が異国の船の方向に飛び去り、大風を起こしたこと、
などが述べられていた。こうした神の軍忠にもかかわらず行賞に漏れたことは、堪え難しとするものであった。
・異国合戦での神々の参陣は神の戦争を演出することで、神威を高めることにつながった。
すでにふれた弘安七年(一二八四)の神領興行令を含め、以後の三度にわたる神領の復興運動は、神の戦争と
その軍忠に対しての当然の恩賞だった。 なるほど。日本武士の不甲斐なさが良く記録されていて為になる。 少弐氏は清盛の親衛隊やってた精鋭だがな(´・ω・`) 男子トイレ・浴場盗撮は、割とけっこうある
女と違って、全く無警戒だから、見つからず、あまりニュースになってないだけ
「でも、そんなもん撮ってどうするんだ?」と思うかも知れんけど、
普通に海外のゲイ専門の盗撮サイトに売られてるよ
「ゲイ専門の盗撮って・・・、そんなの需要あるの?」とも思うかも知れんけど、
むしろ、今の時代、動画を売ろうと思ったら、そういうニッチな分野を攻めないといけないくらい
もうネットでは無修正でマンコにチンポ突っ込んでる動画なんか溢れるから、皆見飽きてるんだよ
サイトでは、「短小」「形が良い」「細い」とか色々品評されてるよ ロシアの寒さらすら効かないのが蒙古
シナはどうしようもないヘタレ雑魚
ポーランド騎士団もコテンパン
一方我が国の侍は蒙古をボコボコにして皆殺し
侍は最強だな てか、ヨーロッパロシアより蒙古高原のほうが遥かに寒いぞ
ロシアでももっと寒いのはシベリア北東部だけだから >>210
その「モンゴルみたいな雑魚」に惨敗したシナチョンがみじめ過ぎるだろ >>207
高麗史節要 巻19
而劉復亨中流矢.先登舟.故遂引兵還 90−00年代のJK盗撮映像見ていて愕然とした
ブラは透け放題だし、スカートは殆どミニ、下にはブルマやスパッツなどの野暮なものは履いてない
それが、どうして今、膝丈、重ねパンツ、透けないブラウスが主流になってるんだ?
こんなことだから、キレる若者が増え、装飾花非婚化少子化が進み、
ひいては、労働人口不足を引き起こし、日本の将来が危ぶまれるんじゃないか
だいたい、今や誰もがネットでチンポマンコを閲覧できる時代、公の性を禁忌とする必要はないだろ
今すぐ、文科省は、全国の中学高校に呼びかけて、激ミニ、生パン、透け透けブラウスを強制、
ついでに、体育ではハーパン廃止して、ブルマを復活させろ! 鎌倉武士とか薙刀は使うし弓もやばいし体格も今と違ってでかいしキングダムと似たような感じだったんだろうなー 一瞬だけ片足踏みいれただけでボコボコにされた蒙古って雑魚だろw それだと鎌倉武士が世界最強になれないだろ。きちんと頭を使え このスレタイのような事にしか慰めを見出しえない人生とは >>226
こんなスレタイで悔しがってるオマエラの人生とは >>222
90−00年代のJK盗撮映像見ていて愕然とした
ブラは透け放題だし、スカートは殆どミニ、下にはブルマやスパッツなどの野暮なものは履いてない
それが、どうして今、膝丈、重ねパンツ、透けないブラウスが主流になってるんだ?
こんなことだから、キレる若者が増え、装飾花非婚化少子化が進み、
ひいては、労働人口不足を引き起こし、日本の将来が危ぶまれるんじゃないか
だいたい、今や誰もがネットでチンポマンコを閲覧できる時代、公の性を禁忌とする必要はないだろ
今すぐ、文科省は、全国の中学高校に呼びかけて、激ミニ、生パン、透け透けブラウスを強制、
ついでに、体育ではハーパン廃止して、ブルマを復活させろ! >>222
90−00年代のJK盗撮映像見ていて愕然とした
ブラは透け放題だし、スカートは殆どミニ、下にはブルマやスパッツなどの野暮なものは履いてない
それが、どうして今、膝丈、重ねパンツ、透けないブラウスが主流になってるんだ?
こんなことだから、キレる若者が増え、装飾花非婚化少子化が進み、
ひいては、労働人口不足を引き起こし、日本の将来が危ぶまれるんじゃないか
だいたい、今や誰もがネットでチンポマンコを閲覧できる時代、公の性を禁忌とする必要はないだろ
今すぐ、文科省は、全国の中学高校に呼びかけて、激ミニ、生パン、透け透けブラウスを強制、
ついでに、体育ではハーパン廃止して、ブルマを復活させろ! △蒙古に奴隷にされてた下朝鮮
〇蒙古に奴隷にされてた全朝鮮 日本と高麗の史料を総合すると、一回目の文永の役はこんな感じ。
10月20日にモンゴル軍は早良郡から上陸。
モンゴル主力軍は博多方面へ東進し、高麗軍は今津方面へ西進。
モンゴル主力軍は赤坂まで進軍したところで菊池武房100余騎に蹴散らされ百道原まで撤退。
そこを少弐景資が追撃してモンゴル主力軍を撃破。
モンゴル軍総司令官の忽敦は「蒙古人は戦いに慣れているといえどもこれ以上は無理だ」と
今津の高麗軍のもとへ逃げ込む。
副司令官の劉復亨は少弐景資に射られて重傷。
追い詰められたモンゴル軍は夜間に悪天候の海へ漕ぎ出して大惨事。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
5T3CF ベトナムは日本が元寇で勝たなかったらモンゴルの属国のままだったな。
鄭思肖『心史,雑文,大義略叙』
辛巳(1281年)六月, 韃兵由明州渉海,至倭口,遭大風雨作,人与船倶陥,叉大敗而回。倭遣使責占城不戦而附韃 。占城有悟意,始背元韃。 >>208
>真夜中に箱崎宮から八幡大菩薩の使である白装束の者三千人が突如立ち現れ、おびただしい
>矢を蒙古軍に放ったという。
これ箱崎宮の僧兵のこと言ってるんじゃないの 元寇当時は占城も陳朝もモンゴルの属国だった。
元寇で圧勝した日本が占城に使者を送って、モンゴルと戦わずに属国で甘んじてることを叱責。
それで決意した占城がモンゴルに反乱を起こし、陳朝もそれに呼応。
日本が元寇で勝たなかったら占城も陳朝もモンゴルの属国のまま。
日本は大恩人な。 >>241
面白い史料だね。その文章の後に
「倭国出兵,已夺高丽,谋攻幽州。回回挟塔利狗国等,出攻鞑西北边,甚得利。逆鞑亡,大宋兴,此正其机也!」
と書いてあって、日本が高麗を奪還し、幽州の攻略を謀っている、と書いてあったりして
著者の願望が入っているようだが(回回以降はif文だと思うが)。まあ当時の宋朝文人の意識がわかって面白い史料だ。
夷を持って夷を制す、という伝統中華の考えがよく出ている 元朝青龍氏、英雄チンギス・ハンの顔に“落書き”のギャグマンガに激怒「謝れ!! 謝れ!!」
大相撲の元横綱朝青龍関(37)が22日、小学館・コロコロコミック誌の画像を引用し、モンゴル史上最大の英雄チンギス・ハンを侮辱されたとツイッターで激怒した。
子供向けギャグマンガで、チンギス・ハンの写真と名前を見てテストに回答するという場面。
「モンゴル国の皇帝 チ( )・( )ン という空欄を埋める問題に「男性器」の答えを記入し、その絵をチンギス・ハンの額に落書きして「とりあえずこれでいいかねぃ」としていた。
朝青龍氏はこの漫画の写真に添えて
「なー言いとけどなー!! 先祖バカにするお前ら!! 品格がない日本人!! 許せない!! 謝れ!! 謝れ!! 謝れ!! どこのゴミの会社!?」「よっぼど中国人がましや!! あれ得ない!! 悲し涙!! 大好きな日本人がこんな風に!!」
「我が国東アジアで一番の平和である国!! 日本国まりに日本と平和国ありますか? てきばっかりの国々!! なぜこんな事おかした?」(すべて原文ママ)
と立て続けにツイート。モンゴル語では外交ルートを通じて謝罪するよう求めるツイートをしている。
http://news.livedoor.com/article/detail/14339216/ >>248
なんか昨日、この漫画の作者がモンゴル人力士に取り囲まれる夢を見た。大丈夫かな原作者の方? >>211
モンゴルの奴隷だった奴らがほざいてもなw <丶`∀´>鎌倉武士は半島から渡来した用心棒侍の集団だったニダ 気持ち悪い糞国歌を自国の歴史を省みない気違いカルトジャップが未だに歌い続けるのには反吐が出る! >>256
チョンさんは、チョンファンゆかりの地に帰るべきでしょ 日本のサムライのルーツは朝鮮半島の戦士であるのは言うまでもない 三船敏郎は在日、サムライは朝鮮半島が起源と言うのが定説! 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
WMA 日本の武士の元祖は朝鮮半島からのサムライがルーツである事はよく知られている。 モンゴルか中国の日本武士の戦闘報告書で一瞬で近ずいてきて刀で攻撃してくるって
あったな武士は強かったと思う ホームで勝っただけじゃないか。アウエー倍美味しいのに。 日露開戦とか
。というかその二つを勝ち戦に入れている歴史観がおかしい。
日中戦争の方が評判がいいだろう。 日本軍と中国の国民党軍一緒に戦ってたし共産主義が勝った結果
国民が苦しむ国になったんだよな国民党軍が勝ってたら中国は民主主義になってたかもな なるほどねえ、しかし困窮?貧窮問答歌を知らない異民か? ラストエンペラーが親日だったのはどうしてなんだろうな >>276
ホームで勝ってモンゴル軍が弱いとわかったから、倭寇が元や高麗の領土を荒らすようになったんだよ つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ ここは学術板なんだから愛国心とか抜きに客観的な議論するべき。
モンゴル人の指揮官がモンゴル兵を率いて鎌倉武士に野戦で完敗し、
「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」と言ってるわけで
モンゴル軍が鎌倉武士より弱かったのは事実なんだから。 >>287
徴兵逃れしてる馬鹿チョンに愛国心なんてあるのか >>282
ヒストリーチャンネルで数年前にモンゴルの弓矢は
矢が軽くて射程は長いが有効射程内だと、
矢の軽さが災いして大陸の皮革や布鎧にはいいが、
鉄の小札綴り合わせた日本の鎧だと胴丸ですら
撃ち抜けないと実際にレプリカに射撃して証明してた。
あと日本刀でモンゴル式の革製の兜を割ってみて、
これでは防具として役に立たないとも言ってたな。 そりゃまあモンゴルも短弓と長弓使い分けてたし
騎兵も軽騎兵と重騎兵がいたからなぁ
その辺全然理解してない検証に何の価値があるものやら 元寇は武士が勝ったんだから、武士が何故モンゴル軍より優れていたのかを検証するのが、
歴史に対する当然のアプローチなんだよな。 >>290
鎌倉武士をElite warriorと持ち上げてはいたけど、鎖帷子の当時の
欧州の鎧よりも矢に対する防御力高いとかかなり科学的に検証してたけどな。
あと和弓とイングランドの長弓とも比較して射程内なら貫通力高いから、
矢の撃ち合いなら高い防御力と地の利とを活かし、鎌倉武士は有利に展開し、
高い士気(竹崎季長の絵巻が引用されてのは笑ったが)で迎撃兵力の
少なさをうまくリカバーしてリーグニッツの戦いのポーランドと
ドイツ騎士団の様にはならなかったと分析してたぞ。 >>292
ヒストリーチャンネルの検証だと、武士が他の地域の兵士と違うのは、
欧州だと弓兵や弩兵は弓や弩専門で接近戦ではとっとと退避。
一方、騎士だとランスと剣と精々戦斧を使うのみと兵種によって
使う武器が固定されていたが、武士は離れている時は和弓を使い、
接近戦になったら薙刀や太刀に武器を換えて戦うMulti-role warriorだから、
兵力を有効活用出来る戦士集団だと分析してた。 >>293
そもそも兵科が違う
蒙古襲来時のモンゴル軍の兵科はワールシュタットの騎兵尽くしのモンゴル軍と違って
高麗、南宋の兵がメインで兵装もモンゴル軍のものと武士のものを比較する意味が… >>295
高麗、南宋の兵は船を漕いでいただけで、戦闘はモンゴル帝国主力軍のモンゴル兵や漢人兵が
メインだよ。
だから文永の役で鎌倉武士に蹴散らされた時、モンゴル人の将軍が「蒙人、戦いに習うと雖も、
何を以てか此れに加えん」と言ってる。
鎌倉武士に負けたのは戦い慣れたモンゴル兵ってこと。
ちなみに筥崎宮が所蔵してる元寇の戦利品の中にはヨーロッパ製の兜と言われてるモノがある。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/26/The_helmet_of_a_Mongolian_army_%287%29.JPG
ワールシュタットで騎士に勝ったモンゴル兵かその子孫が日本で武士に討ちとられたのかもね。 >>296
文永の役だとモンゴル人、漢人が多いのは確かだけど
弘安の役だと南宋軍が大半で規模も文永と比べ物にならんよね てか南宋下す前の文永で南宋兵居らんのなんて当然やな 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) ブサヨ史観だと検証は無意味で武士は弱いらしいけど現実は違うからなあ、
武士は奴隷のチョンやと蒙古に勝ってるよ >>290
>そりゃまあモンゴルも短弓と長弓使い分けてたし
具体的にどうやって使い分けてたの?
そのモンゴルの長弓って短弓と比べてどのくらい射程や威力が違うんだろうか? ガチで強かったのは陸戦でモンゴル軍と戦って勝ったマムルーク軍だろ >>302
どれくらいの規模で戦ったんだろ
モンゴルは弘安の役並みの大軍で行ったのかな? マムルークが勝ったモンゴル軍の兵力は1万人。
弘安の役どころか文永の役よりも規模が小さい。 アイン・ジャールートでの戦いで3万から6万くらいだよ
その後も数回1〜2万程度の兵力でマムルーク朝と戦ったが全て防がれてシリアの覇権を失った モンゴルがシリアを再征服したのは14世紀のティムールの時代になってから >3万から6万くらいだよ
なんでそんなバラつきがあるんだ
具体的にどういった史料からその数は確認できるんだろうか? 良い事を教えてあげよう
以下は俺の妄想だが、
電車内痴漢は、いきなり生マン触りにいくのが、実は一番安全なんだよな
急に、下着に手を入れられアソコを触られて、冷静に対処できる女なんて居ない
どさくさに紛れて尻タッチするようなビビリ痴漢は、逆にリスクに見合わない
軽く触っただけでも、騒ぎだす女なんて山ほど居る
こういうのは、やるなら徹底的にやった方が得なんだよ
まぁ、あくまで俺の妄想だけどね >>300
この時期の武士は弱いなんて言ってる奴おるんか? 海外の研究者が書いた日本史の本で信長公記ではなく未だに信長記とか太閤記が参照されていたり
情報が古いなあと思ったことがある
日本向けに書かれたモンゴル関係の本ってのはそういうの大丈夫なのかな
>>308
じゃないのと自信なさげに言われても困るけどそれは自分で確認したの? モンゴルでは元寇のことってどんな風に考えられたり
本に書かれたりしてるのか興味あるけど、
邦訳されてる本とかモンゴル人の意見の載ってる本とかあるかな
元寇関係の番組でも、学者の話や対馬の人の話をよく紹介してるけど
モンゴル側のそういうのは見たことないし モンゴルは民主化してまだ短いから歴史どころじゃない 以前チンギス落書きの時に騒ぎがあったし、
相撲取りが文永の役に斬られた使者だったかの
墓参りをしてたニュースがあったから
一般人が無関心ってことはないんじゃないか? チンギス・ハンを自分達の祖として崇める心理は強そうだけど
中華王朝としての側面が強い元朝あたりのことはどう見てるんだろうな
元がモンゴル高原に追いやられて今に至る歴史につながるわけだから決して無関係ではないんだけど イラク人とポーランド人はモンゴルのこと嫌ってそう
モンゴルのこと好きな国無さそう >>317
モンゴルルーツのリプカタタール人はポーランドではリスペクトされてるぞ。 だからお前ら、ビビリすぎだって
援交で捕まってるのなんて、ほんのごく一部の馬鹿だけだって
たいてい、ネットに決定的な証拠残したとか、
相手に金を渡さずに、キレて通報されたとかで
だから、
一、ネットに証拠を残さない。
(例えば、SKYPEで交渉する場合、チャットに性交を臭わすようなことは書かない)
二、JK,JCにはちゃんと金握らせて口止めする。
特に、相手の見極めも重要。絶対に親や学校には喋らなそうな子を選ぶ。
「援交したことがバレると、学校で嫌がらせ受けるよ」などと脅すのも効果的
三、一度使ったホテルには、半年は立ち寄らない。間違っても、制服のままフロント行くなよ。
警察も、援助交際ごときに本腰入れて捜査しないから、
これだけ守れば、まず捕まらねえよ マルムークって弓騎兵だろ?
弓騎兵最強。弓騎兵に勝てるのは弓騎兵だけ。 ローマ帝国崩壊の元がモンゴル人の侵略
九州に侵略を許してたらどうなったんだろ リーグニッツの戦いでは「タタールの騎馬隊10万〜15万」とか言われているが、
これってヘンリクサイドが惨敗した言い訳にしてるんじゃないか? >>324
蝦夷の戦闘文化が武士の起源
元寇で武士に問答無用で皆殺しにされた朝鮮ゴキブリくやしいのう 日本人は夢を見ている。侍や武士、剣道、居合道は半島起源である。 武士と騎士、どっちが強いのか議論になるけど、
弓の方が槍に勝つに決まってるだろう。
なんでこんな簡単な理屈が分からんのか?
どちらも馬に乗ってるから距離は縮まらないから、弓が一方的に攻撃できる。 >>334
チョンコの資料に武士なんて言葉一つもないもんねw サムライは半島起源、サムライ魂は大韓に行き続けている! 起源を主張した朝鮮の刀が日本製造の物だとバレて逃走した恥ずかしいチョンコ!くやしいのーう! 韓国起源とは属国として宗主国達に与えられ共有してきた文化を自分のものと勘違いしたのが発端です さすが実戦経験者の元将校・新野先生!
・防人
防人を廃止しようという問題が起こった時に、大宰府の方では、防人が廃止されちゃうと守備力が
弱まるということを非常に強くいっておりますから、簡単にいえば非常に坂東武者が強かったという
ことしかその文章表記の上からはとれないですね。
・蝦夷
エミシの問題といえば、坂東武者はいわゆるエゾ征伐という言葉でいつも動員されているわけです。
ですから日本中でこれだけ熟練された戦闘人はこの段階では現実の問題としていなかったのです。
西日本の方では外国との戦争でもあったら別ですけど、そうでなかったら畿内やその辺では
戦争などないのですから、実戦の形態などもわからなかった。
しかし坂東の住民はしょっちゅう鎮兵として動員されまして、東北の山野を駆け巡って戦闘していた。
ですからそういう経験というものがやっぱり防人を徴集する場合に相当評価されたんじゃないか。
大体鎮兵として動員されるのは東北の人間じゃないんですね。
東北地方にだけ鎮兵という鎮守府将軍の掌握する独立兵団があります。
その鎮兵には誰をするかというと、中部地方まで行く場合もありますけれども、坂東から徴集された
兵隊なんですね。ですから平安時代の中頃になって元慶の乱という反乱が起こりますけれども、
その時でも、東北の兵隊は陸奥からも動員しますが一夜で逃げ帰っちゃいます。
どうにもならなくなって、やはり特別に動員されたのは関東、中部地方の精兵です。
(新野直吉、秋田大学名誉教授、日本古代史、東北地方史) やつ等の民度が低いのはモンゴル支配のせいじゃない
やつ等の民度が低いからモンゴルに支配されてしまった 武士が真に最強だったのは、やはりプロの軍人・傭兵だった戦国時代。
鎌倉時代の武士なんか屯田兵に過ぎないと思うのだが如何? 鎌倉時代の武士こそ本物のプロの軍人だよ
屯田兵とかいう認識は時代遅れ
畑仕事をやりながら騎射技術を身につけることなんてできないからね >>363
いやいや屯田兵じゃね?
騎射技術って流鏑馬や犬追いのことか?
アレ実践的じゃないぞ。
実践的で言えば鉄砲が一番! まぁ日本の一番の勝因は海という地の利があったって事だろ。
ヨーロッパの騎士だって鎌倉武士と同条件で九州で防衛戦やったなら勝てたんじゃね?
もしスブタイがもう少し長生きしてたら、神聖ローマ帝国とフランスは壊滅するとして、
イングランドの騎士達は鎌倉武士と同じように水際でモンゴル軍を撃退できるだろうか? >>366
1万人のモンゴル軍に惨敗したヨーロッパの騎士が鎌倉武士と同条件で2万5000人の
モンゴル軍に勝てるわけなじゃん >>367
その通り。文永の役は九州在地の御家人のみだから、精々6千程度の
兵力で迎え撃ったわけだし。 >>367
いや、鎌倉武士だってレグニツァやモヒで戦ってたらヨーロッパ騎士同様に蹂躙されてただろうし、
ヨーロッパの騎士だって博多湾沿岸で待ち構えてるという状況なら勝敗は兎も角、それなりの勝負は出来るだろ。 >>369
鎌倉武士がレグニツァやモヒで戦ったらモンゴル軍なんて瞬殺してるわ。
文永の役の半数以下の兵数しかないモンゴル軍に負けるわけないだろ。 >>369
当時の欧州騎士はランスチャージの接近戦しか出来ないだろ。
鎌倉武士は射程の長い長弓装備の弓騎兵だからモンゴル兵の
アウトレンジから攻撃出来る。 >>371
と厨房の頃は俺も思っていたが、
実際、射程でいえば和弓も蒙古弓も大差ないのだね。
モンゴル側の『汎海小録』には、日本の弓矢について
「矢は長しと雖えども、遠くあたわず」とあり、
みかけほど射程は長くないねえという感想だった(;´Д`) >>372
でも現実にモンゴル軍は副官の劉復亨が射られて重症を負い13500余人の犠牲者を出して
逃げ帰ってるからな。
モンゴル軍の戦闘力が鎌倉武士より酷く劣っていたのは確実でしょ。 上陸戦はいつの世も守備側が圧倒的に有利で、
それはモンゴル軍ですら例外ではなかったって事だろ。
騎馬民族だから海戦や渡航戦が苦手ってのもあるし。
んで、仮にオゴダイがもうちっと長生きしてて、
バトゥやスブタイがそのまま西へと進軍し続けてた場合、
神聖ローマ帝国やフランスはどうなってた?
そして、ドーバー海峡を越えてブリテン島に攻め入った場合、
イングランドやスコットランドの騎士や兵士は、
鎌倉武士同様に水際で迎撃できただろうか? >>374
文永の役は普通の野戦じゃん。
麁原に布陣したモンゴル軍と博多に布陣した鎌倉武士が福岡平野で戦って
鎌倉武士が勝ったというだけ。
ヘイスティングスの戦いとかと同じだ。
イングランドやスコットランドの騎士や兵士は鎌倉武士と違って
野戦でモンゴル軍に勝てないから無理だろ。 >>366
海という地の利があったのに珍島はモンゴルに負けちゃったね >>372
和弓は長くて重い矢を使うから軽い矢のモンゴル弓と最大射程は
あまり変わらないが、矢が重い分有効射程内で当たった時の衝撃が
大きい。そもそも、和弓は大鎧を着た騎馬武者を倒すことを目的と
してたから、革やキルティングの鎧のモンゴル騎兵や漢族歩兵の
鎧を撃ち抜くのは容易かった。 >>374
スコットランドの山岳地帯のハイランダーは騎馬で攻め込めないし、
接近戦が異様に強い連中だから征服出来ないだろう。 >>378
アフガンとか暗殺教団とか山岳地帯もモンゴル軍に征服されてるから無理だろ 日本の弓術ってさ、なんか世界のスタンダードから外れて
ちょっとガラパゴス化してる気がしない? 海外の弓矢よりも進化が遅れているのか?
それとも島国山国という地理故に海外とは異なる進化を辿ったのか? >>383
異なる進化だろ。
モンゴル軍に圧勝してるんだから遅れているということはない。 無謀な賭けで身を滅ぼすのは、運と実力の見分けがつかぬ者にてござ候。 >>385
元寇でモンゴル軍が身を滅ぼしたのは実力を見誤って自分より強い鎌倉武士と
戦ってしまったからだしな。 馬の無いモンゴル兵なんぞ、
ハンバーグが入ってないハンバーガーみたいなもんだ。
高麗でも撃退できる。 >>387
元寇のモンゴル兵が馬に乗って戦っていたことは史料的に確実だから。
『八幡大菩薩愚童訓』
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」
「冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ」 >>387
きんぴらライスバーガーなんかは普通のハンバーガーより美味いんだが >>380
殺傷力で言ったらアウトレンジだろ。竹崎季長が無謀な突撃して
馬を射倒されても竹崎本人は大した怪我してない。大鎧を射抜け
ないからだ。同じ距離で和弓なら竹崎は死んでた。 >>387
>ちなみに高麗はモンゴル軍の下馬戦術に大敗してる
だってさ
390に言い返してみろよ 少し歴史を調べれば、騎馬部隊を船で輸送することなんて何の問題もないとわかる。
十字軍、ウィリアム征服王、百年戦争のイングランド軍、倭寇、みんな船で騎馬部隊を
船だ輸送して戦ってたんだから。
元寇でも史料だとモンゴル軍は馬に乗って戦ってる。
じゃあ何で元寇のモンゴル軍に馬がいなかったなんてデマが広まったかと言うと、
井沢が「逆説の日本史」で書いたからだよね。
「逆説の日本史」は真っ当な研究書なんかより桁違いに読者数が多くて影響力がある。
でも困ったことに史料を精査して書いてるわけじゃないからな。 モンゴル軍を撃退したのは、「蒙古襲来絵詞」で有名な竹崎季長。
ひとりで1万8千人を斬り殺したといわれているが、実際に活躍したのは季長の妹の竹崎季理子だったらしい。 そんなに鎌倉節が強いならなんで逆に海を渡って攻めていかなかったんだろうね。 >>366
江華島にトンズラした高麗王もモンゴルに降参しちゃったな >>396
倭寇は純粋な日本軍じゃないけどな
むしろ幕府が取り締まりする立場 >>399
松浦党には幕府御家人も居たし、倭寇勢力の一部でもあるが。 >>400
幕府の国策として倭寇が進出したわけではないし、
ただ荒らしまわっただけでモンゴル帝国みたいに国土を広げたことなど一度もない。 >>401
倭寇を仕切っていたのは幕府じゃなく征西将軍宮。
戦力は菊池や河野と言った元寇でモンゴル軍に圧勝した一族の水軍だ。
征西大将軍の懐良親王は「天下は天下のための天下であって誰か一人の天下ではない」
という思想でモンゴル帝国と戦っていたんであって領土獲得が目的じゃない。
倭寇は侵略国家モンゴル帝国打倒のための正義の戦い。 ほぉ。
では倭寇がそのために戦ったという史料を提示してくれ。 国策として大陸に攻め込というのは秀吉の朝鮮出兵みたいなこと
倭寇は話が違いすぎて無理 >>401
戦闘力の強弱を言っているのだから、国策の有無は関係ないだろ。
地方勢力だろうと他国に遠征して現地の正規軍を戦闘で破ったり、
迎撃で撃破されずに帰還してれば、遠征の実行能力と戦闘力は
十分高い。大体国策の後押しなしの部分的戦力で実行出来ること
自体が戦闘力の高さを物語っている。 >>406
それは、勘合貿易が機能しなくなってからの
戦国時代の後期倭寇。 >>403
倭寇が打倒モンゴル帝国のために戦っていたというのは、倭寇を率いていた懐良親王が
征西大将軍だったことからも明白だろ。
征西大将軍の征すべき西とはモンゴル帝国のこと。 懐良親王にとって最大の敵は九州の幕府側勢力だろうがw >>411
違うよ。
懐良親王にとって最大の敵はモンゴル帝国。
九州の幕府側勢力は懐良親王のモンゴル帝国攻撃を阻止するため高麗に部隊を駐屯させてた。 なんだこのスレの主は頭がおかしい奴だったのか
真面目に議論しにきて損した 学問板なのに史料に基づいて書き込みすると「頭がおかしい」とか言われちゃうんだから
困ったもんだな。
九州の幕府側勢力が高麗に部隊を駐屯させてた史料↓
高麗史133卷-列傳46-辛禑1 辛禑四年六月条
「 日本九州節度使の源了浚は、僧の信弘をして、其の軍六十九人を率いて来り、倭賊を捕らえしむ」
高麗史133卷-列傳46-辛禑1 辛禑四年七月条
「日本僧の信弘、倭寇と兆陽浦に戦い、一艘を獲、尽く之を斬し、被虜の婦女二十余人を放還す」
あと大内氏も高麗に部隊を駐屯させてたよ。
高麗史134卷-列傳47-辛禑2 辛禑五年五月条
「大内殿義弘、朴居士を遣わし、其の軍一百八十六人を率いて偕に来らしむ」 元寇の大半は高麗の奴隷
つまり武士>>>>>高麗人 >>416
元寇で高麗人はごく一部に過ぎなかったことが史料によって分かってるのに
何でこんな嘘を書く奴が絶えないのか >>419
文永の役が4分の1
弘安の役か14分の1 モンゴルに負けてたら、日本にもペストが持ち込まれてたのか >>422
残りは、文永の役が蒙古人と漢人
弘安の役が蒙古人と漢人と旧南宋人 弘安の役では14万人の蒙古人、漢人、高麗人、旧南宋人が動員された。
台風の後、指揮官クラスは無事だった船に乗り、兵10万人を置き去りにして逃亡。
置き去りにされた10万人は日本の掃討戦て7万人が戦死。
降伏した3万人の内、旧南宋人は助命され、蒙古人、漢人、高麗人は処刑された。
つまり、蒙古人は指揮官クラスだけでなく、兵としても万単位で動員され置き去りにされてたってこと。 弘安の役でモンゴル兵は最低でも3万人は動員されていたと考えないと計算が合わない 欧州ではモンゴルのてっほうから銃や大砲が生み出されたけど、
何で日本ではそれが出来なかったのだろうか? 欧州ではモンゴル帝国と戦った国が全滅したけど、
何で日本だけは消滅せずに繁栄し続けてるのだろうか? >>421
アジア地域は、むしろペストに対して比較的抗体あるんじゃね?
むしろ、日本側が元の船団の人の密集状況を利用して、
天然痘などを蔓延させるような工作をしていたかもしれん。
ネズミの死骸を投げ込むとかは常道だろう。
イスラームの聖典『クルアーン』の「象の章」では、
西暦570年頃にエチオピア軍がマッカを襲撃する様子が記述されている。
エチオピア軍はマッカの守備隊より軍事力で勝っていたが、
アッラーフが鳥の群れ(アバビール)を遣わし、エチオピア兵の頭上に石を落とすと
当たった者には疱瘡ができて疫病が蔓延し、撤退したという記述がある。
これはエチオピア軍の間で天然痘が蔓延したことが神の奇跡として描かれている
という説がある。 >>428
日本はてつはう作ろうとはしなかったのかな モンゴル帝国軍がそもそもなろう主人公のようなものだしな
中世のヨーロッパなんて国力も大したことないしそんな国々相手に勝ってもな 「高麗軍が多かった」とかいう理論って未だにソースがないよね
特定の思想が絡んだ史観にしか思えない マルコポーロは弘安の役に参加したタタール兵は3万人だったと書いてる マルコポーロの本はラシードとかと並んでモンゴル帝国に関する最重要史料の一つじゃん >>294
基本は乗馬のまま遠矢で敵の騎馬兵を射落とし、自分あるいは郎党を使って首を掻く。
接近戦は打刀を抜いて相手の馬ごと打ち倒し、あるいはひきずり下ろし組み討ちにして首を掻く。
太刀はそんなに使わない。
名乗りなんて上げない。 ポーランド騎士団の雑魚さといい、東ローマ帝国の雑魚さといいヨーロッパは実は弱い >何で鎌倉武士は一人として入ってないのだろうか?
雑魚ばかりだからさ。 関東武士の心得
「家を継ぐからには心がけねばならない。常に馬の餌の為に庭草はボーボーにしておけ。調練場には生首を絶やすな。人殺しは常にやっておけ。」
「門前を通る坊さんや乞食、修験者は弓の的に丁度良い。しつこく逃げるから弓の標的として活用せよ。」
「武士と生まれたからには殺しまくれ!」 >>437
元史には弘安の役に参加したモンゴル兵は40万人と書いてある
高麗人や南宋人をぶっちぎってモンゴル兵が圧倒的最大多数だろ >>447
14〜15万じゃないのか?
残りの35万は何やってたの? 玄界灘の荒波と柔らかい泥土地質で騎馬兵がまともに戦えない自然環境にまじ感謝 まあ地形に恵まれてたのはあるだろうな
中国と陸続きだったら歴史は多分だいぶ違ってた 白兵戦は地形と何の関係もない
単純に力負けしたに過ぎない 日本は蒙古を日本海から撃退しただけ
明は元を北に皇帝も朝廷も無傷のまま逃がしただけ
(さらに明も南明も大元ウルスより先に滅んでしまう)
後金は北元から伝国の印璽を譲り受けただけ
首都カラコルムを陥落させ後元を滅亡させたジュンガル帝国が最強 弓騎兵である武士が無双していた日本が騎馬兵のまともに戦えない自然環境なわけがない。
北畠顕家なんてモンゴル騎兵を上回る高速機動戦やってるし。 vsマムルーク、鎌倉幕府、陳朝は侵攻に失敗しただけで領土を失った訳では無いけど、
その後の明やルーシーやティムールに領土を切り取られた原因は何? そもそもモンゴルにとっては領土なんてどうでもよくて、財産は人と家畜だ。
領土を獲得するより奴隷を獲得する方が価値がある。
日本も元寇の後では、倭寇で大陸から奴隷獲得しまくるようになったわけで、
領土獲得する以上に明確な勝ちだよ。 >>455
明に領土を切り取られたのは根本的に内紛のせい
最強の軍事力持っててもそれを自らに向け続けてたらさすがに?
ルーシーも同様でジョチ・ウルスの内紛に付け込む形でモスクワ大公が拡大してっただけ
ティムールはモンゴル貴族同士の内紛で勝ち抜いた存在だっただけというね
>>456
領域としての広さは結構どうでもいいみたいだが
都市から上がる税収は現地人にその徴税を任せきりではあるが
マネー自体をどうでもいいと思ってたわけではない模様 >>454
ヒント: 天候と土壌
ヒント: 元寇襲来の時期 鎌倉武士って実は大陸に渡ってモンゴル軍と戦っていた可能性がある。
それは満州戦線だ。
「北からの蒙古襲来」より「北からの異国征伐」が実態に近い。 脊髄反射で妄想とか書いちゃう奴って何なのかね?
安藤氏が大陸でモンゴル軍と戦ってた可能性については「エゾの歴史」の海保嶺夫も指摘してる。
青森では悪さをした子供に「山から蒙古が攻めてくる」と言って叱るという。
海からではなく山からなのがポイント。
大陸に渡った安藤氏が山を越えて攻めてくるモンゴル軍と戦っていた名残だろうな。 女真人がチンギスカンに叛旗を翻した時、日本と高麗に同盟を求める使者を送った。
その時に北からの備えとして津軽に赴任したのが安藤氏だ。
高麗が征服される前だから、想定される侵攻ルートは北回りだったんだな。
チンギスカンのホラズムシャー朝遠征の記録を鎌倉幕府が中国から取り寄せてたとか
唱えてる研究者もいるし、日本がモンゴル帝国を脅威と認識した時代はかなり早い。 >>462
具体的な証拠が無いならそれは妄想だよ。 【ダイヤモンド】北条時宗はモンゴルから日本を救った英雄に非ず 非礼を重ねて無闇に国を危険にさらす
ps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1622601997/ 【JBP】元寇での幕府軍の一騎打ちや神風は八幡愚童訓の創作か 大正期に疑義も皇国史観にかき消される★2 [みの★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1624282109/ 元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か
https://news.nicovideo.jp/watch/nw9506109
高麗船は手抜きだったのか?
台風による元軍の被害が大きかった理由の1つとして、彼らが軍船に使用していた「高麗船(こうらいせん)」が手抜きで造られた
からという説がよく唱えられてきました。
元軍が日本侵攻に使用した軍船の多くは、当時、元朝に服属していた朝鮮半島の高麗朝が元朝に命令されて造船したものでした。
この船が「高麗船」と呼ばれています。
これまで、高麗朝が船を造る際、納期が短かった上、元の支配に対して反感を抱いていたことから手抜きをしたのではないか、
そのため高麗船は強度が不足しており、台風時の被害拡大につながったのではないか、という説が唱えられてきました。
しかし、この説は、現在はほぼ否定されているようです。というのも、実際に当時元軍が使用した軍船そのものが見つかっている
からです。
その軍船とは、鷹島(長崎県松浦市)沖の海底にある「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」の沈没船です。
この沈没船は、元寇で使用された高麗船であると判定されています。調査によると、この船は船底を二重構造にして丁寧に
組み立てられており、同時代の船としては類を見ないほど頑丈な造りだったとのことです。
また中国側の史料にも、台風時に多くの軍船が沈む中、高麗船は沈まずに耐え切った船が多かった、との記録があります。
研究が進むにつれ、「高麗船手抜き説」は今では過去のものとなりつつあるようです。 台風は一回だけだし元軍が力負けして上陸できなかっただけというのが普通な見方 弱小モンゴルなんて大陸でも簡単にボコられて終わり
当時の日本の武士は世界最強ですね。 元軍といっても多くは宋や高麗の兵で士気も低く統率も取れてなかった
2度目は博多地方の海岸線に防塁を築き、地の利は完全に日本そして嵐
モンゴル本体に対等な状態で勝ったわけじゃないから
これで鎌倉武士がモンゴルより強かったとは言えないわ >>476
宋や高麗は操船要員で実際に武士と戦ったのはモンゴル騎兵だよ。
だからモンゴル人の将軍が「戦い慣れたモンゴル兵でもこれ以上は無理だ」と弱音を吐いてる。
モンゴル兵は本土でも倭寇に歯が立たないし、鎌倉武士より弱かったのは事実だろ。 鎌倉時代の武士はいわゆる個人事業主のようなもので自分の身は自分で守るという意識がはっきりしていた
それに対して太平洋戦争時の将軍たちは所詮サラリーマンみたいなもので戦争に負けても俺関係ねえわみたいな感じでやっていた(牟田口みたいなのはその典型例)
その差なんだよな神風とかではなく >>476
日本人が昔から強かったと日本人が知ったら困るよなあ
覚醒されたら寄生できにくくなるし
被害者ツラして税金にも集れなくなる。
日当減らされたら困るもんなあ。 >>476 もとからモンゴルは混成部隊
混成部隊だから士気が低かったとかお前のでたらめなカルト妄想ね。
朝鮮人らしく強姦虐殺だけ士気が高かったのか_?
兵士の士気が高いから残って戦いたいと軍議で劉復亨も訴えてるぞ。 >>469
旧南宋の船に被害が大きかったのは、長江に展開する
河川水軍の船で喫水か浅く海の高波に弱かったから。
旧南宋の水軍自体は少し前までモンゴルと戦ってた実戦部隊で
決して急ごしらえの水軍でも装備でもない。 なぜ朝鮮人はさんざん論破されたでたらめを吐き続けるのか? バトゥとスブタイがもう少し頑張って・・・というかオゴダイがもう少し踏ん張って長生きしてれば、
ヨーロッパを征圧したバトゥとスブタイがヴァイキングやヴェネチアの航海技術を引っ提げて帰還しただろうから、
その技術をもって日本へ侵攻できてれば、あるいは・・・ >>440
よりにもよってポーランドと東ローマを
欧州代表にしよったなww
ポーランド・リトアニア連合=
スペシャルマン・カナディアンマンコンビ? 統一教会を愛する安倍ちゃんに竹島奪回をお願いしよう >>1
「日本凄いオレ凄い」のスレかな
オリンピックと同じくらいキモいよな 客観的に見て、鎌倉武士が当時世界最強だったのは事実だろ。
事実を事実として書いたら、キモいとか言い出す奴って何なん? 南チョンはメダルが少なくてひがんでいる
世界最強民族に勝てるわけがない >>487
おいおい朝鮮総連の血を分けたカルト兄弟の日本共産党の悪口を言うなよ。
日中友好議員連盟副会長の志位がだまっちゃないぞ
くらえ経団連キックバックwww >>488
日本すごい、強いと聞いたら必ず朝鮮人が泣き叫びながら湧いて必死にごまかそうとするのが笑えるww クビライが日本に固執していた理由それは
伊勢神宮に眠る契約の聖櫃アークだったあ クビライ「東になんか島あるっぽいな、暇だしボコしとくか」 万年奴隷だったのを独立させてやったのに恨んでるクズが朝鮮民族 平原の騎馬戦ならいざ知らず慣れない船に乗ったら運悪く台風が来たとな
最強を語るには立場条件違いすぎ
その視点の乏しさは中2だな? >>496
ロスケとつるんだバカ王妃を取り除いてやった日本に感謝してほしいくらいだ
あのままだと半島はロシア領になって、朝鮮人は奴隷民族になってたぞ
日本にも累が及んでいたのは確実 おっと、その前に壱岐・対馬島民への謝罪&賠償を韓国政府にしてもらわんと なっ何だよ!!別にお前なんて好きじゃないんだからな!!(ツン) >>499 逆だ
今頃韓半島はロシア人の居住地になってて
中央アジアに「朝鮮族自治州」がてきて、
日本に迷惑が掛からないようになってただろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています