>>164
>それこそ弘安の役の影響だろ。江南海軍が3500艘なら輜重船に護衛艦隊付けるなんて余裕だった。
ちゃんと読みなよ。戦艦隊は護衛についていた。しかし理由は史書に記載がないので不明だが、
バンドンからわかれて、11月に戦艦隊だけ先にタンロンに到着し、12月に張文虎がバンドンを出発した。
戦艦隊が11月末にタンロンに到着したとしても、一週間は間があいている。江南海軍が3500艘云々は
関係がない。寧ろ、ハロン湾のような海賊を跋扈するところで最後まで護衛しない方が不自然。

ハロン湾のあたりの地形と海賊が出没する状況がわかっていれば、戦艦隊だけ先にいくことなど
なかったはず。ハロン湾のあたりの地形に詳しくないようなら、グーグルサテライトで確認してよ
中世日本の瀬戸内海が海賊の協力なしに普通に航行できなかったのと同じで、当時のハロン湾は
険阻な島々に海賊が跋扈して付近を護衛艦なしで航行するなどは考えられない。
寧ろ、蒲壽庚が1285年に死去して、この海域の情報がつかめなくなったことが、作戦ミスの敗因ではないかと思うね