蒙古に勝った鎌倉武士最強説 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>290
鎌倉武士をElite warriorと持ち上げてはいたけど、鎖帷子の当時の
欧州の鎧よりも矢に対する防御力高いとかかなり科学的に検証してたけどな。
あと和弓とイングランドの長弓とも比較して射程内なら貫通力高いから、
矢の撃ち合いなら高い防御力と地の利とを活かし、鎌倉武士は有利に展開し、
高い士気(竹崎季長の絵巻が引用されてのは笑ったが)で迎撃兵力の
少なさをうまくリカバーしてリーグニッツの戦いのポーランドと
ドイツ騎士団の様にはならなかったと分析してたぞ。 >>292
ヒストリーチャンネルの検証だと、武士が他の地域の兵士と違うのは、
欧州だと弓兵や弩兵は弓や弩専門で接近戦ではとっとと退避。
一方、騎士だとランスと剣と精々戦斧を使うのみと兵種によって
使う武器が固定されていたが、武士は離れている時は和弓を使い、
接近戦になったら薙刀や太刀に武器を換えて戦うMulti-role warriorだから、
兵力を有効活用出来る戦士集団だと分析してた。 >>293
そもそも兵科が違う
蒙古襲来時のモンゴル軍の兵科はワールシュタットの騎兵尽くしのモンゴル軍と違って
高麗、南宋の兵がメインで兵装もモンゴル軍のものと武士のものを比較する意味が… >>295
高麗、南宋の兵は船を漕いでいただけで、戦闘はモンゴル帝国主力軍のモンゴル兵や漢人兵が
メインだよ。
だから文永の役で鎌倉武士に蹴散らされた時、モンゴル人の将軍が「蒙人、戦いに習うと雖も、
何を以てか此れに加えん」と言ってる。
鎌倉武士に負けたのは戦い慣れたモンゴル兵ってこと。
ちなみに筥崎宮が所蔵してる元寇の戦利品の中にはヨーロッパ製の兜と言われてるモノがある。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/26/The_helmet_of_a_Mongolian_army_%287%29.JPG
ワールシュタットで騎士に勝ったモンゴル兵かその子孫が日本で武士に討ちとられたのかもね。 >>296
文永の役だとモンゴル人、漢人が多いのは確かだけど
弘安の役だと南宋軍が大半で規模も文永と比べ物にならんよね てか南宋下す前の文永で南宋兵居らんのなんて当然やな 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) ブサヨ史観だと検証は無意味で武士は弱いらしいけど現実は違うからなあ、
武士は奴隷のチョンやと蒙古に勝ってるよ >>290
>そりゃまあモンゴルも短弓と長弓使い分けてたし
具体的にどうやって使い分けてたの?
そのモンゴルの長弓って短弓と比べてどのくらい射程や威力が違うんだろうか? ガチで強かったのは陸戦でモンゴル軍と戦って勝ったマムルーク軍だろ >>302
どれくらいの規模で戦ったんだろ
モンゴルは弘安の役並みの大軍で行ったのかな? マムルークが勝ったモンゴル軍の兵力は1万人。
弘安の役どころか文永の役よりも規模が小さい。 アイン・ジャールートでの戦いで3万から6万くらいだよ
その後も数回1〜2万程度の兵力でマムルーク朝と戦ったが全て防がれてシリアの覇権を失った モンゴルがシリアを再征服したのは14世紀のティムールの時代になってから >3万から6万くらいだよ
なんでそんなバラつきがあるんだ
具体的にどういった史料からその数は確認できるんだろうか? 良い事を教えてあげよう
以下は俺の妄想だが、
電車内痴漢は、いきなり生マン触りにいくのが、実は一番安全なんだよな
急に、下着に手を入れられアソコを触られて、冷静に対処できる女なんて居ない
どさくさに紛れて尻タッチするようなビビリ痴漢は、逆にリスクに見合わない
軽く触っただけでも、騒ぎだす女なんて山ほど居る
こういうのは、やるなら徹底的にやった方が得なんだよ
まぁ、あくまで俺の妄想だけどね >>300
この時期の武士は弱いなんて言ってる奴おるんか? 海外の研究者が書いた日本史の本で信長公記ではなく未だに信長記とか太閤記が参照されていたり
情報が古いなあと思ったことがある
日本向けに書かれたモンゴル関係の本ってのはそういうの大丈夫なのかな
>>308
じゃないのと自信なさげに言われても困るけどそれは自分で確認したの? モンゴルでは元寇のことってどんな風に考えられたり
本に書かれたりしてるのか興味あるけど、
邦訳されてる本とかモンゴル人の意見の載ってる本とかあるかな
元寇関係の番組でも、学者の話や対馬の人の話をよく紹介してるけど
モンゴル側のそういうのは見たことないし モンゴルは民主化してまだ短いから歴史どころじゃない 以前チンギス落書きの時に騒ぎがあったし、
相撲取りが文永の役に斬られた使者だったかの
墓参りをしてたニュースがあったから
一般人が無関心ってことはないんじゃないか? チンギス・ハンを自分達の祖として崇める心理は強そうだけど
中華王朝としての側面が強い元朝あたりのことはどう見てるんだろうな
元がモンゴル高原に追いやられて今に至る歴史につながるわけだから決して無関係ではないんだけど イラク人とポーランド人はモンゴルのこと嫌ってそう
モンゴルのこと好きな国無さそう >>317
モンゴルルーツのリプカタタール人はポーランドではリスペクトされてるぞ。 だからお前ら、ビビリすぎだって
援交で捕まってるのなんて、ほんのごく一部の馬鹿だけだって
たいてい、ネットに決定的な証拠残したとか、
相手に金を渡さずに、キレて通報されたとかで
だから、
一、ネットに証拠を残さない。
(例えば、SKYPEで交渉する場合、チャットに性交を臭わすようなことは書かない)
二、JK,JCにはちゃんと金握らせて口止めする。
特に、相手の見極めも重要。絶対に親や学校には喋らなそうな子を選ぶ。
「援交したことがバレると、学校で嫌がらせ受けるよ」などと脅すのも効果的
三、一度使ったホテルには、半年は立ち寄らない。間違っても、制服のままフロント行くなよ。
警察も、援助交際ごときに本腰入れて捜査しないから、
これだけ守れば、まず捕まらねえよ マルムークって弓騎兵だろ?
弓騎兵最強。弓騎兵に勝てるのは弓騎兵だけ。 ローマ帝国崩壊の元がモンゴル人の侵略
九州に侵略を許してたらどうなったんだろ リーグニッツの戦いでは「タタールの騎馬隊10万〜15万」とか言われているが、
これってヘンリクサイドが惨敗した言い訳にしてるんじゃないか? >>324
蝦夷の戦闘文化が武士の起源
元寇で武士に問答無用で皆殺しにされた朝鮮ゴキブリくやしいのう 日本人は夢を見ている。侍や武士、剣道、居合道は半島起源である。 武士と騎士、どっちが強いのか議論になるけど、
弓の方が槍に勝つに決まってるだろう。
なんでこんな簡単な理屈が分からんのか?
どちらも馬に乗ってるから距離は縮まらないから、弓が一方的に攻撃できる。 >>334
チョンコの資料に武士なんて言葉一つもないもんねw サムライは半島起源、サムライ魂は大韓に行き続けている! 起源を主張した朝鮮の刀が日本製造の物だとバレて逃走した恥ずかしいチョンコ!くやしいのーう! 韓国起源とは属国として宗主国達に与えられ共有してきた文化を自分のものと勘違いしたのが発端です さすが実戦経験者の元将校・新野先生!
・防人
防人を廃止しようという問題が起こった時に、大宰府の方では、防人が廃止されちゃうと守備力が
弱まるということを非常に強くいっておりますから、簡単にいえば非常に坂東武者が強かったという
ことしかその文章表記の上からはとれないですね。
・蝦夷
エミシの問題といえば、坂東武者はいわゆるエゾ征伐という言葉でいつも動員されているわけです。
ですから日本中でこれだけ熟練された戦闘人はこの段階では現実の問題としていなかったのです。
西日本の方では外国との戦争でもあったら別ですけど、そうでなかったら畿内やその辺では
戦争などないのですから、実戦の形態などもわからなかった。
しかし坂東の住民はしょっちゅう鎮兵として動員されまして、東北の山野を駆け巡って戦闘していた。
ですからそういう経験というものがやっぱり防人を徴集する場合に相当評価されたんじゃないか。
大体鎮兵として動員されるのは東北の人間じゃないんですね。
東北地方にだけ鎮兵という鎮守府将軍の掌握する独立兵団があります。
その鎮兵には誰をするかというと、中部地方まで行く場合もありますけれども、坂東から徴集された
兵隊なんですね。ですから平安時代の中頃になって元慶の乱という反乱が起こりますけれども、
その時でも、東北の兵隊は陸奥からも動員しますが一夜で逃げ帰っちゃいます。
どうにもならなくなって、やはり特別に動員されたのは関東、中部地方の精兵です。
(新野直吉、秋田大学名誉教授、日本古代史、東北地方史) やつ等の民度が低いのはモンゴル支配のせいじゃない
やつ等の民度が低いからモンゴルに支配されてしまった 武士が真に最強だったのは、やはりプロの軍人・傭兵だった戦国時代。
鎌倉時代の武士なんか屯田兵に過ぎないと思うのだが如何? 鎌倉時代の武士こそ本物のプロの軍人だよ
屯田兵とかいう認識は時代遅れ
畑仕事をやりながら騎射技術を身につけることなんてできないからね >>363
いやいや屯田兵じゃね?
騎射技術って流鏑馬や犬追いのことか?
アレ実践的じゃないぞ。
実践的で言えば鉄砲が一番! まぁ日本の一番の勝因は海という地の利があったって事だろ。
ヨーロッパの騎士だって鎌倉武士と同条件で九州で防衛戦やったなら勝てたんじゃね?
もしスブタイがもう少し長生きしてたら、神聖ローマ帝国とフランスは壊滅するとして、
イングランドの騎士達は鎌倉武士と同じように水際でモンゴル軍を撃退できるだろうか? >>366
1万人のモンゴル軍に惨敗したヨーロッパの騎士が鎌倉武士と同条件で2万5000人の
モンゴル軍に勝てるわけなじゃん >>367
その通り。文永の役は九州在地の御家人のみだから、精々6千程度の
兵力で迎え撃ったわけだし。 >>367
いや、鎌倉武士だってレグニツァやモヒで戦ってたらヨーロッパ騎士同様に蹂躙されてただろうし、
ヨーロッパの騎士だって博多湾沿岸で待ち構えてるという状況なら勝敗は兎も角、それなりの勝負は出来るだろ。 >>369
鎌倉武士がレグニツァやモヒで戦ったらモンゴル軍なんて瞬殺してるわ。
文永の役の半数以下の兵数しかないモンゴル軍に負けるわけないだろ。 >>369
当時の欧州騎士はランスチャージの接近戦しか出来ないだろ。
鎌倉武士は射程の長い長弓装備の弓騎兵だからモンゴル兵の
アウトレンジから攻撃出来る。 >>371
と厨房の頃は俺も思っていたが、
実際、射程でいえば和弓も蒙古弓も大差ないのだね。
モンゴル側の『汎海小録』には、日本の弓矢について
「矢は長しと雖えども、遠くあたわず」とあり、
みかけほど射程は長くないねえという感想だった(;´Д`) >>372
でも現実にモンゴル軍は副官の劉復亨が射られて重症を負い13500余人の犠牲者を出して
逃げ帰ってるからな。
モンゴル軍の戦闘力が鎌倉武士より酷く劣っていたのは確実でしょ。 上陸戦はいつの世も守備側が圧倒的に有利で、
それはモンゴル軍ですら例外ではなかったって事だろ。
騎馬民族だから海戦や渡航戦が苦手ってのもあるし。
んで、仮にオゴダイがもうちっと長生きしてて、
バトゥやスブタイがそのまま西へと進軍し続けてた場合、
神聖ローマ帝国やフランスはどうなってた?
そして、ドーバー海峡を越えてブリテン島に攻め入った場合、
イングランドやスコットランドの騎士や兵士は、
鎌倉武士同様に水際で迎撃できただろうか? >>374
文永の役は普通の野戦じゃん。
麁原に布陣したモンゴル軍と博多に布陣した鎌倉武士が福岡平野で戦って
鎌倉武士が勝ったというだけ。
ヘイスティングスの戦いとかと同じだ。
イングランドやスコットランドの騎士や兵士は鎌倉武士と違って
野戦でモンゴル軍に勝てないから無理だろ。 >>366
海という地の利があったのに珍島はモンゴルに負けちゃったね >>372
和弓は長くて重い矢を使うから軽い矢のモンゴル弓と最大射程は
あまり変わらないが、矢が重い分有効射程内で当たった時の衝撃が
大きい。そもそも、和弓は大鎧を着た騎馬武者を倒すことを目的と
してたから、革やキルティングの鎧のモンゴル騎兵や漢族歩兵の
鎧を撃ち抜くのは容易かった。 >>374
スコットランドの山岳地帯のハイランダーは騎馬で攻め込めないし、
接近戦が異様に強い連中だから征服出来ないだろう。 >>378
アフガンとか暗殺教団とか山岳地帯もモンゴル軍に征服されてるから無理だろ 日本の弓術ってさ、なんか世界のスタンダードから外れて
ちょっとガラパゴス化してる気がしない? 海外の弓矢よりも進化が遅れているのか?
それとも島国山国という地理故に海外とは異なる進化を辿ったのか? >>383
異なる進化だろ。
モンゴル軍に圧勝してるんだから遅れているということはない。 無謀な賭けで身を滅ぼすのは、運と実力の見分けがつかぬ者にてござ候。 >>385
元寇でモンゴル軍が身を滅ぼしたのは実力を見誤って自分より強い鎌倉武士と
戦ってしまったからだしな。 馬の無いモンゴル兵なんぞ、
ハンバーグが入ってないハンバーガーみたいなもんだ。
高麗でも撃退できる。 >>387
元寇のモンゴル兵が馬に乗って戦っていたことは史料的に確実だから。
『八幡大菩薩愚童訓』
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」
「冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ」 >>387
きんぴらライスバーガーなんかは普通のハンバーガーより美味いんだが >>380
殺傷力で言ったらアウトレンジだろ。竹崎季長が無謀な突撃して
馬を射倒されても竹崎本人は大した怪我してない。大鎧を射抜け
ないからだ。同じ距離で和弓なら竹崎は死んでた。 >>387
>ちなみに高麗はモンゴル軍の下馬戦術に大敗してる
だってさ
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