蒙古に勝った鎌倉武士最強説 [無断転載禁止]©2ch.net
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さすが実戦経験者の元将校・新野先生!
・防人
防人を廃止しようという問題が起こった時に、大宰府の方では、防人が廃止されちゃうと守備力が
弱まるということを非常に強くいっておりますから、簡単にいえば非常に坂東武者が強かったという
ことしかその文章表記の上からはとれないですね。
・蝦夷
エミシの問題といえば、坂東武者はいわゆるエゾ征伐という言葉でいつも動員されているわけです。
ですから日本中でこれだけ熟練された戦闘人はこの段階では現実の問題としていなかったのです。
西日本の方では外国との戦争でもあったら別ですけど、そうでなかったら畿内やその辺では
戦争などないのですから、実戦の形態などもわからなかった。
しかし坂東の住民はしょっちゅう鎮兵として動員されまして、東北の山野を駆け巡って戦闘していた。
ですからそういう経験というものがやっぱり防人を徴集する場合に相当評価されたんじゃないか。
大体鎮兵として動員されるのは東北の人間じゃないんですね。
東北地方にだけ鎮兵という鎮守府将軍の掌握する独立兵団があります。
その鎮兵には誰をするかというと、中部地方まで行く場合もありますけれども、坂東から徴集された
兵隊なんですね。ですから平安時代の中頃になって元慶の乱という反乱が起こりますけれども、
その時でも、東北の兵隊は陸奥からも動員しますが一夜で逃げ帰っちゃいます。
どうにもならなくなって、やはり特別に動員されたのは関東、中部地方の精兵です。
(新野直吉、秋田大学名誉教授、日本古代史、東北地方史) やつ等の民度が低いのはモンゴル支配のせいじゃない
やつ等の民度が低いからモンゴルに支配されてしまった 武士が真に最強だったのは、やはりプロの軍人・傭兵だった戦国時代。
鎌倉時代の武士なんか屯田兵に過ぎないと思うのだが如何? 鎌倉時代の武士こそ本物のプロの軍人だよ
屯田兵とかいう認識は時代遅れ
畑仕事をやりながら騎射技術を身につけることなんてできないからね >>363
いやいや屯田兵じゃね?
騎射技術って流鏑馬や犬追いのことか?
アレ実践的じゃないぞ。
実践的で言えば鉄砲が一番! まぁ日本の一番の勝因は海という地の利があったって事だろ。
ヨーロッパの騎士だって鎌倉武士と同条件で九州で防衛戦やったなら勝てたんじゃね?
もしスブタイがもう少し長生きしてたら、神聖ローマ帝国とフランスは壊滅するとして、
イングランドの騎士達は鎌倉武士と同じように水際でモンゴル軍を撃退できるだろうか? >>366
1万人のモンゴル軍に惨敗したヨーロッパの騎士が鎌倉武士と同条件で2万5000人の
モンゴル軍に勝てるわけなじゃん >>367
その通り。文永の役は九州在地の御家人のみだから、精々6千程度の
兵力で迎え撃ったわけだし。 >>367
いや、鎌倉武士だってレグニツァやモヒで戦ってたらヨーロッパ騎士同様に蹂躙されてただろうし、
ヨーロッパの騎士だって博多湾沿岸で待ち構えてるという状況なら勝敗は兎も角、それなりの勝負は出来るだろ。 >>369
鎌倉武士がレグニツァやモヒで戦ったらモンゴル軍なんて瞬殺してるわ。
文永の役の半数以下の兵数しかないモンゴル軍に負けるわけないだろ。 >>369
当時の欧州騎士はランスチャージの接近戦しか出来ないだろ。
鎌倉武士は射程の長い長弓装備の弓騎兵だからモンゴル兵の
アウトレンジから攻撃出来る。 >>371
と厨房の頃は俺も思っていたが、
実際、射程でいえば和弓も蒙古弓も大差ないのだね。
モンゴル側の『汎海小録』には、日本の弓矢について
「矢は長しと雖えども、遠くあたわず」とあり、
みかけほど射程は長くないねえという感想だった(;´Д`) >>372
でも現実にモンゴル軍は副官の劉復亨が射られて重症を負い13500余人の犠牲者を出して
逃げ帰ってるからな。
モンゴル軍の戦闘力が鎌倉武士より酷く劣っていたのは確実でしょ。 上陸戦はいつの世も守備側が圧倒的に有利で、
それはモンゴル軍ですら例外ではなかったって事だろ。
騎馬民族だから海戦や渡航戦が苦手ってのもあるし。
んで、仮にオゴダイがもうちっと長生きしてて、
バトゥやスブタイがそのまま西へと進軍し続けてた場合、
神聖ローマ帝国やフランスはどうなってた?
そして、ドーバー海峡を越えてブリテン島に攻め入った場合、
イングランドやスコットランドの騎士や兵士は、
鎌倉武士同様に水際で迎撃できただろうか? >>374
文永の役は普通の野戦じゃん。
麁原に布陣したモンゴル軍と博多に布陣した鎌倉武士が福岡平野で戦って
鎌倉武士が勝ったというだけ。
ヘイスティングスの戦いとかと同じだ。
イングランドやスコットランドの騎士や兵士は鎌倉武士と違って
野戦でモンゴル軍に勝てないから無理だろ。 >>366
海という地の利があったのに珍島はモンゴルに負けちゃったね >>372
和弓は長くて重い矢を使うから軽い矢のモンゴル弓と最大射程は
あまり変わらないが、矢が重い分有効射程内で当たった時の衝撃が
大きい。そもそも、和弓は大鎧を着た騎馬武者を倒すことを目的と
してたから、革やキルティングの鎧のモンゴル騎兵や漢族歩兵の
鎧を撃ち抜くのは容易かった。 >>374
スコットランドの山岳地帯のハイランダーは騎馬で攻め込めないし、
接近戦が異様に強い連中だから征服出来ないだろう。 >>378
アフガンとか暗殺教団とか山岳地帯もモンゴル軍に征服されてるから無理だろ 日本の弓術ってさ、なんか世界のスタンダードから外れて
ちょっとガラパゴス化してる気がしない? 海外の弓矢よりも進化が遅れているのか?
それとも島国山国という地理故に海外とは異なる進化を辿ったのか? >>383
異なる進化だろ。
モンゴル軍に圧勝してるんだから遅れているということはない。 無謀な賭けで身を滅ぼすのは、運と実力の見分けがつかぬ者にてござ候。 >>385
元寇でモンゴル軍が身を滅ぼしたのは実力を見誤って自分より強い鎌倉武士と
戦ってしまったからだしな。 馬の無いモンゴル兵なんぞ、
ハンバーグが入ってないハンバーガーみたいなもんだ。
高麗でも撃退できる。 >>387
元寇のモンゴル兵が馬に乗って戦っていたことは史料的に確実だから。
『八幡大菩薩愚童訓』
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」
「冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ」 >>387
きんぴらライスバーガーなんかは普通のハンバーガーより美味いんだが >>380
殺傷力で言ったらアウトレンジだろ。竹崎季長が無謀な突撃して
馬を射倒されても竹崎本人は大した怪我してない。大鎧を射抜け
ないからだ。同じ距離で和弓なら竹崎は死んでた。 >>387
>ちなみに高麗はモンゴル軍の下馬戦術に大敗してる
だってさ
390に言い返してみろよ 少し歴史を調べれば、騎馬部隊を船で輸送することなんて何の問題もないとわかる。
十字軍、ウィリアム征服王、百年戦争のイングランド軍、倭寇、みんな船で騎馬部隊を
船だ輸送して戦ってたんだから。
元寇でも史料だとモンゴル軍は馬に乗って戦ってる。
じゃあ何で元寇のモンゴル軍に馬がいなかったなんてデマが広まったかと言うと、
井沢が「逆説の日本史」で書いたからだよね。
「逆説の日本史」は真っ当な研究書なんかより桁違いに読者数が多くて影響力がある。
でも困ったことに史料を精査して書いてるわけじゃないからな。 モンゴル軍を撃退したのは、「蒙古襲来絵詞」で有名な竹崎季長。
ひとりで1万8千人を斬り殺したといわれているが、実際に活躍したのは季長の妹の竹崎季理子だったらしい。 そんなに鎌倉節が強いならなんで逆に海を渡って攻めていかなかったんだろうね。 >>366
江華島にトンズラした高麗王もモンゴルに降参しちゃったな >>396
倭寇は純粋な日本軍じゃないけどな
むしろ幕府が取り締まりする立場 >>399
松浦党には幕府御家人も居たし、倭寇勢力の一部でもあるが。 >>400
幕府の国策として倭寇が進出したわけではないし、
ただ荒らしまわっただけでモンゴル帝国みたいに国土を広げたことなど一度もない。 >>401
倭寇を仕切っていたのは幕府じゃなく征西将軍宮。
戦力は菊池や河野と言った元寇でモンゴル軍に圧勝した一族の水軍だ。
征西大将軍の懐良親王は「天下は天下のための天下であって誰か一人の天下ではない」
という思想でモンゴル帝国と戦っていたんであって領土獲得が目的じゃない。
倭寇は侵略国家モンゴル帝国打倒のための正義の戦い。 ほぉ。
では倭寇がそのために戦ったという史料を提示してくれ。 国策として大陸に攻め込というのは秀吉の朝鮮出兵みたいなこと
倭寇は話が違いすぎて無理 >>401
戦闘力の強弱を言っているのだから、国策の有無は関係ないだろ。
地方勢力だろうと他国に遠征して現地の正規軍を戦闘で破ったり、
迎撃で撃破されずに帰還してれば、遠征の実行能力と戦闘力は
十分高い。大体国策の後押しなしの部分的戦力で実行出来ること
自体が戦闘力の高さを物語っている。 >>406
それは、勘合貿易が機能しなくなってからの
戦国時代の後期倭寇。 >>403
倭寇が打倒モンゴル帝国のために戦っていたというのは、倭寇を率いていた懐良親王が
征西大将軍だったことからも明白だろ。
征西大将軍の征すべき西とはモンゴル帝国のこと。 懐良親王にとって最大の敵は九州の幕府側勢力だろうがw >>411
違うよ。
懐良親王にとって最大の敵はモンゴル帝国。
九州の幕府側勢力は懐良親王のモンゴル帝国攻撃を阻止するため高麗に部隊を駐屯させてた。 なんだこのスレの主は頭がおかしい奴だったのか
真面目に議論しにきて損した 学問板なのに史料に基づいて書き込みすると「頭がおかしい」とか言われちゃうんだから
困ったもんだな。
九州の幕府側勢力が高麗に部隊を駐屯させてた史料↓
高麗史133卷-列傳46-辛禑1 辛禑四年六月条
「 日本九州節度使の源了浚は、僧の信弘をして、其の軍六十九人を率いて来り、倭賊を捕らえしむ」
高麗史133卷-列傳46-辛禑1 辛禑四年七月条
「日本僧の信弘、倭寇と兆陽浦に戦い、一艘を獲、尽く之を斬し、被虜の婦女二十余人を放還す」
あと大内氏も高麗に部隊を駐屯させてたよ。
高麗史134卷-列傳47-辛禑2 辛禑五年五月条
「大内殿義弘、朴居士を遣わし、其の軍一百八十六人を率いて偕に来らしむ」 元寇の大半は高麗の奴隷
つまり武士>>>>>高麗人 >>416
元寇で高麗人はごく一部に過ぎなかったことが史料によって分かってるのに
何でこんな嘘を書く奴が絶えないのか >>419
文永の役が4分の1
弘安の役か14分の1 モンゴルに負けてたら、日本にもペストが持ち込まれてたのか >>422
残りは、文永の役が蒙古人と漢人
弘安の役が蒙古人と漢人と旧南宋人 弘安の役では14万人の蒙古人、漢人、高麗人、旧南宋人が動員された。
台風の後、指揮官クラスは無事だった船に乗り、兵10万人を置き去りにして逃亡。
置き去りにされた10万人は日本の掃討戦て7万人が戦死。
降伏した3万人の内、旧南宋人は助命され、蒙古人、漢人、高麗人は処刑された。
つまり、蒙古人は指揮官クラスだけでなく、兵としても万単位で動員され置き去りにされてたってこと。 弘安の役でモンゴル兵は最低でも3万人は動員されていたと考えないと計算が合わない 欧州ではモンゴルのてっほうから銃や大砲が生み出されたけど、
何で日本ではそれが出来なかったのだろうか? 欧州ではモンゴル帝国と戦った国が全滅したけど、
何で日本だけは消滅せずに繁栄し続けてるのだろうか? >>421
アジア地域は、むしろペストに対して比較的抗体あるんじゃね?
むしろ、日本側が元の船団の人の密集状況を利用して、
天然痘などを蔓延させるような工作をしていたかもしれん。
ネズミの死骸を投げ込むとかは常道だろう。
イスラームの聖典『クルアーン』の「象の章」では、
西暦570年頃にエチオピア軍がマッカを襲撃する様子が記述されている。
エチオピア軍はマッカの守備隊より軍事力で勝っていたが、
アッラーフが鳥の群れ(アバビール)を遣わし、エチオピア兵の頭上に石を落とすと
当たった者には疱瘡ができて疫病が蔓延し、撤退したという記述がある。
これはエチオピア軍の間で天然痘が蔓延したことが神の奇跡として描かれている
という説がある。 >>428
日本はてつはう作ろうとはしなかったのかな モンゴル帝国軍がそもそもなろう主人公のようなものだしな
中世のヨーロッパなんて国力も大したことないしそんな国々相手に勝ってもな 「高麗軍が多かった」とかいう理論って未だにソースがないよね
特定の思想が絡んだ史観にしか思えない マルコポーロは弘安の役に参加したタタール兵は3万人だったと書いてる マルコポーロの本はラシードとかと並んでモンゴル帝国に関する最重要史料の一つじゃん >>294
基本は乗馬のまま遠矢で敵の騎馬兵を射落とし、自分あるいは郎党を使って首を掻く。
接近戦は打刀を抜いて相手の馬ごと打ち倒し、あるいはひきずり下ろし組み討ちにして首を掻く。
太刀はそんなに使わない。
名乗りなんて上げない。 ポーランド騎士団の雑魚さといい、東ローマ帝国の雑魚さといいヨーロッパは実は弱い >何で鎌倉武士は一人として入ってないのだろうか?
雑魚ばかりだからさ。 関東武士の心得
「家を継ぐからには心がけねばならない。常に馬の餌の為に庭草はボーボーにしておけ。調練場には生首を絶やすな。人殺しは常にやっておけ。」
「門前を通る坊さんや乞食、修験者は弓の的に丁度良い。しつこく逃げるから弓の標的として活用せよ。」
「武士と生まれたからには殺しまくれ!」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています