ドイツ国家成立の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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ドイツ国家成立の歴史に絞って語りましょう。
なぜならドイツ国家成立の歴史が他のヨーロッパ諸国の国家成立の歴史の中で一番面白いと思うからです。 7人の選帝候のうち、マインツ大司教・トリーア大司教・ライン宮中伯の3人が、
現在のラインラント=プファルツ州に集中している。
ちなみに、北ラインラントのケルン大司教も選帝候の1人。
ラインラントがいかに重要な地域だったかがよく分かる。 この北イタリアのポー平原からドイツ・オランダのライン川流域にかけての地域は、
ヨーロッパで最良の土地であり、中世も現代も欧州経済の中心。
日本の「太平洋ベルト地帯」にも例えられる。
中国でいえば、長江流域がこんな感じか。 >>289
いや、中国に例えるなら、北京・上海・広東省の沿海部だろう 欧州の金融と工業の中心は、このブルーバナナにすっぽり入っている。
現代ではロンドンとルール地方、中世では北イタリアとフランドル地方。
物流の中心は、昔も今もオランダの港だ。
ルネサンスも産業革命も、この地域で起きた。 >>292
歴史地図を見ると、ロタリンギアは、現オランダ〜独仏国境地帯〜現スイス〜イタリア北半分
だけど、これ、どうやって統治やれってんだろう? ライン川〜モーゼル川〜ローヌ川〜レマン湖〜ポー川 の水系に沿う感じだな >>274
本来征服者である筈の大和朝廷の出先機関を有り難がって「多賀城市」とか「太宰府市」とか名乗ってる
東北や九州の都市があることを考えれば日本人の感覚としては分かり易いのかな>ケルン コローニア・アグリッピナだったという意識はもう無いんでは? 【スクープ!】北朝鮮「核開発」協力疑惑の研究者
京大[原子炉実験所]韓国籍准教授は
「拉致実行犯」の、韓国籍在日娘と結婚していた
http://www.shinchosha.co.jp/news/article/379/
生活保護制度を悪用して
裕福な生活を送るサムスンファンニートが急増…
年間1200億円に達し、うち6割強が朝鮮半島出身者
http://myjitsu.jp/archives/17506 ヒトラーのラインラント進駐
は936年3月7日にドイツが、ヴェルサイユ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに陸軍を進駐させ、
同地のアーヘン、トリーア、ザールブリュッケンに兵営を設けて駐留を開始させた事件を指す。 1925年のロカルノ条約でドイツ、フランス、イギリスはラインラントの非武装を確認した。 1936年、ヒトラーはロカルノ条約を破ってラインラントを再武装することを決意した。
イギリス・フランスがどう出るか。側近は反対した。これはヒトラーの大きな賭けだった。
作戦は、極秘で進められた。冬の夜明け、突如としてドイツ軍がラインラントに進駐した。
虚を突かれたフランスは、モタモタするばかりで何も対応できずじまい。
ヒトラーの大博打は成功した。 第二次世界大戦後、フランス軍に尋問されたドイツ軍のハインツ・グデーリアン将軍は、「もし、1936年にフランス軍がラインラントに進軍すれば、我々は敗北し、ヒトラーは失脚していただろう。」と答えた。
またヒトラーも、フランスが動かないという確信を持っていたわけではないと後年、以下のように述懐している。
「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」 「自然の国境」を唱えるフランスはライン川を国境にしたいと何度も望んだが、
ライン川を自分たちの川とするドイツは、その西側の地帯をもドイツに含める
ことにこだわった。
後に独仏紛争の火種となるアルザス=ロレーヌ問題は、そうしたところに
起源があったのである。 もしも中国が分裂したとしても、長江を自然国境として国を分けるのは難しいだろうな。
どの国も両岸の土地が欲しいに決まっている(笑) ドイツ人にとってのラインラントは、日本人にとっての京都・奈良みたいなものだ。
経済的な価値もさることながら、民族意識の原点としての古都の重要性が計り知れない。 ライン川の西岸をめぐる独仏の争いは、中世の東フランクが、中フランクを併合したことに淵源がある
ここで、ヨーロッパ最良の土地であるラインラントは東フランクの領土となり、
さらには神聖ローマ帝国へと受け継がれていった 中世ヨーロッパにおいては、パリをしのぐ大都会だったケルンだが、
今のケルンにそういうイメージはない フランスにとっても、ライン川は自分たちの原点だ。
初代フランク王のクローヴィスは、今でいうベルギーの出身。
シャルルマーニュ大帝は、北ラインラントのアーヘンで戴冠した。 「史上最強の教皇」ことインノケンティウス3世は、皇帝選挙に介入した。
マインツ大司教・トリーア大司教・ケルン大司教に皇帝選挙権を持たせることに成功したのだ。
1356年、皇帝カール4世の金印勅書により、皇帝選挙権は法的にも確定した。 ドイツって、北には海があり、南はアルプスに区切られている。
西は、進もうとするとすぐにフランスと利害がぶつかる。
それに対して東は未開地。
ドイツ王はイタリア政策とともに東方政策によってその王権を維持した、
という面がある。人口が増加して新たな土地が必要になると、
その土地の開発管理を有力諸侯に任せることで、不満を抑えるというわけ。 ブランデンブルグ辺境伯が後に巨大勢力と化したのは、歴史の必然であったか >>312
アーヘンは、ライン川よりもかなり西にある
ほぼベルギーの位置 マンハイムからヴォルムスを過ぎ、ラインラント=プファルツ州都のマインツでライン川はマイン川と合流する。ここまでが上ラインと呼ばれる。
マイン川をさかのぼると、1992年に開通したライン・マイン・ドナウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみで行くことも可能である。 >>271
今でもラインラントの方が重要かもな
ルール工業地帯 昔からブランデンブルクは土田舎で人口密度も20世紀になってもうすいレベル
東でいうとザクセンの方が人口も多くて発展してた
ライプツィヒやドレスデンは東ドイツ文化の中心だったし経済的にも
プロイセン王国はでかいけど人口密度はうすかった
オーストリアも山がちで人口はそれほどでもなかったけど銀鉱があったりイタリアとの通商路で金はあったはず
バイエルンは中世から近世は人口多かったけど18世紀あたりから人口密度が薄くなって衰退してる
アウグスブルク周辺が南ドイツの経済の中心地だった 中世ドイツでもっとも重要な鉱山は、ザクセンのゴスラーだった。
ザクセンの鉱山都市としては、ゴスラーのほかにはその東方のマンスフェルトの銅山や
南ザクセンのフライベルク、シュネーベルク、アンナベルク、マリーエンブルクなどの
銀山が知られている。 >>313
カール4世の後もルクセンブルク家の家勢が衰えずハプスブルク家に取って代わられることがなかったなら
プラハを帝都とするボヘミア帝国が史実のオーストリア帝国の位置づけだったんだろうな どうかなあ。
オーストリアは、首都ウィーンこそ平地にあるけど、
本質的にスイスみたいな、アルプス山脈の山岳国家。
皇帝マクシミリアンは、インスブルックに首都を置き、ドイツとイタリアの双方にニラミをきかせた。
それに比べてボヘミアの地勢は、帝国全体を統治するのに適していると言えない。 ボヘミア王は実力がありすぎて、他の諸侯から警戒されたのが敗因 オーストリアの東にはドナウ川という大動脈があり、プロイセンの東は広大な平地
ボヘミアの東側はすぐに山脈に突き当たるからその二つに比べて東方への拡大の余地が少ない あの辺りの地勢見たらチェコとスロバキアの分離は地理的観点から妥当だったのがよく分かる プラハはエルベ川だから、ハンブルク・北海方面の物流には良かったかもな? ドイツもイタリアも、統一は国民の総意ではなかったし、歴史の必然でもなかった
たまたま、天才的な政治家や軍人が出てきたおかげ
統一できなくても不思議はない すぐ隣のフランスと同程度の国家規模を確保しないと外交・国防上まずいという意識はある程度あったんじゃないか?
もしもフランスが南仏とブルゴーニュを併合できず三国志的状況が近世以降も続いていたら今日の統一国家ドイツとイタリアもなかったと思う >>330
逆に百年戦争をプランタジェネ家が制して英仏統一国家が出現していたらこれに対抗するためにドイツと北イタリアの強固な統一国家が出来ていた可能性もあるかな? フランスは、オーストリアとスペイン(どっちもハプスブルク家)に挟まれて、
“フィンランド化”される恐れがあったから、神聖ローマ帝国を分裂状態に
しておく必要があったわけ。
だから三十年戦争では同じカトリック側ではなくプロテスタント側についた。 三十年戦争により、戦場となったドイツは荒廃し、近代化が更に遅れてしまいました。この戦争の講和条約が、1648年に締結されたウェストファリア条約です。
ドイツのウェストファリア地方にあるミュンスターとオスナブリュックという2つの都市で講和会議が開かれたため、こう呼ばれます。
この講和条約の主な内容は次のようなものでした。
・アウグスブルクの宗教和議の確認
・カルヴァン派の承認
・スイス、オランダの独立承認
・フランスがアルザスとロレーヌ地方を獲得
・スウェーデンが西ポンメルン獲得
・ドイツ諸邦の各主権が確立 ヨーロッパ全土を巻き込んだ戦争とその後の条約は、歴史的のどのような影響を与えたのでしょうか。ポイントは次の5つです。
・全盛を誇ったハプスブルク家が後退し、代わりにフランスのブルボン朝が台頭するきっかけとなった。
・カルヴァン派が承認されたことで、新教の立場が確立した。
・ドイツ諸侯の領邦主権が確立したことで、ドイツは300以上の領邦に事実上解体された。(神聖ローマ帝国は名目的には1806年まで存続します。)
・ドイツは戦争と傭兵による略奪によって国土が荒廃し、人口が激減、その後の農業や商工業の発展が阻害され近代化が遅れる。
・ウェストファリア条約締結の際、ヨーロッパ各国が「主権国家」として参加したため、その後の国際関係やヨーロッパの主権国家体制が確立した。 ウェストファリア条約によって、ドイツは300諸侯が事実上独立した。
日本に例えれば、江戸幕府が崩壊して、300藩が独立したような状況。
いよいよ、弱肉強食の戦国時代が始まった・・・。 >ドイツは荒廃し
歴史上で何回ドイツは荒廃したんですか? 300諸侯の中から台頭してくるのは、三十年戦争の被害をあまり受けなかったプロイセン。 ハブスブルク王朝が衰退した結果、強力な集権国家・フランス王国の影響力がトテツもなく増大した。 中国バブルが崩壊
ドイツは巻き添えになって荒廃する 30年戦争でドイツで人口が半減したとかってもう今どきでは誰も言わないよ
30年戦争開始前と終了後で人口は1600万程度でほとんど変動してないのは確認済
当時の文献だけで、ヒドイ、ヒドイ、と言ってただけ
政治的に混乱したのは確かだけど 諸侯に分裂したドイツを統一するための手段がドイツ関税同盟だった
諸侯で関税を一律にすれば経済圏としては統一されたのと同じであるって発想で
1834年から順次進められれ1854年に完成する
このドイツ関税同盟こそがEUの基なのではあるまいか?
現代ドイツの行方が気になりだしてから、1800年代のドイツ統一への流れをもう一度おさらいしたくなった 近代化が遅れたって言うけど地域差がある
中欧ドイツは荒廃したけどルール地方は相変わらず栄えてたし
オーストリアはほぼ無傷、ボヘミアはダメージうけた ドイツ諸侯はナポレオンについた結果立場を弱くしたな ドイツの近代化は「まずナポレオンありき」って言葉から始まる
ナポレオンに支配されることからドイツ近代史のすべてが始まってる どうしてバラバラだった国々が一つにまとまったのか不思議
ドイツの場合は言葉がほぼ共通だったから?
イタリア、中国は違う 中国は言語は違うけど統一された表意文字:漢字があったから筆談で容易に意思疏通ができた >>346
ドイツ統一の定義から始めねばならん、ドイツ語を話すドイツ民族の統一って定義だと一時的にせよ
成し遂げたのはナチス第三帝国時代だけ
オーストリア帝国はドイツ民族圏やらチェコ・ハンガリーも含めた多民族帝国
もしオーストリアからドイツ民族圏が抜けて統一ドイツに参加するとそれはオーストリアの解体になる
だからフリードリッヒとマリアテレジアは戦い続けた
結局オーストリアのドイツ人は諦めその他のドイツ人をまとめた小ドイツ主義に落ち着いた ドイツ人は集まるとろくなことしないからバラバラの方がいいな >>349
まだ東西ドイツだった時代にドイツ嫌いで有名なフランスの政治家がインタビューの中で
ドイツの統合について意見を求められると
「私がドイツ嫌いだってのは誤解だ、私はドイツが大好きだ、だから世界にはいつまでもドイツが二つあって欲しいのだ」
って答えた >>352
いや、日本人は一人ではダメ
日本人は全員親しくなれる程度の小集団(数人〜30人程度)が一番いいのだ 民族によって一番力を発揮し易い単位があって
日本人の場合軍隊で言えば連隊クラスが一番合ってる
行政単位だと旧分国くらい、だから幕藩体制が一番適合してる
幕藩体制を斬新的に近代化してゆくって道が取れなかったもんだろうか? >>354
東京から金沢まで新幹線で二時間半の時代だぞ
徒歩で移動してた頃と同じ距離感で分けられるか 最近は幕藩体制を理想化するのがアンチ・グローバリストの間で流行ってるが、
地方公務員が腐敗して、「水戸黄門の全国漫遊」が必要になるだけだ アメリカを幕府とする、世界規模の幕藩体制が究極の姿
イギリスは親藩、日本とドイツは譜代で、中国・ロシアが外様大名 江戸幕府は、幕府の力が強すぎて、神聖ローマ帝国とは似ていない。
神聖ローマ帝国と似ているのは、しょっちゅう地方の大名と戦争してた室町幕府 神聖ローマ帝国 : 典型的な封建制
徳川幕府 : 限りなく中央集権制に近い封建制
室町幕府 : 典型的な封建制
うむ、確かにその通りだ ドイツ帝国はプロイセンを徳川とした幕藩体制に近い
藩と幕府の力の差で言えばプロイセンの方が強力だったけどね
日本では討幕は成立したがドイツで諸侯が打倒プロイセンは無理だっただろう
ドイツ帝国と日本との決定的な違いは日本の場合は幕藩体制の上に朝廷って存在があったことだ
忘れられがちだが幕藩体制を語る時に朝廷の存在は絶対に欠かせない
ヒトラーが日本大使に、天皇だけは大切にしろよ、あれだけはマネができないんだ、と語ったというが
朝廷の無い幕藩体制からドイツ帝国を作らねばならなかったドイツ人視点だからこそ天皇の価値が見えたんだろう 神聖ローマ皇帝が形だけそのまま存続してればドイツもそうなった >>362
ポーランド、バルト方面との戦争、侵略の核になった強力な軍事力があったので統一に成功した
バルト諸国は殺しまくられてまったく荒廃した
隋や唐が北からの侵攻に備えた六鎮の軍事力を元にして中国を統一したのと似ている >>359
神聖ローマ皇帝は天領よりはるかにでかい領土もってたけどな
運が悪いことにフランスという強力な敵と接していた >>360
徳川幕府 : 限りなく中央集権制に近い封建制
幕末みる限り実はそれほど強力ではなかったと思うけどね
当時のイギリスの外交官の手記みる限りイメージと違って幕府の権威はでかかったけど権利はそれほどでもない
領内に関して大名は独占的権限をもってて、大大名にはほとんど介入できなかった
外交するにしても天皇の権限がより優位だったし
それに全国における天領の割合が15%程度しかない
30%以上あるハプスブルク家よりしょぼい
ハプスブルク家は皇帝としてはかなり強力だけどフランスがそれ以上に強力で邪魔しまくったのがまとめられなかった原因 天領は少なくても譜代がいるからその点は優位かな
ただ島国だから安定できたってのはある
強力な外国が接していたら徳川も厳しかったろう 御三家はじめ親藩譜代を足せば
徳川支配地は日本の半分くらいになるだろう >>362
中世の前期までは、幕府にとっての天皇と似た存在が、帝国にもあった
ローマ教皇だが 京都の朝廷と鎌倉の幕府の関係は、ローマの教皇庁とドイツの皇帝の関係に、驚くほどよく似ている
中国には、こういう宗教権威と世俗権力の分離がなかった しかし、後には神聖ローマ皇帝やフランス国王も、かなりの宗教的な権威を伴う存在と化していったのは事実 帝国内に限定すれば、聖界諸侯筆頭のマインツ大司教が天皇に一番近いかな。ただ、これも自前の軍隊や領土を持ってて、近世までの天皇よりは筒井順慶や安国寺恵夐に近い存在 旗本加えると25%になるからだいたい4割ちょっとぐらいだったみたいだ >>371
欧州以外だとアッバース朝のカリフとセルジューク朝やオスマン帝国のスルタンの関係もよく似てるな 関が原の戦いに秀忠が遅参しなければ、外様に恩賞を与えなくて済むから、
徳川支配地は日本の6割から7割ちかくいってたかな? 欧州の聖と俗の関係はかなり複雑で単純に法王と皇帝に分けられない
王国なりの広域を統治するためには行政組織が不可欠になるけど
機能する行政組織って教会しかなかった
つまり教会という俗な仕事をやってくれる組織の上に乗ってはじめて王権が成立するわけで
この両者の綱引きが複雑すぎて今でも論争が続いてる >>378
>>371の指摘のように、中国史では西洋史のような巨大な宗教的権威の台頭が見られなかったのは
歴史のかなり早い段階から世俗的な官僚機構を皇帝が自前で用意出来たからなんだろうな >>380
同意、中国史の最大の特徴は大規模な官僚機構の構築に習熟してたことだろうね
だがこの官僚機構には明暗両面があって、能力のある者を選抜する、世襲させない
って一見理想的に見えるんだけど実際にはアッと言う間に腐敗してしまう
日本や欧州の世襲封建制の方が遥かに清廉な行政を維持できたんだよな 国王が民衆の患部に手を触れることで、病気を治す奇跡療法をロイヤル・タッチとよぶ。
ローマ皇帝ウエシパシアヌスが起こした奇跡が、記録として残っている中では最古のものとされている。
皇帝のもつ不思議なヒーリング・パワーによって盲目は光を取り戻し、体の不自由なものは回復したという。
11世紀のイギリス国王エドワード懺悔王や、ノルウェーのオーラヴ2世、
16世紀に良王として慕われたフランス国王アンリ4世らはその特殊な能力で大勢の民衆を治療したという。
彼らは気功師のように強力な気を放って、病人を奇跡的に治したのであろう。
そうでない場合も、「ロイヤル・タッチで病気は治る」という信念が民衆の側にあったからこそ、国王という神聖な存在が威光暗示として働き、多くの奇跡が起きたのである。 支那は一応、”怪力乱心を語らず”を理想としてるから宗教色はあんまり無いよね
中国史を彩るあの度外れた残忍性や虐殺の原因なのかもしれない
欧州では宗教があるからこその残忍さがあるから一概に言えないけど
やっぱ日本くらいが丁度良いのかも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています