北京の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつであるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられている。 石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたとも考えられている。 また、動物の骨が近くに見つかったことから、それらを焼いて食べていたという説もある。 さらに、原人の骨自体が粉々にされていたので、北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力であった。 しかし、レプリカに残っていた食痕からハイエナ類によるものであるという見解が提出された。 額が現代人に比べ、なだらかに傾斜し、後頭部の骨は突き出していた。 類人猿でも現代の人間でもない、その進化の過程の原人だとされた。 台湾では、今でも北平が正式名称 さすがに、大陸との交流が盛んな今では、北京と呼ぶ人が多いが 悠久の歴史の中のトリビア かつて八王子を走っていた路面電車の車両は廃止後北京に譲渡された 今の大天朝が覆ったら「北京」の称も変わるのかもしれない。 意外と「薊」? ロシア軍が駐屯したら改称されてプーチングラードなんてなw 次の王朝は、北京を首都としない可能性も高い もともと、日本でいえば札幌を首都としているような、極めてアンバランスな場所にある 人口分布の中心でいえば河南省らしい。 これまで統一王朝の都にならなかった所というのも しがらみがなくていいかもしんない。 中国っていったら、「長江の下流に人口が密集している」というイメージを持っている人が多いけど、実際には華北平原の人口密度が極端に高い >>12 だったら韓国の首爾だって超アンバランスな場所にあるじゃんかよ ちょっと北に行けば北朝鮮国境だ パリとかも北の端にある都市だが、 一度北から来た異民族が支配者になって以来ずっと中心になっている パヴィアもそうだった コルドバもそうか >>18 李成桂は自分の故郷近くに首都を置こうとは思わなかったのか 洛陽、長安、開封、南京、北京 統一国家の首都となった都市は少ないな 高麗も朝鮮も、実質的に満州系の王朝。 開城やソウルを首都としながらも、ピョンヤンには特別な思い入れがあり、副都の位置づけになった。 >>21 特有の気が満ちていなければ、天に選ばれし王城の地にはなれない 北朝鮮は寒い上に、山がちで地形も厳しい 特に、北に行くほど首都には不向きな地形 北京は、華北平原の北東の端にある。 つまり、中国から満州やモンゴルに行くのにも、逆に満州やモンゴルから中国に行くのにも、必然的に北京を通る。 回りは険しい山岳地帯だから、ここを通るしかない。 だから北京は、商業ネットワークのカナメになる場所。 古くは関中も北京みたいな立ち位置たったのだろう 周のような遊牧民と華夏人が接する場所。 渤海五京 上京龍泉府、中京顕徳府、東京龍原府、西京鴨緑府、南京南海府 → 最北は北京ではなく上京 遼五京 上京臨潢府、中京大定府、東京遼陽府、南京析津府、西京大同府 → 同じく最北は北京ではなく上京 宋四京 東京開封府、西京河南府、南京応天府、北京大名府 金五京 中都大興府、上京会寧府、東京遼陽府、西京大同府、南京汴京府 周口店行ったけど北京つうよりどことも知れない山の中のド田舎だったよ 昔のことだから街の中心にでかい国営工場があって、煤煙がひどかった 社会主義国の街づくりってそういうもんだった そりゃ胡同地区とかから北京原人が発掘されるわけはないんだから、 だいぶ郊外にいった田舎になるのは想像つくだろ 想像つくか?いちいちトンチンカンなところに刺さるなあ 昔は、中国人にどこの出身かをきくと、「北京の近くから来ました」というので、 北京郊外のどの辺なのかと思ったら、「鉄道で12時間くらいのところ」と 答える・・・という調子だった。 彼らのいう「北京」というのは、日本人の考える「街」とは概念が異なる。 どっちかっていったら、「国」なんじゃないかと、それを聞いて思った。 10年前、「北京オリンピックが終わったら、中国は深刻な景気後退に陥るのではないか?」と 上海人に言ったら、「北京は小さな街で、経済的な重要性が低いので心配ない」と上海人は答えた。 一事が万事、こんな調子。 上海人にとっての「北京」は、東京人にとっての「札幌」みたいな感覚だ。 「北の隅っこにある、寒くて、そこそこ大きな街」というくらいの印象。 しかし、札幌には広々とした北海道に特有の良いイメージがあるが、北京にはそんなイメージがない。 全体的に、北京のイメージはあまり良くない。 清軍の入関がなく李自成の大順国が続いてれば、 西安(長安)が唐朝以来800年ぶりに首都になってたかも知れない 北平の北はただただ草原だからな 現在だと砂漠化もすすでんるしもう首都になることはないだろう 北京も、長安と同じ道をたどる いったん首都でなくなったならば、二度と戻ることはないだろう 首都でなくなったら、企業が北京に本社を置く意味がなくなり、北京は急速に衰退することが予想される。 そうなったら、上海や広東省が圧倒的な経済力を持つことになる。 中国は、全体的に暑い南の国になる。 漢以後で中原や関中に首都を置く王朝を浸透王朝といい、 北京に首都を置く王朝を浸透王朝という >>40 征服王朝だった たぶんもとの領土と中国をいっしょに手にいれてるから北京に首都をおく いずれにせよ、中国の首都を攻め落とした民族は 中国に同化吸収される運命にある。 >>42 北清事変で首都を攻め落とした 日本・ロシア・アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・オーストリアハンガリー・イタリア 春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と称された。 周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。 秦漢代には北平(ほくへい)と称されるが、満州開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。 北京市に隣接する河北省涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。 遼は南京と呼び、金は中都と呼び、元は大都と名付けた。 チンギスハンは、西はホラズムまで征服したが、中国は後回しになった。 それでも、北京までは版図におさめた。 大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。 現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。 北京地方はモンゴル高原・東北地区(満州)と中国中原の間の中継点に当たることから軍事的に重要な土地で、契丹人の遼のとき北方民族の支配下に置かれ、遼を滅ぼした金が首都中都大興府を置いた。 1215年5月にモンゴルの圧力を受けた金が中都を放棄し、チンギス・カンの親征にともないモンゴル帝国軍による攻囲ののち接収される。 モンゴル本土と中国の中継点であることからいち早くモンゴル帝国による北中国支配の拠点として復興され、燕京大興府と称した。 チンギス、オゴデイ時代は耶律楚材など現地の漢人官僚たちによって運営が任されていたが、 1251年7月にモンケが即位するとモンゴル帝国を3つの巨大行政府に分割し、そのうちの一つ、燕京等処行尚書省が設置された。 オゴデイ時代にはマフムード・ヤラワチがこの長官として中央アジアから派遣された。 燕京はモンゴル帝国東部の中心都市として位置付けられるようになった。 皇弟クビライは、この地の統治権一切を掌握した。 北京がなぜ千年の都になったかと言えば、地形のせい。 北京は巨大な三角州である華北平原の東北端に位置する。 周囲を険しい山脈に囲まれた、唯一の出入り口。 中国からモンゴルに行くにも満州に行くにも、逆に北から中国に入るにも、必然的にここを通る。 まさに、兵家必争の地。 隋の煬帝が運河の北端としてから、商業都市としての北京の発展が始まった。 その後、モンゴル帝国の時代に運河がますます整備され、かつての長安や開封に代わって中核商業都市になった。 大都と呼ばれた北京。 その北、300kmほど行ったところに、上都という都市があった。 ここが、東モンゴル帝国の冬の首都。 マルコ・ポーロは、この地で見聞した壮麗な宮殿の雕欄玉砌、にぎやかな街並みを 東方見聞録に書きつけて以来、ここは「ザナドゥ」と呼ばれる西洋人の憧れの地となった。 20世紀のアメリカでも、「ザナドゥ」という歌が大ヒットしたくらい、ここは伝説の都。 モンケ歿後のアリクブケとの後継者争いに勝利したクビライは、1267年に燕京の城市の東北に接する土地に新たな都市を建設し始めた。 大都の構造は、周礼の匠人営国の記載に則って構成され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られた。 こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものである。 大都はこうした構成に見られる如く、純然たる計画都市として設計されたため、極めて整然とした構成美を持っていたとされる。 大都は、内陸の都市としては驚くべきことに、「積水潭」と呼ばれる海につながる都市内港を持つよう設計された。 現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため江南地方からの物資も水運により結ばれるようになった。 このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めた。 大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン・バットゥータやマルコ・ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わった。 モンゴル帝国の運河が、隋の煬帝のそれとどう違うかといえば、なんといっても、北京と天津を大運河で結んだこと。 これにより、江南から海路で天津に入り、そこから北京へと直通の水路が開かれた。 「北方の軍事拠点」というイメージが強くて、商都というイメージがあまりない北京だが、それはイメージの問題。 モンゴル帝国の時代には、紛れもなく世界経済の中心だった。 現代でいえば、ニューヨークに相当する。 さらに北京は、「モンゴル高原への出口」というポジションにある。 モンゴル高原は、馬で移動するのに便利。 長安からラクダを引いて砂漠を移動するより、格段にスピードが速い。 モンゴル帝国の時代には東西貿易が活発化したため、西の拠点・長安も金・宋代よりは復興した。 それでも、北京の繁栄の影に隠れて圧倒されてしまった。 >>52 永済渠は高句麗遠征用の兵站輸送運河だったんだよなぁ、煬帝はん無茶するわ 洛陽からスタートじゃなくて、済南あたりまでは黄河使ってそこから北上する運河にすれば半分以下で済んだ気もするし 1968年、北京の城壁を撤去する工事にともない、北京市西城区の西直門を取り壊した際、その中から元代に建設された和義門が発掘された。 西直門は、和義門にさらに土をかぶせる形で建設されていたのである。 城門の残存部の高さは約22m、門道は長さ9.92m、幅4.62mで、磚(せん、煉瓦)で敷きつめられた門の上には、幅三間の城楼があったと推測される。 大都の遺物が発掘されるのはきわめてまれで、他には同じく西城区の一角にあった貴族の邸宅跡の調査があるのみであった。 現在北京市内で確認できる大都の遺構は、西城区の積水潭(現在は什刹海)などの池や、海淀区から朝陽区にかけてある西土城と北土城が残る元大都城垣遺跡公園のみである。 北京の歴史において、モンゴル帝国の大都が最盛期だった。 明清の北京は、都市としての規模が縮小された。 現在の北京は、政治的には首都だが、経済的には上海や香港の後塵を拝している。 というものの、現在の北京に、大都の痕跡はほとんど残っていない。 現在の北京は、大都が破壊された跡地に、明の永楽帝が改めて築いた都市。 地理的には春秋時代の燕にまでさかのぼる地だが、直接には明から数えて600年の古都。 >>58 そこまでして高句麗を征伐しなきゃいけなかったとは、やはり当時から満州は危険地域だったんだな >>22 王建が女真系とか無理あり過ぎやぞ もともと姓がなかったことや双系的な系譜をもつことから新羅人であると考えるのが妥当 イブン・バットゥータも、旅行記によれば、広東省から海路で北京に移動したようだ。 古代中国人は、徹底して陸の民であり、海とはあまり縁がなかった。 孔子も、いまでいえば山東省の出身だが、「生涯、海を見たことがなかったのではないか」と言われている。 唐の後半から宋にかけて、東西交易は次第に海路が主流となり、広東省や福建省の港が繁栄した。 モンゴル帝国の時代には、北京ー天津間の運河が開通したおかげで、「国内移動も海で」という国に変わった。 いまの中国は、北京・上海・広東省の「沿海部」が中心。日本でいえば「太平洋ベルト地帯」みたいなものだ (もっとも、日本の場合は日本海側の人口が少ないが、中国は内陸部の人口も多い)。 その体制が確立されたのは、モンゴル帝国期。内陸の国だった唐までの中国とは、大きく地図が変化した。 京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河と揚子江を横断している。 戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。 運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が結合して、中国統一の基盤が整備された。 この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。 2014年の第38回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、 そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。 完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。 開封は永済渠と通済渠の結節点として中国の南北を結び、黄河によって東西とも結ばれていたので経済的な重要性が高まり、五代十国時代より北宋の首都として繁栄した。 開封城では城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。 当時の運河周辺の都市の繁栄の様子は『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。 しかし金が華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。 その後、元が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都(北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。 つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。 元代には海運が発達し対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたものの、この新しいルートは国内における北京の重要性を高める効果があった。 つまり、隋から宋までは、開封が水運の十字路として脚光を浴びていた。 開封から北京へと向かう永済渠、開封から杭州へと向かう通済渠・江南河。 江南から北京に行くにも、開封を経由した。 しかし、北宋が滅んで金と南宋の時代になると、南北の商業ネットワークが分断され、開封も衰退した。 元では、それに代わって杭州から天津へ、開封を経由しない直通ルートが開かれた。 もっとも、元では海路が主流になっていたため、もはや運河の時代じゃなくなっていたのだが。 次の明の時代になると、明は鎖国主義で海禁政策をとったため、海路が衰退した。 このため、また運河が脚光を浴びることになった。 対外開放的だったモンゴル帝国に比べ、明では海洋貿易が後退した。 靖難の役で建文帝を倒して権力を握り、南京城を焼き討ちした永楽帝は 1403年に北平府という名を順天府に改め、明の第二の国都とした。 建文帝の帝位を奪った永楽帝に対し、南京にはそれを正統と認めない空気が強かったこともあったので、 永楽帝は北京を帝都とすることを決断、1406年に北京で宮殿改修工事に着手した。 1409年からはモンゴルの動きも活発になったためもあって、永楽帝は北京に滞在し始めた。 翌年からのモンゴル親征は北京を拠点に行われた。 また北京につながる大運河の浚渫を行い利用可能にした。 こうして条件を整え、1415年正式に北京の新都造成を始め、 元の大都の規模を拡大し、それを上回る都城の建設を目指した。 1420年に都城が完成して翌1421年正月に遷都が実行された。 1992年度のセンター試験本試験の第2問で、 「永楽帝が1402年に遷都を行い・・・」という本文に関しての設問が出された。 1402年は永楽帝の即位の年で、遷都は1421年とされているので、これは誤った設問であった。 実施後に入試センターは受験者全員を正解とすると発表した。 明朝の首都が当初は南京にあったが、永楽帝が北京に遷都したのは有名だ。 世間の一般人ならともかく、歴史マニアならみんな知っている。 でも、永楽帝が即位してから当初の数年間は南京にいたこと、 北京に入り浸るようになってからも、正式に遷都するまで十数年は 南京が引き続き首都であったことについては、認知度が低い。 センター試験の出題者でさえ、間違えてしまった。 隋の煬帝も、江南が大好きだったため、首都の長安にいたのは最初の頃だけで、あとは揚州に入り浸るようになってしまった。 あのまま隋の世が続いていたら、正式に遷都していた可能性もある。 これが神聖ローマ帝国やセルジューク朝だったら、皇帝がいま現在いるところが首都だ。 そもそも、皇帝は移動するのが当たり前の存在で、首都なんてものがない。 隋の煬帝が江南に長期滞在しているスキをついて、唐の李淵は長安を占拠した。 勝手に隋の新帝を擁立して、そいつに禅譲させて皇帝になった。 唐と隋は、北朝と南朝のような位置関係になってしまった。 やはり、南に首都があると、どういうわけか軍事的に弱くなる。 隋は、あっという間に唐に滅ぼされた。 そら脅威になるのが北辺におるからな(隋の場合は主に突厥) 精兵はそっちに駐屯することになるし、それを吸収することができたらほぼ自動的に勝ち 靖難の変もだいたい同じ 宇文泰が漢兵の精鋭を選りすぐって作った府兵集団は色々と謎が多い 隋唐の高句麗討伐にも動員されず隋末期の群雄割拠でもまったくどちらにも組せず いつのまにか形骸化していたところとか GettyImages 北京の故宮 現在残されている故宮は、主に北京の清の時代に使われたものです。巨大な宮殿がそのまま博物館として展示されています。 1987年にユネスコより世界文化遺産に認定されています。 万里の長城 万里の長城は、非常に長いので沢山の場所が公開されていますが、特に北京市内に比較的近くて観光地としても最も有名なのが北京八達嶺です。 1987年に世界遺産に登録されています。 明十三陵 明代の皇帝、后妃の陵墓群です。 万里の長城(八達嶺長城)とセットになったツアーが組まれる事が多い場所です。 天壇公園 天壇公園は、明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所です。 1998年に世界遺産に登録されています。 頤和園(いわえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。 1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。 頤和園の前身は清漪園である。 1750年(乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い息子の乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、 西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、また、瓮山を万寿山と改称した。 1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成している。 道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。 明の陵墓が最大の見どころって、日本でいえば古墳時代みたいなものか? 北京にも、もちろん偉大な歴史がある でも、大阪ほどではない 明がスタートしたのは、1368年。 永楽帝が北京に遷都したのは、1421年。 その間の半世紀は、南京が首都だった。 もうちょい長かったら、「西漢・東漢」みたいに、「南明・北明」と区分された可能性が高い。 北京を首都とする政権は、どの民族が支配していようと、本質的にモンゴル帝国の後継者だ。 南京に首都があるのとでは、意味合いが違いすぎる。 一般に、日本人は漢や唐の歴史が大好きだ。 明清には、どうも関心が乏しい。 でも、現代の中国を考える上では、明清の歴史のほうが圧倒的に参考になる。 >>89 洪武帝の海禁政策以来、交流が減っちゃったからね あるいは絶対量でいえば減ってないとする見方もあるだろうけど、国内の諸活動全体に占める中国事物の相対的地位は下がったかと 学問面では宋からあとは古典にほぼ含めなくなるし、せいぜい実用書か自分たちとは直接関係がない洋モノ書籍の感覚になっていったんだと思う 、都を自分の本拠地である「北京」に遷した。同時に金陵は、南京と改称された。遷都の理由は、北方のモンゴル民族の来襲に備えるためには、南京よりも北京の方が都合が良かったからである。 北京が初めて首都に選ばれたのは、金の4代目「海陵王」の時である。以来、南京に首都を置いた明代初期を除けば、今日の中華人民共和国に至るまでの800年あまり、北京が中国の都となる。これに対してなぜか、南京を都とした王朝は長続きしていない。 最初に南京に首都を定めた三国時代の「呉」は58年間で滅びた。その後「東晋」は103年間、「宋」は59年間、「斉」は23年間、「梁」は55年間、「陳」は32年間と、みな短命に終わったのだ。 明朝も、南京が都だったのは、わずか34年間でしかない。それに第二次世界大戦中中華民国の南京政府は、日本帝国陸軍の侵攻の前に10年で陥落し、戦後再び、南京に帰ったものの、たった3年で台湾に追いやられている。 永楽帝が、北京に遷都した理由は、もう一つある。永楽帝にとって、南京は居心地が悪かったのである。 なぜなら兄の息子の建文帝を殺すという、やってはいけないことをやってしまったからである。このことは、永楽帝にとっては、生涯の大きな汚点となり一種の罪悪感を背負って生きていくことになるのだ。 それに南京には、建文帝の側近がおり、彼らとの関係がしっくりいかなかったのだ。 事実、永楽帝は建文帝の側近の一人「方孝孺」に即位の詔書を起草させようとしたが、彼はその命令に従おうとせず、最後には「燕賊、位を奪う」と書いたので、永楽帝は、方孝孺とその一族873人を粛清して、南京から去ったのである。 最初に北京に遷都したのは、金の海陵王 海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。 『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が、後年には数えきれないほどの数に登った。 また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相姦をおそれず、幼女を強姦した。 姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。 宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。 金の海陵王が北京に遷都したという話の認知度は低い。 永楽帝の遷都のほうが、遥かに有名だ。 ひとつには、いまの北京が建設されたのは永楽帝のときだからだろう。 北京が誇る名所旧跡は、永楽年間に建設されたものが多い。 それ以前の痕跡は、いまの北京にはほとんど残っていない。 >>87 >>90-91 めんどくさいことに、戦国時代・東周が滅亡直前に分裂して東周君と西周公とが並立 古今東西、遷都は常に、多大な労力と犠牲を払って遂行される。 鉄道も飛行機も自動車もない時代。移動するだけでも大変だ。 大土木工事で死者が続出する。 華の都から、辺境へと転落した人々の恨みは深い。 よほどの暴君が有無を言わさず実行しないと、誰もついてこない。 遷都を強行した皇帝の評判が概して悪いのは、そこに原因があるのかもしれない。 現代の日本も、もちろんそうだ。 東京から首都を移しますと言うのは簡単だが、独裁者でもない限り、実際には決められないだろう。 あのプーチンでさえ、首都をサンクトペテルブルクに移すとか、そういうことはやっていない。 中国も、首都を北京から他のところに移すのは無理っぽい。 金の海陵王、元のフビライ・ハン、明の永楽帝。 北京に遷都した連中は、いずれも暴君ぞろいだ。 クビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をカラコルムから中国の大都に移動させるなど様々な改革を打ち出した。 クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。 至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、 至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。 至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、 至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。 しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。 テント生活だから、中国式の家具なんかより、ペルシャ絨毯が必需品 中国文化より、ペルシャ文化に傾倒したのは当たり前であった 元の宮殿は儀礼用で ハーンを含めてモンゴル人はみな宮城の隣の空き地にテント張って住んでたようだな えええ匠戸とかほとんど漢人だけど イスラム教徒は基本的には天文学や算術や金融に従事していて工芸品は漢人層の独壇場 >>113 んなこたあない 地味な宋の青磁より、華やかなペルシャのラスター彩のほうがよほど人気があった 時代劇でも、モンゴル人は、どんなに偉くてもテント生活している 元の上都は西洋人から「ザナドゥ」と呼ばれた。 ザナドゥは、桃源郷と同じような意味で使われるようになったほど、西洋人の憧れを集めた。 しかし、ザナドゥは世界の中心 桃源郷は、人里離れた山奥という決定的な違いがある 上都は寒すぎるので、冬は北京が首都になった あの北京が避寒地になるとは、どんだけ寒いんだよと言わざるを得ない 中国・朝鮮の職人軽視・技術軽視の風潮は、元で下層階級だったことに始まるのかもしれない Xanadu 2.0 is a mansion owned by Bill Gates that overlooks Lake Washington in Medina, Washington. The 66,000-square-foot (6,100 m2) mansion is noted for its design and the technology it incorporates. It is nicknamed Xanadu 2.0 after the title character's estate in Citizen Kane. 『ザナドゥ』(英: Xanadu)は、1980年公開のアメリカ映画。 地上に最高の音楽の殿堂を作るために、と集まる人々を描くミュージカル・ファンタジー映画。 2007年には、この映画のブロードウェイ・ミュージカル劇場版が制作・上演された。 ブロードウェイ版は、酷評された映画とは対照的に『ニューヨーク・タイムズ』で絶賛されるなどし、翌年のトニー賞にミュージカル作品賞、台本賞、主演女優賞、振付賞で候補となり、予想以上のロングラン上演となった。 ブロードウェイ以外でも次々に新演出で公演されるようになり、オーストラリアでの公演は本作の振付家ケニー・オルテガが手掛けた。2015年にはロンドンで英国初演もされた。 挨拶されようとわざと立ち止まるキモイ奴 街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる 弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい 店長崩れのニセモノは 仕事も人望も紛い物 人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする 何でもすべての事が人任せで それでも良しとする 大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ 相手を選んでハラ立てて 得意の火病はお手のモノ 今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう すべての人に 懺悔しな!! https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 金の海陵王は、幼少時より学問を好み、極めて博覧強記で英邁だったという。 金に拉致された北宋の徽宗のもとにもよく出入りし、痩金体という徽宗が始めた独特の書体を身につけて、書道も達筆だったという。 漢詩も上手で、「呉山」などはこの時代を代表する詩として、今日まで有名である。 そのような彼が、自ら白刃を振るって煕宗を殺害し、皇帝の地位にとって代わったのは、悲劇だったのかもしれない。 実際、海陵王は、自分のクーデターに協力した、いわば功績者であった重臣や皇族を、その後粛清していくことになる。 彼は、純然たる中華風な皇帝たろうとし、金の中にあった女真族の風習や共和的要素を払拭し、中央集権の皇帝独裁権の確立を目指した。 そのため、女真貴族・皇族の力は大幅に削がれ、しかも、それまではあまり登用されなかった漢民族の人材が大幅に枢要な地位にまで抜擢されたのである。 しかしながら、海陵王は、破滅する。 五十万の大軍をかき集め、南宋を攻撃したのである。 しかし、金軍は、采石の戦いで大敗を喫する。 南宋軍は、大砲のような火薬兵器や、特殊な軍船を開発しており、これが勝敗を分けたようである。 もっとも、金軍は一気に戦線を突破できなかったというだけで、別段壊滅したわけではなく、戦線は膠着したようである。 彼を死に至らしめたのは、内部の謀反だった。 采石の戦いでの敗北と同時に、金の国内は騒然として、それまで服属していた契丹人が散八らの指揮のもと独立戦争を起こした。 後方地域にあった女真貴族・皇族らは、こうした状況を収拾すべく、海陵王の従兄弟に当たった雍を皇帝の地位に担ぎ上げた。 重臣の一人の完顔元宜が兵を率い、海陵王を攻撃し、ここに部下の裏切りにより海陵王は殺されたわけである。 雍は五代目の皇帝・世宗となり、外征の大失敗により混乱した金国をとりまとめ、契丹の反乱を鎮圧し、逆に攻め込んできた南宋軍を撃破して講和を結んだ。 世宗については、別項で詳しく述べたいが、彼の妻は海陵王に殺されたともいう。 また、世宗は女真文化を極めて愛好し、漢文化に心酔していた海陵王とは決定的にその点でも異なっていた。 海陵が殺されると、再び女真人優先主義がとられ、高位大官には例外を除き、女真人が、その補いには契丹人や渤海人がとられる体制がとられた。 世宗や女真皇族・貴族の海陵王に対する怨嗟は相当なものであったようで、のちに史書が編纂される時、海陵王を悪く書くよう奨励され、 海陵王についての悪逆非道を暴き立てたものには報奨が与えられたそうである。 そのため、海陵の時の記述は十に一つも信用できないと、当時を知る者が述べたことを、詩人の元好問はのちに書き記している。 そういうわけで、彼が行った暴虐というのは、あまり信用できない。 海陵王は、史書では正統な皇帝とは認められず、海陵庶人として記された。 後世、中間をとって海陵王と呼び習わすようになった。 つまり、金の海陵王の最大の罪とは、漢化政策にあったようである。 金に大敗して拉致され、黒竜江省で生涯を終えた北宋の徽宗。 政治はともかく、書画に関しては偉大な才能の持ち主で、道教を熱烈に信仰していた。 海陵王はその徽宗の元に出入りして、大きな文化的影響を受けた。 北京に遷都し、漢人を登用して漢化政策を進めた海陵王。 仏教を弾圧した。 中華の大統一を夢見た海陵王は、南宋を攻撃したが、火薬兵器の前に苦戦。 女真至上主義者の謀反によって打倒された。 海陵王の死後、金は漢化政策を廃止して、女真文化に戻した。 >>114 ペルシャ陶器は中国の影響下で発展したんだが 三上次男の「イスラーム陶器史研究」を読め >>119 そりゃ当たり前だろ 現代も工芸品を作ってるのは工場の作業員だが 「グランド世界美術8 イスラムの美術」岩村忍編 この新しい焼物作りにはササン朝ペルシアやビザンティンの製陶活動を基礎にして、多量に輸入され始めた中国陶磁の影響が色濃く反映しており、 大きな刺激となったことは疑いない。 鉛釉を使った各種の色釉をかけあわせた三彩、錫(すず)を溶媒剤に使った失透性の白釉では、その形や文様は明らかに9〜10世紀の中国陶磁を手本としたものが圧倒的に多い。 16世紀のイランにサファビー朝が興り、ペルシア人による帝国が興ると、製陶も復活して旧来の伝統がよみがえった。 しかし新味はやはり明(みん)代中国製の染付磁器の模倣にあった。 http://parstoday.com/ja/radio/programs-i28842 >イルハン朝は、1256年から1335年まで、イランを統治しました。この間、イランの芸術や文明は、東洋の芸術、特に中国の芸術の影響を受けました。 >中国人の縫い師が、型を使った裁縫を少しずつイランに広めました。 >中国語のはさみ、パターン、アイロンといった言葉は、この時代から広まりました。イルハン朝の衣服も、このような影響を受けていました。 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006389906.pdf?id=ART0008387893 >イスラーム世界では、8世紀ごろから16世紀ごろまで、隣接する中国の美術や文化の影響を受けた。イスラーム世界では初期から、中国の陶磁器や絹織物などに対する憧れが >強く、また中国絵画も高く評価されていた。 > 中国の美術品や文物は、初期には交易や献納品などとしてイスラーム世界に伝来したが、13世紀中期にモンゴル民族がイスラーム世界を制覇し、イランにイル・ハーン朝という >モンゴル王朝を確立すると、中国の美術工芸品が大量にイスラーム世界に入り、伝統的なイスラーム美術に新風を吹き込んだ。 そりゃ、中国の影響くらいあるだろ そんなの、お互いさまだっつーの しかし、テント生活するモンゴル人やトルコ人にとっては、ペルシャ絨毯こそが必需品 唐と元 中国とペルシャにまたがる勢力をもった2つの世界帝国だが、 2つとも中国文化より、ペルシャ文化に傾倒した モンゴル帝国においては、色目人のほうが漢人より上の身分とされた 相変わらず願望垂れ流してるな じゃあ何で漢人姓を名乗ったり老子の子孫と自称していたんですか? 何で漢風の宮殿に住んで漢字を使っていたんですか? >>134 イル・ハン朝時代の中国の影響はほぼ一方的なんだよ 「世界美術大全集 東洋編 第17巻」、「グランド世界美術8 イスラムの美術」を読め 反論があるなら明確な文献を挙げてくれ >>123 デイヴ・ディー・グループ「ザナドゥの伝説」 それをカバーしたザ・ジャガーズの曲のタイトルは「キサナドゥの伝説」 初めの頃はタイトルに近く「キサナドー」と歌ってたけど、 やがて「ザナドゥ」と歌うようになったw ※シングルは最初の録音のまま「キサナドー」 数々の名曲を生み出した、永遠の憧れ「ザナドゥ」 モンゴル帝国の栄光だな ただ、現実の上都=Xanaduは、草原に無数のパオが居並ぶだけの殺風景なものか、とw (コピペ) マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で上都について、大理石で出来た宮殿があり、建物の内部はみな金で塗られ、 鳥獣花木の絵が描かれるなど工芸や技術の粋を尽くした装飾がなされて見るものの目を楽しませている、と書き残している。 マルコ・ポーロらによりヨーロッパへ伝えられたきらびやかな大都市・上都の姿は、その後のヨーロッパ人の想像力に影響を与えた。 『見聞録』を読んだイギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』を書き、この中に歓楽の都・ザナドゥを登場させた。 以後、ザナドゥは伝説の都、あるいは理想郷の象徴となっている。 >>142 たしかに周囲は一面の草原だけど、上都そのものは、碁盤の目状に整備された京都の平安京みたいな都市 マルコ・ポーロは、実際に上都に行ったはずだから、きらびやかな雕欄玉砌の描写には説得力がある ただし、寒すぎて農業生産力がゼロに近いので、食料不足には悩まされたようだ。 その点に関しては、いにしえの唐の都・長安にすら遥かに見劣りする。 帝国の権力者の所在地という以上のものはなかったろうな まあ現実には、上都が避暑地で、本籍は大都だっただろうな。 経済力の差がありすぎる。 クビライは実際は都外のパオにすんでたっていうから形だけのものだったんだろうな 中国で大ヒットしたタイムスリップ時代劇「宮廷女官ジャクギ」では、清の康熙帝が毎年、避暑と鎮撫を兼ねてモンゴルに行幸していた。 夏の間は、モンゴルのテントで過ごしてた。あれと同じようなものか? 基本的に、遊牧民は宮殿に興味がない。 北京の紫禁城だって、今みたいに立派になったのは明代だし。 商都としての北京の経済力は、元代がピークだったな 明清では、政治都市って感じになった 1時間ほど前、放送大学「歴史から見る中国」講座で、遼金元明清の北京の歴史をやっていた。 なるほどと思う内容だった。 2013年から放送されてる講座で、毎年繰り返し視ているものではあるけど。 >>156 放送大学「歴史からみる中国('13)」講座 http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H29/kyouyou/C/ningen/1554662.html 昨日はこの第7回「モンゴル時代の中国」 BS231バンドでは3月までの番組表にはもう見当たらない。 来年4月からの新年度を期待することになるが、2013年からの放送なので この講座はそろそろ終わって新しい内容が制作されるかもしれない。 北京の夏に耐えられず避暑地に行くようでは、南京なんか絶対に無理だな 夏の南京は、熔鉱炉と言われるほどの暑さ 南京の暑さに耐えられる人なら、どこにでも住める 明の永楽帝も、南京が暑くて逃げだしたんじゃないか 北京育ちの奴にはキツいだろう 中央アジア出身で、インドを征服したムガール帝国の開祖・バーブルが、 「ここは暑くて、メシが不味い」と、死ぬまで文句を言ってた話は有名だ。 大帝国の皇帝になっても、やっぱり故国に帰りたいという話。 モンゴル人も、脂っこい中華料理より、スパイシーな羊肉料理を好んでいた。 ん? 元々南京生まれ育ちじゃないの? 大明成立後に燕王に封じられて北京に赴任し、そのまま根拠地になったんで。 そうだった。北京に行ったのは、大人になってからだな。 南京育ちの奴には、北京の寒さはかなりキツかったはずだ。 そんな北京にわざわざ舞い戻るとは、やはり、天下を取る奴は根性の据わり方が違う。 しかし、南京は、冬の寒さもかなりのものだ。 日本より寒いんじゃないかと言われている。 夏の暑さが異常なおかげで、あまり目立たないが。 南京の気候は、東アジアモンスーンの影響を受ける亜熱帯湿潤気候に属しています。 雨が多く非常に暑い夏が南京の特徴です。 中国では、武漢と重慶に並んで「中国三大火炉の一つ」と言われるほど南京の夏は酷暑となります。 年間平均温度は15.7℃です。 一年で最も寒いのは1月で平均気温は2℃まで下がります。 7月の平均最低気温と平均最高気温は、24℃と32℃まで上がります。 過去に記録された最高気温は43℃(1934年7月13日)、最低気温はマイナス16.9℃(1955年1月6日)です。 夏は暑く、冬は寒い。 奈良と同じで、盆地の気候はどうしてもそうなる。 奈良はタネモミをまけば自然に稲が育つというほど高温多湿だから、 日本で最も早く稲作が発達し、古代王朝が栄えた。 しかし、いくら冬の南京が寒いといったって、やはり北京の寒さには及ばない。 (コピペ) 実は私は、北京に来る前は北海道の旭川に住んでいたので「北京が寒いと言っても旭川に比べれば!」と内心思っていました。 事実、1月の最高気温と最低気温の平均を比べると、 最高,最低気温とも旭川の方が8度以上低いのです。所が、実際は北京のほうがはるかに寒く感じます。 北京の寒さは足元からどっと攻め上ってくるような寒さで、旭川では、ズボン下をはかなかった私が、北京ではズボン下が必需品になっています。 最初私は、この寒さは風の違いかと思いました。一般に風速1メートルの風で、体感温度は1度下がるといいます。 旭川は盆地で、冬ほとんど風が吹きません。北京は比較的風の吹く日が多いんです。でも、風の吹かない日も「寒い!!」。 そこで私は始めて「この寒さには湿度が関係しているのでは」と思い当たりました。調べてみると、湿度が10%下がると体感温度は1度低くなるんだそうです。 「北京の寒さは大陸的!」と北京にいる日本人がよく言うのも、この湿度が関係しているのだと思います。 北京の『乾燥度』は半端ではありません。秋から冬は、雨も雪もほとんど降らないため、特に空気が乾燥します。部屋の換気をすると、室内の湿度はあっという間に、20%以下になります。 「北京で初めての冬です」という話をすると、ほとんどの人が「ここはとても乾燥しているので、水分をこまめに十分補給してください」とアドバイスをくれます(日本で、挨拶代わりにそんな話が出る土地は、まずないと思います) 永楽帝が南京から北京に遷都して500年間、北京が明清の首都であり続けた。 やがて、清は崩壊する。孫文が率いる中華民国臨時政府が成立し、500年ぶりに南京が首都になった。 しかし、これも長くは続かない。臨時政府はすぐに崩壊し、袁世凱が北京で中華帝国皇帝に即位した。 中華民国は、1911年の辛亥革命によって、1912年1月1日、南京において成立した。 しかし、この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた大清帝国が北京に存続していた。 両者は宣統帝の退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し、統一された。 その後、袁世凱は中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京に移したが、これが北京政府のはじまりである。 結局、中華民国の大皇帝・袁世凱がすぐに北京に首都を戻してしまった。 大皇帝はすぐに失脚し、中華民国が復活したが、そのまま北京が首都であり続けた。 袁世凱の死後、中華民国が復活し、黎元洪が大総統となった。 袁世凱系の勢力である北洋軍閥は、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派とに分裂する。 以後、中国は群雄割拠の時代に突入した。 その後、1940年代にも南京に国民政府ができる。 汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけて中国に存在し、中華民国の南京政府。 行政院長(首相)は汪兆銘。 首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼ばれた。 中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。 シナを再統一した中国共産党は、北京に首都を置いた。 そして、現在に至っている。 中華人民共和国は、迷わず北京を首都にしたようだが、他に選択肢はなかったのか? 国民党が支配していた南京を首都にするには危険だった のかもしれない 長江のキタネー川でも平気で泳ぐ毛沢東がそんなの気にする訳ない 日本軍が南京大虐殺で30マン人を殺し、南京を廃墟にしてしまったアルよ 「北京に遷都した人」として歴史的に有名なのは、金の海陵庶人、元のフビライ・ハン、 明の永楽帝、清の順治帝、中華帝国の袁世凱・・・といったところか。 翌1644年(順治元年、崇禎17年)3月19日、李自成率いる順軍が北京を陥落させ、明を滅ぼした。 清軍はドルゴンの主導の下、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に、北京へ向かった。 北京の順軍は明を滅ぼした後、おのおの官職を決めたり明の高級官僚を処罰したりと忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。 清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。 10月19日、順治帝はドルゴンに迎えられて北京に入城した。 もっとも、順治帝は幼帝だったため、政治の実権はなかった。 生母と結婚した摂政のドルゴンに、国政を牛耳られていた。 >>188 じゃあ、「中華人民共和国の毛沢東」も入れよう どの王朝も、もともと他の地域が地盤だったにもかかわらず、吸い寄せられるように北京へと都を移してきた。 北京こそは、天に選ばれし王城の地。 それもそろそろ終わりそうだな 黄砂に飲み込まれて歴史から消えるだろう 李自成の乱は、千年の都・北京の歴史において屈指の大波乱だった。 李自成は、中国明末の農民反乱指導者。 明に対して李自成の乱と呼ばれる反乱を起こして都北京を陥落させ、順 王朝(大順)を建国して皇帝を称したが、清に滅ぼされた。 1644年、西安に入った李自成は、国号を順(大順)、元号を永昌と定め、この地で順王を称した。 2月には李自成軍は北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させて崇禎帝を自殺に追い込み、明を滅ぼした。 李自成の軍が北京城に入城した際には、市民のみならず官兵まで崇禎帝を見捨て、隊列をつくってこれを歓迎したという。 李自成は順の皇帝となった。 盗賊上がりの荒くれ者だが、明の太祖・朱元璋だって似たようなものだから、 こんな人が皇帝になったところで別におかしくない。 しかし、その軍は統制が取れず、略奪暴行が横行したと言われている。 最初は、暗君・明の崇偵帝を打倒する解放者として歓迎された李自成は、次第に民衆から疎まれるようになった。 そこに想定外の事件が起きた。 史上に名高い、呉三桂の裏切りだ。 明の将として山海関を守っていた呉三桂は、なぜか祖国を裏切り、満州人を内地に引き入れた。 大順は滅び、満州人が天下を取って、清の世となった。 この功績により、呉三桂は平西王に奉ぜられるとともに、時代劇の悪役として、 民衆の娯楽に欠かせないダークヒーローの地位を確立した。 >>196 豊臣秀吉の日本軍が攻めてきたと聞いて、朝鮮王は逃げ出した。 日ごろから鬱憤がたまってた朝鮮の民衆は、王宮に焼き討ちして暴れたため、 日本軍はなんなく首都を占領した・・・というエピソードを思い出す。 呉三桂は、明の将として山海関にあり、満州人の脅威から内地を守っていた。 崇禎17年(1644年)、流賊出身で明に反旗を翻していた李自成の順軍が北京に迫るとの報を受けた朝廷は、 呉三桂を平西伯に封じ、首都北京の防衛に当たらせることとした。 しかし山海関から北京に向かう途中の灤州で北京陥落の報を受けた呉三桂は、山海関に引き返した。 山海関において、西から李自成がしきりに呉三桂に投降を呼びかけ、東からドルゴン率いる清軍が迫っており、呉三桂は窮地に立っていた。 この時、父の呉襄をはじめ呉三桂の一族は北京におり、父からの勧告を受けた呉三桂は一時は順への投降を決めていたが、 急に翻意して清のドルゴンに難攻不落と言われた山海関を明け渡し、李自成を討つための援助を求めた。 ドルゴンは呉三桂の要請を容れ、そのまま北京に進軍を開始した。 清と呉三桂の軍は李自成率いる順軍を激戦の末打ち破り、そのまま北京への入城を果たした。 怒った李自成は、北京にいた呉三桂の家族を皆殺しにしてしまった。 なぜ、呉三桂はこんなことをする気になったのか。それについては諸説ある。 「美女・陳円円を李自成軍に奪われたことに対する怒りから」という俗説が流布している。 近代のナショナリズムから離れたら、そもそもドルゴンと李自成のどちらを選ぶべきかは自明じゃないのでは? 蛮族とはいえかつては明のもと参陣してたこともある女真の現リーダー、それと盗賊あがりの成り上がり者 仕えるべき明の朝廷が滅びた後、一武官として親近感を感じたのがドルゴンの方だったとして何の不思議もない たしかに、誇り高い武将なら、300年の皇統を滅ぼした盗賊集団に投降しようとは思わんだろうなあ。 単に、「一時的に野蛮人の力を借りてでも、まずは盗賊どもを追い出そう」と考えたとしても不思議はない。 まさか、国を乗っ取られるとまでは思わなかったか? いや、最前線で将軍を張ってる人が、そんな甘い考えとも思えんなあ。 良い悪いは別にして、女真人は北京に進出し、国盗りが成功した。 順治帝と宰相ドルゴンのもと、清の世が始まった。 清朝は、明の永楽帝が建てた紫禁城を、そのまま王宮として使用した。 「逆賊・李自成を討伐した、明朝の正統なる後継者」というポジションに、すっぽりと収まることに成功した。 李自成の乱は、清にとって本当にラッキーだった。 もしも李自成がいなくて、女真人が皇帝を殺して明を滅ぼしていたならば、こうはいかなかった。 モンゴル帝国の時代には、北京は商業と金融の世界的な中心でもあった。 現代でいえば、ニューヨークのような存在だった。 しかし、明朝の300年を通じて、江南がさらに台頭する。 もはや、誰が見ても長江下流が中国経済の心臓部だった。 しかし、政治都市としての北京の重要性は揺るがなかった。 内地からモンゴル・満州に出るのにも、モンゴル・満州から内地に入るのにも、北京を通るのが最良のルート。 周囲は険しい山地と砂漠地帯で、ここしか通るところがない。 年表 1643年 清で順治帝が即位。 1644年 李自成が北京を包囲し、これを占領。明が滅亡する。 1644年 清が北京に侵攻し占領。清の中国支配が開始。 1646年 鄭成功が江戸幕府に救援を求める。 1648年 ヨーロッパで初の国際会議が開かれ、ウェストファリア条約が結ばれる。近代国際法の原点。 1649〜58年 イングランドでオリヴァー・クロムウェルが独裁。 1651年 ドルゴン、死去。 1658年 ムガル帝国皇帝にアウラングゼーブ大帝が即位。 1658年 (神聖ローマ)レオポルド1世が即位。 1661年 順治帝、死去。 しかし、女真人は人口が少ない。漢人は人口が多い。 清が中国を再統一するのは、それほど簡単なことではなかった。 北京から追い出された明朝の残党は、南京を拠点として再起を図っていた。 このままでは、また、金と南宋のような南北朝時代になっても不思議はない情勢。 その困難を乗り越え、広い中国を再統一したのは、宰相ドルゴンの凄腕だった。 ↑ラクダに乗った隊商が、清の都・北京に向かうの図 北京からモンゴル高原を通って西域に抜けるルートは健在だった かっての北京は城壁に囲まれた町でした。 北京は厳重に二つの部分に分かれています。 内城と外城です。 内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。 この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という 故宮の真南にある門と、徳勝門という北西の門です。 外城は、内城の南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。 http://www.china-watching.com/ura/ime271.jpg 城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。 内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、 格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、 道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。 その城壁は中華人民共和国「1950年代頃から」地下鉄を作る為、 取り壊され、現在・北京地下鉄環状線です。 北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京旧・内城をぐるりと回っている市民の便利な足です。 この環状線には駅が18ありますが、そのうちの11の駅の名の最後の文字は「門」で終わっています。 復興門「フーシーメン」駅から右回りに「門」の付く駅を拾ってみますと、 宣武門「シュェンウーメン」、和平門「ホーピンメン」、前門「チェンメン」、 崇文門「チョンウエンメン」、建国門「チェングオメン」、朝陽門「チャオヤンメン」、 東直門「ドンジィメン」、安定門「アンチィメン」、西直門「シィジィメン」、 阜成門「フチョンメン」、そして復興門駅にもどってきます。 なぜ、こうも門が続くのか。 そのなぞは、この地下鉄環状線が明・清の時代の北京を囲む城壁の地下を走っており、 「門」の付く駅の地上には、城壁ありし日には城門があったからです。 その後も城門の名だけは残って、そこの地名や駅名として、 いまも脈々と生き続けているのです。 >>206 日本の支配層だったら北京やコンスタンティノープルは 重要都市に位置付けても首都には出来ないな 博多や長崎に皇居があるようなものだ 地理的位置からすれば、日本でいえば札幌に首都があるようなもので、あまりにも偏っている。 でも、もしも首都がもっと南のどこかに移ったら、北京は衰退するだろう。 あれだけ政治権力が集中していても、金融の中心は上海や香港にある。 金融というのは、政治権力と切っても切れない関係にあるので、 アジアでは首都に収れんしていく傾向がある。日本がいい例だ。 それだけに、北京にも相当なアドバンテージがあるはずなのだが、それでも無理。 北京のGDPは中国全国のGDPの2%でしかない。 首都に一極集中していない経済構造は、発展に有利な気がする。 >>211 徳勝門の横にバス乗り場があって 八達嶺長城や明十三陵行きのバスがどんどん発車していた。 ほとんど2,3分おきぐらいで、 客待ちのバスが常に数台待機していて、満員になり次第次々と発車する。 IC交通カードを利用すると運賃がびっくりするほど安い。 6元ぐらいじゃなかったかなぁ? 八達嶺まで乗ってみた。 IC交通カードは乗車時と降車時にタッチするが、 道中で車掌がカードを集めてタッチして戻してくれる。 降車する時間を減らすためらしい。 高速を利用するので1時間ぐらいで到着できる。 帰りも徳勝門直行や明十三陵行きのバスにほとんど待たないで乗れる。 北京を個人旅行する時は、 空港駅前の窓口で、IC交通カードを買っておくこと。 100元も入れておけば、市内地下鉄、バス、タクシーに利用できて、 切符を買うよりかなり割安に設定してあって超便利。 政策的低価格というやつだ。 チャージは地下鉄駅窓口などで係員にお願いする。 券売機でチャージするのかと思ってたらできなかった。 出国時に空港駅の窓口でカードを返却すると、残金とカード保証金が戻ってきた。 地下鉄駅入り口や有名観光地入り口には、荷物検査がある。 公安関係に随分と人手と手間を割いている。 「ソ連時代は良かった。電気代やガス代が、タダみたいに安かった」というロシア人みたいなものだな。 財政赤字をどれだけ垂れ流しても気にしなくて済むのが、社会主義国の強み。 後にツケを回してるだけとはいうものの。 >>216 そういう意味でも、日本でいえば札幌が首都で、東京や大阪が地方になっている状態。 まあ、北京もかなりの大都会なので、札幌とは違うが。 北京の「前門」は、明代にさかのぼる歴史のある繁華街 地下鉄2号線「前門」の駅を降りると、昔の城壁の一部として「前門」の「城楼」と「箭楼」が2つ並んで建っています。 南側の「箭楼」をスタート地点に、南へまっすぐ続くのが「前門大街」。 古くからの商店街、歓楽街として、「北京の浅草」ともいわれる場所です。 このあたり一帯の歴史は古く、繁栄がはじまったのは、明代(1368〜1644)から。 明代には、皇帝の住む故宮のまわりでは商売は許されず、商売人はこの「前門」あたりに集められました。 謹厳な空気の故宮のまわりから、この「前門」に来ると、あたりはうってかわって人々のいきいきとした熱気が漂い、 堅苦しい宮廷務めに肩が凝った高級官僚などの格好の息抜きの場だったといいます。 気取りのない賑やかさがこのエリアの特色です。 >>220 二都体制が理想ということか? 徳川時代の三都体制はどうだ? >>207 順治帝には生存伝説があったよね。 寵姫が亡くなってなにもかもいやになり、24歳で帝位を放り出して五台山に籠もってしまった、と。 朝廷では仕方なく崩御したことにして康煕帝が後を継ぐ。 >>224 康熙帝が、遠く離れた五台山をわざわざ何度も訪問していたり、 李自成の生存伝説よりは、ずっと信ぴょう性がある話。 両方とも、時代劇では当たり前のように登場するエピソードだが。 >>218 日本の公共交通費が高くない? 北京や広州に行ってきたが、タクシー代ですら安く感じる。 アモイで正規のタクシーが捕まらず、 やむなく白タクを利用したことがあるが、 乗る前に行き先と値段を交渉できたので、 ボッタクられることはなかった。 でも違法かつ危険な場合もあるのでオススメしない。 あと Ubar が超便利だった。 白タクよりマシだし。 日本じゃ、Ubar は違法のまま規制緩和する見込み無し。 北京ではレンタル自転車があちこちで走っていた。 スマホで借用と支払できるみたい。 外国人も結構レンタル自転車を利用していた。 それでも道路の渋滞はなくならないね。 万里の長城の兵卒って一体どこに住んでたんだろ 九辺鎮にはすべて合わせて百数十万の兵士が常駐してたそうだが あんな崖っぷちの何もない所でよくそれだけの人口を養えたな 昔とは逆で、「北京から東京に来ると、物価が安いなと感じる」という人が多いけどな。 交通機関に関しては、北京のほうが安いか。 モンゴル帝国の時代には海運が盛んになり、江南から天津港を経由して北京への海上輸送が行われた。 その後、明の反動的な政策で海運は衰退したのだが。 天安門にほど近い大通り、前門大街。こちらから大柵欄・鮮魚口にかけては明清時代から続く歴史的な商業地区で、老舗の名店が数多く立ち並ぶ地域です。 北京オリンピックに合わせて、前門大街では大規模な再開発が行われ、再開発の目玉として、1924年から1958年まで運行されていた路面電車が再現されました。 歴史を感じるおすすめスポットをピックアップしていました。 北京の気候は春秋が比較的短く、冬がやや長いです。 空気が乾燥しているので、町歩きにはミネラルウォーターを持ち歩くことをおすすめします! >>229 その大運河は黄河以北では、度重なる洪水と黄河断流で底が上がり、使用不能だけどな >>233 そりゃ、お前が2chしか見ないからだろ 2chが世界の全てか うん、それはそれで幸せかもしれない 俺はそんなの勘弁だが >>233 お前らは史実も現実も直視できないもんな >>237 2chしか見てない奴が、「そんな話は2chでしか見たことないぞ」って、笑わせんな 北京は華北大平原の北端に位置し、潮白河、永定河が形成した扇状地にあり、北京湾と呼ばれるポケット状の小平野をなしており、東、西、北を山に囲まれている。 西部の山地は総称して「西山」といい、太行山脈に属している。 北部と東北部の山地はすべて「軍都山」と称し、燕山山脈に属している。 天然の峡谷沿いに東北へ向かえば遼河平原に入り、西北へ向かえば蒙古平原に達する。 潮白河、永定河などの河川は、西北部の山地に発し、山を突き抜けて東南の平原地域へ向かって流れ、最後は渤海に流れ込んでいる。 つまり北京は、山に囲まれた麓にあり、いくつもの河が流れる、砂漠のオアシスみたいな都市。 水が枯れるまでは、首都であり続けるだろう。 広大な中国だが、首都に適した地はここしかないようだ 仕事より人のあら捜しに夢中のゲスイ奴 街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる 弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい 店長崩れのニセモノは 仕事も人望も紛い物 人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする 何でもすべての事が人任せで それでも良しとする 大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ 相手を選んでハラ立てて 得意の火病はお手のモノ 今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう すべての人に 懺悔しな!! https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 白蓮教徒の乱が鎮圧された後、その信者の一部は逃れて天理教と改称し、なおも団結をつづけた。 1813年、指導者の大工・李文成と、薬局局員の林清は反乱を計画、李文成が山東省で挙兵、 林清は紫禁城の宦官の不満分子と連絡し、200名の反乱部隊を城内に侵入させた。 反乱部隊は皇帝の居所の養心殿にせまった。嘉慶帝は不在だったが、第二皇子(後の道光帝)が小銃をとって応戦した。 内応していた宦官は弾を込めていない小銃を手渡したので、皇子は服のボタンを込めて撃ったという。 紫禁城の隆宗門の扁額にはこの時放たれた矢がまだささっているという。乱は鎮圧され、首謀者はとらえられ、 参加者はすべて殺されたが、紫禁城に賊が侵入するという前代未聞の出来事は、清朝の衰退を予見させる出来事であった。 <寺田隆信『紫禁城秘話』1999 中公新書 p.171-173> 日本でも百姓一揆はよく起きていたが、江戸城まで攻め込むなど、とても考えられない。 その点、北京の紫禁城は、李自成・天理教と、2度も反乱軍に攻め込まれている。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 SBJJI ヒトラーが構想した「世界首都ゲルマニア」は、計画のみで実現しなかったが、 今も残る模型や図面を見ると、戦慄すべきものを感じる。 一方、中国人は儒教イデオロギーに基づく「世界首都」を地上に実現した。 明清帝国の首都・北京と、その中心に位置する紫禁城(現在の「故宮」)は、 儒教の経典『周礼』冬官考工記の「世界首都」構想を発展的に具現化している。 紫禁城は、宇宙の支配者たる天帝の住まい「紫微垣」(北極星のすぐ横の、天頂の中心)をモデルとする。 北京の都市計画のコンセプトは、「天子」たる中華皇帝が天に代わって世界を支配するための巨大な「魔法陣」だった。 紫禁城は過去の遺産だが、中華帝国の世界首都構想は、21世紀の今日も脈々と受け継がれている。 安陽:商代のみ 旧長安:何度も長期政権の首都になる 洛陽:何度か首都になる 開封:北宋のみ 南京:何度か首都になるが短命政権が多い 北京:元代以降の長期政権 基本的に中国で首都に選ばれたのは7つ位しかないし、ほとんどが西安か洛陽か北京 唐代以前:ほぼ長安か洛陽 唐滅亡→五代十国→北宋の首都=開封 元代以降:北京か南京 内陸部が砂漠化で衰退? 北京・上海・広東省。 中国の中心が、内陸部から沿海部に移って久しい。 日本でいえば、「太平洋ベルト地帯」に相当する(古いか)。 この体制が確立されたのは、やはり、モンゴル帝国期といえるだろう。 もともと、長江デルタや珠江デルタが、中国で最も肥沃な最良の土地。 沿海部が発展して、内陸部を凌駕するのは時間の問題だった。 今後も、中国の首都は北京しかない。 ほかの都市に移ることは、まずないだろう。 元々は明の首都は南京だった 国民党時代の中国も南京だったし、 気候も北京より雨量が多く温暖で過ごしやすいのではないか? 何でわざわざ大陸性気候のさぶい北京に遷都する?南京のままでいいだろう さぶいの嫌! 日本人で中国史が好きな人というのは、たいてい三国志や項羽劉邦といった古代史からこの道に入ってるので、「中国の古都」というと、洛陽や長安を連想する。 でも実際には、日本でいえば平安時代の後期あたりから北京が台頭し、鎌倉時代あたりからはずっと北京が都。 その間、洛陽や長安は荒廃して再建されたりしている。現在の西安は、明代に再建された都市だ。 要するに、「中国の古都」といえば、第一に北京を連想するべき。 古代史にこだわるのは、現代の中国を理解する上で役立たない。 むしろ、誤解を生むので有害。 現代の中国を理解したかったら、やはり、北京の歴史に限る。 >「中国の古都」といえば、第一に北京を連想するべき。 古都ではなく現都なんですが 日本史に例えれば、奈良時代のことまでは実によく知ってるが、平安時代から後のことはほとんど知らない。 「日本の首都」と聞いて、反射的に飛鳥・奈良を連想するという状態。 戦前の教育を受けた祖父は 「”ぺきん”とはなんだ!? "ぺいぴん”だろが!!」 と酔うたび言ってたな 契丹人は「南京」と呼び、満州人は「中都」とよび、漢人は「北京」と呼んだ >>267 台湾では、いまでも「北平」 さすがに、大陸との交流が盛んな今は、「北京」と呼ぶ人が多いが もし北京政府が南京でなく「南平」とか「江州」とかだったら 台湾も対抗上頑として「北平」のままだろうなw 万里の長城そばの トイレ って 未だに扉が無くて,ケツ丸出しで 用を足さないと,いけないんですか ? 北京を首都にしていても、上海や香港は勝手に繁栄する。 南京を首都にしたら、北京は衰退するだろう。 だから、国土の均衡ある発展のためには、北京を首都にしておいたほうがいい。 つまり、中国の首都がどこになろうとも、上海や香港が繁栄することに変わりはない。 一方、北京については、あくまでも、首都であることに意義がある。 首都でなくなったら、経済的にも衰退するのは間違いない。 アジアでは、政治と金融の結びつきが強いせいか、首都に金融機能が集中していく傾向がある。 東京がその最たる例だ。 >>271 仮にそうしたのなら「金陵」だろうな。実際南京の地ビールには金陵ビールってのがあるし。 >>277 そりゃ東アジアだけに限れば名実共にれっきとした連邦制国家はマレーシアだけだからな。中国はその点 中央集権国家としては例外中の例外とも云うべき存在だな。 一方アジアって括りなら何と言っても世界一の多民族多言語連邦国家であるインドがあるからね。 こちらも金融機能はムンバイが受け持ってるからな。 アジアで、政治と経済の中心が分離しているのは、中国とベトナム 西方まで含めればパキスタン、カザフスタン、イスラエル、トルコもそう >>280 「アジア」て括りならインド(デリーとムンバイ)、パキスタン(イスラマバードとカラチ)、 それとスリランカ(現首都とコロンボ)もね。 あっそれと最近はミャンマーもだったな(ネピドーとヤンゴン)。 >>282 スリジャヤワルダナプラコッテと言えないのか! バンコックの正式名称を言える人には、まだ一度もお目にかかったことがない スリー・ジャヤ・までは分かるけどその後どう分けるか分からんわ シュリー(吉祥なる)・ジャヤ(勝利を)・ヴァルダナ(齎す)・プラ(都市)・コーッテ 「聖なる勝利をもたらす街・コッテ」か。 要するに、コッテというのが街の名前。 外国人からは、「シュリージャヤ」と略されそうだなあ。 昔、タイの「メナム・チャオプラヤ」を、日本ではメナム川と呼んでたが、 メナムというのはタイ語で「川」だってことがわかってからは、 「チャオプラヤ川」と呼ぶようになった。それを思い出す。 >>277 以前、中央政界で北京派と上海派が激しく争っていた頃、「上海に代わって、天津を金融センターにする」という計画が実行に移された。 天津のベイエリアに建設された巨大な新都心は、いまや壮大な廃墟と化し、中国バブル崩壊の象徴になっている。 孔健が、「首都に金融センターがあるのが自然」と主張してたが、失敗に終わった。 「上海没落、北京勃興」とかいう本を出してたが、すぐ絶版になったみたいだな。 フランスが、イギリスに何百年も支配されてきたようなものだからな。 もともと、長江下流域は中国大陸で最良の地であり、根強い独立志向がある。 もちろん、べつに現地で独立運動が起きてるわけではないが。 しかし、北京に対する反感は根強い。 大阪と東京の関係とも違う。 明らかに上海のほうが大都会だから。 >>295-296 (特に利権系の)ベンチャーだと、北京は強いよww ベンチャーというのは、とどのつまり「オラオラ系の金融機能」そのものなので、 北京はそれなりに金融機能を果たしているということになる。 利権系といっても馬鹿にしてはいけない。 六本木や渋谷周辺でせいぜい10人程度の社長さんが内輪で飯を食ってるだけの東京のそれとは、 スケールが全然違うから。典型的には小米だとか、世界を狙う位置にいる。 中国の六大古都 北京 南京 洛陽 長安 開封 杭州 「七大古都」だと、殷墟が入る >>302 レノボが北京なのは、政府系企業としてスタートしたからだな 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方 興味がある人はどうぞ 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 JXY 三国史から中国の歴史に興味を持った自分としては、現北京が三国史の北平ってのが何ともいえない 春秋戦国に興味を持ったら燕の薊だし、北宋に興味を持ったら雲台十六州ってのがまたなんとも 歴史って面白いですね >>308 日本でも、平安時代には、関東が田舎だったのと同じ 今の中国の中心である北京・上海・広東省が台頭したのは、長い歴史の中では割りと最近のこと >>308 燕の薊は、微妙に場所が違うんじゃないかな? まあそれ言い出したら邪馬台国だって奈良県でしょが へんな子が邪馬台国は九州二ダいや徳島ニダと言い出すだろうけどさ 邪馬台国の場所は不明だよ 奈良と断定しちゃう人も同様にへんな子だよ そうだ 邪馬台国は確定していない 大阪でも岡山でもまったくおかしくない 北京は、山々にはさまれた回廊の地形 中原からモンゴル・満州に出るには、北京を通るしかない 古来からそれなりに重要なところだった そうそう トンスルをドバーっとワシの口に出してきたんや >>10 北京では路面電車の専用路はないから、トロリーバスになったのかな 80年代はちょくちょく巻き込み事故を起こしていた 日本人の関心は古代史に集中しているので、古都といえば洛陽や長安を思い浮かべ、北京については上海・香港のような現代都市と思っている人が多い だが、それは間違いだ 「中国の古都」と聞いたら、真っ先に「北京」を思い浮かべるのが正しい 金建国前の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(中国語版)(アルチュフ川)流域にいて、遼に対して服属していた。 しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。これに対し、女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。 この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことからつけられたとされる。 最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。 金は1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束した。 しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)を落とし、宋に割譲した。 阿骨打は1123年に死去するが、弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した。 一方、燕京を手に入れた宋軍は、遼の残存勢力と手を組んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京を割譲した金に対する背信行為を繰り返したので、 これに怒った太宗は1125年9月宋に侵攻し(靖康の変、1125年9月 - 1127年3月)、華北を席捲し、宋の首都開封を包囲した。 宋では欽宗が新たに即位して金の包囲に耐え、金もいったん和議を行い北に引き揚げた。 しかし金軍がいなくなると、またしても宋は背信して和約を破ろうとしたので、 1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させ、欽宗を北方に連れ去って北宋を滅ぼし、中国の北半を征服した。 またこの時金軍は、欽宗のみならずその父の上皇徽宗、および多くの皇族や妃、公主たちを連れ去り、 妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。 歴代最弱王朝の宋にも、北京を一時的に領有した時期はあった しかし、宋に特有の、朝鮮人みたいなコスッからい裏切り行為で金を激怒させ、北京どころか開封まで奪われてしまった >>320 だが今では、開発が進んで古都の雰囲気が失われている 京都も、寺とか神社が多いだけで、あとは単なる昭和の街だが 西安は、唐の長安が廃墟になって何百年も経ってから明代に建設された別物 じつは北京より新しい都市 アジア各国には、大都市の典型例として、日本における東京と大阪のように、首都と大商業都市という代表的な都市のペアがみられる。 (1)中国の北京と上海、(2)インドのデリー(ニューデリー含む)とムンバイ、(3)ベトナムのハノイとホーチミンを事例に挙げて、その特徴点などについて考えてみたい。 上記3つの都市ペアに共通して見られるポイントを総論的に挙げてみよう。 第一に、各都市の一人当たりGDP(国内総生産)は、各国の平均よりも高水準であり、消費市場としての重要度も大きい点が共通点といえる。 第二に、北京・デリー・ハノイは各国の首都で政治・行政の中心地であり、上海・ムンバイ・ホーチミンは大規模な商業都市である。 その点から、前者は、町や建物の雰囲気も重厚で落ち着きが感じられ、後者は、高層ビルも多く、町により活気があり喧騒も感じられる。 さらに後者には、各国のファッションやトレンドをリードする場所との印象もある。 第三に、上記の各都市ペアは、気候の面での違いに加え、いずれも長い歴史のある都市でもあり、言語・料理など文化面や住民の意識・気質等の違い、二大都市相互間のライバル意識がみられる。 北京・上海 一人当たりGDP(2015年)は、北京17,101ドル、上海16,667ドルと、国の平均値である8,113ドルの二倍を超える高水準となっており、巨大な消費市場としても知られている。 歴代王朝の首都であった北京の住民は、首都のプライドを持ち、社会的地位・名声・権力への興味や政治・教育への関心が大きいといわれる。 一方、国際都市としての歴史が長い上海の人々は、個人主義が強く商才に長け、流行・ファッションに敏感といわれる。 北京では重厚で落ち着いた建物が多いのに対して、上海(特に浦東新区)には斬新なデザインの超高層ビルが立ち並び好対照の印象がある。 デリー・ムンバイ インドというと、常夏との印象があるが、北部に位置するデリーでは年間における寒暖の幅が非常に大きい。 筆者が始めて同地を訪問した際にコートやセーターを持参せず困った経験もある。 これに対して、ムンバイは通年高温多湿な日が多い。また産業も、デリー周辺では大企業の本社や工場などが多い。 ムンバイには、商業・金融・貿易・海運等サービス業が多く、中央銀行(インド準備銀行:Reserve Bank of India)の本店が、首都ではなく同地に所在しているのは珍しいケースである。 映画製作の拠点「ボリウッド」も有名である。デリーを中心とするインド北部の気質は、保守的でプライドが高く、見栄っ張り、家族重視の価値観が強いとされる。 一方、ムンバイは、経済観念が発達しており、個人主義が強く、海外の文化に開放的といわれる。 ハノイ・ホーチミン かつての南ベトナムの首都でサイゴンと呼ばれていたホーチミンが、人口や産業・企業活動の面では、政治・行政の中心地であるハノイに対して優位にある。 気候もハノイは四季があり、寒暖の差が大きいが、ホーチミンは年間を通じて暑い日が多い。 ハノイでは集団主義の傾向が強く、家族・周囲・メディアの意見・提案を重視する。 プレミアム商品志向で、熟考して購入するし、貯蓄意欲も高い。 ホーチミンは、個人主義の傾向が強く、新しいもの・サービスに敏感で、目立ちたがり、見栄っ張り、衝動買いの傾向があるとされる。 以上、中国・インド・ベトナムの首都・大商業都市のペアについて、その特徴点等をみた。同じ国の大都市といっても大きな違いや魅力がある。 今回取り上げた各都市はいずれも、日本企業にとっての重要な進出地となっているが、各市場での成功を期す上では、各社の狙いや戦略に基づき、 それぞれの都市の歴史・文化・言語・気質といった特色や違いを十分に踏まえ尊重することが大切であると考えられる。 要約すれば、それぞれの国の中で、比較的、北にある寒いところが首都になる傾向がある 日本でいえば、札幌を首都にするようなものだ(個人的には、それでも良い気がするのだが) 札幌の利点は、アメリカに近いことだ(地球は丸いからな) しかし現行憲法では、大臣の任命等に天皇の国事行為が必要なので、皇居から遠いところに国会議事堂を置くわけには行かない 北京のような古い都市は他にもある だが、これほど「歴史の重み」を感じさせる都市は、北京の他に存在しない 別にアジアだけでなく、欧州にもあるわな>首都VS経済都市 ローマとミラノ、 ハーグとアムステルダム、ベルリンとフランクフルト ベルンとチューリヒ、 あとマドリードとバルセロナもそんな感じ 北京是帝都、上海是魔都、西安是废都、南京是旧都、东莞是性都、重庆是陪都、广州是妖都、 武汉是伪都、深圳是雌都、成都是成都 都有什么由来么,为什么这么叫啊? 大都 だいと Da-du; Ta-tu 中国,元の首都。北京の前身。 モンゴル帝国は,金から中都と称されたこの地を奪い,世祖フビライ・ハンの至元2 (1265) 年その北東隣接地に『周礼』に記されてある王都の規模を模範に新城を建設,国都とした。 これが大都で,南北に長い長方形をなしていた。マルコ・ポーロらは,これをカンバリク (汗〈カン〉,皇帝の城の意) と伝えている。 明初に北平 (ほくへい) と称された一時期を経て,明朝第3代の永楽帝のとき再び国都にされ,のち北京と改称された。 現在の北京の直接の前身は、元のフビライ・ハンが建設した大都。 その後、明の永楽帝が大改造を行った。 北京の観光名所の多くは、永楽年間のものだ。 >>339 はなんでスマホで見るとあぼーんされているんだろう PCだと同じJaneでも見れるのに 中国語入力についてはスマホとPCで逆なんだとしたら、 いったいどうやって書き込んだんだろう >>342 大改造じゃなくて縮小工事 明代の北京は元代の北京の半分以下 歴史捏造ミンジョクが、本当の歴史を載せるはずがないニダ 唐の時代にも、北京が天下を取りかけたことはあった 北京で旗揚げした安禄山は、大燕皇帝となった もしもクーデターに成功していたら、唐は玄宗の代で滅び、燕になっていた しかし、その安禄山も、皇帝に即位したのは洛陽だった おそらく、北京を首都にする気はなかったと思われる 中国史は、モンゴル帝国から始めれば十分 金や南宋については、「前史」という位置付けで良いのではないか 先週初めて北京行ったよ。 1日しかなかったけど天壇・前門・天安門広場・王府井・国貿へ行った。 歴史とかあまり知らないけど、上海やシンセンにはない威厳があるね。 「マルコポーロがフビライに接見したのもここだったのかな・・」とか想像しながら 結構楽しかったな。もし次に機会があればゆっくり回りたい。 その前にここのスレで勉強しないとね! 知人のオッサンは、「ホステス付のカラオケ接待を受けるなら、広東省が一番」と言っていた 「北京ほどつまらないところはない」という話だったが、歴史マニアにとっては逆だ >>351 マルコ・ポーロとフビライの接見は上都だから今の北京ではない >>353 そうか、ありがとう。 すっかり北京が気にいちゃって、 次回の出張時も北京経由で画策中w 北京の空気は買春より恋愛するのに向いている 寒いから誰でもすぐ人恋しくなるんだよ 瀬戸内寂聴とかロリ可愛かった新妻が不倫でぐちゃぐちゃになった >>353 マルコポーロはかなり長くいたから、北京でも会ってるんじゃないかな? >>328 五代・後唐の荘宗は初め長安を都にしようと思ったが、 瓦礫だらけの廃墟だったので諦めて洛陽を都にしたくらい。 >>360 その洛陽を首都にしたのも、「時代錯誤だ」とさんざん批判されたようだな もはや、中国北部の中心は、業とか開封とか、太行山脈の東側に完全に移っていた 開封は水陸交通の要衝だから栄えた。 そのかわり、水害にも悩まされた。 現在の開封市の5メートルも下に、北宋時代の開封が埋まってる。 北京帝国の特徴としては、皇帝の権力がやたら強かった 明代ですでに、近代ヨーロッパの絶対王政の域に到達していた 明の領土は、ほぼ今でいう「内中国」に限られ、チベット・ウイグル・モンゴル・満州には明の統治が及ばなかった 先日も、左翼評論家が「中国は、歴史的に西のシルクロードへの領土拡張を目指してきた。 東の日本や朝鮮には、さほどの関心を示してこなかった」とブログに書いていた。 中国共産党の「一帯一路」構想に心酔し、それを称賛する文章なのだが、 それにしても、文系の大学教授にして、この認識レベルの低さには驚かされる。 やはり、日本人にとって、中国の歴史といえば、思い浮かぶのは漢や唐のイメージ。 とくに、シルクロードに交易圏が広がった唐の長安のイメージが強いようだ。 モンゴル帝国以後の、圧倒的に東の沿海部が中心になってからの、北京帝国の印象があまりにも薄い。 でも、日本でいえば鎌倉時代、ていうか、平安時代の末期くらいからそうなんだよ? いまだに日本の首都が飛鳥奈良だと勘違いしてるくらいの、ひどい錯覚だ。 その点、朝鮮人は、さすがにここまで平和ボケしていない。 北京帝国にとって、首都の目と鼻の先にある朝鮮半島は、常に重点管理地域であり、逆らえば容赦なく武力制裁を加えてきた。 韓国では、最近も「丙子胡乱」(清の朝鮮侵攻)をテーマにした本がベストセラーになった。 内田樹 東アジア共同体について (抜粋) 2019-01-06 いまは「一帯一路」や「21世紀海洋シルクロード」の構想が示されています。 あまり言う人がいませんけれど、これはきわめて「中国的」なアイディアだと僕は思っています。 いずれも中国人の「中華思想」のコスモロジーにぴったりと合っている。 中国の基本的な趨勢はやはり「西漸」なのです。漢代から、中華皇帝は国内統一が済むと、まず西に向かった。 張騫や李陵や霍去病や衛青といった、われわれが中学生くらいのときから学ぶ人たちのたどったコースはいまの「一帯一路」とほぼ重なります。 「西」へ向かう強い趨向性を持ちながら、その一方で、「東」については、中国人はコスモロジカルな強い物語を持っていない。 朝鮮半島、日本列島、台湾というのは、王化の対象である「東夷」にカテゴライズされます。 「東」について、中国人は特に強い領土的野心を示したことがない。歴史的にそうなんです。 例えば、鄭和の船団は七回にわたって大航海をするわけですけれど、ついに一度も東へ向かわなかった。 ・・・韓国の人口が六〇〇〇万人ですから、日本と合わせると二億近い人口をもつ、巨大な経済圏ができる。 生産力も開発力も両国ともにレベルは高いですから、日韓が連携すれば、一気に政治的にも経済的にも世界的なプレイヤーになれる。 ですから、東アジア共同体を立ち上げる場合には、まず文化的に最も近い韓国との連携をうち固めることから始めるのが合理的だろうと僕は思います。 ・・・と内田樹は言うのだが、実態はむしろ逆だ。 中国の歴史は、古代には重心が西にあったが、その後は東に移動して、現代はますます東高西低になっている。 北京の政府は、そりゃ西の中央アジアにも興味はあるんだろうけど、東の日本や韓国・朝鮮・台湾の動向に神経を尖らせるのと比べたら、遥かに深刻さの度合いが低い問題だ。 「日本人の中国史観は、漢や唐のイメージが強すぎ。これが中国に対する見方を歪め、大きな錯覚を生んでいる」と以前から思っていたが、やはりそうだった。 いっそのこと、高校の世界史での中国の扱いを、モンゴル帝国から始めたらどうかと思う。 その方が、現代の中国を理解する上では、よほど役に立つ。 北京帝国による朝鮮半島侵略の歴史も、タブー視して避けているのか、時間がなくて割愛してるのかは知らないが、取り上げるべきだ。 先日も、左翼の知人が「中国は歴史的に、他国を侵略したことがない」と真顔で語るのを聞いて、あきれてしまった。 これじゃ、現在の東アジア情勢がわからないだろう。 明の十三陵 https://static.retrip.jp/article/10441/images/1044117f2ee0e-47ea-475d-bddb-dada3d06e8ee_m.jpg 観光客の感想 ・明帝国の栄華をしのばせる広大な陵墓です ・中国のすごさを感じました ここは北京ツアーでは定番の世界遺産です。万里の長城と結ぶバスが走っているので、先に北京市内から長城への直通バスで向かい、後に十三陵に行くのがおすすめです。 景山公園 ・北京で一番好きな場所 ・北京に行かれた際にはぜひ!訪れて頂きたいスポットです。 天安門を入りちょうど出口から道を渡った場所にあります。公園を一周しながら階段を上ると360度北京の街が見渡せる名所です。 上から見下ろす天安門方向はまさに映画ラストエンペラーの世界!映画をおさらいして行きましょう。 https://static.retrip.jp/article/10441/images/1044172905860-c813-4c54-bd57-45fd038d8381_m.jpg >「中国は歴史的に、他国を侵略したことがない」 中華人民共和国が今の領域なのも歴代帝國による度重なる侵略の結果だもんな >>334 札幌のような豪雪地帯を首都にするには無理がある。 除雪のコストが半端ないよ。 北京も東京も冬季に乾燥して雪が降らないから、除雪の問題が無い。 でも首都のように頭脳集団が集まる地を北方に置くのは一理ある。 熱い場所なら頭がボオッとしてしまうからな。 近年における東南アジア地域の成長は、冷房の普及も大きいと思う 寒いとこだと、暑いとこから食糧を持ってこないと生きていけないから、全国制覇に乗りだそうとする意欲の強さが違う 天安門から景山公園までどんだけ歩くと思ってんだよw わざわざ天安門を出発地に設定する意味ないわw >>357 正月の祝いの席に出たフビライの話とかも残してるから 北京でもフビライとマルコ・ポーロが揃ってたのは間違いない 北京は避寒地として設置されてるから正月の催しの記録は必然的に北京になる 何故か北京が都になったとか勘違いしてる書籍や人が多いけど モンゴル帝国の都はずっと上都 北京は上都が寒い時と遊牧民以外が草原に入らないための物置だったりする >>380 まあ確かにそうだけど、当時の北京の繁栄ぶりは、数々の伝説に彩られている 中華史観のおかげで軽視されてるが、まさに全盛期だ 大都は、冬の3ヶ月の都だったんだな 残りの9ヶ月は上都だ >>379 は>>373 へのレスね なんか間が空いてしまった 大都は積水潭という内陸港で天津方面や 江南への運河とつながっているから、 夏場でも物資の中継地・集積地として重要だっただろう 積水潭はまた什刹海(北から西海・後海・前海と連なる三つの池)の 北の入り口であり、前海の南にはさらに北海・中海・南海(明代に新たに掘削) と池が連なっている 元のフビライが大都を造るにあたっては、北海の瓊華島を中心にしたとも言うが、 その北の什刹海と積水潭を重視したともいう 後者なら物流を重視したとも考えられる 大運河ははるか南方の物産を運ぶが、その終点が首都になったのだ 一気に運河を軸にした経済活動が活発になり、 漢人商人にとっては大都こそ重要な拠点だっただろう 上都は蒙古人が区画ごとにゲルを張って羊を養ってくつろぐためのでっかい田舎だろう 漢人でそこまで毎年移動したのは使用人と御用商人ぐらいだろう 元は後の時代になるほど上都の重要性が減り、草原を離れた蒙古人は 大都に常駐するようになったのではないか >>384 モンゴル人は草原で暮らすのが一番楽しい 現代モンゴル人ですらその行動様式は変わっておらず ウランバートルに住居を構えてても春夏は草原で楽しんでる ちなみに元明清で漢人商人にとって一番大事なのは南京 ここが漢人商人の中心地 >>385 南京の重要性はもとからだろうけど、 元で北京の比重が一気に上がっただろ 最大のお得意さんが運河のそばで待ち構えてるんだから 大都の異名カムバリクが元々は具体的にどこを指したかというと、 北京の南のほう、牛街礼拝寺、モスクの辺り 今も北京の回族が集中する町だ(西城区) 元明清とイスラム商人はここを拠点にした 対して漢人の商人は、清朝期の場合これよりちょっと東に行った 前門のあたりを中心としたあたり(西城区と東城区の境目付近) 北京は北方の街にしてはよくがんばって運河をたくさん引いたほうだろう 地図をよく見ると長安門大街の南側のこのあたり(つまり城壁の南外) にもよく運河が通っていたことがわかる これも南方の商人がよく活躍していたことが原因だろう 北京っていうと、灰色の石造りの街って印象が強かったな。 牌楼とかデカイ金文字の看板とかビルの上に中華風の屋根が乗った建築とか。 >>387 最近の北京は見てないが、ネットショップが盛んなせいか、リアル店舗がなくなってきてるらしいな スーパーも飲食店も、ネットで注文して宅配というのが主流になってきてるらしい もはやSF映画の世界だ、現代の北京 キャッシュレス化がよく言われるけど、並行してショップレスになってきていたのか 元々中国は「欲しいものを手に入れる」というのが困難な国で、90年代から00年代は、 「こんな品物がほしい」というのは割と簡単に叶えられるが、 「この会社のこの商品がほしい」というのは実現困難だった 経済発展しても流通と在庫確保がガタガタ だから通販が主流になるというのはわかる あと出前もその頃から多く、人件費が安いからどんどん伸びていきそうだった 外食は宴会中心で豪華にやるのはまだまだ続きそうだが 北京は外海と繋がってたのに繋がんなくなったとは何で >>391 いつの時代の話かはよくわからないが、 鉄道、自動車など陸上交通の効率が上がってきて 運河の交通は徐々に衰退していったのだろう 意外とモンゴル帝国は北京をアップグレードしてるよね >>391 モンゴル帝国が、北京と天津を大運河でつなげて、海運を強引に北京まで引っ張ってきた でも、北京周辺の運河には、「冬になると凍結する」という欠点がある。 明朝が海禁政策で海運を嫌ったこともあって衰退した。 江戸時代の日本は、長崎の出島でオランダ商人に限定して西洋貿易を行った、 清代の中国は、広州でイギリス商人に限定して西洋貿易を行った。 オランダが、長崎でアヘンを売るようなヤバい国でなくて、日本は幸運だった >>397 現代中国SF、評判いいね。 今度読んでみようっと。 景山公園を日本語うぃきぺでぃあでみると 「崇禎帝が李自成軍に攻められたとき首吊り自殺をした槐の木がある」とあるが 中文版のうぃきぺでぃあの方を確かめると この日本語版の説明は不完全で正しくないことがわかる 日本が、北京を昭和12年から昭和20年まで8年間占領したことは凄いことだが、 習近平、中国国民にしてみれば、最大の屈辱だ チャイナの周辺勢力って必ず一度は首府侵攻やってるよね 北京の地名に残る「胡同」(フートン)という言葉は、横町を意味するが、 もとはモンゴル語で井戸を表す「フトゥク」に由来するのだとか >>407 根絶やし失敗して禍根を残したな。 街を攻撃するときには、一人残さず殺しておかないと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる