北京の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつであるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられている。
石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたとも考えられている。
また、動物の骨が近くに見つかったことから、それらを焼いて食べていたという説もある。
さらに、原人の骨自体が粉々にされていたので、北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力であった。
しかし、レプリカに残っていた食痕からハイエナ類によるものであるという見解が提出された。
額が現代人に比べ、なだらかに傾斜し、後頭部の骨は突き出していた。
類人猿でも現代の人間でもない、その進化の過程の原人だとされた。 台湾では、今でも北平が正式名称
さすがに、大陸との交流が盛んな今では、北京と呼ぶ人が多いが 悠久の歴史の中のトリビア
かつて八王子を走っていた路面電車の車両は廃止後北京に譲渡された 今の大天朝が覆ったら「北京」の称も変わるのかもしれない。
意外と「薊」?
ロシア軍が駐屯したら改称されてプーチングラードなんてなw 次の王朝は、北京を首都としない可能性も高い
もともと、日本でいえば札幌を首都としているような、極めてアンバランスな場所にある 人口分布の中心でいえば河南省らしい。
これまで統一王朝の都にならなかった所というのも
しがらみがなくていいかもしんない。 中国っていったら、「長江の下流に人口が密集している」というイメージを持っている人が多いけど、実際には華北平原の人口密度が極端に高い >>12
だったら韓国の首爾だって超アンバランスな場所にあるじゃんかよ
ちょっと北に行けば北朝鮮国境だ パリとかも北の端にある都市だが、
一度北から来た異民族が支配者になって以来ずっと中心になっている
パヴィアもそうだった
コルドバもそうか >>18
李成桂は自分の故郷近くに首都を置こうとは思わなかったのか 洛陽、長安、開封、南京、北京
統一国家の首都となった都市は少ないな 高麗も朝鮮も、実質的に満州系の王朝。
開城やソウルを首都としながらも、ピョンヤンには特別な思い入れがあり、副都の位置づけになった。 >>21
特有の気が満ちていなければ、天に選ばれし王城の地にはなれない 北朝鮮は寒い上に、山がちで地形も厳しい
特に、北に行くほど首都には不向きな地形
北京は、華北平原の北東の端にある。
つまり、中国から満州やモンゴルに行くのにも、逆に満州やモンゴルから中国に行くのにも、必然的に北京を通る。
回りは険しい山岳地帯だから、ここを通るしかない。
だから北京は、商業ネットワークのカナメになる場所。
古くは関中も北京みたいな立ち位置たったのだろう
周のような遊牧民と華夏人が接する場所。 渤海五京 上京龍泉府、中京顕徳府、東京龍原府、西京鴨緑府、南京南海府
→ 最北は北京ではなく上京
遼五京 上京臨潢府、中京大定府、東京遼陽府、南京析津府、西京大同府
→ 同じく最北は北京ではなく上京
宋四京 東京開封府、西京河南府、南京応天府、北京大名府
金五京 中都大興府、上京会寧府、東京遼陽府、西京大同府、南京汴京府 周口店行ったけど北京つうよりどことも知れない山の中のド田舎だったよ
昔のことだから街の中心にでかい国営工場があって、煤煙がひどかった
社会主義国の街づくりってそういうもんだった そりゃ胡同地区とかから北京原人が発掘されるわけはないんだから、
だいぶ郊外にいった田舎になるのは想像つくだろ 想像つくか?いちいちトンチンカンなところに刺さるなあ 昔は、中国人にどこの出身かをきくと、「北京の近くから来ました」というので、
北京郊外のどの辺なのかと思ったら、「鉄道で12時間くらいのところ」と
答える・・・という調子だった。
彼らのいう「北京」というのは、日本人の考える「街」とは概念が異なる。
どっちかっていったら、「国」なんじゃないかと、それを聞いて思った。 10年前、「北京オリンピックが終わったら、中国は深刻な景気後退に陥るのではないか?」と
上海人に言ったら、「北京は小さな街で、経済的な重要性が低いので心配ない」と上海人は答えた。
一事が万事、こんな調子。
上海人にとっての「北京」は、東京人にとっての「札幌」みたいな感覚だ。
「北の隅っこにある、寒くて、そこそこ大きな街」というくらいの印象。 しかし、札幌には広々とした北海道に特有の良いイメージがあるが、北京にはそんなイメージがない。
全体的に、北京のイメージはあまり良くない。
清軍の入関がなく李自成の大順国が続いてれば、
西安(長安)が唐朝以来800年ぶりに首都になってたかも知れない 北平の北はただただ草原だからな
現在だと砂漠化もすすでんるしもう首都になることはないだろう 北京も、長安と同じ道をたどる
いったん首都でなくなったならば、二度と戻ることはないだろう 首都でなくなったら、企業が北京に本社を置く意味がなくなり、北京は急速に衰退することが予想される。
そうなったら、上海や広東省が圧倒的な経済力を持つことになる。
中国は、全体的に暑い南の国になる。 漢以後で中原や関中に首都を置く王朝を浸透王朝といい、
北京に首都を置く王朝を浸透王朝という >>40
征服王朝だった
たぶんもとの領土と中国をいっしょに手にいれてるから北京に首都をおく いずれにせよ、中国の首都を攻め落とした民族は
中国に同化吸収される運命にある。 >>42
北清事変で首都を攻め落とした
日本・ロシア・アメリカ・フランス・イギリス・ドイツ・オーストリアハンガリー・イタリア 春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と称された。
周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。
秦漢代には北平(ほくへい)と称されるが、満州開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。
北京市に隣接する河北省涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。 遼は南京と呼び、金は中都と呼び、元は大都と名付けた。 チンギスハンは、西はホラズムまで征服したが、中国は後回しになった。
それでも、北京までは版図におさめた。 大都(だいと)は、モンゴル帝国(元朝)のクビライ・カアンが1267年から26年を費やして現在の北京の地に造営した都市で、元朝の冬の都(冬営地)である。
現在の中華人民共和国の首都、北京の直接の前身であり旧市街に匹敵するほどの規模を持つ、壮大な都市だった。 北京地方はモンゴル高原・東北地区(満州)と中国中原の間の中継点に当たることから軍事的に重要な土地で、契丹人の遼のとき北方民族の支配下に置かれ、遼を滅ぼした金が首都中都大興府を置いた。
1215年5月にモンゴルの圧力を受けた金が中都を放棄し、チンギス・カンの親征にともないモンゴル帝国軍による攻囲ののち接収される。
モンゴル本土と中国の中継点であることからいち早くモンゴル帝国による北中国支配の拠点として復興され、燕京大興府と称した。
チンギス、オゴデイ時代は耶律楚材など現地の漢人官僚たちによって運営が任されていたが、
1251年7月にモンケが即位するとモンゴル帝国を3つの巨大行政府に分割し、そのうちの一つ、燕京等処行尚書省が設置された。
オゴデイ時代にはマフムード・ヤラワチがこの長官として中央アジアから派遣された。
燕京はモンゴル帝国東部の中心都市として位置付けられるようになった。
皇弟クビライは、この地の統治権一切を掌握した。 北京がなぜ千年の都になったかと言えば、地形のせい。
北京は巨大な三角州である華北平原の東北端に位置する。
周囲を険しい山脈に囲まれた、唯一の出入り口。
中国からモンゴルに行くにも満州に行くにも、逆に北から中国に入るにも、必然的にここを通る。
まさに、兵家必争の地。 隋の煬帝が運河の北端としてから、商業都市としての北京の発展が始まった。
その後、モンゴル帝国の時代に運河がますます整備され、かつての長安や開封に代わって中核商業都市になった。 大都と呼ばれた北京。
その北、300kmほど行ったところに、上都という都市があった。
ここが、東モンゴル帝国の冬の首都。
マルコ・ポーロは、この地で見聞した壮麗な宮殿の雕欄玉砌、にぎやかな街並みを
東方見聞録に書きつけて以来、ここは「ザナドゥ」と呼ばれる西洋人の憧れの地となった。
20世紀のアメリカでも、「ザナドゥ」という歌が大ヒットしたくらい、ここは伝説の都。 モンケ歿後のアリクブケとの後継者争いに勝利したクビライは、1267年に燕京の城市の東北に接する土地に新たな都市を建設し始めた。
大都の構造は、周礼の匠人営国の記載に則って構成され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られた。
こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものである。
大都はこうした構成に見られる如く、純然たる計画都市として設計されたため、極めて整然とした構成美を持っていたとされる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています