台湾の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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そもそも、鄭成功だって、台湾にいた時期はほんのわずか。
台湾を拠点にしてすぐ、熱病にかかって死んでしまった。 オランダ統治も鄭成功も日帝支配も瞬間風速みたいなものにすぎない。 >>157
日帝支配は、他の2つを合わせたくらい長い >>148
皇族は擁してない
それが鄭氏政権の弱点だった
反清復明の旗印も担ぐ神輿が居なければ虚しいだけ チベットは清時代は清の一部であって中国の一部とはいいがたかったと思うが、
(満州も末期までは)
台湾はずいぶん早くから中国人の地域になってたんだよな >>161
日本の国内でさえ、反日左翼勢力があるくらいなんだぞ。
「サンデーモーニング」を見ればわかるだろ(笑)
韓国にも台湾にも中国にも、反日勢力もあれば親日勢力もある。
どの国にもいろんな人がいるんで、どの角度から見るかにかかっている。
「韓国は実は親日なのだ」とか、「台湾は実は反日なのだ」とか、そういう議論は無意味。
台湾に到着して1年ほど経った1662年5月、明王朝の再興は成し遂げられぬまま、鄭成功は39歳の若さでこの世を去った。
その死を知った厦門(アモイ)の長男鄭経はすぐに台湾に向かい、後継体制を整え、すぐに厦門(アモイ)に戻るが、
1664年、清軍に攻められ、台湾へ逃れる事になった。明王朝再興はこれで諦めざるを得ない状況になった。
しかし、鄭経も父鄭成功と同じ39歳で死去するまでの19年間、中国大陸の明王朝再興の事ばかりを考えていたため、
台湾経営の政務には関心も無く、鄭成功以来の重臣である陳永華がその任に当たっていた。
陳永華の功績は大きく、土地制度、戸籍、行政機関を整備し、鄭氏政権の基礎を築いた。 鄭経が台湾に移った後、清はすぐに台湾を封鎖する政策を取った。
東南沿海5省の住民に対し、沿岸から約17キロの内陸へ移させ、さらにその間の土地での居住、農耕のほか、
立ち入りさえも禁じた。また、漁船商船の出入港も禁じた。
しかし、これは清にとって反対の結果となり、密貿易が盛となり、封鎖政策に困窮した住民がどんどんと台湾へ移住して行った。
住民が増えた台湾では、開拓が進み、耕地面積も飛躍的に増加した。
開拓の一方で、鄭経の政権は、財源確保のため、オランダ以上の過酷な徴税を行っており、次第に住民の抵抗は最高潮に達していた。
中国からの移民の増加により、原住民は漢民族の支配を受けるようになり、少数民族へと移行していった。 1681年2月の鄭経の死後、後継者争いの内紛が生じ、清打倒明再興派と台湾経営重視派に別れた。
台湾経営重視派の陳永華が破れたため、清打倒明再興派が擁立した鄭克ソウ(土へんに「爽」)が後継者となった。
清は福建省に、鄭氏を裏切り清に寝返る投降者を奨励する役所を設け、寝返る者を優遇する作戦に出た。
この作戦は大当たりし、鄭氏を裏切るものが後を絶たなかったという。 オランダ統治と鄭成功で始まった台湾の歴史
その後、200年に及ぶ清の時代となる
しかし、清の朝廷は台湾にあまり関心がなかった
もともと、反乱分子の鄭成功を征伐するために仕方なく台湾を攻めたんで、
反乱拠点にさえならなければ、台湾など正直どうでもよかった 台湾は先進国だから、同性婚を合法化するぞ。
かつて台湾で普通に行われていた男性同士の結婚を禁止したのは、
明治時代の日本人総督だったし。
とすると、かつて男色・衆道があれだけ盛行していた我が国は、
明治維新以降とことん哀れな欧米猿真似国家に成り下がったのか!
これも関東なんぞの僻地へ天皇が下ってしまったからだナッ!!! アメリカンを火炎放射器で焼き殺せ!
彫りが深いマレーシア人に
アメリカンを近づかせない
為に
アダルトビデオの撮影で
アダルトビデオの収録現場で
アメリカンのポルノアクトレスを
火炎放射器で焼き殺せ! 台湾の清朝統治時代(しんちょうとうちじだい)とは、清朝(当時の中国)が鄭氏政権を倒して台湾を編入した1683年(康熙22年、永暦37年)から、
日清戦争の敗戦に伴って清朝が大日本帝国(当時の日本)に割譲した1895年(光緒21年、明治28年)4月17日までの時代である。 清朝は台湾についてほとんど投資を行わなかったために発展は遅れたが、清朝が台湾を領有した当初から、米穀が豊富にとれたために、福建・広東の穀倉と称された。
さらに19世紀には茶・砂糖黍・樟脳・鉱業の生産地として発達し、出荷地として都市化も進み、帝国主義時代には台湾民主国が成立する背景となった。 清朝は、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。
ただし、台湾を「化外の地」としてさほど重要視していなかった為に、統治には永らく消極的であり続けた。
土牛溝によって番界という台湾原住民の生活域と漢人の生活域をわけ、台湾原住民を化外の野蕃として放置し続けてきた。 清は、反乱勢力の鄭成功を討伐するために台湾を攻めた。
台湾には関心なかったが、また反乱の拠点になるのを恐れて、一応、福建省の傘下に入れた。
化外の地として放置されていた台湾だが、停滞していたわけではなかった。
そんな台湾が本格的に発展するのは、19世紀に入ってからのこと。
移民で人口が増え、貿易の拠点として繁栄し始めた。
>>177
反清復明の旗を降ろして、清の朝貢国になる道もあったと思われる >>178
長く続いていれば、それも考えた可能性がある
だが、薩摩藩は強敵だ 日本乞師のとき取次してくれたのが琉球と薩摩なのに
そいつらに刃向けるとかさすがにできないだろ 清の朝貢国の中では、琉球王国の格が高くて、朝鮮王国よりも上だった 福建省か広東省で新興宗教みたいの流行れば、台湾先住民に文明を広めにいくやつも出たかも知れん >>183
また、台湾用の文字とかも作り出すかもしれん
キリル文字みたいに 台湾ドラマを見ると、若者が中国語を話し、年寄が台湾語を話していることが多い。
中国語といっても、台湾の発音は独特で、聞けばすぐ台湾人とわかるんだが。 清国の台湾領有は212年にわたるが、1874年日本軍の台湾出兵までの190年間は消極的な態度で台湾経営を行っていた。
ただ清は台湾が無法者の巣窟となることを防ぐことに重点を置いていた。
そのため、台湾への渡航は開放されたが、大変厳しく制限された。治安対策のためだ。
しかし、このように政府が消極的であっても、福建省や広東省の移民は増える一方で、農業開発はゆっくりだが着実に進歩していった。
1700年代の後半に入ると、移民の開発はこれまで未開だった東海岸にまで及び、東北部には役所までが設置されるようになった。
民間の活力に押されて、政府が急遽対応した形になる。 台湾経営が消極的で治安維持に重点を置いていたのも、清の領有212年の間に大小100件の武力蜂起が発生したこと、マラリア等の風土病が蔓延し、清の官吏が台湾赴任を嫌がっていたことに理由がある。
こうした武力蜂起は移住民によるもので、台湾に赴任した清の官吏の不公正、汚職に対する不満が主な原因となっていた。
台湾に赴任する官吏には優秀な者は少なく、給料も低かったため、汚職や賄賂は日常的だったようだ。
こういう悪習は中国官吏の伝統かもしれないが、台湾の場合は、官吏の腐敗は極めて深刻だった。
大きかった事件では、1721年朱一貴の役、1786-7年林爽文の役、1862-4年戴潮春の役があり、「三大反乱」と呼ばれている。
これらの事件の鎮圧には、台湾駐屯の部隊では間に合わず、中国本土からの精鋭部隊の援護を必要とした。 台湾には客家も多いが(李登輝など)
客家語も使うのだろうか 「台湾のシリコンバレー」と呼ばれる新竹には客家人が多いらしい オランダ→清→日本
原住民の歴史は知らないが
首狩り族の話は知ってるよ
自らを犠牲にして首刈りをやめさせた役人の話なら >>183
風前の灯だったマニ教が
福建から新天地台湾に布教されて息を吹き返す、とかなw >>195
やっぱ大陸でマイナーな宗教が広まったほうがおもしろい 台湾から中国に輸入の食品、「中国台湾地区」と書かなければ廃棄―台湾メディア
http://www.recordchina.co.jp/b520888-s0-c20.html
→質のいい台湾製より質の悪い中国製が好きなのかw 本来はそうだろうな。
日本でも原産国:台湾
の表記が、中国人観光客により中国側にそのうちばれるだろう。 日本の出版物とかもそのうち中国人観光客によりばれるだろう。 機器猫ティントン(漢字は忘れた)がパッちもんのタイトルだったはずだけど、正規品と同じ音訳のタイトルのパッちもんまであるとは恐れ入った
まさかしんちゃんみたいに先にパッちもんが権利をとってるとかないよな >>185 漢語の「方言」に対する独自の文字としては、湖南省の「女書」があるから、台湾語でも可能性はあったかも 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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