春秋戦国時代
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同じような出来事が多すぎて、いまひとつ頭に残らない春秋戦国時代
ここらで流れを整理しておこう 中原情勢推移の一例
B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年 共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年 鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏 衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋 四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月 鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月 衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月 邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年 宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋 宋が長葛を占領
B.C.716年7月 宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春 斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月 宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。 ↑ こんな調子で、延々と何百年もつづく
フクザツすぎて、頭に入るわけがない
近代ヨーロッパのほうが、まだマシだ 都市国家同士で取ったり取られたりしてるだけなんだよなあ 古代の河南省の状況は、近代のイタリアの状況と似ているな
都市国家同士で争ってる間に、周囲の国々がいつのまにか成長して、気がついたら大国に囲まれていた 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
CM0CD 春秋戦国時代のゲームが出たぞ
Nation War:Chronicles
ttp://store.steampowered.com/app/669320/Nation_WarChronicles/ 宮城谷昌光の本を何冊も読んだが、全体の流れはまったくアタマに入ってこない 春秋時代は、斉・晋・秦・楚の4大国の時代
東西南北を占めていたから、わりと分かりやすい この中でも、中原を制する晋が、超大国だった。
晋と楚の南北対立が、春秋時代の基軸。
河南省の都市国家群が、超大国の狭間で右往左往する。 まるで、アメリカと中国の狭間で右往左往する、北朝鮮と韓国みたい。
もっとも、辺境の朝鮮半島とは違って、河南省は中華の地。
小国ばかりだが、文化レベルは最高。
その意味では、オスマン帝国、神聖ローマ帝国、フランス王国といった大国に囲まれた、ミラノやフィレンツェなどの近世イタリア都市国家の状況に似ている。 紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂するまでが春秋時代
紀元前403年から、紀元前221年に秦が中国を統一するまでが戦国時代
この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある 戦国時代には、各国の諸侯が王を名乗るようになり、周王の力は完全に失墜した。
それでも、周王室は続いた。
西暦256年、秦に滅ぼされる。 もしも、周王室が続いてたら、どうなっていたか?
日本でいえば、天皇のような存在。
それでも最終的にはモンゴル帝国に滅ぼされただろうが、ひょっとしたら、それまでは続く可能性があったか? 董卓は、洛陽を焼き払ったので有名。
董卓の頃の洛陽は、東周の遷都から数えれば、すでに千年の古都だった。
それを思えば、すさまじい暴挙。
おそらく、董卓は西域の出身で、漢への愛国心などまったく無かったのだろう。 董卓は隴西郡臨洮県の出身だし六郡良家子の出だから
普通に名家のおぼっちゃん 三國志に名前が出てくるような人物は、みんな豪族ばかり
平民は出てこない >>19
楚は明らかに異文化圏だな
中華という意識は自他ともになかった 楚が示した独自に王を名乗るなどの態度は
「中華の一部ではあるけれど周には心から服属はしない」
というものではなかったのだろうか
夏・殷・周が黄河文明に根ざしているのに対し、
楚は長江文明を代表しているというような意識があったのかもしれない 斉も、桓公の時代に「中華の覇者」になったけど、もっと昔なら「東夷」とされていた地域 東夷は山東省だけでなく江蘇省などあちこちにいた
また周代に斉に呂尚が封じられてからも半島の奥地には莱という異種族がいた
莱は国として続き姜斉の途中で滅ぼされる
呂尚は莱でも東夷でもなかった
東夷は春秋期にはもう文明化していたではないだろうか 宮城谷昌光の「晏子」も、前半は莱との戦いが延々と続く
斉は春秋時代から山東省を支配する大国だったが、それでも山東半島を統一するのに数世紀を要した
これだけでも、古代の中国がどれほど広くて多様だったかが分かるというもの 東周時代が春秋時代になった要因と、春秋時代が戦国時代になった要因がよくわからない
特に春秋と戦国の違い
晋が韓魏趙になったとか、春秋はタテマエとして周王朝を助けて〜ってのがあったが、戦国は自ら統一王を目指す連中で溢れたとか
そうした変化は知ってるけど、それが同時代人が時代の呼び方をわけた決定要因なんだろうか 時代の名前はあとから付いたものだろ
春秋から戦国への流れ、それこそが「下剋上」
いろんな現象がそのひと言で説明できてしまうだろう
日本史用語としてのそれはあくまで流用に見える >>29
日本だって、室町幕府はまだ続いてたのに戦国時代になった
室町時代だって、統一国家とは名ばかりで、足利義満はいつも地方の大名との戦争で忙しかった
戦国時代との違いは微妙 >>29
>晋が韓魏趙になったとか
なんといっても、それが大きいと思われる
群雄割拠の世といっても、晋がアタマひとつ抜けた超大国だった 晋が分裂して韓魏趙になって、戦国時代に突入した。
分裂したけど、それでも大国。
戦国時代の初期は、魏が突出した大国で、諸国の盟主のようなポジションにいた。 秦は初代が中華の人間
というか先祖も中華の人間
そりゃ田舎のほうだが
ちなみにチャンパ王国の建国者も中華の人間 北ベトナムにとっての中国は、北からの侵略者
中国にとってのモンゴルみたいなものだ
しかし、そんな北ベトナムも、南ベトナムにとっては北からの侵略者 晋を超大国にした立役者の文公は、母親が北狄
北狄に亡命して、何年かすごした時期もある 魏は中原に位置し、7大国のうち燕を除く残りの5ヶ国と国境を接していた。
前453年、晋から事実上の独立をはたす。
初期の文侯の治世では、内政の李克・西門豹、軍事の呉起・楽羊らの働きで、
周辺諸国を討って国力盛んとなり、最強国となった。 この「戦国初期には魏が最強国だった」という話が、宮城谷昌光の小説にはよく出てくる
中原だけに文化の水準が違うので、人材の宝庫だった
しかし、狭量な君主が続出したせいか、せっかくの人材が他国に流出していくのが難点 まず、呉起が亡命して、主力がぬけた
呉起は、楚で大改革を行う
野蛮な後進国だった楚が、超大国へと変身を遂げるキッカケを作った 人材の流出は、その後も続いた
まず、前370年、魏は斉の孫臏に大敗する(馬陵の戦い)
紀元前340年には、商鞅の変法により国力を急激に増大させた秦には、
商鞅率いる軍に大敗して黄河以西を失い、大梁(開封)へ遷都し、覇者の座から滑り落ちた。
その後、自国の宰相であった魏斉にかつて辱められた食客の范雎を、
遠交近攻策の提唱などで重臣に採用した秦から圧迫され、秦への対策では苦しい状態が続く
孫臏・商鞅・范雎、みんな魏から出ていった人物 衰退した魏は、秦による大統一のちょっと前、一時的に復活する。
公子の無忌こと信陵君が紀元前247年に五か国連合軍を率いて、秦の侵攻軍を破った。
信陵君は戦国四君に挙げられるほどの傑物となった >>44
どっちかっていったら、国名を名字にしたというほうが正しい たとえば「魏」であれば、春秋時代の都市国家の一つが起源です。
この都市国家の魏は晋に滅ぼされ、晋の領地になりました。
ある時、功臣の一人がこの魏の土地に封建され、魏氏を名乗るようになりました。
この魏氏の子孫が、晋を三分した魏を作りました。 魏氏・趙氏・韓氏が同盟して、晋で最有力な智氏を打倒した 長年の恨みで徹底的に嬲り抜いて髑髏杯にしたんだよな 魏は梁または大梁ともいった
途中で都をその名の土地に移したためだ
この地は後に開封と呼ばれる
『孟子』の冒頭が「孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ」 >>45
でも三晋に分割する前から名字名乗ってたよ 呂后の一族も自分らが皇帝になったら国名を「呂」にする予定だったっぽいや >>50
晋の家臣の畢万が、魏に赴任して、魏万と名乗るようになった
それが、魏氏の始まり つまり、名字を国号にしたのは、その通りなんだけど、その名字がもともと地名に由来する >>51
武后が皇帝になったときは、「周」になったな 南朝の陳も、陳覇先が自分の名字を国名にしたんだと思っていたが、
これも偶然たまたま、梁の皇帝から陳王に封じられたのが由来だそうな 俺が魏文侯だったら
まず楚を滅ぼすね
当時の楚は蛮族のくせに剽悍さもなくしてガタガタだったから
土地は広いが当時の楚なら勝てる 魏は文侯・武侯の時代ですら周囲を列強に囲まれ、次第に拡大にも限界が
見えてきてるうえに必ずしも連戦連勝とまではいかずに敗れてもいる
たとえ荘王の時代の様な威勢を失っていたとしても、数倍の国土を有する楚を
一朝一夕に滅ぼせる保証はないところに、韓や趙や秦らがおとなしく手を拱いて
傍観してくれるわけもないと思うが 名字とか苗字とか言ってるけどそれって「氏」だろ
わざわざ日本史風に言うのってどうなの 南の勢力を滅ぼすのは、見た目より難しい
山を越え、河を越え、酷暑と疫病との戦い
後世には、曹操も苻堅も敗れて撃退された 文公って本当に有能なのか?
放浪しまくって、最後に君主になれたのは凄い、しかしたった8年で崩御だぞ 最後に君主になれたのも、秦の穆公が軍隊つきで晋に送り込んでくれたおかげ
これを見れば傀儡政権みたいだが、なぜか春秋の覇者となる しかも、文公本人は、亡命先の斉に永住するつもりになっていたのだが、周囲の連中が強引に担ぎ出した 放浪中は、楚でもお世話になり、有名な「三舎を避ける」の故事成語が生まれた このように、なぜか斉・楚・秦の3大国から強く支持された
おそらく、生来のカリスマ性があったのだろう 重耳の時代は諸技術と外交能力に長けた中原の小国(鄭、衛、陳、徐、蔡あたりか)から
将来的な生産力に伸びしろのあった周縁諸国(斉、秦、楚そして晋)に主導権が移っていく時代だった
また諸侯からその家臣に実力と権限が移っていく時期でもあった
重耳は後に重臣となる従者たちと共に中原諸国を放浪し、先進地域の情報を収集し、
各地の公族とコネクションを築き、結果的に自分と家臣の成長をも促した
普通亡命公子は、各国で能力に応じて家臣としてスカウトされ、
また亡命先の国が故国に攻め入って傀儡政権を立てる時の駒にもされる
重耳は境遇によって得られるものの全てを最大限に利用したのだ
…と、『重耳』にも書いてないことも加えたつもりだが、もしかしたら書いてあるかも知れん >>68
でも周辺諸国のうち、三晋と楚はなぜか中原に首都をうつしていた >>66
小室直樹は「三舎を避ける」という言葉が大好きで、いつも使ってた。
「スターリンすら三舎を避けるほどの残虐さ」とか、そんな感じ。 >>69
それは全く矛盾しない。
鄭や衛や陳は「中原という場所にいたこと」が不利だったのではなく、
「中原の限られた土地にしか領土がなかったこと」で国力が相対的に伸び悩んだのだから。
中原自体は全ての時代を通じて交通が便利で商業活動に有利な場所で、情報収集にも向いていた。
ただ生産力が頭打ちだった。
だから戦国になるとどの国も中原かその近くに首都を置き、後背地を農業生産のために確保しようとした。
ただ燕は地理的に魏に阻まれて中原には向かわず、後背地を広げていくことに専念した。
いったん斉に攻められるとすぐ倒されるという脆さがあったことの反省だろう。 趙も北の辺境の国だけど、首都はほとんど中原に近い邯鄲 いや、邯鄲は中原そのものだな
いまでいう河北省の南端で、ほぼ河南省 五代十国の初期(後梁期)なんかだと各国の首都も中原に片寄ってるとかないんだが だってその時代にはもう奥地まで開発が済んでいるんだもん
言質取ったつもりだろうけどマジどうでもいいわ 近世ヨーロッパでも、先進地域のイタリアでフィレンツェやミラノ・ヴェネチア・ジェノヴァ
などが争っている間に、周辺ではフランス・スペインなどの大領域国家が台頭した。
現代でも、ドイツ・フランス・イギリスが争っている間に、超大国のアメリカ・ソ連が台頭した。 スケールの違う国家が登場したおかげで、今までの主要国が小人に見えてしまうという現象。
この21世紀においては、中国とインドがそれに相当するだろう。 【DVD】東周列国 春秋戦国篇 完全版 全11巻(22枚組) 楚で最初に王位についたのは、第18代君主・熊徹のとき。
周に昇爵を要求したが認められなかったため、王位を自称することにした。
即位は「紀元前740年」というから、昔も昔、大昔だ。 しかし、その前の代の奴も、で、『韓非子』や『楚辞』では脂、と表記される。
武王こと熊徹に殺されて長続きしなかった。 武王が死んで、文王が跡を継いだ。
その後、いよいよ成王の時代となる。
「楚の成王」といえば、春秋時代でも屈指のビッグネームだ。
成王と、次の次の荘王が、楚の歴史では飛び抜けて知名度が高い。
まあ、どの王朝でも、有名なのは初期の数人だけで、あとは惰性というのが普通だが。 >>29
「春秋」に書かれている時代が春秋時代(覇者の時代)
「戦国策」に書かれている時代が戦国時代(覇王の時代)
戦国時代は古代では六国時代と呼ばれていた >>85
そうなの?知らなかった。驚き。例えばどの文献? >>87の質問は、これについてです
>戦国時代は古代では六国時代 中国の歴史学ではアヘン戦争以前を「古代」と呼ぶからそこかな 戦国の七雄とか今は言われてるけど、秦は国とは呼べないとかいうイデオロギーありそうな名称 >>92
どの国もそう自称してるけど実態はどうかな 中原にもともといたのはタイカダイやミャオヤオで
後から来たシナチベットに追いやられたという話だな >>91
説というか史記の記述やろ?
楚の初代は周出身って書いてあるし 雲南のハニ族も自分たちの先祖は天津にいてそこから北京や上海に移って、なんていう
よくわからない伝承を持っている
なんか北から来たっていう感覚だけは共通している ベトナム・タイ・ラオス・ミャンマー
みんな、「雲南から南下してきた民族」ってことになってるけどな 宋の建国者は、紂王の兄の微子啓とされている。首都は商丘。
「宋は小国だが、殷を継承する国であった」というのは、宮城谷昌光の小説でオナジミのテーマ 宋といえば、有名なエピソードが2つ。
ひとつは、宋襄の仁。
楚の成王の大軍が攻めてきた。川を渡ろうとしているのを見て、「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公は動かず。
川を渡りきったところで、楚軍は態勢を整えた。
「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公はまたしたも動かず。
態勢を整えた楚軍に、宋軍は叩きのめされた。
古来の戦争の流儀にこだわった、襄公のガンコさと頭の古さが、宋の敗因とされている。 もうひとつは、待ちぼうけ。
ある日せっせと野良仕事、そこにウサギが飛び出して、木の根っこに頭をぶつけて死んでしまった。
労せずしてウサギ肉を手に入れた男は、それからも木の根っこでウサギを待ち続けたため、農地はすっかり荒れ果ててしまった。
これまた、宋人のガンコさと頭の古さが、敗因とされている。 つまり、先住民である殷の文化を墨守する宋は、ガンコで頭が古い国と思われていた。
だから、そういうエピソードばかりになる。 宋は、今でいう河南省の商丘市。
河南省の東端で、開封の南にある。
大昔には、殷の都・商があったところ。 >>99-102
そのあたりはもっと前なら宮城谷昌光じゃなくて陳舜臣で読んだな
時期ごとにそういう人がいる 研究者とは別に 陳舜臣はマジメすぎるというか、あんまり面白みはないな? 宋は小国だったが、宰相の華元は、大国・晋と楚の和議を取り持って名を挙げた。 韓国のパククネ大統領も、アメリカと中国の和議を取り持つ「バランサー外交」をやってたが、失敗して刑務所にいる。 >>38
春秋時代も、初期は、鄭が覇権国だった。
斉の桓公や、晋の文公が登場するまでは、鄭の時代だった。 >>94
チベット人と漢民族よりタイ人ミャオ族と漢民族のほうが遺伝的には近いのだが
つうかお前は語族と人種の区別が多分ついてないだろ 今のチベット人は征服されてチベット語に言語交替した民族だから遺伝的に遠いのは当然の話だぞ 養える人口と農業限界のバランスが崩れ始めた時代だよね
開発過剰国としての中国人の終わらない悲劇が始まる >>112
春秋時代は、さすがに人口が少ない
戦国時代から増えてきて、後漢でピークに達する 前771 西周の幽王、犬戎に殺される
前770 東周の平王、鄭の武公の力を借りて洛邑に遷都
鄭の武公、都を新鄭に移す
前707 周の桓王、鄭の荘公を攻めるが、鄭はこれを撃退、
周王室の権威は完全に失墜する
前706 北戎が斉に侵攻したため、鄭は援軍を送り、北戎を撃退
この辺り(紀元前8世紀の末)までは、鄭の天下だった >>111
漢民族もチベット人も
周やら姜系民族に征服されたってことか 鄭の天下とはいっても、鄭の太子忽は、斉の王女との縁談を、「我が国は小国であり、大国の斉とは釣り合いが取れません」といって断っている。
周の王室と近い親戚で、中原の中でもド真ん中に位置するだけに、権威は絶大だったが、国土が小さかった。 紀元前7世紀に入ると同時に、天下は斉の時代に入る。
前651年、斉の桓公は、諸侯を会盟する。
桓公自身はたいした人物ではなかったが、宰相の管仲が有能だった。 斉の桓公から、春秋の五覇の時代が始まる。
春秋時代に入って、すでに120年が経過していた。 春秋の五覇って無意味なフレーズだと思う
戦国の七雄は戦国時代に力を持っていた七カ国ってことで意味があるけど
春秋の五覇はまず覇の定義が定まってないところに五って数字が定着してしまったから、まるで不完全なリストになってしまった
書物によって五覇のメンバーが異なるってどういうことだ?
それなのにそんな五覇を暗記させるとかまるで無意味すぎる
斉の桓公、晋の文公以外固定じゃないなら五覇とか数を固定する意味がわからん 晋は中原と西部地域にまたがってるけど、
三晋に分割する際、
中原と西部地域をどちらともそれぞれ三分割して配分してるのがおかしい
そのせいで三晋いすれもは(ベルギーやスイスみたいな)二地域にまたがる国家になってる ヨーロッパでたとえると、
カロリング朝フランク王国の
カールとカールマンの分割方法に近い
これもローマ人地域とゲルマン人地域を二人に分けた形
これもカールマンの国は魏みたいな形をしている 秦の穆公も、重耳を晋に送りこんで文公にしたキングメーカーなんだから、覇者には違いないが、いまひとつ地味な存在 春秋のトリを飾る呉王コウリョか夫差、越王勾践が入ってくるなら呉越コンビで入っちゃうんだよな
どっちも覇者としての実際の力より元蛮族が台頭してきたという象徴性が強いと思うが 呉越はなんか唐突だね
え、なんで?そんな国あったの?というタイミング
呉は一応周の太伯・虞仲からの古い由来があるけど信憑性が薄い
そこから500年以上経ってから句呉が呉になっていきなり現れる
越に至っては千数百年前に夏王少康の庶子を会稽に封じたのが源流というが
歴史に現れたのは呉と同じ頃でまったく真実味がなく、まるで呉に対抗してもっと古い起源を唱えただけのようだ
ドラマ性はあるけどそこだけ異世界の話をつないだみたいだ感じさえする
どちらも中央の戦いに加わると無駄に強いし
どちらも会盟で牛耳を執り覇者となるが、そのくせ潰しあってあっさり滅びるという 周を真ん中にして、斉楚秦晋の4大国が東南西北に並ぶというのは、いかにもシナ人好みの五行説っぽい世界。
周を殷にすれば、そのまんま封神演義の状況になってしまう。
この世界観のために、呉越を入れたくなかったんじゃないか。 >>130
封神演義では、
東西南北にどういう勢力がいたの? 殷を中心に東西南北に四大諸侯が周りを固めその外側に異民族という形だが
あくまで創作だからね >>129
呉越は異民族で確定、
楚は微妙なところだな 斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、呉王闔閭、呉王夫差、越王句践
候補は八人
大まかには孟子の王道や荀子の覇道が基準で選出されたり、いくつか説あるよなあ
個人的には三番手は楚荘王で確定って気分だけど 北の大諸侯(崇家)
もともとは、殷(いん)で、朝歌を中心とした東西南北とあった四大諸侯のうちの一つ。 西の大諸侯の西伯侯・姫昌の説得により、周と同盟を結んだ。
崇侯虎(すう・こうこ)
北の大諸侯・北伯侯(首領)の崇侯虎だ。弟の崇黒虎と間違えそうな名前なので気をつけよう。
民を権力者の食い物としか考えていない。
つまり、北伯侯の治めた国の民はあんまり住み心地が良くないのだ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めた東伯侯・南伯侯を殺されるのを目にし、妲己にこびるようになる。 姫昌(き・しょう)
西の大諸侯。
食べ物が少なくなるにもかかわらす大量の難民を受け入れたり、偶然ぶつかってきて傷を負わせた武吉を許したり、
自分が死にそうなのに北の崇黒虎を味方になるよう説得したりと、まあいわゆる大人物である。
ちなみに100人の子を持つ。
妲己のたくらみにより幽閉され、七年後、長男伯邑孝でできたハンバーグを食べさせられてやっと解放される。 姜桓楚(きょう・かんそ)
東の大諸侯・東伯侯(首領)だ。
娘の姜妃は紂王の正統な皇后。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、南伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、東の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。 鄂崇禹(がく・すうう)
南の大諸侯・南伯侯だ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、東伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、南の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。 宋の襄公は、諸侯の会盟に失敗したから、覇者という感じがしない。 周王の権威が地に落ちて周が無くなる寸前の時代に
呉と越が周王の名代となって諸侯を束ねて会盟を仕切る話が
駆け込み乗車のように立て続けに現れる
戦国になってしまえばみんな王だから会盟なんてなくなるのに 長江の下流が、大陸で最も肥沃であり、最良の土地であることは、昔も今も変わらない
ただ、古代においては、広大な湿地帯であり、人が住むのには適していなかった 黄河の下流も、洪水が多すぎて、当時は住みにくかった。
古代の都市国家は、太行山脈の山麓に集中している 斉の桓王、晋の文王って名乗れなかったのに
呉王と越王は気にせず名乗ってるのって既に周が没落したからか?
周王の封土じゃないから王と名乗ってもいいとかいう理屈? >>137
姜桓楚っていうのは斉の桓公をもとにしたキャラか 太公望が姜氏なんだから単純に太公望が分裂しただけじゃない? >>145
太公望は、斉の建国者とされてるが
東伯候も姜氏なら、それが斉につながってるというほうが自然だな? 斉を意識してるのは間違いないね
姜桓楚の桓は桓公の桓だろうね 姜族ってのは周にくっついて初めて中国の東方に入ってきたんだろう? 呂尚(姜子牙)が東海のほとりの出身であり、
姜氏の部族集団を率いて周と連合して殷を倒したというのなら、
羌の支族といわれる姜氏は東海のあたりにも多数いたことになる
斉に封じられて営丘に都してからも現地の習俗に従って儀礼を簡素にしたというのも
また斉の土地柄に合わせて製塩と漁業で豊かにしたというのも、
呂尚がもともとこのあたりの出身だったからではないのか(東海=斉とは限らないが情報は持っていた) >>143
呉や越は伝承とは別に状況からみて楚から派生した新興勢力とも言われている
王号を早くから用いていたのも楚の模倣、あるいは楚を強く意識した対抗意識からだろう
その時点では周を立てる中原の勢力を意識する必要もないほど辺境だったとも言える
だが急成長して呉も越も一度は会盟の盟主になっているが、
これも、二百年近く離れているが、楚の荘王の覇業の後追いのように見える あと、呉の場合は太伯が周王の位を譲ってできた国(の筈)だから
王号を名乗ること自体おかしい(筈な)んだよな >>150
秀吉を大坂出身と間違えるようなもんじゃないのかな 呉は太伯の末裔だから当然、伯国
楚は蛮国とされ、その王は子爵待遇 下記のサイトの「周代の方言」という項目を見ると、
中原が「周韓鄭(漢代趙魏含む)」と「衛宋」に分かれているけど、
これはなんでなんだろうな。
中原を東西に分けたのか、
周代初期から中原にいた国と春秋戦国になってから中原に移ってきた国を分けたのか
http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_history10.html >>130
じゃあ東西南北にさらに東北、東南、西南、西北も加えればよかったんじゃね
東北が燕、東南が呉、西南が蜀だとすると西北をどうするかって問題になるか >>155
そのせいかどうかは知らないが、衛と宋は、2つとも「殷の遺民の国」とされている >>155
そのサイトのそのページの「爾雅に登場する方言の材料」の項目で、
>爾雅単体では、どの地域かの情報が無いものが多い為、
>それらは主として「方言」「説文解字」「郭璞注釈版爾雅」から補っている。
とあるだろう。
それらの書物で「爾雅」と共通する語彙について、
どこそこの方言だ、と言っている項目や注釈の中の地域によって分類するとこうなったということ
なんで、っていうか事実としてそれらのように、傾向として同じ語彙を共有するいくつかのグループが存在する
分けた、っていうより分かれている 殷と周は異民族だろ、さすがに
城市を一歩でたら、そこは異国という時代だ 21世紀の現代でさえ、中国では、「城市を出たら、そこは土人が住む世界」という感覚が強く残っており、戸籍でも市民と土人が明確に区別され、公然と差別されている。
ましてや、ムラとクニに分かれていた古代社会においては、城市に対する市民の思い入れが、ことのほか深かったであろうことが、容易に推測できる。
今でいう「中国」が1つの国であるという意識はまったく無かっただろうが、それぞれの祖国への帰属意識はむしろ強かっただろう。 甲骨文字による亀甲占いには、城市から出るときの安全を占うものが多かった
市民にとって、安全なのは城の中だけであり、城の外のフィールドは異世界だった 殷と周が別民族であることと、
当時の都市国家が一歩外を出れば「野人」(「土人」はともかく史書にはこれなら出る)
のうごめく世界だったことは、
別の話だろう 都市国家は、それぞれ別の国だったが、市民には文明人としての一種の連帯感があったようだ
古代ギリシャに似ている 上海人や香港人も、内陸部の土人より、日本人に連帯感を持っている まあ自分らからそう言うことはあるけど
こっちから日本人が指摘すると勘ぐって全否定してくることもあるよね 「精神的日本人」は今弾圧の対象だからあっちの人も他者にそう言われることを警戒してる 「漢の時代には未開だった長江下流地域は、三國志の呉や東晋の頃から発展して、隋唐の頃には経済力がかなり大きくなりました」とよく言われるのだが、
春秋時代の呉越だって、諸侯を会盟して覇者になるほどの国力があったんだよな? とくに不思議なのは、北部では秦や前漢まで青銅器が主流だったのに、春秋時代の呉越は、一足お先に鉄器文明へと移行していたこと
なんで、あのまま天下を取れんかったんだろか? 呉が優れていたのは「鋳剣の技術」、越が長けていたのは「銅器の製造」
鉄器については確認できなかった
呉が会盟の覇者になったのは史実らしいが、その留守を突いて呉を滅ぼした越は
一度覇者になったかならないか(越絶書以外に覇者になったという記録がない)で
楚に滅ぼされた
呉越とも春秋末期にならないと歴史に登場しないのは、長江文化圏に属していて
まったく動静が見えなかったからで、
(黄河圏から見ると「南方で色んな国がドタバタしているらしい」程度か)
楚という東西に長い国に阻まれて、長江以南の事はあまり伝わってこなかったのではないか >>154
呉は子爵です
呉の分家の虞は公爵ですが イギリスとかスウェーデンは他国を批判して刑罰を強化させたがるから嫌い いろんな思想家が出たが、後世はその改良と派生で終わってしまった。
西洋哲学がプラトンに付けられた注ならば、
中華思想は諸子百家思想に付けられた注なのだろう 中東では7世紀にイスラム教が登場したが、中国ではそんな思想革命は起きなかった >>179
様々な戦争について学んで書いたんでしょ
孫子が別の時代、別の地域に生まれたら書けなかったかもしれん 「中国四千年」というが、四千年の歴史があるのは、河南省や陝西省といった内陸部
北京・上海・広東省の歴史の長さは、日本や朝鮮・ベトナムのそれと大差ない >>177
革命じゃないよね。
アンチ儒教、若者が偉いとか、女尊男卑とか思想革命ないよね お前の挙げてるそれはただの反動思想で革命でも何でもないだろ 今のアンチ儒教言うやつは儒教をカケラも知らない
もっと徹底的なアンチ儒教なら五四運動や文革のときにやってる 孔子が俳優達の手足を切り落としたことや
門下生を取られたことから相手の教師を罪も不明なのに処刑したことは
もう何を言ってもこいつはクズだと思わせる 今の日本でアンチ儒教やってるやつは黄文雄の読者のネトウヨ
黄文雄は台独派だから反中国思想のつもりで書いているが
そのネタはまんま五四運動の反儒教運動のパクリ
ネトウヨは知らずに中華民国初期の青年文化運動イデオロギーを注入されている あの時代はアジア主義革命の時代だからいいんじゃね?日中韓同時革命による新大東亜共栄圏の建設を日本の愛国右翼は目指すべき 城攻めのために土積み上げてから崩して土手作って侵入したの誰だったっけ?
ど忘れしてもうた >>188
そういう奴は、今でもいるだろ
「米軍は日本から撤退しろ」という以外にこれといった主張を持たず、在日朝鮮人が批判されたら怒り狂うという、右翼なのか何なのかよく分からない連中
一水会とか、小林よしのり、古谷経衡とか >>187
いまの日本で反儒教の論客って、黄文雄とケントギルバートの他に、誰かいたっけ? >>186
孔子って、人柄の良さを感じさせるエピソードが無いんだよね >>191
論客とかいうのも烏滸がましいレベルじゃないかと? >>195
啓蒙主義思想家だからね
当時は読者も儒学をよく学んでいて、
儒学の悪口を言うのは無学な人間だけだったから、
そうじゃない新しい理屈で批判できる人は新鮮だった
今の反儒教ネトウヨは江戸時代に戻った感じ
当時ならまだ国学があったが今はあいつら誰も読んでいない
また蘭学は漢文必修の伝統があり、それで新しい訳語も作られたが、
福沢は漢文が大の得意で左・国・史・漢を熟読し
特に左伝は暗誦できることを自慢にしていた
あと、五四運動の頃の日本では儒学自体がとっくに廃れていたんだから関係ない
批判自体とっくに卒業している >>187
大隈重信は維新前から儒教を批判してたぞ >>197
批判の内容がネトウヨとは全然違うだろう
そもそも五四運動が儒教批判の元祖だなんて誰も言っていないしそんな意味じゃない
ネトウヨはくだらない揚げ足取りでドヤ顔だもんな >>198
日本での儒教批判は五四運動より前からあるってことを>>187の馬鹿は理解してないだろ いや、どっちみちネトウヨは福沢諭吉や大隈重信の儒教批判なんか読んでないから
読んでるのは黄文雄かそれを鵜呑みにしてさらに捻じ曲げる小林よしのりだけ
大事なのはそこだろ >>191
ケント・ギルバートに儒教の知識があるとはぜんぜん思えないけどな その「反儒教ネトウヨ」ってのは、どこにいるんだ?
ネットでもリアルでも見たことがない まあ、いまの日本人は、儒教のことなど、まったく知らんからなあ
キリスト教のほうが、まだよく知られている 陽明学には、「知行合一」とか「心中の賊を破るは難し」とか、いくつか有名な言葉があるけど、朱子学にはそれすらない
朱子学は完全に忘れ去られた 儒教批判の盛んなのが中国だと清末、民国、毛沢東期
日本だと幕末、敗戦前昭和期、今現在ってのが面白い >>206
今現在のは、儒教批判というより、中韓批判の一部だろ >>202
「儒教には“相手を赦す”という概念が無い」というデマを流すネトウヨはよく見かける >>196
今の儒教批判や支那チョン批判は、福沢諭吉の脱亜論が影響してるから、
馬鹿サヨどもが福沢諭吉を批判してんだろが ドイツやフランスみたいに、ずっと分かれていればなあ >>2
鄭=北朝鮮 衛=韓国 宋=日本
斉=アメリカ 秦=中国 楚=ロシアな感じ? ところで、もともと天皇の選定は日本でも古来、蒙古のクリルタイと同じく、血族者の中から実力を考量して選んだ。 そらそうよ古代日本は奴隷制全開のジャングルの掟社会なんだから >>212
脱亜論は福沢が書いたんじゃないっていうのが定説
それを無視してホルホルするのが馬鹿ウヨ
脱亜論に日本人そのものを見出して攻撃し続けるのが韓国人
韓国人に同調するのが極左
リベラルは史実を重く見て福沢を攻撃せず、しかし帝国主義の流れに批判的 >>220
定説ということは論文あるんですよね?
どの学者の何というタイトルの論文でその説が開陳されたのかご存知? その人が定説なんですか?本当に?
エビデンス何も無しに主張してる部分もありますよね >>223
ケチばかりつけててなんら生産性ないね君 検証に耐えない論説ってもっと生産性ないですよね
ただの嘘だし エビデンス出されても確かめもせず認めない奴がうだうだ喚いてもね >>85
戦国七雄じゃないんだ、どれが除外されてるのか 除外されてるのは燕だったかと
楽毅の登場で脚光浴びたけど、その前に後継問題の内乱を突かれて一度滅んだような状態だからね
薊を斉に支配されて、何事も斉にお伺いをたてるような感じで一時期は斉の従属国状態になっていた
その状態から回復させた昭王は優れた君主だったよね、後継ぎはどうしようもないけど 滅ぼしたあとの王家の扱いとかめんどくさいから?
生かしといたら復讐に怯えることになって、虐殺したら悪評うけるとか 属領化してもすぐ北に異民族いるし、緩衝地帯にしたかったのかね 王家が形骸化して
諸侯が強くなって
次にその家臣が台頭してって
日本と同じだよね
つうか世界中同じか ヨーロッパは割と王家が流動的だから
鎌倉幕府みたいなことになったら普通に王朝が交替してると思う 斉が残り2城を残して滅亡寸前だったのは事実だろうか
燕に実効支配できるだけの兵力があったかは怪しいし
他の国が関わってこないのも気になる 春秋から戦国にかけて消えていったたくさんの小国は、
当初は完全に「消えた」のではなく、継承者一族が「社稷」「宗廟」を残す、
すなわち土地神・穀物神と祖霊を崇めることを許されていた
滅ぼした側も祟りが怖かったというのもあるが、
それよりも他国の間で自国の悪評が立つことが怖かったのかもしれない
ただ段々とそういう「常識」が消えていったので、
本当に消滅する国も多くなっていった
そういう国の中で大きめの陳は諸国間で立ち回ってなんとか生き残っていたが
春秋末期には楚に完全に消滅させられる
三晋が立ち、周に諸侯と認められ、晋は事実上滅んだが、小諸侯として20年ほど残ったのも
宗廟を祀らせるという思想のためかもしれないが、やがて国も失い静公は庶民となり祭祀を禁じられ死んだ
という滅ぼされ方は戦国の新しいパターンだろう
斉が2城を残してもらえたというのは古い習慣の名残りか、完全に無力化したとみなされたか 残りニ城って、田単が楽毅から斉を守ったって伝説的なエピソードの話じゃないの? >>241
>>231と>>239-240はその話をしているだろう
違うのか? 春秋戦国を全く知らずに韓非子や戦国策や論語を読みはじめ、その後背景知識を仕入れたくなったので、概観を掴む目的で小説の春秋戦国志を図書館で借りてみました
その後史記も読んでみようと思い少し目を通してみたのですが、どうも紀伝体とやらになじめそうにありません
そこで諸兄にお伺いしたいのですが、
・史記を編年体的に変換しながら読むコツなどはあるのでしょうか?
・編年体的な読み方は諦め、韓非子戦国策などを読みつつ、疑問が湧いたら史記で調べるといった辞書的な使い方のほうが望ましいでしょうか? なんで左伝を読まないの?
あと、史記の各伝どうしで矛盾してることがよくあるからメモをとってためていくのもいいと思う 左伝は図書館で借りられるのがかなり古い本なので後回しにしてました
今度ビギナーズクラシックを読んでみます
メモの件ありがとうございました 電子書籍で左伝が出るのを待ってるんだけど、
岩波文庫の三冊本がなかなか電書化されないね
左伝って調べるとまずビギナーズ・クラシックスがまず出てきて、
それから徳間文庫の「中国の思想」シリーズの左伝
どちらも部分訳で全体ではないが一応電書なので
スマホやタブレットで持ち歩いて字を拡大して読めるので目が悪くても便利
岩波文庫は現代語訳だけだが通しで読むのに便利
いちばん詳しいのは明治書院の4冊本だが分量も多く1冊8000円ぐらいとお高い
こういうのが電子書籍で気軽に読める環境になるといいんだがまだまだだね 陳侯の次男?の子孫が斉侯になったんだから残っているともいえる 斉のキョとソクボクの2城は何で70余城を落とした軍と戦えているんだよ、、、 燕は楽毅を上将軍に任じ、大軍を発し、韓・魏・趙・秦の連合軍に合流した。
楽毅は連合軍の総大将として、五国連合軍を率いて斉軍を済西で打ち破った(済西の戦い, 五國聯軍攻齊之戰)。
その後、楽毅は燕軍を率いて斉の首都臨淄に迫り、湣王は莒に逃げ込んだ。 楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、残るは即墨と莒の二つとなった。 濟西之戰
燕國
魏國
趙國
韓國
秦國
約六十萬
齊國 數十萬 秦滅六國之戰
秦國 約120萬人
韓:10萬
趙:50萬
楚:40萬
魏:10萬
齊:30萬
燕:約10萬
合共150萬人 魏って孟子を読むと
本文中では梁の恵王と梁と呼ばれ
恵王自身は我が晋国と晋を自称し
また恵王自身は夏王と称していた >>256
正確には、首都が安邑にあった頃までは「魏」、秦に大敗して開封に遷都してから「梁」となる 戦国時代の初期、恵王の頃までは、魏が覇権国だった
恵王の時代に、東の斉、西の秦に敗れて転落する
魏は、中華と呼ぶにふさわしい位置にいたが、強国に囲まれた地形はあまりにも不利だった 秦の攻勢に圧迫された格好で大梁に遷都したってみられるむきがあるけど、
たしか竹書紀年じゃその前から大梁に比重が向いてた気がするんだが >>258
別名というか、国名ってのがなかったのだろうか
それと戦国末期には魏としか呼ばれていない気がする >>260
そりゃそうだろうな。
開封は昔も今も、黄河の水運の要衝
商業価値が違いすぎる なんであんな形なったんだろな、ふつうに考えりゃ韓の方が100倍有利じゃね?
どっちか滅ぼせば半減しそう 実際には持っている「城」と周辺の田園が領土で、
山や川、森や道路などは所有が曖昧というか各国共用だったのはたしか
城の取り合いが戦なので、領域という概念は希薄だったのだろう
ということは地図で見ると細長く不利に見えても、
ある程度の縄張りにはなっているのでそれほど不都合ではなかった 韓も春秋時代から韓原、平陽、宜陽、陽テキ、新鄭と、拠点を次第に黄河の南岸へ
更に東へ東へと移動させてはいるのよな
戦国時代の韓の領土って農業的には恵まれない地域だったみたいだし、
まかなか腰が落ち着かなかったのかね
韓原や平陽なんかは戦国時代じゃ魏に移ってるけど、摩擦もなく受け渡してたのか
そこがよくわからん >>259
バリョウの戦いでも斉12万、魏10万らしいし
覇権国にしてはそこまで圧倒的でもない
初期の鄭を覇者のように言うけど小国でしかなかったように 春秋戦国と言えば、やはり、呉だろうな。
専諸や要離のような刺客に憧れる。 戦国時代のどの国の君主になりたいかと言えば
私は斉王になりたい >>268
初期の鄭は、圧倒的な先進国だった
でも、やっぱり小国 鄭は周の卿士で有力ではあっただろうけど
仮に斉とか晋とか楚とかと戦っても勝てない程度だと思う
戦国末期の韓が新鄭だから鄭ってその程度の領土なんでしょう 1対1で戦うという状況自体が無いからね
小覇の頃の鄭はいくつもの周辺の盟邦を会盟で束ねて戦ったから強い
辺境のやがて覇者になる国は、まだあまり徳(実績)がないから地位が低く、
国力も開発途上で弱かった 斉は魯を小国と見下していたけど兵力的にはそんなに差がないんだよね
3万と2万ぐらいかな
他の国も都市国家でしかないから大した兵力ないし
周も7万5千とかいうけど実数は5万5千ぐらいらしいし
それも諸侯達を率いた兵力に過ぎない 智伯の領土は秦よりも広かったらしい
趙は3氏の軍勢に持ちこたえるぐらいだから
智氏の次ぐらいの勢力だよね
3晋で最強なのもおそらく趙だろうし 信長の野望でいう島津効果(海に囲まれていてそっちの防御は軽視できる)が一番強いのって斉?呉?
晋と後釜三国とか、晋くらい強けりゃいいけど弱くなったら四方敵なの辛いよな
ただでさえ中心地にあるのに 春秋初期の話をしてるやつと春秋末期から戦国初期の話をしてるやつがいるぞー 戦国末期の西周と東周の話を知りたいよ
※周の東遷の話じゃない、幽王のすぐ後じゃない、周が東西に分裂したやつね >>271
オランダみたいなものだと思う
貿易で覇権みたいに世界史でやるけど
オランダはイギリスやフランスやドイツと戦っても勝てるわけがない 秦がイングランド
楚がロシア
越がブルガリアかな
呉がルーマニア
韓がイタリア
魏がフランス
趙がドイツ
鄭がオランダ
宋がトルコ?
衛がモナコ? >>281
オランダは当時の世界最強スペインと戦って勝ったけどなぁ >>280
佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』中公新書
は読んだかな
むしろ読んだからそう言ってるのかも知れないな
このスレにも読んだ人は多いだろう
ざっとだけど面白かった >>281
17世紀のオランダは、イギリスともフランスとも死闘を続けた
当時は、「ドイツ」はまだ地理的概念に近い >>282
まあ、東西の大国・秦と斉がドイツとフランスで、間にある3つがベネルクス諸国ってのが、一番にてると思うけどな オランダは、ライン川下流の平野という、欧州で最も豊穣かつ水運の要衝にある。
その点では、同じく長江下流の平野という、中国で最良の地を占める呉に似ている。
地理的なポジションとしては、この2つが最も似ているように思う。 フランクが分裂した三晋だと思う
ナポレオンもヒトラーも勝てなかったイギリスとロシアが秦と楚だと思う >>283
山東には極一部白人もいたかもしれない、だぞ 古代中国と近代ヨーロッパは、いろんな面で似てるんだよなあ
当時としては、統一なんか考えられなかったでしょうな 春秋戦国時代に関しては、ヨーロッパ諸国のようなイメージで見た方がいいだろうな
後世の統一王朝の歴史を知っているだけに、どうしてもバイアスがかかってしまうが モンゴル帝国による大征服がなかったら、中国はいまでも統一されてないんじゃないかな? 春秋時代は、基本的には、北の晋、南の楚という、南北の超大国による争いの時代
紀元前546年、宋国の仲介で晋と楚が休戦協定を結ぶことで、一時平和が訪れた 小国の宋が、超大国の晋と楚の和平を実現した
これぞ、史上にも稀なバランサー外交の見本
これに習って、我が国も米中を和解させるニダ 歴史に残るバランサー外交を実現したのは、宋の名宰相・華元
宮城谷昌光の小説の主人公でもある 紀元前595年、楚の申舟が宋国内を無断で通過したので華元はこれを捕えた。
華元は「楚が通行の挨拶をしないのは、宋を自国の領土として扱っているからだ。
自国の領土して扱われれば国が滅びたのと同じであるし、
使者を捕えたことが楚王に知られれば宋は討たれ、どちらにせよ宋は滅びるだろう」
と言って申舟を殺した。 その年の内に、楚の荘王は宋都商丘を包囲し、7ヶ月に及んだ。
宋では餓死者が続出したが、文公と華元のもとでよくまとまり、なかなか落城しなかった。
すると荘王は宋都の郊外に家を作って耕作し、持久戦の構えをみせた。 華元はそれを見て密かに宋都を抜け出して、楚将の子反に会いにいった。
華元は子反の陣幕に忍び込み、寝台の子反を揺すり起こして
「宋では今や子供を交換して食べあい、死者の骨を砕いて炊事している有様です。
どうか三十里退却してください。そうすればどのような盟約にも応じます」と言った。
不意を突かれた子反はこれを了承した。
華元は自ら楚の人質となったが、文公はすぐに公子囲亀を代わりとして楚に送り、華元を取り返した。 紀元前589年、文公が没すると華元は楽挙とともに宋に前例がないほど盛大な葬儀を行った。このため世の人々は華元を非難した。
同じ年に、華元は中華の大国である晋と楚の和議を取り持った。
これは華元の生涯の中でも大功に値するもので、後に華元の後を継いで右師となった向戌も一度は破れた晋と楚の和議を再び取り持っている。 それから数十年を経た、紀元前546年。
晋の趙武・楚の屈建・魯の叔孫豹・蔡の公孫帰生・衛の石悪・陳の孔奐・鄭の良霄らが宋で会合した。
ここに、晋と楚の大和解が成し遂げられた。 >>298
小国宋にそんなことができたのは
多少なりともかつての殷王という権威が残ってたのだろうか 殷王の権威なんてないでしょ
それより中華中に広がる商業ネットワークの方が断然強い 宋は公爵というが
その前のぶこうろくほは殷侯だった かげんのせいで子供を殺して食べるめにあわされた
メンツなんかのために 衛も最後まで残ったし
宋はかなり悪逆だとして滅ぼしたし
なんかあったんだろう せんごくししでんにいたそうのけんおうはそうのくんしゅにそんなひとはいなかった >>308
「殷の末裔」というメンツは、それほど重かった 春秋時代だと、まだまだ中原の小国の文化的な権威は大きかっただろう 君主は諸侯のことであり
主君は大夫のことである
どちらも君と呼ばれる
君主は君公とも呼ばれる
主君は大夫のことだったのに後には諸侯も 晋の卿は諸侯に匹敵する
諸侯には本来は卿はいなかった
上大夫のことを卿と呼ぶようになった
周の卿士が高貴な職だったらしい 斉の青銅器に丁公とかを王片で書いていたらしい
王丁王公みたいに
王丁
王公 >>319
まあ生まれてきた男子3人連続で病死とか珍しくない時代でしょ そもそも、中央の周王室を東西南北の四大諸侯が囲むという春秋の世界観は、中国人好みの五行説っぽい
ちなみに、封神演義の商王室もそうなっている しかし、「ここで大量虐殺があった」と史記に書いてあるところで地面を掘ると、大量の古代の人骨が出てきたりする 漢字の主って王に点がついているから
本来、王より上じゃないのかね? 考古学的には殷も王を名乗っていた
王より前は后だったらしい 王の字って硬骨文字だと大の字の下に横棒足したような形
大 こんな感じでしたの三角形が権力とその権力によって人を処刑するためのマサカリの象形
 ̄ 要するに、王権は「人を処刑していい権利」だったわけやね
主の字って金文で
│
¥ こんな感じで上に伸びた棒が火、下側がその火を乗せる台の象形
 ̄ 灯が自身を中心として辺りを照らすように周囲を支配する存在って意味で成り立ちも字義も違うの 刑罰を加える者というか斧で処刑
殺すか手足を切り落とす奴が王ってことか
シュメールだと大きな人
英語だと一族の長
アッカドだとシャル・カリ・シャッリが全ての王らしいから全てを包含する者なのか 君主は諸侯のこと
主君は大夫のこと
王は地上に一人しかいない至高の存在 シュメール語では風の神はエンリルだが
中国では雨師、風伯、雷公、帝雲などであった
エンキは 地の神だがアッカドでは水の神エア 殷侯に封じたとあるのに
それを二分したのは宋公と衛伯 >>323
晋、斉、楚、秦のことか
北西、北東、東南、西南もほしいけど、
北西がおもいつかないな 水滸伝では
北の晋王
西の楚王
南の呉王
東の梁山泊は斉魏を横行しだから斉王魏王か 怪しいウィキペディアの中国語版の各国兵力
秦 120万
趙 50万
楚 40万
斉 30万
韓、魏、燕 10万 怪しいウィキペディアの中国語版の各国兵力
秦 120万
趙 50万
楚 40万
斉 30万
韓、魏、燕 10万
趙の推定人口は200~250万
中国の推定人口は2000万 水滸伝の楚は晋ほどの人材を集められなかった
しかし、北方から遼が数十万の兵で侵攻
国内は東西南北に四大反逆者
梁山泊は後の話を見ると総兵力六万、ただし官軍十三万を簡単に破る
他の反逆者は数十万の兵はありそう
楚王王慶も最後の防衛を十数万で守っているし
呉王ホウロウは梁山泊の三分の二を殺した十数万史実では死者百万以上だとか 春秋戦国時代は人口が少なく、あの広い大陸に二千万人くらいしかいなかった
華北は、後世とは異なり、森林に覆われていた 長江下流は、広大な湿原であり、まだ未開の地であった 黄河下流は洪水が多すぎるため、都市国家は山脈に沿って、山麓に並んでいた 周文王の伯父で呉の建国者太伯と虞仲兄弟
孤竹国の伯夷と叔斉兄弟
殷紂王の庶兄で宋の建国者微子啓と微仲衍兄弟
周武王の弟で後に反乱を起こした管叔鮮
と蔡叔度兄弟
似た時代に父王あるいは後継者となった兄弟王に何らかの反抗をして国を去り、兄は後継者なく亡くなり弟(孤竹国の場合は王になった間の兄弟)とその子孫が後を継ぐエピソードがいっぱいあるのは偶然なんですか? 孤竹国は王じゃない
王はこの世に1人しかいない至高の称号 >>357
子供の頃からそう教育されてきたのなら平気でしょう 末っ子は可愛がられるってことか
野蛮な力重視のはずなのに 長子相続とか末子相続なんてのは
政体が安定してから相続制度が固まって生まれた
それまでは実力のある人間がリーダー >>360
野蛮な力重視だから強い長男こそ領土広めて来いという話だろ 女目線で過剰に男をそういう目で見る歴女様の性欲があさましい ユーラシアの遊牧騎馬民たちも末子相続言われてるけど
歴史的な実態は実力者相続だしね
末子は親の最期を看取って生活のための資材なんかは受け継ぐけど
遊牧地とか家畜なんかは成人して独立する段階で親から分割されるし
一族の長の立場みたいなもんは一族内で選挙して実力者を選ぶからねぇ 遊牧民の末子相続は、兄たちが独立して去っていき、最後に残るのが末っ子だからだろ そういえばうちの田舎では末子が隠居屋敷とその周りの畑を相続していたのう。 春秋時代だと、中原の真ん中を除けば、どの国も狩猟・採集民や漁民が多い。 後世のような、「農耕民族vs遊牧民族」という構図にはなりにくい
もっとも、それを言ったら、隋唐あたりでもそうかもしれんが >>368
そりゃならんわ
この時代は一方的に北方遊牧民が中原で浮いた雑魚どもを収奪してるだけだし 帝国という形や騎馬民族の政権も西方の方が先んじてたわな
アケメネス朝やスキタイなんかを鑑みるに
これらの制度や文物が東漸して秦帝国や匈奴国家を成立させたんだろう 斉の桓公や、晋の文公は、アッシリア帝国と同じくらいの時代か? 紀元前671年 - アッシリア王エサルハドンのエジプト遠征。
メンフィス陥落によりエジプト王タハルカはテーベに逃亡。アッシリアのオリエント統一。
紀元前668年 - アッシリア王アッシュールバニパルの即位。
アッシュールバニパル王は都ニネヴェのクユンジクの丘に「アッシュールバニパルの図書館」を設立。
紀元前660年
初代神武天皇即位、日本建国。辛酉年、春正月、庚辰の朔日の日、天皇橿原宮にあまつひつぎしろしめし、天皇の元年とす(『日本書紀』)。
紀元前655年 - 晋の献公が虢と虞を滅ぼす。驪姫の讒言のため公子重耳・公子夷吾らが晋を出奔。
紀元前651年 - 斉の桓公による葵丘の会盟。桓公はこれにより周王より伯位を賜り最初の覇者となる。
紀元前647年 - アッシリア王アッシュールバニパルのエラム遠征。首都スサが陥落し破壊される。
紀元前639年 - 宋の襄公による鹿上の会盟・盂の会盟。
紀元前638年 - 宋の襄公と楚の成王が泓水(現:河南省柘城県)にて激突し、楚が大勝する(泓水の戦い)。
紀元前636年 - 重耳が亡命19年の後即位し、晋の文公となる。
紀元前632年 - 文公が率いる晋と楚が城濮(現:山東省西部の濮県の南)にて激突し、晋が大勝する(城濮の戦い)。
この勝利により晋の文公は践土の会盟を行い覇者となる。 晋は分家の曲沃が本家の翼の宗族を滅ぼす
その曲沃の分家は桓・莊の族という身内も滅ぼす
同族である虢や虞を滅ぼす
世継ぎ以外の公子は国外に追放する
卿の嫡子を公族とする
オスマン帝国が皇子を皆殺し、後に鳥かごに幽閉したのと似た感じがする 例えて言えば
王国の王子は王太子以外は全部国外追放とする
大貴族の世継ぎを王族とする
こんな国だからな 呉が周王の分家というのはもちろん嘘だろうが、
晋とかはどうなんかな 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」
隋の使節団は「そこの人々は華夏の人々=(中国古代国家「夏」)と同じであると報告している。
始皇帝陵、兵馬俑と武人埴輪の甲冑が良く似て居り、墓の回りに土器類を大量配置。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/08/77/src_11087751.jpg?1451096009
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/880/67/N000/000/008/144647630137934814179.jpg
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」
http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、秦氏に関わる神社(三つ巴紋)
http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746155049.html
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
http://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html >>381
太伯がいなくなって音信不通で800年、
あとから「実は南方の蛮族の村で呉という国を興していました、
私たちがその子孫です」っていきなり現れて中原の軍事に介入しだした
おかしいだろ 史書のどこに書いてあったんだよ
金文で残ってるのならまだわかるがそれもかなり後だろ >>382
呉の分家の虞が公爵なのもおかしいよなあ
呉の本家は子爵なのに 熊沢寛道が「南朝の天皇の子孫」を名乗り出たのは、20世紀の中頃
応仁の乱から500年が過ぎていた
800年っていったら、それ以上か 晋は元は唐だったのに二代目で国名変更ってのも変だ
それに楚の属国に同名の唐がある
何かおかしい 本物の倭国を滅ぼしたという説もあり
倭国が日本国を滅ぼしその国名を奪ったという説もある
唐書では日本国と倭国は別の国として記載されている
また言うことがころころ変わって信用できないとも 唐
↓
晋
↓
翼の本家と曲沃の分家に事実上分裂
↓
分家が本家を滅ぼし晋を統一
↓
韓、魏、趙の三国に分裂
↓
趙は滅びたが代王を名乗り晋に抵抗
↓
秦末に趙王が復活
↓
元の趙王が代王に張耳が恒山王に
↓
代王が趙王に戻り陳余が代王に
↓
張耳が趙王になるが息子の代で終わり劉邦の三男如意が趙王に四男恒が代王に
↓
趙王はコロコロ変わり呂氏が王になったりもする
↓
代王恒が皇帝になる >>393
>また言うことがころころ変わって信用できないとも
やはり、当時の倭国の上層部は半島系の移民だったのか? >>394
>翼の本家と曲沃の分家に事実上分裂
↓
分家が本家を滅ぼし晋を統一
このあたりの経緯は、宮城谷昌光の「重耳」に、やけに詳しく書いてあったな
「曲沃は大きくなる。いつか、本家を呑み込むかもしれない」とかなんとか 晋ほどの大国ともなると、その統一のプロセスも歴史的に重要だ
春秋時代は、事実上、晋と楚による南北朝時代 >>372
>紀元前655年 - 晋の献公が虢と虞を滅ぼす。驪姫の讒言のため公子重耳・公子夷吾らが晋を出奔。
宮城谷昌光の「重耳」の前半は、曲沃が勃興する話と、強敵・虢を滅ぼす話で終わってた印象 超大国となった晋だが、初期の晋にとって、虢は立ちはだかる巨大な壁だった
晋に滅ぼされたおかげでマイナーな国名となったが、千数百年後の杜甫の詩にも「大国 虢と秦と」という言葉が出てくるほど、大唐帝国においても有力な領邦だった 史記とか従来の有名な史料が採用しなかった記事のある史料がちょいちょい出土してて
春秋戦国時代がことと次第によっては大幅に書き換わるかもしれないし
さりげなく今ホットなジャンルだよな 後に近代まで超先進国になってた萌芽の時代って感じするよな、春秋戦国 >>395
移民だった可能性は高いけど、移民してきたのはそれより何百年も前の話のはず 虢が中華最強ってあったけど本当かな
ただ中国語版で西と東が逆なんだけど 『後漢書』巻85辰韓伝では、以下のように記載される。
耆老自言秦之亡人,避苦役,適韓國,馬韓割其東界地與之。其名國為邦,弓為弧,
賊為寇,行酒為行觴,相呼為徒,有似秦語,故或名之為秦韓。
〈辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて馬韓に往き、馬韓は東界の地を彼らに
割譲したのだと自称する。
そこでは国を邦(邦人)、弓を弧(琉球弧)、賊を寇(元寇)、行酒を行觴と称し(回し飲み)、
互いを徒(学徒)と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉 漢代以後の漢語では「邦」のことを「国」と言うが、辰韓人(秦韓人)は「国」のことを
「邦」と言っており、かかる事実関係により、辰韓人(秦韓人)は
秦語を使用していることは 決定的とみられている。
>秦語、は丸々のちの日本語である。
そこでは国を邦(邦人)、弓を弧(琉球弧)、賊を寇(元寇)、行酒を行觴と称し(回し飲み)、
互いを徒(学徒)と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。〉 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は
「そこの人々は華夏の人々 =(中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
始皇帝陵、兵馬俑と武人埴輪の甲冑が良く似て居り、墓の回りに土器類を大量配置。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/08/77/src_11087751.jpg?1451096009
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/880/67/N000/000/008/144647630137934814179.jpg
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」
http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、秦氏に関わる神社(三つ巴紋)
http://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746155049.html
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
http://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html >>401
ある国で後継者争いが起きると、周囲の大国が干渉して継承戦争が起きたり
近代ヨーロッパの国際社会と似ている 近世イタリアの都市国家、ミラノやフィレンツェ・ローマその他が繰り広げた外交が、欧州の国際社会のスタンダードとなり、ひいては世界に広がった
春秋戦国時代は、そんな国際社会を2000年ほど先取りしていた
統一されずに続いていたら、世界はどうなったか? 金や元よりもっと早く遊牧民ら異民族に支配される時代が来てただろうなあ
逆に漢民族って概念が生まれなかったかもしれん >>410
遊牧民が強大化したのって秦の統一のせいだぜ? 田斉の宣王は実在しないの?
威王とビン王の二人だけだと双方の在位が長すぎる気もするが この時代は発見一つで定説が入れ替わる
周の携王も平王の弟でなく叔父だったし 晋は同族の国を滅ぼしまくっているが
分家の曲沃が本家を滅ぼす
その分家も初代桓叔、二代莊伯の一族を滅ぼす(韓氏以外)
公子は国外に追放して、卿の嫡子を公族として扱う
こんな国だからなあ 春秋戦国の各国って同じ民族の中の争いでしかなさそうでしらけるな
たぶん各国の主要民族は華夏人で、
それぞれの辺境に先住民が住む感じか >>415
いや全部違う民族だよ
言語違うし宗教も違う 殷が夏を滅ぼした戦いも数千ぐらいの兵しかいなかったんでしょ
周も王は(諸侯も率いて)七万五千の兵とかいうけど実数は五万五千らしいし >>416
政治家とか軍人とか諸国を渡り歩きまくってるぞ 夏華人なんて極少数だろ
むしろ周人とか殷人とか東夷とか鮮卑とかが入り交じってるんじゃないか? >>418
民族違うと政治家軍人渡ってけない?
じゃあ中近世欧州は単一民族だったかな?
って考えるとまあ、そういうことはないのよね
漢代の揚雄がある程度各地の言葉を分類したものを方言としてまとめてるけど
これ見ると各地で発音が入り乱れてるのがわかる >>419
それは血統の話で、言語の話ではない
>>420
楊雄は辞賦を書くために風変わりな語彙に興味を持っていた
自分の学問のためにも方言語彙を収集したが、
それは爾雅という辞書の仕事を引き継いだ形
同じ語彙の発音が乱れているのではなく、単に違う形の同義語なのだ
日本語だって各地の方言集を図書館で見れば、語彙的な違いが大きかったことがわかるよ
首都圏方言一色の中で育った人はよく「訛り」と「方言」をごっちゃにするけどね >>421
春秋戦国時代はさらに加えて文字も違う
さらに元々漢字は音じゃなくて意味を扱う表意文字だった
「違う形の同義語」じゃなくて各国言語でのそれぞれの表記も発音も違ってた
始皇帝による文字と音の統一を経て漢代には表記だけは近い形に出来たものの
それでもまだ語彙の差、発音の差としては残った
結局発音は現代でも差異は相当残ってる 同じ民族というからには習俗とか信仰形態とか言語とか
色々同じものを使ってるはずなんだけど出土品から見ると全然違うよね
楚は特に民族的にかなり違うってことも指摘されてるね
孔子が周公旦と太公望の逸話出して現地の習俗が全然違う話をした
という論語の話もあるし斉でさえも民族的にかなり違ってたようだし いや、漢字の地方差はただの字体差だよ
たいした違いじゃない
だから簡単に統一できた
中国は何でも違う全部バラバラだ、っていうのを強調しすぎ
そんなたいしたロマンはない >>424
簡単には統一できてないのだが
焚書っていうのは各国の字書全部焼き捨てて秦のものだけ残す政策だし
そこまで強権で他の文字を弾圧してやっとできた文字の統一だよ >>420
少なくともヨーロッパ各地の王族や貴族(貴族のなかでも差はあふと思うが)は
「同じ民族」だろう ヨーロッパの王族は王族同士で結婚し、着る服も住む家も共通でしょ?
自国民と同じ民族であるという意識なんて一ミリもないと思う
日本の大名といっしょ >>422
始皇帝が統一する以前の漢字は絵みたいでマジで読めんよな
なんかふざけて描いたみたいな感じの字体あるし >>431
たとえば戦国七雄の王は、
楚以外は周系か中原系だろ >>428
共有するキリスト教的世界観があるだけで
民族は全然違うし言語も習慣も違う
具体例出すと18世紀、女帝の仇名で有名なマリア・テレジア
彼女はハンガリー王としてハンガリー王国議会に乗り込むんだけど
ハンガリー人は騎馬民族で、ドイツ人の歴代ハプスブルク家の皇帝はそうじゃなかった
だからハンガリー人はドイツ人のハプスブルク家にあんまりいい感情を持ってなかった
そこで深窓の令嬢だったはずの女帝が馬を操って議会入りしたことで
「この人俺らのことわかってる!」って強い共感をハンガリー人に持たれて
反発されることなくハンガリー王になった、という話からも欧州人って民族結構違うのわかるでしょ? >>434
周と中原で既に民族が違うし
楚だけじゃなく斉と燕も異民族 春秋の姜斉は統治者の呂氏が斉近辺の出身ながら植民都市を作って
南陽辺りに移住してた一族だった、といういかにも古代の開拓期らしい一族だったのよね
この辺の一族が団結して植民都市を交易拠点に築いてく形式によって
古代の都市国家群がゆるい連帯を作って徐々に国家を形成してくって
地中海やオリエントの都市国家とかなり類似性を見せてるんだよなぁ 民族は違うけど王公貴族は中原文化重視だし出自も中原系としようとしていたやろ >>439
と、史記には書いてある
が、出土品はそういう中原文化重視という事は証明しない >>425
でもそれで統一できたろ
ただの意地の張り合いだった証拠だよ
だから何も残っていない
>>426
いや、言語だって大して違っていなかった
『方言』だって「通語」というものが別にあって記録されている
通語さえ話せばどこでも通じたんだよ >>436
ハンガリーには長年独自の王がいなかったから
ヨーロッパの王家文化が入らなかっただけでしょ
王がいたらその周辺は「ヨーロッパ王族」という民族になる >>442
だったらナバラ王国領ではとっくにバスク語が消えているよ 暮らしが異なる王族を別民族とかいうの違和感しかないわ
だったら奈良時代の唐文化に心酔してた頃の日本皇族貴族と
竪穴住居に暮らしてたどん百姓は別民族なのかね >>437
楚や呉はともかく、
斉や燕は周の仲間を辺境に派遣したから、
王や貴族は周の同族 >>444
それはバスクがたまたま特殊だったとしかいえない
他のヨーロッパ各国では王家が地元民出身でも時代がすすむと同じ民族になってる ヨーロッパ王族という民族のエスニシティの定義を述べよ >>445
それは国民国家思想から派生したただの幻想
王権と民族は別のものだ
庶民が言うことを王は直接は理解しようとせず
必ず通訳する者がいる
それが封建社会でのならわし >>442
ハンガリーって遊牧民にルーツを持つマジャール人の王家だったアールパード家って
パンノニア平原への侵入が成功した時点からで600年
ハンガリー王としてキリスト教世界で認知されてからも300年という長期間王家として続いてて
ハンガリーは独自の王を戴いていたよ?
独自の王がいなかったから王家文化が入らないとは何?
意味不明過ぎて笑っちゃうんだけど
アールパード家断絶後はドイツやイタリア南部の王族貴族等を王にしてるけど
同君連合でハンガリーを従、本領は別にある王が出るのって概ねハプスブルク朝からだよ?
ボヘミア王、皇帝を兼ねたルクセンブルク朝のジグモンドの場合は
先にハンガリー王を得てから紆余曲折あってボヘミア王位と帝位を獲得するわけで
むしろそっちが従だし
いくら春秋戦国スレだからって欧州は民族が同じとか言い出すのはさすがにどうかと思うぞ? >>449
資本家と労働者も対話不可能だから別民族だね
アメリカ共和党支持者と民主党支持者も別民族だね 民族は自明のものでも客観的な存在でもないよ
そう思うのは国民国家思想による錯覚 だからヨーロッパ王族という民族が存在するとかいう珍説唱えるならその定義を述べろよw ここって今二人で対話してるわけじゃないよ
ドヤる相手を間違えないようにな つい先年亡くなった岡田英弘の古代シナ分析は面白かったな 日本だって、昔は東北や九州は異民族だったのに
中国が昔から「同じ漢民族」なわけないだろ
自動車や鉄道はもちろん、騎馬での移動すらない時代なんだぜ? 中国が民族的に統合されたのは、20世紀後半から21世紀にかけての話
鉄道とかテレビとか、インターネットのおかげだ
それまでは単なる政治的な支配でしかない 日本が明治維新まで統合されていたと思ってんのは
ろくに方言の多様性も知らないからだ
テレビの吉本弁しか知らんだろ >>450
たとえばロシアのニコライ二世にとって、
スラブ系の自国民と、
ビクトリア女王やヴィルヘルム二世、
どちらと同じ民族だったと言えるだろうか? >>462
ニコライ二世の民族観を調べればわかることでは?
人に聞く前に調べてから言えよ 少し前までは盛んだった、「北京語と広東語は、英語とドイツ語より違いが大きい」とか、
「沿海部と内陸部は、ヨーロッパとアフリカくらい文明の発達段階が異なる」
といった話を、最近はあまり聞かなくなった
それだけ、ここ10年か20年の間にも、国民統合が急速に進んできたということ
もっと前には、「中国は、省が違えば別の国だ」と、現地事情に通じた人々は異口同音に語っていた 昭和の時代には、「中国では、貨物列車を隣の省に送ると車輌が帰ってこない」と言われてた
隣の省に対して、同じ民族などという意識は無かった 北京語と広東語は、英語とドイツ語ほど違わないのにな
何より文法構造が基本的に変わらない
枠構造も分離動詞も名詞・形容詞の性・数(形)・格変化も
接続法動詞変化も失った英語は文法的にはゲルマン語とさえ呼べるのか疑問
もともと普通話だって50年前の文革期にはとっくに普及していた
旅行でちょっと手間取ったのはせいぜい百年ぐらい前で、
それだって清朝期から官話が各地に普及していたから不自由というほどではなかった
「現地通」は話を面白くするために話を誇張し、
それを読んだニセの「現地通」がさらにウソを広める
日華事変のときには使えない情報で慢心した皇軍が行く先々で騙されて苦しめられた
もともと大陸浪人を粗末にコキ使ったんだから恨まれて当然 >>463
だって婚姻も他のヨーロッパ王族とやって、服も建物もヨーロッパ風にやってるじゃん
言葉もドイツ語やフランス語だし
ロシア要素がほとんどない 百年戦争期のイギリスとかもパンピーは英語喋ってるけど貴族・宮廷はフランス語喋ってるみたいな差異あるしなあ
じゃあ当時のイギリスの貴族がフランス人なのか?っていうとそういうわけでもないし >>467
だからニコライ二世がどう思ってたかの証拠はよ
ちなみにロシアとしては汎スラヴ主義で西欧と対抗しようとしてます >>466
英語がいかに特殊かってことが無視されることが多いよなあ >>470
ほんにんが思ってたかとかそういうことはどうでもいいよ
思い込みでしかないからね >>468
少なくとも自称は夏の王族
遺伝子的にも夏の上流階級でもおかしくはない >>472
>>462ではニコライはどう思うかって
君が証拠を提示しながらニコライの思想はこうであった
よってヨーロッパ王族なるものが証明できる、という論旨だよね?
だから本人がどう思ってたかという事をきっちり示して
その上で論旨に引用しないとただの詐欺だよね
君に求められてる事はヨーロッパ王族なる民族の定義とそれを主張する論拠だけど
ニコライを例示した以上はニコライという皇帝がどのような民族意識を持っていたか
ロシア帝国の公的見解である汎スラブ主義とどのように異なるか
ちゃんと証拠付きで示さないとただのバカになっちゃうよ こいつ貴賤結婚も知らんのか
サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナントとか王族は王族同士でしか婚姻できないという掟を破ったばかり
その子どもは王位継承権を持つことが出来なかったんだぞ
汎スラブ主義とか一般民衆向けのプロパガンダだろ
ヨーロッパでは貴族と庶民は別の生き物という概念が一般的
だから外国の王族同士の結婚は普通でも自国民の一般人を娶るなんてことはまぁまずない >>476
で、ヨーロッパ王家民族のエスニシティの定義は?
・DNA
・宗教
・言語 だから今上天皇が皇太子の時の初の民間人との結婚は世界を震撼させた
日清製粉の社長の娘ってことで「粉屋millerの娘が皇帝家に嫁ぐ」なんて外国の新聞に書かれた
粉挽きというのは中世では被差別職業の一つだったから、欧州文化の文脈ではなおさら衝撃だろう >>476
だからヨーロッパ王族という民族はどのように定義されるか示してください
話はそこからです >>477
19世紀のロマノフ朝の宮廷ではフランス語だろうね
またDeNA的にもロシア人の血なんてほとんど無いだろうね >>480
貴族の流行とかじゃなくてエスニシティの定義を聞いてるんだが? >>480
ロマノフ王朝の宮廷や外交では当時の国際語だったフランス語が使われてますね
じゃあ国際語を使うと民族が同じ、ということは今、国際語である英語を使う人は同じ民族になるのかな? 春秋戦国時代は通言が、ってアホ上に居たけどそれも国際語に近いものだしなぁ
漢字の発展というのが言語の違う民族間で生まれたピジン言語だという認識を持たないと
まず民族が違うって話を理解できないのかもしれない 定住農耕民の華夏人と狩猟採集の他の夷狄では人口増加速度が全く違うので
華夏人が各地に広がる過程で蛮族と混合して文化や言語のバリエーションが生まれた流れである
そもそも民族が違うっていうのは理解が浅いな 通言じゃなくて通語だアホ
『方言』にちゃんと書いてあるんだってば
だいいち列挙されているのは「発音の近い地方ごとの訛った語彙」なんかじゃなく
「発音の全く異なる別々の語彙」なんだよ
漢字で記述するのはむしろそっちのほうが楽
あと、よく言われるピジン化だが、おそらくは殷より前、夏ぐらいでできている
チベットビルマ語族の古い接辞的な文法的手段は漢字では全く記述できていない
時制も人称もヴォイスも何一つ部首に反映していない
そこですでにほとんど孤立語的になっている
あとはそれを話し、甲骨金文以後の網羅的な漢字で書くか、
あるいはまったく別の言語を話し、文字を一切使わないか、その二択でしかない なんだか古朝鮮レベルの与太話をしてる奴がいるみたいだが大丈夫なのか >>485
華夏人というものはどように定義されてる存在ですか?
ヨーロッパ王族という民族とか学術用語でもなく定義もあやふやな事を言ってる人がいるので
申し訳ないですけど使ってる用語を一々チェックする必要が出て来てしまいました
ちなみに上で名前出した岡田英弘先生は中華のスタートを夷狄の雑多な集合体であったとして
民族集団なんてものではなく各地に複数民族がいたという分析をしてたんですけど
あなたの定義する華夏人というのはどのような集団なんですかね >>486
出来てないので各地で文字も発音も語彙も違い
始皇帝が秦のもので統一する必要があったのだが
歴史を学んでない人が居て困るなぁ >>489
そう言われるが部分的な修正でしかない
出土する各地の文献は相違点よりも共通点のほうが遥かに多い
歴史を言葉だけで表面的にとらえている人がいて困るなあ 岡田の話はいつも話半分に聞かないといけない
だいたい戦前から言われていた東大系の漢民族解体論の焼き直し
岡田の論拠の一つになっている橋本万太郎説だが、
挙げられているデータ以外の特徴はむしろ漢語の統一性の論拠にしかならない
基層言語の特徴ははるか昔に失われている >>490
そりゃ周代にある程度は諸侯が集団としてまとまってたからな
それこそ共通点全くなしとか文字で意思疎通するという表意文字の意味全くなくなるね
民族は違うが、かれらの間の国際語として漢字はあったってのを理解できないようだな
「漢人」と「それ以外」が漢王朝の時代ですら普通にまとまって国家を形成してたのに
春秋戦国時代は別民族の諸国が争覇してなかったとなるわけないだろ >>469
百年戦争の途中から、イギリス王は英語をしゃべり始めた
シェークスピアの戯曲にも出てくる名場面
本当と意味で「イギリス」が始まった瞬間だった >>492
いやいや、今でも、山東省あたりの人間は、四川省その他に同族意識など、まず持っていないよ
観念としては「中国」というナショナリズムが普及しているが、あくまでも観念の域に留まっている >>497
異民族だから攻め込むとか同民族ならまとまるという発想が安直すぎる >>480
ニコライ二世は、民衆である「ロシア民族」との共通点は全くないよ >>493
楚もあるだろ
>>492
「民族は違うが、かれらの間の国際語として漢字はあった」
耳タコだが実情に合っているとは思えない珍説
日本人ならそういう発想で想像するのは仕方ないが、
漢字に自言語を当てる(つまり訓読みする)なんて現象は、周辺民族でも数えるしかない
「別の言語」だって漢字の音を借りて表現できるわけだが、実際には楚ぐらいしか記録が残っていない
実際には似たり寄ったりの構造と基礎語彙群の言語が広がっていて、
多少の変異を大げさに異民族だー異民族だーって言ってるだけ
>>495
同族意識の有無なんかで戦争はしないよ
近代の観念に毒されすぎ
>>500
それなら実際に諸侯が漢族主義をかざして中山を滅ぼさなきゃ辻褄合わんぞ >>501
漢字はそういう言語じゃないからな
話し言葉の母語とは別に漢字を使って表記してくための言語で発音は各国で全然違う
この辺は後の北朝や隋唐でも漢字使って表記、母語は別という現象でもよくわかる てか、晋の文公の父で女の色香に迷った献公は渭水周辺にいた驪戎を攻撃してるけど
驪戎って娘差し出して降伏はしたけど別に族滅されたわけでもなく
文公が娘の行動に対して復讐したわけでもなく普通にそのままそこに残ってんだけどなぁ
歴史の表舞台から消えてってる=滅んだ同化した、じゃなくて
単にプレイヤーじゃなくなって記録が残らないだけ
まずこの時点で「同じ民族の中の争い」とかじゃないの春秋戦国時代ファンならわかると思うんだけど >>504
そうだね
春秋戦国時代は同じ民族での争いなんて珍説はアホが言うことだね >>502
中国解体史観は戦前からお腹いっぱい
ちっともそんな資料が出土しないんだよ
>>503
漢字は言語じゃない、それは当たり前
でも視覚情報と音声言語を分けて考えて
母語に合わせて再構築するには
それなりの距離感と社会的にまとまった需要が必要なんだよ
日本の訓読、スイ族の訓読や造字、チュノムの体系のようにね
そこまでするのはうんと辺境の人口の多いまとまった文化圏の話
だいたい諸公国でそんなに文字の需要ってあったの?
公教育なんてない時代、いったいその国の人民の何%がそれを習得しなきゃいけなかったの?
そんな独自の体系を作っては壊しするより、1字に1音で漢語の通語を覚えたほうが簡単じゃね?
で、頻度が低かったりうろ覚えの部分は土着語で間に合わせたり、造字したりする >>507
解体史観じゃなくてそもそも中国なんて中原のごく一部を指す地理的概念
中華帝国の拡大とともに徐々に華中、華南まで中国になったりしてっただけ
そういう用法で使ってるならそれこそ中原とそれ以外の諸民族の話で分かり易いけど
何故か秦の統一範囲丸ごと民族一緒みたいな言い方するから変な話になるんだよなぁ
まあ中原にも様々な夷狄がいて同じ民族同士の争いどころの話ではないんですがw 斉の人口の何割が先住民族だったかはしらんが、
王家をはじめとして貴族連中は西から移ってきたやつらばかりだろ >>509
太公望の一族姜姓は史記を参照すると元々東海の側の出身
それが太公望の直接の祖先が功績あって夏王朝の時代に呂の地を与えられて
姜姓呂氏となったむしろ斉の方から来て植民都市を作ってた
斉への分封はむしろ故郷に錦を飾る里帰りみたいなもんだよ >>506
別民族って言い張ってるだけで一切証拠を出さないのがアホ >>508
民族っていうイデオロギー用語にこだわるからつまらなくなるんだよ
姓が違っても血統が違っても、言語や文化の同化はもっと前から進んでいたってだけ
「お前んとこは夷狄だろw」「お前の方は零落して目も当てられねえわw」って
やりあっていた時代には、コミュニケーションがとれるだけ言語の接近は進んでいた
無言で戦争していた時代とはもう違う
同じ民族だ!いや違ってた!っていう二分法で話してるのが実情に合わない >>503
>発音は各国で全然違う
その言い方が、歴史的音変化で方言分化が進んだ結果の「訛り」と、
日本語の訓読みのような意味中心で音を無視した「当て字」の
どっちなのかもわからないゴマカシ
>漢字使って表記、母語は別という現象
これまた漠然としすぎだが、一時的な現象にすぎない
>>507の
「視覚情報と音声言語を分けて考えて母語に合わせて再構築するには
それなりの距離感と社会的にまとまった需要が必要」
という例に当たる。でもすぐ漢語に同化しちゃったじゃん >>511
証拠は既に晋の献公の例でも出しましたけど
驪戎は中原の民と同じ民族であった、とそういう話?
驪戎って戎の名が示すように遊牧民だよね?
じゃあ中原の民も遊牧民だったかー
これは一本取られたな >>513
隋唐の場合、古代の漢人、漢語とは同化してないのですが
というか当時、話し言葉から二重子音が失われて
むしろ漢字を表記に使った別言語になってるのだが 既に命題である同じ民族の争いと言うのは崩れたからな
まあ秦にしたって西戎と戦って領土広げたし
斉は山東で東夷と戦ってたけど斉の呂氏そのものが東海の出だよな
斉桓公はしょっちゅう各地に出向いて夷狄と戦ってるね
さすがに後漢末くらいになると中原で塞外民族の記録は減るけど関中周辺は西羌以外も色々出没してる
都市国家とその連絡線の隙間だらけの統治でやってるとそりゃ入り込むよ
春秋戦国の世は都市間での戦争もあるからなおさらだな まあ基本は華夏人同士の覇権争いに
ちょこちょこ周辺の異民族が絡んでくる構図だけどな 斉は元々東夷
楚は南蛮に周人が乗り込んで支配したけど後に
蛮夷自称
春秋ってこの二国の争いが重要なのに不思議なことおっしゃるなあ 呉は始祖神話こそ中原出身だけどその中でも始祖が刺青入れて現地に同化してたりして
普通に中原と違う流れの民族集団による国だと思うわ
春秋末期に唐突に中原の政局に首突っ込むけど
ちょこちょこ絡むどころかガッツリ絡んでるよね でも結局は中原のバリエーションだよね
言語も同じだし 意味不明杉
越語の解説が後漢の頃には必要になってるのだが 鉄道や飛行機はもちろん、騎馬すら無かった時代に、あんな広い領域を徒歩でどうやって単一民族を形成するんだよ(笑)
テレビやインターネットはもちろん、新聞だって無いんだぞ。
たまには、先入観を捨てて普通に考えてみようとは思わないのか?
見慣れた近代国家という枠でしか古代を見れない奴に、歴史談義は不向きだな。 左翼の爺さんは、本当にダメだな。
「中国」に対して宗教的な信仰があり、すぐ感情的になる。
歴史の話も、哲学の話も、左翼のアタマがおかしい奴が来ると台無しだ。 北京語と広東語とか名詞も数詞も違うし文法すら微妙に違うのだが
ほぼ同じなら何で広東語放送とかあるんだ?
西寧方言にいたってはSOV型で基本形からしてべつもんだぞ 21世紀の今ですら、中国のテレビ放送は字幕つきが常識
北京語を理解できない人が半分以上 >>524
人口希薄地帯に農耕民が入るとすぐ増えて広がるので
その後時間をかけて言語や文化が多様化したんやで 共産党の大本営発表では2000年時点でも普通話普及率は53%
未だに4億人が普通話を話すことも出来なければ聞いても理解できない
で日常的に普通語使ってる人はもっと少ない
北京とお隣の山西省とか省内でも蘭銀官話とか晋語とか入り乱れていて普通話を介さないとお互い何言ってるか分からない いまだに理解できない人が多いみたいだけど、
後世のヨーロッパと同じで、
王族や貴族は周から送り込まれたり、
互いに婚姻を重ねることで先住民族とは解離した同一民族と化してったってわけ
楚だって代々中原などの王族から后を迎えたわけじゃん >>530
後世のヨーロッパと同じ?
えーと後世のどの時代のどの国か具体例出せます? >>532
逆に聞くけど西ヨーロッパの王族で自国の庶民から妻を迎えた例ってあるの?
カペー朝やプランタジネット朝の歴代国王も外国から妃迎えることはあっても
自国の庶民と結婚したのは一人もいないよね 後期ロマノフ朝はロシア民族じゃないって認めなさいよ >>533
逆に聞かないで先に答えて
貴方の言うヨーロッパとはどの時代のどの国の例ですか?
春秋戦国時代と比較して「同じ」と言えるだけの例があるってことでしょ?
具体例もなく「同じ」と言ってるとただの思い込みですよ >>535
ロシア要素が一切ないロマノフ朝と、
全員秦外の人材で固めてる秦 >>536
秦や楚では、中原から来た人材が活躍していた
ここにも文化水準の差が表れている これだから、5chで東洋史の話は進まない
「お前は、中国四千年の歴史にケチつける気アルカ?」みたいなバカが出てきて、変なナショナリズム論争になってしまう(笑) >>486
sれは言い過ぎだ復元された上古漢語を見ると語末の子音の-sが付くか付かないかで動詞と名詞が切り替わる字はあるぞ 春秋時代に入ると、以前は力のあった周はとても弱体化してしまいました。
一方、各地に点在する諸侯たちが力を付けて都市国家を形成し、勢力争いをするようになっていきます。
都市国家の数は200にも達したと言われていますが、中でも有力だったのが「春秋十二列国」と呼ばれる国々です。
晋・斉(せい)・楚(そ)・秦・魯(ろ)・宋(そう)・衛(えい)・陳(ちん)・蔡(さい)・曹(そう)・鄭(てい)・燕(えん)の12国がそれに当たります。
後、歴史書「史記(しき)」を編纂した歴史学者・司馬遷(しばせん)は、ここに周と呉(ご)を加えて十二諸侯年表というものを作っています。
また、春秋時代末期には越(えつ)という国も現れました。 >>537
秦王や楚王の母親とかもどうせ中原人やろ >>536
ロシア要素が一切ないとは具体的にどのようなところですか?
貴方の言うロシア要素の定義がわかりません
「ロシア要素」が何でそれがロマノフ朝でどのように失われたかの説明が必要な話ですよ? 口論に負けたくないという熱い意思は伝わって来るけどさすがにウザくなった来たな
負けず嫌いアスペはほんと他人の話聞かないよな
みんなこいつ無視しようぜ 本当にロシア要素って何だろうな
ドイツ系の皇帝が出るとロシア要素が失われるのかな?
何をロシア要素と認定して、それが失われたとか失われないとか謎の認定してる意味わからん ヨーロッパ王家民族(笑)
こんなこと言ってる奴こそ無視した方がいいよな >>544
ロシア人の血はほとんどひいておらず、
フランス語を喋りフランス料理を食い、ヨーロッパ風の服を着て、
まわりをドイツ人の側近で固める。
見事なくらいにロシア民族の要素が無いよ。 いつまでロシアの話してんの?
スレタイ読めない人達 >>546
「ロシア人の血はほとんど引いてない」のは誰の代からかと言ったら
リューリク1世の時代から「ロシア人の血」なんて引いてないのだがな
あいつスウェーデン出身だし
もっと言うと歴代大公はモンゴル系と何度も通婚してるよね
王侯なんてそれぞれ政治的意図で通婚するから血統だけで見たら
モザイクなるのなんて当たり前だと思うけど、これが何を説明するものだと主張してるの? >>548
それは説明する人じゃなくて
説明を求めた人に言うべき ヨーロッパ王族と言う謎概念まで作った上でロシアを例に出してるから
どこがそうだと思ったの?という話を聞いてるだけなんだけどね
ロシアの大公や皇帝なんて常に血筋だけで言ったらあっちこっちと通婚してるから
「ロシア要素」なんてものを血筋に求めるのって変な話だし
ロシアがそうだったからって中原にひしめいてた諸民族の存在を無かった事にはならんよ ロシア宮廷がフランス語話してたってのは
ピョートル1世以来の西洋化政策の一環で無理やり社交界でそうしてたんであって
貴族も母語はロシア語だし宗教はロシア正教なんだよなあ
特殊な例を持ち出して一般化しようとしてるだけの詭弁だわ >>552
フランス語が当時の西欧の国際語でやりとりする政治上の都合とか
宮廷に出入りする人に対する後進国イメージ払拭のためとか
諸々の理由があってあえて使ってたって例を出すから物知らん奴だなと思ってたんだが
誤魔化そうとしてたの言われるまで気付かなかった
そっか、そういう奴だったんだな >>515
漢語の大変革は漢語内部で説明可能
安易なピジン説は何も立証されていない
>>517
誰もそんなこと言っていない
必死に言語も違う異民族同士の争いだったって言い張っていたのが引っ込んだだけ
言語の同化はむしろもっと前に進んでいた >>526
西寧はそんなに簡単じゃない
中央部の漢族と、郊外の回族とで微妙に違う
回族と漢語モノリンガル化したモンゴル系チュルク系チベット系少数民族でも違う
単純に「西寧方言」なんて言ったらSVO主体で、SOVは対比文にしか出てこないという、
なんだ北京と一緒じゃんてなことになる >>526
北京語と広東語では文法は「微妙に」しか違わない
方言じゃなく言語だって言い切るにはベトナム語くらい違わないとどだい無理
広東語にだって「将」を使ったSOV構文ぐらいあるぞ?
名詞は字面上の違いで、大半が漢字で書けるし同じ漢語内の新旧の語彙の交替の結果に過ぎない
そりゃ「舐める」なんていう基礎語彙でさえ漢字で書けないものもあるけど、あくまで少数
少数すぎて借用でも説明がついてしまいそうだ
数詞に至っては「訛り」の違いでしかなく、同じ漢語内の歴史音韻変化で説明がつく
昔の橋本説よりごまかしだらけで言い方が雑になってるぞ? >>552
無理矢理ロシア民族じゃなくなてったってことな >>557
日本の文明開化も別民族への進化とでも言いそうだな
このアホ さて、同民族くんは放置して真っ当に春秋戦国の話をしませう
俺は斉桓公って過少評価気味だと思うんだよな
いくらか管仲が富国強兵してくれたからって各地の夷狄と戦い楚とも戦い
各地で連戦して勝ち続けるのって尋常なことじゃないと思う
春秋の戦争って君主本人が指揮するからなおさら 得れば国が栄え、失えば国が衰退する
とまで言われる名臣の例え話にされるレベルだしなあ >>560
そりゃ俺が言ってるのは戦争指導の手腕であって
内政とか後継者選びとかそういうものじゃないし
あと管仲と桓公の没年って2年しか違わない上に
その時期の桓公は別に戦争はしていないから
管仲死後にダメになったかどうかはわからないよね 後継者に葬られもせず腐敗するまで放置されたという時点で徳なき君主という扱い それ誤解されて伝わっただけで実はもがりだったりしないかな? 礼記で孔子思が殯は三日、埋葬まで三ヶ月安置、服喪三年と言ってる
これと比較すると67日というのは単に桓公をくさすだけの文章かもしれない
比較すると何かおかしさを感じる話だね
あとは儒教は棺に納めて三ヶ月安置してから埋葬だけど三ヶ月安置したって遺体は虫沸く
桓公の場合は寝床に放置されて寝室からも虫が出た、という話だけど
斉の習俗が儒教のルールと違うだけの可能性もあるな >>566
おかしくはないよ
司馬遷だって不偏じゃないから彼の史観も疑うべきところはいくらでもあるわけで
特筆された=それだけが異常だったって短絡は避けて
色々な方向性を模索することが大事 司馬遷の史観だと管仲が名臣で桓公はダメ君主だから
管仲を得るまで苦労したので今楽をしているなんて話をするけど
上にもあるように桓公って40年程の在位中、連戦連勝でちっともダメ君主ではないんだよね
そう考えると司馬遷は桓公を悪い印象を与えるように書いてるって感がある >>567
他に照らし合わせられる証拠なければただの憶測な
そもそも司馬遷が桓公をくさす動機は? >>569
だから礼記通りで言えば埋葬までは3ヶ月遺体安置
桓公は67日置かれてるだけだからそこまでおかしな話じゃない
司馬遷が桓公を腐す動機は不明
ただ司馬遷は桓公にセリフとして管仲持ち上げを言わせてるように
管仲を持ち上げる方向で編纂してる、逆に桓公がワリ食ってる、という形 項羽本紀も演劇みたいなこと堂々と書いてあるし
司馬遷って自分で面白いと思うストーリーを歴史として扱ってる時たまにあるな >>570
>埋葬までは3ヶ月遺体安置
寝所に放置するんじゃなくて棺に入れての話だろ 桓公下げは韓非子もやってるし
普通に晩節を汚した君主として有名だっただけでは?
>国政の要であった管仲が亡くなると、国政を顧みなくなり放蕩に明け暮れるようになった。
>管仲が亡くなる時に引き立ててはいけないと言った易牙・豎刁・公子開方の、まとめて「三貴」と呼ばれた佞臣らを起用し、国政は乱れた。
>桓公が病床に就くと、桓公は三貴によって病室に閉じ込められ、そのまま息を引き取った(食料すら与えられず餓死したといわれる)。
>その後の公子達の後継者争いの中でその遺体は放置され、太子昭が孝公として位につくまで67日の間、納棺・埋葬される事もなく、そのため遂には扉からウジが這い出してきたという。 >>572
だから斉の葬儀の習俗に関する憶測が出るって話をしてるんだけどねー
しかも儒教普及前だから儒教で提唱する埋葬方法が絶対、というわけでもないし
魯と斉は近いけど同じ国じゃないからな
斉を与えられた太公望は現地の風俗そのままに法律だけちょっと制定して統治に入ったけど
魯を与えられた伯禽は様々なものを周の風俗に変えたので統治が不安定化したという逸話も残ってるし >>575
桓公の説話以外の証拠がないと弱すぎるね 晩節を汚したというのは戦国期にはもう固まってた論調だから
今から引っ繰り返そうとするには新資料必要だろうし、多分本当に老醜晒したんだろうけど
ただ、桓公の連戦連勝を実際に戦争指導やってる桓公ではなく
バックアップ体制作ってる管仲のみの評価としてる辺りがおかしな話
言われて思い出したけど韓非子もそう言えば桓公扱き下ろしてるから
この辺が司馬遷の史観に影響与えてるっぽいな
韓非子は君主かくあるべし論を提唱する政治思想書だから
自説に合わせてどこまで歴史的事実を事実通りに書いてるかよくわからんし困ったもんだ 斉の桓公と司馬遷では、足利義政と我々くらい時代が離れているからな
北方謙三のバサラ大名列伝を、室町時代の正史にするようなものだ
話半分に受け止めるしかない 春秋戦国時代の中国は、いまとは違って森林に覆われていた
乗馬はまだ未発達だった
秦の始皇帝が車軌を統一するまでは、馬車で他国に乗り入れるのも困難だった
人口も、推定2000万人程度と過疎だった
紙はまだ無く、秦の始皇帝が字体を統一するまでは文字も各国でバラバラだった
統一するまで何百年もかかったのは、当然と言わなければならない >>559
で、斉と魯が言葉も通じない異民族同士だって話はどこ行った?
さっさと証拠を出せばいいのに 妄想語って否定されるたびに左翼がどうのって言ってるだけの頭悪い奴が騒ぐだけのスレ 桓公って死後ならいいじゃんと思ったけど
小説だと餓死させられたことになっていたりするんだよな
ただ、三貴は一度追放したら仕事が回らなくなって食事がまずくなったとか
能力的には三人は優秀だったっぽい
ただ、自分の子すら愛せない、自分の国さえ愛せない、自分で去勢した奴等だから カンチュウの後継者のシュウホウもすぐ死んじゃって
ホウシュクに任せたら死んじゃって人がいなかったんだよなあ 先に死んだから管仲が持ちあげられてる感じはある
逆だったら、名君が管仲を活かしていたのだとか語られたんじゃねーかな
結局どっちも後継者作りには失敗していたんだろう >>585
いやいや
遺訓に背いて佞臣を登用とか暗君行動の代表格だろw >>580
明代ですらこの有様なのに春秋時代に統一的な言語とかあるわけないんだが
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/3568/1/kana-10-17-0007.pdf
明史にも 「地方官僚はみな未熟であ ったため、朝廷が任命した官吏と、言語が通じず、訓戒しがたい。」
( 《二十五史》「明史」巻三百十 二 ・列伝第 二百 四川土司二 "八六五五)
という記述があるように、地方行政府においては官吏同士で出身地により言語が通じないという状態だった。 >>556
ほんとよくこんなデタラメかけるよな
修飾辞が被修飾辞の後ろに付く単語が多い
数詞を伴わない量詞によって名詞を限定する
二重目的語の順序が北京語は間接目的語、直接目的語なのに対して広東語はその逆なのはなぜなのか是非説明してくれよ
これって明らかにもとはタイ・カダイ語族だったのが漢化したとしか思えないんだが
漢族も漢語も元は一つとか鉄血社区の糞青ですら
そんな極端な単一民族論ぶちかましてる奴見たことねーよ >>587
統一的な言語の有無じゃなくて系統関係の有無の話だと思いますけど >>588
それは後世の北方民族の流入による影響
妄想も程ほどにな 文法は後から影響を受けて、似てくるもんなんだよ
20世紀以降の韓国・朝鮮語の文法が、日本語とほぼ同じなのがいい例
でも、似てるのは文法だけ
身近な日常語ほど、大きく語彙が異なる そもそも、同じ省の中でさえ、言語統一なんかできてねえから
ましてや、中国大陸全土など論外 広東語って介音が存在しないんだよね
逆に母音の長音と単音と促音は広東語にあるけど北京語にはない
音韻からして別モノ むしろ文法の方が変わらなくて語彙の方がすぐに置き換わるんだよなあ
日本語だって文法構造はほぼ変わってないけど語彙は現在と全く異なる
これは言語学の常識 元は同じなら何故文法で異なる部分があるのか是非説明して貰わないとな
韓国語と日本語とか分かれたのは5000年前とか言われてるが未だに文法はほぼ一緒だぞ >>596
んなこたあない
大昔の言語は、たいした文法など発達していなかった >>598
大昔の印欧祖語なんか英語より遥かに屈折してるんだが? >>597
だから朝鮮併合の時に文法が近づいたんだって 日帝の文化侵略は文法にまで及んだのか
こりゃ永遠に謝罪するのも仕方ないな >>601
なら満州語やモンゴル語やブリヤート語もほぼ似たような語順はどう説明するの?
日本語も漢語由来の語彙が和語凌ぐ数になってるけど文法は漢語の影響は微塵もないよな
外部から影響受けて語彙が変化することはよくあるけど文法そのものが変化するってまずないんだよ ペルシャ語の日常語の6割以上がアラビア語由来というが文法そのものは変わりない 中世にフランス語の影響である程度は文法がちょっとだけ変わった英語という例があるように
まずない、という程簡単な話ではない
ただ語彙程の甚大な影響ではない >>603
俺思うんだけど朝鮮語って勉強すればするほど文法でも日本語と似てないとこが目に付く様になってくるわ
語順すらも朝鮮語は基本的に前置否定で完全には同じとは言い難い
ましてやもっと離れたアルタイ諸語なんてどんだけ違うのかって思う
同じSOVの膠着語でも助詞の使い方、母音調和、形容詞の挙動、助数詞の有無など日本から離れれば離れる程明らかに似てなくなる 相変わらず、極論が多いな
日本の朝鮮総督府による言語近代化政策により、日本語をモデルとした朝鮮語の整備が行われたのは紛れもない事実
ハングル文字も、それによって普及した
なんで、この話がメインになってくるんだよ(笑) 春秋戦国時代の中国で共通語が普及してたとか、んなわけねえだろ(笑)
たまには、古代の世界ってものを普通に考えてみようとは思わないのか?
テレビやインターネットどころか、新聞も雑誌も、学校の教科書もなにもない。
紙はまだ発明されていない。
あの広い大陸を基本的に徒歩で移動。
高貴な身分の人には馬車があったが、車軌が異なるので他国への乗り入れは困難。
運河でどこにでも行けるようになるのは、まだ遥かな未来の話。
地図も入手困難。
いまほど砂漠化してなくて全土が森林に覆われてたし、洪水が多くて地形がしょっちゅう変わる。
長江下流は広大な湿原であり、開発が進んでいない。
これで、どうやって単一民族を形成するというのか?
21世紀の現代ですら、中国共産党があれだけ必死で共通語を広めても、まだ字幕なしでテレビ放送できない。
中国全土どころか、ひとつの省のなかですら、言語統一などできていない。
ここ2,30年で急速に変わってきたが、それでもまだその状態だ。 秦・晋・斉・楚その他は、ドイツやフランス・ロシアなどと同じで、お互いに外国そのものだ。
何百年も、統一などあり得ない状況が続いた。
秦の始皇帝が奇跡的に統一を成し遂げたが、始皇帝の死後はただちに崩壊し、斉だの魏だの楚だのが、当たり前のように復活した。 ヨーロッパの場合は、地形が統一にあまりにも不向きだった。
イギリスは島国だし、イタリアとスペインは半島で、半島の付け根は険しい山脈で仕切られている。
ただし、ドイツとフランスの境界は区切りにくい。
一応、ライン川という自然国境はあったが、ここの沿岸は欧州でも最良の地であり、争奪戦は避けられなかった。 日本だって、薩摩の大久保利通には通訳が必要だった。
大昔の世の中など、そんなもんだ。
歴史書には、その辺りの事情が省略されてるだけ。
中国共産党の政治宣伝に骨まで毒されてる奴とは、マトモな歴史の話などできない。 今でこそ、中国の心臓部とも言える長江下流地域だが、春秋戦国時代においては開発が進んでいなかった。
遥かな後の時代、三國志の頃になっても、「天下の3分の2は魏」と言われるほど、北部の国力が圧倒的だった。
しかし、その頃から、江南の開発が急速に進みだす。 >>614
漢字ハングル混じり文が、日本語の漢字カナ混じり文とあまりにも似ているため、朴正熙政権は漢字を廃止してハングル表記に統一した
しかし、そもそもハングル文字を普及させたのも、日本の朝鮮総督府による言語近代化政策の一環 車軌が異なるので他国への乗り入れ困難ってなんだ?変な事言ってるなあ
すれ違いもできないほど狭い道なのか?そもそも道が馬車を基準に作られるのか?そういう状態は「車軌が異なる」からではなく「街道が整備されていない」というだけなのではないか? 何が言いたいかというと、近代国家の政府による共通語普及政策の成果を、古代社会に当てはめるのは無理がありすぎるということ >>616
>「街道が整備されていない」
まあ、そうだな
そういうことになる 解決済の質問
お気に入り知恵コレ
軌間についてお伺いします。
中国古代、秦の時代に車軌の統一をしたとありますが、具体的な長さはどのくらいだったのでしょうか?
また、その期間がヨーロッパの車軌統一に影響を及ぼしたようなことはありますか? ベストアンサーに選ばれた回答
始皇帝が定めた車軌というか車軸の長さは「6尺」だったようです。
これは車輪の幅を規格化する事で、轍も統一され交通の円滑化をも図ったという事になると思います。
秦代の一尺は現在の「約23cm」でしたので、車軸の長さは約138cmで統一され車輪の厚さも含めた車軌の幅は約150cmくらいだったようです。
特に西欧の事情との関連は無いと思いますが、これも古代の中国とヨーロッパ諸国の間の「文化の差」であったかもしれませんね。 「秦の始皇帝が、各国でバラバラだった車軌を統一した」というのは有名な話だけど、
これは確かに、「街道整備政策の一環」と見るべきでしょうな
決定的な要因とまでは言えないだろう >>615
君いろんなスレでデタラメ書いてて恥ずかしくない? 当時の、道路には轍(わだち)というものがあって、要するに馬車が通った後にできる車輪跡ですが、
これが溝になっていて、そこに車輪を落として、馬車はスピードを出しても安全に走ることができたのです。
今で言えば、地域ごとに電車のレールの幅が違って、他の地域の電車の路線と合流できなかったのを、
車軸を統一=轍が統一することで、レールの規格が統一され、どの路線にも全部の電車が乗り入れできるようになるようなもんです。 >>622
いや、これはまさに史実だよ
信じたくない気持ちは分かるが >>624
まとめサイトにしかソースがないものを史実と言い張るのは恥ずかしいぞ? 馬車にとって、車輪の轍は重要だ
秦の始皇帝の2000年後、近代のイギリスでも車軌を統一した
これにより、国内の高速移動が可能になった
道路の溝はやがて鉄のレールになり、これが鉄道へとつながった 車輪に合った道路の溝がなくても、馬車で移動することはできる
しかし、溝があれば、格段に速度が上がる 少なくとも、近代のイギリスでは、車軌の統一から道路の溝へ、それが鉄道へという流れになった
まあ、古代の中国で、実際にどれくらいの影響があったかは分からないが 春秋戦国時代の各国では、他国の戦車の移動を遅らせるため、わざと車軌を変えていた
文字の統一と並んで「同文同軌」の2大改革と言われるほど、これは秦の始皇帝の偉業とされている それだけ言語が違うなら他国への亡命や諸子百家の遊説にも支障きたしそうだけど、楚呉越はともかくあんまり訛りとか通訳とか出てこないよね
亡命した公子貴族が発音や風俗でバレて見つかったとかのエピソードも無いし 春秋戦国時代の士大夫階級は詩経で共通語である雅言を学んでいたからな
イブン・バットゥータの大旅行記を見ると現地の人々と通訳なしで普通に会話してるが
これはコーランによってフスハーがイスラム圏の共通語として機能していたためでそれとよく似ている >>632
詩経ってどれだけ早くとも孔子が編纂するまでは存在しないから
共通語の普及は戦国時代から、というのが君の説でよろしいか? >>630
孟 子」に、「南蛮人は鳥の舌を持つ人」「楚語と華夏語は同属だが、違いは大きい」などの文章が登場しているとのこと。
「左伝」には、「楚人は、 「乳」を「穀」と言い、「虎」を「於菟」という。
「穀於菟」と言うことはできるが、「於菟穀」と言うことはできない」とあり、楚語と雅言の違 いは認識されていたと考えられる。
更に、「荀子」には、「楚は楚、越は越、夏は夏」との記載がある為、「呉越」と「楚」は別の言語習俗だと認 識されていたと推測される。
「孟子」の学生「咸蒙丘」が「齊東野人の語」を理解できたとあり、東齊と齊で差があったことが認められ、
「呂氏春 秋」では、呉と齊では理解が難しいとあることから、呉と齊の間にも大きな言語上の差異があったことがわかる。
更には、「戦国策・秦策」に登場 している話では、中原諸国間でも、既に意味の異なる言葉があったとみなすことができる挿話がある。
曰く、鄭人は、加工していない玉を「璞」と いい、周人は、加工していない鼠の肉を朴といい、同じ発音だったらしく、鄭人が璞を注文すると、周人が差し出してきたものは鼠の肉だった、と いう内容とのこと。
このように各文献に散らばっている言語の疎通に関する証言と、爾雅に記載のある情報を組み合わせることで、東周代の方言区域を概ね描くことが できるとのことである。
参 考
- 「周秦漢晋方言研究史」 華学誠 著 復旦大学出版社 2007年
- 「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究」 李恕豪著 巴蜀書社(四川師範大学文学院学術叢書) 2003年
関連記事 中原の先進国、鄭や宋あたりの言語が雅語としてリスペクトされ、各国の上流階級に広がったと見られている。
それでも、意志疎通が困難なケースはしばしばあったと見られる。
秦の始皇帝が文字を統一するまでは、筆談すら困難だった。 近代ヨーロッパではフランス語、古代の中東でいえばアラム語が標準語とされていた。
でも、あくまでも標準語であって、各国の国民がそれで生活していたわけではない。 古代のこととはいえ、国際社会そのものだ。
いろんな面で、近代ヨーロッパと似ている。 >>633
子牛が編纂したとされる詩経と本来の詩は別物なんだが >>638
詩と詩経は別物だね
でも詩経というもので皆が覚えたということは孔子以降でなければおかしいよね >>640
632 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 18:32:27.62 0
春秋戦国時代の士大夫階級は詩経で共通語である雅言を学んでいたからな
イブン・バットゥータの大旅行記を見ると現地の人々と通訳なしで普通に会話してるが
これはコーランによってフスハーがイスラム圏の共通語として機能していたためでそれとよく似ている
>>632の主張は漢代ではない模様 異民族くんは偉そうに自説を開陳する前にきちんと論証の仕方を学んだほうがいいんでね? 鼠の肉を食べていたのか
宋は古臭くて不人気だと思ったけどな
オリエントではアッカド語がエジプトとすら国際公用語だったらしい いくら詩経の成立を云々したところで収録されてる周詩はそれ以前からあるし
各国で言葉が通じませんでしたって記録がこれだけ残ってる時点で元は単一言語でしたとかいくら強弁しても説得力ないだろうに
もう諦めろよ >>644
鹿児島弁と津軽弁も通じないから元は単一言語じゃないんだよな
日本人って多民族国家なんだよな >>644
いやだから単に詩経で言葉を「春秋時代」に覚えたって話がおかしいってこと言ってるんだけど こいつ見えない敵と戦ってる系だからアブないよ
こいつの文章のおかしい部分に反論しただけで何故か左翼の爺さんということにされるw ま、詩経で雅言が広がった、という事を根拠にした共通語あった説は見事に消え去ったから
多少間違われて文句言われるくらいはどうってことないさ 三国時代頃まではまだ白族の祖先と漢人とで言葉が通じる位近かったんだな 「同じ漢字を使っているから、筆談で意志疎通できただろう」という人が多いが、
それは秦の始皇帝が文字を統一してから後の話
実際には、春秋戦国時代には、筆談すら困難だっただろうと推測される 共通語がないなら各国を渡り歩く食客がなりたないから必然的にその存在は推定される >>655
いや、お前を左翼あつかいしてるのは別の人 >>653
そりゃ、楽に意志疎通できるなら、わざわざ文字を統一するまでもないだろ 中国のことでムキになるのは、右翼か左翼のどっちかだろ
普通の人は、そこまで思い入れがない >>656
そりゃ共通語はあっただろうが、いまの日本人や中国人にとっての英語みたいなもんだろ
できる人はいるけど、少ないし、怪しい 塩をはじめとする、産地が限られた生活必需品
全国的な商業ネットワークが必要とされていたのは、古代でも変わらない
テレビもインターネットもない情報不足の時代だけど、それでもなんとかしてたのが古代人の凄さ しかし、字体が違うといっても、漢字であることに変わりはない
周囲の異民族はともかく、中原を中心とする内中国の国際社会には、共通する文化的な基盤はあった その点では、古代ギリシャの都市国家群にも似ていた
アテネもスパルタも、お互いに外国人であり同族意識は無かったが、それでも、広い意味でギリシャ人であるという自覚はあり、周囲の異民族に対しては選民意識を持っていた 文字は違うといってもよく使う文字は似ていたらしいし DNA鑑定からはまるきり異民族という結果は推測できないな 春秋戦国時代の各国の人々が、お互いに「外国人」という意識を持っていたのは間違いない
ただし、周囲の異人種とは異なる、漢字文化圏という認識はあっただろう >>667
そりゃそうだろ
国という文字自体が都市国家を表している
隣の都市ですら外国 そもそもその漢字というものが他民族との交易のために生まれた
商業文化を共有する人間が使う取引用のツールだからなぁ 生まれた、じゃないな
発展した、だな
漢字の原型は漢字文化が発展した黄河流域じゃなくて
長江の方にあるのがわかって来たし 韓国では、「漢字は遼河の流域が発祥地」ということになってるけどな
そして、その遼河の古代人が半島に南下して、朝鮮人になったという話だ 楚も晋も、ある時期までは自他ともに認める偏狭の化外国だったけどな
それを恥じるでもなく、むしろ誇りにしていた節すらある
斉は華北平原にあるおかげで、かろうじて「中華」に入れてもらってたが、
当時の山東半島の住人はレッキとした異民族で、言葉が通じなかった
宮城谷昌光の小説「晏子」は、前半は斉の将軍・晏弱による山東半島征服のストーリー
春秋の覇者といわれた斉だが、お膝元とも言える山東半島を征服するのには何百年もかかり、天才将軍の登場を必要とした >>673
お前は、何と戦ってるんだ?
変な奴だな 同じギリシア語の各種方言のあるギリシア都市国家諸国の場合は
ドーリス人、アイオリオス人、イオニア人という区別もあったし
方言もそれに沿う形である程度民族の差になってたからなぁ >>672
ネトウヨが大阪民国とか沖縄土人とか言ってるようなもんだな 昔は国語の教科書でオナジミだった「日本人論」
そこで挙げられる「日本人の特徴」は、どうも大阪人には当てはまらないものばかりだった 古代中国は日本を特別大事に扱った
古代、天朝は華夏、中原、上国、自居を並べ、中華とその外を明確に区別していた。
蛮族は「獣」、「虫」などの言葉で修飾したり、「狄」、「蛮」、「戒」などと呼んだ。
その中で日本だけが「倭」と呼ばれ、「人」の字をあてがわれた。
超大国中国に人として扱われていた日本人は当時とても嬉しかっただろう。 この名は三国時代の魏国の皇帝曹操が、当時日本の君主であった卑弥呼を親魏倭王と呼んだ事に由来する。
「魏」の右側は「鬼」で、「魂魄」を意味する。
人偏を加えれば「友人」を意味する。
それから親魏倭王が所在する国を倭国と呼ぶようになり、倭国名が使われるようになってかなりの期間が経過し、中国が唐朝の頃に倭国は対外的な国号を日本に変えた。 「魏」と「倭」は、よく似た国名だ
魏が鬼で、倭が人というのが違い
当時の中華における異民族の呼称としては破格の美称であり、明らかに別格あつかい 【春秋時代:各諸侯の爵位】
公・・・宋・虞・虢
侯・・・魯・斉・晋・陳・衛・蔡など
伯・・・鄭・秦・燕・曹など
子・・・楚・呉・越など
男・・・許など >>684
こうして見ると、楚・呉・越の地位の低さが目立つ。
やはり、この3国は「南蛮」だった。
虢は、春秋時代の初期には絶大な存在感のある大国だったが、晋に敗れて姿を消した。 『書経』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。
ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべて公と自称・呼称されるのが礼とされた
(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいう公は爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。
第二に周礼によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべて子の爵位しか与えられなかったとされる
(これも周王朝内部の建前であり、自国内では公または王を自称した)。
この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している
(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。 元々子は王族を表してたのに随分と価値が下がったものだな 秦の始皇帝が文字を統一したことが、古来から「歴史的偉業」と評価されてることからしても、各国の言語がどれほどバラバラだったかが容易に推測できる
「発音が違っても、同じ漢字なんだから筆談で意志疎通できただろう」というのすら、おそらくは甘い考え 歴史書を見ても、現代でいう山東省に位置する斉国の人ですら、「彼は東斉(山東半島)の人と会話することができた」と、わざわざ特筆されるほど珍しいことだった 同じ中原(河南省)に位置する鄭や宋ですら、かなりの方言の違いがあったことが、古代の歴史書の記述から知られている でも、それは当たり前のことだ
鉄道が敷かれて百年以上がすぎた21世紀の初頭でさえ、
「上海に行って、同じ中国人だから言葉が通じるだろうという考えが甘すぎたのを思い知らされた。
上海人が何を言ってるのか、まったくわからなかった」
という話を、遼寧省出身の人から聞いた
ましてや春秋戦国時代は、乗馬すらやってない
あの広大な大陸を、徒歩で移動していた 秦の始皇帝が車軌を統一してからは、馬車での移動が容易になった
これまた、文字を統一したのと同じく、歴史的偉業と称えられている
この2つの大改革は、「同文同軌」と称されている 車軌が合わなくても、他国に移動することは可能だっただろうが、大変だった
500キロも千キロも移動するってのに、自分の馬車の車輪に合った溝が、道路にあるかないかの違いはあまりにも大きい
春秋戦国時代の各国は、他国の戦車の侵入を防ぐため、わざと車軌を変えていた 「古代から単一民族だった」と信じ込んでいる人は、中国共産党の政治宣伝によるイメージにちょっと染められすぎだな
もうちょっと、自分の頭で考えてみることも必要だろう >>695
いやいや、中国共産党もちゃんと複数の民族が時代と共に段々融合して緩やかに漢民族が形成されていったという姿勢だぞ 人種や民族じゃなく共産主義による統一なんだから当然だよね >>688
それは現代の分布じゃん
五胡など北方民族が入ってきた影響によるもの
春秋時代に差があったという証拠はない >>686
初期の伯の諡が公なのに
侯の諡は侯だったのは何でだろう(晋とか何侯から何公というように変化したり)
魯の三桓とか子を好んで伯は少なかったり 魯だけ漢字四文字の名前というか呼び名が多いのは何だろう
公山不狃とか >>684
男爵の少なさが気になる
許や宿とか驪戒ぐらいか >>682
季は四男ともされているけど
斉で君主の地位を譲った兄が季子だったりするから
世継ぎって意味なのかね
魏の鬼は幽霊の意味
人ってのはひれ伏した姿らしい 別に漢字の意味から国号をつけた訳じゃない
意味から国号をつけだすのは大元から 魏
戦国時代、三国時代、北魏
どれも強大になるのに天下は取れずに衰えた
イメージとしては悪の帝国 >>704
子爵や男爵クラスでは独立して名を残すのが難しいからでは? 子爵は多いんだけど男爵は少ない
有名なのはこの三つだけ 倭の人偏を鬼に変えて左右逆にした
読みも倭と同じだしね
元は倭人の国だったのかもね >>708
3つとも、十分に天下を取ってるだろ
南北統一が「天下取り」の達成条件なら、ハードルが高すぎる >>711
もともと山西省の都市国家名らしいけど、由来まではわからなさそうやな 「魏」の本来の字形は「巍」、「委」と「嵬」の形声文字
のちに「山」が省略されて通用
「魏」「巍(ぎ)」は、”たかい”、”高大な”
「委(い)」は音素の役目で意味は持たない
「嵬(けい)」は”けわしい”、”非常にけわしい”、”鬼のようにけわしい”
なおここに上げた4つの字は現代中国語ではすべて”wei”で、四声で区別される 十何年になるか、福岡で一家惨殺して中国にとんずらした奴の名前が「魏巍」だったな。
あと、「魏巍」という名前の有名人がいるそうだけど、詳しくは知らん。 鬼って幽霊とか死者の意味
留学生で姓と名が同じ人がいた
日本風に言えば薔薇薔薇さんみたいな >>715
ってことはどっかの山の麓にあった都市名だろうか >>718
古代は、黄河の洪水を治められなかったため、都市国家はたいてい山の麓にあった 「倭というのは、小人という意味の蔑称だ」、
「いや、背中の曲がった老人という意味だ」
というような説を唱える人がよくいるけど、それは「矮」という字に似てるから。
だが、漢字というのは、意味と音声からできている。
「委」のほうは音声であり、「人」が意味であると考えるのが自然だろう。
もちろん、それは「魏」にも言える。 >>715
単語家族は似た音だけでも1つや2つじゃないからよく調べることだ
>>721
「右文説」はもう少し複雑だから調べとくといい
図書館で『漢字語源辞典』を見るのがおすすめ
「委」というヒントを得てもそれをいきなり「人」と特定せずに
共通の何かの「状態」を暗示する言葉と考えたほうがいい 東の異民族を敵対的に見れば夷
友好的に見れば委って事じゃないの? 倭人を「倭」と認定した漢代に成立した説文解字を引くと
「順皃」とあるから「順である様」
順を引くと「理也」であって「理」は「治玉」とある
ってことはこれ「見事な勾玉を持ってくる連中」って意味だと思うわ 呂不韋が廃止させるまで続いていた周王家(周君)ではなく、
魯を初めとした武王兄弟の建てた各国でもなく
2代成王の弟の建てた晋(唐)のそれも分家筋が韓魏趙3公に謀反起こされたところが何故春秋戦国の分かれ目扱いになるんですか?
後、七雄の末裔を名乗る人達が1度挙兵してる中、周君の末裔が挙兵したり担がれたりしなかったのは何故?
粛清された可能性もあるとはいえ、記述上は西周君東周君共に「廃止」されただけで一族郎党皆殺しかどうかは不明なんでしょ?
秦の王族も本当に一人残らず項羽が皆殺しに出来て誰一人逃げ切れなかったかもわからないのに秦の末裔が漢の高官に誰もなってないのも不思議 >>20
生きることと騙し合いが同義の中国人が、出自血統だけは偽らなかったとでもいうのか? >>727
出自誤魔化しても良さそうな劉邦がただのゴロツキ上がりという >>728
朱元璋は、釈迦やキリスト並の奇蹟を伴って生まれたが、その後は餓死寸前の乞食坊主になり、盗賊の頭目になって名を挙げた >>726
>秦の王族も本当に一人残らず項羽が皆殺しに出来て誰一人逃げ切れなかったかもわからないのに秦の末裔が漢の高官に誰もなってないのも不思議
嬴氏は子嬰もろとも項羽によって族滅された
咸陽に集住させられていた各国諸侯の一族も同様だと思われる
自信が擁立した義帝すら殺したぐらいだからな >>726
>2代成王の弟の建てた晋(唐)のそれも分家筋が韓魏趙3公に謀反起こされたところが何故春秋戦国の分かれ目扱いになるんですか?
間接的には、孔子の「春秋」がその手前あたりの時代で終わっていること。
直接には、「春秋」の続篇たるを意識して書かれた司馬光の「資治通鑑」がそこから始まってるのが理由。 >>730
よく勘違いする人がいるけど氏と姓は別だぞ
秦はエイ姓で始皇帝の系統は趙氏
特にその後氏を改めたって話はないので子嬰はエイ氏じゃなくて趙氏 >>729
豊臣秀吉は、無位無官の生まれから関白にするのはアレだからと、
ナントカ中納言の係累で正親町天皇の御落胤で近衛前久の猶子でという身分ロンダリングを経て
高位についている。
本人は面倒臭いなあ、尾張中村郷の百姓足軽の生まれなのになーって具合だった。
百姓から大臣なんて、前例もなければ、次に出てくるのは300年後だし。 >>731
韓魏趙は公爵ではなくではなく侯爵
主家の晋が公爵なのに臣下はそれ以下でなくてはならない
ま、そのあと侯爵からいきなり王になったわけだがw >>726
周の滅亡時だと遅いし
東周の時代を前期を春秋、後期を戦国時代としているから
戦国時代の始まりも諸説あって
教科書では三晋が正式に諸侯と認められた時
次に有力なのが事実上諸侯になった時
>>734
晋は侯爵ですよ
三晋が侯爵になった時はもう名目上の臣下ですらなくなった 春秋時代は周の権威が地に落ちた時
戦国時代は周の存在が地面にめり込んで忘れられた時
周が秦の天下統一直前までのこっていたとか東周君と西周君に分裂していたとか知らない人も多い
西周の滅亡時の人口は三万人らしい 秦の一族八百人と官人五千人を殺しているから皆殺しといえるけど
日本に自称子孫はいるしわずかな生き残りはいるでしょうね
ただ北宋の滅亡時に高宗以外二代目の子孫がいなかったらしいけど
初代の子孫は権力がなかったからいたみたいだし
秦も奴隷に産ませた子供とか分家とかで地方にいたのは残っていたかも
ウマイヤ家はアミール・アル・アンダルスになった
アブドアッラフマーン以外は皆殺しになったと言われているけど
他の王朝含めて多少の隠れている生き残りはいるでしょう
また王家の血をわずかでもひいているなら
庶民でも何代か前の祖母が王女とかいうのはいるみたいだし
名門でも分家の分家とかだと日本やフランスでも庶民と変わらなかったりする
家柄だけはいいから庶民よりプライドあるだろうけど >>734
三氏は主家と同じ侯爵になって名目上の君臣関係も失った
ただし、その前から晋君が三氏の所を訪問して頭を下げる有様だった 豊臣秀吉でも織田信長でも皇室皆殺しをやってくれれば良かったのに
織田信長が手紙で官位は息子にと言っているのも
俺だってうざったいからそういう返事を書くよ
前右大臣の肩書きだけでそういう社会でやっていくのに十分だし >>740
むしろ逆だ
その2人が登場する以前の皇室は零落して風前の灯火、門もボロボロだったと言われている
織田信長と正親町天皇は水面下で暗闘していたが、豊臣秀吉が後陽成天皇ミコシとしてかついだおかげで、皇室は最良の時期を迎える 4百年つづいた漢の皇帝の権威は、日本における天皇の権威と変わらなかったであろう
魏の曹丕が譲位を迫ったのは、足利義満が天皇に譲位を迫るのと変わらない
曹丕も、思いきったことをしたものだ 周の王室は、神聖ローマ帝国の皇帝みたいだ
帝国でもなければ、ローマですらない >>741
京浪速堺に居られなくなって落ちのびてる前の足利将軍ですらそれなりの威光があるのに、
その叙任権を持つ朝廷がそれよか劣るということないだろ。
京に上って将軍か大臣かに任官されるのが天下取の上がり条件なんだし。 >>739
晋君が回ったのは六卿だろ。
范、智、中行、韓、魏、趙 (「はんちちゅうこう、かんぎちょう」と覚えてる) >>744
地方の田舎大名から、「書画を揮毫してくれ」というニーズが絶えなかった
都の文化への憧れをバックに、天皇・貴族の権威は続いた 「韓・魏・趙」じゃなくて、「范・智・中行」だった可能性もあるんだな 智氏は荀氏分家として荀氏本家の中行氏と敵対的だった
当時の情勢では両方消える形はあっても両方残る形はないと思うわ 戦国策読むと東周も西周もお互いくだらない争いしてるから滅んでもやむなしだろ >>728
史記にある劉氏関係を全部劉邦以降の後付と考えればすっきりする。
「劉」は爾雅以後の流れの古字書『博雅』で「劉、殺也」と解かれている。
おそらく「戮」と同根の*lieug(eはシュワ)という語形だったのだろう。
職業名であり姓ではなく氏、先祖は首切り役人か屠殺業だろう。
「ころすぞ」という響きのこの氏は卑賤だがむしろ庶民の間なら威嚇的でもあるし、
亭長はこの氏を侠客として大いに活かしたのだろう。
尊い身分でないことが逆に神秘性を与えた。
陳勝の有名な一言で名族崇拝は一度リセットされた。
。 >>750
天皇家は神話時代の支配権確立と直結してるけど、
周は神話の子孫ではあるけど、夏・殷の時代には豪族か領主で、
天下を得たのは殷を放伐した結果だしなー >>751
ようやっとこ耕したり文字書いたり鋳物作っりし始めた原始人にチョロっ毛の生えたレベルの開明度の低い状態だから
なんだか、かわいらしいよね。 >>748
さすがに「中行」っていう国名は無いだろう
中行氏に縁深い都市名などの名がつけられるはず 「范・智・筍・秦・楚・斉・燕」が戦国の七雄か
だいぶイメージ変わるな >>753
周は「所詮三番目の王朝だろ」と言われて侮られるようになっていったんだろうな
朝鮮半島初の統一王朝の新羅も「所詮三つあったうちの一つだろ」みたいな感じで侮られていった 三晋の各国は、それぞれの苗字の地をちゃんと保持できていたのかも気になるな
もともとの領地は相当入り組んでいたと思われる
その後だいぶ交換はしたんだろうが 趙武霊による胡服騎射もなくなるから戦国後期の軍事大国趙が消滅するし
それがなくなると中山国も消滅しないから戦国時代の流れは相当に変わる >>758
夏→商→周と時代が移って易姓革命したものと、
三韓並立していた一つの新羅と、
同じものなんかな?
しかも新羅は、白村江会戦まで日本の属国、その後は唐の属国だし。 >>759
保持できていたのは魏だけだと思う
魏は安邑の南西、黄河の屈曲する近くにあるんで >>755
本家がそれに任命されたことに感激して名乗ったんだからあるかも
中山国もあるし
>>759
韓は鄭しか後期は支配していない
しかも韓非子によれば秦に貢納し労役を提供していて秦の郡県と変わらないとか
>>764
漢、後漢かなと魏の属国化な
南北朝時代は南朝 >>765
王位継承に干渉受けたり、王族や重臣の家族を人質に差し出したり、外交や戦争の指図を受けたり、貢納・納税をを求めらりたりしていないよ。
形式的に漢土の大国を上にたてて小国・後進国たる倭が控えめに応じただけじゃん。
三韓は違うじゃん。王子を人質として抑留して帰した往時を世子とすることを求められてるし、なにかあるとがっつり攻め込まれたりするし、
定期的に品目数量を定めて貢納を命じられて形式には同じ朝貢でも倭が漢土にもっていった挨拶の手土産とは性質の全く違う徴税としての
せいしつのものだし。 >>755
確か晋の兵を3つ(左行、中行、右行)に分けて、
その中行兵を任せられたのが名字の由来だったかと >>762
属国の定義次第だけど、倭に対して大陸国家は干渉出来てないから
自称属国ではあっても属国としての実態は伴ってない
この辺は西方とか北方、南方の「属国」と一緒だね
半島みたいに政治に食い込まれてるガチの属国とは性質が大分異なる >>761
両者とも天皇家みたいに「最初から唯一の存在である」イメージを出せてないんだな >>760
それ以前に、戦国前期の超大国・魏がなくなるのがイタイ >>768
朝貢という形式を取らないと、外交も商売もしないという制度を向こうが取ってるから、それに合わせてるんだな
「周辺の諸国も、皇帝の徳を慕って朝貢してきた」という、国内向けのセレモニーを必要としてるんだから仕方ない
それが中国の王朝との付き合い方であり、実利重視というものだ
それに比べて、新羅が倭に従属していたというのは、軍事力の行使を伴う実質的な支配であり、同列には語れない >>770
智、荀、范からそれ以上の国家が出るかもしれないからどうとも言えない >>769
新羅は新羅の中で王統が3つ交代してんだよな 七雄最弱の韓の遺族が相当な紆余曲折ありとはいえ漢でも高官として残ってたってのも興味深いな >>775
制度的には違うね
実態としてはアメリカに頭を抑え込まれてるから属国的に見える部分も大きいけど
「属国」としての要素で外交を見てくと日本って独自外交かなりやってて
サンフランシスコ平和条約以降割とすぐに外交ではアメリカ裏切ったりしてることもあって
歴史をちゃんと勉強してる人なら「日本は完全にアメリカの属国」という言葉はそう簡単に出るもんではないと思うよ 忠犬の定義は?
単に有利な方を選んでるのは犬で想起されるようなダメな服従っぷりとは違うよね >>779
新羅も唐を裏切って半島統一してるんだから同じじゃね >>782
新羅の場合ずっと唐の年号使い続けて属国アピール一生やってたんだが >>783
いまの日本もアメリカの武器沢山買って属国アピールしてるよね >>787
商売すると属国アピールになるというのは歴史見てない証拠だね
歴史の話をしましょ >>787
いまのアメリカも日本の自動車沢山買ってるけど属国アピールなのかよ まず貴方の考える属国とはどのような状態を指しますか
一般例として〇〇を◇◇していると属国である、という条件を提示して下さい 戦国時代では分かり易く入朝して、臣下の礼を取る、という形の属国化がありましたね
まあそんだけやっても完全な属国ではなく
最終的に攻め込まれて滅んだりしてますけど >>774
殷や天皇家も初期は王統が複数あったという説もあるが、
そうだとしてもその痕跡は消すことができてる >しかも新羅は、白村江会戦まで日本の属国、その後は唐の属国だし。
このレスに発狂してる馬鹿チョンが約一匹 晋や斉の下克上って乗っ取られた側はどういう気持ちでいたんだろう?
何世代もかかっての下克上だから、最後の最後まで自覚は乏しかったかもしれんが >>793
アメリカの属国というワードに発狂してしまったネトウヨ >>795←馬鹿チョンが反応w しかも定番のウヨガー 首都に外国軍が基地を持ってて飛行機のルートも外国に許可が必要とかいう属国
それが日本w 片務条約の意味すら理解できない反日戦士
それが馬鹿チョンw ほとんどの国が一文字名と言うのが不思議
そういう習慣だったというだけか
もっとも、日本の戦国時代だとそれぞれの勢力の国名とかはなかったろうが。 中国は面子にこだわるからおかしなことに
昔は覇者とか属国からの貢物をだったのに
漢とか魏がそれ以上の下賜をするから
異民族が属国にしろさもないと攻め込むぞというおかしなことになっていた ネトウヨってすぐチョンチョン泣けば勝ったと思い込んでしまうから
病気だよね >>794
ずっと前から権力なかったから今の天皇みたいな気持ちじゃね
>>790
ニューヨーク大学の経済学者マイケル・ハドソン博士は
日本がアメリカにしたローマ帝国以来最大級の貢物と評した
国債等で数千億ドルの利益供与だとか
植民地の定義に該当しここまでやった属国はないとか モナコやアンドラはフランスに納税しているから属国なんだよなあ
知ってる?
モナコ居住者はフランス国籍とアメリカ国籍だけは税金払うんだよ >>797
日本に基地を置いてより負担が強いられるのはアメリカのほうだって言われてる >>777
韓氏は晋の六卿で唯一の公族だしね
商君の母国衛を二世皇帝の時まで形式的には滅ぼさなかったり
周を滅ぼしても王族は残したりだから
多少は気にしてるんじゃ 恐らく趙が滅びれば韓も魏も滅び
智が晋を乗っ取ったかと
現実に智氏の領土は秦よりも広かったらしい >>804
印綬制度なんて、もともとは匈奴に敗北した前漢が単于に印章を献上する習わしなのにな 中華最強のカクを滅ぼした晋が三つに分裂した中の最強国趙は
推定人口200~250万だけの長平の戦いで秦に破れ45万の兵を失ったから
もう滅茶苦茶
キングダムではなぜか強いけど
李牧以外では秦に勝ったことはない >>790
定義なんて
ジンバブエでさえ財政破綻していない
日本も戦時国債を返したとなるいい加減なものだよ >>813
日本が負担する思いやり予算の、何倍も超えるアメリカ側の費用負担を計上したんだとさ >>766
そこまでもろに内政干渉してきたのはモンゴルぐらいで宋や明はそんなことしてませんけど
清も李氏朝鮮が明と手を切って従属してきた後はノータッチ >>816
明は李氏朝鮮に美女の献上を命じたんだって >>818
思いやり予算だけで米軍基地設置費用が賄えると思ってんの?笑 >>820
アメリカにお金出してもらえてうらしがる飼い犬のコメントがこちらです笑 >>821
自発的にやってるってことか
ますます情けない属国だ >>816
慕華館で清国皇帝の使者にペコペコしてた朝鮮王 >>822
馬鹿チョンは日本語まだ覚えられないんか笑 >>823
倭ってのが明に美女を献上した具体例を出してみ >>807
アンドラが唯一の国語・公用語を
フランス語でもスペイン語でもなく
スペインでは方言扱いのカタルーニャ語に定めているのは
フランスの思惑とは関係なく
カタルーニャ人に自信を与えている >>827
倭寇は海外の現地人を奴隷にしてたから、支那チョンは倭寇の属国だな >>829 >>832
また具体例を出せませんでしたねえ >>810
そうだな
智氏が勝っていたら、そもそも三晋に分裂することもなく、斉みたいな下克上で終わっただろうな
そしたら、戦国時代も、晋秦斉楚の4大国プラス燕
晋と斉は王朝がチェンジしただけで続く >>829 >>836
チョンさんまた具体例を出せませんでしたねえ 虢(カク)って、いかにも強そうな名前だな
中華最強の国にふさわしい >>835
中国人好みの理想は八方にそれぞれ大国が存在する状態
北から、
晋、燕、斉、呉、楚、蜀、秦、プラス北西にひとつってとこか >>838
日本語できないネトウヨがまたブツブツ言ってる >>829 >>841
チョンさんまた具体例を出せませんでしたねえ >>782
裏切ったの?
唐に従って麗やっつけた御褒美に百済と任那と貰っただけではないの? 今でいう河南省と陝西省にまたがる黄河の流域の国か
秦と魏の間あたり わりと早い時期に晋に滅ぼされて消えたが、ここも春秋の覇者となるにふさわしい国だった >>842
壊れたレコード
これが日本語能力のないネトウヨの現実 >>840
そもそも、秦楚斉晋の4大国が、中央の周王室を囲んでいる状態からして、東南中西北で、五行説の世界だからな
いかにもシナ人好みの体制になっているところが気になる
大昔のことだけに、ホントにこんな状況だったのか、こればっかりは何とも言えん >>803
遠いから、漢も魏も晋も隋も唐もモンゴルも属国にできなかったんでょ?
伝統的にランドパワー勢力の漢土の政権は、地続きで渡海も内海の渤海湾の短距離の朝鮮半島は攻め入って属領にすることが出来ても、
倭・日本に対して、遠方へ渡海して勢力を及ぼすことが叶わなかったから、日本が漢土の国の属国にならなかったし、日本の側も利が乏しく
なるなり冊封体制から離脱もした。
倭・日本はシーパワー傾向が強くあったから、渡海して三韓や耽羅を従えたり、漢土と倭・日本と漢土の間にある今でいう奄美・沖縄方面の
島々が最盛期の隋・唐ではなく倭・日本を頼ってきている。 >>>>829 >>846
チョンさんまた具体例を出せませんでしたねえ
知能と精神に障害あり
これがウヨ連呼の現実 >>804
朝鮮だけは、親分・兄貴分たる漢土の国から思いっきりカツアゲされて貢ぎ続けてきたから、
子分・弟分は貢いで尽くすものだと、思ってるよね。 >>807
日本は、2003年まで、国家承認してなかったよね。
あんたフランスの属国でしょうが、いつ廃藩置県されるん?
ってな感じで、けんもほろろに突き放していてた。 >>827
無いことを証明させるのは、「悪魔の証明」と言われていますよ >>850
だっさいなあ
同じことばかり書き込んで >>829 >>846 >>854
チョンさんまた具体例を出せませんでしたねえ >>847
あれは中華枠じゃないからダメ
中山国というか鮮虞が西に行きゃ良かったのに >>843
元々は新羅が百済・高句麗に攻め立てられて存亡の危機だったので唐に泣き付いて助けを求めたのが始まり
高句麗征伐が上手く行っていない唐はこれを奇貨として百済を滅ぼして高句麗を孤立させようとした
首尾よく百済と高句麗を滅ぼしたんで唐が百済と高句麗の故地に都督府・都護府を置いたら
新羅が遺民を煽ったり圧力を掛けたりして唐の役所を追い出したという経緯 >>831
そりゃカタルーニャ語を話す地域なんだから >>849
海の防衛力は強い
イギリスもそれのおかげで >>857
今の中国人は北方民族の子孫だよ
本物の中国人は絶滅した 縄文人が絶滅して弥生人が今の日本人であるのと同じだな >>857
中華枠でいいよ
傭兵として雇用されてたらしく、信陵君の函谷関攻めの時に
さり気なく参加してたり地味に情勢に絡んでるし >>859
琉球語がもし別の国で公用語になっていたら沖縄人の意識もちょっと違うだろう >>865
中華枠になるには定住と中華文化の受け入れが必要だ >>831
廃藩置県されたくないから、本国編入の難しさをアピール >>862
絶滅はしていないよ
遺伝子はちゃんと残っている でも漢字の発音を説明する本が書かれるぐらい入れ替わったよ >>861
んにゃ、イギリスはデーン人、アングロサクソン人、ノルマン人と、何度も大陸から海を渡ってきた連中に征服されてる 当のイギリス人も、それが自分たちの祖先だと知ってるから、気にしていない ナチスドイツにも、降服する寸前でかろうじて踏みとどまった >>875
あっちは文明を伝えてやっただの兄の国とか下らない事を言い出すキチガイは居ないからな 兄の国を認められないキチガイがいるからアメリカの属国になってしまうんだよね >>877
そうだ
東アジアだって、日本人や中国人はそんなこと気にする人々ではない
そこに異常にこだわる国が1つあるおかげで、論争が絶えなくなっている 韓国の誇る『伝統文化』は、じつは20世紀に日本から入ってきたものがほとんどだ
その強烈なコンプレックスが、彼らを狂わせている 日本の伝統文化って韓国と中国とヨーロッパのパクリだよな >>881
わかった、わかった(笑)
そろそろ本題に戻ろうぜ >>882
このスレの本題はアメリカの属国である日本の歴史を語ることだぞ >>871
韻書が書かれたのは方言の差を超えて美しい詩を作るため。
別に異民族に皆殺しにされなくても方言は日々生まれる。
音への関心を体系的に図式化する技術自体は
表音文字をもつインドの音韻学との接触によって進歩したが、
インド人が漢人を大量殺戮したわけでもない 日本が韓国に伝えたものの大半は文化というより文明
日本は文明を伝えたストローの役割しかなかった >>886
いやいや、剣道・柔道・空手・相撲・海苔巻き・焼酎・日本式家屋・・・
一見、昔からありそうに思えるものの多くが、20世紀に日本から入ってきたもの 「教えてあげた」と韓国人が言い張る物は、倭国に献上して軍隊に守ってもらう為に中国に懇願して恵んでもらったものwww
『梁書』百済伝
中大通六年、大同七年、累遣使獻方物;并請涅盤等經義、毛詩博士、并工匠、畫師等、敕並給之。
「中大通六年(534年)、大同七年(541年)、重ねて遣使が方物を献上し、併せて涅盤などの経義、毛詩博士、併せて工匠、画師などを請い求め、勅許によりすべてを供与した。」 燕も呉も、春秋戦国時代には辺境の地
中華にかろうじて入れるかどうかといったところ
ましてや、広東省など論外
今の中国は沿海部が圧倒的に発展しており、当時とは別の国 古代には治水が進んでおらず、黄河の下流は洪水でしょっちゅう地形が変わり、長江の下流は広大な湿地帯で、どちらも居住に適していなかった
一方、内陸部はいまほど砂漠化しておらず、農耕に適していた >>892
これ見てシコってろ
米テキサスで韓国人売春婦を検挙@2016.01 http://i.imgur.com/iBZED7M.jpg 中国の南の呉が今の中華人民共和国の北の方の上海だよ どうでもいいけど漢文の和訳で国君を国王と訳すのはおかしい
中山国とか王を名乗ったから滅ぼされたのに >>883
春秋戦国時代の頃の日本は縄文時代の後期から弥生時代にかけて チャイナからなかなか物事伝わらないよね
日本は青銅器時代無かったし、白菜が伝来してくるの明治30年頃だし ポルトガルやオランダやイギリスの文物はどんどん伝わってきてんじゃん
付き合うならやはり海洋国だよな 伝わっているけど一部だよ
実際に行ってみると思っていたのと全然違うし >>902
朝鮮に白菜を持ち込んだのは、伊藤博文
日本の朝鮮総督府が、朝鮮の風土に合わせて品種改良した上で普及させた
今日では、白菜キムチが韓国を代表する食品になっている そもそも、古代中国は内陸の文明だからな
中国の沿海部でさえ、そこからはかなりの距離がある
ましてや、日本は遠い 春秋戦国時代は、山東半島が異民族
同じ山東省にある斉とすら、言葉が通じなかった
その山東半島から海を渡ると朝鮮半島
朝鮮の沿海を伝って、対馬を経て日本
古代の船で東シナ海の荒波を越えるのはキツいので、それが当時の海路
朝鮮半島の南部だけでも、当時は各国に分かれてバラバラ
日本だって、南九州は異民族だった
中国と日本の間には、これだけの隔たりがあった 日本と大陸の交流が本格化したのは、もっと後の魏晋南北朝時代
日本が親しかったのは南朝だった
北方民族の北魏に山東半島を押さえられるのは、当時としては大問題だった >>909
そして高句麗が北魏の属国で性奴隷を貢納していた >>898
これがお前らの同胞だろ
米テキサスで韓国人売春婦を検挙@2016.01 http://i.imgur.com/iBZED7M.jpg >>906
気候も大体同じ地続きで接していて、属国で定期的に使節が往来、もともと土下座三昧なところをもう一回土下座すれば野菜の種や
栽培技術を持った農民を借してもらったりできる立場だったのに、なして李朝の時期に結球白菜が導入できなかったんだろう?
日本は唐の時代に土下座して鑑真和上を貸してもらったり牡丹、芍薬、朝顔、梅、桃、胡瓜、胡麻の種を貰って帰ったりしているし、
琉球は通訳と政策アドバイザーの役割の所謂久米三十六姓に来てもらったりしている。 >>913
高温多湿な日本では、白菜の栽培が難しかったからだ 日本で白菜を栽培できるようになったのは、品種改良と栽培技術の成果
朝鮮もその恩恵を受けている >>915
だからさ、朝鮮は、支那と地続きで一千年来の属国なのに、なんで直接白菜が入ってきてなかったのか?
20世紀になってようやっとこ日本の支配下になってから日本の施策で白菜を導入してるのが遅すぎるでしょう?
っていう疑問。 欧州は、古代の南高北低から、近現代の北高南低へ。
東アジアは、古代の西高東低から、近現代の東高西低へ。
そういう、大きな文明の中心の移動が起きた。 >>916
親分の明国・清国からは恩恵は無かったのか?
気候も近い北支では並の農民が栽培できてたんし、別段日本が開発したような特別な品種とか栽培法とかなくても
朝鮮で栽培できたでしょうに。 日本では、アブラナやカブの花粉とすぐに交雑してしまうのがネックになった。
そのため、当初は東北の離島で純粋培養され、やっと白菜の栽培が可能になった。 >>919
確かに
朝鮮は寒くて、日本より乾燥している
それでも白菜を栽培できなかったのは謎 韓国の国民食である白菜キムチ
「冬には食糧不足で餓死者が続出し、春になっても生きていたら、祝杯をあげてお互いに祝った」とされる朝鮮では、救世主ともいえる理想的な保存食だ
唐辛子を伝えたのが豊臣秀吉の軍、白菜を伝えたのが伊藤博文の朝鮮総督府だというのは、彼らの歴史観をおもえば、なんとも皮肉 そういうことでしょうな
在来種の菜っぱとすぐに交雑して、球を結ばなくなってしまうのが白菜の難しいところ
日本もそれで明治までかかった じゃあ日本から持ち込まれた白菜の品種は今後は栽培禁止に 農作物の品種改良のように根気の要る技術的な取り組みは、朝鮮人の苦手とするところ
イチゴや牛をはじめ、日本がパクられた品種は数知れない >>923
じゃあ、なんで、日本の統治下になって、北支系の白菜に取って代わったの? 支那の属国の間には取って代わられなかったのか? >>924
そうはいうけれど、植物の種としては同じで相互に交雑し放題の蕪・搾油菜種・青菜がそれぞれ複数系統、同じ地域で栽培されて維持されてたよ。 >>927
どこも大抵、大きさ・味・色・用途の違う複数の系統の唐辛子を早い時期に確立して維持してきたのに、
朝鮮はごちゃ混ぜにしてしまってコチュの一系統だけにしてしまってるよな。 >>929
日本によるプランテーション化の一環だね
宗主国への輸出用 >>935
いや、推測だが?
李朝時代の朝鮮は、冬の飢餓、栄養失調に悩まされていた
冬野菜を導入することで、保存食の白菜キムチが普及した
ドイツにおけるザワークラウトのような位置づけか >>936
朝鮮の米増産も日本への輸出向け
白菜の導入もそれと同じ >>937
普通に輸出してたのに、「日帝に収奪されたニダ」と主張してるアレだな(笑) >>936
朝鮮白菜によるキムチは李朝時代からあったよ
日本の白菜の方がはるかに大きくて効率がよいので導入して即入れ替わったんだよ >>938
植民地ってのはそういうもんだしな
現地の地主が宗主国へ産物を売り
宗主国は生活用品を現地へ売りつける
このサイクルで収奪を行う そもそも、朝鮮は植民地じゃないしな
普通に日本の一部だった いまだに↑のようなこと言ってる情弱のアホって歴史に興味ないくせになんで居座ろうとするのかね >>937
明治・大正に白菜なんて海越えて運んだりしてないよ? >>939
日本の在来の白菜なんて、美味しけど、貧弱なものよ?
味にうるさい京阪神方面には根強く在来型の白菜も栽培・墓倍されているけれど、それでも量的に一割未満。
他の地域ではほぼ北支系の結球白菜と少量の広東系のものに入れ替わっている。
小松菜は、名前こそ在来の白菜のものだが、中身は搾油用の菜種の品種に凸さて変わられている。
Brassica rapa種は、他には水菜、蕪、蕪菜(野沢菜、日野菜、スグ等々)の系統がそれぞれ少量ずつ。 >>944
わかりにくかったか
日本から朝鮮に渡った中国産の白菜の事だよ 昭和の時代までは、野菜は近郊農業で作ってただろ
生鮮食品をそんな長距離移動させる時代じゃなかった 日本は奴隷制社会だから春秋〜戦国の過渡期と略々同時代 >>940
米の買取り価格より市場価格の方が安い逆ザヤだったのに?
大体米を安く国内に仕入れすぎると国内の米農家が壊滅するからそもそも搾取したくても出来ないんだよね >>951
植民地経営で本国の産業が空洞化なんて
それこそローマの属州統治以来のテンプレだけど? 付加価値の低い産業を本国で維持しようとするのが大馬鹿。
穀物の生産みたいなものは得意なところに任せておけばいい >>897
いつの時代かによる
春秋時代なら諸侯は国君でも順当
戦国時代なら国王を名乗らないのはどこかの属国
周が元気な頃までは「王」が皇帝ぐらいの重みがあった
漢代から皇帝のもとで地方を治める官職としての王が生まれる >>948
仕方ない
東洋史スレには、日本サゲ狂の精神異常者が必ず湧いてくる >>954
最終的には中国からみた辺境である日本の君主の孫(庶子でも)とかが名乗るほどにインフレした >>955
我が日本もな。
飼料米の補助金3300億円、飼料用米の生産高120万トン。1トン当たり27万円くらい。
27万円ありゃ、メイズかソルガムが12トンくらい買える。 >>969
母ちゃんの写真ばかり貼るなよゴミ荒らし >>971
いつまでも母ちゃんの写真貼って荒らすんじゃないよゴミ ネトウヨは息をするように嘘をつき
迷惑行為しかしない >>977
自分の顔が朝鮮顔だから
コンプレックスこじらせたのか
ついに発狂 >>979
荒らしって怖いなあ
世の中に居場所のない人間が暴れてる >>892 >>914 >>980
お前らの同胞の顔写真でシコってろ
米テキサスで韓国人売春婦を検挙(48〜73歳)@2016.09 http://i.imgur.com/XQfpmSe.jpg >>981
荒らすしか能のないゴミが自分の家族写真貼って発狂 >>892 >>914 >>982
同胞の顔写真貼られて発狂w
米テキサスで韓国人売春婦を検挙(48〜73歳)@2016.09 http://i.imgur.com/XQfpmSe.jpg >>892 >>914 >>982
チョンさん同胞の顔写真貼られたら悔しいのかw
日本が下チョンの属国だって証拠だせないもんな >>892 >>914 >>984
同胞の顔写真貼られて発狂w
米テキサスで韓国人売春婦を検挙(48〜73歳)@2016.09 http://i.imgur.com/XQfpmSe.jpg >>985
ネトウヨ嘘つき小僧君また負けちゃったね 発狂してコピペ荒らししかできなくなった嘘つきネトウヨ小僧
くやちいねえくやちいねえ >>892 >>914>>987
日本が下チョンの属国だって証拠だせない嘘つき馬鹿チョンが脳内勝利かw まーた嘘つきがばれてしまったのか
ネトウヨ小僧はどんどん居場所がなくなってくねw >>892 >>914>>988
日本が下チョンの属国だって証拠だせない嘘つき馬鹿チョンが脳内勝利すんなってw >>892 >>914>>990
日本が下チョンの属国だって証拠だせない嘘つき馬鹿チョンが脳内勝利すんなってw >>892 >>914>>993
客観的に見て嘘つきの馬鹿チョンがゴミだわ >>892 >>914>>995
馬鹿チョンの嘘がばれたから発狂してるんだよ >>892 >>914>>997
スレチで嘘がばれた馬鹿チョンがウヨ連呼で発狂 >>892 >>914>>999
スレチで嘘がばれた馬鹿チョンがウヨ連呼で火病 このスレッドは1000を超えました。
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