春秋戦国時代
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0001世界@名無史さん
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2017/11/03(金) 16:41:22.660
同じような出来事が多すぎて、いまひとつ頭に残らない春秋戦国時代

ここらで流れを整理しておこう
0002世界@名無史さん
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2017/11/03(金) 17:11:26.370
中原情勢推移の一例

B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年   共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年   鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏  衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋  四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月  鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月  衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月  邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年    宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋   宋が長葛を占領
B.C.716年7月   宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春    斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月   宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。
0003世界@名無史さん
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2017/11/03(金) 17:12:10.880
↑ こんな調子で、延々と何百年もつづく

フクザツすぎて、頭に入るわけがない

近代ヨーロッパのほうが、まだマシだ
0005世界@名無史さん
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2017/11/03(金) 22:06:36.270
都市国家同士で取ったり取られたりしてるだけなんだよなあ
0006世界@名無史さん
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2017/11/03(金) 22:48:11.330
古代の河南省の状況は、近代のイタリアの状況と似ているな

都市国家同士で争ってる間に、周囲の国々がいつのまにか成長して、気がついたら大国に囲まれていた
0007世界@名無史さん
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2018/01/30(火) 10:29:31.360
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

CM0CD
0009世界@名無史さん
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2018/03/04(日) 14:38:34.390
春秋戦国時代のゲームが出たぞ
Nation War:Chronicles
ttp://store.steampowered.com/app/669320/Nation_WarChronicles/
0010世界@名無史さん
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2018/04/01(日) 19:32:03.610
宮城谷昌光の本を何冊も読んだが、全体の流れはまったくアタマに入ってこない
0011世界@名無史さん
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2018/04/01(日) 20:06:41.670
春秋時代は、斉・晋・秦・楚の4大国の時代

東西南北を占めていたから、わりと分かりやすい
0012世界@名無史さん
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2018/04/01(日) 20:17:13.070
この中でも、中原を制する晋が、超大国だった。
晋と楚の南北対立が、春秋時代の基軸。
河南省の都市国家群が、超大国の狭間で右往左往する。
0013世界@名無史さん
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2018/04/01(日) 20:22:25.620
まるで、アメリカと中国の狭間で右往左往する、北朝鮮と韓国みたい。

もっとも、辺境の朝鮮半島とは違って、河南省は中華の地。
小国ばかりだが、文化レベルは最高。

その意味では、オスマン帝国、神聖ローマ帝国、フランス王国といった大国に囲まれた、ミラノやフィレンツェなどの近世イタリア都市国家の状況に似ている。
0014世界@名無史さん
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2018/04/02(月) 20:21:55.960
紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂するまでが春秋時代

紀元前403年から、紀元前221年に秦が中国を統一するまでが戦国時代

この時代の周が東周と称されることから、東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある
0015世界@名無史さん
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2018/04/02(月) 20:27:47.110
戦国時代には、各国の諸侯が王を名乗るようになり、周王の力は完全に失墜した。

それでも、周王室は続いた。
西暦256年、秦に滅ぼされる。
0016世界@名無史さん
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2018/04/02(月) 20:29:24.020
もしも、周王室が続いてたら、どうなっていたか?

日本でいえば、天皇のような存在。

それでも最終的にはモンゴル帝国に滅ぼされただろうが、ひょっとしたら、それまでは続く可能性があったか?
0017世界@名無史さん
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2018/04/02(月) 20:34:00.770
董卓は、洛陽を焼き払ったので有名。

董卓の頃の洛陽は、東周の遷都から数えれば、すでに千年の古都だった。
それを思えば、すさまじい暴挙。

おそらく、董卓は西域の出身で、漢への愛国心などまったく無かったのだろう。
0018世界@名無史さん
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2018/04/03(火) 18:43:18.040
董卓は隴西郡臨洮県の出身だし六郡良家子の出だから
普通に名家のおぼっちゃん
0019世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 01:59:19.870
晋は南蛮の楚から中原を防衛した英雄国
0020世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 07:35:14.840
三國志に名前が出てくるような人物は、みんな豪族ばかり

平民は出てこない
0021世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 07:36:28.780
>>19
楚は明らかに異文化圏だな
中華という意識は自他ともになかった
0022世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 10:16:43.660
楚が示した独自に王を名乗るなどの態度は
「中華の一部ではあるけれど周には心から服属はしない」
というものではなかったのだろうか
夏・殷・周が黄河文明に根ざしているのに対し、
楚は長江文明を代表しているというような意識があったのかもしれない
0023世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 12:27:30.980
斉も、桓公の時代に「中華の覇者」になったけど、もっと昔なら「東夷」とされていた地域
0024世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 15:29:03.040
殷代は東夷 周の時代に中華に組み込まれたからな
0025世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 20:22:47.400
秦もきわめて異質

中華とは言いがたい
0026世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 21:47:12.790
東夷は山東省だけでなく江蘇省などあちこちにいた
また周代に斉に呂尚が封じられてからも半島の奥地には莱という異種族がいた
莱は国として続き姜斉の途中で滅ぼされる
呂尚は莱でも東夷でもなかった
東夷は春秋期にはもう文明化していたではないだろうか
0027世界@名無史さん
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2018/04/05(木) 22:11:23.350
太公望は製鉄民だろうね
0028世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 06:32:05.990
宮城谷昌光の「晏子」も、前半は莱との戦いが延々と続く

斉は春秋時代から山東省を支配する大国だったが、それでも山東半島を統一するのに数世紀を要した

これだけでも、古代の中国がどれほど広くて多様だったかが分かるというもの
0029世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 12:23:06.380
東周時代が春秋時代になった要因と、春秋時代が戦国時代になった要因がよくわからない

特に春秋と戦国の違い
晋が韓魏趙になったとか、春秋はタテマエとして周王朝を助けて〜ってのがあったが、戦国は自ら統一王を目指す連中で溢れたとか
そうした変化は知ってるけど、それが同時代人が時代の呼び方をわけた決定要因なんだろうか
0030世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 15:20:18.930
時代の名前はあとから付いたものだろ

春秋から戦国への流れ、それこそが「下剋上」
いろんな現象がそのひと言で説明できてしまうだろう
日本史用語としてのそれはあくまで流用に見える
0031世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 19:23:36.410
>>29
日本だって、室町幕府はまだ続いてたのに戦国時代になった

室町時代だって、統一国家とは名ばかりで、足利義満はいつも地方の大名との戦争で忙しかった

戦国時代との違いは微妙
0032世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 19:24:33.250
唐も、後半はそれと似たようなもんだった
0033世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 19:28:41.690
>>29
>晋が韓魏趙になったとか

なんといっても、それが大きいと思われる

群雄割拠の世といっても、晋がアタマひとつ抜けた超大国だった
0034世界@名無史さん
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2018/04/06(金) 19:31:38.130
晋が分裂して韓魏趙になって、戦国時代に突入した。

分裂したけど、それでも大国。

戦国時代の初期は、魏が突出した大国で、諸国の盟主のようなポジションにいた。
0035世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 04:25:08.930
秦は初代が中華の人間
というか先祖も中華の人間
そりゃ田舎のほうだが

ちなみにチャンパ王国の建国者も中華の人間
0036世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 09:40:49.520
北ベトナムにとっての中国は、北からの侵略者
中国にとってのモンゴルみたいなものだ

しかし、そんな北ベトナムも、南ベトナムにとっては北からの侵略者
0037世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 09:42:45.960
晋を超大国にした立役者の文公は、母親が北狄

北狄に亡命して、何年かすごした時期もある
0038世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 10:37:37.140
魏は中原に位置し、7大国のうち燕を除く残りの5ヶ国と国境を接していた。

前453年、晋から事実上の独立をはたす。

初期の文侯の治世では、内政の李克・西門豹、軍事の呉起・楽羊らの働きで、
周辺諸国を討って国力盛んとなり、最強国となった。
0039世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 10:41:12.970
この「戦国初期には魏が最強国だった」という話が、宮城谷昌光の小説にはよく出てくる

中原だけに文化の水準が違うので、人材の宝庫だった

しかし、狭量な君主が続出したせいか、せっかくの人材が他国に流出していくのが難点
0040世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 10:52:36.520
まず、呉起が亡命して、主力がぬけた

呉起は、楚で大改革を行う

野蛮な後進国だった楚が、超大国へと変身を遂げるキッカケを作った
0041世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 10:56:45.990
人材の流出は、その後も続いた

まず、前370年、魏は斉の孫臏に大敗する(馬陵の戦い)

紀元前340年には、商鞅の変法により国力を急激に増大させた秦には、
商鞅率いる軍に大敗して黄河以西を失い、大梁(開封)へ遷都し、覇者の座から滑り落ちた。

その後、自国の宰相であった魏斉にかつて辱められた食客の范雎を、
遠交近攻策の提唱などで重臣に採用した秦から圧迫され、秦への対策では苦しい状態が続く

孫臏・商鞅・范雎、みんな魏から出ていった人物
0042世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 11:08:51.080
衰退した魏は、秦による大統一のちょっと前、一時的に復活する。

公子の無忌こと信陵君が紀元前247年に五か国連合軍を率いて、秦の侵攻軍を破った。

信陵君は戦国四君に挙げられるほどの傑物となった
0043世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 11:14:37.680
魏の天下は、百年ほどで終わった
0044世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 11:44:37.630
三晋の各国って自分の名字を国名にしたのか
0045世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 12:10:42.780
>>44
どっちかっていったら、国名を名字にしたというほうが正しい
0046世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 12:11:38.110
たとえば「魏」であれば、春秋時代の都市国家の一つが起源です。
この都市国家の魏は晋に滅ぼされ、晋の領地になりました。
ある時、功臣の一人がこの魏の土地に封建され、魏氏を名乗るようになりました。
この魏氏の子孫が、晋を三分した魏を作りました。
0047世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 12:13:58.720
魏氏・趙氏・韓氏が同盟して、晋で最有力な智氏を打倒した
0048世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 12:15:34.640
長年の恨みで徹底的に嬲り抜いて髑髏杯にしたんだよな
0049世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 12:30:43.450
魏は梁または大梁ともいった
途中で都をその名の土地に移したためだ
この地は後に開封と呼ばれる

『孟子』の冒頭が「孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ」
0050世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 12:59:06.650
>>45
でも三晋に分割する前から名字名乗ってたよ
0051世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 13:18:50.600
呂后の一族も自分らが皇帝になったら国名を「呂」にする予定だったっぽいや
0052世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 13:25:31.170
>>50
晋の家臣の畢万が、魏に赴任して、魏万と名乗るようになった

それが、魏氏の始まり
0053世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 13:27:12.290
つまり、名字を国号にしたのは、その通りなんだけど、その名字がもともと地名に由来する
0054世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 13:30:36.170
>>51
武后が皇帝になったときは、「周」になったな
0055世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 13:48:20.970
南朝の陳も、陳覇先が自分の名字を国名にしたんだと思っていたが、
これも偶然たまたま、梁の皇帝から陳王に封じられたのが由来だそうな
0056世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 15:58:33.970
俺が魏文侯だったら
まず楚を滅ぼすね
当時の楚は蛮族のくせに剽悍さもなくしてガタガタだったから
土地は広いが当時の楚なら勝てる
0057世界@名無史さん
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2018/04/07(土) 23:56:58.430
魏は文侯・武侯の時代ですら周囲を列強に囲まれ、次第に拡大にも限界が
見えてきてるうえに必ずしも連戦連勝とまではいかずに敗れてもいる
たとえ荘王の時代の様な威勢を失っていたとしても、数倍の国土を有する楚を
一朝一夕に滅ぼせる保証はないところに、韓や趙や秦らがおとなしく手を拱いて
傍観してくれるわけもないと思うが
0058世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 01:28:35.290
名字とか苗字とか言ってるけどそれって「氏」だろ
わざわざ日本史風に言うのってどうなの
0059世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 07:24:01.230
>>58
そうだな

ここは、氏と言ったほうが良い
0060世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 07:28:37.130
南の勢力を滅ぼすのは、見た目より難しい

山を越え、河を越え、酷暑と疫病との戦い

後世には、曹操も苻堅も敗れて撃退された
0061世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 07:30:05.840
日本史も、源平藤橘の氏と、家名の話がややこしい
0062世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 07:32:40.350
楚の荘王も、春秋の覇者のひとり
0063世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 13:27:39.080
文公って本当に有能なのか?
放浪しまくって、最後に君主になれたのは凄い、しかしたった8年で崩御だぞ
0064世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 13:41:37.320
最後に君主になれたのも、秦の穆公が軍隊つきで晋に送り込んでくれたおかげ

これを見れば傀儡政権みたいだが、なぜか春秋の覇者となる
0065世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 13:45:03.850
しかも、文公本人は、亡命先の斉に永住するつもりになっていたのだが、周囲の連中が強引に担ぎ出した
0066世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 13:49:21.690
放浪中は、楚でもお世話になり、有名な「三舎を避ける」の故事成語が生まれた
0067世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 13:51:07.700
このように、なぜか斉・楚・秦の3大国から強く支持された

おそらく、生来のカリスマ性があったのだろう
0068世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 16:03:14.910
重耳の時代は諸技術と外交能力に長けた中原の小国(鄭、衛、陳、徐、蔡あたりか)から
将来的な生産力に伸びしろのあった周縁諸国(斉、秦、楚そして晋)に主導権が移っていく時代だった
また諸侯からその家臣に実力と権限が移っていく時期でもあった
重耳は後に重臣となる従者たちと共に中原諸国を放浪し、先進地域の情報を収集し、
各地の公族とコネクションを築き、結果的に自分と家臣の成長をも促した
普通亡命公子は、各国で能力に応じて家臣としてスカウトされ、
また亡命先の国が故国に攻め入って傀儡政権を立てる時の駒にもされる
重耳は境遇によって得られるものの全てを最大限に利用したのだ
…と、『重耳』にも書いてないことも加えたつもりだが、もしかしたら書いてあるかも知れん
0069世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 16:49:25.600
>>68
でも周辺諸国のうち、三晋と楚はなぜか中原に首都をうつしていた
0070世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 17:31:20.580
>>66
小室直樹は「三舎を避ける」という言葉が大好きで、いつも使ってた。
「スターリンすら三舎を避けるほどの残虐さ」とか、そんな感じ。
0071世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 17:42:31.850
>>69
それは全く矛盾しない。
鄭や衛や陳は「中原という場所にいたこと」が不利だったのではなく、
「中原の限られた土地にしか領土がなかったこと」で国力が相対的に伸び悩んだのだから。
中原自体は全ての時代を通じて交通が便利で商業活動に有利な場所で、情報収集にも向いていた。
ただ生産力が頭打ちだった。
だから戦国になるとどの国も中原かその近くに首都を置き、後背地を農業生産のために確保しようとした。
ただ燕は地理的に魏に阻まれて中原には向かわず、後背地を広げていくことに専念した。
いったん斉に攻められるとすぐ倒されるという脆さがあったことの反省だろう。
0072世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 19:04:11.780
趙も北の辺境の国だけど、首都はほとんど中原に近い邯鄲
0073世界@名無史さん
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2018/04/08(日) 19:06:34.080
いや、邯鄲は中原そのものだな

いまでいう河北省の南端で、ほぼ河南省
0074世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 19:06:54.930
三晋の出来たばかり国力
魏>韓>趙
0075世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:48:58.080
五代十国の初期(後梁期)なんかだと各国の首都も中原に片寄ってるとかないんだが
0076世界@名無史さん
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2018/04/09(月) 03:23:51.060
だってその時代にはもう奥地まで開発が済んでいるんだもん
言質取ったつもりだろうけどマジどうでもいいわ
0077世界@名無史さん
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2018/04/09(月) 12:37:21.180
近世ヨーロッパでも、先進地域のイタリアでフィレンツェやミラノ・ヴェネチア・ジェノヴァ
などが争っている間に、周辺ではフランス・スペインなどの大領域国家が台頭した。

現代でも、ドイツ・フランス・イギリスが争っている間に、超大国のアメリカ・ソ連が台頭した。
0078世界@名無史さん
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2018/04/09(月) 12:39:51.140
スケールの違う国家が登場したおかげで、今までの主要国が小人に見えてしまうという現象。

この21世紀においては、中国とインドがそれに相当するだろう。
0080世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 18:46:19.290
>>79
おもしろそうだな?
0081世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 20:46:08.690
楚で最初に王位についたのは、第18代君主・熊徹のとき。
周に昇爵を要求したが認められなかったため、王位を自称することにした。

即位は「紀元前740年」というから、昔も昔、大昔だ。
0082世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 20:48:04.080
しかし、その前の代の
0083世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 20:49:15.530
しかし、その前の代の奴も、で、『韓非子』や『楚辞』では脂、と表記される。

武王こと熊徹に殺されて長続きしなかった。
0084世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 20:58:17.760
武王が死んで、文王が跡を継いだ。

その後、いよいよ成王の時代となる。

「楚の成王」といえば、春秋時代でも屈指のビッグネームだ。
成王と、次の次の荘王が、楚の歴史では飛び抜けて知名度が高い。
まあ、どの王朝でも、有名なのは初期の数人だけで、あとは惰性というのが普通だが。
0085世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/09(月) 21:59:19.360
>>29
「春秋」に書かれている時代が春秋時代(覇者の時代)
「戦国策」に書かれている時代が戦国時代(覇王の時代)
戦国時代は古代では六国時代と呼ばれていた
0086世界@名無史さん
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2018/04/09(月) 22:16:01.760
魯って、よい意味じゃないけど国名だよね
0089世界@名無史さん
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2018/04/10(火) 00:11:54.030
中国の歴史学ではアヘン戦争以前を「古代」と呼ぶからそこかな
0090世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 12:17:04.110
戦国の七雄とか今は言われてるけど、秦は国とは呼べないとかいうイデオロギーありそうな名称
0091世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 12:49:02.580
最近、楚はもともと中原から来たという説を見た
0092世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 20:26:30.460
どの国も、建国者はそうなんじゃないか?
0093世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 21:10:51.210
>>92
どの国もそう自称してるけど実態はどうかな
0094世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/10(火) 23:51:47.000
中原にもともといたのはタイカダイやミャオヤオで
後から来たシナチベットに追いやられたという話だな
0096世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 01:39:56.860
雲南のハニ族も自分たちの先祖は天津にいてそこから北京や上海に移って、なんていう
よくわからない伝承を持っている
なんか北から来たっていう感覚だけは共通している
0097世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 05:50:00.980
ベトナム・タイ・ラオス・ミャンマー

みんな、「雲南から南下してきた民族」ってことになってるけどな
0098世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 06:02:50.960
斉の始祖も、周の太公望
0099世界@名無史さん
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2018/04/11(水) 06:09:29.920
宋の建国者は、紂王の兄の微子啓とされている。首都は商丘。

「宋は小国だが、殷を継承する国であった」というのは、宮城谷昌光の小説でオナジミのテーマ
0100世界@名無史さん
垢版 |
2018/04/11(水) 18:46:08.860
宋といえば、有名なエピソードが2つ。

ひとつは、宋襄の仁。

楚の成王の大軍が攻めてきた。川を渡ろうとしているのを見て、「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公は動かず。

川を渡りきったところで、楚軍は態勢を整えた。
「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公はまたしたも動かず。

態勢を整えた楚軍に、宋軍は叩きのめされた。

古来の戦争の流儀にこだわった、襄公のガンコさと頭の古さが、宋の敗因とされている。
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