春秋戦国時代
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同じような出来事が多すぎて、いまひとつ頭に残らない春秋戦国時代
ここらで流れを整理しておこう 宋の建国者は、紂王の兄の微子啓とされている。首都は商丘。
「宋は小国だが、殷を継承する国であった」というのは、宮城谷昌光の小説でオナジミのテーマ 宋といえば、有名なエピソードが2つ。
ひとつは、宋襄の仁。
楚の成王の大軍が攻めてきた。川を渡ろうとしているのを見て、「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公は動かず。
川を渡りきったところで、楚軍は態勢を整えた。
「今こそ、楚を攻撃する好機ですぞ」と周囲に言われたのに、宋の襄公はまたしたも動かず。
態勢を整えた楚軍に、宋軍は叩きのめされた。
古来の戦争の流儀にこだわった、襄公のガンコさと頭の古さが、宋の敗因とされている。 もうひとつは、待ちぼうけ。
ある日せっせと野良仕事、そこにウサギが飛び出して、木の根っこに頭をぶつけて死んでしまった。
労せずしてウサギ肉を手に入れた男は、それからも木の根っこでウサギを待ち続けたため、農地はすっかり荒れ果ててしまった。
これまた、宋人のガンコさと頭の古さが、敗因とされている。 つまり、先住民である殷の文化を墨守する宋は、ガンコで頭が古い国と思われていた。
だから、そういうエピソードばかりになる。 宋は、今でいう河南省の商丘市。
河南省の東端で、開封の南にある。
大昔には、殷の都・商があったところ。 >>99-102
そのあたりはもっと前なら宮城谷昌光じゃなくて陳舜臣で読んだな
時期ごとにそういう人がいる 研究者とは別に 陳舜臣はマジメすぎるというか、あんまり面白みはないな? 宋は小国だったが、宰相の華元は、大国・晋と楚の和議を取り持って名を挙げた。 韓国のパククネ大統領も、アメリカと中国の和議を取り持つ「バランサー外交」をやってたが、失敗して刑務所にいる。 >>38
春秋時代も、初期は、鄭が覇権国だった。
斉の桓公や、晋の文公が登場するまでは、鄭の時代だった。 >>94
チベット人と漢民族よりタイ人ミャオ族と漢民族のほうが遺伝的には近いのだが
つうかお前は語族と人種の区別が多分ついてないだろ 今のチベット人は征服されてチベット語に言語交替した民族だから遺伝的に遠いのは当然の話だぞ 養える人口と農業限界のバランスが崩れ始めた時代だよね
開発過剰国としての中国人の終わらない悲劇が始まる >>112
春秋時代は、さすがに人口が少ない
戦国時代から増えてきて、後漢でピークに達する 前771 西周の幽王、犬戎に殺される
前770 東周の平王、鄭の武公の力を借りて洛邑に遷都
鄭の武公、都を新鄭に移す
前707 周の桓王、鄭の荘公を攻めるが、鄭はこれを撃退、
周王室の権威は完全に失墜する
前706 北戎が斉に侵攻したため、鄭は援軍を送り、北戎を撃退
この辺り(紀元前8世紀の末)までは、鄭の天下だった >>111
漢民族もチベット人も
周やら姜系民族に征服されたってことか 鄭の天下とはいっても、鄭の太子忽は、斉の王女との縁談を、「我が国は小国であり、大国の斉とは釣り合いが取れません」といって断っている。
周の王室と近い親戚で、中原の中でもド真ん中に位置するだけに、権威は絶大だったが、国土が小さかった。 紀元前7世紀に入ると同時に、天下は斉の時代に入る。
前651年、斉の桓公は、諸侯を会盟する。
桓公自身はたいした人物ではなかったが、宰相の管仲が有能だった。 斉の桓公から、春秋の五覇の時代が始まる。
春秋時代に入って、すでに120年が経過していた。 春秋の五覇って無意味なフレーズだと思う
戦国の七雄は戦国時代に力を持っていた七カ国ってことで意味があるけど
春秋の五覇はまず覇の定義が定まってないところに五って数字が定着してしまったから、まるで不完全なリストになってしまった
書物によって五覇のメンバーが異なるってどういうことだ?
それなのにそんな五覇を暗記させるとかまるで無意味すぎる
斉の桓公、晋の文公以外固定じゃないなら五覇とか数を固定する意味がわからん 晋は中原と西部地域にまたがってるけど、
三晋に分割する際、
中原と西部地域をどちらともそれぞれ三分割して配分してるのがおかしい
そのせいで三晋いすれもは(ベルギーやスイスみたいな)二地域にまたがる国家になってる ヨーロッパでたとえると、
カロリング朝フランク王国の
カールとカールマンの分割方法に近い
これもローマ人地域とゲルマン人地域を二人に分けた形
これもカールマンの国は魏みたいな形をしている 秦の穆公も、重耳を晋に送りこんで文公にしたキングメーカーなんだから、覇者には違いないが、いまひとつ地味な存在 春秋のトリを飾る呉王コウリョか夫差、越王勾践が入ってくるなら呉越コンビで入っちゃうんだよな
どっちも覇者としての実際の力より元蛮族が台頭してきたという象徴性が強いと思うが 呉越はなんか唐突だね
え、なんで?そんな国あったの?というタイミング
呉は一応周の太伯・虞仲からの古い由来があるけど信憑性が薄い
そこから500年以上経ってから句呉が呉になっていきなり現れる
越に至っては千数百年前に夏王少康の庶子を会稽に封じたのが源流というが
歴史に現れたのは呉と同じ頃でまったく真実味がなく、まるで呉に対抗してもっと古い起源を唱えただけのようだ
ドラマ性はあるけどそこだけ異世界の話をつないだみたいだ感じさえする
どちらも中央の戦いに加わると無駄に強いし
どちらも会盟で牛耳を執り覇者となるが、そのくせ潰しあってあっさり滅びるという 周を真ん中にして、斉楚秦晋の4大国が東南西北に並ぶというのは、いかにもシナ人好みの五行説っぽい世界。
周を殷にすれば、そのまんま封神演義の状況になってしまう。
この世界観のために、呉越を入れたくなかったんじゃないか。 >>130
封神演義では、
東西南北にどういう勢力がいたの? 殷を中心に東西南北に四大諸侯が周りを固めその外側に異民族という形だが
あくまで創作だからね >>129
呉越は異民族で確定、
楚は微妙なところだな 斉桓公、晋文公、宋襄公、秦穆公、楚荘王、呉王闔閭、呉王夫差、越王句践
候補は八人
大まかには孟子の王道や荀子の覇道が基準で選出されたり、いくつか説あるよなあ
個人的には三番手は楚荘王で確定って気分だけど 北の大諸侯(崇家)
もともとは、殷(いん)で、朝歌を中心とした東西南北とあった四大諸侯のうちの一つ。 西の大諸侯の西伯侯・姫昌の説得により、周と同盟を結んだ。
崇侯虎(すう・こうこ)
北の大諸侯・北伯侯(首領)の崇侯虎だ。弟の崇黒虎と間違えそうな名前なので気をつけよう。
民を権力者の食い物としか考えていない。
つまり、北伯侯の治めた国の民はあんまり住み心地が良くないのだ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めた東伯侯・南伯侯を殺されるのを目にし、妲己にこびるようになる。 姫昌(き・しょう)
西の大諸侯。
食べ物が少なくなるにもかかわらす大量の難民を受け入れたり、偶然ぶつかってきて傷を負わせた武吉を許したり、
自分が死にそうなのに北の崇黒虎を味方になるよう説得したりと、まあいわゆる大人物である。
ちなみに100人の子を持つ。
妲己のたくらみにより幽閉され、七年後、長男伯邑孝でできたハンバーグを食べさせられてやっと解放される。 姜桓楚(きょう・かんそ)
東の大諸侯・東伯侯(首領)だ。
娘の姜妃は紂王の正統な皇后。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、南伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、東の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。 鄂崇禹(がく・すうう)
南の大諸侯・南伯侯だ。
妲己に招かれた酒池肉林の宴で、妲己を諌めたため、東伯侯と共に殺されて木に吊るされてしまう。
この事件のせいで、南の民は殷に叛乱を起こし、周と同盟を結ぶようになったのだ。 宋の襄公は、諸侯の会盟に失敗したから、覇者という感じがしない。 周王の権威が地に落ちて周が無くなる寸前の時代に
呉と越が周王の名代となって諸侯を束ねて会盟を仕切る話が
駆け込み乗車のように立て続けに現れる
戦国になってしまえばみんな王だから会盟なんてなくなるのに 長江の下流が、大陸で最も肥沃であり、最良の土地であることは、昔も今も変わらない
ただ、古代においては、広大な湿地帯であり、人が住むのには適していなかった 黄河の下流も、洪水が多すぎて、当時は住みにくかった。
古代の都市国家は、太行山脈の山麓に集中している 斉の桓王、晋の文王って名乗れなかったのに
呉王と越王は気にせず名乗ってるのって既に周が没落したからか?
周王の封土じゃないから王と名乗ってもいいとかいう理屈? >>137
姜桓楚っていうのは斉の桓公をもとにしたキャラか 太公望が姜氏なんだから単純に太公望が分裂しただけじゃない? >>145
太公望は、斉の建国者とされてるが
東伯候も姜氏なら、それが斉につながってるというほうが自然だな? 斉を意識してるのは間違いないね
姜桓楚の桓は桓公の桓だろうね 姜族ってのは周にくっついて初めて中国の東方に入ってきたんだろう? 呂尚(姜子牙)が東海のほとりの出身であり、
姜氏の部族集団を率いて周と連合して殷を倒したというのなら、
羌の支族といわれる姜氏は東海のあたりにも多数いたことになる
斉に封じられて営丘に都してからも現地の習俗に従って儀礼を簡素にしたというのも
また斉の土地柄に合わせて製塩と漁業で豊かにしたというのも、
呂尚がもともとこのあたりの出身だったからではないのか(東海=斉とは限らないが情報は持っていた) >>143
呉や越は伝承とは別に状況からみて楚から派生した新興勢力とも言われている
王号を早くから用いていたのも楚の模倣、あるいは楚を強く意識した対抗意識からだろう
その時点では周を立てる中原の勢力を意識する必要もないほど辺境だったとも言える
だが急成長して呉も越も一度は会盟の盟主になっているが、
これも、二百年近く離れているが、楚の荘王の覇業の後追いのように見える あと、呉の場合は太伯が周王の位を譲ってできた国(の筈)だから
王号を名乗ること自体おかしい(筈な)んだよな >>150
秀吉を大坂出身と間違えるようなもんじゃないのかな 呉は太伯の末裔だから当然、伯国
楚は蛮国とされ、その王は子爵待遇 下記のサイトの「周代の方言」という項目を見ると、
中原が「周韓鄭(漢代趙魏含む)」と「衛宋」に分かれているけど、
これはなんでなんだろうな。
中原を東西に分けたのか、
周代初期から中原にいた国と春秋戦国になってから中原に移ってきた国を分けたのか
http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_history10.html >>130
じゃあ東西南北にさらに東北、東南、西南、西北も加えればよかったんじゃね
東北が燕、東南が呉、西南が蜀だとすると西北をどうするかって問題になるか >>155
そのせいかどうかは知らないが、衛と宋は、2つとも「殷の遺民の国」とされている >>155
そのサイトのそのページの「爾雅に登場する方言の材料」の項目で、
>爾雅単体では、どの地域かの情報が無いものが多い為、
>それらは主として「方言」「説文解字」「郭璞注釈版爾雅」から補っている。
とあるだろう。
それらの書物で「爾雅」と共通する語彙について、
どこそこの方言だ、と言っている項目や注釈の中の地域によって分類するとこうなったということ
なんで、っていうか事実としてそれらのように、傾向として同じ語彙を共有するいくつかのグループが存在する
分けた、っていうより分かれている 殷と周は異民族だろ、さすがに
城市を一歩でたら、そこは異国という時代だ 21世紀の現代でさえ、中国では、「城市を出たら、そこは土人が住む世界」という感覚が強く残っており、戸籍でも市民と土人が明確に区別され、公然と差別されている。
ましてや、ムラとクニに分かれていた古代社会においては、城市に対する市民の思い入れが、ことのほか深かったであろうことが、容易に推測できる。
今でいう「中国」が1つの国であるという意識はまったく無かっただろうが、それぞれの祖国への帰属意識はむしろ強かっただろう。 甲骨文字による亀甲占いには、城市から出るときの安全を占うものが多かった
市民にとって、安全なのは城の中だけであり、城の外のフィールドは異世界だった 殷と周が別民族であることと、
当時の都市国家が一歩外を出れば「野人」(「土人」はともかく史書にはこれなら出る)
のうごめく世界だったことは、
別の話だろう 都市国家は、それぞれ別の国だったが、市民には文明人としての一種の連帯感があったようだ
古代ギリシャに似ている 上海人や香港人も、内陸部の土人より、日本人に連帯感を持っている まあ自分らからそう言うことはあるけど
こっちから日本人が指摘すると勘ぐって全否定してくることもあるよね 「精神的日本人」は今弾圧の対象だからあっちの人も他者にそう言われることを警戒してる 「漢の時代には未開だった長江下流地域は、三國志の呉や東晋の頃から発展して、隋唐の頃には経済力がかなり大きくなりました」とよく言われるのだが、
春秋時代の呉越だって、諸侯を会盟して覇者になるほどの国力があったんだよな? とくに不思議なのは、北部では秦や前漢まで青銅器が主流だったのに、春秋時代の呉越は、一足お先に鉄器文明へと移行していたこと
なんで、あのまま天下を取れんかったんだろか? 呉が優れていたのは「鋳剣の技術」、越が長けていたのは「銅器の製造」
鉄器については確認できなかった
呉が会盟の覇者になったのは史実らしいが、その留守を突いて呉を滅ぼした越は
一度覇者になったかならないか(越絶書以外に覇者になったという記録がない)で
楚に滅ぼされた
呉越とも春秋末期にならないと歴史に登場しないのは、長江文化圏に属していて
まったく動静が見えなかったからで、
(黄河圏から見ると「南方で色んな国がドタバタしているらしい」程度か)
楚という東西に長い国に阻まれて、長江以南の事はあまり伝わってこなかったのではないか >>154
呉は子爵です
呉の分家の虞は公爵ですが イギリスとかスウェーデンは他国を批判して刑罰を強化させたがるから嫌い いろんな思想家が出たが、後世はその改良と派生で終わってしまった。
西洋哲学がプラトンに付けられた注ならば、
中華思想は諸子百家思想に付けられた注なのだろう 中東では7世紀にイスラム教が登場したが、中国ではそんな思想革命は起きなかった >>179
様々な戦争について学んで書いたんでしょ
孫子が別の時代、別の地域に生まれたら書けなかったかもしれん 「中国四千年」というが、四千年の歴史があるのは、河南省や陝西省といった内陸部
北京・上海・広東省の歴史の長さは、日本や朝鮮・ベトナムのそれと大差ない >>177
革命じゃないよね。
アンチ儒教、若者が偉いとか、女尊男卑とか思想革命ないよね お前の挙げてるそれはただの反動思想で革命でも何でもないだろ 今のアンチ儒教言うやつは儒教をカケラも知らない
もっと徹底的なアンチ儒教なら五四運動や文革のときにやってる 孔子が俳優達の手足を切り落としたことや
門下生を取られたことから相手の教師を罪も不明なのに処刑したことは
もう何を言ってもこいつはクズだと思わせる 今の日本でアンチ儒教やってるやつは黄文雄の読者のネトウヨ
黄文雄は台独派だから反中国思想のつもりで書いているが
そのネタはまんま五四運動の反儒教運動のパクリ
ネトウヨは知らずに中華民国初期の青年文化運動イデオロギーを注入されている あの時代はアジア主義革命の時代だからいいんじゃね?日中韓同時革命による新大東亜共栄圏の建設を日本の愛国右翼は目指すべき 城攻めのために土積み上げてから崩して土手作って侵入したの誰だったっけ?
ど忘れしてもうた >>188
そういう奴は、今でもいるだろ
「米軍は日本から撤退しろ」という以外にこれといった主張を持たず、在日朝鮮人が批判されたら怒り狂うという、右翼なのか何なのかよく分からない連中
一水会とか、小林よしのり、古谷経衡とか >>187
いまの日本で反儒教の論客って、黄文雄とケントギルバートの他に、誰かいたっけ? >>186
孔子って、人柄の良さを感じさせるエピソードが無いんだよね >>191
論客とかいうのも烏滸がましいレベルじゃないかと? >>195
啓蒙主義思想家だからね
当時は読者も儒学をよく学んでいて、
儒学の悪口を言うのは無学な人間だけだったから、
そうじゃない新しい理屈で批判できる人は新鮮だった
今の反儒教ネトウヨは江戸時代に戻った感じ
当時ならまだ国学があったが今はあいつら誰も読んでいない
また蘭学は漢文必修の伝統があり、それで新しい訳語も作られたが、
福沢は漢文が大の得意で左・国・史・漢を熟読し
特に左伝は暗誦できることを自慢にしていた
あと、五四運動の頃の日本では儒学自体がとっくに廃れていたんだから関係ない
批判自体とっくに卒業している >>187
大隈重信は維新前から儒教を批判してたぞ >>197
批判の内容がネトウヨとは全然違うだろう
そもそも五四運動が儒教批判の元祖だなんて誰も言っていないしそんな意味じゃない
ネトウヨはくだらない揚げ足取りでドヤ顔だもんな >>198
日本での儒教批判は五四運動より前からあるってことを>>187の馬鹿は理解してないだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています