【メロヴィング】フランク王国【カロリング】
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中世のフランク王国について語るスレです。
初代国王クローヴィス以前のファラモン、メロヴェ、クローディオ、スンノ、メロバウドゥス、Genobaud、Malcomer といった指導者もありです。 イギリス人はフランス人に対して、絶対的な強制を押し付けた。
負けたフランス人は聞くしかなかったが反発するとイギリス人は拷問し殺す事を楽しみにしていたヒトモドキ。 フランクフルト・アム=マインもフランクにちなむ地名ですね なぜ東フランクはカロリング家が絶えたらフランクの名を捨てたのに、
西フランクはカロリングが絶えても現代までずっとフランクの名を保ち続けてるのか
ガリア系の名にすればよかったのに >>103
西フランクはメロヴィング朝以来のフランク王国の本土。
東フランクはフランク王国によって軍事占領されたゲルマン系諸部族の部族大公の地。
カール大帝の帝国は「フランク王」と「ローマ皇帝」を一人の君主が兼ねる体制だったが、
そのうちフランク王国本土たる西フランクでは君主がフランク王位を継承。
一方、フランク王国による被征服地で部族大公の寄り合い所帯だった東フランクでは、
この寄り合い所帯の盟主を部族大公たちが持ち回る体制が確立されていき、
その盟主がローマ皇帝位を継承した。
こういう下地があるので、西フランク>フランス王国ではカロリング朝の断絶後の
地方分権化をカペー家の歴代の王たちが中央集権の回収に向かい、
東フランク>神聖ローマ帝国では分権化が温存され、
部族大公>領邦君主の連合政権としての方向性が強化されていくことになる。 東フランクとはいっても、ローマ帝国やフランク王国に属していた古いヨーロッパ部分と、
ザクセン戦争で征服された新しいヨーロッパ部分では
相当文明度に差がありそう >>105
実際、文明度、人口、経済活動密度ともに
ネーデルラント>ラインラント>スイス>北イタリア
という土地の連鎖、いわゆる「ロタリンギア」地帯が
フランク王国旧領のなかで隔絶した地位を保ち続けるんだよね。
産業革命より前の段階で、この地域の人口密度は
旧西フランク、旧東フランクの主要部分より
ひとケタ高かったらしい。
結局、フランク王国分割後の歴史を大雑把に言うと、
西フランク>フランス王国と東フランク>神聖ローマ帝国が
ロタリンギアの領有、覇権を奪い合う歴史になったと言ってもいい。
それが、ポストモンゴル時代、ルネサンス時代に金融制度が
革命的に進歩すると、このロタリンギア地帯が独自の政治勢力として
台頭してくる。
最初は北イタリアの諸都市で、次いでネーデルラントで高度な産業社会が勃興、
両地域を結ぶスイスの峠道の関税利権が重要度を増す。
この流れで起きたのが、スイスとネーデルラントの独立闘争。 何にせよカペーの血筋が現在まで残ってるのは、面白い。 昔のスウェーデンではゴート人としての民族意識が高まっていた時期もあった
そうですが、オランダやベルギーでフランク人としてのアイデンティティが
高まっていた時期はあったんでせうか スペインにゴート人としての意識があったかというと、早くにイベロ・ローマ人と融合してなくなっちゃったからねぇ。 ゴート人としての意識というのはつまり北方の野蛮人としての意識ということか? >>107
日本で「万世一系の天皇」とよく言われるけど、フランス王室のほうがよほど一貫性は高い
カペー朝からヴァロア朝、ブルボン朝と王朝が交代したとされてるが、あれは本家の跡継ぎがいなくて分家から跡継ぎが出ただけであり、日本だったら特に問題とされないところだろう イギリス王室にはそこまでの一貫性はなく、大陸の貴族が来英して即位したりしているが、それでも、イギリス王室の血筋をなんらかの形で引いていなければ、候補にも挙がらない
その点、ロシアでは、リューリク朝と血のつながりがない、単なる外戚でしかないロマノフ朝が王朝を建てた 神聖ローマ皇帝のように血統原理を基に諸侯による選挙で選出されるのが民主的で非常に良いような気がする スペイン王国の起源は、西ゴートにも逆らい続けて同化しなかったバスクだろうから、
それが西ゴートの後継者を名乗るのはおかしい イギリスは狡猾な手段でフランスを負かしている。
そして、フランスに乗り込み全てを奪っていっている。
フランスを駒にヨーロッパを制覇しようとしたイギリス。
失敗に終わったが、動いたのはフランス。
ゴミのような歴史を重ねたイギリス。
ただそれだけのヨーロッパの歴史。 フランスは立ち直ろうとしていた。
今その疲れが酷いと感じる。
それから立ち直れるのが難しいフランス。 >>114
アラゴンはバスク(ナバーラ)だけでなくカタルーニャも包含していったからな
確かフランスのブルボン王朝の諸王はナバラ王国の国王であった訳だがどういう経緯でナバラ王位を継承したんだったっけ? スペイン王国は、建前では西ゴートの貴族だか王族だかのぺラーヨが作った国家を
バスク人が継承したってことにはなってるな
まあぺラーヨの実在や素性からして嘘くさいけど >>113
結果的にそれが諸侯の独立性を高めて、神聖ローマ崩壊につながったからねぇ。民主的ではあるけど、あの当時だと争いネタだから。 >>118
スペインに伝わる化け物がペラーヨw
スペイン南部に伝わる神を冒涜した白人に対して。 >>117
確か、フランスのカペー王家のブルボン家がナバラ女王に婿入りして、
それでナバラ王位を継承している。 ハプスブルグ家と一緒でヨーロッパのあちこちにいるね。政略結婚で。 ローマ、西ゴート、イスラム帝国、フランクに対抗し続けたのがバスク。
レコンキスタの初期の担い手もバスク。 >>117
むしろアラゴン王国はナバラの分家。
バスクは先住民族の中のエリート。 スペインのコンキスタドーレが南米でインディオを大虐殺しまくったのは
ヒャッハーなゲルマン人の子孫だったから? >>125
キリスト教の考えでしょ。異教徒に対する。 実は、「大航海時代」に中南米やフィリピンに入植していった「スペイン人」って
案外バスク人の比率が高いんだよなぁ。
バスク人は「山岳民族」という印象が強いが、実はビスケー湾を舞台に活躍した
海洋民族という側面がある。
中世にはバスク人によるビスケー湾捕鯨が盛んだったし、
北西ヨーロッパ人がカナダを「発見」する前からその沖合にバスク人漁師が
タラ漁に来ていた。 >>128
違うスペイン人だと思う。
バスクってちあきなおみの喝采の歌に出てくるスペインの事を歌った歌のようなんだけど、なぜか一致してないんだよな。
間違いないのに一致してない。 >>129
喝采の二番はスペインのある蔦の生えてる小さな教会。
名前をど忘れしちゃったけど、分かりやすい。 >>125
インディオは、スペイン人に虐殺された人口より、彼らが持ち込んだ伝染病で死んだ人口が多かった >>132
天然痘と麻疹(はしか)が双璧だった。
江戸時代の日本でも「疱瘡(天然痘)のきりょう定め、麻疹のいのち定め」と称せられるほどに多くの命を奪っていた。
ましてや、成人になるまでに麻疹感染経験のなかった新大陸やポリネシアの先住民はバタバタ死んでいった。
最近アマゾンの密林で続々と弥生時代の環濠集落みたいな農耕集住地のネットワークの遺跡が高密度に埋まっているのが
確認されているので、「アマゾンの未開の先住民」というのも、実はこの時の天然痘と麻疹による大量死で
文明が維持できなくなって原始生活に後退したのでは、という話もちらほらうわさされる様になってきている。 アマゾンの奥地の文明が天然痘で壊滅・・・
という事は、スペイン以前にも新大陸に旧大陸から誰かが来ていたってことか。
インカ帝国がそれで壊滅しているのだから、アンデスから伝わってとは思えないしな。 >>134
いや、アマゾンの農耕コロニーネットワークが壊滅したのが、
どうもイベリア人の侵入のタイミングと一致するみたい。
で、本格的なイベリア人との接触寸前に先行して流行していた感染症で
人口崩壊していたということ。 スペイン人の侵入と前後して、じつにタイミング悪く異常気象が連続したという調査結果もある >>136
まぁ、14世紀後半から19世紀半ばにかけて、絶賛「小氷期」ただなかだからねぇ。 西ゴート王国が打倒されフランク王国の制圧下に置かれた場合のイベリア半島。
9世紀半ばの王国三分裂の時期においてもフランク王国の領土だったら西フランクの
一部になってたとは思うけど結局は分離独立してたんだろうか… 訂正
×:なってたとは思うけど
○:なってたのかなと思ったけど レコンキスタで領土を広げた結果、ラテン系住民を抱えすぎて
結果(バスク系だった)王や貴族もラテン語話者になってしまった
ほどほどでやめときゃよかった アストゥリアス王国はフランク王国の傘下に入ったことは一度もないよね? >>140
九世紀末ごろの時点ですでにアストゥリアス王国内ではラテン系が多数派になったという 元々ローマ文化との融合を推奨してたから、ラテン語話すのは必然的だったと思うな。ゴート人の数も少ないし。
イスラム圏に長く入ってたおかげで、アラビア語からの語彙が多くなったけどね。 >>143
西ゴートもアリウス派の消滅とともにゴート語は消滅したし、
アストゥリアス王国やカスティーリャ王国では王や貴族はバスク語からラテン語に乗り換えていった
一方、ローマ人やアラブ人は先住民に自分達の言葉をしゃべらせていった
文明度の違いか。 >>106
21世紀の今でも「ブルーバナナ」と言われていて、「長兄の国」エリアの経済・人口的中枢っぷりは健在だよね。
だが不思議なのは、このエリアが一貫して、エスニシティの境界地域であり続けたこと。
そもそもフランク王国3分割の段階で、ラテンとゲルマンの言語境界線は、現在とそれほど変わっていなかったはず。
ラテン圏もゲルマン圏も、よりによって端っこが一番発展していたことになる。
だから、後に「独自の勢力ガー」といっても、どうしてもここを中心にまとまらない。
無理に国を作ると、ベルギーのように宗教を揃えても言語的な分断国家になって政府が長期崩壊する事態になる。 >>145
結局、ロタリンギアで政治的独自性を樹立できたのは、
アルプスの峠道を押さえたスイス連邦と、北ネーデルラントから台頭したオランダだけだったんだよね。
特にオランダは近世ヨーロッパ初代の「ヘゲモニー国家」となり、投資、アウトソーシングによって
スウェーデン、ロシア帝国のみならず、大英帝国、アメリカ合衆国という次世代「ヘゲモニー国家」を生み出していくことになる。 ロタール2世の支配領域はなんであんな不自然な範囲になったのかね。
アルプスを挟んで北のロタリンギアと南のイタリア。 >>147
上の方でも述べてるけど、当時、というより産業革命以前の歴代の時代を通じて、
この地域こそが、西ヨーロッパ社会で人口密度も産業活動密度もけた違いに大きい、
もっとも豊かで繁栄した地域だったんだ。 ロタリンギアの中心地は語感が似ているロートリンゲン=ロレーヌなのかな? >>149
ビンゴ!
ロタールの国=ロタリンギア(ラテン語)=ロートリンゲン(ドイツ語)=ロレーヌ(フランス語) フランス・ロレーヌ地方といえば岩塩が思い浮かぶけど,ロタリンギアにおける
貴重な財源の一つでもあったんかな? ロタリンギアには、岩塩もある、鉄もある、石炭もある、肥沃な農地もある、
発達した水運網もある。 9世紀までには、ローマ街道で舗装されていた箇所の敷石は再利用され、ガタガタの道となっていたのが悲しい。 >>147
ライン川の沿岸から、北イタリアの平野にかけての細長い領域
そこは「黄金のバナナ」とも呼ばれる、ヨーロッパで最良の地 黄金のバナナじゃない、ブルーバナナだった(笑)
黄金のバナナは、ドンキーコングだよ >>155
その「ブルーバナナ」の南北ユニットを結ぶ交通の要衝がスイス。
ハプスブルク家がスイスを出発点に発展し、
ハプスブルク家が留守にしたスイスが独立するぐらいに力をつけたのも、
「ブルーバナナ」におけるスイスのポジションに秘密がある。 ハプスブルグ家って元々、アラン貴族なのかな?それともフランク貴族?知ってる方教えてくだされ。 >>135
「アマゾン文明」「モホス文明」でググれば出て来るね ハプスブルク家の祖先は「領地持ちのグントラム」である。この人物は東フランク国王オットー1世によって
領地を没収された「グントラム金満公」と同一人物と考えられている。グントラム金満公はアルザスを支配した
大貴族エティション家の傍系とされている。エティション家の起源はフランク族ともブルグント族とも西ゴート族とも
言われている。ざっくり言うと「みなされている」「考えられている」だらけではっきりと言えることは何もない。 フランクゆかりの名前であるルートヴィヒ(クローヴィス)とロタールって
どっちも”名高き戦士”って意味なんだな >>156
皇帝マクシミリアンがインスブルックに首都を置いたのも、それだな >>159
ありがとう。ゲルマン系のいずれかなんだね。
関係ないけどYouTubeで「ケルト系音楽」とか検索して聞くと、中2病みたいな連中がケルト大好き!とか書き込んでるんだよ。
でも、笑えることにケルトについて全く知識が無いんだよな。 カール・マルテルに興味を持ったんですが、
彼の個人史にページを割いている日本語の書籍あれば教えてください。 9C半ばのストラスブールの誓いにおいて西フランク王は古フランス語の原型となった
ラテン系言語、東フランク王は古高ドイツ語で自国の兵士に演説してたそうですが,
高フランク語と,東フランクの住民が話してた古高ドイツ語との関係がわかりにくいような… >>164
「両王はラテン語でも自国の言語でもなく、お互いに相手国の言語を用いて兵の前で宣言し、両国の兵は
それぞれ自国の言語で誓いを行った。これは、この頃までにカロリング朝フランク王国が東西に分裂した証拠と
考えられてきた。」
それぞれの王は相手国の言語で両国の兵に宣言した。東フランク王国の住民はもともと使ってた古高ドイツ語を
使った。のちのフランスに当たるガリアではゲール語が使われていたが、古代ローマに征服されて俗ラテン語が
広まってガロ・ロマンス語が成立した。ガロはガリアの事。ガロ・ロマンス語はラテン語の方言だったが、古フランク語の
影響で大きく変化して古フランス語が成立した。古フランク語はフランク族が使っていたであろうと考えられる
ゲルマン系の言語。
以上のことから古フランク語と古高ドイツ語とは関係ないようだ。 ヨーロッパでカール系統やルイ系統の名前が広まったのって
カール大帝やクローヴィスに因んでのことだったん?
↑のと違ってロタール系統の名前はドイツ語圏ぐらいでしか
見かけんような・・・ 父が王として即位。
そして在命中に息子を分王国の王として任命。
王位継承の安定化を図ったが、この構造は学習者には覚えにくい。 フランク語がラテン語由来の語彙を取り入れたり,フランク人の諸侯・騎士の間で
キリスト教の聖人名が用いられる事例ってあったんやろか。
後者の場合はたいていゲルマン系言語由来の名前だと思うけどあえて。 >>162
ケルト音楽ファンだからと言ってケルト民族に詳しい必要がどうしてあるのかね。
ハワイアンをうたってる人だって、ハワイイ人の悲しい歴史にはほとんど興味ない。 ジラール家はパリ伯ジェラール1世と宮宰カールマンの娘の子孫 >>169
ケルティックもそうだけど、ゴシックも相当意味やイメージの一人歩きが激しいね
建築のゴシックの時点でゴート族とほぼ無関係だけど、その後の小説や絵画や音楽やファッション等のあれこれはゴート風とは一体何なのかという思いを呼ぶ
フォントのゴシック体は現代では簡素、対称的な部類の字体でゴシック建築とは正反対
ゴスロリファッションの人にゴート族の事聞いても何言ってんだこいつと思われるだけだろうな 毎年のようにフランスに行くが、
メロヴィング朝時代については、文献も遺跡も極めて限定されていて残念 https://youtu.be/7kA3sUgNKSw
コールドスキンは日本人になるだろう。
日本で今京都が北海道に対してするものと同じような感情をヨーロッパが日本に対して持つとこうなるのかw
状況は悪くなる一方になる。 >>175
私も中世初期の史跡を訪ねてヨーロッパに出かけますが、西ゴートやカロリング期の建物はあっても、メロビング期のものはなかなかないですね。どこかご存じのところがあれば、教えてください。 >>180
創建がメロヴィング朝時代なのは、トゥールのサンマルティン教会、サンドニ、サンジェルマンデプレ(パリ)だけど残っておらず、
比較的残ってるのは、ヴィエンヌのサン・ピエール教会のようです。
厳密にいえば創建は西ローマ時代(5c中ごろ)だけども、
一部にメロヴィング時代の建築技術が反映されているようです。 白を意味するラテン語Albが存在するのに現在の
ラテン系地域ではフランク語由来のBlanc系統が
用いられてるという・・・
まあイベリア半島のほうはゲルマン祖語まで遡れば
Blancと同源なゴート語に由来してるかもしれんけどw フランク史の新訂版が出たけど、旧版と大分違うのかなあ。
読み比べた人いる? >>188
どちらもフランス読みのルイに
相当する名のフランク王なのに、
この人はフランス王のルイ○世に
カウントされて、
メロウィングのクローヴィス4人は
カウントされないのはどうして?
太陽王はルイ18世、ルネッサーンスの
漫才師は山田ルイ57世にはならんのか? カロリング時代は
霊威の象徴として王様だけが長髪で、
最後の王様がお払い箱になるときも
髪を切られたとのことだが、
カロリングのシャルル2世みたいに
王様が禿げたらどうすることに
なってたのやろか? ≫190
やはり禿頭王って名前がつくんじゃない?w >>194
いや、禿げたら霊威もなくなった扱いになって廃位や退位すべしとされてたんやろか?てこと >>163
ドイツ語の文献ならある
Andreas Fischer
Karl Martell
Der Beginn karolingischer Herrschaft
https://www.kohlhammer.de/wms/instances/KOB/appDE/nav_product.php?product=978-3-17-020385-3&world=BOOKS
アンドレアス・フィッシャー著 「カール・カルテル〜カロリング朝支配の始まり」 >>163
単独の評伝等はないが日本語で読めるものなら「あだ名で読む中世史〜ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」(岡地稔著、八坂書房)でカール・マルテルの「マルテル」はどういった意味かについて言及されている
図書館で借りて読んでみては? カール・マルテルのマルテルはマルス由来のラテン語起源個人名かと思ってた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています