超マイナーな歴史上人物を挙げるスレ
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ステファン・ドゥシャン
セルヒア帝国の王で黄金期を築き、皇帝を名乗る
ポール・バラス
フランス革命で恐怖政治に終止符を打つ
しかしその中身は革命を食い物にした悪徳の士
レオポルド2世
極悪人ながらあまりその事実は知られていない >>2 >>3 超マイナーというほどかな?
下手すれば高校教科書に載っていそう。 高校理系化学履修者は知ってて当然だよ ハーバー・ボッシュ法
灯台受験生ならばその名を全員知ってるんじゃないかな 俺の先祖は地元の1万2千石大名の家老の三男坊。
幕末に年貢率を急にあげたのに反対して立場をわきまえず
一揆の先頭に立ち、座敷牢に入れられ、廃藩置県で解放されるまで10年。
家からは絶縁されたので村民の協力により荒れ地を開墾して住み着き
今に至る。 バラスとかハーバーとか、そんな有名人の名を挙げるとはどういうつもりか。 >>3
レオポルトってスターリンみたいに人民代議員の97%を粛清したり
20代男性の人口を9分の1になるレベルの虐殺や戦争をしたの? 述律皇后
耶律阿保機の皇后。八部大人を抹殺して耶律部の独裁を確立したのも、渤海を落したのもすべて皇后の謀略による。
阿保機自身は渤海を落してすぐに崩御しており、大興山脈以西の版図はすべて、皇后が自ら戦陣で馬を駆って平定したもの。
事実上、遼の実質的な建国者である。
ホエルン
夫のイェスゲイ亡きあとボルジギン氏を率いる。
ジャムカを破って覇権を確立した十三翼の戦いもチンギスではなく指揮を執っていたのはホエルン。
睿智蕭皇后
南征軍を起こし澶淵の盟を結び、遼の北宋に対する優越性を確立する。
史書では三軍を統率していたのは睿智蕭皇后だと明記されているのにも関わらず、なぜか教科書では聖宗の功績にされている。
三娘子
アルタン・ハーンの王妃。騎射を得意としアルタン亡きあともトゥメトの首領を率いてオイラート部の覇権を維持し
明からは宣府、大同、甘粛に至るまで20年間、兵を用いる必要がなかったと称される。
女の軍事指導者というのは、どうも学者の女性像からは大きくかけ離れてるらしく
大抵その功績は夫か息子かもしくは最初からなかったこと扱いされることが多い。 ムカリ ボオルチュ チラウン ボロクル
ジェべ ジェルメ クビライ スブタイ
いずれも四駿四狗でチンギスハンの優秀な側近 >>8
世界史に残る偉業をなしとげた人物なのにマイナー
偉業を成し遂げた人物は当然有名なわけで
つまり矛盾するから視点によっては有名人が挙がるのは仕方ない シャナクダケト
紀元前2世紀以降、それまで女王が基本的に存在しなかったスーダンには「カンダケ」の称号を持つ
女王たちが相次いで出現したが、その初代に当たる人物。
自らを「ラーの息子」と称し、レリーフには武装して描かれているが、同じカンダケで後にローマと衝突
するアマニレナスも武名で知られた。
『ナショナル・ジオグラフィックス』は世界史上の偉大な女王50人の1人に挙げている。
けっこうな偉人だと思うのですが、スーダンの歴史自体がエジプトのおまけのような扱いを受けている
せいか、某やる夫聖杯戦争スレで初めて知りました。
同じスレで>>10の述律皇后やティン・ヒナンも出ていて、初耳ではなかったものの感心。 倪瓚(げい・さん)(1301-1374)
字は雲林。元末明初の文人。富裕な家に生まれて仕官せずに風雅を事としていたが、後に
混乱の中で52歳にして故郷を離れ、74歳にして帰郷し、親戚の家に没した。
山水画で後世に名を残した人物であるが、彼ほど渇筆を利用して描いた人物も珍しい。
余白を大胆に使用して空間と水を表現したが、そこに現れたのは水を見て水を欲するほどに
乾いた世界であって、花鳥はおろか人物すらまず描かれることがなかった。
近代日本の文人画家である長井雲坪(死後、夏目漱石が評価)は山水に人物を描き込むこと
を好まず、頼まれれば後姿の人物を一人描いたというが、倪瓚の場合は人物を描いた作品は
一点だけであり、誰も居ないことを指摘されると「この世に人間というものがいたとは知らなか
った」と答えたという逸話が残されている。
文人画家というのは近代に至るまで変わり者が多いが、倪瓚は極度の潔癖症であり、例えば
客が庭にあった桐の木を汚した際には、根元から切らせたという。
孤高の気を漂わせた彼の絵は、絵の境地は真似がたいものであるが、後世惹かれる者が多
く、贋作も筆意に倣った作もおびただしく作られ、影響は現代東洋画にも及んでいる。 日本史の話になって恐縮だけど物部氏永
国衙軍や後に武士へと発展する軍事貴族が台頭する遠因を作った人物
なのに教科書や概説書では何故かスルーされがち
奇しくも同年新羅で反乱を起こし後三国時代のきっかけを作った哀奴、元宗とは
えらい違いである 王維(699〜759or701〜761)
詩人として著名な人物ではあるが、マイナーなのは彼の偉業の内、文人画の祖としての絵画面である。
文人画とは、要は職業画人の絵に対する、文人が詩の素養と書の技能で以て描いた絵を意味する。
王維が詩・書・画の三者(この三者に秀でた人物を三絶と呼ぶ)に秀でていたからこそ可能となった技で
あり、山水画の皴法の一つである披麻皴は、彼の創案にかかるという。
実に器用な人物であり、音楽にも詳しく、どんな曲を演奏しているのか分からない絵を入手した人がいた
時、王維に見せるとたちどころにどの曲のどの場面かを言い当てたという逸話が残されている。
後世、文人画は技量以上に感性と閃きで魅せる絵であると言われたが、技能的にも優れた面を発揮して
「(気韻よりも)技巧に走り過ぎている」と却って批判されたほどであった。
残念ながら、宋代にはまだあったらしい王維の絵は(真作らしき物は)現存しない。
阿倍仲麻呂と懇意にしていたことから、彼が帰国していれば貰った絵を持ち帰って日本国内に伝えていた
可能性もあるが、帰国が叶わなかったのは周知の通り。
同様に絵画面での偉業が知られない人物に、与謝蕪村がいる。
かつては俳人蕪村を知る者が画人蕪村を知らず、画人蕪村を知る者が俳人蕪村を知らぬことがあった。
しかし、今では俳人蕪村の方が著名であろう。文人画を能くし、また俳画を極めた偉人である。
「偉業を成し遂げたのに知名度に繋がっていない」という意味で挙げた。 韓志和
唐の穆宗に仕えたとされる日本人。
鳥の木彫りが得意であったが、内部にカラクリをとりつけると鳥は百尺も飛び上がり、彫ったの
がネコであれば、ネズミやスズメを捕らえてみせたという。
足を踏み入れれば竜の姿が現れるカラクリを披露した際には皇帝を驚かせてしまい、その謝罪
として蜘蛛の集団の細工を披露、これは涼州舞を舞って見せ、勿論ハエも捕らえて見せた。
皇帝は喜んで褒美を下賜したが、それらは人にやってしまった。終わる所を知らずという。
金剛三昧
晩唐の随筆『酉陽雑俎』に、著者の知人として名を挙げられた日本人の僧侶。
中天竺を二度訪問してナーランダー僧院で玄奘三蔵の壁画を見たといい、四川にも足を運んで
いたという話が書かれているが、日本側に記録はなく、伝記は不明である。
霊仙三蔵
興福寺の僧侶で、最澄や空海と共に唐に入り、後に日本でも珍重された『心地観経』の翻訳事業
に参加、皇帝から訳経僧の称号である「三蔵法師」を下賜される。
玄奘が最も有名であるが、同じ称号を持つ僧侶は複数存在する。
しかし、日本人で中国皇帝に認められた三蔵法師は、霊仙だけであった。
最後は名声を妬まれて毒殺されたといい、円仁の『入唐求法巡礼行記』に記録が残されている。 「然(938〜1016)
平安中期の僧侶。東大寺に入って華厳宗・三論宗を学び、また真言宗も学んだ。
972年、友人の義蔵と「愛宕山に一大伽藍を建立し、仏法を興隆せしめ、死後は兜卒天に転生
して弥勒菩薩の弟子となり、衆生を救済しよう」という誓いを立てる。
それから11年後、呉越国を経由して宋に入り、太宗に拝謁。
よくネットでここだけコピペされている「宋の太宗が日本では王朝が途絶えていないことを聞い
て嘆息した」という逸話は、この時のことである。
中国(※)ではすでに廃れていた『鄭注孝経』等を献上し、紫衣と旅費・物品を与えられて文殊
菩薩の聖地である五台山(清涼山)に巡礼。
巡礼後に都に戻って太宗に再度拝謁すると法済大師の号を授けられ、完成したばかりの勅版
大蔵経5048巻を始めとした経典を下賜されると、帰国の途に就く。
当初は中天竺までの巡礼をも考えていたらしいが、現実不可能と判断されたらしい。
台州で印度から伝来した「生きた釈迦を写した」という像を模刻するよう工匠に依頼、完成した
像を携えて帰国すると、天皇・貴族に歓迎される中、愛宕山に念願の大伽藍建立を企図した。
しかし、延暦寺の反対により頓挫。
東大寺別当に上るものの計画は果たせず、代って没後に弟子が愛宕山下に新寺を建立した。
五台山(清涼山)を意識した寺の号は、五台山清涼寺。
宋の工匠によって手がけられた本尊と共に現存する同寺は、現在浄土宗に属している。
※「哲学ニュース」あたりに転載された際、コメント欄で「当時中国なんてない」と言われた時の
ために述べておくと、四夷に対する「中国」は『詩経』や『呂氏春秋』にも見られる言葉である。 哲学ニュースの管理人って昔よく狼板で暴れてたヒスおばさんでしょ
こんな過疎板でもその名を聞くようになるとは感慨深いなぁしみじみ >現実不可能と判断されたらしい。
現実的に不可能、の間違いです。失敬。
高岳親王、栄西、明恵らも中天竺行きを計画して果たせませんでした。
明恵に至っては道中の日数まで計算して実現出来なかった。
もっとも明恵が天竺行きを諦めた年には、ヴィクラマシーラ僧院がイスラーム勢力により破壊されており、
その10年前にはナーランダー僧院も破壊されていたので、この時期には就学ではなく聖跡の巡拝が目
的になっていたとはいえ、行っても居づらかったでしょう。 >>17
去年1月〜3月のNHKラジオ第二放送、芸術その魅力「バッハ一族とその音楽」
でジルバーマンとクリストフォリを並べて取り上げていた。
クリストフォリがピアノ製造を本業にしたのに対し、ジルバーマン弟はオルガン製造の
片手間にピアノに手を出してた程度。
大バッハが使っていたのはこのジルバーマン。
バッハはやたらとピアノには注文を出してたらしいけど現存する曲は結局みあたらず。 早速脱線するけど、かつてNHKFMバロック音楽の楽しみで皆川達夫氏が、
大バッハは草創期の技術未完成のピアノには全く関心が無かった、と言ってた。
ジルバーマンのピアノを複数台所有し、こうしたほうがいい、ああしたほうがいい
と口うるさく注文をしていたことは当時知らなかったのかな。 インドと中東の学者全般
教科書に載ってるのってイブン・スィーナーぐらいか? バッハといえば、バッハが「死後忘れ去られていたのがメンデルスゾーンの再演で再評価された」
とよく言われますが、音楽家・インテリの間ではその間も知られており、楽譜が何度も書写されて
いたということですね。
メンデルスゾーンはバッハの「マタイ受難曲」をコンサートに引っ張り出し、自らの指揮で演奏した
が、そもそも過去の曲をコンサートで演奏するという習慣自体が定着していなかったとか。 >>25
こういうスレで真っ先に挙げられるのはラマヌジャンでしょうか。
かつては扁鵲と並び称された名医の耆婆(ジーヴァカ、ジーワカ)も今やマイナー偉人。
マキャベリは有名なのに、『実利論』の著者に仮託されたカウティリヤは無名。
学者では初期の進化論者であるウォレス(ウォレス線に名を残す)、感染防止のための手洗い
を主張したゼンメルヴァイスも功績の割に無名。
ゼンメルヴァイスと同時代人のナイチンゲールは、当時の常識通りに包帯を使いまわしていた
ところ、感染したせいでナイチンゲールが来る前に放置されていた頃より兵士が死亡、統計の
結果、自分に問題があることに気付き、新規の包帯を大量に用意する様かけあっています。
1、原因を数字で突き止める 2、自分に問題があったことを認める 3、物資を全力で確保する
これを全部やったところが、ナイチンゲールのナイチンゲールらしい偉業。
運もありますが、ゼンメルヴァイスの中身がナイチンゲールなら、あんな最後は遂げずに済んだ
やもしれず、その辺りが同じ偉人でも知名度を分けたと言えるかも知れません。
子供向けの伝記小説・漫画にするにしても、救いが無さ過ぎる。 牧谿
日本限定の中国の偉人、というややこしい人物。
13世紀後半に活躍した禅僧であり、水墨画で名をなしたが、その作品は線を用いない没骨という
描法を用いた物であった。
中国では画の六法といって踏まえるべき六つの要諦が存在していたが、牧谿の作品は穏当に過
ぎ、かつ筆跡による感情表現に乏しかったことから、六法中最も重視された「気韻生動」に欠ける
ところありとし、中国では重んぜられなかった。
ところが、ちょうど禅文化を輸入していた日本では、牧谿の作品がおおいに好まれた。
元々日本では掛軸と言えば仏画・神画の礼拝用であり、観賞用には屏風や絵巻が用いられてい
たのだが、日常生活の万事に仏道を見出す禅宗の影響で、山水や花鳥、禅宗史上の人物の姿
も掛軸で鑑賞されるようになっていた頃であった。
温雅な作風が、画の六法について知られていなかった日本人の好みに合致したのである。
足利将軍家では、夏珪や梁楷と並んで最上級に位置づけられ、模倣する画家が続出した。
ただの後追いではなく、実力も見識もある一流の画家も牧谿の作品を意識した作品を残した。
漫画『へうげもの』には牧谿の作品や名前が何度か登場しているが、主人公古田織部が俵屋宗達
に対し「いまだ牧谿の模倣」と言っていたのは、その影響の甚大さを前提にしている。
全ての画家があからさまに模していたわけではないが、意識するなというのは「永井と富野を連想
させることなくロボットアニメを作り、かつ名作化せよ」というくらいの難題であった。
現在、作品の多くは日本に伝存しており、日本向けに明から贋作も輸出されたと考えられている。
近代日本で最も上手い日本画家である竹内栖鳳(弟子の上村松園や、同時代の横山大観よりも
マイナー)は画室に牧谿の竹雀図の複製を掛けていたが、雀図を得意としていた彼ですら、牧谿
ほどに上手い雀を描くことは容易ではないと、自ら述べていたという。 潘銅
www.geocities.jp/jiangnankejp03/book/jnihonzo/nihonzo_3-4.htm
>もともと浙江省の人だったが、幼いころ倭冦にさらわれて十年ほど日本に住んでいた。その間、鏤金の技術を習って、「金銀倭花」を彫刻する技をことごとく身につけた。
>帰国してからはその特技を生かして銅器をつくり、世には「仮倭炉」と呼ばれる。
>潘銅のつくった「倭尺」は一見して他と違わないが、中腹を空にして文房具十数点を内蔵している。またハサミは折り畳み式につくられ、当時は珍しいものとされる。
>その他、「銅合子、途利筒、彝炉、花瓶」などは金銀を象眼し、模様を彫り刻み、倭製の本物に勝るとも劣らないほど精巧を極めているという。 国友一貫斎(1778〜1840)
江戸後期の銃工。京都新聞の連載小説で主人公を務めたこともあるので、同紙の読者にとってはマイナーでもないか。
ロシアやイギリスの船が日本近海に出没する緊張した時代、西洋の知識を貪欲に吸収し、オランダ製品を調べた上で
改良した空気銃を製作したこと、硝石の不足を懸念しつつロシアの樺太襲撃に悩んでいた幕府の命を受け、鋼鉄製の
弩を製作したこと、銃の製法を公開した上で規格化したことが、武器に関する主な功績である。
空気銃を製作した際、充填する空気から「空気に重量がある」ことに気付いた最初の日本人ともいう。
彼の空気銃は、最終的には20連発が可能な性能となっていた。
また倍率60倍の反射望遠鏡を製作し、月面等のスケッチを残したことから、小惑星の名前にもなっている。
実際に飛ぶような構造ではなかったが、グライダーのような飛行機械の図面も残していた。
スケッチも含め画力も優れていたらしく、彼の肖像画は、彼が自分が描いた鷹が絵から飛び出したという夢を見たので、
絵師の山縣岐鳳に描いて貰った物である。
同時代人の久米通賢(1780〜1841)も、空気銃を含む技術者としての成果を出した有能な人物。
1815年に中国の兵書からホイールロック式の銃を考案し、1839年には雷管式の銃も開発している。
しかし、戦後の平和教育の影響か、この二人が「郷土の偉人」とされる場合でも銃器関係は等閑にされている気がします。 ところで、ムササビの世を忍ぶ仮の姿である山野野衾氏はメジャーなお方なの? ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731〜1810)
イギリスの化学者であり、両親とも父が公爵という名門に生まれた。
家柄相応の莫大な遺産を相続しており、英国有数の資産家であったため、引きこもって好きな
研究に熱中することが出来る環境にあった彼は、生涯に多くの重要な発見をした。
水素やアルゴンの発見、シャルルよりも早いシャルルの法則の発見、オームよりも早いオーム
の法則の発見などである。
しかし、極度の人間嫌いであり、人と会っても会話をしない程であったため、彼の研究成果の多
くは死後に発見されたものである(応答は基本的にジェスチャーや筆談)。
とにかく変わり者であり、以下のような逸話が伝えられている。
(仲良くしている夫婦を見て)「あれは何をしているのか?」
(肉は羊しか食べなかったが)「羊は何本脚があるのか?」
(死の前に告解僧を呼ぶことを勧められて)「僧とはなんだ?」
係累のジョン・キャヴェンディッシュ(?〜1879)も、極端に風変わりな人物であった。
父が死ぬと十年の歳月と莫大な遺産の一部を費やして屋敷の地下に一大空間を建設、中心に
は100m四方を超える居室があり、一角にはどういう訳か古い髑髏が飾られていた。
主のジョンは常に仮面をつけており、死んだ時にも仮面を外させず、そのまま葬られたという。
地下空間からは五十以上の出入り口が伸びており、出しぬけにどこからか現れると使用人たち
に命を下したり、なまけているのを叱責していた。
また地下室から直接馬車を繰り出させてロンドンへ行ったが、その際従者たちは馬車を置き去り
にして一旦立ち去り、また迎えに来なければならなかった。
主がその間どこで何をしているかは誰も知らず、そもそも窓も閉められているので、主が本当に
馬車の中にいるのかすら分からなかったという。
貴族院議員であったが、議会にも顔を出さなかった(こういう人は結構いたらしいが)。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています