なぜかまだWikipediaに記載がなかったので。

李淳風(602〜670)
唐代の人。出生地は岐州。本貫地は太原。父は隋に仕えていたが地位は低く収入も見合わなかったため、
官を捨てて道士となり、自ら黄冠子と号して『老子』に注を加えるなど文才があったという。
淳風も幼い頃から学才に富み、諸書を博捜して倦むことがなく、特に天文・暦算・陰陽の学に精通していた。
貞観の初めに当時の天体観測が北魏の遺風で古くなっていることを奏上し、太宗の命を受けて貞観七年に
銅製で三層構造になった天体観測機「渾天儀」を完成させる。
『晋書』と五代史の天文・律暦・五行志は、淳風が執筆したものである。
また、彗星の尾が、太陽とは反対方向に伸びることを発見した人物でもある。

さて、古代より天文観測と切り離せなかったのが占星術である。当時の中国も例外ではなかった。
太宗の世に「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、太宗も気にしていた。
後世に中国七大予言書の一つ『蔵頭詩』の作者とされた淳風とのやり取りは、以下の通り。
淳風「すでにその兆しは御座います。その人は陛下の宮中におり、今から三十年以内には天下をとり、唐朝
の子孫を殺害してしまいましょう。」
太宗「疑わしい者を、ことごとく殺してしまえばどうであろうか。」
淳風「天命は避けがたい者で、王者は死なず、ただ無辜の者を殺めるばかりになりましょう。また更に三十年
が経てばその者は老い、老いては慈悲を知る様になります。たとえ易姓に至るとも陛下の子孫を甚だしく損な
うことは御座いますまいが、もし殺そうとなされば、怨んで厳しくなり、陛下の子孫を残しますまい。」

かくして、太宗は天下をとるという女主を殺そうとする計画を止めた。
武則天が周の皇帝として即位するのは、淳風の死から二十一年後のことである。