超マイナーな歴史上人物を挙げるスレ
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クラーラ・ペタッチ Clara Petacci (1912-1945) イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニの愛人。 ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンの知名度とは比較にならず ムッソリーニと共に処刑され逆さづりの目にあったことだけで 歴史に名を残しているかわいそうな女性。 リエンツィ 中世ローマの護民官 横暴を極めるローマ貴族と対決、勝利し一時は市民のための政治を勝ち取る。 しかし、その後誇大妄想じみた言動を繰り返し、 次第に支持を失い、 最期は恐怖政治に走り、暴徒化したローマ市民に惨殺された。 ヤン・ファン・デル・ヘイデン(1637〜1712) よく似た名前のサッカー選手(1988〜)とは別人。 緻密な建物の描写と、高い空を組み合わせた風景画を専門としていた。 オランダのダ・ヴィンチとも呼ばれるが、これは画家にして発明家でもあったことに由来する。 当時のアムステルダムでは火災が頻発しており(現存する17世紀の建築は二棟のみ)、ヘイデン により発明された「消防ホースつき消防車」はおおいに珍重され、彼は消防隊長に任命された。 ガラスのランタンに入れられたオイルランプの街灯も彼の発明であり、1668年にアムステルダムの 街を照らすと、19世紀半ばまで使用された(イギリスで1792年にガス灯が発明され、1797年にイギ リスのマンチェスターで街灯として使用され、次第に欧州各地に広まっていった)。 先月ようやくWikipediaに記事が出来たので、 ソルカン・シラの名を挙げておこうかな モンゴルの零細な部族に生まれた平凡な男だが、この人物がある日 親切心で行った行為が、13世紀以降のユーラシア大陸の歴史を 根本から書き替えることになってしまった。 まあ、余計なことをしやがってという意見も当然あるだろうが・・・ なるほど、追われるテムジンをかくまってやったのか。 後の西夏に金、宋に高麗 あるいは西のオアシス国家にロシアから見ればまさに 「余計な事しやがって!」だな。 そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、誤解から雇人を殺した。そして事の露見を恐れて呂伯奢も殺してしまった。 その時に曹操と同行していた陳宮は彼のサイコパスぶりに呆れて、寝入った曹操を殺そうとするが、なぜか思いとどまる。 後で思えば「ここで殺しておけば…」だな >そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、誤解から雇人を殺した。 >そして事の露見を恐れて呂伯奢も殺してしまった。 裴松之は『魏書』・『世語』・『雑記』を引用しており、後二者はあまり信用出来ないとしています。 『魏書』は息子と食客が曹操の馬と持ち物を奪おうとしたので数人を殺害して去ったとしており、 『世語』では五人の息子たちは礼儀が備わっていたが曹操は自分を殺すつもりかと疑って八人 を殺害して去ったといい、『雑記』では食器を用意する音で自分を殺すつもりかと疑って殺害し 「自分が他人を裏切ろうとも、他人に自分を裏切らせまい」と言ったとなっています。 『魏書』と『世語』によると、呂伯奢は不在であり、殺されておりません。 食客もいてそれなりの家でしょうに、馬と持ち物を奪おうとするのも妙な話です。 何かトラブルがあったのは事実でしょうが、いずれにせよ殺害人数は数人ないしは八人とされ、 皆殺しには至っておりません。曹操の供は『魏書』では数騎であったとされています。 呂家内で曹操の処遇をめぐって意見が分かれ、通報を試みた側が殺害されたということかもし れませんね。殺害後も通報されていないなら、生き残った呂家の人間も了承済みでしょう。 『魏史』の同じ箇所に、曹操が一旦拘留されたが役人の判断で釈放されたという記述もあります。 呂家に限らず、当時の情勢について意見は色々あったと思われます。 ただ、『三国志演義』にあるような「豚を殺そうとしていたのを誤解して」は嘘でしょう。 「旅客が宿の人間の発言を聞いて自分を害するのだと誤解する話」は世界的に分布しているも ので、ナバラ王妃マルグリット・ド・ナヴァルが編纂した『エプタメロン』にもあります。 同時代に最古の刊本が出た『三国志演義』も、民話から取り入れたものでしょう。 両者では豚ですが、日本の民話では「はんごろし(おはぎ)と手打ち(蕎麦ないしは饂飩)」のどち らにしようかと相談するのを旅客が聞いて逃げ出すということになっています。 張治中 超マイナーというほどではないが、日中戦争を引き起こした人物にしては あまり名前が知られていない。放火犯としても史上屈指の人物である。 シャルル・エミール・レイノー(1844〜1918年) 1892年に世界で初めてアニメーション作品を創った人物。 すべてのアニメの原点である記念すべき作品『哀れなピエロ』は YouTubeで目にすることができる。 https://www.youtube.com/watch?v=426mqlB-kAY >>2 レオポルドも最初の動機は悪人じゃなかったんだがな…… >>126 ぱらぱらマンガの特許取得が開発から 結構遅くてびっくりしましたww 意外と技術的要素がありそうっすねぇ >>126 ルネラルーなど、のちのフランスアニメと、動きや音楽の使い方に共通性がある アメリカのクネクネした動き、日本のメリハリのある動き 同国人は無意識に継承してるんだろうか 陳持弓 漢の成帝の時代の人物。9歳の少女であった時、大水が来ると聞いて官署の脇の小門を勝手にくぐりぬけ、 未央宮の鉤盾まで入り込んでしまい、そこで初めて発見された。 これは外戚を利用した王莽の簒奪の予兆であると解釈されたこともあり、史書に記録された。 板垣退助(1837〜1919年) 征韓論争、自由民権運動で教科書に必ず載る上にお札にもなったなので 超マイナーとは言い難いが彼が戊辰の役で会津若松を攻略した官軍の参謀(司令官)だった ことはあまり知られていない マクシミリアン・ロベスピエール(1758年〜1794年) >>134 各地を転戦した維新最強の軍人さんだと思うのですが、、、 日本史の教科書は板垣退助のことを板垣死すとも自由は死せずの人としか書いてないと思う >>136 それが一般には知られていない >>137 同意 >>137 板垣が口にした台詞には諸説あり、別人の言葉だという説もありますね。 板垣退助が明治時代に庶民の絶大な人気を得ていたこともあまり知られていない ジャック・クール(1395〜1456) 百年戦争時代のフランスに現れた国の財政を預かる大金持ち Wikipedia先生によると 「ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、 最初の資本家としてその名が知られる」 そんな超お大尽なら名前は覚えておいた方がいいですな。 >>143 おいらもジャック・クールさん大好物っすねぇ 司馬遼の小説読んだことある人は板垣退助を維新最強の名将だと認識してくれてるはず 薩長に軍組織を占領されてなければこの人がトップになってただろうな ペドロ・デ・オルテガ スペイン人探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの部下。 次々と島を「発見」した上司が、気前よく命名権をくれた部下の中に混じっており、彼は自分が 命名してもよいと言われた島に故郷セビリアの地名をつけた。 「ガダルカナル」と。 なお、この島で砂金が採れたことで、ソロモン王にちなんで諸島はソロモン諸島と命名された。 面積は東京都の倍以上あり、案外大きな島である。 国家としてのソロモン諸島もイスラエル、マケドニア、ハイチ、ハワイ(僅差)よりも広い。 新世界の発見者ブジャルネ グリーンランドに渡った父とエリクを追ってグリーランドを目指すも 濃霧に阻まれ北風に流され漂流することになる。 幾日も漂流したあと陸地に漂着するが、 そこは噂に聞くグリーンランド特有の氷雪の高山はなく森に囲まれていたとのこと。 ミナミに下り過ぎたと思ったので二日北上したがそこもグリーンランドではなく さらに三日北上したがやっぱり目的地と違ってたらしい。 その後に西風に送られてグリーンランドに辿り着く。 グリーンランドに辿り着いたブジャルネの話を聞いた赤いエリクの息子 ライフ・エリクソンは興味を惹かれ、ブジャルネの船を買い求め 聞いた話に従い陸地に辿りつき、そこをヴィンランドと名づけた、、、 >>94 めっちゃ今さらですが 訂正ありがとうございました こういうの調べるの難しいので ネットのいいところですねぇ ジャック・クールはバルザック『幻滅』でも言及されてたな。 ジャンヌ・ダルクと並んで、国を救ったが国に裏切られて身を滅ぼした かわいそうな被害者の例として挙げられていた。 実際はかなり脂ぎった野心家のような気もするんだが・・・ 竹内理三 東大名誉教授 竹内理三の二男 東大名誉教授 竹内理三の三男 東大名誉教授 二代三人東大名誉教授 山野さんのガダルカナルで思い出したが・・・ 18世紀末のフランス海軍軍人ジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデック。 南太平洋の各地を巡る航海の途上で没したこの人物は、『日本沈没』に登場した 深海潜水艇や、某アニメでネモ船長が派手なドンパチを繰り広げた海溝にその 名前を残している。 かの海軍大佐が指揮を取っていたフリゲートの艦名がEspérance号だったのだが、 後世、ガダルカナル島から日本軍の生残兵が撤収した場所、エスペランス岬は 希望を意味するこのフランスの艦名から名付けられたらしい。 >>148 勿論最後は書籍で確認しないといけませんが、便利になりましたね。 >>150 竹内先生は『寧楽遺文』・『平安遺文』・『鎌倉遺文』で日本史を専攻した人間は(近世・近代史専攻でも学生時代の講義で) 嫌でも耳にする偉人ですね。 長男だけ有名でないのは、柳田國男の兄弟のようなものか。 その長男も立派な人であったという話ですが、有名でないのを気にすることもあった様です。 早世した兄弟以外は、長男が医師・町長、その下が万葉集研究(解釈が自由闊達過ぎたとも言われる)で著名な国文学者、 その下が柳田國男、その下が海軍大佐で民族学者で言語学者、その下が「最後の土佐派絵師」。 長男が「ただの医師で町長」扱いされる弟たちが凄すぎた。 実際は末弟の映丘以後も土佐派で描いた人はいますが、「 」内は映丘の自認したところです。 >>151 「希望」からの撤収ですか。因縁めいていますね。 ヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌス 16世紀のオランダのトンデモ論者。アムステルダムの医師。 1580年、古代エジプトの祭司が使用していた宗教言語はオランダ語だという珍説を提唱した。 ただし、この前後の時代の古代エジプトに関する議論は現代から見ればどこも奇矯なものが多い ので、近代の邪馬台国エジプト説ほどネタにすべきものではないかもしれない。 かのニュートンは、ギザの三大ピラミッドを紀元前9世紀の物としている。 東アジアでも、現代でこそ紀元前7〜5世紀頃とされている釈迦の誕生年は、かつては紀元前11世 紀とされていた(周の昭王の20年、24年、26年など)。 ※モーリス・ポープ『古代文字の世界』ではベカヌスの発表を1580年のこととするが、ウンベルト・エ ーコ『もうすぐ絶滅するという神の書物について』では、没年を1572年とする。 どちらが間違えたものか、あるいは死後の1580年になって発表されたものかは不明。 ※昭王の在位した時代・期間については諸説あり、『竹書紀年』は在位期間を19年とする。 チャールズ・ピアッツィ・スミス この人の息子でスコットランドの王立天文台長をつとめた ピラミッド・インチの発見者 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9 父ちゃんの経歴をウィキペディアさんから抜粋 その第2巻はベッドフォード・カタログとして知られ、スミスの観測した1600あまりの二重星、星雲が収録された。1845年に王立天文学会ゴールドメダルを受賞した。 また、1854年には、地中海における海域測量の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた[1]。 月の海スミス海は、スミスの功績を称えて命名された。 息子のチャールズ・ピアッツィ・スミスも天文学者となった。 チャールズは子午線弧の測量に参加し カナリア諸島のテネリフェ島で天体観測を行った。 そしてその後、ピラミッド研究家としてその筋で有名に、、、 「神は自身のの根源的な単位がユダヤの建築家によってエジプトのピラミッドに組み込まれよう配慮され、 それはイギリス人がこの単位を大英帝国単位系に含まれるようにする目的であった」 という主張は多くの人の心を捉えて放さない、、、 どうしてこうなったww チャーンド・ビービー インド中西部に存在したイスラーム国家アフマドナガル王国の摂政を務めた女性。 1591年、ムガル帝国皇帝アクバルは各国に遣使したが、アフマドナガル王国は15頭の象と僅かな織物・宝石を 返礼としたに過ぎず、服従の意無しと判断したアクバルは7万の兵と別働隊を派遣する。 これに対し、チャーンド・ビービーは抗戦し、ビジャープル王国とゴルコンダ王国はアフマドナガル王国に援軍を 派遣、カーンデーシュ王国も蔭ながら支援したことで、1596年、アクバルは攻略を諦め、和議を結ぶ。 アクバルは幼王バハードゥールの地位を認め、バハードゥールはアクバルの宗主権を認め、宝石や象を貢納し、 ベラール州を割譲することで収まった。 しかし、その後の宮廷闘争でチャーンド・ビービーの権勢は低下。1597年、再び戦争へと突入する。 野戦ではムガル帝国が勝利した物の、追撃能力を喪失した辛勝であった。 当初は西北からの敵性勢力の侵攻を恐れていたアクバルは動かずにいたが、西北が安全と見るや親征を開始。 1600年、アフマドナガルの要塞は陥落し、チャーンド・ビービーは戦死。バハードゥールは捕えられたのであった。 >>150 竹内理三って名前なのに東大理三でなく東大文三を受けたんだねw 鄭相如 唐の玄宗に仕え、詩書画に通じた三絶と賞賛された鄭虔に師事していた人物。 鄭虔は最初軽く見ていたが、鄭相如は自分に予知能力があると称し、開元が三十年で改元すること、 それから十五年後に戦乱が起き、賊が皇帝を称し、鄭虔が賊から官職を授かって汚名を蒙るので身 を慎むべきであることを言い、自身は官に就いてから三年後に亡くなること、その場所も述べた。 三年後、予知の通りに鄭相如は死に、後に鄭虔は大燕皇帝を称した安禄山に仕えることとなったが、 鄭相如の言葉を胸に身を慎み、同じく画に優れていた張通・王維と共に権力者であった崔円の屋敷 のために壁画を描いたこともあって、乱の平定後も死を免れることが出来たという。 『太平公記』にも同じような話があるが、史実として承服し難い点が多い。 楽安公主 北斉の暴君文宣帝高洋の姪にあたる。旦那とうまくやってるかと叔父に聞かれた公主は「旦那はいい人ですが、姑は嫌いです」と答えてしまう。 怒り狂った文宣帝は姑を連行すると酔った勢いで自ら斬り殺した。更に、遺体を川にぶちこんで弔いすら禁止する。さすがアル中である。 公主はさすがに動揺した。旦那は何事もなかったかのように公主を大切にした。このままいくのかと思われたのだが…。 北斉はあっけなく滅んだ。公主は突然捕らえられ庭先に連行された。憎悪に煮えたぎった旦那と一族が睨みつけてくる。 公主は必死に命乞いをしたが許されなかった。姑を讒言した悪嫁と糾弾され、旦那に斬り殺されてしまったのだった。 口は災いの元とはこの事であった。殺人癖のあるアル中皇帝に言ったらどうなるか分かってただろうに…。 柳夫人 唐の太宗に仕えていた兵部尚書任瓌の妻。 非常に嫉妬深い性格であり、夫が太宗から授かった二人の宮女に薬品をかけ、禿げさせてしまった。 これを知った太宗は夫人を召喚、金の酒壺に入れた酒を指して言った。 「これを飲めば死ぬ。お前の夫は朕の三品の臣であり、宮女たちは朕の使わした者である。今後妬か ねばよし、妬くというのならただちにこの酒を飲むのだ。」 しかし、夫人は怯まなかった。 「私と夫は元服以来の夫婦であり、共に糟糠を口にして今日に至った仲で御座います。上意とは申せ 他に女を蓄えるのが当然とされるのであれば、死んだ方がましで御座います。」 しかし、酒に毒は入っておらず、酩酊していた夫人は夜になって目を覚ました。 夫人を反省させようとした太宗は逆に夫人に感銘を受け、宮女二人は別宅に住まわせたという。 朱元璋も嫉妬深い妻の話を聞き、こちらは文字通り料理してやったという逸話がありますね。 >>158 名前ののんきさに浮かれちゃってる感が出てて悪くないですね >>158 当時の価値観を思えば、妻も相手が暴君でなかったとしても姑への不満を公言すべきではありませんでしたが、 夫と一門もおよそ大丈夫と言える人物ではありませんね。 忠と孝のどちらを優先させるかは一大問題でしたが、忠を優先させて孝を抑えたというのならまだしも、これでは 忠もなくただ命惜しさに孝を放棄したというに過ぎません。 一度よしとした以上、数年経って状況が変化してからまた罪の問うのは信も疑われます。 張懐瓘(ちょう・かいかん) 父・弟と共に書の才能に優れ、意識も高く、玄宗・粛宗の時代に技芸に優れた人物を挙げる 翰林院に属した人物。 同時代の書が見た目ばかりの派手なものになっていると批判し、古法に帰ることを主張し、 自らを誇ったが、その書は宋代にはすでに真蹟が見られなくなっていた様である。 書のみならず画の蒐集でも知られ、弟と共に後世に鑑蔵印が伝わった。 書そのものは現存しないものの、論書の著作は複数現存している。 カール・ハインツ・ブリュンゲル(1908-1999) フランスで活躍したロケットの設計技術者。フランス初の 人工衛星を打ち上げたディアマンロケットも、衛星打ち上 げで世界一のシェアを得たアリアンロケットも、この人物 が設計したロケットがベースになっている。 彼の手になるロケットによってフランスは衛星打ち上げ ビジネスという一大産業を得たわけで、その功績は本来 国をあげて顕彰すべきレベルだが、実際にはほとんど無視 というか、そんな人は居なかった扱いで、フランス語版 ウィキペディアには彼の記事すら存在しない。 旧敵国のドイツ出身で、V2ロケットの開発に参加したと いう前歴ではあるのだが、それにしても・・・ >>163 おぉ、これは素晴らしいww ロケットプランナーはけっこう長生きするイメージありますね 劉チョウ (チョウの字は金偏に長) 五代十国時代、現在の広東省付近にあった南漢国の最後の皇帝 極端に猜疑心が強く、忠臣を疑って次々と誅殺した あげく「普通の男子は子孫を作り、その子孫を大切にするから信用できない。子孫を作れない者なら忠義を尽くすだろう」 との考えのもと、宦官を重用、有能な人材がいればわざわざ去勢してから登用したため、朝廷はほぼ宦官で占められた。 おかげで、当時の南漢の成人男子のうち1割が去勢者だったという。 このような状況で人心は離反するなか、北宋の趙匡胤の攻撃を受ける。 信頼していた宦官にも財産を持ち逃げされ、南漢は滅亡。 劉チョウは捕えられ、北宋の開封に連行された。 そんなある日、趙匡胤は劉チョウに酒を下賜する。 かつて何人もの家臣を毒酒で誅殺してきた劉チョウは自身の運命を予感し、声を上げて泣いた。 趙匡胤は笑いながらその酒を飲み干し、劉チョウは大いに恥じたということだ。 南唐の後主である李Uの后であった、大司徒周宗の娘である姉妹。 姉がまず后となり、妹がソロラト婚で結ばれたため、大周后・小周后と呼ばれる。 大周后(936〜964)は19歳で輿入れし、李Uの即位後に国后に立てられた。 夫の李Uは政治的才能はなく、放蕩好きであったが、文芸・書・画・音楽に優れた才能を発揮 した人物であり、その李Uに寵愛された大周后も琵琶の演奏に優れ、玄宗が楊貴妃のために 作って散逸していた「霓裳羽衣曲」の楽譜の残欠を入手、復元している。 病床にあった時、4歳の息子が仏前(李Uは熱心な仏教信者であった)で遊んでいた所に猫が 来て瑠璃の灯篭を倒し、そのショックで病んで死んでしまったことを嘆き、そのためか大周后も 李Uの献身的な看病むなしく死んでしまう。29歳であった。 李Uは自ら誄を作って石に刻ませ、大周后の愛用の琵琶「金屑檀槽琵琶」を副葬品とし、自ら を「鰥夫U」と称するほどの嘆きようであったという。 小周后(?〜978)はその妹であり、968年に国后に立てられた。 しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、次々と口実を設けては臣従していた国々を併呑 しており、皇帝を国主、皇后を国后と称してへりくだっていた南唐も例外ではなかった。 李Uが開封への出頭を拒否したことで、宋は出兵。南方に位置してかつて南唐に大敗してい た呉越も侵攻したことで、975年、すでに国号すら廃して江南と称していた南唐は滅亡する。 李Uは逆らったというので違命侯に封じられ(普通は帰命侯とでもすべきところであり、嫌がら せめいた命名である)、小周后は鄭国夫人となった。 その後、小周后は時折太祖の後宮に呼び出された。入れば数日は帰って来なかった。 帰って来ると大声で泣いて李Uを責める声が外まで聞こえ、李Uは身をもじって逃げていた。 978年、李Uが亡くなる。一説に、旧臣に対して故郷を懐かしみ、降伏に繋がる判断をしたこと を悔いた発言を漏らし、それをとがめた太祖に毒殺されたのだという。 牽機薬という、機織のように体を何度も折り曲げて苦しんで死ぬという猛毒であった。 小周后は同年に没した。李Uの死の悲しみに耐え切れなかったためという。 李Uの生れた日と死んだ日は同じ七夕の日で、太祖から誕生祝に賜った酒が毒入りであった。 呉越の後主である銭弘俶も、やはり8月24日に生れて同日に死んでいる。 こちらも、太祖から誕生祝に賜った酒を飲んでの死であった。 李Uを毒殺したのは北宋の太祖じゃなくて、弟の太宗じゃなかったか? >>365 趙匡胤は976年に崩御しているので、太宗趙匡義だね つまり北宋の太祖は人格者、太宗は簒奪者ということでおけ? 「千載不決の議」はさすがに酒の飲み過ぎによる脳溢血だろうけど >>169 2ちゃんねるが始まったころは「李U」の字が文字化けしたんだっけなー >>174 創業の皇帝のなかで、宋太祖は漢光武帝とならんで戦い以外で人の命を奪うことをしなかった >宋太祖は漢光武帝とならんで 両社とも超メジャーな人物 北宋の太宗が李Uに毒を盛ったのは、文才に嫉妬したから? >>169 >しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、 実際に画を描いていたのは弟の趙匡義だがな 劉邦と同様に趙匡胤もただの神輿 >>141 俺は死んだツァーリだ!!って言ってたらいつのまにか 民衆が集まり愛されるようになって政府や教会にも厚遇されるようになったみたいな人か >>35 何処かにも書いたけど シモン・ステヴィンさんの影の薄さはやばいっすね 後にこの辺りの実験やった人はみんな有名になってる パクリなんじゃww https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3 1585年に著した『十進法(オランダ語版、英語版)(蘭: De Thiende, 仏: La Disme)』で十進数による小数の理論を提唱した。 現在、19.178と表す小数を「19?1@7A8」のように表した。 また、ステヴィンは他にも加算や減算を表す+や-のように様々な記号を導入した。 1586年には古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、天文学者、発明家のアルキメデスの研究を発展させ『吊り合いの原理 (オランダ語版、英語版)(蘭: De beghinselen der weeghconst)』を著した。 これには力のベクトル合成の理論、水圧について述べ、てこの原理の証明、 数珠を用いた思考実験により永久運動の不可能と斜面の法則について証明して力の平行四辺形の法則の発見に至った。 なお、『吊り合いの原理』の付録にはステヴィンが行った実験で、 重さが10倍異なる2つの物体を落下させるとほとんど同時に落下すると言う実験結果が示されている。 同年『水の重さの原理(De Beghinselen des Waterwichts)』を著し、 容器の形に関係なく水面は地球の球面と変わらず水の平衡状態に関して力の法則を導いている。 >>35 ちなみにヘンリー・キャヴェンディッシュさんは 日本国の高校の教科書にけっこう載ってるんじゃないかと思うので あんまりマイナーな感じはしないっすねぇ 実は本人が作っても計算してもなかったというのは驚きでしたがww >>182 グロスミッチェルは復活できないもんですかねー >>3 ハーバーさんに比べてボッシュさんの影の薄さは異常 と思って調べてみましたら、ハーバーさんより超重要人物のうえ 人間的な深みも感じられる逸話などもあり ちょっとビックリしました ハーバーさんみたいに一般受けする 派手なエピソードがないと流行らないんでしょうねぇ 潘彦 唐代の人。無類の双六好きであり、常に双六盤を放すことが無かった。 乗っていた船が海に沈んだ際、右手に板を、左手に双六盤をとり、口にサイコロを入れて漂流。 二日間漂流して岸についたが、それまでずっと双六盤もサイコロも放さずにいた。 ただ、それだけで歴史に名を残した人物。 朱友恭の呪い 朱友恭は唐を滅ぼした朱全忠の養子である。本名は李彦威という。 武勇に優れ実力はあるのだが、性格に問題があった。嫉妬深い性格だった。義父の実子に嫉妬するあまり誣告して窮地に追い込んだこともある。 そんな朱友恭は義父の命令で皇帝の監視役となった。喜び勇む朱友恭。義父が皇帝を弑逆する謀議にも加担した。 しかし、これは朱友恭を陥れる罠だった。義父は嫉妬深い朱友恭を疎んじていたのだった。朱友恭は李彦威に戻されたうえで、皇帝殺しの罪を全部押し付けられた。 処刑される際、朱友恭は髪を振り乱し鬼気迫る表情で絶叫した。「義父上は俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたのだ。鬼神よ! いかんせん、このような行為をして、朱家の子孫が存続すると思うのか?」と。 それからというもの、朱全忠は皇帝になれたものの次々と不幸に見舞われた。一族も不幸に見舞われた。そして朱全忠の一族はあっけなく滅んだのだ。 まるで、朱友恭の呪いにかかったかのように…。 チャンドラ・ボース 海の向こうの電波を受信して活躍 イスマーイール1世 16世紀初頭にイランで成立したイスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者。 超マイナーどころか、世界史上メジャーな人物だが、後世に与えた影響を鑑みると、不当に低い知名度に置かれている。 1487年、アルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれた。 西欧人が少年時のイスマーイール1世と謁見した時、「邪悪なほどに美しい」と言ったと言われ、幼少の頃から智勇に優れていた。 14歳で即位!して、37歳の若さで死去。 歴史家アーノルド・トインビーは大著「歴史の研究」で、シャー・イスマイールのことを、「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と述べている。 死に体だったシーア派を再興し、イスラム世界を事実上2つに割た当事者。 >>188 こっち向きの方ですね 過大評価・過小評価されている世界史の人物 [転載禁止](c)2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1420361359/1 1 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2015/01/04(日) 17:49:19.59 0 世界史において過大評価・過小評価されていると思う人物について話すスレ。 チャールズ・サンダース・パース 彼の偉大さをウィキペディア先生から抽出していく とりあえずカーネル・サンダースのほうが有名かと思います、、、 生涯 プラグマティズムの創始者として知られる。 「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる。 8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。 1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与 1867年のアメリカ芸術科学アカデミーでパースは、 すでに1847年にブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。 学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダーの『論理の代数についての講義』に引き継がれ、 さらにラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。 ちなみに彼の発見は 論文や著作を完成させられないという特殊能力のため ほとんど発表されなかったらしいww カントール、デデキントと有名人が並びます >>191 数学 パースの純粋数学における研究は 数論、線型代数学、トポロジー、リスティンク数、射影幾何学、四色問題、集合論、ブール代数、そして連続体の研究に及ぶ。 応用分野としては経済数学、地図の投影法、確率論、統計学などを研究した。 数学における発見 パースは基礎数学や形式論理学でいくつもの重要な発見をしているが、そのほとんどは死後まで評価されることはなかった。 1860年には、無限数の基数演算を提案した[14]。これはゲオルク・カントールの超限数の研究の前であり(カントールが博士論文を完成させたのは1867年である)、 ベルナルト・ボルツァーノの『無限の逆説』(Paradoxien des Unendlichen;1851)へのアクセスがない状態で書かれている。 1881年の「数の論理について」で、パースは自然数算術の公理化を提示した[15]。 これはリヒャルト・デデキントとジュゼッペ・ペアノによる公理化の数年前である。 またこの同じ論文においてパースは、デデキントよりも前に、今日で言うデデキント有限性に相当する有限集合の定義を初めて与えている。 これは、「その真部分集合との間に単射対応が存在する集合」という無限集合の重要な形式的定義(デデキント無限)を含意している。 >>191 形式論理学における発見 1880-1881年には、否定論理和のfunctional completeness(en:Functional completeness)を示した[35]。 これはヘンリー・M・シェファー(en:Henry M. Sheffer)の研究の33年前である。 1885年の「論理代数について」で、パースは一階の量化と二階の量化を区別した[36]。 またこの同じ論文において彼は初めての公理的集合論として読めるものを提示しているが、 これはエルンスト・ツェルメロの研究の20年以上前である。 1890年代後半までには、述語論理の図表的記法である存在グラフを開発していた。 特殊科学における発見 1886年にはブール演算が電子回路によって実現され得ることに気付いていた[64]。 これはこんにちのコンピュータに代表されるディジタル回路と呼ばれる電子回路の応用そのものと言える発想であり、 日本の中嶋章やクロード・シャノンによる成果の50年以上も前である。 未発表で死後発見されたパターンの世に埋もれた天才多そう 解説動画で見たけどヘンリー・キャヴェンディッシュもそうだったみたいね ノアイユ子爵 ラファイエットの義兄で、共にアメリカ独立戦争の戦場を渡り歩き、 フランス革命では封建制度の廃止を一番に主張したかっこいい青年貴族。 そんなに活躍したのに、なぜだか歴史書の上で影が薄い・・・ チャールズ・ホイットマン テキサァァァァスタワー乱射事件の犯人だけどイギリスの特殊部隊のSWET設立の原因になったからある意味偉人 セミョン・デジニョフ ベーリング海峡を発見した人 記録に残る中で最初なのに影薄レベルは高い気がしますね、、、 ベーリング海峡のベーリングと比べれば見劣りするがデジニョフ岬で名前が付いてるので超マイナーという程ではない デジニョフ岬 ベーリング海峡のロシア側なのか 初めて知ったわ 1739年に日本に来航したマルティン・シュパンベルクもなぜかマイナーだな 江戸幕府が北方に巨大な帝国が存在すると気が付いたのは彼が来たからだし、 元祖黒船はペリーじゃなくシュパンベルクなのに、一般的知名度ゼロでかわいそう。 おいら 歴史上ニートであることが保証された 完全無欠のニート ひきこもりで人前じゃしゃべれないという得意技もある 元祖自宅警備員 これほど数々の偉業を成し遂げながら、ほぼ無名です、、、 >>201 世界史版の住民の間では存在を認知されているよ(たぶん) ソンチェンガンポ かこのスレにちょうど良いんじゃね? 偉業の割に知られなさすぎ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ソンツェン・ガンポ >>197 ベーリング海挟んで対岸のスワードもええんちゃう。 アラスカ買った国務長官 >>203 チベット史自体がまず一般的に知られていなすぎだがソンツェンガンポぐらいなら吐蕃の国名とセットで憶える基礎教養レベルだろう それより吐蕃帝国をぶっ壊した末代のランダルマこそ超マイナーなのではないか? >>204 アラスカ買収について「スワードの冷蔵庫と嘲笑された」と書く歴史書もあるが、 冷蔵に天然の氷を使うしかなかった当時は、冷蔵設備の整った倉庫というのは 成長株の産業であり、実際はスワードに対する賛辞であったのではなかろうか。 レオポルト・インフェルト ユダヤ系ポーランド人の理論物理学者 アインシュタインの弟子にして共同研究者 アインシュタインとの共著『物理学はいかに創られたか』は 数式は頭が受け付けないけれど相対性理論をかじりたいという 文系の人に優しいロングセラーな入門書 >>205 ランダルマ廃仏王きたー!いいとこつくなぁ 確かにそう思うとソンチェンガンポは有名人か…(;´Д`) >>206 何それ初めて聞いた。 なるほど経済背景を知らないと賛辞も皮肉に見えてしまうわけか。 アルトゥール・シェルビウス 発明家。 第二次世界大戦の行方を左右する重要な機器を開発し アメリカで特許も取得しこれからというとこで 行く末を見届けることなく1929年に死亡した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる