超マイナーな歴史上人物を挙げるスレ
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張治中 超マイナーというほどではないが、日中戦争を引き起こした人物にしては あまり名前が知られていない。放火犯としても史上屈指の人物である。 シャルル・エミール・レイノー(1844〜1918年) 1892年に世界で初めてアニメーション作品を創った人物。 すべてのアニメの原点である記念すべき作品『哀れなピエロ』は YouTubeで目にすることができる。 https://www.youtube.com/watch?v=426mqlB-kAY >>2 レオポルドも最初の動機は悪人じゃなかったんだがな…… >>126 ぱらぱらマンガの特許取得が開発から 結構遅くてびっくりしましたww 意外と技術的要素がありそうっすねぇ >>126 ルネラルーなど、のちのフランスアニメと、動きや音楽の使い方に共通性がある アメリカのクネクネした動き、日本のメリハリのある動き 同国人は無意識に継承してるんだろうか 陳持弓 漢の成帝の時代の人物。9歳の少女であった時、大水が来ると聞いて官署の脇の小門を勝手にくぐりぬけ、 未央宮の鉤盾まで入り込んでしまい、そこで初めて発見された。 これは外戚を利用した王莽の簒奪の予兆であると解釈されたこともあり、史書に記録された。 板垣退助(1837〜1919年) 征韓論争、自由民権運動で教科書に必ず載る上にお札にもなったなので 超マイナーとは言い難いが彼が戊辰の役で会津若松を攻略した官軍の参謀(司令官)だった ことはあまり知られていない マクシミリアン・ロベスピエール(1758年〜1794年) >>134 各地を転戦した維新最強の軍人さんだと思うのですが、、、 日本史の教科書は板垣退助のことを板垣死すとも自由は死せずの人としか書いてないと思う >>136 それが一般には知られていない >>137 同意 >>137 板垣が口にした台詞には諸説あり、別人の言葉だという説もありますね。 板垣退助が明治時代に庶民の絶大な人気を得ていたこともあまり知られていない ジャック・クール(1395〜1456) 百年戦争時代のフランスに現れた国の財政を預かる大金持ち Wikipedia先生によると 「ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、 最初の資本家としてその名が知られる」 そんな超お大尽なら名前は覚えておいた方がいいですな。 >>143 おいらもジャック・クールさん大好物っすねぇ 司馬遼の小説読んだことある人は板垣退助を維新最強の名将だと認識してくれてるはず 薩長に軍組織を占領されてなければこの人がトップになってただろうな ペドロ・デ・オルテガ スペイン人探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの部下。 次々と島を「発見」した上司が、気前よく命名権をくれた部下の中に混じっており、彼は自分が 命名してもよいと言われた島に故郷セビリアの地名をつけた。 「ガダルカナル」と。 なお、この島で砂金が採れたことで、ソロモン王にちなんで諸島はソロモン諸島と命名された。 面積は東京都の倍以上あり、案外大きな島である。 国家としてのソロモン諸島もイスラエル、マケドニア、ハイチ、ハワイ(僅差)よりも広い。 新世界の発見者ブジャルネ グリーンランドに渡った父とエリクを追ってグリーランドを目指すも 濃霧に阻まれ北風に流され漂流することになる。 幾日も漂流したあと陸地に漂着するが、 そこは噂に聞くグリーンランド特有の氷雪の高山はなく森に囲まれていたとのこと。 ミナミに下り過ぎたと思ったので二日北上したがそこもグリーンランドではなく さらに三日北上したがやっぱり目的地と違ってたらしい。 その後に西風に送られてグリーンランドに辿り着く。 グリーンランドに辿り着いたブジャルネの話を聞いた赤いエリクの息子 ライフ・エリクソンは興味を惹かれ、ブジャルネの船を買い求め 聞いた話に従い陸地に辿りつき、そこをヴィンランドと名づけた、、、 >>94 めっちゃ今さらですが 訂正ありがとうございました こういうの調べるの難しいので ネットのいいところですねぇ ジャック・クールはバルザック『幻滅』でも言及されてたな。 ジャンヌ・ダルクと並んで、国を救ったが国に裏切られて身を滅ぼした かわいそうな被害者の例として挙げられていた。 実際はかなり脂ぎった野心家のような気もするんだが・・・ 竹内理三 東大名誉教授 竹内理三の二男 東大名誉教授 竹内理三の三男 東大名誉教授 二代三人東大名誉教授 山野さんのガダルカナルで思い出したが・・・ 18世紀末のフランス海軍軍人ジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデック。 南太平洋の各地を巡る航海の途上で没したこの人物は、『日本沈没』に登場した 深海潜水艇や、某アニメでネモ船長が派手なドンパチを繰り広げた海溝にその 名前を残している。 かの海軍大佐が指揮を取っていたフリゲートの艦名がEspérance号だったのだが、 後世、ガダルカナル島から日本軍の生残兵が撤収した場所、エスペランス岬は 希望を意味するこのフランスの艦名から名付けられたらしい。 >>148 勿論最後は書籍で確認しないといけませんが、便利になりましたね。 >>150 竹内先生は『寧楽遺文』・『平安遺文』・『鎌倉遺文』で日本史を専攻した人間は(近世・近代史専攻でも学生時代の講義で) 嫌でも耳にする偉人ですね。 長男だけ有名でないのは、柳田國男の兄弟のようなものか。 その長男も立派な人であったという話ですが、有名でないのを気にすることもあった様です。 早世した兄弟以外は、長男が医師・町長、その下が万葉集研究(解釈が自由闊達過ぎたとも言われる)で著名な国文学者、 その下が柳田國男、その下が海軍大佐で民族学者で言語学者、その下が「最後の土佐派絵師」。 長男が「ただの医師で町長」扱いされる弟たちが凄すぎた。 実際は末弟の映丘以後も土佐派で描いた人はいますが、「 」内は映丘の自認したところです。 >>151 「希望」からの撤収ですか。因縁めいていますね。 ヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌス 16世紀のオランダのトンデモ論者。アムステルダムの医師。 1580年、古代エジプトの祭司が使用していた宗教言語はオランダ語だという珍説を提唱した。 ただし、この前後の時代の古代エジプトに関する議論は現代から見ればどこも奇矯なものが多い ので、近代の邪馬台国エジプト説ほどネタにすべきものではないかもしれない。 かのニュートンは、ギザの三大ピラミッドを紀元前9世紀の物としている。 東アジアでも、現代でこそ紀元前7〜5世紀頃とされている釈迦の誕生年は、かつては紀元前11世 紀とされていた(周の昭王の20年、24年、26年など)。 ※モーリス・ポープ『古代文字の世界』ではベカヌスの発表を1580年のこととするが、ウンベルト・エ ーコ『もうすぐ絶滅するという神の書物について』では、没年を1572年とする。 どちらが間違えたものか、あるいは死後の1580年になって発表されたものかは不明。 ※昭王の在位した時代・期間については諸説あり、『竹書紀年』は在位期間を19年とする。 チャールズ・ピアッツィ・スミス この人の息子でスコットランドの王立天文台長をつとめた ピラミッド・インチの発見者 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9 父ちゃんの経歴をウィキペディアさんから抜粋 その第2巻はベッドフォード・カタログとして知られ、スミスの観測した1600あまりの二重星、星雲が収録された。1845年に王立天文学会ゴールドメダルを受賞した。 また、1854年には、地中海における海域測量の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた[1]。 月の海スミス海は、スミスの功績を称えて命名された。 息子のチャールズ・ピアッツィ・スミスも天文学者となった。 チャールズは子午線弧の測量に参加し カナリア諸島のテネリフェ島で天体観測を行った。 そしてその後、ピラミッド研究家としてその筋で有名に、、、 「神は自身のの根源的な単位がユダヤの建築家によってエジプトのピラミッドに組み込まれよう配慮され、 それはイギリス人がこの単位を大英帝国単位系に含まれるようにする目的であった」 という主張は多くの人の心を捉えて放さない、、、 どうしてこうなったww チャーンド・ビービー インド中西部に存在したイスラーム国家アフマドナガル王国の摂政を務めた女性。 1591年、ムガル帝国皇帝アクバルは各国に遣使したが、アフマドナガル王国は15頭の象と僅かな織物・宝石を 返礼としたに過ぎず、服従の意無しと判断したアクバルは7万の兵と別働隊を派遣する。 これに対し、チャーンド・ビービーは抗戦し、ビジャープル王国とゴルコンダ王国はアフマドナガル王国に援軍を 派遣、カーンデーシュ王国も蔭ながら支援したことで、1596年、アクバルは攻略を諦め、和議を結ぶ。 アクバルは幼王バハードゥールの地位を認め、バハードゥールはアクバルの宗主権を認め、宝石や象を貢納し、 ベラール州を割譲することで収まった。 しかし、その後の宮廷闘争でチャーンド・ビービーの権勢は低下。1597年、再び戦争へと突入する。 野戦ではムガル帝国が勝利した物の、追撃能力を喪失した辛勝であった。 当初は西北からの敵性勢力の侵攻を恐れていたアクバルは動かずにいたが、西北が安全と見るや親征を開始。 1600年、アフマドナガルの要塞は陥落し、チャーンド・ビービーは戦死。バハードゥールは捕えられたのであった。 >>150 竹内理三って名前なのに東大理三でなく東大文三を受けたんだねw 鄭相如 唐の玄宗に仕え、詩書画に通じた三絶と賞賛された鄭虔に師事していた人物。 鄭虔は最初軽く見ていたが、鄭相如は自分に予知能力があると称し、開元が三十年で改元すること、 それから十五年後に戦乱が起き、賊が皇帝を称し、鄭虔が賊から官職を授かって汚名を蒙るので身 を慎むべきであることを言い、自身は官に就いてから三年後に亡くなること、その場所も述べた。 三年後、予知の通りに鄭相如は死に、後に鄭虔は大燕皇帝を称した安禄山に仕えることとなったが、 鄭相如の言葉を胸に身を慎み、同じく画に優れていた張通・王維と共に権力者であった崔円の屋敷 のために壁画を描いたこともあって、乱の平定後も死を免れることが出来たという。 『太平公記』にも同じような話があるが、史実として承服し難い点が多い。 楽安公主 北斉の暴君文宣帝高洋の姪にあたる。旦那とうまくやってるかと叔父に聞かれた公主は「旦那はいい人ですが、姑は嫌いです」と答えてしまう。 怒り狂った文宣帝は姑を連行すると酔った勢いで自ら斬り殺した。更に、遺体を川にぶちこんで弔いすら禁止する。さすがアル中である。 公主はさすがに動揺した。旦那は何事もなかったかのように公主を大切にした。このままいくのかと思われたのだが…。 北斉はあっけなく滅んだ。公主は突然捕らえられ庭先に連行された。憎悪に煮えたぎった旦那と一族が睨みつけてくる。 公主は必死に命乞いをしたが許されなかった。姑を讒言した悪嫁と糾弾され、旦那に斬り殺されてしまったのだった。 口は災いの元とはこの事であった。殺人癖のあるアル中皇帝に言ったらどうなるか分かってただろうに…。 柳夫人 唐の太宗に仕えていた兵部尚書任瓌の妻。 非常に嫉妬深い性格であり、夫が太宗から授かった二人の宮女に薬品をかけ、禿げさせてしまった。 これを知った太宗は夫人を召喚、金の酒壺に入れた酒を指して言った。 「これを飲めば死ぬ。お前の夫は朕の三品の臣であり、宮女たちは朕の使わした者である。今後妬か ねばよし、妬くというのならただちにこの酒を飲むのだ。」 しかし、夫人は怯まなかった。 「私と夫は元服以来の夫婦であり、共に糟糠を口にして今日に至った仲で御座います。上意とは申せ 他に女を蓄えるのが当然とされるのであれば、死んだ方がましで御座います。」 しかし、酒に毒は入っておらず、酩酊していた夫人は夜になって目を覚ました。 夫人を反省させようとした太宗は逆に夫人に感銘を受け、宮女二人は別宅に住まわせたという。 朱元璋も嫉妬深い妻の話を聞き、こちらは文字通り料理してやったという逸話がありますね。 >>158 名前ののんきさに浮かれちゃってる感が出てて悪くないですね >>158 当時の価値観を思えば、妻も相手が暴君でなかったとしても姑への不満を公言すべきではありませんでしたが、 夫と一門もおよそ大丈夫と言える人物ではありませんね。 忠と孝のどちらを優先させるかは一大問題でしたが、忠を優先させて孝を抑えたというのならまだしも、これでは 忠もなくただ命惜しさに孝を放棄したというに過ぎません。 一度よしとした以上、数年経って状況が変化してからまた罪の問うのは信も疑われます。 張懐瓘(ちょう・かいかん) 父・弟と共に書の才能に優れ、意識も高く、玄宗・粛宗の時代に技芸に優れた人物を挙げる 翰林院に属した人物。 同時代の書が見た目ばかりの派手なものになっていると批判し、古法に帰ることを主張し、 自らを誇ったが、その書は宋代にはすでに真蹟が見られなくなっていた様である。 書のみならず画の蒐集でも知られ、弟と共に後世に鑑蔵印が伝わった。 書そのものは現存しないものの、論書の著作は複数現存している。 カール・ハインツ・ブリュンゲル(1908-1999) フランスで活躍したロケットの設計技術者。フランス初の 人工衛星を打ち上げたディアマンロケットも、衛星打ち上 げで世界一のシェアを得たアリアンロケットも、この人物 が設計したロケットがベースになっている。 彼の手になるロケットによってフランスは衛星打ち上げ ビジネスという一大産業を得たわけで、その功績は本来 国をあげて顕彰すべきレベルだが、実際にはほとんど無視 というか、そんな人は居なかった扱いで、フランス語版 ウィキペディアには彼の記事すら存在しない。 旧敵国のドイツ出身で、V2ロケットの開発に参加したと いう前歴ではあるのだが、それにしても・・・ >>163 おぉ、これは素晴らしいww ロケットプランナーはけっこう長生きするイメージありますね 劉チョウ (チョウの字は金偏に長) 五代十国時代、現在の広東省付近にあった南漢国の最後の皇帝 極端に猜疑心が強く、忠臣を疑って次々と誅殺した あげく「普通の男子は子孫を作り、その子孫を大切にするから信用できない。子孫を作れない者なら忠義を尽くすだろう」 との考えのもと、宦官を重用、有能な人材がいればわざわざ去勢してから登用したため、朝廷はほぼ宦官で占められた。 おかげで、当時の南漢の成人男子のうち1割が去勢者だったという。 このような状況で人心は離反するなか、北宋の趙匡胤の攻撃を受ける。 信頼していた宦官にも財産を持ち逃げされ、南漢は滅亡。 劉チョウは捕えられ、北宋の開封に連行された。 そんなある日、趙匡胤は劉チョウに酒を下賜する。 かつて何人もの家臣を毒酒で誅殺してきた劉チョウは自身の運命を予感し、声を上げて泣いた。 趙匡胤は笑いながらその酒を飲み干し、劉チョウは大いに恥じたということだ。 南唐の後主である李Uの后であった、大司徒周宗の娘である姉妹。 姉がまず后となり、妹がソロラト婚で結ばれたため、大周后・小周后と呼ばれる。 大周后(936〜964)は19歳で輿入れし、李Uの即位後に国后に立てられた。 夫の李Uは政治的才能はなく、放蕩好きであったが、文芸・書・画・音楽に優れた才能を発揮 した人物であり、その李Uに寵愛された大周后も琵琶の演奏に優れ、玄宗が楊貴妃のために 作って散逸していた「霓裳羽衣曲」の楽譜の残欠を入手、復元している。 病床にあった時、4歳の息子が仏前(李Uは熱心な仏教信者であった)で遊んでいた所に猫が 来て瑠璃の灯篭を倒し、そのショックで病んで死んでしまったことを嘆き、そのためか大周后も 李Uの献身的な看病むなしく死んでしまう。29歳であった。 李Uは自ら誄を作って石に刻ませ、大周后の愛用の琵琶「金屑檀槽琵琶」を副葬品とし、自ら を「鰥夫U」と称するほどの嘆きようであったという。 小周后(?〜978)はその妹であり、968年に国后に立てられた。 しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、次々と口実を設けては臣従していた国々を併呑 しており、皇帝を国主、皇后を国后と称してへりくだっていた南唐も例外ではなかった。 李Uが開封への出頭を拒否したことで、宋は出兵。南方に位置してかつて南唐に大敗してい た呉越も侵攻したことで、975年、すでに国号すら廃して江南と称していた南唐は滅亡する。 李Uは逆らったというので違命侯に封じられ(普通は帰命侯とでもすべきところであり、嫌がら せめいた命名である)、小周后は鄭国夫人となった。 その後、小周后は時折太祖の後宮に呼び出された。入れば数日は帰って来なかった。 帰って来ると大声で泣いて李Uを責める声が外まで聞こえ、李Uは身をもじって逃げていた。 978年、李Uが亡くなる。一説に、旧臣に対して故郷を懐かしみ、降伏に繋がる判断をしたこと を悔いた発言を漏らし、それをとがめた太祖に毒殺されたのだという。 牽機薬という、機織のように体を何度も折り曲げて苦しんで死ぬという猛毒であった。 小周后は同年に没した。李Uの死の悲しみに耐え切れなかったためという。 李Uの生れた日と死んだ日は同じ七夕の日で、太祖から誕生祝に賜った酒が毒入りであった。 呉越の後主である銭弘俶も、やはり8月24日に生れて同日に死んでいる。 こちらも、太祖から誕生祝に賜った酒を飲んでの死であった。 李Uを毒殺したのは北宋の太祖じゃなくて、弟の太宗じゃなかったか? >>365 趙匡胤は976年に崩御しているので、太宗趙匡義だね つまり北宋の太祖は人格者、太宗は簒奪者ということでおけ? 「千載不決の議」はさすがに酒の飲み過ぎによる脳溢血だろうけど >>169 2ちゃんねるが始まったころは「李U」の字が文字化けしたんだっけなー >>174 創業の皇帝のなかで、宋太祖は漢光武帝とならんで戦い以外で人の命を奪うことをしなかった >宋太祖は漢光武帝とならんで 両社とも超メジャーな人物 北宋の太宗が李Uに毒を盛ったのは、文才に嫉妬したから? >>169 >しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、 実際に画を描いていたのは弟の趙匡義だがな 劉邦と同様に趙匡胤もただの神輿 >>141 俺は死んだツァーリだ!!って言ってたらいつのまにか 民衆が集まり愛されるようになって政府や教会にも厚遇されるようになったみたいな人か >>35 何処かにも書いたけど シモン・ステヴィンさんの影の薄さはやばいっすね 後にこの辺りの実験やった人はみんな有名になってる パクリなんじゃww https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3 1585年に著した『十進法(オランダ語版、英語版)(蘭: De Thiende, 仏: La Disme)』で十進数による小数の理論を提唱した。 現在、19.178と表す小数を「19?1@7A8」のように表した。 また、ステヴィンは他にも加算や減算を表す+や-のように様々な記号を導入した。 1586年には古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、天文学者、発明家のアルキメデスの研究を発展させ『吊り合いの原理 (オランダ語版、英語版)(蘭: De beghinselen der weeghconst)』を著した。 これには力のベクトル合成の理論、水圧について述べ、てこの原理の証明、 数珠を用いた思考実験により永久運動の不可能と斜面の法則について証明して力の平行四辺形の法則の発見に至った。 なお、『吊り合いの原理』の付録にはステヴィンが行った実験で、 重さが10倍異なる2つの物体を落下させるとほとんど同時に落下すると言う実験結果が示されている。 同年『水の重さの原理(De Beghinselen des Waterwichts)』を著し、 容器の形に関係なく水面は地球の球面と変わらず水の平衡状態に関して力の法則を導いている。 >>35 ちなみにヘンリー・キャヴェンディッシュさんは 日本国の高校の教科書にけっこう載ってるんじゃないかと思うので あんまりマイナーな感じはしないっすねぇ 実は本人が作っても計算してもなかったというのは驚きでしたがww >>182 グロスミッチェルは復活できないもんですかねー >>3 ハーバーさんに比べてボッシュさんの影の薄さは異常 と思って調べてみましたら、ハーバーさんより超重要人物のうえ 人間的な深みも感じられる逸話などもあり ちょっとビックリしました ハーバーさんみたいに一般受けする 派手なエピソードがないと流行らないんでしょうねぇ 潘彦 唐代の人。無類の双六好きであり、常に双六盤を放すことが無かった。 乗っていた船が海に沈んだ際、右手に板を、左手に双六盤をとり、口にサイコロを入れて漂流。 二日間漂流して岸についたが、それまでずっと双六盤もサイコロも放さずにいた。 ただ、それだけで歴史に名を残した人物。 朱友恭の呪い 朱友恭は唐を滅ぼした朱全忠の養子である。本名は李彦威という。 武勇に優れ実力はあるのだが、性格に問題があった。嫉妬深い性格だった。義父の実子に嫉妬するあまり誣告して窮地に追い込んだこともある。 そんな朱友恭は義父の命令で皇帝の監視役となった。喜び勇む朱友恭。義父が皇帝を弑逆する謀議にも加担した。 しかし、これは朱友恭を陥れる罠だった。義父は嫉妬深い朱友恭を疎んじていたのだった。朱友恭は李彦威に戻されたうえで、皇帝殺しの罪を全部押し付けられた。 処刑される際、朱友恭は髪を振り乱し鬼気迫る表情で絶叫した。「義父上は俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたのだ。鬼神よ! いかんせん、このような行為をして、朱家の子孫が存続すると思うのか?」と。 それからというもの、朱全忠は皇帝になれたものの次々と不幸に見舞われた。一族も不幸に見舞われた。そして朱全忠の一族はあっけなく滅んだのだ。 まるで、朱友恭の呪いにかかったかのように…。 チャンドラ・ボース 海の向こうの電波を受信して活躍 イスマーイール1世 16世紀初頭にイランで成立したイスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者。 超マイナーどころか、世界史上メジャーな人物だが、後世に与えた影響を鑑みると、不当に低い知名度に置かれている。 1487年、アルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれた。 西欧人が少年時のイスマーイール1世と謁見した時、「邪悪なほどに美しい」と言ったと言われ、幼少の頃から智勇に優れていた。 14歳で即位!して、37歳の若さで死去。 歴史家アーノルド・トインビーは大著「歴史の研究」で、シャー・イスマイールのことを、「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と述べている。 死に体だったシーア派を再興し、イスラム世界を事実上2つに割た当事者。 >>188 こっち向きの方ですね 過大評価・過小評価されている世界史の人物 [転載禁止](c)2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1420361359/1 1 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2015/01/04(日) 17:49:19.59 0 世界史において過大評価・過小評価されていると思う人物について話すスレ。 チャールズ・サンダース・パース 彼の偉大さをウィキペディア先生から抽出していく とりあえずカーネル・サンダースのほうが有名かと思います、、、 生涯 プラグマティズムの創始者として知られる。 「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる。 8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。 1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与 1867年のアメリカ芸術科学アカデミーでパースは、 すでに1847年にブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。 学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダーの『論理の代数についての講義』に引き継がれ、 さらにラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。 ちなみに彼の発見は 論文や著作を完成させられないという特殊能力のため ほとんど発表されなかったらしいww カントール、デデキントと有名人が並びます >>191 数学 パースの純粋数学における研究は 数論、線型代数学、トポロジー、リスティンク数、射影幾何学、四色問題、集合論、ブール代数、そして連続体の研究に及ぶ。 応用分野としては経済数学、地図の投影法、確率論、統計学などを研究した。 数学における発見 パースは基礎数学や形式論理学でいくつもの重要な発見をしているが、そのほとんどは死後まで評価されることはなかった。 1860年には、無限数の基数演算を提案した[14]。これはゲオルク・カントールの超限数の研究の前であり(カントールが博士論文を完成させたのは1867年である)、 ベルナルト・ボルツァーノの『無限の逆説』(Paradoxien des Unendlichen;1851)へのアクセスがない状態で書かれている。 1881年の「数の論理について」で、パースは自然数算術の公理化を提示した[15]。 これはリヒャルト・デデキントとジュゼッペ・ペアノによる公理化の数年前である。 またこの同じ論文においてパースは、デデキントよりも前に、今日で言うデデキント有限性に相当する有限集合の定義を初めて与えている。 これは、「その真部分集合との間に単射対応が存在する集合」という無限集合の重要な形式的定義(デデキント無限)を含意している。 >>191 形式論理学における発見 1880-1881年には、否定論理和のfunctional completeness(en:Functional completeness)を示した[35]。 これはヘンリー・M・シェファー(en:Henry M. Sheffer)の研究の33年前である。 1885年の「論理代数について」で、パースは一階の量化と二階の量化を区別した[36]。 またこの同じ論文において彼は初めての公理的集合論として読めるものを提示しているが、 これはエルンスト・ツェルメロの研究の20年以上前である。 1890年代後半までには、述語論理の図表的記法である存在グラフを開発していた。 特殊科学における発見 1886年にはブール演算が電子回路によって実現され得ることに気付いていた[64]。 これはこんにちのコンピュータに代表されるディジタル回路と呼ばれる電子回路の応用そのものと言える発想であり、 日本の中嶋章やクロード・シャノンによる成果の50年以上も前である。 未発表で死後発見されたパターンの世に埋もれた天才多そう 解説動画で見たけどヘンリー・キャヴェンディッシュもそうだったみたいね ノアイユ子爵 ラファイエットの義兄で、共にアメリカ独立戦争の戦場を渡り歩き、 フランス革命では封建制度の廃止を一番に主張したかっこいい青年貴族。 そんなに活躍したのに、なぜだか歴史書の上で影が薄い・・・ チャールズ・ホイットマン テキサァァァァスタワー乱射事件の犯人だけどイギリスの特殊部隊のSWET設立の原因になったからある意味偉人 セミョン・デジニョフ ベーリング海峡を発見した人 記録に残る中で最初なのに影薄レベルは高い気がしますね、、、 ベーリング海峡のベーリングと比べれば見劣りするがデジニョフ岬で名前が付いてるので超マイナーという程ではない デジニョフ岬 ベーリング海峡のロシア側なのか 初めて知ったわ 1739年に日本に来航したマルティン・シュパンベルクもなぜかマイナーだな 江戸幕府が北方に巨大な帝国が存在すると気が付いたのは彼が来たからだし、 元祖黒船はペリーじゃなくシュパンベルクなのに、一般的知名度ゼロでかわいそう。 おいら 歴史上ニートであることが保証された 完全無欠のニート ひきこもりで人前じゃしゃべれないという得意技もある 元祖自宅警備員 これほど数々の偉業を成し遂げながら、ほぼ無名です、、、 >>201 世界史版の住民の間では存在を認知されているよ(たぶん) ソンチェンガンポ かこのスレにちょうど良いんじゃね? 偉業の割に知られなさすぎ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ソンツェン・ガンポ >>197 ベーリング海挟んで対岸のスワードもええんちゃう。 アラスカ買った国務長官 >>203 チベット史自体がまず一般的に知られていなすぎだがソンツェンガンポぐらいなら吐蕃の国名とセットで憶える基礎教養レベルだろう それより吐蕃帝国をぶっ壊した末代のランダルマこそ超マイナーなのではないか? >>204 アラスカ買収について「スワードの冷蔵庫と嘲笑された」と書く歴史書もあるが、 冷蔵に天然の氷を使うしかなかった当時は、冷蔵設備の整った倉庫というのは 成長株の産業であり、実際はスワードに対する賛辞であったのではなかろうか。 レオポルト・インフェルト ユダヤ系ポーランド人の理論物理学者 アインシュタインの弟子にして共同研究者 アインシュタインとの共著『物理学はいかに創られたか』は 数式は頭が受け付けないけれど相対性理論をかじりたいという 文系の人に優しいロングセラーな入門書 >>205 ランダルマ廃仏王きたー!いいとこつくなぁ 確かにそう思うとソンチェンガンポは有名人か…(;´Д`) >>206 何それ初めて聞いた。 なるほど経済背景を知らないと賛辞も皮肉に見えてしまうわけか。 アルトゥール・シェルビウス 発明家。 第二次世界大戦の行方を左右する重要な機器を開発し アメリカで特許も取得しこれからというとこで 行く末を見届けることなく1929年に死亡した。 >アルトゥール・シェルビウス 第二次世界大戦で活躍した暗号機の発明者が 馬車の事故で死亡したというギャップがよく話題に上がる そういえば、暗号解読というとチューリングさんばっかり話題に上って パープル解読を主導したウィリアム・フレデリック・フリードマンさんの中の人は 日本語のウィキペディアすらないのか、、、 https://en.wikipedia.org/wiki/William_F._Friedman 韓王信 よく韓信と混同されるが別人 最後は匈奴に寝返って漢と戦った 卑弥弓呼(ひみここ) 邪馬台国と敵対する狗奴国の王 名前は卑弥呼と名前がそっくりさんだがこちらは男王である 朱元帥 1359年に沙劉、関先生ら共に20万の兵を率いて高麗に乱入 李成桂を筆頭とする高麗軍にわりとあっさり撃退されて以降は生死不詳 同じく紅巾の賊である朱元璋とはおそらく面識はない 竹原左大臣兼信 常陸国の小豪族風情にもかかわらず秀頼右大臣をしのぐ左大臣を自称したすげえ奴 ここまで突き抜けていると当時でも笑いが取れたに違いない 慕容帰 後燕の平州刺史。遠縁だが勇猛果敢で名高い慕容一族である。402年、高句麗に攻め込まれた慕容帰は信じられない行動に出た。 なんと、根拠の宿軍城を放棄して敵前逃亡してしまったのだった。本当にあの慕容一族なのかと疑いたくなるほどのへっぽこである。 主君は暴君で有名な慕容熙。妃の死を泣かなかった官吏を処刑したというとんでもない逸話が残っている。しかし、慕容帰が処罰された形跡は無い。 敵前逃亡をやらかした慕容帰はこのまま歴史から消えるのかと思われたのだが…。歴史は慕容帰を見放さなかった。 後燕がクーデターで倒れて馮跋の北燕になった。後燕の皇族は慕容熙が始末したかクーデターで処刑したかされた。冗談抜きで後燕の祭祀をやる人間がいなくなってしまった。 困り果てた馮跋は慕容帰に目をつけた。敵前逃亡をやらかしたへっぽこな慕容帰なら担がれる心配がないと。 処刑されると泣いて震える慕容帰に馮跋は命じた。遼東公に封じられて慕容一族並びに後燕の祭祀をやるようにと。 かくして、へっぽこは身を助けたのであった。 スタニスラス・マイヤール(1763年〜1794年) バスティーユ襲撃で重要な役割を果たした後もヴェルサイユ行進、9月虐殺などフランス革命の 大事件に関わった人物にも関わらず、少なくとも日本ではあまり知られていない チャールズ・プロテウス・スタインメッツ ドワーフの魔法使いで 人類に電力の扱い方を伝える いま電気を思う存分使えるのは 彼のおかげかもしれません、、、 ジョン・ミッチェル(John Michell、1724年 12月25日 ? 1793年4月21日) イギリスの18世紀の科学者で ブラックホールの存在を最初に予言した。 >>212 青梅駅と青海駅なみのまぎらわしさですなw >>217 ミッチェル氏は「見えない」ブラックホールを発見するためには 互いの周りを回っている二重連星のような動き方をしているのに 星が片方しか見えない天体を探せば良いよ〜という事まで提案した。 当時の観測技術が到底及ばないことを平然と言う。すごいですよね。 18世紀の時点の天文学知識でどうやってブラックホールを予言したのか気になる >>220 この場合重要なのは天文学の知識ではない。 物理学の知識を天文学に敷衍したのだよ、ワトソン君。 >>220 ブラックホールがあるはず、という説を提唱したわけじゃなくて 「もし凄く重い星があったらその星の光は重力で出てこれないから見えないよね」 という事を言ってたという話だよ >>220 具体的なサイズを見積もっているので 天文学的には レーマーの光速度 ブラッドレーの光行差 この辺りを利用している可能性はありますね ベンガルとか誰かいないのかな あとカーマルーパとか ルキアノス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%B9 ルキアノス(サモサタのルキアノス、 ルーキアーノス、 Lucianos, Lucianus, Lucinus, 英語ではLucian of Samosata(ルシアン), 120年乃至125年頃 - 180年以後)はギリシャ語で執筆したシリア人の風刺作家である。 月旅行SF小説を執筆しました。記録にも残るホントの話です。 >>106 傅安 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/eclipse/chinese_astronomy.htm 紀元前 52 年に、最初の赤道を導入したのは 耿壽昌である。 その後の後漢 (AD 23 年 - AD 220 年) の時代に、 AD 84 年までに、 天文学者である 傅安 (Fu An) さん と 賈逵 (Jia Kui) は黄道の輪を追加した。 傅安さんの中の人は、中国で黄道ベースで天文観測した最初の中の人らしい。 民間人だったそうなので、板垣さん的な中国人だったのでしょうか ファンになりそうです、、、 >>17 ペドロ・ヌネシュ この名前からは想像がつかない 彼の名前を冠した器具の発明者とされることもあるが 彼は幅を測る装置は発明しなかった ちなみに大圏コースについては もっと昔の人が発見してますね ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%83%A5 16世紀の最も偉大な数学者の一人でポルトガルの大航海時代に重要であった航海技術への貢献で知られる。 等角航法の最初の提案者 ヌネシュの多くの業績は航海術に関するもので、 一定の方角で進む船舶が地球上の2点を結ぶ最短距離である 大圏コースを進むことにならないことを理解した最初の一人である。 しかしながら大圏コースを進むためには常に方向を変えて進まなければならず、 子午線に対して一定の角度で進む等角航法を提案した。 クエーカーの奴隷制度廃止運動家「恐れ知らず」のベンジャミン・レイ(1682年 - 1759年) 奴隷所有者とみれば誰彼かまわず食って掛かり、ついには奴隷所有者の子供を誘拐して おまえはそれと同じことをしているのだと主張した。 ジャンルが違いますが、>>216 のドワーフで連想しました。 https://www.bbc.com/news/uk-england-essex-42640782 身長4フィートの頑固なトラブルメーカーで洞窟を住まいにしたというから本格的。 >>218 そのうち青海駅に行こうと思ってたら中国のチンハイ省に行ってしまった馬鹿とかでないかな?w >>229 洞窟住まいの人攫いとは本格的ですな、、、 >>187 >>225 ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース https://choi-clip.com/jagadish-chandra-bose イギリス統治下のベンガル行政区マイメンシン生まれ、カルカッタのセントザビエルカレッジ卒業。 大西洋横断無線電信の立役者 植物の精密観察を実施 始めて半導体をデバイス化 偉業が多すぐるので彼のコメントと電波の話だけコピペしておきます。 起源を主張する方に聞かせてあげたい名言を 「人類にとって重要なのは発明であり、発明者ではない」 http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/intercomp/wireless/cohoherermucuy.htm 1901年12月にマルコーニは大西洋横断無線通信に成功します。 この快挙に対してマルコーニは世界中から祝福されましたが、 この大西洋横断無線電信の実験で信号を受信することができたのは水銀コヒーラであるとされていますが、 この水銀コヒーラ(ボースのコヒーラ参照)の真の発明者はマルコーニではなく、 インドのボース(Jagadish Chandra Bose)であることはマルコーニが亡くなるまで隠されていました。 (中略) 25年後マルコーニの助手をしていたMr.Vivianはマルコーニの伝記にマルコーニは水銀コヒーラをただ使用しただけであると明確に記載しました。 1998に英国の歴史家V.J.Pillipsによって正確な調査がなされマルコーニがボースの発明を盗んだことが確認され公表されました。 (中略) 従って、1901年12月に大西洋横断無線電信(英国ポルジュ(Poldhu、Cornwall)からセント・ジョーンズ(St. John's Newfoundland)の近くのシグナルヒル( Signal Hill)(地図参照) 約2000マイル)にマルコーニが使用した水銀コヒーラはボースの発明によるものであったといえます。 >>231 タイムマシンができないと無理だがな・・(´・ω・`) ガッサンディ。 懐疑主義を唱えデカルトとともにスコラ哲学を堀崩していく。 更に快楽主義者で唯物論的原子論者だったエピクロスを再発見する。 経験論者で合理論者のデカルトと対立したが彼の経験論はロックなどに受け継がれイギリス経験論の元になる。 ニュートンの原子モデルもガッサンディのそれによるなど科学への寄与も高い。 ちらっと見直してましたら おいらの記憶と異なってたので >>42 >>44 二番目に世界周航したのは アンドレス・デ・ウルダネータさんの中の人ですね でもこの人はマイナーじゃないので このスレ向きの方でしたら以下の方を それにしてもエゲレス人の歴史改変能力は目を見張るものがありますw >>197 フランシスコ・デ・オセス ドレーク海峡を始めて通過した人 >>147 ウンベルト・ノビレ 初めて北極点に到達した立役者 彼の能力なくして北極点に到達できたとは思えないだけに マイナーかと思いますね 西夏最後の皇帝の末主 モンゴル側では何故か妖術師シドルグと記録されている 末主シドルグは得意の妖術でモンゴル軍を散々苦しめたとある 妖術師と記録が残ってる皇帝はこの人ぐらいでは? ファン・リンスホーテン 歴史の行方すら左右した おそらく史上最高の産業スパイ エドアルト・ジュース Eduard Suess 1861年、それまで知られていなかった超巨大大陸を発見した。 コロンブス?アメリカ?あんな小物、目じゃないっすよ。 ゴンドワナ大陸の発見者か wikiでは、プレートテクトニクスで説明されてるけれど 将来的には、地球膨張説に軍配があがるかも >ゴンドワナ大陸の発見者 ヴェーゲナーが類似商品のパンゲア大陸を発見する50年も前なんだな。 パイオニアすぎる・・・ クリスチャン・J・トムセン 彼は大学の学位もなかったが27歳という若さで 石器時代と青銅器時代と鉄器時代の 3つも時代を発見した >>243 おいらは最初パンゲアかと思ったんですが むしろヴェゲナーさんの中の人が パンゲアを発明していたことの方に驚きましたね イヴ・ジョゼフ・ド・ケルゲレン・ド・トレマレック(1734〜1797) フランス海軍の軍人・探検家。最終階級は少将。 大発見!と本国に報告した南の大陸は、2000万年前に海に沈んでいました(泣) https://ja.wikipedia.org/wiki/ ケルゲレン海台#ケルゲレン微小大陸 >>246 フランス語版のWikipedia見たら、 このひと「はんべんごろう」さんとの共謀が疑われてたんだなww 妖術で思い出したが 清教徒革命でクロムウェル軍と戦ったルパート王子の愛犬は 神通力を持つ魔犬と恐れられていた。 その勇猛さから狂人騎士と称えられたイケメンの王子と、 ラップランドの魔女の化身と敵に恐れられた愛犬のボーイ。 なんだかライトノベルの設定みたいだぞ・・・ マイナーなようでいて、ルパート王子は少女マンガの題材にもなってたな。 吉蔵 きちぞう 549年 - 623年 ふつうの田舎のお百姓のような名前だが、三論宗を大成し その学識の広さで隋・唐時代の皇帝に尊崇された高僧である。 日本への影響も大きく、聖徳太子が著したという『三経義疏』は 吉蔵の著作との類似が多いとされる。 フョードル・アプラクシン ピョートル大帝とは子供の頃からおもちゃの船の海戦ごっこで遊んだ友人同士。 長じては海軍元帥に任じられ、お雇い外国人を率いて本物のロシア海軍を創設した。 ハンゲの海戦(1714年)における勝利は、バルト海の制海権をもたらし ロシアがスウェーデンを抑えて大国に成長するきっかけとなった。 ルイス・フィリペ スペイン国王。 即位の際すでに重傷を負っておりほどなく崩御。 在位期間20分。ギネスブック認定。 >>254 は ポルトガル国王の間違いでした。スマソ。 ラインハルト・ハイドリヒの弟 ハインツ・ハイドリヒ ユダヤ人虐殺を実行した兄とは 正反対に偽物のビザを発行して ユダヤ人を救出した功績は オスカー・シンドラーや杉原千畝に 匹敵しうる 兄弟の一方が頭のネジが外れていて もう一方がしっかりした常識人 けっこうあるねこのパターン セプティミウス・セウェルス 軍人皇帝の最初の皇帝はマクシミヌスだが、ローマ初の軍人皇帝はこいつ タイフサ Tay Fusa 倭寇のリーダーでおそらく日本人。 1582年、フィリピンのルソン島北部カガヤンにおいて スペイン艦隊と交戦するも大敗を喫して追い払われた。 ・・・なお、以上は英語版ウィキペディアの情報であって、 私としては必ずしもこれを信じているわけでは・・・ ┐(´∀`)┌ https://en.wikipedia.org/wiki/1582_Cagayan_battles スレ違いだと思うけど テレマンの曲はポピュラリティーがあり過ぎて評価低い 逆にハイドンは通好み過ぎる フェルディナント・バイエル バイエル教則本は日本では超有名だが世界では割とマイナー 英語wikiだとReferencesを除く本文はたったの6行しかなく、たぶん日本人が書いた フランツ・ヤゲルシタッター Franz Jägerstätter(1907-1943) オーストリア北部ザンクト・ラーデグント村の農夫。 来年2月公開の映画で多くの人がその名を知ることになる。 https://www.youtube.com/watch?v=LF9ry_JGQg0 テレンス・マリック監督か アルプスの風景が綺麗だな 成漢の昭文帝李寿 先帝の幽公李期を廃して即位した 占い師から「皇帝になっても数年しか保てない」と予言されたが、「それでも構わない」と答えた逸話がある かの暴君・石虎を真似た政治を行ったり、武帝李雄の子孫を皆殺しにしたりとやりたい放題やった そんな李寿だが、在位中は幽公の執拗な祟りと幻覚に悩まされていた 最期は、幽公に許しを乞いながら祟られ狂うという凄惨な死に様だったという その在位期間はたったの5年 占い師の予言は見事命中したのだった フィヨードル・ワシリエフの妻 歴史上、最も多くの子供を出産した18世紀ロシアの女性。 その生涯に彼女が産んだ息子と娘の数、実に69人。 4組の4つ子、7組の3つ子、16組の双子がその内訳という。 少子高齢化に日々脅かされる我が国としては、模範的人物 として歴史教科書に掲載してはどうですか。 英語版ウィキペディア「子だくさんな人々のリスト」より https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_people_with_the_most_children エイブラハム・フレクスナー おばけの学校を運営 キャベツ畑のおばさんに救われる こjこの記事がおもしろかったのでついやってしまいました、、、 本人よりすごい"アインシュタインの上司"のIQ 12/19(木) 11:16配信 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191219-00031477-president-life& ;p=1 >>235 松田伝十郎 間宮海峡を樺太側から確認して報告した初めての日本人 場所は現地人に教えていただきました ボルネオで自分の腕ひとつでサラワク王国を築いた、 ホワイトラジャ(白人王)、ジェームズ ブルック(在位1841-68) これ以降、三代百年に渡り、当地を支配する。 そうそう、この英人ブルックは戦前は快男児と評された。 冒険ダン吉の元イメージだ。 パルティアのスレナスと ゲルマニアのアルミニウス。 この2人はあのローマ軍を破った。 結構負けてるからなローマ軍団。 蛮族から女にも負ける連中と馬鹿にされる始末。 ヴァシレイオス2世 教科書のマイナーさと実際の世界史上のメジャーさで、ここまで差がある人物も珍しい。 ヴァシレイオス2世 教科書のマイナーさと実際の世界史上のメジャーさで、ここまで差がある人物も珍しい。 尊称がブルガール・スレイヤー ゴブリン・スレイヤーの親戚かよ 神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝のフリードリヒ2世。 世界史上「玉座の近代人」「世界の驚異」と絶賛される割に、教科書的には第3次十字軍にチョコっと名が出るだけの気の毒な人。 >>278 それな! ギボンの「ローマ帝国衰亡史」でシカトされたのが痛かった(><) >>257 フンボルト兄弟ぐらいしか思いつかないですね 同じくアレキサンダーの兄弟は 別の方向性で 両方ともネジがぶっとんでた気はしますがww >>105 モンゴル帝国第一の功臣ムンリクの息子ココチュ ジンギスカンを創った祈祷師ですかね ココチュ (コンゴタン部) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%81%E3%83%A5_ (%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%82%BF%E3%83%B3%E9%83%A8) 八木博士 冗談抜きで太平洋戦争を完敗に追い込んだ日本人。 八木アンテナ・レーダーを採用した米英と採用しなかった日本軍で、完全に明暗が分かれた。 ただ、これは万国博覧会にも出展されたほどなので、八木博士が米英に売り込んだのではない。 不採用にした日本軍に責任がある。 もっと言えば、 アメリカ 「日本軍は『YAGI』を採用していない!」 その他の連合軍 「馬鹿な!これほどの技術を採用しないなんてありえんだろwww」 ここでも明暗が分かれたな。 とにかく大戦期の日本軍首脳ってのは、信じがたいほどの馬鹿だった。 八木ハカセって電波受信しちゃう系のヤバイ科学者じゃなかったんでしたっけか たしか相方がアンテナ造ってたような 名前おもい打線ので確かにマイナーですがww >>287 宇田博士のことだね。 確かに正確には八木・宇田アンテナなんだが、八木博士の方が若干有名になってしまったので、そっちを採用。 宇田博士も超マイナーだな! >>286 日本の指導部は 今でも信じがたい馬鹿だけどな 日本の企業のトップの大部分は信じがたい馬鹿 だいたい日本人の大人は大抵は信じがたい馬鹿 そもそも日本・日本人に限定される訳ではないが シチリア王国のルッジェーロ2世 ギリシャ、アラブ、ラテンの共存する夢の島 それを打ち立てたノルマン人の王 ちなみに>>281 のフリードリヒ2世がやってくると アラブ人が追い払われて奇跡の時代は終わりを迎えたそうな >>291 フェデリーコ2世がアラブ人を追放したとする説って誰の説? 彼のシチリアの宮廷にはイスラム教徒が党派となるレベルでいて、それが後の破門の原因の一つにもなっているんだけど >>292 だいたい同意だが、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝で出てるんだから、ドイツ語風にフリードリヒと書くべきでは? イングランドの騎士ロングスウォード 何か厨二ファンタジーっぽい名前だが実在。 ルイ九世の十字軍に参加しマムルークと戦い討ち死にした。 両手と片足を切り落とされても命つきるまで戦う姿は敵であるマムルークからも絶賛されたと言われる。 >>292 説の提唱者はわかりませんが シチリアの宮中にイスラム官僚が多くいたのは間違いないので 特別に矛盾しないんじゃないでしょうかね >>293 この場合はフェデリコでもそんなに問題なさそうですが どうやら1世ぽいですw >>292 だいたい同意だが、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝で出てるんだから、ドイツ語風にフリードリヒと書くべきでは? >>292 書いた時点でおいらは3万人だった気がしてましたが 調べたら上下あって6万人クラスもありえるそうな けっこう頑張りました フリードリヒ2世のアラブ人追放 ルッジェーロ時代の黄金時代どころか、シチリア王室に反乱起こした在地イスラム勢力が、ボーエンシュタウフェン家への対抗勢力であるドイツ諸侯に同調して反乱起こしまくっていたのを鎮圧したって話じゃねーかよ 話盛りすぎ ほほう、ミナミからだけじゃなくて北からも干渉受けてたのかww さすが国際国家ですね 首都人口に匹敵するクラスのアラブ人が消えて シチリア島の勢力バランスが永久に変化しちゃったそうな 友人を売った男の末路 前漢、呂雉の一族に呂禄という男がいた。呂禄にはレキ奇という友人がいた。 さて、呂雉が亡くなり、反呂一族派はクーデターを画策していた。しかし、宮中北軍の軍権を握る呂禄が邪魔だった。 そこで登場するのがレキ奇。なんと反呂一族派に加担したのだ。呂禄を「兵権を返上して領国に帰れば安泰でしょう」と騙した。 呂禄はよほど信頼していたのだろう。あっさり軍権を放棄した。クーデターは成功して、呂禄も刑場の露と消えたのだが…。 世間はレキ奇を許さなかった。「おい、聞いたか?レキ奇の野郎、呂禄を売ったんだとよ」「ああ、ひどいやつだよな。友人を信じた呂禄がかわいそうだぜ」とうしろ指をさされるようになった。 その後、レキ奇の人生は転落していく。諸王が反乱したので鎮圧に赴いたのだが、さっぱり戦功を挙げられなかった。 そして、景帝の王皇后の叔母と結婚したいと願い出たのが運のつきになった。史書には景帝は大激怒したとある。友人を売るような男が外戚になるのが許せなかったのだ。 レキ奇は投獄されて有罪判決を受けた。そして、爵位を取り上げて放逐された。誰一人としてレキ奇を庇わなかったところをみると、皆から嫌われていたのだ。 その後のレキ奇の行方は杳として知らない。 >>123 周辺含めてけっこうおもしろかったです 超マイナーに成りきれなかった放火犯といえば ヘロストラトスさんの中の人ですか 昔オスマン帝国のコンスタンティノープルの3丁目の角に、アンクルおじさんというとても面白いおじさんが住んでいたんだ。 彼は鼻からタバコを吸ったりベロで額を舐めたりして、よくみんなを笑わせていたもんだよw 有名な彫刻ダビデ像はフィレンツェに住んでいたタピテ少年をモデルにして彫られたものだ。 タピテ少年は美少年だったので、変質者のミゲルが尻の臭いをクンクン嗅ぎながら追い回していたんだ。 ミゲルの歌った鼻歌は「タピテブーラ、タピテブーラ、タピテタピテブーー」というものだ。 昔中国の春秋戦国時代に3人の最強と呼ばれる女性がいたんだ。 ひとりは山の民の王・楊端和、もうひとりは秦の6大将軍の一人摎、そして男装が似合う剣士カイネだ。 あるときカイネは楊端和と摎に二人がかりでかかって来られた。 カイネは「はひぃ〜!はひぃ〜〜っ!!」と悲愴な声を振り絞って戦ったよ。 勝負の決着は不明だ。だが俺はこの話を読む度にチンポコが猛り狂ってどうしようもないのだよ。わかってほしいよこの気持ち。 その昔『忍者部隊月光』という実写ドラマがあった。 忍者部隊には初代クノイチの三日月と2代目クノイチの銀月がいた。 三日月役の森禎子もなかなかよかったが、銀月役の加川淳子は最高だった!! だが三日月にくらべて、銀月はあまり活躍しないというかピンチになって仲間に助けられるという情けないシーンが多かった・・・ おれは銀月にこそ頑張ってもらいたかったのだが。 その銀月役の加川淳子がこれだ ↓ 例によって仲間に助けられているシーンだ。 https://i.imgur.com/98LxScI.jpg 「腸チフスのメアリー」みたいな人は現代でもいるんだな。 でも本人に悪気が無い場合、スーパースプレッダー呼ばわりは可哀そう。 >>205 ティソン・デツェンまではメジャーか 吐蕃やウイグルの将軍レベルまでいくとマイナーかな スペインのカルロス4世はお人好しな暗君で有名。だが、種痘の普及で多大なる功績を残している。 不幸な事に、マリーア・ルイーサ王女が天然痘を患った。カルロス4世は種痘の噂を聞きつけて思い立った。 植民地の貧しい人達に種痘を広めたらどうだろう。そうすれば、自分のように子供が天然痘に感染して泣く親がいなくなるのでは。 早速、お抱えの医師に相談して国費で植民地に種痘を広めさせた。植民地では天然痘の患者が急速に減っていった。 現在、マニラ大聖堂前にカルロス4世の立派な銅像が立っている。種痘に救われたマニラの人々が感謝して建立したのだという。 >>62 マイコー的なやつですかね 入れ替わってる可能性もありそう 『日本史』を著したことで日本ではよく知られ、戦国ドラマにもよく出てくる イエズス会士ルイス・フロイスだが、欧米では知名度が低い。 Wikipediaのポルトガル語版や英語版など 目を疑うほどわずかな記述しかない。 >>278 井上浩一先生の本で初めて知った。 世界史の教科書でもほとんど触れられてないようなきがする。 >>315 ペリーの知名度?全然低くありませんよ。 ペリーについての評価(Wikipediaより) 「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、 海軍教育の先駆者とされている。」 ゴンドワナ王国なんか国自体がなかったかのごとしw ゴンドワナという言葉は世界史より地質学の用語として知られてる ペリー以前に浦賀に来航したアメリカ艦隊の司令官 ジェームズ・ビドルはなぜか言及されることが少ない。 彼は紳士的な外交を心掛けたため、日本との交渉で 成果を上げられなかった。その逆に武力を背景に 交渉したペリーは日本を開国させ歴史に名を残した。 アダド・ナディン・アヘ 紀元前2世紀頃のメソポタミアの都市ラガシュの支配者 自分よりも2000年も昔のグデア像を発掘しまくっては自分の宮殿に飾っていた。 果たして彼がこれらをグデア像として認識できていたか気になる所だがこれは不明。 一応、像の表面には古い楔形文字の字体でグデアとは書いてはあるが…読めなかったかもしれない ただし空想をたくましくするなら、当時はまだバビロンやウルクには楔形文字を読める者たちも残っていたし、 さらにグデア像に刻まれた銘文自体も明瞭な字体で刻まれていたため、定型句ばかりの短文のものなら読解も可能であったはずである。 残念ながら、彼はまともな記録を残していないため彼自身の素性もこれらの経緯も不明のままであるが 近い将来、彼がグデア像を発掘した時の経緯を記した記録が出てきたら面白いのに…と空想するばかりである。 ちなみに、彼の宮殿を飾っていたグデア像たちはそれから更に2000年後、考古学者サルゼックによって同所から再発掘されることになる。 エドワード・チャールズ・キルビー 小野浜造船所を設立し、軍艦「大和」の建造を海軍から請け負ったが 資金難に陥り自殺を遂げた。日本国内で初となる鉄製汽船「太湖丸」を 建造した実績があり、造船大国日本の出発点に位置する人物である。 >>320 アンティーク的な扱いだったのかな 昔のいい仕事してますね的な人だったんじゃろか >>28 こう考えてみると エバンゲリオンは凄かったんだなぁ >>211 ルーズベルトの陰謀論は数あっても この人はぜんぜん出てこないよね 関連してCIAにも踏み込まれてるのに ジャン・ピエール・ド・バッツ フランス革命期前後の男爵。投機で成り上がった資産家であった。 ルイ16世が処刑された際、「王を救え!」と声を張り上げてサーベルを振るったが、 応じる者がなく、捕まりもせず逃げのびたという向こう見ずな人物。 その後も国外に亡命するでもなく、莫大な資産に物を言わせて買収を繰り返し、タン プル塔にいたマリー・アントワネットたちの救出作戦を計画する。 直前になって情報が洩れて(しかし未然に阻止されたため、事件があったことにも気 づかれず)計画は水泡に帰すが、マリー・アントワネットの伝記を書くに際し、有名 な逸話を色々と切り捨てたシュテファン・ツヴァイクも、これは信じられない話と言 いつつ採用している。 彼の前には妻がマリー・アントワネットの元侍女であった元将軍のジャルジェイが、 彼の後には大デュマの『赤い館の騎士』のモデルであるアレクサンドル・ゴンスが、 それぞれ脱出計画を立案しているのだが、三人ともWikipediaに独立項目がないばか りか、項目「マリー・アントワネット」にも出て来ない。 >直前になって情報が洩れて(しかし未然に阻止されたため、事件があったことにも気 づかれず) ここはちょっと説明が必要ですね。 匿名の投書で告発があったのですが、買収されていた責任者が「一杯食わされたんだ」 と誤魔化し、告発者も名乗り出なかったため、表向きは何もなかったことで済んだと。 しかし、計画自体はお流れに。 平岡公威少年に三島由紀夫の筆名を与えた恩師 蓮田善明先生。 沈惟敬(しんいけい) 文禄・慶長の役の明側使節 小西行長と交渉を行うも欺瞞外交によって明側も日本側も大混乱に陥った 鄭成功はメジャー過ぎてスレにはふさわしく無いがなんかマイナーよな 色々配慮してるような邪推さえしてしまう 以下はWikiの丸コピペ 鄭 成功(てい せいこう、拼音:Zhèng Chénggōng、チェン チェンコン、繁体字: 鄭成功; 簡体字: 郑成功、寛永元年/大明天啓4年7月14日(1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日(1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。出身は福建省泉州市。元の諱は森。字は明儼。日本名は福松[1]。清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。 >>28 山野さんが牧谿をロボットアニメに喩えたのが面白かったw >>44 マゼランは一回で世界一周したわけじゃないから、一回でやった初はドレイクだね。 ドレイクと言えば、スペイン無敵艦隊との決戦で副将をやった艦長の中でドレイクとホーキンズは有名なのに、三番手のフロービッシャーは知られてないね。 アメリカだかカナダだかの地名に残ってるんだけどな。太平洋との近道の航路を探すために北米探検した。 北米探検ではローリーばかり有名だな。 フロービッシャーの数十年前に北極回りでアジアへ行こうとしたチャンセラーもあんまり知られてない。 クリミア戦争のロシアのエドゥアルト・トートレベン 仲間からも評判が良くてドストエフスキーと関わりも モラビア国王スヴァトプルク 旧チェコ・スロバキアにあたる地域の一番輝いた時代を作り上げた ひょっとしてチェコやスロバキアではモンゴルでのチンギスハーンみたいな存在? お札の肖像画になってたり 楊 秀清 太平天国の指導者の一人。 広西省桂平出身の客家人。炭売りをしていたが、早くから洪秀全が創始したキリスト教秘密結社「拝上帝会」に加入していた。1848年、拝上帝会の幹部の馮雲山が清朝の官憲に捕われると、洪秀全は救出のために広州に赴いた。これにより会員に動揺が広がったため、楊は独断でヤハウェの託宣(「天父下凡」)を行ったところ人心を静めることに成功した。馮雲山の釈放により広西に戻ってきた洪秀全は楊の「天父下凡」を認め、楊秀清は幹部の一員となった。 1851年、金田蜂起の後、洪秀全は楊秀清を正軍師・東王に任じ、他の四王より上位に置かれた。南王馮雲山・西王蕭朝貴が戦死すると、権力は楊秀清に集中するようになった。太平天国軍の進撃を実際に指揮していたのも楊秀清であった。1853年に太平天国軍は南京を陥落させ、天京と改称した。 この時、天王・洪秀全は名目上は各王の上にあったが、実際は楊秀清が実権を握っており、楊の決定に洪秀全は反対できなくなっていた。楊は度々「天父下凡」によって自らの命令に従わせた。やがて楊の専横ははなはだしくなり、洪秀全や他の諸王との対立は深まっていった。高島俊男「中国の大盗賊・完全版」によると、「天父下凡」によって洪秀全が天王府において人前で楊に平伏させられ棒叩きを食ったこともあったという。 李勣の子孫は吐蕃の将軍になっていた! 李勣の息子・徐敬業は武則天を排除しようと反乱を起こして滅ぼされた 徐敬業の子孫は根絶やしにされたと思われていたのだが… 実は、徐敬業の息子が生き延びていて吐蕃への亡命に成功していた そして時は流れ、貞元年間に吐蕃が唐の延州に入寇して占拠した さて延州の寺院に一人の吐蕃の将軍が涙ぐみながら参拝していた 寺院の僧侶は訳があるのだろうと尋ねると、将軍は身の上話を話し出した 「私は徐敬業の子孫で徐舎人と申します。先祖は生き延びて流浪の末に吐蕃に逃れました」 「我が一族は吐蕃で代を重ねて将軍になっても、唐を忘れることは決してありませんでした」 「いつか唐の地に帰還する。我が一族の宿願がようやく叶ったのです」 ヤコブ・エドゥアルド・ポラーク博士(1818〜1891年) 19世紀イランにおける近代医学の父。 1851年、テヘランに新設された西洋風学校ダーロルフォヌーンの医学教官としてオーストリア帝国から招聘された。 まずは現地語の習得と教科書翻訳から始めた上でイラン人学生の指導にあたり、優れた医師たちを輩出した。 同校で高い教育レベルを維持できたのは医学部のみだったが、それは彼の功績による所が大きい。 その伝統は現在のテヘラン大学医学部に受け継がれている。 日本の古墳研究の先駆者で「日本考古学の父」と呼ばれる ・・・とウィキペディアで紹介されているが なぜか一般人に知られていないウィリアム・ゴーランドさん。 日本の冶金技術の向上に功績があった明治のお雇い外国人で、 その本業で表彰ものの働きをした上で、余暇には日本各地の 古墳を調査し、精緻な研究報告を行うというマルチな才能の持ち主。 木村某氏 特に世界史上にこれといった名を残すことなく今年2月逝去 同級生がまた一人・・・合掌 司馬炎も三国時代の英雄たちの前には存在がかすむな 中国を統一したのに ウサーマ・イブン・ムンキズ シャイザルの領主でアラブの騎士、「回想録」を著す 幼少期の思い出から成年してからの暗鬱な政争まで描かれるが、 十字軍の同時代記録を残したことで有名 ヨーロッパ医療の野蛮さを語るときによく引用される アンタラ・イブン・シャッダード イスラム以前のアラブの騎士 黒人奴隷の子で従妹との恋を成就させるために、様々な試練に挑む 彼の生涯は後に叙事詩となって語り継がれた サリー・ビラリ 西アフリカ・マリのトゥクロール帝国の徴税吏。 秋の作物の収穫高を夏に検分して税額を見積もるため村々を巡回する移動中、 奴隷狩りに遭い、米国ジョージア州の農園主に奴隷として買われる。 徴税で養った読み書きと計算のスキルを買われ、黒人奴隷と白人農園主の仲介役を務める。 アフリカでの出生からジョージアの農園に至るまでの来歴を 流麗なアラビア語で記した手記「ビラリの日記」が現在に伝わる。 原爆開発に携わったレオ・シラード 天才に有りがちな偏屈者 あと何やっけ発表しない自分だけの小説を何十年も死ぬまで書いてた人 >>357 ヘンリー・ダーガーか。 『非現実の王国で』と題するファンタジー超大作を人知れず書き上げて亡くなった アメリカの掃除夫。 どんなみすぼらしいなりの貧乏人も、他人を驚かす自分だけの世界を持っている。 この人のことを知ってからそう思うようになった。 >>358 その流れだとチャールズ・デルショー(1830〜1923)。 アメリカの肉屋だったが引退後、23年間色彩つきで全13冊の創作ノートに「自分は飛行船を乗り回す 秘密結社の一員」という設定の図解を描き続ける。(記事の切り抜きのスクラップを含む) 1968年に捨てられていたのをたまたま古物商が発見、芸術家として脚光を浴びた。 理想宮を作ったフェルディナン・シュヴァル ガウディとは紙一重だと思う そういう人たちはいわゆるサヴァン症候群なのかな。 芸術的に尖った才能があるが、人づきあいが苦手なので、 世間に知られないままあの世に旅立ってしまう。 ニコニコ動画でそんな変人解説動画あったな 石の建築を何十年も作ったフランスの変人 恋人(架空)のために珊瑚の建築を作り続けた人 吐蕃史とかマイナーで良さそうだけどな ティソン・デツェンとか ロシア プーチン大統領 デフォルト寸前 ウクライナを侵略 ホロコースト追悼施設への攻撃 モスクへの砲撃 ユダヤ社会とイスラム社会を同時攻撃 李冰 紀元前3世紀、秦の蜀郡郡守にして治水エンジニア。 世界遺産にもなった治水施設「都江堰」を築き、 蜀の地のベースインフラを整えた土木史の超重要人物。 まだ日本語版ウィキペディアには記事がないんだよな。 彼の息子は日本のマンガやアニメに出てるのにな。 >>365 漫画なら、諸星大二郎の『西遊妖猿伝』に「李冰」が登場してるよ。 しかし史実とも小説とも全然設定が違うのが諸星ワールドw ステパーン・バンデーラ 第二次世界大戦の時のウクライナ民族主義者組織代表 教科書・資料集に出てこないので知名度が低い メキシコに最初に到達したヨーロッパ人グリハルバ 薬理学・薬草学の父のわりに知名度が低い ペダニウス・ディオスコリデス ガレノスと双璧でもいいのに >>162 誰も知らないだろうが 日本人はけっこう名前叫んでたりするんだろうなぁ、、、 マイナーではないけど不憫なので 最初に世界一周した船長を紹介しておきますね、、、 下手したらエンリケの方が有名なのではw スペイン語のwikipedia以外では 正当に評価されてる国をみたことがない気がします >>336 フアン・セバスティアン・エルカーノ フェルディナンド・マゼランの船団の指揮を引き継ぎ、1522年に史上初となる世界周航を達成した。姓はデル・カーノ(del Cano)とする場合や、エルカーノ(Elkano)と綴られる場合がある。複合名の後半部分のセバスティアンは日本では通例「セバスチャン」とも表記される。 カミルスとかマルケルスとかネロ(ポエニ戦争期の将軍)とかマイナーなのかな エリシャ・ベン・アヒヤ 第一次ユダヤ戦争時に反ユダヤ政策のブレーンとなった元ラビの背教ユダヤ人 イスラエルの歴史教科書にも名前出てたなぁ 日本語版ウィキどころか英語版ウィキ にすら記事があがってない歴史上人物も いそうではある。 たいていの人物は英語版での記事が 作られてるみたいだが 第一次大戦後の希土戦争における ギリシャ軍司令官ハジアネスティス将軍 ザンジバル革命をおこしたジョン・オケロ アジェンデ政権下において軍の中立を 唱えた事で暗殺されたシュナイダー将軍 マイナーであれば名前あがりやすいが 超が付くと難しいな。 こうなるとあげる者の主観によるか。 その国では有名でも他国(日本含む)では まったくの無名だったり、その国でも 他国でも無名だったり どマイナーだがウィキの日本語版には 記事がのっててそれで知った人も多そう ムスタファ・ケマルのイズミル入城後、 同地のトルコ人民衆によって血祭りに あげられたイズミル大主教クリュソス トモス たぶんジョン萬次郎の方が有名、、、 wikipediaさんから抜粋してまいります ジョン・マンデヴィル ヨーロッパ外の奇習・風俗を記したマンデヴィルの旅行記はヨーロッパ中の注目を集め、各国語に翻訳された[3]。 テューダー朝時代の探検家ウォルター・ローリーはマンデヴィルの記述に誤りは無いと述べ、クリストファー・コロンブス、マーティン・フロビッシャーはマンデヴィルの著作に刺激されて航海に出た また、マンデヴィルの文章力は高い評価を受けており、かつてはシェイクスピア以上の名文家と賞賛されていた 名前不祥でした >>307 ハイルブロンの怪人 2007年の5月25日に、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ハイルブロン市で警官殺傷事件が起こった[2]。休憩のため駐車場に停まっていたパトカーの中で、警官2人が頭を撃たれて横たわっているのを通行人が発見した。うち22歳の女性警官は死亡しており、同僚の男性警官は命を取り留めたものの重い障害が残った[2]。現場からは手錠や拳銃が奪われていた。 この事件の捜査中、現場で採取されたDNAが、ドイツ各地の殺人・強盗・薬物取引の現場でも続々と発見され、フランスやオーストリアでもこのDNAが検出されたため、国際的な連続殺人事件とみなされるようになった。 さらに1993年に起こった殺人事件のDNA鑑定を2001年に実施した結果もこのDNAに一致していたことが判明し、この人物が長期にわたって犯行を重ねていると考えられた。 当時の警察発表によると、犯人は"女性"である可能性が高く、ミトコンドリアDNAの分析では東欧やロシアなどの出身者に多い特徴が見られた[3]。 これらから、東欧の犯罪組織との関係や麻薬取引にも関わっているとも、数言語を操ると思われるともされていた。 2009年1月、警察はこの「顔のない女」「ハイルブロンの怪人」「ドイツで最も危険な女」に30万ユーロの懸賞金をかけ[4]、犯人逮捕に全力を挙げた。 事件が全ヨーロッパ規模の事件となり、ハイルブロン警察にあった「駐車場」事件特別捜査本部の職員に過大な負荷がかかるようになったことから、2009年2月11日に、捜査本部はバーデン=ヴュルテンベルク州刑事局に移行され、捜査態勢が州レベルに格上げされた。 アンテ・パヴェリッチがリーダーな ウスタシャの幹部ども ドラジャ・ミハイロヴィッチが リーダーなチェトニクの幹部ども リーダーは名が知られてるのに幹部の ほうは名前すら誰一人思い浮かばんorz トロワイヤのイワン雷帝読んでると 聞きなれない人達の名前が結構出てくるが ヴャゼムスキー(オプリーチニク幹部)、 フーニコフ(雷帝の財務官)、ボメーリー (雷帝の主治医)なんかはこの本で知ったわ スペイン内乱時のアルカサル籠城戦で 「異常なし」と答えたモスカルド大佐 超マイナーだと思ってても歴史とか 国際政治かじってた人にとっては基礎 教養レベルなんかなorz モスカルド大佐・・・アルカサル籠城戦は スペイン内乱を語る上でかかせないエピの 一つだから超がつくほどのマイナーでも なさそうか。 スペインつながりでカスティーリャの ペドロ残酷王は「アルカサル-王城-」って 漫画で一躍その名が知られるように なった感あるが、作者も編集者もよく こんなマニアック(?)な人物を題材にした よなと思う >>386 フーニコフ、ウィキにすらあがってなくて どの海外サイト見ても「釜ゆでにされた」 という記載しかないの草。 この事が逆に「イワン雷帝に釜ゆでに された人」という扱いで知られてたりして ボリビア・パラグアイ間のチャコ戦争に おいてパラグアイ側の軍事顧問として 同国の勝利に貢献した白系ロシア人・ ベリャエフ。亡命後の白系ロシア人の 中でもこの人は成功したクチかも 「灰とダイヤモンド」の作者、 イェジー・アンジェイエフスキ 「ベン・ハー」の作者ルー・ウォレス あまりに有名な映画に対し、原作を 書いた作者のほうは知名度低そう ポルトガルのサラザール政権への 抗議から客船をシージャックして ブラジルへ亡命したカルヴァン大尉 チトーの側近カルデリやチトーと 対立して下野したジラスはむしろ メジャーなほうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる