超マイナーな歴史上人物を挙げるスレ
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>>163 おぉ、これは素晴らしいww ロケットプランナーはけっこう長生きするイメージありますね 劉チョウ (チョウの字は金偏に長) 五代十国時代、現在の広東省付近にあった南漢国の最後の皇帝 極端に猜疑心が強く、忠臣を疑って次々と誅殺した あげく「普通の男子は子孫を作り、その子孫を大切にするから信用できない。子孫を作れない者なら忠義を尽くすだろう」 との考えのもと、宦官を重用、有能な人材がいればわざわざ去勢してから登用したため、朝廷はほぼ宦官で占められた。 おかげで、当時の南漢の成人男子のうち1割が去勢者だったという。 このような状況で人心は離反するなか、北宋の趙匡胤の攻撃を受ける。 信頼していた宦官にも財産を持ち逃げされ、南漢は滅亡。 劉チョウは捕えられ、北宋の開封に連行された。 そんなある日、趙匡胤は劉チョウに酒を下賜する。 かつて何人もの家臣を毒酒で誅殺してきた劉チョウは自身の運命を予感し、声を上げて泣いた。 趙匡胤は笑いながらその酒を飲み干し、劉チョウは大いに恥じたということだ。 南唐の後主である李Uの后であった、大司徒周宗の娘である姉妹。 姉がまず后となり、妹がソロラト婚で結ばれたため、大周后・小周后と呼ばれる。 大周后(936〜964)は19歳で輿入れし、李Uの即位後に国后に立てられた。 夫の李Uは政治的才能はなく、放蕩好きであったが、文芸・書・画・音楽に優れた才能を発揮 した人物であり、その李Uに寵愛された大周后も琵琶の演奏に優れ、玄宗が楊貴妃のために 作って散逸していた「霓裳羽衣曲」の楽譜の残欠を入手、復元している。 病床にあった時、4歳の息子が仏前(李Uは熱心な仏教信者であった)で遊んでいた所に猫が 来て瑠璃の灯篭を倒し、そのショックで病んで死んでしまったことを嘆き、そのためか大周后も 李Uの献身的な看病むなしく死んでしまう。29歳であった。 李Uは自ら誄を作って石に刻ませ、大周后の愛用の琵琶「金屑檀槽琵琶」を副葬品とし、自ら を「鰥夫U」と称するほどの嘆きようであったという。 小周后(?〜978)はその妹であり、968年に国后に立てられた。 しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、次々と口実を設けては臣従していた国々を併呑 しており、皇帝を国主、皇后を国后と称してへりくだっていた南唐も例外ではなかった。 李Uが開封への出頭を拒否したことで、宋は出兵。南方に位置してかつて南唐に大敗してい た呉越も侵攻したことで、975年、すでに国号すら廃して江南と称していた南唐は滅亡する。 李Uは逆らったというので違命侯に封じられ(普通は帰命侯とでもすべきところであり、嫌がら せめいた命名である)、小周后は鄭国夫人となった。 その後、小周后は時折太祖の後宮に呼び出された。入れば数日は帰って来なかった。 帰って来ると大声で泣いて李Uを責める声が外まで聞こえ、李Uは身をもじって逃げていた。 978年、李Uが亡くなる。一説に、旧臣に対して故郷を懐かしみ、降伏に繋がる判断をしたこと を悔いた発言を漏らし、それをとがめた太祖に毒殺されたのだという。 牽機薬という、機織のように体を何度も折り曲げて苦しんで死ぬという猛毒であった。 小周后は同年に没した。李Uの死の悲しみに耐え切れなかったためという。 李Uの生れた日と死んだ日は同じ七夕の日で、太祖から誕生祝に賜った酒が毒入りであった。 呉越の後主である銭弘俶も、やはり8月24日に生れて同日に死んでいる。 こちらも、太祖から誕生祝に賜った酒を飲んでの死であった。 李Uを毒殺したのは北宋の太祖じゃなくて、弟の太宗じゃなかったか? >>365 趙匡胤は976年に崩御しているので、太宗趙匡義だね つまり北宋の太祖は人格者、太宗は簒奪者ということでおけ? 「千載不決の議」はさすがに酒の飲み過ぎによる脳溢血だろうけど >>169 2ちゃんねるが始まったころは「李U」の字が文字化けしたんだっけなー >>174 創業の皇帝のなかで、宋太祖は漢光武帝とならんで戦い以外で人の命を奪うことをしなかった >宋太祖は漢光武帝とならんで 両社とも超メジャーな人物 北宋の太宗が李Uに毒を盛ったのは、文才に嫉妬したから? >>169 >しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、 実際に画を描いていたのは弟の趙匡義だがな 劉邦と同様に趙匡胤もただの神輿 >>141 俺は死んだツァーリだ!!って言ってたらいつのまにか 民衆が集まり愛されるようになって政府や教会にも厚遇されるようになったみたいな人か >>35 何処かにも書いたけど シモン・ステヴィンさんの影の薄さはやばいっすね 後にこの辺りの実験やった人はみんな有名になってる パクリなんじゃww https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3 1585年に著した『十進法(オランダ語版、英語版)(蘭: De Thiende, 仏: La Disme)』で十進数による小数の理論を提唱した。 現在、19.178と表す小数を「19?1@7A8」のように表した。 また、ステヴィンは他にも加算や減算を表す+や-のように様々な記号を導入した。 1586年には古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、天文学者、発明家のアルキメデスの研究を発展させ『吊り合いの原理 (オランダ語版、英語版)(蘭: De beghinselen der weeghconst)』を著した。 これには力のベクトル合成の理論、水圧について述べ、てこの原理の証明、 数珠を用いた思考実験により永久運動の不可能と斜面の法則について証明して力の平行四辺形の法則の発見に至った。 なお、『吊り合いの原理』の付録にはステヴィンが行った実験で、 重さが10倍異なる2つの物体を落下させるとほとんど同時に落下すると言う実験結果が示されている。 同年『水の重さの原理(De Beghinselen des Waterwichts)』を著し、 容器の形に関係なく水面は地球の球面と変わらず水の平衡状態に関して力の法則を導いている。 >>35 ちなみにヘンリー・キャヴェンディッシュさんは 日本国の高校の教科書にけっこう載ってるんじゃないかと思うので あんまりマイナーな感じはしないっすねぇ 実は本人が作っても計算してもなかったというのは驚きでしたがww >>182 グロスミッチェルは復活できないもんですかねー >>3 ハーバーさんに比べてボッシュさんの影の薄さは異常 と思って調べてみましたら、ハーバーさんより超重要人物のうえ 人間的な深みも感じられる逸話などもあり ちょっとビックリしました ハーバーさんみたいに一般受けする 派手なエピソードがないと流行らないんでしょうねぇ 潘彦 唐代の人。無類の双六好きであり、常に双六盤を放すことが無かった。 乗っていた船が海に沈んだ際、右手に板を、左手に双六盤をとり、口にサイコロを入れて漂流。 二日間漂流して岸についたが、それまでずっと双六盤もサイコロも放さずにいた。 ただ、それだけで歴史に名を残した人物。 朱友恭の呪い 朱友恭は唐を滅ぼした朱全忠の養子である。本名は李彦威という。 武勇に優れ実力はあるのだが、性格に問題があった。嫉妬深い性格だった。義父の実子に嫉妬するあまり誣告して窮地に追い込んだこともある。 そんな朱友恭は義父の命令で皇帝の監視役となった。喜び勇む朱友恭。義父が皇帝を弑逆する謀議にも加担した。 しかし、これは朱友恭を陥れる罠だった。義父は嫉妬深い朱友恭を疎んじていたのだった。朱友恭は李彦威に戻されたうえで、皇帝殺しの罪を全部押し付けられた。 処刑される際、朱友恭は髪を振り乱し鬼気迫る表情で絶叫した。「義父上は俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたのだ。鬼神よ! いかんせん、このような行為をして、朱家の子孫が存続すると思うのか?」と。 それからというもの、朱全忠は皇帝になれたものの次々と不幸に見舞われた。一族も不幸に見舞われた。そして朱全忠の一族はあっけなく滅んだのだ。 まるで、朱友恭の呪いにかかったかのように…。 チャンドラ・ボース 海の向こうの電波を受信して活躍 イスマーイール1世 16世紀初頭にイランで成立したイスラム教シーア派の国家サファヴィー朝の建国者。 超マイナーどころか、世界史上メジャーな人物だが、後世に与えた影響を鑑みると、不当に低い知名度に置かれている。 1487年、アルダビールで神秘主義教団の教主の子として生まれた。 西欧人が少年時のイスマーイール1世と謁見した時、「邪悪なほどに美しい」と言ったと言われ、幼少の頃から智勇に優れていた。 14歳で即位!して、37歳の若さで死去。 歴史家アーノルド・トインビーは大著「歴史の研究」で、シャー・イスマイールのことを、「レーニンに匹敵する歴史的破壊力を持った人物」と述べている。 死に体だったシーア派を再興し、イスラム世界を事実上2つに割た当事者。 >>188 こっち向きの方ですね 過大評価・過小評価されている世界史の人物 [転載禁止](c)2ch.net https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1420361359/1 1 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2015/01/04(日) 17:49:19.59 0 世界史において過大評価・過小評価されていると思う人物について話すスレ。 チャールズ・サンダース・パース 彼の偉大さをウィキペディア先生から抽出していく とりあえずカーネル・サンダースのほうが有名かと思います、、、 生涯 プラグマティズムの創始者として知られる。 「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる。 8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。 1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与 1867年のアメリカ芸術科学アカデミーでパースは、 すでに1847年にブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。 学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダーの『論理の代数についての講義』に引き継がれ、 さらにラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。 ちなみに彼の発見は 論文や著作を完成させられないという特殊能力のため ほとんど発表されなかったらしいww カントール、デデキントと有名人が並びます >>191 数学 パースの純粋数学における研究は 数論、線型代数学、トポロジー、リスティンク数、射影幾何学、四色問題、集合論、ブール代数、そして連続体の研究に及ぶ。 応用分野としては経済数学、地図の投影法、確率論、統計学などを研究した。 数学における発見 パースは基礎数学や形式論理学でいくつもの重要な発見をしているが、そのほとんどは死後まで評価されることはなかった。 1860年には、無限数の基数演算を提案した[14]。これはゲオルク・カントールの超限数の研究の前であり(カントールが博士論文を完成させたのは1867年である)、 ベルナルト・ボルツァーノの『無限の逆説』(Paradoxien des Unendlichen;1851)へのアクセスがない状態で書かれている。 1881年の「数の論理について」で、パースは自然数算術の公理化を提示した[15]。 これはリヒャルト・デデキントとジュゼッペ・ペアノによる公理化の数年前である。 またこの同じ論文においてパースは、デデキントよりも前に、今日で言うデデキント有限性に相当する有限集合の定義を初めて与えている。 これは、「その真部分集合との間に単射対応が存在する集合」という無限集合の重要な形式的定義(デデキント無限)を含意している。 >>191 形式論理学における発見 1880-1881年には、否定論理和のfunctional completeness(en:Functional completeness)を示した[35]。 これはヘンリー・M・シェファー(en:Henry M. Sheffer)の研究の33年前である。 1885年の「論理代数について」で、パースは一階の量化と二階の量化を区別した[36]。 またこの同じ論文において彼は初めての公理的集合論として読めるものを提示しているが、 これはエルンスト・ツェルメロの研究の20年以上前である。 1890年代後半までには、述語論理の図表的記法である存在グラフを開発していた。 特殊科学における発見 1886年にはブール演算が電子回路によって実現され得ることに気付いていた[64]。 これはこんにちのコンピュータに代表されるディジタル回路と呼ばれる電子回路の応用そのものと言える発想であり、 日本の中嶋章やクロード・シャノンによる成果の50年以上も前である。 未発表で死後発見されたパターンの世に埋もれた天才多そう 解説動画で見たけどヘンリー・キャヴェンディッシュもそうだったみたいね ノアイユ子爵 ラファイエットの義兄で、共にアメリカ独立戦争の戦場を渡り歩き、 フランス革命では封建制度の廃止を一番に主張したかっこいい青年貴族。 そんなに活躍したのに、なぜだか歴史書の上で影が薄い・・・ チャールズ・ホイットマン テキサァァァァスタワー乱射事件の犯人だけどイギリスの特殊部隊のSWET設立の原因になったからある意味偉人 セミョン・デジニョフ ベーリング海峡を発見した人 記録に残る中で最初なのに影薄レベルは高い気がしますね、、、 ベーリング海峡のベーリングと比べれば見劣りするがデジニョフ岬で名前が付いてるので超マイナーという程ではない デジニョフ岬 ベーリング海峡のロシア側なのか 初めて知ったわ 1739年に日本に来航したマルティン・シュパンベルクもなぜかマイナーだな 江戸幕府が北方に巨大な帝国が存在すると気が付いたのは彼が来たからだし、 元祖黒船はペリーじゃなくシュパンベルクなのに、一般的知名度ゼロでかわいそう。 おいら 歴史上ニートであることが保証された 完全無欠のニート ひきこもりで人前じゃしゃべれないという得意技もある 元祖自宅警備員 これほど数々の偉業を成し遂げながら、ほぼ無名です、、、 >>201 世界史版の住民の間では存在を認知されているよ(たぶん) ソンチェンガンポ かこのスレにちょうど良いんじゃね? 偉業の割に知られなさすぎ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ ソンツェン・ガンポ >>197 ベーリング海挟んで対岸のスワードもええんちゃう。 アラスカ買った国務長官 >>203 チベット史自体がまず一般的に知られていなすぎだがソンツェンガンポぐらいなら吐蕃の国名とセットで憶える基礎教養レベルだろう それより吐蕃帝国をぶっ壊した末代のランダルマこそ超マイナーなのではないか? >>204 アラスカ買収について「スワードの冷蔵庫と嘲笑された」と書く歴史書もあるが、 冷蔵に天然の氷を使うしかなかった当時は、冷蔵設備の整った倉庫というのは 成長株の産業であり、実際はスワードに対する賛辞であったのではなかろうか。 レオポルト・インフェルト ユダヤ系ポーランド人の理論物理学者 アインシュタインの弟子にして共同研究者 アインシュタインとの共著『物理学はいかに創られたか』は 数式は頭が受け付けないけれど相対性理論をかじりたいという 文系の人に優しいロングセラーな入門書 >>205 ランダルマ廃仏王きたー!いいとこつくなぁ 確かにそう思うとソンチェンガンポは有名人か…(;´Д`) >>206 何それ初めて聞いた。 なるほど経済背景を知らないと賛辞も皮肉に見えてしまうわけか。 アルトゥール・シェルビウス 発明家。 第二次世界大戦の行方を左右する重要な機器を開発し アメリカで特許も取得しこれからというとこで 行く末を見届けることなく1929年に死亡した。 >アルトゥール・シェルビウス 第二次世界大戦で活躍した暗号機の発明者が 馬車の事故で死亡したというギャップがよく話題に上がる そういえば、暗号解読というとチューリングさんばっかり話題に上って パープル解読を主導したウィリアム・フレデリック・フリードマンさんの中の人は 日本語のウィキペディアすらないのか、、、 https://en.wikipedia.org/wiki/William_F._Friedman 韓王信 よく韓信と混同されるが別人 最後は匈奴に寝返って漢と戦った 卑弥弓呼(ひみここ) 邪馬台国と敵対する狗奴国の王 名前は卑弥呼と名前がそっくりさんだがこちらは男王である 朱元帥 1359年に沙劉、関先生ら共に20万の兵を率いて高麗に乱入 李成桂を筆頭とする高麗軍にわりとあっさり撃退されて以降は生死不詳 同じく紅巾の賊である朱元璋とはおそらく面識はない 竹原左大臣兼信 常陸国の小豪族風情にもかかわらず秀頼右大臣をしのぐ左大臣を自称したすげえ奴 ここまで突き抜けていると当時でも笑いが取れたに違いない 慕容帰 後燕の平州刺史。遠縁だが勇猛果敢で名高い慕容一族である。402年、高句麗に攻め込まれた慕容帰は信じられない行動に出た。 なんと、根拠の宿軍城を放棄して敵前逃亡してしまったのだった。本当にあの慕容一族なのかと疑いたくなるほどのへっぽこである。 主君は暴君で有名な慕容熙。妃の死を泣かなかった官吏を処刑したというとんでもない逸話が残っている。しかし、慕容帰が処罰された形跡は無い。 敵前逃亡をやらかした慕容帰はこのまま歴史から消えるのかと思われたのだが…。歴史は慕容帰を見放さなかった。 後燕がクーデターで倒れて馮跋の北燕になった。後燕の皇族は慕容熙が始末したかクーデターで処刑したかされた。冗談抜きで後燕の祭祀をやる人間がいなくなってしまった。 困り果てた馮跋は慕容帰に目をつけた。敵前逃亡をやらかしたへっぽこな慕容帰なら担がれる心配がないと。 処刑されると泣いて震える慕容帰に馮跋は命じた。遼東公に封じられて慕容一族並びに後燕の祭祀をやるようにと。 かくして、へっぽこは身を助けたのであった。 スタニスラス・マイヤール(1763年〜1794年) バスティーユ襲撃で重要な役割を果たした後もヴェルサイユ行進、9月虐殺などフランス革命の 大事件に関わった人物にも関わらず、少なくとも日本ではあまり知られていない チャールズ・プロテウス・スタインメッツ ドワーフの魔法使いで 人類に電力の扱い方を伝える いま電気を思う存分使えるのは 彼のおかげかもしれません、、、 ジョン・ミッチェル(John Michell、1724年 12月25日 ? 1793年4月21日) イギリスの18世紀の科学者で ブラックホールの存在を最初に予言した。 >>212 青梅駅と青海駅なみのまぎらわしさですなw >>217 ミッチェル氏は「見えない」ブラックホールを発見するためには 互いの周りを回っている二重連星のような動き方をしているのに 星が片方しか見えない天体を探せば良いよ〜という事まで提案した。 当時の観測技術が到底及ばないことを平然と言う。すごいですよね。 18世紀の時点の天文学知識でどうやってブラックホールを予言したのか気になる >>220 この場合重要なのは天文学の知識ではない。 物理学の知識を天文学に敷衍したのだよ、ワトソン君。 >>220 ブラックホールがあるはず、という説を提唱したわけじゃなくて 「もし凄く重い星があったらその星の光は重力で出てこれないから見えないよね」 という事を言ってたという話だよ >>220 具体的なサイズを見積もっているので 天文学的には レーマーの光速度 ブラッドレーの光行差 この辺りを利用している可能性はありますね ベンガルとか誰かいないのかな あとカーマルーパとか ルキアノス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%B9 ルキアノス(サモサタのルキアノス、 ルーキアーノス、 Lucianos, Lucianus, Lucinus, 英語ではLucian of Samosata(ルシアン), 120年乃至125年頃 - 180年以後)はギリシャ語で執筆したシリア人の風刺作家である。 月旅行SF小説を執筆しました。記録にも残るホントの話です。 >>106 傅安 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/eclipse/chinese_astronomy.htm 紀元前 52 年に、最初の赤道を導入したのは 耿壽昌である。 その後の後漢 (AD 23 年 - AD 220 年) の時代に、 AD 84 年までに、 天文学者である 傅安 (Fu An) さん と 賈逵 (Jia Kui) は黄道の輪を追加した。 傅安さんの中の人は、中国で黄道ベースで天文観測した最初の中の人らしい。 民間人だったそうなので、板垣さん的な中国人だったのでしょうか ファンになりそうです、、、 >>17 ペドロ・ヌネシュ この名前からは想像がつかない 彼の名前を冠した器具の発明者とされることもあるが 彼は幅を測る装置は発明しなかった ちなみに大圏コースについては もっと昔の人が発見してますね ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%83%A5 16世紀の最も偉大な数学者の一人でポルトガルの大航海時代に重要であった航海技術への貢献で知られる。 等角航法の最初の提案者 ヌネシュの多くの業績は航海術に関するもので、 一定の方角で進む船舶が地球上の2点を結ぶ最短距離である 大圏コースを進むことにならないことを理解した最初の一人である。 しかしながら大圏コースを進むためには常に方向を変えて進まなければならず、 子午線に対して一定の角度で進む等角航法を提案した。 クエーカーの奴隷制度廃止運動家「恐れ知らず」のベンジャミン・レイ(1682年 - 1759年) 奴隷所有者とみれば誰彼かまわず食って掛かり、ついには奴隷所有者の子供を誘拐して おまえはそれと同じことをしているのだと主張した。 ジャンルが違いますが、>>216 のドワーフで連想しました。 https://www.bbc.com/news/uk-england-essex-42640782 身長4フィートの頑固なトラブルメーカーで洞窟を住まいにしたというから本格的。 >>218 そのうち青海駅に行こうと思ってたら中国のチンハイ省に行ってしまった馬鹿とかでないかな?w >>229 洞窟住まいの人攫いとは本格的ですな、、、 >>187 >>225 ジャガディッシュ・チャンドラ・ボース https://choi-clip.com/jagadish-chandra-bose イギリス統治下のベンガル行政区マイメンシン生まれ、カルカッタのセントザビエルカレッジ卒業。 大西洋横断無線電信の立役者 植物の精密観察を実施 始めて半導体をデバイス化 偉業が多すぐるので彼のコメントと電波の話だけコピペしておきます。 起源を主張する方に聞かせてあげたい名言を 「人類にとって重要なのは発明であり、発明者ではない」 http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/intercomp/wireless/cohoherermucuy.htm 1901年12月にマルコーニは大西洋横断無線通信に成功します。 この快挙に対してマルコーニは世界中から祝福されましたが、 この大西洋横断無線電信の実験で信号を受信することができたのは水銀コヒーラであるとされていますが、 この水銀コヒーラ(ボースのコヒーラ参照)の真の発明者はマルコーニではなく、 インドのボース(Jagadish Chandra Bose)であることはマルコーニが亡くなるまで隠されていました。 (中略) 25年後マルコーニの助手をしていたMr.Vivianはマルコーニの伝記にマルコーニは水銀コヒーラをただ使用しただけであると明確に記載しました。 1998に英国の歴史家V.J.Pillipsによって正確な調査がなされマルコーニがボースの発明を盗んだことが確認され公表されました。 (中略) 従って、1901年12月に大西洋横断無線電信(英国ポルジュ(Poldhu、Cornwall)からセント・ジョーンズ(St. John's Newfoundland)の近くのシグナルヒル( Signal Hill)(地図参照) 約2000マイル)にマルコーニが使用した水銀コヒーラはボースの発明によるものであったといえます。 >>231 タイムマシンができないと無理だがな・・(´・ω・`) ガッサンディ。 懐疑主義を唱えデカルトとともにスコラ哲学を堀崩していく。 更に快楽主義者で唯物論的原子論者だったエピクロスを再発見する。 経験論者で合理論者のデカルトと対立したが彼の経験論はロックなどに受け継がれイギリス経験論の元になる。 ニュートンの原子モデルもガッサンディのそれによるなど科学への寄与も高い。 ちらっと見直してましたら おいらの記憶と異なってたので >>42 >>44 二番目に世界周航したのは アンドレス・デ・ウルダネータさんの中の人ですね でもこの人はマイナーじゃないので このスレ向きの方でしたら以下の方を それにしてもエゲレス人の歴史改変能力は目を見張るものがありますw >>197 フランシスコ・デ・オセス ドレーク海峡を始めて通過した人 >>147 ウンベルト・ノビレ 初めて北極点に到達した立役者 彼の能力なくして北極点に到達できたとは思えないだけに マイナーかと思いますね 西夏最後の皇帝の末主 モンゴル側では何故か妖術師シドルグと記録されている 末主シドルグは得意の妖術でモンゴル軍を散々苦しめたとある 妖術師と記録が残ってる皇帝はこの人ぐらいでは? ファン・リンスホーテン 歴史の行方すら左右した おそらく史上最高の産業スパイ エドアルト・ジュース Eduard Suess 1861年、それまで知られていなかった超巨大大陸を発見した。 コロンブス?アメリカ?あんな小物、目じゃないっすよ。 ゴンドワナ大陸の発見者か wikiでは、プレートテクトニクスで説明されてるけれど 将来的には、地球膨張説に軍配があがるかも >ゴンドワナ大陸の発見者 ヴェーゲナーが類似商品のパンゲア大陸を発見する50年も前なんだな。 パイオニアすぎる・・・ クリスチャン・J・トムセン 彼は大学の学位もなかったが27歳という若さで 石器時代と青銅器時代と鉄器時代の 3つも時代を発見した >>243 おいらは最初パンゲアかと思ったんですが むしろヴェゲナーさんの中の人が パンゲアを発明していたことの方に驚きましたね イヴ・ジョゼフ・ド・ケルゲレン・ド・トレマレック(1734〜1797) フランス海軍の軍人・探検家。最終階級は少将。 大発見!と本国に報告した南の大陸は、2000万年前に海に沈んでいました(泣) https://ja.wikipedia.org/wiki/ ケルゲレン海台#ケルゲレン微小大陸 >>246 フランス語版のWikipedia見たら、 このひと「はんべんごろう」さんとの共謀が疑われてたんだなww 妖術で思い出したが 清教徒革命でクロムウェル軍と戦ったルパート王子の愛犬は 神通力を持つ魔犬と恐れられていた。 その勇猛さから狂人騎士と称えられたイケメンの王子と、 ラップランドの魔女の化身と敵に恐れられた愛犬のボーイ。 なんだかライトノベルの設定みたいだぞ・・・ マイナーなようでいて、ルパート王子は少女マンガの題材にもなってたな。 吉蔵 きちぞう 549年 - 623年 ふつうの田舎のお百姓のような名前だが、三論宗を大成し その学識の広さで隋・唐時代の皇帝に尊崇された高僧である。 日本への影響も大きく、聖徳太子が著したという『三経義疏』は 吉蔵の著作との類似が多いとされる。 フョードル・アプラクシン ピョートル大帝とは子供の頃からおもちゃの船の海戦ごっこで遊んだ友人同士。 長じては海軍元帥に任じられ、お雇い外国人を率いて本物のロシア海軍を創設した。 ハンゲの海戦(1714年)における勝利は、バルト海の制海権をもたらし ロシアがスウェーデンを抑えて大国に成長するきっかけとなった。 ルイス・フィリペ スペイン国王。 即位の際すでに重傷を負っておりほどなく崩御。 在位期間20分。ギネスブック認定。 >>254 は ポルトガル国王の間違いでした。スマソ。 ラインハルト・ハイドリヒの弟 ハインツ・ハイドリヒ ユダヤ人虐殺を実行した兄とは 正反対に偽物のビザを発行して ユダヤ人を救出した功績は オスカー・シンドラーや杉原千畝に 匹敵しうる 兄弟の一方が頭のネジが外れていて もう一方がしっかりした常識人 けっこうあるねこのパターン セプティミウス・セウェルス 軍人皇帝の最初の皇帝はマクシミヌスだが、ローマ初の軍人皇帝はこいつ タイフサ Tay Fusa 倭寇のリーダーでおそらく日本人。 1582年、フィリピンのルソン島北部カガヤンにおいて スペイン艦隊と交戦するも大敗を喫して追い払われた。 ・・・なお、以上は英語版ウィキペディアの情報であって、 私としては必ずしもこれを信じているわけでは・・・ ┐(´∀`)┌ https://en.wikipedia.org/wiki/1582_Cagayan_battles ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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