南唐の後主である李Uの后であった、大司徒周宗の娘である姉妹。
姉がまず后となり、妹がソロラト婚で結ばれたため、大周后・小周后と呼ばれる。
大周后(936〜964)は19歳で輿入れし、李Uの即位後に国后に立てられた。
夫の李Uは政治的才能はなく、放蕩好きであったが、文芸・書・画・音楽に優れた才能を発揮
した人物であり、その李Uに寵愛された大周后も琵琶の演奏に優れ、玄宗が楊貴妃のために
作って散逸していた「霓裳羽衣曲」の楽譜の残欠を入手、復元している。
病床にあった時、4歳の息子が仏前(李Uは熱心な仏教信者であった)で遊んでいた所に猫が
来て瑠璃の灯篭を倒し、そのショックで病んで死んでしまったことを嘆き、そのためか大周后も
李Uの献身的な看病むなしく死んでしまう。29歳であった。
李Uは自ら誄を作って石に刻ませ、大周后の愛用の琵琶「金屑檀槽琵琶」を副葬品とし、自ら
を「鰥夫U」と称するほどの嘆きようであったという。

小周后(?〜978)はその妹であり、968年に国后に立てられた。
しかし、全土統一を望む宋の太祖趙匡胤は、次々と口実を設けては臣従していた国々を併呑
しており、皇帝を国主、皇后を国后と称してへりくだっていた南唐も例外ではなかった。
李Uが開封への出頭を拒否したことで、宋は出兵。南方に位置してかつて南唐に大敗してい
た呉越も侵攻したことで、975年、すでに国号すら廃して江南と称していた南唐は滅亡する。