超マイナーな歴史上人物を挙げるスレ
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ラージャラージャ1世
チョーラ朝の王で南インドを征服し、スリランカへも遠征した
チョーラ朝の偉大な王として知られ、その栄光は戦利品で作られたタンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院に残る インドネシアまで勢力伸ばしてたね
あと東チャールキヤ朝と婚姻合体 要離
呉王の臣。主が王子慶忌を殺めたいが手段が無いと悩んでいた際、刺客に立候補した。
呉王は「かつてわしが六頭立ての馬車で追ったが追いつけず、矢をあるだけ射たが当たらなかった。
お前は剣を振るおうにも持ち上げられず、車に乗ろうにも軾を登りきれぬではないか。なんで刺客が
務まろうぞ。」と言ったが、要離は退かなかった。
「士は勇気のないことを憂うだけで御座います。なんで力の及ばぬことを憂いましょうや。王が誠意を
以てお膳立てをして下さるのであれば、臣は達成して御覧にいれましょう。」
そこで翌朝、要離の要求通りに彼を追放し、妻子を火刑にして灰を揚げた。
要離は衛に亡命していた慶忌の所に駆け込み、信用を得てから「呉王の無道は甚だしいものです。
帰国して王位を奪われるべきでしょう。」と進言、信用した慶忌はこれを受け入れる。
そして帰国途中、要離は大河を渡る船上でやおら剣を抜き、慶忌を刺したのであった。
慶忌は全てを悟ると要離をつかみ、水中に投げ入れて言った。
「汝は天下の国士である。生かして名を成さしめようではないか。」
帰国した要離を呉王は歓迎して国を分け与えようと言ったが、要離は死を望んだ。
「妻子を殺して不仁。形式とはいえ仕えた主を殺して不義。殺した相手に救われて恥をかいて、この
三つを得た身で、生きてはおられません。」
遂に自刃して果てた。
以上は『呂氏春秋』によるが、『呉越春秋』によれば、要離を刺客に推挙したのは伍子胥であった。
かつて斉王の使者として呉に赴いた椒丘欣という者がいて、途中で水神を倒して驕り、呉の人々を
あなどる振る舞いがあったが、要離は「馬を失い、御者を失い、片目を失って勇を誇るのか。」と言い、
怒った椒丘欣が報復に赴いたが抵抗もせず「最初に恥をかかされた時に報復せず、堂に入る前に入
ることを伝えず、相手が剣を抜いていないのに自分だけ抜いて勝ち誇った」という三つの不肖を述べ
たので、椒丘欣は「天下の国士」であると讃嘆したという。 ゼウクシス
小アジアに生まれ、古代ギリシャ文化圏で活躍した画家。
師のアポロドロスは陰影の技術で知られ、ゼウクシスも本物そっくりの絵を得意としたとされる。
マケドニア王アルケラオス1世は不正な手段で王位に就いたことをプラトンに批判された人物であ
ったが、内政を整備し、都をアイガイよりぺラに移し、多くの文化人を王都に招聘するなど、業績は
名君と言いうる物であった。
ぺラの新宮殿の壁画を描いて名物としたのが、当時高名であった画家のゼウクシスである。
パラシオスもまた高名な画家であったため、後世に二人の画力争いの逸話を生んだ。
ゼウクシスが自分の作品を持参したところ、葡萄の絵であったが、小鳥が下りてきて啄ばもうとした
というくらい迫真の出来であった。
ゼウクシスは勝ち誇り、パラシオスに対し、早く絵に掛けられた布を取るように迫った。
しかし、その布は描かれたものであったという。目を欺かれたゼウクシスの負けであった。
不面目な逸話ではあるが、それでもルネサンス期にはアレクサンドロス大王時代の画家であるニキ
アスと共に讃えられている。 シャカ ズールー
南部アフリカの一部族であったズールー族を南アフリカの大半の部分を支配する一大国家へと導いた指導者である。彼の軍事力と戦略、敵を殲滅し生存者を部族に同化させていく力量は、ズールー族の中でも抜きん出たものがあった >>25
今年受験生だったけど他にもかなりいるぞ
イブンルシュドとかイブンバットゥーダとか
センター試験にもラシードゥッディーン出てたし 個人的にはリチャード3世
薔薇戦争終結させたのにほとんど教科書触れてなくてかなc リチャード3世はシェイクスピア劇に取り上げられたことで
業績を超えてメジャーな存在になってると思うが その流れだとエドワード六世
ねーちゃん達はあれだけ有名なのに プタハヘテプ
古代エジプト第5王朝の宰相。後世賢人として知られたためか、彼と同一人物と思われる名前を
冠した教訓集が、第12王朝や第18王朝でも編纂されている。
わが子に与える教訓という形をとっており、「無教養で卑怯な人と論争して怒ったりせず、彼自身
に任せておけば、彼は自分で自分を追い詰めるだろう(取意)」という教訓は、現代のネット上で
の論争にも通ずるものがある(『戦国策』にも大意として同じような文言があるが)。
勿論、現実における論争にも已然として言いうることである。
他の教訓もいちいち現代に通じるものがあり、人間の生活の変わらなさを実感させてくれる。 >>78
エドワード6世は教科書乗ってるんや
百年戦争開始させた人物やろ?? >>78
ごめん勘違いしとった
ヘンリ8世の息子か
どっちにしても教科書にはでかでか乗っとるわ セオドア・モーデ(1911〜1954)
アメリカの探検家。第二次世界大戦中に中米で白の都(シウダー・ブランカ)と呼ばれる幻の遺跡を発見したと主張。
遺跡は本人いわく「最盛期には数千人が生活していたであろう」規模の物であった。
遺跡ではかつて奇妙な形をした猿の神が信仰されており、壁にはその姿が彫られ、人身供犠もあったという。
第二次大戦後、場所を明らかにする前に急死した。 ニコニコ動画からだが
東方朔とか李確とか南海龍公とか面白かったな 東方朔はかつて日本画の画題でよく見られた人物ですが、今は画題自体が廃れてあまり知られない
存在となってしまいましたね。逸話が豊富で面白いのですが。
南海龍公というのは、徳川頼宣のことでしょうか。時代小説では存在感のある人物です。
何かしらたくらんでいたり、仮想歴史系なら幕府相手に挙兵していたりしますが、時代小説自体が今
は昔ほど世間の人気がないので、こちらもマイナーになってしまうのでしょうね。 文春文庫
中野京子と読み解く
名画の謎 陰謀の歴史篇
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163769202
この本、結構マイナーな人物が画題の絵を取り上げてる また動画からの引用
ヴォイテク
ポーランドの正式な伍長
その実態は… 耶律迭刺
契丹小字の考案者。遼の耶律阿保機の弟に当たる。並外れた天才で有名だった。
ある時、ウイグルの使者がやって来た。宮中ではあいにくウイグル語を理解できる者が誰もいなかった。耶律阿保機の皇后は迭刺に白羽の矢を立てた。
迭刺は使者からウイグル語を学んだ。恐ろしいことに、わずか20日でウイグル語を完全にマスターしてしまった。発音だけじゃない文法も。こんな生徒がいたら英会話塾は商売上がったりである。
迭刺の更に恐ろしいところは、マスターしたついでに新しい契丹文字を作ればどうかと思いついたことだ。阿保機考案の契丹大字があったけど、いまいち不便だった。ウイグル文字をヒントに片手間で考案したのが契丹小字となった。
ただ、迭刺には欠点があった。この男、謀反大好き人間だったのだ。4回謀反を起こしているが、どういうわけかその度に「迭刺だから仕方ないね」と許されている。 ジョン・スミス
イギリス人のハンターでインディアンの偉大な遺跡を発見した。 ハンターといえばジョン・ハンターという偉人かつ奇人もいましたね。 >>71
中居屋重兵衛さん
たぶん日本で始めて天井式の水族館をつくった 骨盗んだ人でしたっけ?
と思ったらナマモノでしたか 道祖王(ふなどおう)
奈良時代後期の皇族
聖武上皇の遺勅により、孝謙女帝の皇太子にたてられる。
だが「夜遊びが過ぎる」「国家機密を漏らした」
あげく「聖武帝の喪中に、お仕えの小姓とホモ行為をした」ことなどを理由に廃嫡される
同年、宮中の独裁者だった藤原仲麻呂の排除を画策したクーデター計画が発覚。
道祖王はクーデターの首謀者だった橘奈良麻呂とともに捕えられ、「まどひ」(惑い者)なる名に改名された挙句
棒打ち拷問で打ち殺されてしまった。
ホモで廃太子… >>91
天井をガラスの水槽にして金魚を泳がせたのは、淀屋辰五郎が最初でしょう。
中居屋の方が金魚の品種改良が進んでいて見栄えはしたでしょうが。
>>93
四文字年号の採用などから光明皇后に武則天の影響を指摘する説がありますが、娘の孝謙天皇
も武則天に影響されたのか改名好きでしたね。
天平勝宝は七年から九年まで年ではなく歳で表記されています。
和気清麻呂と姉が悪名に改名させられた話も有名。かなり実力のある暴君です。 キモい名前に強制改名って
かなり陰湿だよなあ(・ω・`) >キモい名前に強制改名って
王莽、武則天、雍正帝がやっていますね。
いずれも実力者には違いないのですが、生まれながらの皇帝でない個性派は、改名して刷新すること
に拘ってしまうものなのでしょうか。
>>91
の人は、検索するとアニメに出て声もついていましたね。 不破内親王
奈良時代後期の皇族
聖武天皇の皇女、孝謙女帝とは異母姉妹にあたる。
重祚した孝謙=称徳女帝を「女帝の髪をドクロの中に入れる」というおぞましい方法で呪った咎で
「厨真人厨女」(台所の飯炊き女)なる恥ずかしい名に改名されられたあげく追放
ネット上で相手を「厨房」と呼んで罵る風習は、まさにここに始まった…わけがない。
数年後に許され都に復すが、その10年後に息子が謀反をたくらんだのに連座してまた追放される。
以後の消息は不明。
なお不破内親王の同母姉である井上内親王は、伊勢の斎宮を20年間務めたのちに皇族の白壁王と結婚。
45歳という当時としては超高齢出産で他戸親王を生む。夫の白壁王は天智天皇系、井上内親王は天武天皇系だったわけなので、
他戸親王は壬申の乱以来分裂していた両系統を融合させる期待の星であったわけだ。
ところが白壁王が奈良時代最後の天皇・光仁天皇として即位したのち、井上内親王は天皇を呪ったかどで
他戸親王とともに捕えられ、ほどなく母子ともに死去。
これは山部親王(のちの桓武天皇)の擁立をたくらんだ藤原氏の陰謀らしい。
桓武天皇が弟・早良親王の怨霊に苦しめられた故事は有名だが、同時に井上内親王母子の怨霊にも苦しめられていたらしい。
こうして、怨霊に万全の対策をほどこした平安京へと都は移る。
現在、井上内親王は奈良県五條市の御霊神社で、早良親王とともに祀られている。
彼女が高齢出産したので、高齢出産の守り神だとか 誰か欒大について書いてくれー
諸星大二郎の漫画で武帝の臣として出ていた 欒大のウィキは日本版無
中文版より英語版のが詳しいな
でも英文から訳したら、登場人物や地名の漢字表記が解らん ああ、武帝の時代の。最初に『漢書』を読んだ時には、粛清と詐欺だらけの時代で驚いたものです。
丞相だけでも獄死が三人、処刑が一人。失敗して責任を問われて死んだ者、謀反人は不可勝計。
よく天下統一後の劉邦の時代が酷いと言われますが、意味があまりなさそうでより酷いですよ。
対強弩戦が有名ですが、朝鮮も含め、周辺国がしょっちゅう背いています。徹底的に人望がない。
欒大
前漢の武帝の元鼎四年(紀元前113年)の夏に、楽通侯・上将軍に任ぜられた方士。
翌年になって宝鼎が土中から得られ、水中から馬が出現するという奇瑞が見られた。
これに応じて宝鼎の歌、天馬の歌が作られている(現代の歌以上に政治的・宗教的意味が重い)。
武帝に重用されたらしいが、翌年九月には腰斬の刑に処せられている。
武帝紀にあるのは、これだけですね。
『漢書』郊祀志にもあるようですが、今手元にありません。
以下は『史記』孝武帝本紀参照。
欒大はかつて方術を学び、膠東王の尚方(古代に重要であった音楽を司る官)となった。
膠東王が代替わりすると、子供のなかった先王の正妻は妾の子である現王とそりが合わず、
武帝に取り入るために弟を介して欒大を推薦した。
これより先武帝は方術に凝って李少君なる博学の者を、彼が病死すると少翁なる者を重用し
ていたが、詐欺が発覚して処刑しており、後悔していたところであったので、同門の欒大が来
たことを喜んだ。
背が高く美丈夫で、話すことは謀計に富み、大言して疑わぬ人物であったという。
彼は師匠が「丹砂を黄金と化し、黄河の流れをせき止め、不死の薬を手に入れ、仙人を降ろ
す」法を知っていたと称し、方術で双六の駒を戦わせ、四個の金印を生み出して信用を得た。
武帝は金印を帯びさせ、五利・天士・地士・大通の四つの将軍号を与えている。
屋敷は広大、家来は仙人、武帝の公主は黄金万斤を持参して降嫁し、車馬珍宝は満ち、貴紳
は争って欒大を宴に招いた。
常に自邸で祭を行い、神はなかなか降りて来なかったが、百鬼はよく使役したという。
後に「師匠を探しに行く」と行って会いもせず、会ったと出鱈目を言ったことが発覚して誅された。 >強弩
匈奴
>家来は仙人
家来は千人
失敬。水中から馬が出現するという信仰は『河童駒引考』参照。
西遊記で竜が三蔵の馬になったり、千一夜物語で海から馬が出て来たりしていますね。
『平家物語』の宇治川の先陣争いで有名な生喰は竜の、磨墨は海驢の子であったと言います。 そうか
諸星マンガで欒大がイケメンに描かれていたのは史実だったのか 巫蠱の獄事件の江充と絡ませていたけど時代的には合わないとか
江充さんも漫画だと獄吏上がりだったけど実際のところどうなんだろうねー >誰か欒大について書いてくれー
こんな無茶ぶりに答えてくれるのは
やはり山野さんですな 漫画では武帝の死んだ寵妃を呼び出して信頼を得たという演出にしていた
豊臣秀吉も 果心居士に幻術で過去の女性を呼び出されて警戒したって司馬遼太郎の小説にあったなー
じゃあ東洋西洋問わず幻術使いお願いします なぜかまだWikipediaに記載がなかったので。
李淳風(602〜670)
唐代の人。出生地は岐州。本貫地は太原。父は隋に仕えていたが地位は低く収入も見合わなかったため、
官を捨てて道士となり、自ら黄冠子と号して『老子』に注を加えるなど文才があったという。
淳風も幼い頃から学才に富み、諸書を博捜して倦むことがなく、特に天文・暦算・陰陽の学に精通していた。
貞観の初めに当時の天体観測が北魏の遺風で古くなっていることを奏上し、太宗の命を受けて貞観七年に
銅製で三層構造になった天体観測機「渾天儀」を完成させる。
『晋書』と五代史の天文・律暦・五行志は、淳風が執筆したものである。
また、彗星の尾が、太陽とは反対方向に伸びることを発見した人物でもある。
さて、古代より天文観測と切り離せなかったのが占星術である。当時の中国も例外ではなかった。
太宗の世に「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、太宗も気にしていた。
後世に中国七大予言書の一つ『蔵頭詩』の作者とされた淳風とのやり取りは、以下の通り。
淳風「すでにその兆しは御座います。その人は陛下の宮中におり、今から三十年以内には天下をとり、唐朝
の子孫を殺害してしまいましょう。」
太宗「疑わしい者を、ことごとく殺してしまえばどうであろうか。」
淳風「天命は避けがたい者で、王者は死なず、ただ無辜の者を殺めるばかりになりましょう。また更に三十年
が経てばその者は老い、老いては慈悲を知る様になります。たとえ易姓に至るとも陛下の子孫を甚だしく損な
うことは御座いますまいが、もし殺そうとなされば、怨んで厳しくなり、陛下の子孫を残しますまい。」
かくして、太宗は天下をとるという女主を殺そうとする計画を止めた。
武則天が周の皇帝として即位するのは、淳風の死から二十一年後のことである。 >太宗の世に「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、太宗も気にしていた。
あ、それ、ほんとの話だったんだ。
中国の大ヒット時代劇「武則天」(武媚娘伝奇)の全96話は、いつも、その予言の話で長孫無忌たちが大騒ぎして、モメにモメ続けるというストーリーだったよ。
李淳風の名は、あれを見れば嫌でも記憶に残る(笑)。 藤原元子 (ふじわらのげんし、もとこ)
平安時代中期の貴族、藤原顕光の長女
当時は摂関政治、外戚政治の天下。
父・顕光も自身の出世を狙い、娘である元子を時の一条帝の女御として入内させた。
一条帝の中宮と言えば定子だが、彼女は兄の伊周が嫉妬に狂って花山法皇を射た事件により没落している
藤原道長の娘である彰子はまだ幼い。
だから元子がいちばんの有望株だ。
父親の期待に応えて妊娠の兆候が表れ、やがて腹も膨れだす。
だが、産み月になっても産気付かない…
そこでお寺で加持祈祷した所がめでたく産気付いたが…
腹から出て来たのはなぜか大量の水…
流産ですらない。
これは日本の記録上、最初の想像妊娠らしい。
以降、元子は懐妊することなく、やがて道長の娘らは続々と皇子を生む
こうして顕光は完全に出世コースを外れましたとさ
彼は道長にバカにされながらも職務をこなし、ミスをしてはまた馬鹿にされ、それでも78歳まで生きた。
一方の元子は宮中を出て浮気したり、顕光に勘当されたりそれでも子供を授かったりといろいろあったらしいが、
最期は不明。 段正淳、段正厳
後大理の初代皇帝と2代皇帝。
歴史上の人物としてはマイナーだが中国では武侠小説の主人公として超有名。
この小説の大理国皇帝はレーザービームを発射できる。 クラーラ・ペタッチ Clara Petacci (1912-1945)
イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニの愛人。
ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンの知名度とは比較にならず
ムッソリーニと共に処刑され逆さづりの目にあったことだけで
歴史に名を残しているかわいそうな女性。 リエンツィ
中世ローマの護民官
横暴を極めるローマ貴族と対決、勝利し一時は市民のための政治を勝ち取る。
しかし、その後誇大妄想じみた言動を繰り返し、
次第に支持を失い、
最期は恐怖政治に走り、暴徒化したローマ市民に惨殺された。 ヤン・ファン・デル・ヘイデン(1637〜1712)
よく似た名前のサッカー選手(1988〜)とは別人。
緻密な建物の描写と、高い空を組み合わせた風景画を専門としていた。
オランダのダ・ヴィンチとも呼ばれるが、これは画家にして発明家でもあったことに由来する。
当時のアムステルダムでは火災が頻発しており(現存する17世紀の建築は二棟のみ)、ヘイデン
により発明された「消防ホースつき消防車」はおおいに珍重され、彼は消防隊長に任命された。
ガラスのランタンに入れられたオイルランプの街灯も彼の発明であり、1668年にアムステルダムの
街を照らすと、19世紀半ばまで使用された(イギリスで1792年にガス灯が発明され、1797年にイギ
リスのマンチェスターで街灯として使用され、次第に欧州各地に広まっていった)。 先月ようやくWikipediaに記事が出来たので、
ソルカン・シラの名を挙げておこうかな
モンゴルの零細な部族に生まれた平凡な男だが、この人物がある日
親切心で行った行為が、13世紀以降のユーラシア大陸の歴史を
根本から書き替えることになってしまった。
まあ、余計なことをしやがってという意見も当然あるだろうが・・・ なるほど、追われるテムジンをかくまってやったのか。
後の西夏に金、宋に高麗
あるいは西のオアシス国家にロシアから見ればまさに
「余計な事しやがって!」だな。
そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、誤解から雇人を殺した。そして事の露見を恐れて呂伯奢も殺してしまった。
その時に曹操と同行していた陳宮は彼のサイコパスぶりに呆れて、寝入った曹操を殺そうとするが、なぜか思いとどまる。
後で思えば「ここで殺しておけば…」だな >そういえば青年時代の曹操が呂伯奢なる人物の家に泊まった時、誤解から雇人を殺した。
>そして事の露見を恐れて呂伯奢も殺してしまった。
裴松之は『魏書』・『世語』・『雑記』を引用しており、後二者はあまり信用出来ないとしています。
『魏書』は息子と食客が曹操の馬と持ち物を奪おうとしたので数人を殺害して去ったとしており、
『世語』では五人の息子たちは礼儀が備わっていたが曹操は自分を殺すつもりかと疑って八人
を殺害して去ったといい、『雑記』では食器を用意する音で自分を殺すつもりかと疑って殺害し
「自分が他人を裏切ろうとも、他人に自分を裏切らせまい」と言ったとなっています。
『魏書』と『世語』によると、呂伯奢は不在であり、殺されておりません。
食客もいてそれなりの家でしょうに、馬と持ち物を奪おうとするのも妙な話です。
何かトラブルがあったのは事実でしょうが、いずれにせよ殺害人数は数人ないしは八人とされ、
皆殺しには至っておりません。曹操の供は『魏書』では数騎であったとされています。
呂家内で曹操の処遇をめぐって意見が分かれ、通報を試みた側が殺害されたということかもし
れませんね。殺害後も通報されていないなら、生き残った呂家の人間も了承済みでしょう。
『魏史』の同じ箇所に、曹操が一旦拘留されたが役人の判断で釈放されたという記述もあります。
呂家に限らず、当時の情勢について意見は色々あったと思われます。
ただ、『三国志演義』にあるような「豚を殺そうとしていたのを誤解して」は嘘でしょう。
「旅客が宿の人間の発言を聞いて自分を害するのだと誤解する話」は世界的に分布しているも
ので、ナバラ王妃マルグリット・ド・ナヴァルが編纂した『エプタメロン』にもあります。
同時代に最古の刊本が出た『三国志演義』も、民話から取り入れたものでしょう。
両者では豚ですが、日本の民話では「はんごろし(おはぎ)と手打ち(蕎麦ないしは饂飩)」のどち
らにしようかと相談するのを旅客が聞いて逃げ出すということになっています。 張治中
超マイナーというほどではないが、日中戦争を引き起こした人物にしては
あまり名前が知られていない。放火犯としても史上屈指の人物である。 シャルル・エミール・レイノー(1844〜1918年)
1892年に世界で初めてアニメーション作品を創った人物。
すべてのアニメの原点である記念すべき作品『哀れなピエロ』は
YouTubeで目にすることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=426mqlB-kAY >>2
レオポルドも最初の動機は悪人じゃなかったんだがな…… >>126
ぱらぱらマンガの特許取得が開発から
結構遅くてびっくりしましたww
意外と技術的要素がありそうっすねぇ >>126
ルネラルーなど、のちのフランスアニメと、動きや音楽の使い方に共通性がある
アメリカのクネクネした動き、日本のメリハリのある動き
同国人は無意識に継承してるんだろうか 陳持弓
漢の成帝の時代の人物。9歳の少女であった時、大水が来ると聞いて官署の脇の小門を勝手にくぐりぬけ、
未央宮の鉤盾まで入り込んでしまい、そこで初めて発見された。
これは外戚を利用した王莽の簒奪の予兆であると解釈されたこともあり、史書に記録された。 板垣退助(1837〜1919年)
征韓論争、自由民権運動で教科書に必ず載る上にお札にもなったなので
超マイナーとは言い難いが彼が戊辰の役で会津若松を攻略した官軍の参謀(司令官)だった
ことはあまり知られていない マクシミリアン・ロベスピエール(1758年〜1794年) >>134
各地を転戦した維新最強の軍人さんだと思うのですが、、、 日本史の教科書は板垣退助のことを板垣死すとも自由は死せずの人としか書いてないと思う >>136
それが一般には知られていない
>>137
同意 >>137
板垣が口にした台詞には諸説あり、別人の言葉だという説もありますね。 板垣退助が明治時代に庶民の絶大な人気を得ていたこともあまり知られていない ジャック・クール(1395〜1456)
百年戦争時代のフランスに現れた国の財政を預かる大金持ち
Wikipedia先生によると
「ヨーロッパにおいて資本主義が確立する4世紀以上も前の、
最初の資本家としてその名が知られる」
そんな超お大尽なら名前は覚えておいた方がいいですな。 >>143
おいらもジャック・クールさん大好物っすねぇ 司馬遼の小説読んだことある人は板垣退助を維新最強の名将だと認識してくれてるはず
薩長に軍組織を占領されてなければこの人がトップになってただろうな ペドロ・デ・オルテガ
スペイン人探検家アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの部下。
次々と島を「発見」した上司が、気前よく命名権をくれた部下の中に混じっており、彼は自分が
命名してもよいと言われた島に故郷セビリアの地名をつけた。
「ガダルカナル」と。
なお、この島で砂金が採れたことで、ソロモン王にちなんで諸島はソロモン諸島と命名された。
面積は東京都の倍以上あり、案外大きな島である。
国家としてのソロモン諸島もイスラエル、マケドニア、ハイチ、ハワイ(僅差)よりも広い。 新世界の発見者ブジャルネ
グリーンランドに渡った父とエリクを追ってグリーランドを目指すも
濃霧に阻まれ北風に流され漂流することになる。
幾日も漂流したあと陸地に漂着するが、
そこは噂に聞くグリーンランド特有の氷雪の高山はなく森に囲まれていたとのこと。
ミナミに下り過ぎたと思ったので二日北上したがそこもグリーンランドではなく
さらに三日北上したがやっぱり目的地と違ってたらしい。
その後に西風に送られてグリーンランドに辿り着く。
グリーンランドに辿り着いたブジャルネの話を聞いた赤いエリクの息子
ライフ・エリクソンは興味を惹かれ、ブジャルネの船を買い求め
聞いた話に従い陸地に辿りつき、そこをヴィンランドと名づけた、、、 >>94
めっちゃ今さらですが
訂正ありがとうございました
こういうの調べるの難しいので
ネットのいいところですねぇ ジャック・クールはバルザック『幻滅』でも言及されてたな。
ジャンヌ・ダルクと並んで、国を救ったが国に裏切られて身を滅ぼした
かわいそうな被害者の例として挙げられていた。
実際はかなり脂ぎった野心家のような気もするんだが・・・ 竹内理三 東大名誉教授
竹内理三の二男 東大名誉教授
竹内理三の三男 東大名誉教授
二代三人東大名誉教授 山野さんのガダルカナルで思い出したが・・・
18世紀末のフランス海軍軍人ジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデック。
南太平洋の各地を巡る航海の途上で没したこの人物は、『日本沈没』に登場した
深海潜水艇や、某アニメでネモ船長が派手なドンパチを繰り広げた海溝にその
名前を残している。
かの海軍大佐が指揮を取っていたフリゲートの艦名がEspérance号だったのだが、
後世、ガダルカナル島から日本軍の生残兵が撤収した場所、エスペランス岬は
希望を意味するこのフランスの艦名から名付けられたらしい。 >>148
勿論最後は書籍で確認しないといけませんが、便利になりましたね。
>>150
竹内先生は『寧楽遺文』・『平安遺文』・『鎌倉遺文』で日本史を専攻した人間は(近世・近代史専攻でも学生時代の講義で)
嫌でも耳にする偉人ですね。
長男だけ有名でないのは、柳田國男の兄弟のようなものか。
その長男も立派な人であったという話ですが、有名でないのを気にすることもあった様です。
早世した兄弟以外は、長男が医師・町長、その下が万葉集研究(解釈が自由闊達過ぎたとも言われる)で著名な国文学者、
その下が柳田國男、その下が海軍大佐で民族学者で言語学者、その下が「最後の土佐派絵師」。
長男が「ただの医師で町長」扱いされる弟たちが凄すぎた。
実際は末弟の映丘以後も土佐派で描いた人はいますが、「 」内は映丘の自認したところです。
>>151
「希望」からの撤収ですか。因縁めいていますね。 ヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌス
16世紀のオランダのトンデモ論者。アムステルダムの医師。
1580年、古代エジプトの祭司が使用していた宗教言語はオランダ語だという珍説を提唱した。
ただし、この前後の時代の古代エジプトに関する議論は現代から見ればどこも奇矯なものが多い
ので、近代の邪馬台国エジプト説ほどネタにすべきものではないかもしれない。
かのニュートンは、ギザの三大ピラミッドを紀元前9世紀の物としている。
東アジアでも、現代でこそ紀元前7〜5世紀頃とされている釈迦の誕生年は、かつては紀元前11世
紀とされていた(周の昭王の20年、24年、26年など)。
※モーリス・ポープ『古代文字の世界』ではベカヌスの発表を1580年のこととするが、ウンベルト・エ
ーコ『もうすぐ絶滅するという神の書物について』では、没年を1572年とする。
どちらが間違えたものか、あるいは死後の1580年になって発表されたものかは不明。
※昭王の在位した時代・期間については諸説あり、『竹書紀年』は在位期間を19年とする。 チャールズ・ピアッツィ・スミス
この人の息子でスコットランドの王立天文台長をつとめた
ピラミッド・インチの発見者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9
父ちゃんの経歴をウィキペディアさんから抜粋
その第2巻はベッドフォード・カタログとして知られ、スミスの観測した1600あまりの二重星、星雲が収録された。1845年に王立天文学会ゴールドメダルを受賞した。
また、1854年には、地中海における海域測量の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた[1]。
月の海スミス海は、スミスの功績を称えて命名された。
息子のチャールズ・ピアッツィ・スミスも天文学者となった。
チャールズは子午線弧の測量に参加し
カナリア諸島のテネリフェ島で天体観測を行った。
そしてその後、ピラミッド研究家としてその筋で有名に、、、
「神は自身のの根源的な単位がユダヤの建築家によってエジプトのピラミッドに組み込まれよう配慮され、
それはイギリス人がこの単位を大英帝国単位系に含まれるようにする目的であった」
という主張は多くの人の心を捉えて放さない、、、
どうしてこうなったww チャーンド・ビービー
インド中西部に存在したイスラーム国家アフマドナガル王国の摂政を務めた女性。
1591年、ムガル帝国皇帝アクバルは各国に遣使したが、アフマドナガル王国は15頭の象と僅かな織物・宝石を
返礼としたに過ぎず、服従の意無しと判断したアクバルは7万の兵と別働隊を派遣する。
これに対し、チャーンド・ビービーは抗戦し、ビジャープル王国とゴルコンダ王国はアフマドナガル王国に援軍を
派遣、カーンデーシュ王国も蔭ながら支援したことで、1596年、アクバルは攻略を諦め、和議を結ぶ。
アクバルは幼王バハードゥールの地位を認め、バハードゥールはアクバルの宗主権を認め、宝石や象を貢納し、
ベラール州を割譲することで収まった。
しかし、その後の宮廷闘争でチャーンド・ビービーの権勢は低下。1597年、再び戦争へと突入する。
野戦ではムガル帝国が勝利した物の、追撃能力を喪失した辛勝であった。
当初は西北からの敵性勢力の侵攻を恐れていたアクバルは動かずにいたが、西北が安全と見るや親征を開始。
1600年、アフマドナガルの要塞は陥落し、チャーンド・ビービーは戦死。バハードゥールは捕えられたのであった。 >>150
竹内理三って名前なのに東大理三でなく東大文三を受けたんだねw 鄭相如
唐の玄宗に仕え、詩書画に通じた三絶と賞賛された鄭虔に師事していた人物。
鄭虔は最初軽く見ていたが、鄭相如は自分に予知能力があると称し、開元が三十年で改元すること、
それから十五年後に戦乱が起き、賊が皇帝を称し、鄭虔が賊から官職を授かって汚名を蒙るので身
を慎むべきであることを言い、自身は官に就いてから三年後に亡くなること、その場所も述べた。
三年後、予知の通りに鄭相如は死に、後に鄭虔は大燕皇帝を称した安禄山に仕えることとなったが、
鄭相如の言葉を胸に身を慎み、同じく画に優れていた張通・王維と共に権力者であった崔円の屋敷
のために壁画を描いたこともあって、乱の平定後も死を免れることが出来たという。
『太平公記』にも同じような話があるが、史実として承服し難い点が多い。 楽安公主
北斉の暴君文宣帝高洋の姪にあたる。旦那とうまくやってるかと叔父に聞かれた公主は「旦那はいい人ですが、姑は嫌いです」と答えてしまう。
怒り狂った文宣帝は姑を連行すると酔った勢いで自ら斬り殺した。更に、遺体を川にぶちこんで弔いすら禁止する。さすがアル中である。
公主はさすがに動揺した。旦那は何事もなかったかのように公主を大切にした。このままいくのかと思われたのだが…。
北斉はあっけなく滅んだ。公主は突然捕らえられ庭先に連行された。憎悪に煮えたぎった旦那と一族が睨みつけてくる。
公主は必死に命乞いをしたが許されなかった。姑を讒言した悪嫁と糾弾され、旦那に斬り殺されてしまったのだった。
口は災いの元とはこの事であった。殺人癖のあるアル中皇帝に言ったらどうなるか分かってただろうに…。 柳夫人
唐の太宗に仕えていた兵部尚書任瓌の妻。
非常に嫉妬深い性格であり、夫が太宗から授かった二人の宮女に薬品をかけ、禿げさせてしまった。
これを知った太宗は夫人を召喚、金の酒壺に入れた酒を指して言った。
「これを飲めば死ぬ。お前の夫は朕の三品の臣であり、宮女たちは朕の使わした者である。今後妬か
ねばよし、妬くというのならただちにこの酒を飲むのだ。」
しかし、夫人は怯まなかった。
「私と夫は元服以来の夫婦であり、共に糟糠を口にして今日に至った仲で御座います。上意とは申せ
他に女を蓄えるのが当然とされるのであれば、死んだ方がましで御座います。」
しかし、酒に毒は入っておらず、酩酊していた夫人は夜になって目を覚ました。
夫人を反省させようとした太宗は逆に夫人に感銘を受け、宮女二人は別宅に住まわせたという。
朱元璋も嫉妬深い妻の話を聞き、こちらは文字通り料理してやったという逸話がありますね。 >>158
名前ののんきさに浮かれちゃってる感が出てて悪くないですね >>158
当時の価値観を思えば、妻も相手が暴君でなかったとしても姑への不満を公言すべきではありませんでしたが、
夫と一門もおよそ大丈夫と言える人物ではありませんね。
忠と孝のどちらを優先させるかは一大問題でしたが、忠を優先させて孝を抑えたというのならまだしも、これでは
忠もなくただ命惜しさに孝を放棄したというに過ぎません。
一度よしとした以上、数年経って状況が変化してからまた罪の問うのは信も疑われます。 張懐瓘(ちょう・かいかん)
父・弟と共に書の才能に優れ、意識も高く、玄宗・粛宗の時代に技芸に優れた人物を挙げる
翰林院に属した人物。
同時代の書が見た目ばかりの派手なものになっていると批判し、古法に帰ることを主張し、
自らを誇ったが、その書は宋代にはすでに真蹟が見られなくなっていた様である。
書のみならず画の蒐集でも知られ、弟と共に後世に鑑蔵印が伝わった。
書そのものは現存しないものの、論書の著作は複数現存している。 カール・ハインツ・ブリュンゲル(1908-1999)
フランスで活躍したロケットの設計技術者。フランス初の
人工衛星を打ち上げたディアマンロケットも、衛星打ち上
げで世界一のシェアを得たアリアンロケットも、この人物
が設計したロケットがベースになっている。
彼の手になるロケットによってフランスは衛星打ち上げ
ビジネスという一大産業を得たわけで、その功績は本来
国をあげて顕彰すべきレベルだが、実際にはほとんど無視
というか、そんな人は居なかった扱いで、フランス語版
ウィキペディアには彼の記事すら存在しない。
旧敵国のドイツ出身で、V2ロケットの開発に参加したと
いう前歴ではあるのだが、それにしても・・・ >>163
おぉ、これは素晴らしいww
ロケットプランナーはけっこう長生きするイメージありますね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています