唐宋変革期3
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まとめ
唐と宋で、何が変わった(と考えられている)か
1.門閥貴族の時代が終わり、科挙に合格すれば誰でも士大夫階級になれる時代になった。
2.貨幣経済が発達し、商売に成功すれば誰でも金持ちになれる時代になった。
3.加持祈祷に熱狂する密教ブームが終わり、合理的な新儒教の啓蒙思想が台頭した。
4.群雄割拠の武断支配が終わり、科挙官僚が全国に赴任する文官統治システムができた。
5.五代十国の分裂期に各地が独自の発展を遂げた。
↑ とりあえず、「宋の驚くべき近代性」としてよく挙げられる要素は、おもに上の5つ 宋が凄いというよりそれまでの中国が凄かったのであって
統一したことにより発展のスピードも落ちたんだろうな
神様とピッコロが融合した後強さへの執着が失われたように。 燕京(現在の北京)は、
北宋が樹立されるより前から、 契丹の領地だった >>3
北宋時代の発明品は多いよ
南宋に成ると軍事優先で税負担も重く成ってアレだけど そうだな
三大発明も、>>2のリストに加えるべきだ >>4
フランスに例えれば、「パリを一度も領有できなかった」というようなもの。
真の統一にはホド遠い。
・・・といっても、当時の北京は辺境そのものだけどな。 >>3
そういう面もあるだろうけど、元も明も、それ自体は大発展を遂げているんだよ。
なぜか、日本と西欧がそれ以上に急成長して、追い越されてしまっただけで。 なんで田中芳樹は宋マンセーなんだろうか
ま、本当なら名君を輩出した清をマンセーしたいんだろうが、
満州族の、夷狄の王朝なんか絶対に認めたくないだろうからな >>8
元は内政が問題外だし
明は途中で色々行き当たりばったり始めて進歩牛歩に成ってるじゃん?
縦割りが酷い上に権限纏めずあちこちに分散させた弊害
これを何故か戦国大名や徳川幕府が真似ちゃって この時代為替があったとかだからな。
もはや中世って言うよりは亜近代 統一した後でそのまま継続のSD式か、
統一した後でまた分裂するFF式、どちらがいいのか 千年前の宋の時代には、農民が作物を市場で換金して、金銭で納税するのが当たり前だった。
元の時代には、金銀の裏付けのない紙幣が流通した。
今も、中国ではスマホ決済が主流になり、現金が使われなくなっているというから、
そういう伝統が形を変えて再登場したのかもしれない。 正直、金に華北占拠されてた時期も金払って荒れ地の面倒見てもらってた感がハンパない。歳弊と言う名のODA払っても金は物資は南宋から買わないと行けないから結局金戻ってくるし。 >>13
中国は昔から新技術が出て来ると
既得権とか旧来の産業に従事する人民とか気にせず
困っても知らんぷりで新しい方へ進むからな、古いの捨てて >>13
電子決済は中国が進んでいるわけではなく単に日本が遅れているだけ。
なにも一般消費者の決済手段まで自由競争に任せて乱立させなくても良かったのに。
むしろ東アジア的な伝統が見て取れるのはビットコインの流行の方で、
これは何の裏付けも無いのになぜか信用されていた銅銭によく似ている。 未だに現金決済にこだわってるの先進国では日本とドイツぐらいやしね ヨーロッパで飛躍的に技術が進歩した第一の理由はやっぱり戦争が多かったから? 戦争でも一定のルールが守られていたから
中国では敗者の国は徹底的に蹂躙され支配層は一族皆殺しにされたが
ヨーロッパで国ごと滅ぶような戦争などほとんどなく、捕虜になっても身代金さえ払えば解放されたからな >>20
おそらく中世から産児制限が普及していてマルサスの罠から逃れられたから。
これが中国だと社会が安定して飢饉が減ると一人あたりでは逆に貧しくなりかねなかった。 >>19
ドイチュも日本と同じく世襲封建制が牢固に残存してんだよな
隠蔽、改竄が得意で頻繁に嘘を吐く処も似てる >>18
銅銭⇔銅の価値の差異と銀貨⇔銀の価値の差異わ大体同じ
>>20
新大陸から大量の貴金属と物産が流入したから
>>21
それわ単に政治行政技術が未熟だっただけで繁栄と何の関係も無い
政治行政技術の発達した18世紀末に至って漸く総力戦が始まる
>>22
漢→唐→宋と豊かに成って元と清で貧しく成った、前者わ荒廃で後者わ人口増で。
清代に入ると何故か農業従事者の割合が増えて都市人口が大きく減ってるのが謎 >>25
>漢→唐→宋と豊かに成って
そのおかげで、宋からの莫大な上納金で、宗主国の遼はベラボーに儲かっていたな 宋と朝鮮から選りすぐりの美女が送られてくるおかげで、遼・金では女に不自由しなかった またネトウヨキッズが聞きかじった知識で適当なこと吹聴してるな
貢納の内容に女なんてないんだが >>26
そしてふと気づくと「アレ?俺たち漢人みたくなってね?周りの奴らみんな礼がどうのとか孝子がどうのとか」となるのが定番パターン。
まあ、日本でもそうだけど富貴になれてかつての剛強さを失うのはしゃあないからね。 モンゴルの高麗貢女と間違ってるのだろ
これもモンゴルに支持されてではなく高麗が勝手にやってたこと
明代にも同じことやったが永楽帝に不義を責められてからやめてる それ加藤徹とかいう小説家が言ってるだけの俗説だけどな
根拠は後唐の皇室の出自が突厥だから、その家臣だった趙匡胤も突厥だという理屈
単一民族国家の日本人らしい発想だが大陸では支配層と被支配層は別民族なのが当たり前だし
桓武天皇の出自が百済系だから日本人は百済人なみの屁理屈 周が西戎だとい俗説は
武王のおじいさんの古公亶父がかつて戎と同じ生活をしていたというところから来てるんだろうな
明治天皇は洋服来て洋食を食べてたので天皇の起源は欧米というノリの発想 毎回思うんだけど女取られた男連中にとっては屈辱だろうけど
女側からするとどっちにしろ選ぶ権利はないのだからさして変わらんだろ
日本でも負けた武将の妻妾や娘は勝った側のものにされてるんだから
当時としては常識 >>35
晋書にも「禹は西戎、周は東夷」って記述あるで。 >>27
そうだな。
「宋と朝鮮」というのは時代的におかしい(笑)
まあ、ここでは朝鮮を地名として使ってるんだが、王朝としては高麗が正しい ただし、高麗は、後に遼を撃退している。
モンゴルや清とは違って、遼は安定した半島支配を継続できなかった。 >>34
そんな、ムキになるような問題か?
三千年も前の話だぞ。
日本だって、千年前の東北や南九州は異民族だった。 >>37
日本の武将の妻は女真族相手に売春させられてないしw >>38
それ慕容攴の載記にある「大禹出於西羌,文王生於東夷,但問志略何如耳」
ってやつだろ
聖王にも蛮人がいるのだから我々からも皇帝がでておかしくないという理屈だが
鮮卑側が勝手に言ってるだけだし、そもそも禹の時代に羌はいない >>41
日本統治時代のチョン半島はすごく安定していたよね >>34
たしかに、趙匡胤が胡族という確証はない
突厥王朝の継承者で、周囲の人間も胡族ばっかりなのに、趙匡胤だけ漢人とするのは不自然っていうだけ >>46
日本が撤退した後で、なぜか過去に遡って独立運動を始めたけどな >>34
突厥じゃないアルヨ!でも突厥のパシリだったアルヨ!
ってヤツが皇帝に即位すると契丹女真の奴隷国となってしまった >>37
女を取られただけじゃなくて、
宋の皇帝も北方へ連行されてしまったのが「靖康の変」 もともと趙匡胤の父は成徳軍節度使の王鎔の配下だったのが
李存勗にヘッドハンティングされて来た新参者で後唐とは縁もゆかりもないのだし突厥人である可能性は限りなく低いのでは >>51
糞みたいなバカ殿を華北を明け渡す代わりに引き取ってもらったと考えれば安い安い >>4
もともと、遊牧圏と農耕圏の境にある交易都市。
遊牧民族の視点でいうと、冬営地であり、羊毛・皮革・畜肉・塩のような乾燥地帯の産品や遠方から交易で得た品物やらを、
漢土の農産物や遠方に持ち出すための換金商品等に換えるための場所。
遊牧民族が漢土の農耕圏にまで支配を伸長した場合にも、冬営地であり交易地である燕京・北京の位置取りは都合かよいし
漢土の側が強いと言っても依然遊牧圏が脅威でありつづけた明のような時代にも防衛や徴税の都合で必然的に拠点とされる
場所にある。 >>17
お?金軍結構かっこいいな
画だとメジェドにしか見えないが 内部での武人台頭を防ぐのが先決だったため外部には屈辱外交に徹した >>43
ポルトガルに売り払われて奴隷になってたりするけど >>58
日本の天皇と皇后はポルトガルに連行されてないけど >>43
滅亡した家の妻妾娘が侵略者側の足軽や雑兵の婢に成るケースはちょいちょい有ったよ >>4
北京を攻めたら、宋のほうが侵略者になっちゃうのでは >>58
宋が滅ぼされ支那全土がモンゴルの奴隷になってしまった >>54
単純に北京より西側だと北から南下して来るルートが砂漠だったり山地だったりで通り辛い
前1000年頃から乾燥化が進行続いてるから後の時代程尚更 >>60
滅亡した家の妻妾娘が女真族の性奴隷になるケースはないよ日本だと 北側(遊牧民側)からみれば、張家口経由で山を降りて平地が開けるその地点が北京だから、
シナを支配するには絶妙の位置なんだけど、
南の漢民族からみれば、話は違うよなあ。
冷戦期に、「ソ連に対する防衛のため、札幌に遷都します」という提案をしようものなら、
「お薬増やしておきますねー」としか言われなかっただろう。
それに、モンゴル高原側からの交通路が張家口・北京に一点集結するわけではないので、
(最盛期の)明の側からみても、遊牧民を束ねる上であんまり便利なところじゃない。
明の側からみれば、永楽帝以来の惰性に過ぎないんじゃないのかね。
あるいは永楽帝の後ろ暗さのため、その継承者たる後の皇帝もどうしても首都を南京に戻せなかった。 >>67
豪雪地帯の札幌に遷都するのはちと無理がある。
北京はほとんど雪が降らないけど まあ、北京がそれだけ大都会だったってことだな。
今だって、なんだかんだ言っても、上海とならぶ2大都市のひとつなのは確か。 >>59
九州の大名は合戦のときに勾引しまくって捕虜や敵方領民やら城に詰めてた女子供やらポルトガル人に売りまくってたけどな。 >>67
遊牧勢力が支那を支配するのに絶妙な位置の都市ならば、支那の勢力の視点ではぜってー遊牧民に取られちゃあならん場所だろ。
敵の拠点を奪取したらそこに玉座を移してこっちの拠点にしてしまう、というのは、古今東西よくある手法だ。
日本だってやってる。神武天皇が長臑彦の拠点の河内を奪取したらそこに難波京を築いてるし、明治維新で幕府の中枢のある江戸を
獲ったら東京を首都にしただろ。 >>70
日本の天皇と皇后はポルトガルに連行されてないけど 関東大震災直後、地震の多い関東は首都として不向きだとして遷都論がささやかれた。
遷都候補地の中には、朝鮮の京城(けいじょう、では一発変換できない)もあった。
実際に京城に遷都して、そのまま歴史が変わらず日本が敗戦してたら、
どれだけ面倒な話になったことか… >>72
大名の陣取り合戦で御所は滋賀にもかけられてないし、そもそも戦国時代は皇后居なかった時期の方が多いし >>74
日本の皇后は、戦国時代以外でも女真族の性奴隷になってないけど 戦国時代前期の、後土御門天皇から後奈良天皇までは、歴史上、皇室が最も衰退していた時期。
生活にも困窮し、御所が荒廃しても復旧できないほどだった。
室町幕府を滅ぼした織田信長や、出自が卑しい豊臣秀吉が、天皇を御輿として担ぎ出してから、天皇の復権が始まる。 >>74
「御所は滋賀にもかけられてない」とはどういう意味なんだい? >>71
大阪は、琵琶湖と淀川、瀬戸内海の出入り口となる水運の要衝。
神武天皇の時代でも、重要な商業都市だった。
首都は、政治と軍事だけで決まるものではない。
やはり、経済・貿易・交通の中心であることが大事。 モンゴル帝国の時代の大都は、世界の金融と商業の中心で、現代でいえばニューヨークのような都市だった。
唐の時代の、砂漠をラクダを引いてトボトボ歩くシルクロードと比べたら、
モンゴル高原を騎馬で疾駆するルートは、高速道路みたいなもの。
東西の陸路は、長安や敦煌に代わって、北京が主役になった。
水運においても、運河ネットワークの南の終点は杭州、北の終点は北京。
北京には、運河を通って天津港に出る海洋ルートも開けていた。 >>77
戦国期の天皇家や内裏わ
軍事的にも政治的にもあまり意味の有る存在じゃ無かった >>79
モンゴル時代も重駄は駱駝なんだけれどね。 ラクダも走れば早いし、交易に使う駄馬も基本歩きだからね
>>79
貿易と商業の中心は広州、杭州、明州なんかの南方の港湾諸都市
明州は高麗の藩属と日本の敵対でアレだけど 清代にも、ラクダの隊商が北京に向かう絵が残されているな >>84
クビライ皇帝の時代になるまで、ペルシャ・インドを回っていくチーナと、ルーシからタタールの草原・砂漠を突っ切っていくカタイとが
ヨーロッパでは別の国・地域と認識されていた。 キタイは、契丹に由来する
西洋人にとって、シナの北部といえば契丹のイメージ >>71
神武天皇も薩長政府もそうだけど、征服した後「敵地そのものの真ん中」に居座ったわけで、話が違う。
橿原も江戸も、敵側(ナガスネヒコ側、徳川幕府側)の奥深くに存在する地域だった。
北京は元帝国の首都ではあったが、別に光武帝がモンゴルを追い払って北京に居座ったわけではない。
光武帝は南京にいた。北京に遷都したのは北京を守ることを命じられていた永楽帝だから、話が違う。
それに、北京は地理的には華北平原の一部で、あくまでシナ内部。
もし神武天皇や薩長政府にならうなら、少なくとも「明本体が上都より北に遷都」しないと対応しない。 まあ、人民を威圧するための心理的効果ってのもあるからな。
現代の中国政府も、紫禁城の権威で全国を威圧している。
明治政府は江戸城、ソビエト連邦もクレムリン宮殿を本拠地とした。 >>81
煬帝「お前、ワイを暴君に仕立て上げてしかもワイの事業に乗っかってるだけやろ?」 >>87
そのイメージがつかめず、漠然と方角と行き方だけ判っていた。
どっちも同じと判るのが、プレスタージョンを探して別個に派遣されていた宣教師が、クビライ皇帝の宮殿で出くわしたから。 >>90
太宗・李世民「いや、俺は兄弟を殺したけど、お前と違って、父は殺してない。父には、攘夷を強要しただけだ。お前とは違う。」 >>88
モンゴルに奪還されないように、戦上手の息子に統治させてた。寝返っては困るから一番信用していた子に守らせていた。 >>86
ペルシャ通るのわ北路
南路わエジプトから紅海へ出てインド西岸 >>90
普通に屑だぞ煬帝
奇を衒った日本人屑学者が荒唐無稽な暴論書いてるけど支離滅裂 >>95
まあ、大昔のことだから、ほとんど伝説だけどな。
煬帝の場合、父帝の愛妾だった宣華夫人を側室にしたことが、後世の儒家の逆鱗に触れたため、ボロクソな筆誅を食らってしまった。
しかし、これは漢人の儒教倫理からすれば異常に反倫理的な行為なのだが、鮮卑人にとっては、別におかしくない。
遊牧民にとっては、むしろ、未亡人に対する救済策であり、ごく普通。 宋の司馬光によると、「父を弑し、その妾を姦す。まさにこれ畜生」ということなんだが、
何百年も前の話なのに、「お前は、楊堅を殺すところを見たのかよ?」っていう感じ 隋書も親父殺したとは書いてないしな。
煬帝がアカンかったの突厥に囲まれてからビビって江南に逃げた事で家臣から愛想つかされたことやし。 >>97-99
そんな些末な話じゃ無く
季節を考慮しない大事業連発や
不合理な戦略に基づく外征の繰り返し
暴政以外の何物でも無く擁護の余地が無い、僻論は止めよう >>100
でも、史上最高の名君とされる太宗・李世民だって、高句麗遠征に失敗してるんだよねえ。
しかも、大運河事業を隋から引き継いで完成させたのも李世民だし。
実際、煬帝と李世民ほど、やったことが似てる人物も珍しい。
それでいて、史書の評価は、「史上最悪の暴君」と「史上最高の名君」に分かれている。
結局のところ、いくら中国でも、こんな大昔の人物ともなると、ほとんど伝説上の存在。
日本の古事記・日本書記ほど神話っぽくはないが、それでも、かなり割り引いて考える必要がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています