唐宋変革期
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中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。
その変化の一つは,支配階級の交代である。… 王安石や安倍晋三のような大宰相が出てくると、それに合わせて抵抗勢力も強くなる 唐王朝から五代十国時代を経て統一国家を実現した宋王朝は、五代やその前の唐王朝以前とも異なる中央集権体制と文治主義を確立し、経済や社会、文化にも大きな変化をもたらした(「唐宋変革」)。 その後どうして中国はヨーロッパに追い越されたのか
北方民族に征服されたためかな 千年前の宋は、世界に先駆けて貴族社会から官僚国家に移行した
近代ヨーロッパを何百年も先取りしてたので、ヘーゲルもビックリ
異論有り。
中国は戦国時代には既に官僚国家。
その官僚の供給源が唐・五代に貴族・名望家から科挙出身者に変わっていき、
宋の時代に全面的に科挙出身者になったということ。 まずは、基礎知識をチェック!
唐代から宋代にかけての時期は,中国史上でも有数の変革期にあたり,「唐宋変革」と呼ばれることがある。次のような変化が見られる。
(1)政治体制:唐では貴族と皇帝による合議体制 → 唐末・五代に貴族が没落, [ 1. ]
→ 宋では科挙の最終試験として [ 2. ] が採用され, [ 3. ] にもとづく君主(皇帝)独裁体制。
(2)政治制度:唐では三省のうち [ 4. ] が貴族の牙城 → 宋では[ 4 ]が中書省に併合されて実権を失う。
(3)支配層:唐では [ 5. ] → 宋では新興地主層である [ 6. ] 。
(4)経済・都市:唐では坊市制による規制があり政治都市 → 宋では商業・産業が発達し,規制がゆるみ商業都市。
(5)文化:唐では [ 7. ] ,国際色豊か → 宋では士大夫・ [ 8. ] ,中国的。
(6)儒学:唐では経典の字句解釈の [ 9. ] → 宋では [ 10. ] 。
初歩的な質問。
宋の士大夫に「我家は漢魏以来の名門」って家は、本当にないの?探せばありそうなんだけど。
唐末五代の乱世を生き抜いて宋に仕えた名門貴族の生き残りって全くないの? >>11
それは、本当にいなかったんじゃないかな。
漢魏以来の名門は、梁末の侯景の乱、唐末の黄巣の乱と、二度の大虐殺で激減してるから、さすがに生き残れなかったと思われる。 宋の司馬光は、秦までさかのぼれる家系(ていうか、司馬懿の弟の子孫)とされてるが、門閥貴族とは言えないなあ。 岳飛とともに金に抵抗した大宰相として有名な張浚も、先祖は唐の宰相にまでさかのぼる家柄
でも、先祖は成り上がりなので、これまた門閥貴族とはいえない 日本でいえば源平藤橘に相当する、清河崔氏・范陽盧氏・趙郡李氏・滎陽鄭氏の四姓が、唐末に全滅してるからなあ。 清河崔氏
北魏の暴君に仕えて漢人の伝統を守り、最後は誅殺された宰相の崔浩が有名。
その後も子孫は栄えて、唐では12人の宰相を輩出し、唐で第一の家格とされた。
三国志に出てくる先祖には、崔琰(サイエン)ってのがいる。 范陽盧氏
斉の姜氏に起源があるとされ、「劉備の師匠」として有名な蘆植を輩出した家柄
北魏の孝文帝により、清河崔氏とともに「四姓」に列せられた 趙郡李氏
春秋の鄭国に起源があるとされ、北魏の孝文帝により「四姓」と位置付けられる
唐では十人の宰相を輩出した名門 >>18
まちがえた
「春秋の鄭国に起源がある」ってのは、滎陽の鄭氏だった 趙郡李氏
「戦国の名称・李牧の子孫」だそうな。これまた、唐で多くの宰相を輩出した家柄 南朝の四姓
琅邪王氏
陳郡謝氏
陈郡袁氏
蘭陵蕭氏 北朝の四姓
清河崔氏
范阳卢氏
荥阳郑氏
太原王氏 王氏と謝氏に代表される南朝の門閥貴族は、梁末の候景の乱で大打撃を受けた
唐では、北魏から北斉を経てきた山東貴族が主流となった
隋唐の皇室は、北周に由来する関隴集団に属する
唐は、関隴集団と山東貴族が二大勢力
要するに、北魏でもさんざんやってた、胡人の支配者と、統治機構を支える漢人の文官の対立だが
魏によって行われた「九品官人法(九品中正法)」と言われる制度は、当初は地域ごとに名望のある人物を品等に区分けして(郷品)、郷品の高下によって品等の高いポスト(官品)につけるという制度でした。
しかし、地方の人物を品定めする役人(中正官)は次第にその地方の有力豪族と手を結び、特定の家柄のみが高い郷品につけられるという事態が生じました。
これによって「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と言われるような状態となります。これによって貴族制が構築されていくのです。
したがって、科挙制が始まった当初も政治の上層部には彼ら貴族が掌握し、科挙によって官僚となったものは下位に甘んじなければなりませんでした。 この状態を変えるきっかけを作ったのは世に悪女とも女傑とも言われる則天武后です。
彼女は低い家柄のため、貴族達と対立します。
そのため彼女は貴族を排斥し、科挙官僚を重用するのです。
この時は則天武后の死後の混乱を収めた玄宗によって貴族の勢力も盛り返しますが、
科挙官僚の勢力も以前より高くなっています。 大体9世紀には貴族閥と科挙官僚閥との勢力が拮抗するようになります。
とくに823年から激化した「牛李の党争」と呼ばれる政争は、
牛僧孺・李宗閔を中心とする科挙官僚派と李徳裕率いる貴族派とが
激しく争った事件として歴史に刻まれます
(「牛李」とは当初は牛僧孺と李宗閔の姓を指したが、
後世になり李宗閔に変わって李徳裕の姓を指すようになる)。 しかし双方が朝廷内で争っている間に、皇帝の側近である宦官や、地方の防衛を担う節度使等が地方軍閥化した「藩鎮」らが中央政界の主導権を握ります。
とくに有力藩鎮の一人、朱全忠はライバルを抑えて権力を掌握すると、まず宦官を皆殺しにします。
そして彼は運命の905年2月、裴枢ら貴族30余人を黄河のほとりの白馬駅に連行して殺害、死体を黄河に捨てます。
この行為を教唆した朱全忠のブレーン 李振はことのき
「此の輩、常に自ら清流と謂う、宜しく之を黄河に投じて濁流と為さしむべし」
と言ったとされます。
まさにこの清流を誇った貴族が濁流に呑まれた瞬間、中国における貴族制は完全に終わりを告げました。 唐末は、「ここで中国の歴史は断絶して、新たな中国の歴史が始まる」とまで言われるだけあって、
ここで漢魏はもとより、春秋戦国にまでさかのぼる古い貴族の家柄がことごとく滅んだ。
宋からは、新たな名門の家柄が登場してくる。
ついでに、千年〜二千年の長きにわたって都だった、長安と洛陽の時代も終わった。
二都は内陸部の辺境となり、砂塵に埋もれていく。
唐が滅んで20年後に、後唐の李存勗が洛陽に遷都したときでさえ、
「いまどき内陸部とは時代錯誤だ」という批判を浴びたほどだった。 現代の中国は、北京・上海・広東省の沿海部が圧倒的な中心地で、内陸部は植民地みたいになっている。
これは現代の工業化のせいでそうなったわけではなく、明あたりで既にこの体制が完全に固まっていた。
唐までは、内陸部が中華の地だった。
>「いまどき内陸部とは時代錯誤だ」
孟知祥「うるせっ!」 三世一身の法と墾田永年私財法はセットで覚えましょう
大化の改新で朝廷は、農民に土地を貸し出すという政策をとっていました。この土地のことを口分田といいます。
しかし奈良時代になると、人口が増えてきたことによってこの口分田が足りなくなってきました。土地が足りないと食料不足にもなりかねません。
そこで朝廷は、三世一身の法という法律を作って、この問題を解決しようとしました。
723年にだされた三世一身の法(さんぜいっしんのほう)とは、朝廷から与えられた口分田とは別に、新しく自分で土地を切り開いた者には、
その土地を3世代(孫の世代)まで自分たちの土地にしていいよーという法律です。
743年に制定された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、三世一身の法をさらにパワーアップさせた法律でした。
三世一身の法では、自分で切り開いた土地は孫の代まで自分の土地にしてもいいという内容でしたが、
墾田永年私財法では、新しく土地を切り開いたらずっと自分の土地としてもいいよ!というものでした。
大化の改新のときに、「国民の持っている土地はすべては国の物!」とした考え方が、ここにきて大きく崩れていくことになります。 唐の時代を均田制に基礎をおいた社会で、国家は土地と人民を直接支配し、均田農民から租庸調・雑徭という税制によって搾取してきた。
この均田農民を奴隷とみなし、唐の時代を古代奴隷制社会であるというと見方があった。
府兵制や租庸調にみられる国家によるきびしい支配は、多くの農民を逃亡・没落させ、やがて逃亡した農民たちは佃戸となっていった。
そのため国家は税を取ることができなくなり、税制は、租庸調から両税法に変わっていった。
この税制は、土地と資産に応じて納めるもので、唐は、国家の大原則である公地公民制を自ら否定し、土地の私有化を国家が正式に認めることを意味したものである。
これ以後、地主―佃戸制が中国社会で大きく広がり、宋代以後、清代にいたるまでの基本的な生産関係となった。
そして、佃戸を支配し、勢力を強めた地主階級が、科挙制度を通じて官僚となり、地主=官僚が宋代以後の皇帝独裁体制をささえる支配階級となったのである。
地主―佃戸は中世ヨーロッパ社会における領主−農奴に相当するとみなされ、宋から清までを中国の封建社会ととらえる。
つまり、「唐宋変革期」とは、唐の均田制にもとづく古代奴隷制社会から、宋代の地主―佃戸制にもとづく中世封建社会への変革の時期であったという見方である。 日本史では、小学校から中学校にかけて、「奈良時代には、農民に口分田が支給されていましたが、
この体制はだんだん崩れて土地の私有が認められるようになり、貴族の荘園が広がりました」
というのを、繰り返し刷り込まれる。
いくら歴史の授業で寝ていた人でも、あれだけ強調されれば、なんとなくでも覚えているのが普通だろう。
>>32
わしゃあ、墾田永代私有の令と習ったんだがのう 同時代の中国も、同じようなプロセスをたどって公地公民制度が崩壊していった。
均田制のもとで農民には口分田が支給されていたが、しだいに均田制が機能しなくなり、
土地の私有が認められるようになって、貴族の荘園が広がった。
日本でいえば「三世一身の法」とか「墾田永年私財法」に相当するのが、中国では「両税法」。
両税法は、土地の私有という既成事実を追認した。
ついでに、貨幣経済という既成事実も追認され、銅銭での納税が行われるようになった。
>>4
アベシンゾウは士大夫官僚層でも実力のみで出世した新興知識人層でも無く
唐王朝の血統しか誇る物が無い門閥貴族な 権力者の世襲化は体制の安定をもたらすが、
ルーチンワークしかできない前例固守が幅を利かせ、
政治の形骸化をもたらす。
資本の国有化は初期は国力を増大させるが、
しだいに経済が低迷していく。 均田制の施行実態がよくわからないなぁ。
敦煌とかの文書ぐらいしか残ってないのかしらん?
敦煌じゃ辺境過ぎて、全国での一般と考えるには難しい。 五代十国を生き抜き、
五朝八姓十一君に仕えた
馮道は天才。 仕えた皇帝が次代に変わると嫌われて、投獄されたり左遷されたり。
そういう皇帝に限って亡国の憂き目に遭い、それが結果として
新王朝で重用されることに繋がる。
その繰り返しで後周まで生き残ったのだ。 府兵制も、実際には関中でしかやってなかったらしいな 胡族の支配者が中原を統治するためには、どうしても教養ある漢人の文官を必要とする
新皇帝にとっては、馮道しか頼る相手がいない
>馮道
この読み方、人名なんだから「ふうどう/feng-dao」のはずなんだけど
最近は偉い学者でさえ「ひょうどう/ping-dao」と読む人が増えている。
中国でもfeng-daoはすっかり廃れてping-daoだけらしい。 安倍晋三首相の弟、岸信夫は腹違いではなく実弟?安倍家の複雑な事情
https://sori-no-bansan.com/237 >>33
お前世界史の授業の時寝てたのか?
公地公民制なんてやってたのは日本だけだぞ 公地私民制
公地公民制って要は完全奴隷社会とかいう気違い制度だから
中国は春秋期で古代奴隷制社会が終了、それ以降は居ても農奴的な存在 ていうか、均田制も府兵制と同じで、やっぱ関中あたりでしかやってなかったのかもな?
敦煌やトルファンでの文書から、耕地の支給、回収が実施されていた。
→ 辺境でも実施されていたなら全国でも実施されていた説
→ 未開の辺境だから実施できたのであって、例外的事例に過ぎない説
お好きな方の説をお選びください。 いくら古代社会の農奴が相手でも、既得権益のしがらみのない土地でなければ、分配するのは難しい。
辺境は人口が少なくて土地が余ってるから、均田制を実施しやすかったはず。
均田制を始めた頃の北魏は、征服王朝で、まだ華北の人口が少なくて土地が余ってた時代だからできたのだろう。 >>52
全然違う
まず日本の公地公民制は共産主義と同じく土地は国家の一元管理を原則していて貴族でも私有地は持てず
荘園はあったが経営は国家によって委託され、耕作は班田農民に小作に出すことによって行われていて荘園領主はその収益を貰うだけ
直積経営も私有民を持つこともできなかった(初期荘園)
一方、唐の班田はあくまで土地の私有を前提としたもので、寛郷(土地余りの地方)では100畝以下、狭郷では50畝以下のものと中小規模自営農を対象に均田が支給された
土地の私有が禁止されていたのなら何で相変わらず貴族の荘園があったのか、土地の売り買いに関する法律が存在するのか説明できない >>58
古代社会に在った奴隷と中世に多く見られる農奴じゃ大分異なる >>59
公地私民制じゃ普天の下海内の内全部が国有地を意味しちゃうか。
言い度かった内容は全く同じで
世襲可能な土地と別に公から支給される土地を私民が耕すという意味で書いた 均田制の当初の意図は、
国家主導の荒地の開発、
土地の分配による生活保障
があったと思う。
決して民百姓を奴隷扱いする意図はなかったと信じる。 貨幣経済が未熟な頃なので、
徴収する税は労役が中心の人頭税で、
貨幣経済が発達してくると、
負担が重く感じられてくる欠点があるし、
お役所仕事で農業を振興するのは無理。
成功する徴税システムの基本は、
簡素であること、
公平であること、
負担が軽いこと
なんだが、
お役所仕事ではどれもうまく回らなくなり、制度が崩壊する。 北魏より行われていた均田制・租庸調制は全ての民衆を農民と見なし、一律に農地を支給し、一律に同額を徴税すると言う制度であった。
律令制の根幹であった均田制を自ら捨てたこと(ただし形骸のみはその後も残った)は、別の見方からすれば大土地所有を公認したことになる。
これ以降の唐では土地の兼併が更に進み、荘園は巨大化する。
また銭納を原則としたことで農民に貨幣を持つことを義務付けることになり、商業活動を更に活発にする。
その代わり、全国の農民が納税用の貨幣を持つために一斉に作物を換金する必要性に迫られて物価の下落や悪徳商人による買い叩きなどが生じた。 それにしても、千年以上前の大昔に、農民が作物を換金しておカネで納税してたのだから、後期の唐はすでに貨幣経済の最先端を行っていた。
明の時代の江南は、米作から商品作物の生産に切り替え、それを原料にした繊維工業や食品工業が発達し、近代資本主義経済の一歩手前まで行った。
>>62
それは、そういうもんなんじゃないかな。
漢末からの大戦乱と難民の流出で、華北の土地は荒れ果て、人口が激減していた。
放棄された空白地だったからこそ、平等に分配して一律に徴税なんてことができた。
戦後の復興期の傾斜生産みたいな体制。
いってみれば、北魏から唐の前期にかけての中国は、戦後の復興期みたいな独特の体制。
飛鳥時代から平安時代の前期にかけての日本は、発展途上国の開発独裁みたいな体制。
それぞれ、いつまでも続くような体制ではなかった。
社会が発展して成熟してくれば、いずれ解体される運命。 しかし、中国の均田制は、北魏の孝文帝の485年から、唐の楊炎が廃止する780年まで、
300年間も続いた。。
戦後の復興にしては長すぎるので、この例えは当たってないかもしれない(笑) 894年菅原道真による遣唐使廃止
902年南詔滅亡
907年唐滅亡
926年渤海滅亡
935年新羅滅亡
939年平将門新皇を称す
940年藤原純友、太宰府を攻撃
玉突きのように連動してないか? 天皇家の王朝が滅んで武家の王朝に代わったと見え無くもない 将門や純友は海外の勢力と繋がりはあったんだろうか? 直接的な繋がりはないかもしれぬが、
唐の影響を受けて国家を形成していた国々が同時期に解体期に入った。
日本の場合は菅原道真がいち早く唐の真似の限界に気付き、
藤原氏北家が民営化を推進し、
民間軍事勢力を活用することで、将門純友を鎮圧し、
体制変換に成功した。 まあ確かに、平将門は「契丹も武力で皇帝になったんだし」といって挙兵したとされてるしなあ
後世の創作発言という説もあるけど、影響はあったんじゃないか? 藤原純友なんて、九州を取った後は半島進出するつもりだったんじゃないの?
唐までの日本は、東アジア情勢とダイレクトにつながっていた。
唐の滅亡後は、大陸と距離を置くようになる。
唐の滅亡で新羅が滅び、元の滅亡で高麗が滅びと、朝鮮半島の王朝は宗主国と連動していたが、
日本はほとんど影響を受けなくなった。
20世紀末の共産主義諸国家の崩壊に似てるかも。
本家ソ連が唐の役割で。
中国は上からの体制転換に成功し、天安門事件を乗り越えた。
北朝鮮は。。。あれは奇形児。 >>58
西域は今でこそ砂漠に埋れた辺境だが、
この頃までは先進地域だったんじゃないかなぁ? どちらかというと江南の方が未開の地。
それが唐末から南宋にかけて、江南が中心地に変化。 >>69
そのころ火山巨大噴火はあったかな?
貞観地震はあったけど >>79
それは商業の話。
もともと農耕に適した地ではないし、定住人口が少ない。 江南は南北朝期にもう華北と並んでたでしょ、人口はその頃に追い付いて
隋が運河掘ったのも江南の物産を輸送する為だし 漢末には、魏の曹操が攻めてくると聞いただけで、呉の重臣たちが「降伏しましょう」と言い出すほど、華北の国力が圧倒的だった。
「天下の三分の二は魏」と言われ、残りの三分の一を呉と蜀が分け合っていた。
しかし、呉から南朝にかけて、江南の開発が進む。
隋の時代には、煬帝が大運河を掘り、江南に行幸したまま帰ってこないので「事実上の遷都」と言われたほど、江南の経済力が大きくなっていた。 宋や明の時代を通じて、江南はさらに大発展した。
明では、完全に中国の経済的な中心。
長江デルタは温暖で肥沃で、水運も至便。
中国大陸でもとびぬけた最良の地だ。
ただし、古代には巨大な湿地帯で、人が住むには適していなかった。
クリークが掘られて、だんだん住みやすくなっていく。 >>82
天山山脈から向こうのキルギス共和国なんかは、今でも緑が豊かで、綿花栽培なんかが盛ん。
山のおかげで砂漠化を免れた。 >>86
キルギスやウズベクは、敦煌から遥かなる大砂漠と大山脈を越えた向こう側にある、別の文明圏の地 敦煌は、中国甘粛省の端っこにあるオアシス都市
ほとんど雨が降らない隊商基地
中央アジアの、特にウズベクあたりはアム川・シル川の大河農耕文明でまったくの別モノ 唐から宋にかけての大変化(・・・といっても、例によって本当は唐の後期からの変化だせど)のひとつに挙げられるのは、陸路のシルクロードの衰退だ。
この頃から海洋貿易が主流になり、福建省や広東省の港町が拠点として台頭した。
シンドバッドやアラジンのような、船乗りのアラビア商人の時代がやってきた。
ラクダに乗った隊商が、月の砂漠をはるばると越えて荷物を運ぶという風景は、なくなったわけじゃないけど、主役ではなくなった。
シルクロードの玄関としての長安の重要性は、当然ながら低下した。
いよいよ、古代黄河文明から続く、内陸部の中華の時代は終わり。
北京・上海・広東省の時代が来ようとしていた。 >>78
確かに、唐の支配体制は、なんか全体主義っぽくてソ連崩壊を思わせるものがある
ソ連が崩壊して、衛星国も全滅 東ドイツでベルリンの壁が崩壊して、西ドイツに統合された
2年後に、ソビエト連邦は崩壊した
この類推で、「北朝鮮が潰れたら、2年後に中国も崩壊する」という説も登場している >>68
一度イデオロギーが確立されると、
人はなかなかそこから脱却できない。
律令制国家=共産主義国家 藤原時平 vs 菅原道真の政争は、
律令制回帰の理論優先路線 vs 脱唐現実路線の争いではなかったか?
時平は荘園整理令、延喜格式を出したり、班田実施を強行したりしている。
菅原道真本人は時平によって失脚させられたが、
時平の弟の忠平は兄と違い道真を師匠と仰いでいて、
自分が実権を掌握すると道真路線を採用して、
完全に律令制を廃れさせ、
地方武士を活用して将門純友を鎮圧した。
道真→忠平の政治路線が日本滅亡を防いだのだ。うん、きっと。 ちなみに将門は藤原忠平に仕えていたことがあるし、
純友は藤原北家出身なので、陰謀論が成立する余地がある。
道真の怨霊騒ぎも忠平の立場を強化させるものだったので、
忠平は目立たないようでかなりの策士である気がする。 なんか、「キムジョンウンは、安倍内閣の支持率が低下するたびに号砲を打って応援している」っていうくらい、ベタな陰謀論だな >>93
ただ、それで受益した農民に朝廷がやられることになるとは、菅原道真も思わなかったろうな。
事実上、一国の政権政府としての朝廷は承久の乱で滅んでいるしね。
そして鎌倉時代前期は財団法人、後期はNPO法人といったところにまで落ちぶれた。
先のレスにも書いてあったが、ある意味日本も律令制国家の多重崩壊のあおりを食って、
皇室、言わば天氏の王朝から北条氏の王朝に切り替わったのかもしれないな。 後百済と高麗は呉越に朝貢してたとかいうし、
純友もしていた可能性はあるな
で、九州と四国あたりを領土とする王に。 天氏の王朝って何?
大体、御成敗式目からして律令を覆すようなものではないですよって明記してるし
院宮王臣家は職の体系による王民制支配は太閤検地まで力をもっていのだから
それ以前は百姓すら作人職に補任された国家の官僚扱いだぜ
律令制もここまで徹底するとは異常すぎる 武家政権は武力と政治力しか持たない野蛮人だったからな
行政職や技術職を結構遅い時代まで京都その他の僧侶や職人に依存してた 実際、室町時代の初期、九州の懐良親王は「日本国王良懐」として明に冊封され、朝貢してるしなあ 藤原純友が、唐末五代の東亜の混乱に乗じて、九州乗っ取りを企んだのも不思議ではない >>89
気候変動が関わっているだろうね。
内陸部の乾燥化が進んでしまった。
タクラマカン砂漠は海抜マイナスの低地になっていて、
かつては巨大な湖だったのが、
しだいに水が減り、消えていくにつれ、
森林が草原に、遊牧地に、そして荒野に、砂漠へと変化した。
ゴビ砂漠や、サハラ砂漠がかつては緑の大地だったのが、
人間の活動ができない世界に変貌したのと同様。
住んでいた諸民族の興亡に気候変動が大きく関わっているはず。 アラル海はもうじき消滅する。
水が残っているところは弓の弦みたいな形で残ってるが、風前の灯。
ほんの数十年前まで世界第4位の大きさの湖だったのに。
これは開発の失敗が引き金だけど。 豊かな水量を誇っていたアム川だが、アラル海まで届かなくなってるらしい。
地図を書き換えてもらわねばいけない。 >>107
>これは開発の失敗が引き金だけど。
違う違う。
アラル海を犠牲にして行った自然改造計画が成功したからこそ、だよ。
開発が失敗していればアラル海は消滅しないはず。 纏足の宋は嫌い。
中華時代劇で唐代ならイラン系美人女優が華麗に舞えるが、
宋代はよちよち歩きせねばならぬではないか。 まあ、時代劇では面倒なせいか纏足が省略されてるケースが多いけどな。 唐は纏足の奇習がまだなくて、中国にしては健康的だ。
宦官と人肉食はやってたが。
現代人にとっては、纏足女性は、足が不自由な障碍者にしか見えない。
健康的なのは、モンゴル人や満州人だけ。
漢族は障碍者ばかりの異常社会。
まあ、このあたりにも、日本人が唐以後の中国を好まない潜在的な理由がありそうだ。
日本人から見ると、纏足や宦官は気持ち悪い。
人肉食や墓荒らしは、神道の宗教的なタブーに引っかかる。
これは現代人に限らず、昔の日本人にとっても一緒。
日本人は、昔から中国が好きではない。
唐までは中国を高く評価していたが、その後についてはイマイチ(笑)。 纏足って反動ウヨク的発想その物だからな
男が男らしく女が女らしく上級国民は特別であるべきっていう
>>113
纏足は元代に流行して上流階級へ広がった、最流行時期も明〜清初 満州人は纏足しなかったので、清の宮廷モノでは、高宮の婦人が普通に歩いていても別におかしくない >>116
逆、江南嶺南より華北や北方で纏足が流行った 纏足が反動ウヨクとかわけわかめ
西洋の女がウェスト細くするために肋骨折ってたのと同じ原理だろ
大足が女に対する最大級の侮辱詞だしな >>121
バレエシューズも、纏足と発想は同じだな 拝金主義も明が最悪
とにかく、中国らしさを蒸留してウイスキーみたいに濃くしたのが、明という時代
>>121
保守や本来の右翼じゃ無く
現代日本に特徴的な極限られた一時期の世襲貴族政体へ復古を志向する反動ウヨクな
纏足の目的って
女が女らしく上級国民は平民と異なる労働しない特別な存在である事の追求だから >>125
纏足女が女らしい、と言ってる現代日本人ってのが、
誰なのか、どれだけの人数いるのか、を具体的に説明してみてよ >>126
何故意図的に話をずらしたのかな?反論出来無いからか都合が悪いからか
纏足は当時に於いて、女が女らしく亦
自分等が労働せずとも善い特別な身分であると強調する為に行われた >>125
おまえ馬鹿か日本の世襲貴族は纏足じゃないだろ >>112-114
安禄山をきっかけに、日本は唐への憧れが窄んでいった >>125
「平民と異なる労働しない特別な存在である事の追求」
それはナマポ左翼だなw >>130
朝貢外交は停止したけれど、
商人の宋船は来航してたんでしょう?
平安貴族の誰だったか忘れたが、
宋人と会話し始めて友人たちが驚いたという話があった。
こっそり宋語を学んでいたわけだが、
舶来品への関心は衰えてはいないはず。
宋銭の需要もあるし。 朝鮮の両班は、顔すら自分では洗わず、下人に洗わせていた。
とにかく、労働を一切やらない。それが高貴な身分の象徴。
日本の皇族がテニスをしているのを見て、朝鮮の両班が、
「あのようなことは、なぜ召使にやらせないのか?」と言った
というのは有名なエピソード。
明や朝鮮の儒教エリートとは違って、日本には、労働しないのが美徳という発想がない。
日本教会史 ジョアン・ロドリゲス
「日本人は退廃的、享楽的な性格を有しており彼らをシナ人のような勤勉な農夫という事は出来ない。」
アビラ・ヒロン「日本王国記」
「日本人は生来、非常に短気で好戦的であり残忍かつ吝嗇である。・・・
男は女と比べて総じて怠け者であり、有り金を使い果たすまで働こうとはけしてしない。」 >>133
それは日本の皇族出なく19世紀末に
朝鮮にきた英国商人だろ。 なんで銭を中国から輸入するのか
日本で作れないことはないはす >>132
だね
日本が中国からの技術を受け容れず済む様に成るのって
長足の発展を遂げた江戸中期頃 >>138
そこが不思議なとこなんだけど、やっぱり宋銭や明銭じゃないとダメだったみたい
当時は日本に限らず、東北アジアや東南アジアはみんなそうだった 晋地方はトルコ語の影響かどうか解らんけど
南中国と違って割と均質な北方放言の中で異質 >>147
関係ないだろうが、春秋時代の晋はよく北方民族と結婚してたな
イーゴリ公のときのルーシみたいに >>147
細長い盆地だからな
東西の両側を険しい山脈に挟まれ、隔離されている 日本でも、関東と九州は、アクセントがそんなに違わない
関西だけが大きく異なる >>143
宋は圧倒的な経済超大国だもんね。
「唐宋変革期」という言葉は、
遼や西夏、金を無視していて、
好きではないが、
GDPではしょうがないのか。。。 そして経済超大国の宋が
モンゴルに滅ぼされてしまったと >>153
金や西夏の方が先にモンゴルにやられたじゃないか。
南宋はかなり持ちこたえた方だ。
モンゴルと言えども南宋攻略はそう簡単ではなかった。 宋はモンゴルを滅ぼすことが出来なかったが
モンゴルは宋を滅ぼすことが出来た そりゃ、世界史的には、
唐宋変革より、モンゴルの方が影響が大きいのだから仕方がない。 単に経済規模が大きいだけでなく、貨幣経済の発達ぶりが、古代・中世にしては半端なかった
まさに、カネの国 今も、中国ではスマホ決済が普及して、現金が使われなくなってきている
貨幣経済に関しては、すでに世界の最先端 古代中国の地形的な特徴として、海から何千qも離れた、内陸部の奥の奥に人口密集地帯があった。
このため、塩の供給のために商業ネットワークが発達した。 「海から何千qも離れた」は言いすぎだった
いま調べたら、北京と長安の距離は900q
東京−博多間よりも近いな まあ、「中国は、日本人の想像を絶するほど広い」というのがウソで、実際には地理的なスケール感がたいして
変わらないというのは、よく言われるところだが。
実際、世界地図から日本列島を切り取って、中国大陸の上に張り付けてみれば、予想以上に日本がデカいことが分かる。
上海を東京とすれば、だいたい北京が札幌あたりで、香港が鹿児島くらいの位置だ。
沖縄まで入れたら、むしろ日本のほうが国内の距離感があるくらい。
ましてや、朝鮮・台湾・南洋諸島を傘下に入れていた大日本帝国だったら、陸地の面積はともかく、
地理的な広がりは中国よりスケール大きい。 まあ、それはともかく、長安のような内陸部の奥地の乾燥地に、当時としては破格の超巨大都市があったおかげで、
食糧や食塩の供給のため、商業ネットワークが極度に発達したのは事実だ。
唐の時代からすでに、農民が納税のために作物を一斉に換金するので、相場が下落するのが大問題になったくらい。
貨幣経済に関しては、まさに世界の最先端の国。
中国人の拝金主義は、現代に始まったことではない。昔からそうだ。 >>156
確かに、世界史的には、
唐宋の皇帝より、モンゴルの皇帝が有名だね
日本でもチンギスハンやフビライハンは知られてるけど、
唐宋の皇帝と言われてもすぐに出て来る人は少ない >>162
>まあ、「中国は、日本人の想像を絶するほど広い」というのがウソで、実際には地理的なスケール感がたいして
>変わらないというのは、よく言われるところだが。
えええwwwどこがwwひょっとして外国旅行行ったことないでしょ?
視覚的には日本はイギリスより狭いよ
だって地平線ないし 長安周辺はまあ、元々森林地帯で秦の頃迄それなりに植生残ってたけど
開発して農地にすると降水量は有るけど蒸散し易い土壌なので
時代が経つ毎に植生が乏しく成って地味が落ちちゃったという >>165
ここで言ってるのは、国内の移動距離の話
ほんと、ピントはずれなツッコミが多いな >>166
春秋戦国時代は、何百年も国々が分かれていて統一されなかった根本的な原因として、
「古代の華北は森林地帯だったので、騎馬軍団が走り回れなかったから」という説もある >視覚的には日本はイギリスより狭いよ
だって地平線ないし
海を見ろ。日本では、たいていのところからはすぐ海に出て、水平線が見れる。
昔、朝鮮人が「朝鮮半島はヨーロッパともつながっている。島国とは違って、人間のスケールが大きくなる」と主張していたので、
「朝鮮半島は、半島の付け根でかろうじてユーラシア大陸と接しているだけだが、
日本列島は全面的に太平洋に面している。ユーラシア大陸よりも、太平洋のほうがずっと広い」
と反論したことがある。
それを思い出した(笑) >>164
唐の玄宗は、「女に溺れて国を滅ぼしたバカ皇帝の見本」として、かなり有名 日本で一番有名な唐の人は楊貴妃か玄奘か白楽天だろう
たぶん日本での知名度は玄宗より上 三蔵法師、楊貴妃、太宗、杜甫じゃね?
白楽天はあんまピンと来ない >>159
だって偽札が多過ぎて、現金が信用されてないんだもん。 >>167
移動距離の感覚って重要。
高速道路や高速鉄道がない少し前でも、
家人がちょっと隣りの省に行ってくるわと言い残したら、
数日は帰って来ない。
感覚的に陸の孤島みたいなもの。 それで海運が発達すると内陸部は苦しい。
現代でも
中国の港から米国までの海上輸送費に比べると
中国内陸部から中国沿岸部までの輸送費の方がはるかに高く付く。
内陸の乾燥化と海運の効率化により、
シルクロードは凋落。 「唐宋変革論」というのは
戦前の漢籍に通じた日本の学者たちが論じ始めたものだけど
世界では通用してるのだろうか? 長恨歌、琵琶行、白氏文集は今は知らないだろうな
李白も「一杯一杯また一杯」のCMの時がピークだな 李白は一斗の酒を飲む間に詩を…などという言い回しがあるが、
唐代の一斗は現代日本の1升ほど。
それに唐代の酒はアルコール度数がせいぜい5パーセント、ビール程度なので
それなりの酒のみなら「唐代の一斗」は飲める。 などと自慢げに書いてみたが、いまウィキったら唐代の一斗は5.94リットルなんだな。
多少の誇張表現が含まれているのか、
一斗の酒を数日間かけて飲んだのか >>165
面積にしたら、四川省一つで、日本の1.3倍だもんな。
チリ共和国が南北に長いからブラジルさんと変わらないなどとほざくかしらん? 上にも書いたけど、上海を東京とすると、北京はだいたい札幌あたりの位置にあり、香港は鹿児島あたりの位置にある
つまり、「日本の大きさは、中国の沿海部くらい」というのが正しい認識
中国から内陸部を除去して、沿海部だけを残したら、ちょうど日本くらいの大きさになる
少なくとも、陸地の面積を比べて、「日本の大きさは中国の省ひとつ分」というのは誤った認識 というのも、「中国は広大なので、上海から見た北京や広東省はほとんど外国そのもの」とよく言われるんだが、
距離からすれば、東京から見た札幌や九州と変わらない。
しかも、日本の場合は地続きでもないし。 平安時代までの日本にとって、エゾやクマソが外国の異民族だったのは、至極当然といわなければならない ましてや、かつての大日本帝国は、朝鮮・台湾・千島・樺太はもとより、南洋諸島まで含んでいた。
それは途方もない地理的な広がりで、地球上のかなりのスペースを占めていた。
地球儀で見ると、ほんとうに丸い。 >>178
英語や中国語のサイトもいろいろ見たけど、「唐から宋にかけて、中国では貨幣経済が進展して商業革命が起きた」
という、経済史の転換点としてはそれなりに注目されている様子。
でも、「唐までの中国の名門がみんな没落・滅亡して、宋からは新たな勢力が勃興した。中国の歴史はそこで断絶している」
という、日本での唐宋変革論の認識が広まっているようには見えない。 >「唐までの中国の名門がみんな没落・滅亡して、宋からは新たな勢力が勃興した。中国の歴史はそこで断絶している」
↑ちなみに、この説を唱えた内藤湖南は、日本史についても、「応仁の乱の前と後とで、日本の歴史は断絶している」と言った。
「現在の日本を考える上で、応仁の乱以前の日本史を勉強しても、たいして役に立たない。応仁の乱の以後だけを見れば十分」
とも言ったと、最近ベストセラーになった「応仁の乱」の本に書いてあった。 中国は北京から南京まで1000キロ近いんだけど
その間ほとんど平野、平野、平野で山を見ない
これでは遊牧民になんどもやられるのは当然だわ >>183
成都盆地なんてそれ一つで本州がまるまる入る糞デカい平野だからな
見渡す限り何もなくてGPSないと今どこらへんにいるかもわからない
地理的スケールが違い過ぎるわ >>190
華北平原は、巨大な扇状地
華北平原を扇形とすると、北京・上海・洛陽あたりが端っこの3点を占める
陸地面積の底なしの恐ろしさが感覚的に分からない旧日本軍は、
どんなに数多くの戦闘に勝利しても、
重慶までは到底たどり着けないまま、
長大な戦線維持と消耗に苦しみ、
資源枯渇と兵力不足に陥り
あげくに米英の石油禁輸に直面してしまう。
せめてモンゴルの南宋攻略になぜ数十年かかったのかを研究するべきだった。 >>191
いや、だから、この話のポイントはそこじゃないんだって。
まあいいや(笑) つうかなんで縦に比べたがるかわからん
日本なんて横幅ほとんどないけど、
新疆のケシガルから東北のハルピンまで4000キロあるし
上海から成都までも宗谷岬から桜島までの距離あるよ 日本軍の話で言わんとしてることは分かったは
だだっ広い平野を進む困難さとか島国の人にはわからんわな いや、違うんだよ(笑)。この話は、そういうことじゃないんだ。
現代の中国は、なんといっても、北京から上海を経て広東省の湾岸に至る、
いわゆる「沿海部」が圧倒的な中心であり、「内陸部」は植民地みたいな状態になっている。
そこで、その「沿海部」がどのくらいの大きさかを見てみると、ちょうど沖縄を除く「日本」と同じくらいの大きさ。
つまり、「日本の大きさは、中国の省一つ分ではなく、中国から内陸部を切り離した沿海部くらいに相当する
大きさなのである」というのが、この話のポイント。
実際、世界地図から日本列島を切り取って、中国の上に置いてみればわかる。
日本は、内陸部のない沿海部だけの中国。 杉山の本にあったが、モンゴルが金朝を攻め落とし次は南宋…と作戦を建てるとき
一番の懸案は金と南宋の国境地帯だった。
金と南宋は100年に渡り対立をしていた。
そのため国境に当たるワイ河の流域は人口希薄地帯で兵糧の補給ができない、
この兵糧問題をいかに解決するかが悩みだった。 南北朝時代には、何百年にもわたって淮河が国境になっていたな 確かに、国境近くのソウルに人口が密集している韓国は例外的なケースで、普通は紛争地帯からは住民が逃げるわな。
百年も続けば過疎地域になってしまう。 朝鮮戦争後、ソウルで漢江(ハンガンで一発転換できる!)の南の江南地区が発展したのは、
戦争に対する恐怖から。
朝鮮戦争時に漢江にかかる橋が政府の手で爆破され、逃げ遅れたソウル中心部の市民はそのまま市街戦に巻き込まれてしまった
だから万が一を見越して、漢江の南に住む 蜀は小さいから魏に喧嘩を売るのは自殺行為だって言うけどデカイよな
劉邦も巴蜀から統一してるし 四川盆地はフランスなみにデカい上に、盆地だから水が流れ込む地形なので肥沃
「天府」と言われるだけのことはある その蜀の国も、明清交代期にキチガイが暴れたせいで… >>201
「江南」も、「カンナム」で一発変換できる 国土がフランスなみに広くて、人口はフランスの倍くらいの大国だからなあ。
北京は、四川省が強くなりすぎるのを恐れて、重慶市と四川省に分割した。
重慶市もデカい。人口も面積も、韓国の8割くらいだ。
韓国の大きさは「省ひとつ分」どころか、「直轄市ひとつ分」くらいに相当することになる。
ここのトップだった薄熙来は、北京の権力闘争にも介入するほどの力を持ったため潰された。 元々巴国と蜀国だから分けても不自然じゃあ無い気が
半島が元の?貊朝鮮と三韓の2国へ分かれた様に くれぐれも「にしかわ・せつどし」なんて読まないようにw >>197
日本列島はアメリカ東海岸と大きさが匹敵するから凄いと言うのと同じじゃんか?
肝心の日本列島だが、東京一極集中で、
地方は過疎化衰退化で、限界国家になりつつある。
言わば日本列島の多くは東京圏の植民地状態。
どうせ比較するなら、東京首都圏と、中国沿岸部とじゃないと公平じゃない。
何で日本列島全体と中国沿岸部なんだ? >日本列島はアメリカ東海岸と大きさが匹敵するから凄いと言うのと同じじゃんか?
そう、それも言える。その通り。
>肝心の日本列島だが、東京一極集中で、
地方は過疎化衰退化で、限界国家になりつつある。
んなこたあない。確かに東京がデカすぎるので相対的に見劣りするのは事実だが、ほかの主要都市も世界的に見れば十分に繁栄している。 >>209
武漢と同じく、重慶も、巨大な支流が長江と合流する重要ポイントなので古来から特別な地 >>214
しかしどこの県も中心地から少し外れると
過疎化衰退化
県庁所在地に一極集中でミニ東京になっとる 阪神経済圏は世界8、9位ぐらいの経済規模。
まあ大きい方だね。
トップ10に2都市圏入るのはアメリカと日本しか無い。 >>214
日本の主要な地方都市程度を含めるなら、
中国の主要な地方都市も含めなくちゃならないよ。
重慶や成都、西安、瀋陽、長春、ハルビン、大原、蘭州、さらにウルムチ。。。。。
どこも高層ビルが林立しているし、富裕層の人口だけで日本を上回る。
厚みがまるで違う。
高速道路網や高速鉄道網の総距離数が伊達に世界一になったわけじゃない。
巨大な需要が見込めるから、交通インフラに巨額の投資ができた。
ついでに言うとアメリカも東海岸だけが発達しているわけではない。 遼寧省なんか、経済成長率がマイナス20%だぞ?
日本には、そういう滅亡寸前の地域が存在しない。 「不動産バブルを崩壊させないためには、政府がみずから不動産投資を続けるしかない」というのが、中国の政策。
大都会に高層マンションを建てると、家賃の相場が下落して不動産バブルの崩壊につながる恐れがあるから、
あえて誰も住んでない砂漠地帯に高層マンションをジャンジャン建てている。
全国に巨大なゴーストタウンが出現しているが、建てるのをやめたらオシマイだから建て続けるしかない。 GDP では中国は日本の2倍、アメリカは4倍。
中国経済の特徴は日本のような一極集中型でないこと。
例えば北京GDPは全国の2%程度でしかない。
一極集中型国家は発展性にどうしても限界が生じる。 バブル崩壊は市場経済である以上避けられない。
日本は不動産バブル崩壊がもう起きないのか?
日本は政府がじゃんじゃんお金をばらまいて景気向上を計ったりしていないのか?
もちろん中国経済には問題があるし、
赤字国営企業がいつまでも残っているし、
経済弱者への冷たさはピカイチなんで、
競争に敗れた地域は悲惨になる。
バラ色の世界ではないことは確かだ。
だが、国土と人口の大きさ自体が強みになる。 >日本は政府がじゃんじゃんお金をばらまいて景気向上を計ったりしていないのか?
日本もやってるが、程度の問題ってものがある
中国のバブル膨張ぶりは、日本と比べものにならない。
日本のほうが遥かに健全。 「唐から宋にかけて、中国は貨幣経済の社会に変化した」という見方は欧米にも広まっているみたいだけど、
「唐の貴族社会から、宋の官僚国家へと変化した」という見方は、日本語のサイト以外では見かけない。 経済の健全度や統計の信頼性で、
中国に大きな問題があることは中国人たちも認めている。
それでも
国土と人口の大きさを
過小評価するなと言いたい。 何年か前にかなり売れた「中国化する日本」という本では、「いちはやく身分制社会を克服して、
試験に受かれば誰でも偉くなれる自由競争社会に突入した」として、宋代の中国を絶賛していた。
日本や西欧も、宋のレベルに向かって進化してきたのである・・・とまで主張していた。 解決済の質問
北宋朝の「皇帝独裁官僚国家制度」はどのような経過をたどって成立したのかについて教えてください。 ベストアンサーに選ばれた回答
北宋を建てた「趙匡胤」は、皇帝独裁型の官僚制国家を作り上げました。
960年の宋建国の時点で、
趙匡胤は中国国内で最大の軍事力を握っていましたから、
その気になれば、短期間で軍閥勢力を力で圧服させることも出来たでしょうし、
地方の諸国を一気に滅ぼすことも出来たであろうと思われます。
しかし趙匡胤はその強大な軍事力を背景にしながら、
五代以来の軍閥横行による君主権力の後退に鑑み、
実に根気強く、
軍閥勢力を硬軟取り混ぜた手法で説得して、
その権限を徐々に奪っていき、
藩鎮の勢力削減・
禁軍(正規の国軍)の指揮権掌握・
文官優位の文治主義などを推進しました。 中央官制では唐代以来、貴族政治の牙城であった門下省を廃止して、
中書省に吸収し、
その長官である中書省中書門下平章事(宰相)が、
六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)の各長官を指揮することにしました。
また参知政事(副宰相)を新たに設置し、
節度使を、いつのまにか名誉職としてしまい、
順次廃止または有名無実化させます。
州県の長官(知州、知県)には中央から文官を任命(強幹弱枝策)
によって、中央集権化を進めました。
科挙制を改革し、最終試験として殿試を創設し、
その合格者(進士)となった官僚すべてを、
皇帝の学問上の弟子とする関係を形成しました。
その間に科挙合格者を重要な役職につけるようにし、
官僚任命権と、軍隊指揮権を、
皇帝のものとするという制度改正を行い、
軍人は官僚によって統制されるという、
文治主義への転換を成し遂げました。 >>221
遼寧省は日本市場や日本企業と結び付きが強くて経済的に依存してたから
日本の凋落に巻き込まれた >>227
唐の時代が続くと以前より没落する勢家が減って無能な官位持ちが増えた結果
新興地主層からの登用が増えて朝廷での権力を貴族が失って逝ったという皮肉w 飯田 與那覇さんの新著『中国化する日本』は各方面で話題騒然となっていますね。
ご自身で注意書きを加えられていますが、「中国化」という言葉には、
今の情勢では全日本人が「ドキッ」としてしまう。
與那覇 事前の予想通り、「中国の国家資本主義」とか「南シナ海政策」といった、
経済学または地政学的な話だと思って手に取られた方も多かったんじゃないでしょうか。
しかし、本書の「中国」が指すモデルは「宋」のことなんですよね。
1000年前からの時間の幅のなかで、日中両国の現在を見てみようという発想になっています。宋朝のしくみを目指すのが「中国化」、それと180度逆の日本独自路線でいくのが
「江戸時代化」という、二つの軸で歴史を書いてみようと。 與那覇 それにしても日本人の中国史への興味が、なぜあんなにも三国志に集中してしまうのか不思議です。
戦前の内藤湖南からすでに指摘があるにもかかわらず、
日本人があまりにも知らなすぎる「世界で最初の近世社会であり、
グローバル化の先駆けである宋」のイメージから、本書を書きはじめました。 アジアに燦然と輝く中華帝国をメインに捉え、その歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」という内藤湖南の史観に始まる。
内藤は10世紀の宋にすでに「近世」が確立していたと論じている。
内藤のこの史観を述べながら、著者(與那覇)は次のように書く。
「宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。
同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で
競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。」 官僚国家で貨幣経済となった宋を、「いち早く古代の身分制社会から脱却し、
試験に通れば誰でも高級官僚になれるし、熱心に商売すれば誰でも金持ちになれる、
近代的な機会均等の自由競争社会を実現した」として称賛する與那覇潤(よなはじゅん)氏。
まあ、そういう解釈が出てきても不思議はないか・・・。 北宋の首都は開封、南宋の首都は臨安であった。
唐代との都の大きな違いは、街区を細かく区切っていた門(夜には閉められ通行が遮断される)が取り払われ、
昼夜を問わず店には人々が集い、路上に屋台が並んでいた事である。
電気やガスが用いられる以前に、この様な営業形態をとりうる経済力は驚くべきことなのだ。 具体的には、食器屋、薬屋、貴金属店が店を並べた。それに加えて、その客を目当てに飲食店、娯楽、風俗店が集まっていた。
都には瓦ぶきの2階や3階建ての建物が建ち並んでいた。また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装されていた。
また、大衆文化と呼べるものが登場した。盛り場では
『三国志演義』の源流とも言える講談が演じられた他、
切紙・影絵・動物の芸、雑劇(歌を伴う演劇)などが人々を楽しませた。
本格的な出版事業が始まり、多くの人が印刷された本を入手することができるようになった。 唐の時代劇を見ると、長安の都はじつに華やかで賑やかで、昼も夜も歓楽の巷なのだが、
それは宋以後の話であって、唐の長安は常に戒厳令が敷かれている状態。
唐で華やかなのは、貴族だけだった。
大衆消費社会の実現には、まだ程遠かった。 西安は、ムスリムが多い西域化した都市。
名物は、羊の串焼きだ。
唐三彩の焼物には、ラクダの像とか、ラクダに乗った商人の像がとても多い。
唐の都・長安にはラクダがよほど多かったのだろう。
マニ教寺院とか、キリスト教会だっていくつもあった。
フィリピン・パブならぬ、ペルシアン・パブも賑わっていた。
ペルシャ系の音楽や舞踊が流行していた。
おそらく、当時の長安は想像以上に西域っぽくて、
現代の「中国」というイメージとは異世界だったんじゃなかろうか。 「唐と宋で歴史の切れ目がある」というより、単純に、唐が特殊な時代だったんじゃあるまいか。 宋は文物がすごいもんなぁ。書にしても陶にしても。
金出せる人がいっぱいいたのかなと思わせるし、自由の気風も感じられる。 おそらく、奈良時代の奈良が中国っぽかったのと同じように、
唐代の長安は、非常に西域っぽかったであろうと考えられる。
秦漢の頃は緑に覆われていた黄土高原も、この頃にはかなり荒涼とした風景になってきていた。
長安は、砂漠のオアシス都市みたいなところになってきた。
そこは、ラクダに乗った隊商が往来し、ペルシャ風の文化が花開いた世界。
日本と違って、中国には妙なプライドがあるせいか、
「西域から文化を導入して文明開化した」とはなかなか認めたがらないが。 >>244
書画骨董は、宋のが最高
東洋美術館の主力展示品 そりゃ西域は唐代でも現在でも中国の領土だもの
琉球との貿易によって日本は様々な中国の文物を受容できたけど
琉球によって日本は文明開化したとは言わないでしょ >>245
仏教に対しても長い間アレルギー反応示していたからなあ >>247
空手と三味線が、琉球起源
日本文化に占める存在感が大きい 自分の中のイメージでは
唐)
異民族文化に寛容
国際的
儒教を重んじない
女性上位
宋)
内向き
漢族ファースト
儒教原理主義
纏足で女性を拘束 >>245
何か勘違いしてるけど
シルクロード交易って文物、製品共に中国側の圧倒的な輸出超過 >>245
少くとも食文化はよくイメージされる中華料理とは掛け離れてたろうな
中華鍋と豪快に炒める料理は宋からやろねさ >>252
何が中国側に入ったのでしょうか?
決済は金とか銀でしょうか? 漢代の文化が衣食住全てにおいてやたら日本に近いのはなぜだろうか
南朝では漢代の文化が残っていて、それが伝わったとかだろうか 今でも陝西省の料理は独特
中国四大料理(北京・上海・広東・四川)のどれにも分類されない孤立料理 >>255
最近、京都や奈良に来た中国人観光客が、「唐の文化がここにあった」、
「どうして日本には唐の文化が残っているのか」と言い出すことが多い。
でも、金閣寺や銀閣寺を初めとして、京都の名所旧跡は室町時代のものが多く、中国でいえば明代に相当する >>245
長安から西に向かうルート(絹の道)の他に、北京から北に向かいモンゴルを通るルート(草原の道)があった。
長安からはラクダに乗った隊商、北京からは馬に乗った遊牧民が運び手。
当然、ラクダより馬のほうが速かった。 ダウンタウンの松本気取りのくだらない奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 >>258
その中国人観光客、歴史を習っていないんじゃない? 地形図を見れば、なぜユーラシア貿易の拠点として北京と長安がつねに選ばれ続けてきたのか、その理由が一目瞭然
理由もなにも、地形からいって、ここしか通るところがない >>254
唐と西域諸国との交易で規模が大きかったのは奢侈品よりもむしろ軍事経済
唐は中央アジア方面で吐蕃やウイグルと戦争していたので
クチャにあった安西都護府に莫大な軍需物資を送り込んだ
今話題になってるソグド人も物資の購入や輸送を請け負う御用商人として活躍した
それまで西域諸国では銀銭が用いられたが
唐が支払い手段とした銅銭や布帛が通貨として流通するようになった 唐代の地層から急に布帛や銅銭が大量出土する様に成るんよな西域
>>266
宋代に発達した規格化された建築様式って日本じゃあまり見られ無いし
唐代に導入した様式を連々と続けてたから、強ち間違いでも無いけどね 北京は、中国の内地にとっては北端だけど、遼から見れば逆に南端。
いまでいう北京を、遼では「南京」と呼んでいた。
北京を出て、モンゴルに入ると、そこは広大な大草原地帯。
馬で移動するから速い。
長安から、ラクダをひいた隊商が月の砂漠をはるばると行くという交易スタイルは、過去のものとなった。
海洋貿易はまた別の問題だけど、モンゴル帝国に至って陸路は北京ルートが主流となり、長安は衰退した、 >>265
>>267
西域で唐の貨幣が流通していたということは、
唐代初期でも貨幣経済がかなり進んでいたということでしょうか?
宋はそれを引き継いで貨幣経済を発展させたということであって、
唐と宋の間を区切るような大変革が生じたわけではなく、
連続的な発達にすぎないということなのでしょうか。 宋が長安、洛陽を都にしなくなったのは、唐の時代に拡大した
流通社会・貨幣経済に対応できなくなったからなわけだが。
開封は大運河による新しい経済社会体制の都として最適で、
長安や洛陽のような閉鎖的な都市はもはや過去のもの。 >>272
古代の戦国時代には、魏の都・大梁として一時代を画した でも、洪水が多いのが弱点
古代の魏の都は黄河の土砂に埋もれ、その上に築かれた宋の都の開封も土砂に埋もれ、
現代の開封はその上に築かれた
だから、古代からの連続性はない 唐の大運河・通済渠が元〜明時代には黄河の本流となってしまったんだよなw そう、明の時代には、黄河が長江に合流して一緒に海に流れ込んでたんだよね。 唐の長安と漢から西周代の長安も関係ないと思われてるが実はある
長安には北方の離宮群を守る禁苑の城壁が旧長安もすっぽり覆い囲っていて旧都城全域が一つの離宮として機能していた >>277
漢の長安城の廃墟が邪魔になって全く同じ場所には作れなかったわけで。
その事情は洛陽も同じで、漢・魏の洛陽城が邪魔で唐の洛陽城は別の場所になった。 >>270
いわゆる唐宋変革は、たいてい唐の後期に変化が進んできて、宋代で歴然としたものが多い >>267
えええ宋様とか大仏様とか教科書にも書いてあるレベルだろ
鎌倉時代の寺なんてほぼ宋の建築技術に依ってるんだが
唐代の影響をまだ受けていた創建当時の平等院の内装とかこんな感じ
http://hishiya.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2014/09/16/o0500037510501208610.jpg
奈良の大極殿も首里城みたいに赤一色だが実物はもっと金ピカだったはず 隋はオールド長安の近くにニュー長安を作ったけど、カンジンの煬帝は運河に船を浮かべて
江南に行幸したまま、帰ってこないので「事実上の遷都」と言われた
これで長安貴族の不満を高めてしまったのが、隋滅亡の原因のひとつ >>282
なんか、建築も陶磁器も文人画も、宋代のは渋みのある典雅なものが多い印象があるんだが。
唐代のは、やけに金ピカ趣味だったんだな? >>280
デリーとニューデリーくらいの関係
連続性がないとまでは言えない 唐代になってもまだ長楽宮や未央宮は残ってたらしい
http://www.geocities.jp/wtbdh192/tuganyakubun/HPTochouanzu/TOHCHOANZU011.gif
会昌元年(842)年頃でも未央宮には殿舎が249件残っており正殿を通光殿と改めさせたとある(長安志) 中国で現存最古の木造建築ってなに?
いつの時代の建築? なるほど。
戦乱、文化弾圧続きのお国柄でも山中には古いものが残ってるのか。 中国最古の現存木造民居(民家)
山西省の姫家の民家
「大元国至元三十一年」(1294年)と刻まれている >>287
その後も歴代王朝の改修や改築を受けてるからその時の物でしょ 日本最古の木造住宅は、箱木家住宅(1283−1307) 標高3000メートルというから、富士山の七合目くらいの高さ
唐の武宗や、後周の柴栄の廃仏も、こんな高いところまでは来なかった 3000m?
そんな高いところまでよく建築資材運び上げたな >>272
地域で見ると大梁→許昌→開封だからずっと栄えてるよ
今の開封は何度か河川の氾濫で埋もれて別の都市だけど まあ、孔子の子孫を自称する人は、中国に200万人いるって話だけどな >>282
宋代以降の中国建築ってカチッカチッとした無骨な造りで
金閣寺銀閣寺の規格張って無くてイマイチ頼り無さ気な造りとあんま似て無いと思うけど >>270
確かに西域では開元通宝も使われていたけど
トルファン地域から出土した売買文書を見る限りでは
決済手段として用いられたのは絹織物が多い 唐宋変革期に起こった生産力向上の中でも顕著なのが江南における米生産の向上である。
この進展を示す言葉として「蘇湖熟れば天下足る」「蘇常熟れば天下足る」という当時の諺がある。
その結果、江南の経済力は飛躍的に成長した。 宋代に至り、各種生産力が大幅に向上した事は異論を挟む余地がない。
中でも重要なのが農業、特に米作の発展である。
その他にも精銅・製鉄・窯業の技術的発展など宋代の発展は枚挙に暇がない。
その飛躍的発展の多くは、江南で起きた。 中国で最良の地といえば、長江下流のデルタ。
海に面し、温暖で肥沃で、広大な平野が広がる。
中国に限らず、世界的に見ても最良の地のひとつだろう。
でも、それを開発するのには、長い年月を必要とした。
古代の江南は、巨大な湿地帯で洪水も多く、人が住むのには適していなかった。
何百年もかけて徐々に干拓が進み、やがてその生産力は華北を圧倒するに至った。
それが、宋という時代の特徴。 宋代に入って、東高西低・南高北低という、現在につながる構図が確立された。
もちろん、隋唐の頃だって、江南はかなり発展していた。
でも、唐はまだ、ギリギリで西高東低・北高南低の時代。 宋代で本格的な貨幣経済・自由主義市場経済に突入したのは、
なんといっても、江南の高度成長のおかげだった。 首都は、江南と運河で直結する開封になった。
もう、洛陽・長安の時代じゃなくなった。 しかし、完全な貨幣経済社会になったのは、やはり、明の時代だろう。
米作地帯は、長江下流から中流に移り、下流では商品作物、とくに綿の栽培が盛んになった。
それを原料として、繊維工業が発達した。
農民は、商品作物を換金して、そのおカネで食糧を購入する時代。
自給自足とか、物々交換とか、そういうのは完全に過去の思い出と化した。 咸陽→長安→洛陽→開封→臨安→北京
段々東に行ってるね >>251
>>124
最も中国らしい時代は宋なのか明なのかどっちだよ 從璀璨的金銀器文物看唐朝貴族的生活
金碗、銀碗、金杯、銀杯、銀盤、銀碟……你可以想到的幾乎所有飲食容器都可以在何家村窖藏的271件器皿中找到。
它們有的花紋繁複,工藝精巧,但也有沒有任何裝飾的金碗銀碟。
https://i1.read01.com/SIG=1cf31i0/30455175437072333169.jpg 「唐朝までの貴族が消えた」という認識は、中国でも浸透してきたようだ?
↓
唐朝以後,中國的貴族為何消失了?
2017-05-03 由 最愛歷史 發表于歷史
貴族,自古以來便是平民百姓仰望的對象,更是不少家族累世奮鬥的追求目標,但中國歷史到了唐代以後,貴族卻突然轉弱,最終在歷史的長河中逐漸消失,這又是為什麼呢? >>315
これ書いたの台湾人だな、中国じゃなかった >>313
江南も韓国にもあるな 江南スタイルで有名になったが 歴史GDPでみると全体は唐代から1人当たり3割増しだから緩やかな上昇
江南は上がる反面内陸部は停滞
あと人口が唐代の6000万から宋代の1億だから規模による押し上げもあり
人口増と一人当たりの増加により生産力は唐代の2倍程度にまで上がったのが現状の推測 アンガスのアレって東アジアに関して史料に当たって無いから何の参考にも成らんし いや当たってるけ中国人が参加してた
どっちにしても他に史料がない
頑張れ中国人 そもそもアンガスは中国経済史に真っ先に取り組んでるからな
中国なんて他の地域に比べて圧倒的に史料が足りてるから
歴史統計だとより正確性が高くなる どっちにしても都市人口が中国全体で5%以下なんだから
ルネサンス期のイタリアの都市化率の半分以下
江南の発展だけみても意味なし
宋代の発展は主に食糧に依存してたから人口増で相殺
緩やかな発展が妥当
ちなみに鉄の生産もほとんど記念碑や橋などの建築が主体で
工業化とも関係ない 都市人口とか的外れ
それで比較すると20世紀のヨーロッパより古代ギリシャ、宋より前漢(全人口の7割)のほうが
発展していることになる
>ちなみに鉄の生産もほとんど記念碑や橋などの建築が主体で
>工業化とも関係ない
世界最古の鉄橋はアイアンブリッジだぞアホ
そんなものがバンバン作られるようになったらもはや産業革命じゃボケ
ちなみに日本は中国で生産された鉄を輸入して日本刀や武器に製造して輸出する加工貿易を少なくとも明代には確立していた(日本一鑑) 都市人口じゃなく都市化率の話だが
ギリシャも前漢も農村社会だぞ そうだな。
中東や欧州に比べて、農村人口が極めて多い。
今に始まったことではなく、昔からだ。
今後も続くだろう。 明代の江南は、繊維工業も発達した
綿織物の工場もあった
後で、イギリスにあっという間に追い抜かれるのだが、始めたのは明が大幅に早かった 鉄に関しては橋は間違いだった記憶違いだった
ソース元の名大の出してる世界経済の歴史によると
>>中国の製鉄技術が先進的でヨーロッパより1000年以上前から鉄の鋳造を行いながら、鉄が記念碑などに用いられ、
>>産業向けに鉄が使われることは少なく、ヨーロッパのような鉄の文化は中国では根付かなかった
>>それとは別に貨幣や手形が急速に発達し、銅銭や紙幣が使われた。
>>取扱い商品の中心は、工業品ではなく、農業、林業、水産業などの第一次産品で、
>>農業内部では地租納入向けの生産から市場向け生産への大きな転換がみられた
>>宋では商業活動を支える都市と都市近郊型農業が発達した
これ江戸時代と同じで商業面やシステムは発達したけど、工業面での発達が弱かったってところだな 農村人口も多いが都市人口もバカみたいに多い
11世紀の開封はそれだけで同時代のイングランドの人口に匹敵したし
1078年の鉄生産量は18世紀のイングランドに匹敵する12万5000トンに登った
中国は農業国でもあり工業国でもあり貿易国のあらゆる側面を持っている
近世ヨーロッパはエルベ川以東の再販農奴制の国が穀物を作って、それより西の国が鉄銅を生産するという地域分業が見られたが
中国は一国でそれをやってる感があるので内陸と北南で分けて考える必要がある 綿織物の工場はヨーロッパでも14世紀には行われてるけどね
近世東アジアでは江南と関西が経済の中心だったけど
それなりに工業もおこなわれてけど
基本為政者側が農業中心に行政運用してたから
欧州に比べて工業が限定されたんだろ 中国の都市化率が10%超えたのは1950年代だから大したことないね
日本は1920年で18% イタリアは1650年で15% 畑違いの経済学者が書いた歴史に突っ込みを入れるのも野暮なんだろうけどさぁ
農具や漁猟具や船舶に鉄を使うのも生産に鉄を使ってると言えると思うんだが
この人の考える「産業」の定義って何なんだろう どっちにしても銃火器で遊牧民圧倒できなかった時点で
宋の工業力はそのぐらいだよ イタリアの都市住民はいわゆる集団領主ってやつで農奴を使役してその地代をもとに
生業を営んでいた連中で日本で言うといわば士族
近世や近代の都市市民とは同一視できない 宋はルネサンスを予感させる発展はしたけどそこには届かなかった
そこが妥当な評価だな
技術力がちょっと足りない >>338
銃火器なんて、明末まで無かった
清でも自力じゃ作れなかっただろ 中華王朝はたいていは中原に興るか、中原を都とした。
江南に興り、江南を都としたのは明のみ なんでヨーロッパでは科学が発展してそれが産業化したのか 確か唐の時代に水車を多数連ねた製粉工場ができたけど、
それ以上は発展しなかったんだよね >>343
「ヨーロッパの奇跡」「世界の多様性」
このあたりの説明が腑に落ちた。 >>326>>335
都市化率は宋も唐も20%を超えてる
論文書いた馬鹿が無知なだけ >>343
和算やからくりはゲームや腕自慢で終わった、たいな話 >>341
銃は明代に逆輸入して生産してる
但し主に南蛮式で日本式やオスマン式より軽いが短射程低威力低精度 >>326
アンガスのデータわ史料に当たらず
唐後期の都市化率は約20%、宋代が約22%
これ重要 >>341
火薬は中国発祥だし後金の祖ヌルハチは山海関の戦いで受けた砲撃の傷がもとで死んでるんだが 五代十国のはじめが、
中国の分裂状態のなかでダントツにしっくりくる 宋はチンギスハンが現れなかったら、産業革命もあり得なくはなかったかもしれないかなぁ・・・ オスマン帝国がヰーン落として東ハプスブルク王朝と低地諸大名領を併合してたら産業革命起きて無いしな >>341
>後金の祖ヌルハチは山海関の戦いで受けた砲撃の傷がもとで死んでるんだが
だから、それが明末なんだって
袁崇煥が地元の広東省から持ってきたポルトガル製の大砲 やはり、複数国に分かれないと武器が進歩しないのかな? >>353
それは関係ない
モンゴル帝国期はグローバル化が進んで貿易が盛んになり、江南もますます発展した モンゴルに支配された地域はどこもぱっとしなくなってるな
ヨーロッパが台頭したのも他の地域がダメになったのと関係はあるかな 確かによく言われることだが、しかし、モンゴル帝国は「何を」破壊したのだろうか?それは他の帝国とはどう異なるのか、分からん >>359
モンゴル帝国のせいで中国の近代化が遅れたというのは、「日帝に収奪されたおかげで、わが国の近代化は大幅に遅れたニダ」という、どこかの半島国家の主張と同じで
事実とはむしろ逆 モンゴル人が築いた北京帝国を継承した明は、史上空前の繁栄を迎える
とくに江南の貨幣経済が発展して、大衆消費社会の一歩手前まで行った むしろ、その後の伸び悩みが謎
「明代の江南は、あのレベルまで行っていながら、なぜ西欧みたいな近代資本主義社会になれなかったのか?」
というのが経済史における最大の謎のひとつ しかし、それはインドにも中東にも、江戸時代の日本にも言えること
やはり、近代の西欧が特別だったのだと思う他はない >>356
中国で生産したオランダ式の大砲
オマエって嘘、デマ、出鱈目ばかり垂れ流してるよな >>356
大砲は南宋末期以降、銃は明中期以降の生産 >>361-364
華北も江南も金宋→元で生産力が数世紀前の水準へ落ち込んでる上に
民衆は無能な行政と汚職と収奪で困窮し暴動続発
繁栄してる様子が窺える史料なんて何も無い >>366
それは、原始的な火砲だろ?
ロケット花火程度のシロモノ >>367
それは、そういうことにしときたいだけの話
「我が国は急速に近代化していたが、日帝の収奪で未開レベルに後退させられたニダ」というのと同じ 「小中華」、「大朝鮮」と言われるだけあって、中国と朝鮮はいろんな面で似ている >>368-369
公文書公記録や博物館に幾らでも記述と出土品在るんだから見て現実を受け容れ様な 宋や明にそんな軍事技術があるのなら、前近代的な騎馬 >>371
明末元初に人口激減、モンゴル人の大移動か?
人種構成もかなり変わっただろうな >>372
火砲を作り始めたのが南宋の最末期
明はモンゴルに対して軍事的に優位保ってた 元の時代には、元の本拠地に近い華北の荒廃が特にひどかったらしい 靖康元年(1126年)に李綱が霹靂砲を用いて金軍を撃退したという記録がある(靖康傳信錄)
https://2.bp.blogspot.com/-oSR_00oJWls/WCxNMculF_I/AAAAAAAADLY/1kah0YGPywkDC_LaphDuEktgSyFLR3yuQCLcB/s1600/eruptor_proto-cannon.jpg
問題は金軍も同様に火器を用いてることから普及はもう少し早いはず
宋敏求の東京記には開封に「火薬窯子」が造られたという記述があることから実戦での使用はともかく火器の製造そのものは北宋初期に遡ると見れる >>372
>>373
お前バカじゃね?騎兵隊は何時まであったと思ってるの?
第二次世界大戦の時ですらソ連の狙撃兵大隊2個が3分の1以下のサヴォイア騎兵連隊に撃滅されたり
ナチスの戦車部隊がたびたびコサック騎兵に敗退しているというのに >>378
バカはお前だろ(笑)
「前近代的な騎兵隊」と言ってるじゃないか。
お前が言ってるのは、近代的な騎兵隊。 >>376
北京が、かつての長安に代わって世界都市への飛躍を遂げたのは元代 >>377
霹靂砲の頃って未だ火薬の配合比率がイマイチで高速燃焼程度とか読んだ記憶が
火薬詰めた炸裂弾とか燃焼弾を打ち出す兵器で大砲とちょっと違うと >>379
で?前近代的な騎兵と近代的な騎兵の違いは?
>>381
配合比率とか詳しい史料残ってるの?ソースプリーズ
つうか出てくるのが炸裂弾や燃焼弾だから大砲じゃないという理屈はよくわからんな
うんなこと言い始めたら西洋の初期の大砲何て矢を飛ばしてたのに >前近代的な騎兵と近代的な騎兵の違いは?
近代的な騎兵は銃を持ってるし、砲兵隊の援護を受けている。
自動車が登場するのは20世紀なんだから、それまで移動手段として使われたのは当たり前。 ヨーロッパが発展した理由には諸説あるだろうが、
複数国にわかれて戦争し続けたことによって兵器が進歩して、
そのお陰で工業や科学も進歩したところは誰も否定できないところだろう >>384
それはあるでしょうな。
江戸幕府・清・ムガール帝国・オスマン帝国など、鉄砲の威力で国内を平定した国々は、天下泰平の世を実現した。
(まあ、ムガール帝国の崩壊は早かったが)。
なぜかヨーロッパでは、ますます戦争が激化した。 >>382
欧州のアレらって大砲じゃ無いでしょ
南宋のヤツは大砲じゃ無いというか射程が短かったから野戦だとどうなのかなと
火薬配合のソースはちょっと待ってて下さいね どんなものも普及するのは一定以上の性能を持ったあとであり、それまでは贅沢なおもちゃや珍発明としか見られない >>350
そんな古い時代の中国の都市化率のデータは存在しない
はい終了 どっちにしてもポンコツ大砲だろ
中国の火薬兵器っておもちゃレベルのものばっかだよな実際 >>384
技術力が高いから兵器が発展したともいえる
鶏が卵かの話で相乗効果だ 「シナ大王国誌」ゴンサーレス・デ メンドーサ
「およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。
これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。 その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に
優っているならば、容易に全世界を征服することができるであろう、とおもったほどである。」 だいたい都市化率はこんなもんだろ
https://baike.baidu.com/pic/%E5%9F%8E%E5%B8%82%E5%8C%96%E6%B0%B4%E5%B9%B3/7788499/0/a044ad345982b2b7f7de32393badcbef77099b8d?fr=lemma&ct=single#aid=0&pic=a044ad345982b2b7f7de32393badcbef77099b8d
ただ俺が都市化率を上げたのは現代的な意味で分業の指標としてだからな
古代の邑的なものなら都市化率高くてもほとんど農民だから指標として使えない
つまり都市と農村がはっきり分離してくる近世以降から比較しないと使えない指標だ
だから都市化率を上げたのは間違いなんで取り消し >>388
戸籍
はい、論破
はい、ソース。唐の都市化率は20%、宋は22%
https://baike.baidu.com/item/中国城市?展史?集/4360827?fr=aladdin
都市化率なる物に含まれる西欧の都市の大半は人口500〜1000人程度の街に過ぎず
その程度の東アジアじゃ都市とも呼べ無い都市なら宋代中国に約2000弱も在るし
西欧で大都市に分類される様な人口10000以上の都市なら300以上も在った >>389
元末の民衆蜂起じゃ双方共大量の大砲が使用された
図書館か博物館でも行って現実を見ような >>397
けど第一次産品中心のゴミだろ
結局工業力でルネサンスに完敗 >>396
中唐、晩唐に成ると貨幣経済も発展し手工業民、商民も増加した
何せ都市化率20%だからな >>397
中国人が勝手に近世といってるだけで16世紀以降だな
火縄銃や懐中時計も作れない奴らだからな ルネサンスとか人文学の分野の発展で工業力とかそれ以前と変わりないし
教養層以外にとっては何のかかわりもない >>399
清末ですら貿易に於いて中国側の圧倒的な輸出超過
ロクなもん作れ無かったからな そもそも16世紀の時点で中国の火砲は全部西欧式に変わったからね
伝統的な中国の工業力はその程度だわ 中世だとか近世だとか政治や経済体制による分類で火縄銃や懐中時計とか関係ないんだが >>404
宣教師に大砲作ってもらったくせに
ようするに技術力がしょぼい
中国式火器の再現とか見ても安定性全然ないしひどいわ >>401
内藤湖南は日本人な
運天儀も懐中時計も南北朝にわ既に在った
銃も日本と同じく伝わった直後から自前で生産を始めてる、技術自体に限れば大した代物じゃ無い 第一次産品中心で近世とかないわ
やっぱ精巧な機械作らんとな
そうじゃないと単なる自称近世だろ >>404
こいつ経済のこと何もわかってないな
アメリカやカナダは建国以来、ほとんど貿易赤字なんだがこれはろくなものつくれないからか?
どうせ経済収支の見方もわからないんだろ >>407
南蛮砲や紅夷砲はそれ迄の鋳銅製でなく鋳鉄製にするという規格の変更で
宣教師が生産した事なぞ無く初めから明が自前で製造 銃砲に関しては技術力というより、中央が火薬その他の技術を完全な機密情報として封印して、開発もしなかったかららしいけどな。
だから原始的な石火矢から発展しなかったんじゃないかな。
あのもののけ姫の赤ナプキンたちが使ってる銃からね。 >>410
英王国も蘭王国も清との貿易で最後まで大幅赤字
多少は歴史のお勉強しような
>>409
第二次産業品が貿易の主品目という現実を受け容れよう >>414
主な輸出品は陶磁器、鉄製品、紡績品その他な 戦後まもなくまで日本は第一次産業従事者が過半数占めてたんだが
大日本帝国は中世か?まぁあんな失敗国家、古代と呼ぶことすらおこがましいレベルだが すごいミサイルとばしても貧しいソ連と
宇宙開発や戦争の技術が民生品にいかされるアメリカ見たいな話 どっちにしても宋代の技術レベルじゃ近代化は無理だったんだろ 宋はモンゴルを滅ぼすことが出来なかったが
モンゴルは宋を滅ぼすことが出来た まぁ10世紀水準だといい線言ってたんじゃない宋
当時のヨーロッパとか王様ですらモット&ベイリーとか言う掘立て小屋に住んでて町らしい町はなく
司教ですら文字読めないとかざらだし >>424
それが妥当なのにまるで宋代が近代だと変わらんようにいうやつがいるから困るんだよ
ローマ厨と同じ 宋代のヨーロッパにそんなものないが
王様ですら茅葺の掘立て小屋に住んでたのが現実 >>419
なら西欧諸王国の大砲と銃は結局モンゴルに教えて貰った中国式だな >>428
けどその中国式じゃ軍事革命おこらなかったんだよね 軍事革命とかどうでもいいよ
当時、ヨーロッパの最先端いってたポルトガルですら王様のセバスティアン1世みずからモロッコに土人狩りに行って
逆にさらし首にされるぐらいショボい しかも国家歳入の半分を遠征につぎ込んだのに完敗したため火の車と言うおまけつき アジアの大国は全て西欧式の火器にぬり変わられた
画期的なことだな >>425
宋代中国でも機械時計なら作ってるんだよね
>>429
軍事革命なんて無いからな
産業の工業化と政治に因る徴兵制施工 >>432
西欧の紙や羅針盤は全て中国式に塗り替えられた
何せ元来存在しなかったからな 宋代の機械時計って巨大すぎて民生化不可能なやつだろ
ルネサンスがすごいのは技術が一般に広まったところなんだよ
機械もどんどん小型されて扱いやすくなった
宋代はそこに到達してない 宋代のヨーロッパに時計も旋盤もないし、そもそも需要が無い
王様も文字読めず官僚組織もなく経済は自然経済で農奴からの現物貢納で暮らしていたのだから必要ない >>435
紙や羅針盤だけじゃ機械文明にはならないのが中国が証明してるよな 違う時代同士を比較しても意味ない
近世ヨーロッパと大日本帝国比較してすごいすごいしても何の意味もない
比べるなら同時代 五代十国初期で固定
江西省南部にあったカンという山岳の国がスイスポジションで時計を極める >>421
ソ連と対照的なのは中国
雑貨みたいのから積み上げることで今日のような経済大国に だから最初にいった通りだろ
宋代は工業がダメだから近代化できなかった 思えば携帯電話も性能が一定に達するまでは一般人からは縁遠いものだった >>436
オマエって無知なくせに願望に基づいてデマを事実かの如く断言するよな
貿易船に積んでた起重機も機械だし高炉や窯に用いる水力式の鞴も機械、跳ね橋や竜骨車や石臼も機械 >>440
スイスの機械時計はすでに確立した伝統工芸だからこそ価値があるんで
今からそれは無理だろう
今更機械時計なんか作ってもただの時代錯誤
今からブラウン管TVの生産を始めるようなものだ 中国では、技術は開発するものではなく、先進国から導入するものだという意識が根づいている
だから、人件費が上がるにつれて製造業がダメになり、ますます不動産バブルに依存する国になってきた >大日本帝国は中世か?まぁあんな失敗国家、古代と呼ぶことすらおこがましいレベルだが
遠からず、中華人民共和国もそう言われることになるな 「宋までは近代ヨーロッパに匹敵する超先進国だったが、モンゴル人の侵略で国土を荒廃させられたアル」
って、ウリナラ史観の中国版だな
さすがに「大朝鮮」と言われるだけあって、朝鮮人と傾向が似ている 宋の都・開封は、洪水の多い黄河にあるおかげで、土砂に埋もれて跡形もない
その後、北京で現在の中国の基礎を築き上げたのは、明らかにモンゴル帝国
現在の中国は、モンゴル帝国の後継国家 そしてその工業力が高い明代ですら近代化がかなわなかったのに
宋代とか笑わせるわ 薊、燕京から大都に看板架け替えしただけの都市が元代北京
三千年前から殆ど動いて無い
>>456
人間は時代が下るに連れ常に技術を発達させて来たんだよね
平安時代→鎌倉時代や宋→元みたいな粗野未開な政権への交代を除いて かつては、長安からラクダを引いた隊商がシルクロードを往復していたが、
モンゴル帝国の出現により、北京から馬でモンゴル高原に抜けるルートが主流になった。
北京が世界的な商業ネットワークの中心になったのは、そのおかげ。
それまでは単なる辺境で、防衛上の拠点という意味合いが大きかった。 モンゴル帝国が築いた紫禁城が、明清に受け継がれ、中華人民共和国でも人民支配の拠点となっている。
天安門広場の大虐殺は記憶に新しい。 今の中国が始まったのは、モンゴル帝国のとき。
明清や中華人民共和国は、モンゴル帝国を継承した後継国家。 >>458
中華民国から中華人民共和国への交代こそ、最も野蛮な後退だった。 >>459
元代も主力は貿易船に由る南海交易、遊牧民の需要を満たす為の陸上ルート
遼、金、元の様な塞外に本拠を持った王朝にとって何時の時代も北京は重要
オルドスや燕山山脈の南側が乾燥化して以降は特に >>460
天安門広場で死亡者なぞ出て無いにも拘らずデマを垂れ流す無知蒙昧 >>464
もはや、信仰の域に達しとるな
中共にも、まだ支持者はいるんだねえ >>463
確かにそうなんだけど、金や元の頃の北京の商都としての大繁栄ぶりは、後の時代までの語り草 >>465-466
上2枚が何の関係も無い写真だと判明してるし
現地入りしてた取材班もそう証言してるのに
訂正も謝罪もせず捏造ゴリ押しのまま放置なんだよな >>464
中国共産党の公式発表では、「事件による死者は319人」となっている >>469
反逆者が鎮圧されたのわ、天安門広場じゃ無く
米国商務省の金で只飯食ってた連中が暴徒化して
略奪を始めた商店街が主な >>455
プロデュース():モンゴル人
設計:漢民族
製作:漢民族
デザイン:漢民族
資材調達:漢民族
労働者:漢民族
ってとこかね? >>449
いや国境が五代十国の最初らへんで固定さるてたら、っていう話 「天安門大虐殺は無かった」なんて奴が、いまだにいたのかよ
アフォもここまで来ると稀少価値が出てくる >>382
毎度お馴染みの武経総要だった。10巻11巻 結局宋代はローテクな第一産品中心社会だったってことで結論がでたな
天安門の虐殺がなかったとか言ってる中国人の過剰評価がうざすぎ >>477
主な輸出品は工芸品の陶磁器、鉄鋼製品、紡績品や織物
一方の欧州は薬用植物、香料、ワイン、白人奴隷 いつもは互いに戦い、北方民族に対しては会盟で対抗が理想 一次産品の主体のゴミだと世界経済史にのっちゃってるね
中国人さんよ〜 明以下の技術力で近世欧州と比較しようなんてほんとに中国人はずうずうしいな ソース元の名大の出してる世界経済の歴史によると
>>中国の製鉄技術が先進的でヨーロッパより1000年以上前から鉄の鋳造を行いながら、鉄が記念碑などに用いられ、
>>産業向けに鉄が使われることは少なく、ヨーロッパのような鉄の文化は中国では根付かなかった
>>それとは別に貨幣や手形が急速に発達し、銅銭や紙幣が使われた。
>>取扱い商品の中心は、工業品ではなく、農業、林業、水産業などの第一次産品で、
>>農業内部では地租納入向けの生産から市場向け生産への大きな転換がみられた
>>宋では商業活動を支える都市と都市近郊型農業が発達した >>483
日本の大学って低レベルで不誠実だからね
数々の隠蔽、改竄、捏造事件で明らかな様に >>485
そろそろ、スッこんで祖国に帰れよ
煤煙にまみれた大陸の空がお前を待ってるぞ >>483
結局のところ、人口が多いから食料のニーズが多い。
内陸の奥地にまで塩の供給が必要。
・・・というような理由で商業ネットワークが発達し、貨幣経済が進展した。
それだけの話。近代工業など、中国から出てくるはずもなかった。 >>486
実際問題、冗談かと思うような改竄紛いの引用や作文が溢れてる日本の史学 、内藤湖南という人物
1866−1934 ・教師・ジャーナリスト・学者
二十年ごとに一区分
雄大かつ独創的な東洋史の体系を作り上げた:
中国史四部作 (『支那上古史』、『中国中古の文化』、『中国近世史』、『清朝 史通論』)
時局論:『支那論』(1914年)、『新支那論』(1924)など
世界的にも有力な時代区分:「唐宋変革、宋代近世」説
議論の大きな特徴:歴史論と時局論の融合 基本認識:清朝の崩壊と共和制の成立を必然の趨勢と見なし、 宋以後の平民台頭の趨勢の上に革命後の共和制を位置づけ、 その共和制は伝統的な地方自治団体「郷団組織」によって担わ れるべきだ。
いくつかの根拠
@中央に対する地方の関係の特徴
「求心力」(兵力、財政経済、思想)の崩壊
「遠心力」(民衆の力量の伸張、地方自治組織の発 達 )の発展
➡共和制中国の建設の基礎 は「郷団自治」の力 A「地方分権」と「政治上の徳義」
中国時局に対する期待:「共和政治」の実現と、「中央集権」 への反対。
清朝の弱さの原因は、国家の危機に対して官僚が無責任、 民衆が無関心であることにあり、それらはいずれも君主への 権力集権化の必然的所産。
B「聯邦制」論
当時の輿論・・・積極干渉論、仲裁講和論、南北対立論・・・ 湖南:武力統一反対、不干渉静観論を唱える
革命の大勢として中央集権的共和国に決着が付くが、 理想像としては、中国社会の単位としての小さな「郷団」を国 家体制の基盤に配置し、
「郷団自治」を中核とする共同体組 織を生かした上での「一種の変形した聯邦制度」を」提唱。 三、「近世」への視座ーー辛亥革命に つながる「唐宋変革」論
「上古―中世―近世」の時代区分の図式:
第一期 開闢より後漢の中頃まで……上古 第一過渡期 後漢の後半より西晋まで
第二期 五胡十六国より唐の中世まで……中世 第二過渡期 唐末より五代まで
第三期 宋元時代……近世前期
第四期 明清時代……近世後期 内藤の東洋史観に着目し、彼の歴史認識に焦点を当ててみると、2つの主張を展開していることが分かる。ひとつは「文化中心移動説」、ひとつは時代区分論を展開する「唐宋変革説」である。
前者は、ある時代、ある地域に形成される文化・文明は当時の時代の趨勢や土地の高低、山・川の配置により育まれていくものであるが、それは永遠に不変のものではなく、発展・変遷し、進化するものであるという説である。
たとえば、中国文明は全土を九等分して九州と呼んだ時代の冀州、豫州に起源し、そこから洛陽を中心とする初期文明が形成された。
しかしながら、戦国末になると、洛陽はその活力が衰え、前漢の後は長安文明がこれに代わって栄え、中国史における有名な長安の繁栄を迎えるのである。
だが、長続きはしない。唐朝の衰えとともに長安の地の風格や気品も影を潜め、中国文明の中心は燕京(北京)に移っていく。
ただ、燕京は、これまでの文化の中心地洛陽、長安とは少し様相を異にしていた。
燕京は東北の地の利を生かし形成された政治の中心地であり、
文化の中心は、長安(西安)が衰退後は徐々に六大古都のひとつである南京を中心とする長江の南岸地域、江南に移っていったのである。
江南は宋以降、中国の文化・文明の先進地となり、政治の中心は北、文化の中心は南という2つの勢力が確立された。
内藤はこう予言している。「東洋の文化の発展においては、時にその民族や国境を越え、ひとつの“東洋文化圏”を形成する。
今後、中国文化の中心は日本に移り、日本が中国文化の復興を実現するだろう。これこそ近代日本国家の使命である」と。 内藤湖南の「唐宋変革論」は中国史を時代区分の考え方で論じる説であり、この説は日中双方の中国史の研究に深い影響を与えた。
彼が導き出した答えは“宋代”であった。宋代以降の近世は誤った考え方が横行しており、中国が未来に前進するためには、貴族の支配下から解放され、
これまでの形式重視から自由な発想を重んじる文化へ移行しなければいけないと気付いたのである。
だからこそ、この宋代近世説の考え方は、同時期の世界各地に比べはるかに先進的で、高度に発達した輝かしい文明を有していたのである。
これは今から一千年近く前の中国であり、まさにこの早熟すぎた文明のために、現在の政治腐敗、経済的貧弱を誘発し、出口を求めて奔走する中国、これこそが今の中国なのである。 宋代社会については宮崎市定の見解が最もしっくり来る
もちろん内藤湖南が師だから内藤説をふまえてる 「International Industrialization Levels from 1750 to 1980」
世界各国の工業生産比の推移
1750年 1800年 1830年 1860年 1880年 1900年 1913年
アメリカ 0.1% 0.8% 2.4% 7.2% 14.7% 23.6% 32.0%
ロシア 5.0% 5.6% 5.6% 7.0% 7.6% 8.8% 8.2%
イギリス 1.9% 4.3% 9.5% 19.9% 22.9% 18.5% 13.6%
フランス 4.0% 4.2% 5.2% 7.9% 7.8% 6.8% 6.1%
ドイツ 2.9% 3.5% 3.5% 4.9% 8.5% 13.2% 14.8%
イタリア 2.4% 2.5% 2.3% 2.5% 2.5% 2.5% 2.4%
日本 3.8% 3.5% 2.8% 2.6% 2.4% 2.4% 2.7%
中国 32.8% 33.3% 29.8% 19.7% 12.5% 6.2% 3.6%
日本が低いのは想像通りなのだけどフランスとイタリアも想像以上に低いな
中国はやはり太平天国の乱と八か国連合軍による植民地化のダメージがデカいっぽい そういや明の時代は日本と中国は文明度に大分差があったとおもうけど、
それは江戸時代に逆転したという理解でいいの >>496
読めないぞ
手抜きせずにちゃんと整形しろよ
1750年 1800年 1830年 1860年 1880年 1900年 1913年
アメリカ 0.1% 0.8% 2.4% 7.2% 14.7% 23.6% 32.0%
ロシア 5.0% 5.6% 5.6% 7.0% 7.6% 8.8% 8.2%
イギリス 1.9% 4.3% 9.5% 19.9% 22.9% 18.5% 13.6%
フランス 4.0% 4.2% 5.2% 7.9% 7.8% 6.8% 6.1%
ドイツ 2.9% 3.5% 3.5% 4.9% 8.5% 13.2% 14.8%
イタリア 2.4% 2.5% 2.3% 2.5% 2.5% 2.5% 2.4%
日本 3.8% 3.5% 2.8% 2.6% 2.4% 2.4% 2.7%
中国 32.8% 33.3% 29.8% 19.7% 12.5% 6.2% 3.6% インド 1750 24.5
前近代だと単なる人口の指標にしかなってない 人口が増えたのも関わらず明治は江戸時代以下の水準に落ち込んでいるので
明治維新は過大評価だな 中国の人口 1750年 25900万 インド 18100万 UK 930万 フランス 2470万 日本2900万
日本は1820年の推計だとGDPでも一人当たりで中国抜いてる それにこの指標みても技術格差はわからん
1人当たり生産性が中国より高かった1750年のインドはすでにイギリス・フランスに太刀打ちできなくなってる 18世紀のムガール帝国とかアウラングゼーブ以後はニザーム、アワド、ベンガルが独立
マラーター同盟に首都が包囲されたり、イランやアフガンまで侵入してくる始末で
イギリス、フランスと戦ってる余裕はないが 18世紀だと、清はまだ雍正・乾隆の極盛期
オスマン帝国は、だいぶ衰退してはいたが健在
ムガール帝国は、一足お先に崩壊していた >>505
そういう基準でいうとヨーロッパは常に分裂内戦中になるし、まありあてにならない いや戦ってるだろ
ベンガル軍40000対イギリス人1000インド傭兵7000で負けてる >>500
それ、単に願望だよね
>>496の図表は相当疑問有るけど
>>503
18世紀中葉のムガル帝国は既に幕末や晩唐末みたいな有様 >>506
ヨーロッパなんて国なぞ無い
願望と現実の区別を付けろよ どっちにしても中国18世紀だと一人当たりだとインド以下だな >>507
それインドVSインド&イギリスの戦いであってインドVSイギリスじゃないよね >>510
数字的にわ人口爆発で急激に零細農民増えたからね、あと
大清帝国は色々時代逆行してるのと
明も糞みたいな財政制度が祟って中期以降金が無く非民生分野が停滞してたから >>511
イギリス人の資本で雇ったイギリス式軍隊のイギリス軍だろ
だからベンガルはイギリス領になるんだよ
ちなみに同時期清はビルマ遠征大失敗だな >>514
解説してやったのに言い訳乙とか意味不明過ぎだろ フライング・タイガースも中国資本で動いてるんだから中国軍な
よって中国空軍>>>>>>>>>>日本帝国の空軍 まあ実際はやってみないと分からんよ
日本はロシアと清とイギリス艦隊に勝ってアメリカに負けて、中華民国中華人民共和国ソ連には負けたと思って無いもの 普通に王朝崩壊後の内戦で弱体化してた中国に負けたんだけどな大日本帝国は
兵士と兵器の損失を重ね開戦数年で兵士の4割が傷病死で戦闘不能
兵器の6割が毀損、補充も乏しく更に無理を重ねるハメに アメリカには負けたけど他には負けてないとか思ってるうちは完全な完敗だよな。
外交が下手くそだと何をどうやっても負け組になってしまう典型だよ。 燕が河北を統一できたらこの状態をもっと長く続けれたんじゃないかと >>522
海岸に並ぶ沿海部の諸省 (河北省・山東省・江蘇省・浙江省・福建省・広東省)が、
すべて別の国に分かれているというのが最大の特徴だろう。
後は、内陸部の大国・四川省と湖北省が独立。 沿海部には、経済の発達した有力な省がズラリと並んでおり、どの省も独立国として十分にやっていける実力がある。
内陸部は、天府と称される四川盆地に位置する四川省を別格とすれば、十把ひとからげ。 福建省は、ほかの沿海部の諸省と比べたら小国だけど、それでも韓国程度の国力は十分にある。
他は、どれが独立したとしても、中国と日本に次ぐ東アジアで三番目の大国になるだろう(笑)。 隋唐の時代にも、江南の経済力の台頭は明らかだったが、まだ華北を圧倒するには至っていなかった。
いよいよ本格的に南が伸びてくるのは、五代の分裂がキッカケとも考えられている。
独立して初めて、これらの国々は真価を発揮した。 経済が発達してるからというより
山脈と河川だらけで分断されてるからでしょ江南と嶺南は、日本の分立傾向と同じ 日本・インド・中東・欧州とも、中世は地方の諸侯が分立するバラバラな状況になっていくんだけど、
中国は宋が再統一したおかげで、その流れが一応は食い止められた。
再統一といっても、「史上最弱の統一王朝」だったが。 宋よりも、普段対立してる国が会盟で北方民族と戦うほうがよい
「東洋と西洋を含めて20本の指に入る強国の内の10国が同盟を結んだんじゃからの。 しかもライバル同士が手を組んだんじゃ。そりゃ最強に決まっとるわい」 >>520
朝鮮戦争のときのアメリカ軍の関係者が、中国と長いこと戦ってきた日本軍の関係者を呼んで意見を聴取したところ、
彼らが一様に中国をバカにしきっており、「中国軍はまるで無力だ。敵ではない」と異口同音に語ったと証言している。 >宋よりも、普段対立してる国が会盟で北方民族と戦うほうがよい
ていうか、五代も宋も、みんな北方民族だよ。
古代の春秋の世とは時代が違う。 >>531
当に馬鹿だな、無能の極み。兵卒しか務まら無いレベルの 日中戦争の頃の中国は、統制不能でバラバラな無政府状態の国だった。
本当に、極めて無力だった。
でも朝鮮戦争の頃には、毛沢東の独裁権力が絶頂で、まったく状況が変わっていた。
このため、アメリカ軍は、「日本軍の意見を聞いたおかげで、中国軍の戦闘力を過少評価してしまった」
と悔やんだと言われている。 やはり、中国には強力な中央権力が不可欠ということか 態々敵の築いた要塞や防衛施設を設けた都市を強攻して無駄に兵士と兵器を失うとかゲームやってんじゃ無いんだから 本当にバカなのはそこじゃ無いよ
共産主義を甘く見て百年この世界情勢に固定化してしまったこと >>520
日華平和条約は失効したので中国は戦勝国ではない (コピペ)
唐中葉までには、小麦作が普及した。
すると、秋の稲・アワ・キビの収穫に加え、夏には小麦が得られることになる。
安史の乱後の財政破綻に対応して、この双方を税として徴収する両税法が、楊炎の提言によって始まった。
この政策の意義は、単に課税対象と時期の変更だけではなかった。農民に対して、古来、一律平等に課すのが原則だった税を、農民の土地保有や財産の額に応じて取り立てる戸等制が採用されたのである。
これは、「国家」が、「国民」の中に「貧富の差」の存在を認める、という一大転換であった。
以後、農民の貧富の差は、一層拡大したと言われている。 唐代における「胡食」の普及
唐代に流行したイラン系の西方文化は,おもに
「胡人」つまりイラン系ソグド商業民によってもたらされたので,当時は「胡風」とよばれた。
人々 は「胡帽」や「胡服」を愛用し,宮廷でも「胡曲」しょう が流行した。
「胡瓜」 胡麻 胡椒」などの「胡」 も,それが中国原産ではなく西方に由来する物産 であることを示す。
李白や白居易らの唐詩も,各地の飲食店で接客にあたる「胡姫」=ソグド人ホステスや,
彼女らが披露する「胡旋舞」=ソグド 流回転舞踊を,憧憬や驚嘆とともに描写している。 唐の中期からの巨大な社会変動の要因として、「小麦」も無視できない。
ペルシャから伝来した粉食文化は、華北の食文化を一変させた。
小麦二毛作の普及は、税制をも変えた。 粉食文化じゃない、パン食文化
粉食はもっと前からある(西域から伝来したことに変わりはないが) 小麦は、漢代に張騫が西域から持ち帰ったとされているが、本格的に普及したのは唐代だった。
小麦は、栽培するのに大量の水が必要となる。
もちろん、稲と比べたらそれほどでもないが、
それまで主流だった粟などよりは、ずっと多くの水を必要とする。
だから、灌漑施設が未発達な古代には、なかなか普及しなかった。
技術進歩もさることながら、長安でイラン風のパン食が流行したのが、普及の最大の理由と言われている。 >>524
山東半島が「斉」とかになってればよかったのにな まあ、春秋戦国時代と違って黄河が涸れかかってるので、
華北は、荒涼とした平坦な土地が広がってるだけだからな。
国境を画する決め手に欠ける。 >>548
山東半島に独立国は戦国時代より後は見ないと思ったがそのためか 斉も、山東半島の国とは言えないけどね
半島も領土に入ってるとはいえ、あくまで大陸部の国
宮城谷昌光の「晏子」の前半は、斉の晏弱が半島を征服する話だった 山東半島や遼東半島は、独立して半島国家になるほどの大きさではない
朝鮮半島にして、やっと半独立の従属国 朝鮮韓半島は広さ十分だけど東亜の中でも可住地というか可耕地が狭過ぎて >>540>>542>>544-546
小麦がそれ迄の粟黍稗等に代わり北方の主食に成ったのが前後漢の頃
水車の石臼は後漢代に始まり普及したのが西晋〜北魏の頃。饅頭とか麺類が主な食べ方 古代華北の主食は、アワ、キビ、オオムギなどの雑穀であった。
アワとキビが良質の穀物であり、粒状で食べられた。
小麦は漢時代(前3〜後3世紀)の126年に、張騫(ちょうけん)が西域から製粉用の石臼と共に伝えた。
だがこの時点には、小麦粉は効率的に作れなかった。
小麦の栽培は華北の土地に合い、三国時代(3〜5世紀)には小麦の粉食は中原に定着し、以後華北は小麦粉食圏となった。
唐時代(7〜10世紀)より少し前、水車を利用した「テンガイ」の発明により小麦粉が安価で大量に出回り、粉物文化が根付いていった。
しかし、中国では小麦粉をパンとして焼かず、生地を蒸すか茹でて調理した。最も代表的な食品は饅頭(マントウ)である。 まあ、「張騫が石臼とともに西域から伝えた」というのはマユツバな伝説で、もっと前からあった可能性が高い。
でも、唐より以前には、小麦粉はかなりの贅沢品だったんじゃないのかな?
水車がない時代に人力で製粉するのは効率が悪く、大量に作れたとは思えない。 「夏と秋の2回に分けて徴収する両税法」が唐で導入されたのも、
冬小麦と春小麦の二毛作がこの時期に普及したことの表れ (コピペ)
>田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
>780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。 租庸調制の時代には、粟で租税を納めていた。
このことからしても、唐の前期においては、粟が主要作物だったことが分かる。
それに対して、両税法では、夏は麦、秋は粟で納税することになった。
金銭での納税も始まった。
これを見れば、唐代に冬小麦の生産が広まったことが分かる。
でも、まだ粟の存在感は大きかった。
金納が当たり前になる宋に比べて、まだ貨幣経済も中途半端だった。 粟っていったら、小鳥の餌箱に入っている小さな粒の穀物だ。
小鳥にとっては大好物だけど、人間にとっては不味い。
唐の庶民は、黄土高原に穴を掘って地下で生活し、小鳥のエサみたいなものを食べていた。 しかし、かつては高価だった小麦粉が安くなり、次第にマントウや麺類が普及してきた。
宋代には、当たり前の存在になった。
昔、「アルプスの少女ハイジ」というアニメでは、金持ちが柔らかい白パンを食べ、貧乏人が固い黒パンを食べていた。
黒パンは、よほど歯が丈夫な人じゃないと食べられないようなシロモノだった。
近代ヨーロッパというのは、そういうところだった。
それに比べて、宋の小麦粉の質は高かった。
この点に関しては、近代ヨーロッパを上回っていたと言われている。 >>551
山東半島にあったのは異民族の莱って国だな >>555-556
石臼は夏王朝の頃既に有り西域から導入されたのわ隴西で用いられて居た水車式の石臼
小麦の中国伝入は殷代の頃だけど>>545に在る通り灌漑が未発達で広まらず
水車に由る石臼は後漢代に一部で用いられ始め西晋北魏の頃に普及したが
黄河の水量はそれ程でも無いので広まったのわ主に米食の江南、華北は主に畜力 >>557-561
>>554は小麦じゃ無く大麦小麦蕎麦
南北朝→唐代で農具が改良されて大麦が減り小麦と蕎麦が増えた
小麦の加工は水車が普及しても畜力が主、小麦粉が高価なんて事実も無い >>563-564
なるほど、そういうことだったか。 >1
領土的には唐
文化的には宋がクライマックスだったな
それ以降は差別されたり鎖国したり変な髪型にされたり混乱したり文化失ったり猿真似しかできなくなったり
まだ中華が滅びないのが不思議なくらい 中華式の髷や玉すだれの冠は威厳があるのに、
辮髪は滑稽にしか見えないからなぁ 明は行政制度と政治体制が色々酷いのがなあ
技術面でも途中でパタッと止まるし /;;;;;;;;;;;;;\
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| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ、
呼んだ? 唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。
その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。
その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋太祖の趙匡胤である。
世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳の若さで急死。
あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。
このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。
体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。
まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。
翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。
これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。
後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。
真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国四年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。
また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。
五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。
宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている。 >>569
今の中国も、政府が民間の枷になっている 「歴史は繰り返す」とよく言われるけど、魏晋南北朝時代の終わりには北周の武帝、五代十国時代の終わりには後周の世宗と、英邁な君主が現れて、統一目前にして早死にした。
それぞれ後を継いだのは、隋の楊堅、宋の趙匡胤。どちらも、早死にした前皇帝の重臣だった。
宮崎市定によると、「後周の世宗が織田信長で、趙匡胤が豊臣秀吉で、趙匡義が徳川家康」なんだそうな。 宮崎市定先生の論旨を至極大ざっぱにまとめると、欧州史に比して、宋以前の唐は門下省で貴族が力を持っていた中世とし、
宋代以降の皇帝独裁を絶対王政に見立て、近世とする。
また宋代は民間でも欧州の郷紳に比定されるべき、貴族ではない在地勢力である形勢戸が生まれた。
欧州との違いは郷紳は国王の抵抗勢力となったが、中国では科挙を通じて体制の中に組み込まれたので、市民革命は起きなかった。
・・・って感じです。
補足について
論文なら、東洋的近世
概説なら、アジア史概説
共に宮崎市定先生の著作です。 唐が滅亡してからの約50年間の分裂時代を五代十国時代といいます。
華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代します。これを五代という。
後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5つ。
それ以外の地域に合計10ほどの独立政権が成立。
この時代のほとんどの政権が、節度使の自立したものです。
各政権の皇帝や王はみな軍人出身です。戦乱の絶えない時代です。
均田制が崩壊したあとの社会の仕組みに釣り合う政治の仕組みが作り出される過渡期です。
その過渡期の混乱。 唐の後半は、統一王朝といっても事実上、節度使による軍閥割拠状態。
節度使というのは、スケールは違うけど、日本の室町時代の守護大名みたいな感じ。
日本でも、やがて室町幕府が崩壊して、そのまま戦国時代に突入していったように、
唐の節度使もやがて自立して皇帝となり、五代の混乱期に突入した。
戦国を統一した徳川家康が、必死で各地の大名の力を削ったように、五代十国を統一した
宋の趙匡胤・趙匡義の兄弟も、節度使の力を削り、皇帝独裁の官僚国家を実現した。
軍人の力を弱くしすぎたおかげで、宋は「史上最弱の統一王朝」になってしまった。 新しい時代の担い手は新興地主層です。これを形勢戸(けいせいこ)という。
後漢以来の豪族と何が違うかというと、豪族は南北朝から隋唐までずっとつづいて貴族階級になっていきますが、形勢戸は同じ家がずっと地主としてつづきません。
自作農から地主に成長する家もあれば、没落する家もあって同じ家が存続しない。だから形勢戸は貴族階級にはなっていきません。
形勢戸という言葉には「成り上がり」という意味があるのです。
また、形勢戸の大土地所有は一円的所有ではない。一円的というのは一つの地域を丸ごと持っていることをいう。
豪族は一円的土地所有だから、そこで働く農民は豪族に隷属していきます。そして、豪族は貴族化していったのです。
しかし、形勢戸はたくさんの土地を持っているのですが、あちこちに分散している。
全体を合計すれば大きな土地になるのですが、一つひとつの土地は小さい。
小作農の立場からすると、何人もの形勢戸から土地を借りている。
だから、一人の形勢戸に隷属するような関係にはなりにくい。
したがって、形勢戸は身分的にも貴族化していきません。
黄巣の乱で南北朝以来の貴族階級が全滅させられて以降、ずっと中国では貴族階級は登場しないのです。
すべて人民は、同じ身分。
日本で貴族が無くなったのが第二次世界大戦後、20世紀の出来事です。
中国では10世紀にはすでに貴族が消滅している。
こういう面で中国はものすごく進んでいる社会です。 宮崎市定の研究姿勢は内藤湖南の提唱した唐宋変革論を受け継ぎ、社会経済史の立場に加え、
西アジアやヨーロッパとの交流の影響及び比較の上に立って、唐以前を中世・宋以後を近世と設定し、
さらにそれを裏付けるために宋代に於ける政治・制度・社会・経済などの研究から始まった。 宮崎市定 「中国史」
内藤湖南・桑原隲蔵以来の京都東洋史学の学風を継承、発展させた宮崎市定(1901‐1995)。
本書は唐と宋の間に明確な時代の変革を見る独自の理論に基づいた通史で、文章は平易で論旨は明確である。
上巻では歴史とは何かを問い、主な時代区分論を紹介し、古代から最近世までそれぞれの特徴を述べて、夏殷周から唐五代に至る歴史を概観する。(全2冊) >>572
習近平と李克強が、先頭に立って経済発展をリードしている 一応実力登用の科挙+法に由る皇帝独裁と血統に因る世襲の封建貴族制って、油と水じゃね
日本じゃ国会議員に続いて国立大学や中央姦庁迄
極めて時代錯誤で反動的な身分枠復活させてるし イギリスは今だに貴族がいるし日本だって明治期に華族がいたけど
別に遅れてない まあ、政治家の息子が政治家になるのは、日本だけでなく、アメリカも中国もみんなそうだけどな
なかなか、一般人がなるには難しい職業なので仕方ない >古典丸暗記が実力なのか?
中国は地域によって言葉がバラバラなので、官僚には文書用言語としての古典漢文を母国語なみに扱える必要があった
内容よりも、本当に大事なのはそこ 宋では、形勢戸も科挙官僚も一定の家柄が続いたわけでなく、変動が早かったのは事実
そこが、地方の豪族が封建領主と化していた漢や、長安の貴族が全国支配してた唐との違い >>582
英国も牢固な階級社会だけど日本国と違って貴族に政治行政の実権も社会上の特恵措置も無いしな >>583
古典暗記が最低線、先ず最低線の足切りで文官として無能な輩が弾かれる でも、論文より詩歌が優先される社会だからな・・・
科挙ですらそんな有様だ。 事務官は基礎教養のみで
技官に至っては採用基準自体無いしな
まあ役人としては抱えずに
戦争や建設・測量の度に民から徴発してたんだろうけど 技官は中国人の伝統なのか常に待遇悪いよね、宋でも扱い良くは無いし明清なんて何それ待遇だし 千葉大医学部生が昨年9月、集団レイプ事件を起こしたが、今度は現役医師主導の強姦事件が発覚した。
泥酔した10代少女を暴行した強姦の疑いで16日までに愛知県警に逮捕されたのは愛知県立城山病院医師 高木宏 だ。
昨年4月30日〜5月1日にかけ、愛知・名古屋市内の高木容疑者が賃貸契約していたヤリ部屋で、10代後半だった少女2人に酒を飲ませ、暴行した疑い。
事件を首謀した高木容疑者は、過去に4回も準強姦容疑での逮捕歴があった。その手口はいずれも自分の部屋で合コンなどの名目で飲み会を開き、参加した女性に酒を飲ませて暴行していた。
昨年7月は泥酔状態の20代女性に性的暴行を加えたとして準強姦容疑で逮捕(処分保留)。その後、9月にも別の20代女性を強姦した疑いで再逮捕されていた。
驚くのは短期間に何度も逮捕されているのに、病院側が何の処分もしていなかったことだ。
ある現役医師は「昔からレイプが発覚して病院をクビになる医師はいるが、数年たつとみな別のところに移って何事もなかったかのように勤務していますよ」と明かす。
高木容疑者は過去の事件では不起訴処分になっているとみられるが、医師免許さえあればお構いなしとはあきれる。どうやらロクに“身体検査”をしない病院が少なくないようだ。
高木容疑者が過去に逮捕された時には、女性を乱暴する動画が収められたケータイも押収されている。千葉大のレイプ事件でも被害女性を撮影し、仲間内でLINEで共有するという鬼畜行為に及んでいた。
こんな性犯罪者を野放しにして患者を診察させていた病院の罪は重い。
高木宏のご尊顔
http://dl1.getuploader.com/g/takagihiroshi/1/5bphn8f.jpg
http://i.imgur.com/epBzGFK.jpg
愛知県立城山病院
電話:052-763-1511 武官軽視は、節度使の軍閥割拠を防ぐために力を削いだわけだが、技官軽視は儒教の伝統だな 洗衣院(せんいいん、またの名を浣衣院)は、金王朝における官設の妓院である。
『靖康稗史証』の記載によると、靖康の変(1126年)の後、
宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女、女官、宮女、
さらに官吏や平民に至るまでの多数の女性が、遠く金に連行された。
一部は現地で洗衣院に入れられて、性的奉仕を強要された。
複数の幼い皇女たちも洗衣院で育てられ、成長後に金国人の妻妾、あるいは洗衣院の娼婦となった。 金にやぶれた南宋の悲惨な運命は、中国史上でも屈指の悲劇。
時代劇でも「金と戦う武芸者」というのが非常に多くて、元を上回っている。 今の中華人民共和国は、遼・金・元からの流れをくむ後継国家だ。
中国に関する歴史談義で、金が語られる度合いは宋の一割もない。
ほんの数パーセントくらいの扱いだが、それはおかしい。
本当は、唐から金への王朝交代こそが最大の変革。 まあ、南宋の扱いも、そんなに大きいとは言えないが。
金と南宋を足しても、北宋の半分も関心を持たれてない気がする。 >>597
短命だったり武力で滅ぼされたりで史料がとっ散らかってるからでしょ
日本だって史料に乏しい北条時代わ元寇位しか一般に語られ無いし 元の治世下、北宋・南宋の断代史が編纂されたのだが、これが無駄に長い。
唐(290年間) 旧唐書300巻、新唐書225巻
五代(54年間) 旧五代史150巻、新五代史74巻
北宋・南宋(320年間) 宋史496巻
遼(210年間) 遼史115巻
金(210年間) 金史135巻
大元(98年間) 元史210巻
また、北宋の途中までを書いた未完の編年史である続資治通鑑長編、それだけで520巻(!)
なお、
資治通鑑 294巻(三晋分立〜五代)
続資治通鑑 220巻(宋、遼、金、大元)
明通鑑 100巻(大明) >>600
史料が混乱してるのは事実かもしれないが、乏しいってことはないはず。
印刷術が発明されて紙の生産量も増え、儒教の復活で歴史意識も高まったため、記録が大幅に増えた。 開封はもともと洪水が多い上に、金に破壊されてしまった。
このため、宋の時代の開封は地下に埋もれてしまっている。
「世界の最先進国」と言われるほど文明が進んでいた割には、あまり痕跡が残っていない。 唐の長安も、大雁塔などの一部の建築を残すのみで、あまり往時の痕跡をとどめていない。
唐代は、絵もあまり多くは残さなかった。
このため、唐の王朝貴族がどういう屋敷に住んでいたかは、推測するしかない。
この点、京都の公家が、平安貴族の伝統を幕末まで継承していた日本とは大きく異なる。
敦煌の壁画が、唐を舞台にした時代劇のお手本になっている。
しかし、敦煌は「西域の玄関」だけに、どこまで当時の中華文明を忠実に描写しているかは分からない。 中国人や朝鮮人が、京都や奈良にきて、「ここには唐の文化が残ってるアル」とか、
「これは新羅と百済から伝わった文化ニダ」とやたら言いたがるのは、それによって
自分たちの優位性を主張したいからという面ももちろんあるのだが、それ以上に、
失われた自分たちの古いアイデンティティを、そこに求めているからだと思われる。
実際のところ、唐も、新羅や百済も、痕跡をとどめるのみ。
当時の文化はほとんど残っていない。 実際のところ、日本がほんとうに中国のコピーに徹していたのは飛鳥時代や奈良時代のことで、
平安時代になると、だいぶ変わってきている。
唐朝と平安朝の文化は、言うほど似ていない。 >>607
けど漢語や中国の古典の知識は後生になるほど広まっている つうか今の京都の町屋は幕末から明治にかけてのもので奈良時代の物なんてないが
16世紀の洛中洛外図見ても大名の屋敷ですら掘っ建て小屋に毛が生えたレベルで到底当時の中国や朝鮮の帰属の豪邸とは比較できない
寝殿造りも中国でいえば宋代に描かれた絵巻物から推定したもので奈良時代の住居何て完全想像 >>540-546
>唐代における「胡食」の普及
唐時代にはインドから砂糖の製造技術をパクった 日本では宗教建築と世俗建築ではまったく建築様式が違うのだが中国では両者はほぼ一緒
というのも東アジアの宗教建築は魏晋南北朝時代、持ち主がいなくなった貴族の邸宅を、そのまま寺院に転用したものが始まりだから 日本最古の絵巻物は源氏物語絵巻なんだが成立年は1140年頃で中国で言うと南宋初期だな >>609
そりゃ当たり前だろ。
平安時代と江戸時代では、書物の量が違いすぎる。
杉田玄白は、街の本屋でオランダの医学原書を購入した。 鮮卑王朝は、インド文化ペルシャ文化にかぶれ過ぎることもあれば排除しすぎることもあった >>609
それは、ここで吠えるより、中国人観光客に言ってやれ。
日本の文化をありがたがってるのは、お前の同胞たちだ(笑) >>611
そいやモンゴルやチベットや東南アジアって仏教寺院だけ現地らしくなく中国風に近い屋根瓦ゴテゴテ建築だよなあ >>614
日本人は「大陸から文化が伝わった」という話を好むけど、中国人はインドやペルシャから受けた絶大な影響を語りたがらない。
ひとつには、それだけ昔のことが分からないから。
最も国際的で西域的だった唐の文化が、あまりにも残っていない。 日本が中国のものを受容すると必ず日本ナイズされるというかスケールダウンする 「天地明察」の徳川光國は
自宅にまんま中華趣味広がってて違和感バリバリだった
信長の赤・黒・金の絢爛安土城は焼失するし
黄金趣味の豊臣政権は消滅するし
日本の風土が中華的ゴテゴテを拒否してる感じがする 長安は、周囲がほぼ砂漠だからな。
自然環境が貧弱だと、せめて人工物くらいはキンキラキンに飾りたくなるようだ。 >>603
金、南宋は公文書公記録があんま整理されて無い
>>607
江戸初期迄大掛かりな建築物建てる時わ中国人大工を顧問として呼んでたよね
>>610
砂糖の製造は東晋北魏の頃に始まった、水飴なら戦国時代から既に有る >>618
そんな事実が無いからな
宋は唐より時代が近い事と建築技術が大きく発展したお陰か建築物が大分残ってる
>>619
簡単な話で未だ当時の日本じゃ技術的な問題から染料が高価だったので
煌びやかな装飾は貴族だろうと身の丈に合わ無かったというだけ >>623
関中は結構降水量が有って砂漠から程遠いし
北方の河套地域も未だ今みたく乾燥化する前 >>627
たしかに砂漠ではないが、かなり荒涼とした地域
かろうじて農業生産が可能という程度 五代から北宋にかけて開封は運河の起点として栄えたが、モンゴル帝国が北京と江南を大運河で
結んだため、商業ネットワークの中心は北京に移った。
それ以来、開封は衰退し、明代の大洪水で土砂に埋もれた。 >>625
>江戸初期迄大掛かりな建築物建てる時わ中国人大工を顧問として呼んでたよね
呼んでねえよw 春に花粉症で困っていたところ、知り合いの上海人から「中国に行けば、花粉症はすぐ治ります。
木が生えてないから、花粉もありません」と言われた。
日本は木の文化なので、大陸とは建築に対する基本コンセプトが異なる。
日本人は、木目をそのまま残して彩色しないことが多い。 >>623 >>628
周から隋唐まで長安に都が置かれたのはこれを支えるだけの
農業生産があったからなわけだが。
>>629
汴州の繁栄は唐代からですよ。
朱全忠が天下を取れたのはここの節度使になって無限の財力を得たから。 >>631
杉花粉症は無いかもしらんが黄砂による塵肺が・・・
>日本人は、木目をそのまま残して彩色しない
新築の時は彩色し、その後色が落ちても再度の彩色をしないだけ >周から隋唐まで長安に都が置かれたのはこれを支えるだけの
農業生産があったからなわけだが。
秦漢までは確かにそうだけど、隋唐の頃の長安は、江南から運河で運んだ食糧で成り立ってた。 >新築の時は彩色し、その後色が落ちても再度の彩色をしないだけ
それは、わざとそうしている。
庭も、苔が生えたときのことまで計算して作られている。 中国も、金ピカ趣味だったのは唐の王朝貴族の頃の話で、宋では典雅で上品な青磁・白磁や文人画が主流になったように思う。
ペルシャやアラビアでは中国の陶磁器を盛んに輸入していたが、彼らの金ピカ趣味からすると地味すぎたせいか、注ぎ口を金箔で覆ったりしていた。 実際のところ、江南は中国の中でも緑豊かというイメージがあるけど、日本の風景を見慣れた目からすると、上海の郊外あたりでもちょっと・・・。 韓国も、釜山からソウルまで電車で移動した人によると、「赤茶けた大地が広がっている」という話だった。 北京や上海から日本に来た人達の感想は、「緑が豊かで、空気がきれいで、静かで、古い建物が多くて、ノンビリしていていいね」という調子。
だんだん、「都会から田舎に来た人」の感想になってきているのは否めないが・・・(笑) 同じ温暖湿潤でも
大陸と島嶼には植生に差が出るのか
単に先人達の植生管理の差か
日本人が朝鮮のハゲ山を緑化してやったのは最近の史観見直しの中で知られてるけど >>631>>635
中国は木と竹の文化、南部は特にそうだし北部も
まあ長年の人間活動で大分木材枯渇しちゃったからアレだけど
東国は公方や守護も日常は焼き魚とかおひたしとか常食してたし
素材を活かした物が好きと言えなくも無いわな、痩せ我慢とも言えるが >>640
降水量が大分違う
植生区分でも中国の大半は広葉樹林帯じゃ無いし >639
向こうは「オイあんた!」って自分の権利主張しなきゃ生活してけないけど
こっちは「すみません」で大概の事が通せる気楽さはあるかも >>642
いや、竹の文化だよ
建築でも工芸品でも多用されてた >>644
それは謬説
アレクサンダー・フォン・シーボルトは「日本ほど食性が豊かな国はない」と書いている
明治期には多くのお雇い外国人が招致されてるけどやはり異口同音 日本の風土じゃ、すぐに雑草が生い茂ってくるので、ハゲ山状態を維持するほうが難しい
鳥取砂丘だって、人間が努力して保存している 日本人には、木が生えてない状態が不自然に感じられるので、中国でも朝鮮でも、やたら熱心に植林しようとするのが特徴 >>642
秦漢までは紙がないか、あっても高価だったから、書くのは竹簡だったような 朝鮮の場合は、紙の原料となるコウゾ・ミツマタが育たない風土なので、慢性的な紙不足だった。
伝統文化が貧弱なのは、それも大きな原因のひとつ。 朝鮮では紙の原料はからむしだろう。
からむしは布の原料でもあるけど。 普通に宋代には高麗紙を輸出するほど国上げて製造してたが
三国時代、高麗の武臣政権、李朝の最初あたりとか適度に戦争してた方が
朝鮮の場合は繁栄してる >>653
まさか、「世界初の金属活字を発明したのは我が国ニダ」を信じてるってことはないよな? やれやれロクにものを知らないネトウヨを教育するのは大変だ
陵陽詩鈔 宋韓駒
「王卿贈我三韓紙,白若截肪光照幾」
紙墨筆硯箋 屠隆
「高麗紙以綿繭造成,色白如綾,堅韌如帛,用以書寫,發墨可愛。」 >>654
アレわ発明というか改良でしょ
それ迄、木や陶器で作ってたのを金属に変えただけだし >>649
日本列島と違ってそう簡単に行かないのにな
自然状態の植生からして降水量多く無い半島と華北は植物の種類と量が少ないから >>656
科学的な分析の結果、20世紀以降にしかありえない化学物質が含まれていた >>655
それが、高麗で紙が大量に生産されていたという根拠なのか? >>659
まあでも高麗側の貿易品は主に金器、銅製品、布帛、朝鮮人参、木材、紙、墨とあるし
それなりに量産してたんじゃ
日本も木材と硫黄が2大輸出品だし、大分森林減ってたっぽいね >>659
自国のみならず中国の文人の間にも流通してたのはなぜなのか考えられないのか? まあ、文化水準からいって 高麗 > 朝鮮初期 > 朝鮮後期 > 朝鮮末期 なのは、文化財を見れば分かる。
高麗は、朝鮮よりはだいぶマシだったのは確か。 >>661
捏造品が一部あっても全部が捏造にはならないよ よっぽど対モンゴル戦とその後の服属が効いたんだな。
本当に日本は征服されなくて良かったわい。 >>669
モンゴルの支配をうけたところで良くなった所って一ヶ所もなさそう
モンゴルの支配を受けなかったヨーロッパは、
恐竜絶滅後の哺乳類のように繁栄 >>667
唯一の「証拠」が失われたのに、そう言えるのか? >モンゴルの支配をうけたところで良くなった所って一ヶ所もなさそう
最大の例外は北京 北京はモンゴルの支配によって飛躍的に大発展した
それが現在につながっている 名実ともにユーラシア大陸の東の中核となったのは、モンゴル帝国の時代 モンゴル帝国は、北京と江南を大運河でつないだため、それまでの開封に変わって北京が中国経済の中心になった。
しかも、北京からモンゴル高原を通って、中央アジアから西アジアに至るグローバルで高速な通商ルートが確立された。 明清のような鎖国と異なり、モンゴル帝国は非常に開放的だった。
このため、福建省や広東省の海港も、東西貿易で繁栄した。
いまの「中国」の基礎を築いたのはモンゴル帝国。 >>677
それ金代わ未だ南宋が存在してたからというだけじゃん
>>679
南宋時代に比べると明、杭、広州の貿易量は減ってる、北京、長安は増えたけど >>680
衰退していた陸路が復活したのは大きい
中央アジアも、新たな黄金時代を迎えた 現代でこそ
海運が陸路より圧倒的にコスト対効果高いけど、
航海技術が未発達なうちは、
インド洋よりシルクロード使う商人の方が効率良かったのかな さすがにそれはない
トラックや貨物列車がある現代なら陸路でも大量輸送が可能だが
昔は大量輸送が可能な唯一の交通手段が船だった
陸路じゃせいぜい高価な奢侈品の輸送しかできない 陶磁器とかは、結構デカくて重いからな。ラクダじゃ運べない。
だから、唐の時代の陸路は、絹が主力商品だった。 だいたい、唐の後半あたりから海洋貿易の時代になった モンゴル帝国のおかげで、中央アジアとの交易が増加したため、陸路が復活した >>670
イスラムがあれほど卑屈になったのも元のせい でもイスラム教国のオスマン帝国にボッコボコにされてたよねキリスト教西欧諸王国 >>682
西夏が居たのも大きいけど北宋長安の商税額は
南部主要港湾の10〜20%位しか無いよ
南海貿易の広州杭州は元より日本+高麗の2国が多くを占める明州と比べても大分小規模 >>687
モンゴル帝国は13世紀
イスラムの最盛期は17世紀 17世紀のイスラムとか西洋からの軍事顧問よんで巻き返し図るレベルで
もうとっくに零落してるが オスマン帝国はピークを過ぎてたが、サファヴィー朝・ムガール帝国との鼎立は壮観。
少なくとも、欧州諸国や清より大きかったのは確か。 サファヴィー朝やムガール帝国が清やオスマンより大きい???
ムガールとかインドすら統一できずにアウラングゼーブ死んでからずっと室町幕府状態なんだが お前は本当にバカなんだな?
国語が苦手な奴は、世界史もできないよ。
「三帝国鼎立」と言ってるだろ、単体で中国とイランを比べる奴がいるか。
つける薬がない。 >>691
17世紀わ未だオスマン帝国軍のが強大だよ
前世紀みたいな負けっ放しじゃ無く成っただけで
キリシタン西欧諸王国は前半は劣勢、中葉から後半で漸く互角 >>693
ていうか、アウラングゼーブが死んだのは18世紀なんだが。 だからどうしたんだよムガール帝国とか諸侯の寄せ集めろくにまとまったことないし
アウラングゼーブ死んだあとは完全に分解しただけの話
一度も国としてまとまったことのないまま崩壊した王朝を中央集権国家を完成させた清やオスマンと同列に語ることなんて無理無理 >>694
国語苦手なのはお前だろ?
そもそも「帝国」としてまとまった事のないままくたばった国がどうやって鼎立できるんだ つうかさムガル帝国とかデカン入った瞬間にぽしゃってるし
王朝としてはヴァルダナ朝かそれ以下だろ
一度も統治を受けたことない地域も同じ文化圏というだけで同じ「帝国」としてカウントしていいのなら
トルコは全トルコ民族、サファヴィー朝は全イラン民族、ヨーロッパは全欧米国を同じ「帝国」としてカウントしないとフェアじゃないよな >>699
お前は本当にダメだな。鳩山由紀夫と同じで、アタマが壊れている。
いまは、イスラム圏全体の話をしてるんだよ。
清よりデカいだろ、どう見たって(笑)。 中国の面積と人口がムダに多いのは、今に始まったことではない。
昔からそうだ。
オスマン帝国だけでも、人口は清の十分の一もないけど、世界における存在感は勝るとも劣らない。 あの朝鮮人でさえ、「野蛮な国」といって清をバカにしてた。
表面的には土下座していたが(笑) 今だって、モンゴル人やベトナム人も、韓国人や北朝鮮人だって、みんな中国を軽蔑しきっている(笑) 保守派のオッサンって頭悪いくせにプライドだけは無駄に高いよね 単に、バカに向かって「お前はバカだ」と直言してるだけ まあ、ボケかかった爺さんをバカ呼ばわりするのも心苦しいのだが、やっぱりバカとしか言いようがない オスマン、サファビー、ムガルともにトルコ系遊牧民族が先進地域を支配した国家だが、
どこもろくに発展しなかったな 日本も朝鮮も韓も越南も呂宋も中華圏だから中国圧勝だな
ムガル帝国も瓦解したのわ17世紀入って暫くしてから >>709
オスマン帝国は経済でも科学でも文化でも西欧諸王朝を凌駕してたよ このネトウヨオッサンはわ君とは別ベクトルでバカだな
無知指摘されるとへそまげてヘイトスピーチまき散らすTwitterで見かける典型的な安倍信者って感じ 清はヌルハチホンタイジ 康煕 雍正 乾隆の時代と末期では全然違う
言えるのは末期を狙って滅ぼせばいいだけやね 遼、西夏という隣国に対して宋はお金で平和を買うという政策をとるようになりました。
ただしこれも長く続くと、さすがに経済大国の宋でも苦しくなる。遼と西夏に支払う歳貢が宋政府の財政を圧迫するようになる。政治改革をおこなって財政再建をすることが宋政府の課題となります
。
こういう状況で登場したのが王安石。第六代皇帝神宗が抜擢して政治改革をゆだねた大臣でした。
王安石は親父さんも科挙官僚だったのですが、かれが19歳の時に死んでしまう。
王安石は頭が良かったんですね。22歳で科挙に合格する。4番の成績で合格したので中央政界でエリートコース出世街道を驀進することもできたのですが、
一家の生活を支えるために実入りの大きい地方官の道を選びます。地方の実状を知る中で、政治の矛盾や不合理について考えるようになる。
やがて地方で実績をあげ評判になる。ついには45歳で神宗に抜擢されて宰相になりました。宰相というのは皇帝に全面的に政治を任される、今風にいえば総理大臣です。 王安石の改革を総称して「新法」といい、それを支持する一派を新法党と言った。
青苗法 春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に2割または3割の利子を付けて返還させる貸付制度。
均輸法 農民の生産する物資を都に運ぶ際、輸送費・中間費用がかさんで値が上がることを防ぐため、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ること。
市易法 政府が中小商人に資金を貸し付け、物資を購入させ、値が上がったときに売り出させて利益を還元させる方式。
募役法 農民に対する労役を免除する代わりに免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集するもの。
保甲法 宋の軍事力は傭兵に依存したため、その出費が多かった。王安石は傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。
保馬法 保丁に対し、政府が馬を貸し与え、戦時には軍馬として、平時には農耕馬として飼育させ、軍馬の不足を補おうとした策。 王安石の変法が成功していれば宋はもう少し持ったでしょうか。 ベストアンサーに選ばれた回答
もたないでしょう。
中国の歴代王朝の衰退、滅亡の直接の原因はいろいろありますが、支配層の弛緩から来る下層民への圧迫、
農民反乱というケース(秦:陳勝呉広の乱、後漢:黄巾の乱、唐:黄巣の乱、元:紅巾の乱、明:李自成の乱など)、
北方民族による圧迫(晋:永嘉の乱、北宋:靖康の変、南宋:モンゴルによる圧迫など)、最後の清は西欧列強の圧力、
といったような内部崩壊か外圧によるものです。
宋のケースを述べてみましょう。宋の南遷は自業自得と言っていいのでしょうか、言い過ぎでしょうか。契丹族の遼が女真族の金に圧迫されるのを見て、金と結び遼に攻撃を開始します。しかし、その衰えた遼にも宋の軍隊は勝てなかった。
私が思うに、宋がもったかどうかはやはり極端に弱い軍隊、それから約束をすぐに反故にする稚拙な、ひどい外交。
王安石の変法云々より、外交政策の失敗ですね、宋は。 遼に莫大な歳幣を送り、カネで平和を買っていた宋だったが、1038年に建国した西夏にまで歳幣を送る羽目となる。
さすがに、巨大な経済力を誇る宋といえども、財政難に苦しむようになった、
そこで登場したのが王安石。貧富の差を克服すべく、経済改革に取り組んだ。 駆け出しの若き地方官王安石の詩です。
河北民 河北の民よ
生近二邊長苦辛 君らは契丹と西夏の国境近くに生まれたため長年辛苦を強いられている
家家養子學耕織 どの家ももらい子をして百姓しごとと機織りを仕込み
輸興官家事夷狄 作ったものをお上に納めてかの夷狄に奉仕する
今年大旱千里赤 今年は大日照りで大地は千里の果てまで赤く焼けただれたのに
州懸仍催給河役 それでも州や県のお役人は黄河へ行って舟を引けという
老小相携來就南 老人と子供も手を取りあって南へ移住するが
南人豊年自無食 南人とて豊作でも自分たちの食べる物がないのだ
悲愁白日天地昏 悲しみのために天地は真っ昼間でも暗く
路傍過者無顔色 路ばたを通り過ぎて行く者の顔に生気がない
汝生不及貞観中 君らの時代は唐の貞観の御世ではないのだ
斗粟數銭無兵戎 その当時米は一斗たった数銭でいくさもなかった 現代でいえば、小泉改革みたいなものか?
その後、民主党政権が改革を後退させようと必死になったところも、旧法党とイメージが重なる。 井上靖の小説燉煌の舞台が西夏勃興中の宋だね
主人公が殿試に臨む前に居眠りしてしまい遊牧民への対策につき積極策を採用すべきという意見を述べてる夢を見ていたという設定 >>715
細かいことをいうけど、王安石が任じられたのは翰林学士。
何人かいる宰相級の一人。
そして総理大臣ではなく国務大臣に相当。 >>720
阿呆だろw
養子わ文字通り子を養う事
千里赤も見渡す限り地面剥き出し位の意味
老小相携も三世代揃ってという意味 翰林学士って宰相級じゃ無いし、任じられたのも地方官
抜擢された後の役職も違う、数名のみ置く役職で平大臣より総理大臣に近いし 新法党と旧法党で、政権交代するたびに報復人事合戦をやってたあたり、宋は朝鮮に似ている
人民からかき集めたカネを他国に上納してたのも似ている 旧法党は既得権益層
護憲派は朱熹とかその辺の窓際、アベ内閣が秦檜党
人民からかき集めたカネを他国に上納する点は当に害務省と自民党 株式時価総額と税収と求人は増えてるからいいんじゃね? 新法党は「大きな政府」主義。
旧法党は「小さな政府」主義。
漢の武帝の時代の塩鉄論の頃から続く、
政府による民間経済への関与を巡る論争。 >>731
税収増なんてどんな無能でも簡単に出来る、増税すりゃ増えるんだから
結果が消費-5%もの大打撃、而も年収300以下の若年層と全世代大量増 歴代の中国王朝って割と小さい政府というか統制だけ出来てれば善いや的な
地方丸投げ体質よな、その分税金は東亜諸国中じゃ軽いけど 地方に赴任する官僚は無給だった。
「現地で適当に稼げ」という無言の指示。 >>733
消費税を上げたのは民主党政権だ
それを忘れるな >>734
政府を頼らない、頼りにならない、当てにしない気風があるよね。
代わりに地域の互助組織が発達する。
今でも北京には出身省毎の省人会みたいなのが、
大きな力を持っていて、人々の世話をしている。 >>701
ソ連よりロシア帝国のほうが大きいと言うのが違和感ある
ロシア帝国よりソ連のほうが強大だし お前ホント頭悪いね
デカいほうが強いとか昭和のロボットアニメかよ
アラスカ売り払ったんだから最盛期のロシア帝国よりソ連のほうが小さくて当たり前だろ >>530
朱全忠が「大梁覇王」とか名乗って盟主になる 地方といっても、山東省・四川省・広東省といった大国は人口一億を超える
単なる郷土意識なんてものではない、一種のナショナリズムがあって当然 まあ、沖縄の場合は、あまりにも県土に占める基地の比率が大きすぎるな
もうちょっと普通だったら、また違うだろう 宋では科挙を大幅に拡充し、年間数百人がこの関門をくぐり抜けて官となっていった。
しかし官がやるべき仕事がそこまで多いわけではなく、重複ないし不必要な役職、すなわち冗官が増えていた。
3代真宗の代に「天下の冗吏十九万五千を減ぜん」との記録がある。
また唐の安史の乱後の律令制の崩壊以降、律令と現実社会との乖離が生まれ、その間を使職と呼ばれる令外官を置いていくことで埋められていった。
しかしそのやり方は計画性・長期的視点にとぼしく、体系的な官制を作るものではなかった。
宋でもそれは基本的に受け継がれ、唐風の三省六部体制が形骸を残したまま、実際に政治を動かすのは使職という二重体制が布かれていた。
このような体制は当然非常にわかり難く、非効率であり、同じような役職が併存するようになっていた。 新法党と旧法党の政権争いは、王安石と司馬光の死後も二転三転しながら40年にわたって延々と続き、
そのたびに反対派が追放され、処刑され、遂に内紛状態となって宋は亡びた。 科挙が登場したのが隋時代の598年。
その後、唐で制度が整えられていき、宋でもっとも隆盛を極めました。
当時、ヨーロッパでは貴族による封建制度だったため、どれだけ文明が進んでいたのかがわかります。
官僚制度によって皇帝の力を絶対的なものにしました。
唐までは貴族が力を握っていたため、国がよく分裂して戦争になったのです。
廃止されたのが、清時代の1905年。科挙は1300年以上も続きました 宋代の支配社会層は、官僚としては官戸と呼ばれる特権者であり、地域社会では士大夫と呼ばれる知的リーダー、経済的には形勢戸という地主、この三つ面をもった階層として理解します。
これに対して被支配者階層は自作農と「佃戸(でんこ)」と呼ばれる小作人です。
魏晋南北朝から唐までの時代と違うのは、この支配者と被支配者の関係が固定的ではなかったことです。
地主であっても何代も官僚を出さなければ没落することはあり得るし、小作農であっても優秀な子供が出て、科挙に受かれば一気に資産家に成り上がることができる。
中国社会は一族のつながりが強いので、一族の中に飛び抜けて頭の良い子がいたら、みんなして勉学資金を出しあって、いい先生のところに就けて科挙を目指させる。
だから支配者階層に入る人たちは何十年か経つとかなり入れ替わる。貴族階級として支配者が固定化しないわけです。 >>746
唐、宋の官制わまあまあ整理されてるよ、冗官の廃止や待遇、権限変更をやってるし
焼け太る一方の元明大日現日より遥かにまとも >>748
>宋でもっとも隆盛を極めました
違うだろーーーっ!!! >>751
元・清では、上にモンゴル人や満州人の貴族がいたので、科挙官僚の全盛期とはいえない。
明との比較でいえば、宋のほうが隆盛してたかもしれない。 唐ではほんのわずかだった科挙の合格者を、宋では一気に数百人に増やした。
このため、科挙官僚の人数が激増した。 『科挙と官僚制:世界史リブレット9』
山川出版社、平田茂樹著。1997年初版。 リブレットと名づけられているだけあって、わずか80ページ、読み易いがなかなか勉強になった本。
科挙の始まりは隋代の文帝に始まるとされるが、誰でも受験でき、公平性や客観性を備えるものになったのは宋代以降とされる。ただしこの<誰でも受験できる>というのは説明が必要だが… p10
マックスウエーバーによれば中国の官僚制では専門官僚の発達が見られなかったとされる。実際には皇帝の家庭の管理運営を目的にしたと。p22
また中国における官僚制の特徴として、唐代から宋代への移行において府兵制から募兵性に転換し100万とも言われる巨大な常備軍を維持するため高度な専門知識を備えた行政官が必要とされたが、
一方で科挙で生まれた官僚にはそうした行政能力は欠如しており、それが「胥吏=ショリ」と呼ばれる実務担当官を生み出したとする。
事実、官僚の任期は3年程度で十分な実務を積むことも難しかった。p23, それに対し胥吏は数十年にわたり役所に根を下ろした。p24 官僚制専制国家、宋の成立は、禅宗に大きな変化を迫るものであつた。
新たな支配層となつた士大夫階級の支持を待た禅宗は、他宗の衰退もあつて、仏教界を代表するものとなつた。
禅の歴史を記した『景徳伝灯録』(一〇〇四年)等の「四灯録」は入蔵の栄誉を受け、禅宗そのものが国家から承認された。
しかし、まさにそのために、禅は国家に対して従順を誓わなくてはならなくなつたのである。
禅宗寺院では、皇帝の長寿を祈る祝聖(しゅくしん)や国家のための祈祷が定期的に行われるようになり
、大寺院では十方住持制が採用され、官僚の監督を受けた
(南宋期には、官寺として「五山十刹(ごさんじっせつ・五山制度に基づく寺格の一つ)」が定められた)。
また、叢林(そうりん・禅林に同じ)の形式化も進み、嗣書が一般化し、寺院の公文
士大夫(中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者)との交流は、禅寺の権益を守るためにも必要であつたため、
詩文書画といつた士大夫文化が叢林に流入し、禅は「出世聞」というよりも、士大夫社会の一部を構成するものとなった。
禅に固有の反権力の思想は、単に「悟り」の体験の中でのみ維持されたといっても過言ではない。 胥吏って割と直ぐ免職されてるのに意味不明過ぎだろマックスくん
科挙試験は高級官僚を採用する為の物で学者や議員の様な物だし
胥吏なんて以っと前から在って末端実務を担う為に現地採用されてるというのに 現実には貧乏人には無理だったとはいえ、科挙に受かれば誰でも支配階級に加われるってのは、たしかに千年前にしては凄い制度だな。 しかし、マックス・ウェーバーによれば、宋〜清の官僚はしょせん家産官僚にすぎなかった。
近代国民国家の官僚制度とは、似て非なる前近代的なシロモノだった。 家産官僚制
M.ウェーバーの用語で,伝統的支配の一形態である家産制 (→家産制国家 ) のもとで,国王もしくは君主の世襲的財産の維持,拡大にあたる官僚制組織をいう。
家産制的支配は,没主観性を一般的特質とする近代の合理的な官僚制的支配と正反対の組織原理によって構成されているが,
西欧の中世から近代にいたる歴史においては,経済社会の発展に対応した「君主の官僚制」の拡充を通じて,徐々に合理化を余儀なくされていった。
なお最初の家産官僚制として典型的なものは,古代エジプトにおいてみられる。 近代以降の官僚もどうかなと思うけどね
軍官僚も大戦後の積極国家においても
結局は点数稼ぎに終始して発展は見込めないのではないかな そういえば、日本では、90年代には経済評論家が官僚批判の大合唱だったけど、最近はそうでもないな。 おまえが言ってることは宮内省以外の官省を廃止しろと言ってるようなものなんだが
あと後漢代から皇室財政と国家財政は分離されて、それぞれ少府府と大司農府が管轄していたので
ウェーバーの理解はかなり間違ってる 宮内庁は政府機関の一部
家産官僚とはまったく意味が異なる >>763
中世ヨーロッパでも、君主の家計と国家財政の区別くらいしてただろ 朝廷が雇うのは、官。
官人には一人ではあり得ないほど膨大な仕事が割り当てられ、
その処理のため官人は下僚を雇う。
現実には官人は次々と異動し、下僚はずっとそこにいて新任官人に雇われ直す。
この習慣が今も中国には残っていて、正規社員が会社に断りも無しに
自分の仕事を手伝わせる人を勝手に呼び込んで、外国企業はそのために
しばしばトラブルになる。 >>759
意味不明
頭悪過ぎだろマックスくん
家産官僚ってのわ初期の胥吏やローマ帝国の高官が自前で用意する文官を指す言葉 >>765
して無いよ
最初に官僚機構を整備したハプスブルク王朝スペイン帝国ですら
フェリペ2世の時代でも王朝の家計=国家予算 >>764
漢帝国以降の官僚は内朝と外廷と地方に分かれてる
唐以降は中央と地方が官制上一体
家産官僚制とか意味不明過ぎる そもそも中世ヨーロッパだとかなり後まで「王室の家計」という概念すらなかった
必要物資はその都度さまざまな地域を巡行して調達していくというスタイル
いわゆる「移動宮廷」という奴 宮廷が移動するって日本人的にはえらく不思議
根っこが生えたように京から動かないのが日本の皇帝だからな そりゃ略奪が生業の蛮族と農耕主体の日本人じゃ生活様式違って当然 >>771
>根っこが生えたように京から動かないのが日本の皇帝だからな
古代には京そのものがしょっちゅあちこち移動してたけどな 平安京に落ち着くまでは、しょっちゅう移動していたな
誰か有名人が死んだだけで、怨霊の祟りをおそれて遷都したりとか 神聖ローマ帝国とか、セルジューク朝とかは、首都がどこなのか分からなくて悩みどころ ヨーロッパの王様みたいに乞食しながら諸侯の間を遍歴してた天皇とかいるか?
いないだろ アレクサンドロス大王は10年間宮廷が移動し続けたな >>766
王安石は胥吏に俸給を出そうとして失敗したんだよね。
歴代王朝は何で胥吏を政府で正式採用しようとしなかったんだろう?
地方官庁で土着の胥吏が幅を利かせているイメージを持ってたけど、
中央官庁でも胥吏が実務を担当してたと知って、
意外に感じたことがある。 政府が役人に給料を払わず、「賄賂を取る」ということを暗黙の前提として成り立ってきた社会。
漢朝から続く伝統を、習近平主席が変えようとしている。 江戸時代の幕藩体制において、武家の子弟は藩校その他で儒学を勉強していた
武家とはいうものの、天下泰平の世だけに事実上の文官
これが科挙の代わりになっていたから必要なし 宋では、皇帝専制の中央集権体制で全国統治しようとしたから、ああなった
中世の日本は封建社会だから異質 唐のあらゆる制度を取り入れようとした日本だが、科挙と宦官だけは受け入れようとしなかった
宋からは、それに纏足も加わった 科挙は唐の頃からあったけど、盛んになったのは宋から
日本が中国の影響を最も強く受けたのは唐代だから、そのせいかもしれない
もしも、宋が日本国家の黎明期とかぶっていたら、当然、科挙も見習おうとしただろう 科挙を取り入れなかったから朝廷は武家に天下を奪われた >>781
単純に科挙やれる程知識人も居無かったし前提のインフラも制度も整って無かったから
>>779
>>756>>766も書いてる通り俸禄たっぷり支給してるんだからちゃんとやれという事
胥吏わ国家が雇う官員じゃ無いしね、日本みたく下っ端丸抱えで法外な税金を支給すると
歴代王朝全て、外国人が驚く程の重税なのに財政破綻やらかす、なんつー愚劣極まる愚挙をやらかす >>781
>>783が書いてるけど先ず科挙の受験資格を持つ様な人間が
江戸時代より前だと一部の僧侶位しか居無かった >>785
日本は唐から仏教や密教を学ぼうとしたのに、
唐は仏教を弾圧したんだよ 中国には、シルクロードを通じて入ってきた先進文明もあったけど、
その反面、宦官・纏足・人肉食といった野蛮な風習も多かった。
日本人は、それを取捨選択して取り入れてきた。 >>789
科挙に受験資格なんて無いけど?
あるのは受験環境 結局のところ、「少数民族による征服王朝が、多数派の原住民から抜擢した人間に地方の運営をやらせていた」
というのが、中国の官僚機構の本質
古来から独立国家だった日本になじまないのは当たり前 科挙試験は、理系科目が無いのが痛い
だから農政官でも現場の知識や農民の声に疎くなる
もっとも江戸時代の藩校でも儒教ばっかり教えていたんだろうが >>795
いやいや、トンデモない。
江戸時代の藩校では、理系科目もやっていた。
後期には蘭学も普及した。
明治維新とともに各地で総合大学が発足したのは、藩校の伝統のおかげ。
一方の清では、相変わらず、宋学を丸暗記してガチガチの文系人間を量産していた。
これが、近代日本と近代中国の明暗を分けた最大の要因のひとつ。 日中の技術格差は、50年や100年でついたものではない。
今後も、中国が日本に追い付くのは不可能。 >>792-795
ペルシャ帝国やローマの帝国に対して先進文明だったのが中華帝国
無知や無教養は落ちる、知識人という有能力者である事が受験資格
一応官僚機構が整備されたのが漢帝国、科挙合格者の任官は主に中央、征服王朝は歴代で元と清の2つしかない
日本人は農業や建築も江戸時代前期、初期迄中国人の文物や顧問を天然資源と引き換えに導入してた >>777
遺言で墓は京都だけどね
生前は江戸復興に尽力したんだと思う >>798
それは、まったくバカげた考え。
「有閑階級である」ということが、科挙の受験条件だった。 >>797
日本を引っ張っていた工業系の会社が次々にダメになってますが >>801
それは、どこのパラレルワールドの話だ? 征服王朝二つなのか
なんか漢民族の王朝は漢と宋明ぐらいしか浮かばない 中国で伸びているハイテク企業は、日本でいえば楽天みたいな、ネット通販の会社が中心。
技術軽視の商業民族の伝統は、現代の中国にも脈々と流れている。 >>803
宋も、趙兄弟の出自は怪しい。
明は、民族的には漢人だけど、首都を北京に移してモンゴル化した。 >>798
日本が江戸時代だったころ、
支那は女真族の奴隷国家だった >>807
元とか清の支配層が無能なせいで中国の地位が落ちた
とくに清 >>798
科挙合格者はみんな知能が低いからノーベル賞なんて絶対に無理だね >>797
お前バカ?お前の使ってるパソコンの部品もほとんど中国かベトナム製だぞ >>810
バカはお前だよ。
中国やベトナムに工場があるだけだ。
中国人やベトナム人に技術があるわけではない。 技術軽視の商業民族。
その伝統は、現代の中国にも脈々と流れている。 今の日本もその流れをくみ始めたな。
でも現場担当の技術者は基本的にドキュソ出身が多い
だから幼少期にドキュソにいじめられていたインテリは過去の恨みで
余計に現場や技術を軽視、軽蔑するようになる あの大量製品の部品投げて検品するの直すだけでも大分寿命違うのにな
習慣が運命まで変えてしまうってヤツだな >>800
オマエの願望と史実は違うからなw
>>803
漢族王朝は秦、漢、宋、明の4つ。征服王朝は遼、金、元、清の4つ。北魏以降の北朝と隋、唐は漢化した浸透王朝
>>804
ソフトウェア開発じゃもう抜かれてる、最近矢鱈と持ち上げられてる人工知能の研究と実用じゃ完全な周回遅れ >>808
元の方が酷くね、清は統治者としちゃまあまあだけど
中国支配してからも新しい物わ外から流れ込んで来るって感覚のまま進歩に無関心だったのと
最後迄支配民族として君臨したせいで不合理非効率を改められなかったのが >796
>理系
算術は寺子屋止まりって印象があるんだが、
これも当時の欧州水準までやってたのか?
微分積分とか。 戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は軍人の力を削ぐことに腐心した。
唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。
この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。
趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。
また、科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。
科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。 趙匡胤は、時間をかけて徐々に節度使の力を削ぎ、軍閥割拠状態を収束していった。
文官優位のシビリアン・コントロール体制を確立した。
遼や金さえなかったら、天下泰平の世が何百年も続くところだった。 唐よりも、遥かに洗練された統治機構が出来上がった。
遼と金、ついでに西夏さえなかったら、中国にとって最良の時代だっただろう。 陰謀か血で解決してナンボの中華世界で、
あくまで話し合いとか珍しいな
「孔明は現代日本人だった」っていう自衛隊三国志なる小説があるが
趙でも作れそう 日本人に限らず西洋人も、宋の統治機構には、「千年前でこのレベルかよ」と驚き、脱帽するしかなかった。
文民統制も、三権分立も、罪刑法定主義とかも、何もかも、その先駆けといえるものが宋にはあった。
逆に、「千年前にここまで来ていながら近代国家になり損ねたとは、これいかに?」という疑問がわいてくる。
中国文明には、何かが、よほど欠けていたのであろう。 >>817
和算の関孝和は、ニュートンやライプニッツとは別に、独自に微分積分へと到達した。
それとは違うが、江戸時代の後期には各地の藩校が蘭学を取り入れ、医学などを盛んに学んでいた。 内政は優れてたけど
国防が弱体化しすぎて周辺勢力に敗れ崩壊
結局その後の諸王朝で宋のシステムが復活する事は無かった
ローマ文明が失われた流れと同じかと 江戸時代の日本は、参勤交代で大名の妻子を江戸屋敷に住まわせることにより、
「子供の頃は江戸で育ち、大人になったら本国に赴任して大名になる」
というサイクルを辛抱づよく200年続けた結果、
最終的には全国の大名を、江戸から転勤したサラリーマン支店長みたいな
人間ばかりにしてしまった。
バラバラな中世封建社会で真の統一を実現するには、それくらいの根気がいる。
宋の場合は、皇帝が採用した科挙官僚を、全国各地に赴任するという体制でこれを実現した。 江戸暮らしに慣れた御曹司達にとって、
鄙びた田舎藩への下向は鬱だったろうな >>817
微分積分思い付いてたよ
>>822
西欧諸王国も米大陸の発見が無ければ産業化不可能だった
亦オゴデイが死な無ければ同様に今頃が産業化始まる時期だったと思うよ
大航海時代も西欧が米大陸に近いという全くの偶然に因る物
造船技術も経験も明より大分劣ってたしな >>824
大唐帝国が周辺民族を自国の社会体制にばっちり組み込んだ為に
周辺国が技術的、行政的、政治的、軍事的に長足の進歩を遂げちゃったのも似てるよね 唐末五代だけでなく、千年後の清末民国初にも、辛亥革命で全省が独立宣言して中国がバラバラになりかけた。
中国共産党は、全国の人事異動を何十年も続けて、なんとか真の統一を実現しようとしている。
以前、「瀋陽軍区が北朝鮮とつるんで怪しい動きをしている」
というのが話題になったことがあったが、そのときの
瀋陽軍区長だった張又侠は、つい最近の人事で全国の軍部のトップになった。 >>821
宋太祖趙匡胤は東漢光武帝と並んで意味なく無駄な人殺しをしなかった開朝の君主だからな >ソフトウェア開発じゃもう抜かれてる、最近矢鱈と持ち上げられてる人工知能の研究と実用じゃ完全な周回遅れ
あれは、アメリカから買ってきたコンピュータを大量につなぐことにより、並列処理で処理速度を上げてるんだよ。
うわべだけで、技術の中身はない。 >>831
アルゴリズムやデータ加工の出来不出来の話だぞ。コンプーテーを大量に糸で繋ぐとか意味不明過ぎる >>826
どうしてどうして。
仕事は知らないし出来ないけど権力だけは絶大なものがある。
よって地方の名士が賄賂を抱えて門前に行列。
数年で大富豪になって都へ帰れる。
何が欝なものかw >>811
お前本当にバカだな
外国に工場作るってことは技術が流出してるってこだぞ
家電業界や半導体産業も今ではほとんどシェアを中韓企業に奪われてるだろ 90年頃まで電子立国日本とか世界の半導体市場を日本が独占するとかホルホルしてたけど
20年経た今ではむしろ日本は衰退する一方で中国が世界のシェアの半分を占めると見られている
http://image.itmedia.co.jp/ee/articles/1502/04/mm150204_insights2.jpg >>810
支那が造った潜水艦はロシアの劣化コピーでドンチャカうるさいポンコツだし、
ベトナムの潜水艦はロシアの輸入品なんだけどな >>834
家電なんか、昭和の斜陽産業だ
いまさら、冷蔵庫や洗濯機で新興国と勝負するのか? >>835
中国は、まだ半導体を作れてないよ。
韓国メディアでも、「我が国の産業はほとんど中国に追い付かれたが、
まだ半導体だけは優位をキープしてるニダ」といつも言ってる。
工程が複雑だから、パクりにくいんだ。 >>827
大航海時代は、強大なイスラム勢力が立ちはだかっているおかげで、陸路でアジアに行けないという特殊事情によるもの。
モンゴル人も、さすがにイベリア半島までは行けなかっただろうから、大航海時代は起きただろう。 >>838
台湾にぶち抜かれたけどな
>>839
西欧から米大陸はかなり近くて寧波から兵庫より少し離れてる程度だし
雑魚の群れでしかない当時の西欧諸族相手ならオゴデイが5年生きてたらモンゴル軍はジブラルタル迄到達したよ モンゴル軍が、ドイツの森林という厚い壁や、ピレネー山脈という高い壁を越えてまで
欧州西端に行きたがったかは疑問だが、本気で狙えば行けただろうな。
しょせん陸路だし。 >>834-835
半導体製造機械だと支那チョンのシェアはミジメなことになっちゃうぞ >西欧から米大陸はかなり近くて寧波から兵庫より少し離れてる程度だし
いくらなんでも、そこまで近くはないんじゃないか?
日本からシンガポールくらいには離れてるはず。
日中間くらいの距離なら、普通に古代から文化交流が起きるだろ。 >>838
http://news.mynavi.jp/news/2017/03/21/105/
>上記の表で注目されるのは、中国が2009年には5%に過ぎなかった市場シェアを2016年に10%へと倍増させ、
>さらに急成長しようとしている点である。
>実質的にファブレスの市場シェアが大きく伸びたのは、世界中で中国だけである点は特筆に値するだろう。
>中国は、将来有望な半導体製造拠点として注目されがちであるが、実は半導体設計分野でも世界の拠点とな
>ろうとしている。 ファブレスってのは、工場を持たずに製造を他社に丸投げしてる会社のこと。
自社では、商品の企画しかしない。
中国企業は、半導体においては、その方向で特化してきている。
「なぜ、中国人は半導体の製造がこんなに苦手なのか?」については諸説あるが、
単純に、「工程が複雑で難しいから」というのが最も正解に近いだろう。 中国では、ネット通販やネット金融・モバイル決済といった、
スマホを使った商売がどんどん発達し、世界の最先端を行くようになっている。
ハイテク産業といっても、技術軽視の商業民族としての特色がはっきり表れている。 中国人は、モノづくりより、カネづくりが得意。
その点で、日本やドイツよりもアメリカに似ている。 唐宋革命って安土桃山から江戸時代の変革と同じぐらいの変化ですか? >>844
思ったより遠くて兵庫〜寧波の2倍弱だったわ
大阪〜広州と同じ位
>>846
台湾企業がトップ集団に居るからでしょ多分 >兵庫〜寧波の2倍弱
それにしたって、近いな。
古代の遣唐使船が渡ってた距離の2倍もないんじゃ、行けて当然。 >>849
「中国の歴史は、唐末五代の前後で断絶している」と唱えた内藤湖南は、
「日本の歴史は、応仁の乱の前後で断絶している」とも主張した。 「応仁の乱より前の日本史を勉強しても、現代の日本を考える上で、あまり参考にならない」とまで言ったという。
ということは、「唐末五代より前の中国史を勉強しても、現代の中国とはあまり関係ない」ということになるだろう。 >>850
日本からアメリカ西海岸に行こうとすると、最短距離だと、真ん中にアラスカが来るんだよねえ。
いくらなんでも、寒すぎる。
かといって、広い太平洋をマトモに横断しようとしたら、それこそ地球を半周することなる。
アメリカ大陸をヨーロッパ人に先取されたのは、地理的な必然。
それこそ、天意でしょうな。 >>852
漢帝国の崩壊から隋は断絶してるような気がするけど >>855
秦漢は、メキシコにとってのアステカ帝国みたいなもの。
「滅びた先住民による旧文明」とでも位置づけるべきかと。 >>855
社会構造が大きく変わったって意味だぞ>>852で使ってる断絶は 「漢末から魏晋にかけて人口が激減し、北方や西方からの民族流入が起きて人間が入れ替わった」
と言ったのは、内藤湖南じゃなくて岡田英弘。 >>846
お前文盲なの?
>中国は、将来有望な半導体製造拠点として注目されがちであるが
が見えないの? >>856
それはむしろ縄文時代と弥生時代のほうがそれに近いんじゃね
縄文時代はYハプロタイプはすべてD1bだったんだが、弥生時代になると鉄器武器や稲作農業を持った大陸が押し寄せてきて
現在では九州や機内では2割程度になってる
ちょうどメキシコ人に占める先住民のハプロと同程度
一方、秦漢代からハプロタイプは華北はO3、華南では長江文明の頃からO2bが主流で現在とさして変化がない >>860
縄文がすべてD1bって
数字が2割って
お疲れ様です 縄文人のYハプロはC1aとD1bの二系統あるが検出されたハプロはほとんど後者
だし縄文人直系のアイヌ人もD1bが87%かつC1aがまったく見られないことからD1bがYハプロのほとんどを占めていたのは間違いない
いづれにしても君のYハプロも8割の確率で南中国系のO2系か朝鮮系のO1b2だ >>859
いつものことだが、世界史と関係ないことでムキになるなよ。
中国経済のバラ色の未来を主張したいのなら、もっと適した掲示板があるだろ。 >>864
唐末五代も、それに匹敵するジェノサイド。 唐末の875年に起こった黄巣らを指導者とする農民反乱。884年に鎮圧されたが、唐は急速に衰退する。
唐の末期の875年夏、黄河下流の山東省・河南省一帯で相次いで農民反乱が起こった。
その年、この地方にイナゴが大発生し、その大群がとぶと日中も暗く、飛び去ったあとは青いものはすべて食べ尽くされ赤土だけが残ったという。
そのような中で唐朝が草賊とよんだ群盗、塩の密売人である王仙芝と黄巣が、その秘密結社の組織力を生かして反乱を指導し、急激に膨張し反乱集団は大きな勢力となった。
彼らは塩専売制のもとで密売によって利益を得ていたが、唐政府が密売摘発を強化したことに反発して反乱を起こしたのだった。
878年王仙芝が戦死するとその勢力を併せた黄巣は、江北の節度使との対決を避けて南下し、広州に入った。
さらに北上を目指し、880年には長安を陥れ、黄巣は皇帝の位につき、大斉と言う国号を称した。
唐の皇帝僖宗は、トルコ系(突厥系)沙陀族の李克用の援軍を求め、独眼竜と言われた勇猛な李克用が長安を攻撃し、そのため長安は灰燼と帰し、このとき唐文化の繁栄は失われた。
ついで反乱軍の部将であった朱全忠が唐軍に投降し、李克用とともに黄巣の軍を攻撃したため黄巣は長安を追われ、山東に逃げ延びたが、884年に鎮圧された。 また食人しながら転戦した例としてとくに有名なのが「黄巣の乱」(875年~884年)の黄巣軍です。
「黄巣の乱」は唐を滅亡に到らせた大きな叛乱でした。それは流民や飢民を吸収し五十万の規模に膨れ上がり、各地を転戦しながら、880年ついには都・長安を占領します。
この黄巣軍は、その大軍に食糧を供給するために、大規模な「人肉生産工場」を設置しました。
「「中和三年(883年)五月、黄巣は兵をひきいて陳州を攻めて百日が経った。(中略)賊(黄巣軍)は人々を捕らえて食用に供した。
一日ごとに数千人をも食べてしまった。賊は『舂磨砦』という巨大な臼数百基を備えている。
人々を臼に入れて、骨も一緒に細かく砕いて食用に供した。」(『唐書』黄巣伝)
「黄巣らの反乱軍は、西は関門、東は青州、斉州、南は江、淮、北は衛州、滑州にいたるまで荒らしまわった。」
「人影は絶え、イバラが野をおおいつくした。反乱軍は食糧が欠乏していたので、食用人間を貯蔵していた。兵士が四方に出て人々を捕獲し、『塩屍』をつくり、関東の郡県はことごとく攻略された。」(『唐書』秦宗権伝) 人肉をミンチに加工する巨大工場を作った黄巣軍。
食品加工業に関しては、世界の最先端を行っていた? >>864
西晋初期の戸籍で2400万だから単に後漢末の動乱で
把握出来て無かったり別枠の人数が多かっただけだよ >>847
中国の非通貨商行為の普及は、通貨不信が原因。 無戸籍3分の1だとしたら大概やで
ベビーブームだろう >>870
人口減少は、死ぬだけじゃない
南に逃げたというのも大きい >>472
プロデュース():モンゴル人
設計: モンゴルの奴隷
製作: モンゴルの奴隷
デザイン: モンゴルの奴隷
資材調達: モンゴルの奴隷
労働者: モンゴルの奴隷
ってとこだろうね >>872
日本で再度戸籍が整備されたのって戦国時代後期に成って以降だからね
>>871
宋代も金属でしかない銅銭不信で紙幣による売買が普及したしな 銅銭が信用できないなら紙幣なんかますます信用できないはずや >>872
そんなこと言い始めた藤原時平の治世以降の日本何て無戸籍10割なんだが
263年の統計では500万しかいないのに17年後の280年の統計では1600万になってるので
自然増は考えられない 晋代では精々人口は1600万程度だったのに
五胡の乱時代の一地方政権にしか過ぎない前燕では1000万
前趙では胡人500万漢人2500万と爆増してる 西晋は屯田兵とか軍戸じゃ無かったからでしょ増えたのも増えただろうけど 日本では20代の若者が100歳だと言ったり
元の場所に住んでるのに引っ越したと言ったり男なのに女だと言い張ったり
生きてるのに死んだと言ったりして遂に戸籍が使い物にならくなった
ウソをそのまま記載する郡司や里長も悪いんだが戸籍と言うのは忠誠心や公共心が乏しい社会で成立しない >胡人500万
胡人の大量流入で、中国大陸の人種構成は激変した。 六鎮の乱で武川鎮以外はへそまげて漠北に帰っちゃったからそれはどうかな
そのままとどまってたらもっと中国人はウズベク人みたいなエキゾチックな容姿してたんじゃないの
爾朱栄は金髪碧眼の美丈夫だったらしいし >そのままとどまってたらもっと中国人はウズベク人みたいなエキゾチックな容姿してたんじゃないの
たしかにイラン系みたいにはならなかったが、その代わり、モンゴル人みたいな顔立ちになった。 イラン系は、次第に中央アジアで衰退し、トルコ系やモンゴル系にとってかわられていった。 明は、当初は南の王朝だったが、永楽帝が北京に遷都してからはモンゴル帝国の継承者であることが歴然としている。
実際、あのまま南京にいたら、そのうち北の勢力にやられてしまって短命王朝に終わっただろうが。 李克用は李国昌の第3子であり、母は秦氏である。
李克用は生来から片目がすがめで、そのために独眼龍と呼ばれていた。
878年に李克用は父と共に唐軍の将の段文楚を殺害したため、唐に対して反乱を起こしたが、敗れて韃靼族の部落に逃亡した。
唐は韃靼に対して賄賂を送って李克用らを捕らえるように命じたが、李克用は韃靼の有力豪族を集めると
その目の前で木の葉や糸に吊るした針等を矢で射て百発百中の腕前を見せつけて韃靼を全て心服させた。 「入れ替わった」論が正しいとすると、
無人の土地に入った異民族(現代の中国人の先祖)がほんの数百年の間に、教えてくれる師もほぼ無しに
日本とは比べ物にならないほどの文明を築き上げたことになるね 882年、唐に復帰した李克用は雁門節度使に任命され、黄巣討伐を命じられた。
李克用は4万の兵を率いて黄巣軍を討伐し、883年1月に京師東北面行営都統に任命され、
2月に黄巣軍を完膚なきまで叩き潰したため、黄巣は李克用を恐れて4月に長安を放棄して東に逃走し、
朱全忠の本拠地であった陳州(現在の河南省項城県東北)を包囲し攻撃した。
朱全忠は李克用に援軍を求め、李克用は要請に応じて黄巣軍を再び破って陳州を救援し、
さらに黄巣軍を追撃してほぼ壊滅状態にして開封に追い散らした。
884年6月、李克用は現在の山東省で黄巣軍を完全に壊滅させ、黄巣を自殺に追い込んだ。
李克用は反乱軍討伐の功績により河東節度使(太原を中心とした一帯)に昇格し、黄巣討伐の殊勲者となった。
895年には晋王に封ぜられ、山西一帯を制圧する大軍閥となった。 ・・・朱全忠は怒りを抑えて作り笑いを浮かべながら李克用を手厚くもてなした。
そして李克用と部下らが酩酊したのを見計らって自軍の兵を率いて李克用を襲撃した。
酩酊していた李克用は部下に水をかけられて目を覚ますと直ちに応戦し、
折からの大雷雨も幸いして朱全忠軍の包囲を破って城外に逃げ延び、
ここに朱全忠と李克用は不倶戴天の仇敵同士として争う事になった。
李克用は戦争には強いが、政略では朱全忠に劣り、また配下の鴉軍もその勇猛さが時に粗暴に変じたために政府中央の評判は芳しくなかった。
朱全忠とは何度も激しい争いを繰り広げるが、901年に朱全忠に河中を抑えられたことで中央への進出が難しくなり、太原に閉じ込められた格好となる。 >>892
相変わらず、バカな奴だな(笑)
北魏に雇われた漢人宰相の崔浩とか知らんの?
明治のお抱え西洋人と同じで、知ってる奴を雇えばいいだけ。 >>891
そこ、謎なんだよね。
片眼とはいいながらも見えることは見えてたのだろうか。
でなければ百発百中なんてできないはず。 いくらノンビリした古代とはいえ、数百年は長いぞ。
先住民が残した旧文明を吸収するには、十分な期間だ。 で教えてくれる先住民はどこ行ったの?
漢人優遇しないと官僚制度すら保てないから石勒は君子営なんてものを造ったり
道武帝は洛陽遷都を断行、鮮卑人は平城に置いてきぼり、胡服と鮮卑語を禁止、それに従わない奴は斬り捨てて
漢人勢力のご機嫌を取るとかバカなことやってたんだろ
先住民が未開だったために協力なしに自力で文明を築いていった我々の先祖とは勝手が違う 漢の古典に詳しいのを買魏に雇われた漢人宰相の崔浩は、歴史を忠実に碑文に書き込んだおかげで、野蛮人の子孫あつかいされたと鮮卑人を怒らせてしまった。
崔浩自身は誅殺されたが、その子孫は生き残った。
唐においては山東貴族の筆頭格として宰相を12人も出すなど、唐でも第一の貴族の家柄となった。 >で教えてくれる先住民はどこ行ったの?
全滅したとは誰も言ってないだろ。
九割ほど減少しただけだ。 >>899
>漢の古典に詳しいのを買魏に雇われた
「漢の古典に詳しいのを買われて、北魏に雇われた」の間違い 9割も減少してたら高度な漢字文化や官僚制度、都市文化は壊滅状態だわな
大体、長江以南はずっと漢人の亡命政権が自立していた時点でその理屈は成り立たないわけだが >>892
支那の王朝文明は、日本文明のように長続き出来ないので、
築き上げてもすぐ崩壊してしまう 黄巣の乱鎮圧の二大功績者である李克用と朱全忠はそのまま唐末の二大勢力となり、激しい抗争を始めることとなる。
しかし武勇に優れていても、脳筋気味である政略・謀略の才のない李克用は唐の朝廷で終始朱全忠に主導権をとられ、中央への進出を阻まれてしまう。
また幽州の劉仁恭が彼を裏切って自立したこともあって沙陀軍閥は華北で孤立してしまう。
状況を打開するため、李克用は同時期に南モンゴルで勢力を拡大しつつあったキタイ(契丹)の耶律阿保機と雲州で会談し、一時的に沙陀・キタイの同盟が結ばれた。
しかし精強な沙陀騎兵を恐れたためか、結局阿保機は李克用を裏切って朱全忠と結び劉仁恭の勢力に攻め入った。
この戦いの数ヶ月後、朱全忠はついに唐王朝を滅ぼして皇帝を名のり大梁国を建てた(後梁)。
この報を聞いた李克用は激怒するも、ここ数年の心労がたたったためか朱全忠の皇帝即位から一年たたずの内に病死した。
李克用は、子の李存勗に三本の矢を渡して、朱全忠・劉仁恭・耶律阿保機を討ち取るよう言い残したという。 >>902
「漢人が激減した」というのは、華北の話だよ。
長江以南は、むしろ華北の漢人が逃げ込んだ先だ。
だから、お前はバカだってんだよ。
脳ミソが石でできてるんじゃないかってくらい理解力がないのに、やたらと噛みついてくる(笑) >>902
そもそも農民の大半が死滅したら生産力も激減しそう
しかも。入れ替わり論だと遊牧民が農民になってその後人口激増したとでもしないと辻褄が合わなくなる >遊牧民が農民になってその後人口激増したとでもしないと辻褄が合わなくなる
そう、その通り、そういうこと。
やっと分かってきたみたいだな。 >>900>>905
自分の願望に基づく妄想より史実を重視しような、北朝の北魏後期でも胡人は半数に満た無い
>>903
江戸時代初期迄常に中華帝国から新技術を導入していたという現実
>>889
モンゴル帝国は征服されただけな、特に何も有益な物を残さ無かった 日本は遣唐使廃止や 神本仏迹説みたいに中国化しないからね >>908
日本が江戸時代だったころ、
支那は女真族の奴隷国家だったという史実 >>910
中国が高度経済成長中の今
日本国は米軍の奴隷国家という現実 >>911
ちゃんとした選挙やらずに
共産党に支配され続けてる奴隷が現代の支那人 >>792
唐軍兵士の人食いについては、日本人の遣唐使が記録に残してる >>905
バカはお前だよ
漢人が少数派だったら鮮卑語廃止してまで媚び売る必要がない
前趙時代の統計でも胡人は少数派で一度も多数派を占めたことがないし
Yハプロ上でも変動がない
お前は何の根拠も示さず願望を垂れ流してるだけの哀れなネトウヨおじさん >>913
中国共産党はジミン党カスミガセキよりマシだよ
税金は軽く、報道の自由が有り、法治主義だしな >>916
なら日本から出ていけよ
そんで支那にずっと永住しろ 中国人の日本の選挙の論評が「国民が正気じゃ無い」とか「メディアに洗脳されてる」「視野が狭いから左翼が発展出来ない」とかだからな 選挙をやらないのは野蛮国の証明だからな
中共や北朝鮮は、
モンゴルや台湾よりも下劣な奴隷国家で間違いない いまどき、盲目的な中国礼賛を続ける阿呆もいるんだな
まさに、生きる化石 日本は、明治時代から民主主義をやっている。
中国は、民主主義をやったことがない。
この差はあまりにも大きい。 呉 902〜937
戦災孤児(?)であった淮南(安徽)の楊行密(ようこうみつ)が建国。
戦火によって灰塵に帰していた本拠地揚州近辺をよく治め、復旧に努めた。
彼の直属部隊は、黒衣を身に纏った精鋭であり、「黒雲都(黒い雲の集団)」と呼ばれた。
しかし、楊行密死後は派閥争いで衰退。
権臣徐温(じょおん)が実権を握り、その養子の徐知誥(じょちこう)によって国を奪われる。 呉越 907〜978
両浙の任侠道あがり、銭鏐(せんりゅう)が、朱全忠より爵位を受け、建国。
生まれ故郷の杭州を中心とした集団、「杭州八都」より身を起こし、地域密着型の内政を推進。
運河交通が盛んで、水害の多いこの地域にあって、治水工事などに精力的であった。
基本的に中原の五代王朝に従属し、対外戦争をなるたけ避けようとした。
5代目銭叔は仏教の保護で有名。六和塔は彼の時代の仏教建築物。
結局は北宋に降伏したが、その時も平和的に行われた。 南唐 937〜975
もと呉の臣である徐知誥が、呉の皇帝から禅譲を受け(もっとも、それは建前であるが)建国。
金陵(南京)を根拠地とし、唐の皇族の末裔と称し、その後を継ぐに相応しい者と自認していた。
豊かな国力で十国中最大の経済力、軍事力を有するも、英主柴栄の前に屈服し、南唐皇帝の地位は「江南国主」となる。
それより後、北宋に降伏する。
2代目李m(りけい)と3代目李U(りいく)は「南唐二主」と並称され、『浪淘沙令』(ろうとうされい)などの詞を残し、文学史上有名。 李U 「浪淘沙令」
簾外に雨は潺潺たり 御簾の外、雨は絶え間なく降りつづき、
春意闌珊たり 春は過ぎ、季節は替わろうとしている
羅衾は耐えず、五更の寒きに 薄絹の衣は寒く、夜更けに目覚めて雨を知る
夢の裏に身は是れ客なるを知らずして 夢の中では虜囚の身を忘れて、
一餉、歓びを貪りぬ しばし楽しい思いをしていたが
独自り欄に憑ること莫れ 独り手すりにもたれても無駄なこと、
無限の江山 故国の山河は遙か彼方、見えはしない
別るる時は容易きに、見ゆる時は難し たやすくも別れてきてしまったが、もう目にすることはあるまい
流水落花、春去りゆきぬ 時は流れ、花は散り、春は去っていったのだ
天上人間 天においても、人の世でも 「歴史は繰り返す」というが、隋に滅ぼされた陳の後主も、宋に滅ぼされた南唐の李Uも、
ともに皇帝としてはイマイチだったが、詩人としては文学史上に不朽の名をとどめている。
どちらも、「軍事の北、文化の南」を象徴する出来事だと言えるだろう。
とくに、李Uは有名。
南京での華やかな宮廷生活を詠んだ詞もすばらしいのだが、それ以上に評価が高いのは、
宋に国を譲って隠棲してからの、人生の無常を詠んだ数々の詞。
南唐が滅びずに続いていたら、あれほどの詩境には到達できなかったに違いない。 李U(りいく;Li3Yu4)(937年〜978年)は、南唐最後の国主である。故に南唐後主と呼ばれる。李mの第六子として南唐建国の年に生まれる。
初めの名は従嘉で、961年に位を嗣ぎ、Uと改める。字は重光で鐘隠と号する。
南唐は、唐朝滅亡後、宋朝が統一するまでの間、揚子江(長江の一部の名称)下流、呉の地に、江を跨いで建国された国家で、高い文化を誇った。世に云う五代十国のうちの一国・南唐である。
南唐は、李Uの父の李mの代に北の後周に攻められ、長江以北を失い、皇帝の位を降り、国主となることを余儀なくさせられ、国は衰退し始めた。
李Uの代になり、後周の後を継いだ宋によって都の金陵を占領され、李U自身も宋の都京に連れて行かれ、南唐は滅んだ。やがて、彼も次の頁に掲げる詞・虞美人のために牽機薬で毒殺されたという。(王「默記」) 李Uの作風は大きく二分される。前半の南唐時代と後半の北宋時代である。
前半生の彼の詞は、南唐国主として生まれ、父・李mの影響もあって、華麗な宮廷生活の中の心の動きを詠っている。
しかしながら、北宋に敗れ、亡国の君主となった後は、詞風に計り知れないほどの深い憂愁を漂わせ、極端な変化を見せている。
これは、彼の詞の際だった特徴である。勿論、詞としておもしろいのは、後期のものである。深い哀愁と憂悶の詞は千古の絶唱である。 虞美人
春花 秋月 何の時にか了らん,
往事 多少(いくばく)かを 知らん。
小樓 昨夜 又 東風,
故國は 回首に 堪へず 月明の中。
雕欄 玉砌(ぎょくせい) 應に猶ほ 在り,
只だ是れ 朱顔 改まる,
君に問ふ: 能く 幾多の愁ひ 有りや。
恰も似たり 一江の春水の 東に向かって流るるに。 春の花が咲き、秋の月が冴え渡るこの季節の移ろいは、いつ終わるのだろうか。
昔、(王侯として過ごした栄華等の思いでは、)どれほどだろうか、限りがない。
(わたしのいる)小さな高殿にも、昨夜またも故国の方から春風が吹いてきた。
故国(南唐)は、月明かりの中で、ふりかえるのに堪(た)えられない。
彫刻を施した欄杆(らんかん)と大理石のきざはしは、きっとまだ残っているだろう。
ただ、若い顔だちが改まって、年を取ったことだけだ。
きみに問うが、愁(うれ)いは、どれぐらいあることだろうか。
ちょうど川いっぱいの春の流れが、東に向かって流れていくようなものだ。 5chでは、李イクの「イク」って字が表示されないみたいだな。
・・・ってことは、三国志の程cもダメか? 程cは表示されている。
cに火へんがつくとアウト。 >>918
独裁から程遠い政治体制だよ中国政府は
>>920
選挙わ原始部族社会にも現代中国にもアルヨ、選挙権が限られてるけどな >>934
お前キチガイかよ
支那の憲法に「独裁」が明記されてるだろが >>935
中国語の独裁だと現行自由民主党も独裁だろが >>936
日本の自民党は複数候補の中から投票で議席を獲得し、
過去には政権与党じゃなかった時期も存在する
支那の独裁とは大違いだよボケが >>936
日本の憲法に「独裁」が明記されたことはないんだよ >>937
中国の共産党は複数政党の複数候補の中から投票で議席を獲得し
公務員を任免する
現行ジミン党の独裁その物だよボケが >>939
日本では自民党に反対する政党も立候補できるが
支那では共産党に反対する政党は立候補できないんだよボケが >>939
中共は共産党が政権から下野したことすらないだろ >>940
日本政府は独裁を認める憲法解釈なんてしていない
はい論破 >>934
下手くそな日本語で工作してんじゃねえぞ 中華人民共和国が建国してからず〜と共産党の国なんです。
政権交代が起きないということは、いったいどんな選挙を行っているのでしょうか?
まず、立候補する人ですが、これは自由に立候補することはできません。
共産党から立候補するように指示を受けた人しか立候補できないんです。
ですから、与党、野党が入り乱れての争いなんていうのは起きません。
共産党が支持した人が立候補し、国民はその人を支持するか?しないか?の投票をするだけです。
どの人がいいか?どの政党がいいか?を投票するのではなく。
この共産党が推薦している人を支持するか?しないか?を国民が選択する選挙方法なんですね。 >>934
秘密投票の保証、対立する複数政党・複数政策の選択が認められてないのは、
民主主義とは言えない 左翼はどうしようもないな
このキチガイが出てくると歴史どころじゃない 中国史は5ch向きなテーマじゃないな
西洋史にしとくか 日本では、日本の中に自民党があるけど、
中国では、中国共産党の中に中華人民共和国があるのだよ 日本の政治のどこが独裁体制なんだよ
アタマがおかしすぎて話にならない 政治の話も、普通の内容ならいいんだが、これじゃキチガイのたわごと
ダメだこりゃ 毛沢東の時代なら、こんな盲目的中国礼賛者がいても不思議はないのだが
今は21世紀だよ、バカにつける薬はないな このスレももうすぐ終わりだ
話題を西洋史に変えよう 青春期に革命を志したんだろう
数々の悲劇を産んだだけで終わっては自分の青春を汚すことになってしまう
これは中華人民共和国もそうなんだと思う >>946
何れも認められてるよ、悔しかったら共産党員に成れ
>>945
国民審査
ハイ論破 >>957
人民代表選挙は中国共産党によって指名された候補に対する信任投票となることが多いが、
複数の候補から選択する「差額選挙」(現在の普通選挙)が行われることもある。
いずれにせよ指導政党である共産党の原則的方針から根本的に逸脱する者が人民代表に選出されることは絶対にない。 確かにまあ習近平に代わってからの中国は何か変だけどね、アベ政権みたく >>916
民主主義指数ランキング
20位 日本 8.08 (完全な民主主義国)
23位 フランス 8.04 (完全な民主主義国)
144位 中華人民共和国 3.00 (独裁政治体制) >>934
民主主義指数ランキング
20位 日本 8.08 (完全な民主主義国)
23位 フランス 8.04 (完全な民主主義国)
144位 中華人民共和国 3.00 (独裁政治体制) 「民主主義指数」が日本より上なのは、小国がほとんど。
しかも、日本の場合は、選挙での投票率の低さが大きくマイナスになっているだけで、
それ以外の点では文句のつけようがない評価。 かつて江沢民は中国を二千年以上前から民主主義の伝統があると言ったことがある。
聞いてた人たちは、「は?」
中国では権力者への道は誰にも開かれている。
競争に勝ち残りさえすれば誰でも最高権力者となることができる。
これが民主主義でなくてなんだというのか。
一同唖然・・・ >>959
アホ?
毛沢東から第三世代までの中国の指導者とかコチコチの中央集権、独裁、先軍政治、武断主義の連中ばかりだぞ
その時と比べると随分と穏健になってる >>961
民主主義指数ランキング
住民投票を行うと自治州議会を解散するという暴挙に走る某国ですら
17位 スペイン 8.30 (完全な民主主義国)
一方の日本国はこちら
23位 日本 7.96 (不十分な民主主義国) >>966
民主党の菅直人政権が、原発事故の情報を隠蔽して隠密に処理しようとしたおかげで、報道の自由のイメージが大きく低下した。
悪夢の民主党政権が潰れて久しいのに、欧米からの誤解が解けていない。 >>968
転落したのわ2015年度以降
その時の政権与党といえば…
誰が原因か明々白々ですよ、ええ >>968
すげえ!こんなところにも、ネトウヨて出張るのか! 昔の左翼はインテリ青年だった
今はボケが入った爺さんしかいない(笑) >>966
それで、
中共の民主主義指数と順位はいかほど? >>973
所謂民主主義指数は西方キリスト教国の拵えた偏向指標であるから無価値 >>974
なるほど>>966は無価値ということか?
それとも民主主義そのものが、西方キリスト教国からの伝搬だから無価値ということなのかな? >>71
武家政権が樹立しても皇室は不滅を維持してる 一国の政権政府としては、朝廷は承久の乱で滅んでいるよ。
その後は鎌倉時代は地方自治体、室町江戸に至っては単なるNPOみたいな扱いだな。
そして漸く明治で政府として復活するわけだ。 詩から詞へ
唐末以降、格式ばった詩に代わり、詞と呼ばれる歌謡文学が 庶民の間で流行した。
詞は曲子詞とも呼ばれ、唐代に西域から伝わった音楽や民間の俚曲に新しい歌詞を添えて歌う、一種の替え歌である。
敦煌石窟からは、唐末に編纂 された雲謡集の写本2種32闋が発見されている。
南唐の後主・李Uの詞は、そ の悲劇的な生涯と相俟って、多 くの人々に愛唱された 南唐後主・李Uと文房四宝
五代十国時代、金陵(南京)に都を置いた南唐は、豊かな江南の地を支配し、十国中第一の富強を誇った。
961年、24歳で南唐の第三代国主(後主)となった李U (937〜978)は、庶民の間に芽生えていた芸術や工芸を保護育成し、江南の地場産業 であった墨、硯、紙、筆(文 房四宝)の生産を発展させた 南唐の後主・李Uと虞美人の詞
975年、北宋の攻撃を受け、 南唐が滅亡すると、李Uは宋 に送られた。
978年、北宋が呉越国を滅ぼし、天下を統一すると、李Uは毒殺された。
彼が毒殺される原因となっ たのが虞美人の詞である。 (南唐)李U 虞美人 南唐二主詞所収
春花秋月何時了
往事知多少
小楼昨夜又東風
故国不堪回首
月明中
雕欄玉砌依然在
只是朱顔改
問君都有幾多愁
恰似一江春水
昔のままに ひとりわが顔のうつろう
つもる愁い いくばくと 人問わば
さながら春の江の水の 東に流るるよう 柴窯
中国 五代十国時代 後周(951年〜960年)の皇帝柴栄(さいえい)がその地位にあった954年から959年までの5年間だけ焼かれていた皇帝のための窯(官窯)
1,000年以上も前に作られ、窯が開かれた期間も短期間であるため、希少性が高い。
完成品も窯跡も発見されていない究極の至宝
明代の文献では、宋代の五大名窯よりもさらにワンランク上と位置づけされる。 李Uの詞もそうだが、中国史上でも最大の分裂期とされる五代十国は、至高の芸術を生み出した。
宋では、隋唐の金ピカ趣味を抜け出し、渋みのある典雅な青磁・白磁や文人画が主流になった。 禅宗
6世紀のインド僧達磨が中国に渡来して始まり、唐代に中国独自発展した。宋代にさらに盛んになり、日本にも強い影響を与えた。大乗仏教ではあるが、不立文字など自力での悟りを求めるのが特色。
仏教の一派である禅宗は、中国仏教の中で独自に発展したものである。
大乗仏教の『般若経』にある空の思想に中国の老荘思想が融合して、独自の精神文化を形成した、ということができる。
経典などを学ぶよりもひたすら瞑想することによって仏陀の精神を直接みること、つまり悟りを開くことを説く自力仏教として発展した。 禅とはサンスクリット語(梵語)の Jhana の音を漢字で表した禅那の省略形である。
もとの意味は「静慮」であり、心を集中して正しく思惟するため坐禅を組むという仏教の修行法の一つである。
坐禅は戒律とともに仏教修行の基本的要素の一つであり、どの宗派でも行われるものであったが、禅だけを重んじる宗派が現れ、それが禅宗と言われた。
禅宗では、その教えは言葉や経典で伝えることはできないので、「教外別伝」とか「不立文字」といい、直感的な悟りの境地は、師が弟子に質問する(公案という)ことで弟子が自ら体得するものとされた。 禅とは何かと聞かれて、趙州は答えて言った、「今日は曇っているから答えない」。
同じ問いに雲門の答えは、「それだ」であった。
また別の折には、師は全然肯定的ではなかった。
かれは言った、「言うべき言葉は一つもない」。
<鈴木大拙/工藤澄子訳『禅』1987 ちくま文庫 p.125> 宋は、東洋文化の完成形だ。
この時代の文化は、精神性の深さが他の時代とは異なる。
元や明になると、貨幣経済がさらに発達して大衆消費社会が到来する。
陶磁器や絵画の見た目は豪華になり、傾向が変わっていった。 唐代は、中国がペルシャやインドの影響を最も受けた時期だった。
中国史のなかでも国際性は抜群だけど、本当の中国文化は、そのあとの宋の時代に実現する。
ちょうど、平安時代の日本が国風文化に移行したようなものだ。
唐の金ピカ趣味は、おそらく西域の文化に由来する。
アラビアでは、宋の陶磁器を盛んに輸入していたが、宋の青磁や白磁はアラブ人の好みからすると
地味すぎたようで、宋から輸入した陶磁器を加工し、吸い口を金箔で覆ったりしていた。 農耕民に比べて、牧畜民は派手好きな傾向がある。
東洋的な渋みがあるのは、南朝の文化。 >>977
幕府が安定しているときは京都の朝廷が目立たないが、
ひとたび不安定になると、ただちに再登場が要請される。 鎌倉時代には存在感が低下していたが、建武の新政で後醍醐天皇が登場。南北朝の両統対立で、日本中を争乱の渦に巻き込む。
室町時代には存在感が低下していたが、織田信長と豊臣秀吉が権威のよりどころとして再活用したため、再び台頭する。
江戸時代にも存在感が低下していたが、江戸幕府が不安定になると、たちまち政治の中心が京都に戻った。
最後の将軍・徳川慶喜は、京都で即位して京都で退位し、在任中は江戸に行く機会がなかった。 中国も、唐の皇帝がずっと存続してたりしたら、おもしろかったんだが。
朱全忠は、よく唐の皇帝を廃する気になったもんだな。
三百年の皇統だってのに、平安時代の日本で天皇を廃するのと大差ないだろう。
恐るべき不敬行為。 細長い日本は東日本と西日本が完全な別世界だけど
華北と江南はそこ迄じゃ無いしな このスレッドは1000を超えました。
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