秦漢帝国
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文化に優劣はない。あるとすれば技術力 後漢の時代に、青銅器から鉄器への移行が進んだ
鉄器そのものは春秋戦国時代からあったが、主流になったのは後漢 靭性が求められる武器の分野で青銅器が生き残っただけだな 結構前、稲のアジア史って本で読んだんだけど
漢代には品種改良の結果、江南周辺では50日程度で育つインディカ種が既にあったと記録されてるのに対して、
宋代に生育期間の短いチャンパ米(インディカ種)を江南に新たに導入したって言う記録が残ってるらしい。
唐代の農書が逸失して繋がりが分からんと書いてあったんだけど、漢代の米に詳しい人が居たらこの矛盾について教えてほしい Wikipediaの秦王朝に『秦朝(しんちょう)は、紀元前221年から206年まで存在した、中国最初の王朝である』と書かれているのですが、これは秦以前の殷王朝や周王朝とは意味合いが違うのでしょうか? 商(殷)や周は黄河流域を支配しただけ
まあ当時の意識が農耕に適した土壌が多く、文化レベルが高く、人口の多い黄河流域=中原が中華の枠組みだったけど、中原から離れた斉や楚が発展し中原諸国と争ったり従属させたりするようになって中華の枠組みが広がる
その広がった中華を初めて制したのが秦って事で、その秦の支配地が後世の王朝の統一の基本になったから、秦が初めての王朝って意味かな
商や周の支配域って後の世からみたら中華の半分に満たない範囲でしかないから、例えるなら三國の魏武が中原を制しただけで統一してないのと同じような感じ
商の時代の斉なんて蛮族しかいないという認識、周の時代でも楚は文化レベルの低い蛮族扱い
でも秦統一以後は斉も楚も同じ中華の民 後漢を学びだしたんだけどのちの歴史に強い影響をもたらす宦官の何が悪かったのかがさっぱりわからんからいまいち理解が進まん
使用人がでしゃばるなと言う役職意識?
士大夫とそうでない者もしくはチンコがないことに対する侮蔑意識?
寵愛されない嫉妬?
外積に脅かされることが多かった皇帝は自分の意を受けて命を懸けて動く宦官を信じ
動かない官吏を敵対者とまではいかなくてもあまり信用してなかった感じは端々から読めるんだけど 殆どの宦官は大局観の欠片もなく自己の利益を最優先するから 祖先祭祀の永続を価値の根本に置く儒教官僚からしたら、子孫を残せない宦官は唾棄すべき存在だったのは確かだな。
あと、宦官てのは後宮の住人だから、後宮の女と結びついて活動しがちだったことも士大夫官人からすれば不愉快だったろう。 歴代の天子が宦官を重用した理由の一つには「コイツラはどうせ人間以下の存在で、皇帝の信任や恩寵が無ければゴミでしかないのだから、きっと裏切らずに忠節を尽くすだろう」的意識もあっただろうな。
ローマ皇帝が解放奴隷を重用したのと似た構図。 宦官をマイナスに捉えるのは史書の受け売りで意味はない
なぜ史書で宦官が悪く書かれるのか
それは彼らが低層の出で権勢を振るったからだ
後漢は営々と続く貴族社会で、庶民への差別意識は周の頃よりも酷い
曹操の護衛を務めた許チョ、虎痴は、農民出で身長185もあり
たびたび華々しい武勲を立て忠誠も厚く中将に取り立てられた
大将軍の曹仁ですら虎痴にゴマをすり機嫌をとったとされる
彼の死後、息子許儀は名門貴族の鍾会に斬られる
皇族や名門貴族たちは前から農民出の許?をにがにがしく思っていたという
このように庶民が貴族に成り上がるには大変な障害があった時代だが
宦官はもちろん皇后、その外戚はしばしば下層から取り立てられた
皇后や外戚、宦官が優れた庶民感覚で統治したこともあるし
彼らが団結して無能な貴族と対抗してもやむをえまい 宦官が皇帝や王になったという例は、歴史上皆無なのでしょうか。 なぜ宦官が忌み嫌われてるかと言うと宦官の権勢は寵愛してくれる皇帝の代限りという期限付きってこともあり
今のうちとばかりに国庫に手を付けたり暴政に走りやすい そうなると今度は不正を許さない清廉潔白な官僚が邪魔になってくるので真っ先に消され
宦官と汚職に加担する濁流派ばかりが重用される悪循環に陥る
その典型が党錮の禁だな
>>335
皇帝の意を受けて命を懸けて動く宦官ってどこをどう斜め読みしたらそんな頓珍漢な言葉が出てくるんだ? 十常侍がそんなご立派な連中なら黄巾の乱も起きなかったし三国時代もなかったろうよ >>347
インディカなら古くから在るよ、有名なのだと黄膠稲っていう水害に強い早稲
チャンパ稲は旱害に強い早稲 いま読み始めたところなのだが
こんなどうしようもない内容が
最後の方まで続いてるんでしょうか、、、 まだ、スレの3分の1が終わったばかりだ
今ならやり直せる 宦官とは何か、というのを考えるためには、「後宮」的な組織を持つ他の文化圏との比較が
有用だろう。
ここでは、中華世界、日本、モンゴルを比較してみる。
まず、日本の後宮。
これは御所の後宮組織でも江戸幕府の大奥でもそうなのだが、天皇なり将軍なりの
正妻あるいは生母を頂点とする女性の自治組織で、基本的に男に口出しはさせない。
男女が別々の自治組織を作るというのは、たぶん日本の古くからの土俗的な基層文化で、
私がフィールド調査をしたことがある九州の某地方でも、部落(広義)の寄り合いに
男性の寄り合いと女性の寄り合いが別組織で行われていた。
次にモンゴル。
これは、モンゴル帝室の「オルド」に典型を見ることができる。
「オルド」は遊牧組織そのものであり、組織の頂点に正妻がおり、
その配下には君主の妻妾だけではなく、男性の牧民労働者や遊牧騎士軍人まで含まれる。
君主の遊牧組織が肥大すると、なんと「正妻」の数を増やして「オルド」を分割し、
遊牧組織としての適正な規模を維持する。
こうしてみると、中華世界における後宮の特徴がはっきりと見えてくる。
・女性は男性の支配下に置き女性の自立した自治は許さない
・後宮には配偶者たる君主とその未成年の子息以外の男性の存在を許さない
この条件を満たすため、一般家庭よりはるかに肥大化した君主の後宮を維持するためには
「男性ではない男性」が不可欠となる。
この目的のための「女性の群を管理する」ための「男性ではない男性」が宦官であり、
彼らは君主の女性支配の代理執行者たる一種の「君主の奴隷」身分である。 牧畜民族は、家畜の去勢を日常的に行っているので、宦官もその延長線上にある自然な発想といえる
日本人は、中国文化の大半を導入したが、宦官・纏足・人肉食だけは、まったく受け入れなかった >>349
ところが、>>348で述べたように、純牧畜民のテュルク・モンゴル系遊牧民の遊牧国家では、
後宮が去勢男性による管理じゃなくて正妻による統治なんだなぁ。しかも、非去勢男性が
正妻の臣下として牧畜や戦に従事している。
中華世界における宦官のルーツに関しては、牧畜文化由来だけではない要素をもっと深く考察する必要が
あると思う。 それから、纏足はそもそも「漢民族」以外、どんなに深く中華文化を受容した民族でも
受容していないだろ。
朝鮮半島国家でも、琉球王国でも、ベトナム王国でも、中華世界を支配した満州族ですら
受容しなかった。 >>352
確かに、朝鮮人でさえ、纏足はしなかったな 人肉食については、七年戦争のとき、北米のインディアンが集団で英国軍の兵士の肉を喰らっていたというエピソードがある
それも、「腹が減ったから」というようなことではなく、勝利の儀式として行われていた
中国人にも、それと似た発想がある やはり、嫁いできた女性の発言力を封殺する漢民族社会の民俗性のシステムこそが、
宦官の発達にしても、纏足にしても、効いていると思うんだよなぁ。
中華帝国でも、北朝〜隋唐帝国では君主の配偶者とか娘とかの発言力が強くて、
しかも皇帝に盛んに助言した皇后が名妻女として絶賛されていたりする。
ところが、唐朝でも科挙官僚の登用が進み(北族系武川鎮軍閥貴族の後退を意味する)、
王朝の漢族化が深まってくると、むしろ女性の発言権が非難されるようになって、
楊貴妃みたいに本人はほとんど政治に口を出さなかったのに亡国の女性呼ばわりされたり
するようになっていく。 >>354
古典的な民族学研究で、人肉食の背景を検証したのがあるが、農耕民の場合、打ち倒した敵への敵愾心の強調として、
狩猟採集民の場合、社会で高い敬意の対象になっていた人の聖性を受け継ぐため、人肉食が行われる傾向がはっきり出たらしい。
漢民族もむろん典型的な農耕民族だが、北米インディアンも誤解が多いがトウモロコシ、カボチャ、ヒマワリなどを栽培していた
農耕民が大半だからね。 中華でも数は少ないが後宮に女官はいて、女官組織も規模は小さいがあったそうだが >>357
女官がいなきゃ、大奥モノの時代劇か成り立たないよ(笑) >>357
宦官が真に実力を発揮するためには、パートナーとなる女官と組まないとダメだったという話もあるね。
日本における「妻妾女官自治組織」と中国における「宦官女官組織」の違いを掘り下げると面白そう。
それから、朝鮮では「宦官組織」と「妻妾女官組織」が別立てだったみたいで、前者はあくまでも王の身辺の世話係で、
妻妾の管理が業務ではなかったみたいなんだなぁ。
なんか、こういう後宮的組織の構造にその社会の「ホンネ」みたいなものが垣間見れて面白い。 >>359
オスマン帝国あたりの後宮が普遍的な完成形でそれ以外のは発展段階が違うということだと思う。
中国の場合は后妃の序列が明確で嫡母の概念があるという点で一歩遅れている。
宗教の違いによるというわけではない。オスマン帝国の後宮はイスラム法が想定するようなものではない。 途中からちょっとマシになってました
なんの話をしようかなぁ >>363
まあ、そういえばそうかも
最初のほうは、例によって「漢末〜魏晋南北朝の民族大移動」の話
これが始まると本当にスレが荒れてどうしようもなくなる >>352
満洲族は纏足は無理矢理規制していただけで受け入れ寸前まで行ってる >>239>>240>>241
銅山の名前やそこら辺に関する話などもあったのだけど
完全に失念、、、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kosen/sub/han2.html
○文帝四銖半両銭
前元五年(前175年)四銖の重さ(2.7g)の半両銭を鋳工させます。
文帝四銖半両銭は、民間での鋳工を許可し、申告納税方式を採用した為、各地で鋳工が行われ、
特に「呉王び」と「ケ通」による大量鋳銭により、短期間で切り替えられていきました。
・呉王び(劉び):漢皇族の一人。呉王に封じられていた。
塩の専売と大量鋳銭により富を蓄え、文帝死後反乱を起す。(呉楚七国の乱)
・ケ通 :文帝の寵臣で銅山を賜り、大量鋳銭を行った。文帝死後、全て没収された。
※両者の財産は、当時の皇帝よりも莫大であったと伝えらている。
文帝四銖半両銭は、厳格な製作基準を定めただけではなく、違反した場合の処罰を明記した上で
民間に許可した事もあり、均一化された半両銭が流通する様になりました。また、それまでに流通
していた半両銭も、基準に満たない半両銭は流通を禁止されました。
※文帝四銖半両銭は、4枚で16銖(10.75g)以上の重量である事と、半両銭の銅質についても
厳しい条件を課しました。
当時、密告制度や相互監視制度により違反者を摘発し、違反した場合は、違反した者だけでは
なく、周辺の人々も罪に問われるなど、厳しいものでした。しかし、違反者は後を絶たず、
刑罰がより厳しいものに変化させていきます。
(当初は刺青、強制労働等の罪でしたが、その後死罪に変更されました。) 呉楚七国の乱の盛り上がりは異常
これほどスケールの大きい大乱にしては、なんで注目度がイマイチなんだろうな? >>367
単なる劉氏の内輪もめに見えてしまうからじゃないかな。
でも、秦による天下統一から呉楚七国の乱に至る「振幅」って非常に面白いよね。
完全に陝西(関中盆地)と陝東(華北平原+揚子江流域)の抗争の歴史という枠組みで語れる。
秦による六国征服:陝西による陝東の征服
秦末内乱:陝東による陝西支配体制の転覆
楚漢戦争:陝西による陝東の征服
呉楚七国の乱:陝東による陝西支配体制への反抗
前漢の終焉から新を経て後漢へ:陝西支配体制の終焉と陝東を中心とする豪族連合政権へ >>367
結果として反乱は鎮圧され、かえって漢朝の基盤が固まった
この結果が面白くないんじゃないかな?
安史の乱みたいに唐が崩壊するとか、靖難の変みたいに南京の朝廷が引っくり返されるとか、そういう刺激的な結果だったら、もっと良かった >>366
お金ヤバイ、、、
@秦の統一とともに貨幣が統一される
→各国から大量の武具が押収され
官営鋳造所で鋳なおされ大量の金属貨幣が供給される基盤となる
A私設の鋳造が許可され、反乱軍の財政的なバックボーンとして機能する。
B後漢になると金属貨幣をベースにした経済は衰退
布帛が幅をきかすようになる
C董卓さんの中の人が小銭欲しさに銅銭に止めを刺す >>370
>>B後漢になると金属貨幣をベースにした経済は衰退
>>布帛が幅をきかすようになる
前漢代には農民でも人頭税が銅銭納税だったので収穫物を換金する必要があったんだよな。
結局、古代的な郷里共同体の成員が豪族の成長によって浸食されて豪族の隷属民に落ちていったことで
貨幣経済の基盤が掘り崩された、という事なのかな。 >>371
普通に生活してるだけでも
お金が大量流出しちゃったらしいです、、、
あと派手にお金使う人ほど名君とされる法則でもあるんですかねぇ >>372
そりゃあ、おカネを派手に使うほど景気が良くなって民間が喜ぶのは、今も昔も変わらない
財政破綻と、後世に残すツケが問題 漢代の民衆には、竪穴式住居に住み、土器や青銅器で暮らす人も多かった
まだまだ、原始人と文明人が混在していた時代 鉄製農具なら春秋時代から普及してるし「竪穴式住居」と言うのも多分君が連想してるのとは別物だと思うぞ
そもそも前漢代まで都市国家の延長線上で古代ギリシャと同様ほとんどの住人は「里巷」とよばれる城壁で囲まれた都市に住んでおり
散村みたいなのはほとんどなかった >>375
「豪族」っていう新興勢力が勃興してくることで、都市国家ベースの社会が崩れて、
豪族の隷属民に墜ちていく民衆が増えてくるんだよね。
その結果、豪族の荘園に居住する荘民が農民庶民の普通の姿になっていく。
その結果としての豪族連合政権である後漢の成立。 >>375
弥生時代の日本みたいな住居をイメージしておけば間違いない 古墳時代の庶民の竪穴式住居が榛名山の火山噴火で降り注いだ軽石で埋もれたやつが
群馬県の黒井峰遺跡から出てるんだが、
多くの書籍の「竪穴式住居」のイメージからかけ離れているのな。
地面への掘り込みは人の背丈ぐらいに深くやってるし、
その上に載っている屋根も、草ぶき露出じゃなくて
壁土で頑丈に塗りこめられている。
かなり防寒性のある優秀な住居だよ。 あの時代、寒かったのかね。いわゆる北方系の住居だ。
しかしそのあと、平安期になると、少なくとも貴族の家は南方系というべきシロモノに変化している。
「夏を旨とすべし」というやつだ。
その後の小氷期でもそれは変わらなかった。ちょっと不思議。 >>379
黒井峰遺跡は、まぁ、からっ風の吹く北関東の上州だし、
平安貴族の寝殿造邸宅が建っていたのは夏が地獄の蒸し暑さの京都盆地だし・・・ あと、弥生時代の「高床式」の建造物が、「高床式倉庫」なのか「高床式住居」なのか、
検証が難しくて、かなりの「高床式住居」が「高床式倉庫」としてカウントされてしまっている
可能性も考慮すべきかもしれないな。 さらにちょっと付け加えると、
歴史時代の伝統的日本民家ってやつなんだが、
高床式の床敷きの建築と、土間建築を大黒柱のところで接合した構造になっている。
多分、床敷きの部分は高床式住居の系譜をひいていて、
土間の部分は竪穴式住居>平屋住居の系譜をひいている。
両者が接合前の時代には、ひとつの家族が同時に建設されている二棟の別構造の
民家を同時使用していて、季節によって住み替えた可能性もあるんじゃなかろうか。 漢の文明を異様に高く評価してる人たちってのは、一度、博物館で当時の遺物を見てきたらどうなんだろな?
結構、原始人っぽいよ。
もちろん、全部がそうじゃないんだが。 >>384
人によって感性は違うと思うけど、漢代のものは原始人っぽい >>387
漢代の庶民レベルの生活具の「素朴さ」ってのは、「原始人っぽい」のとはちょっと違うと思う。
これは、庶民の生活を支える生活具が「商業生産」されていない、ということを意味してるんじゃないかな。
つまり、都市エリートの生活は十分商業化され、そこに商品を供給する工業も発生しているが、
庶民の生活は十分貨幣経済化されておらず、生活に必要な物資の供給は商工業に依存していなくて、
前漢の段階では郷里制の共同体に属する職人、後漢の段階では豪族の荘園に属する職人が製造していた。
商工業の市場原理にさらされていたわけではないので、
商品としての洗練は見られない素朴な生活具を庶民は用いていたのであって、
それは決して「原始的」な生活というわけではなかったと思うんだが。 >>388承前
そういう意味で、庶民の生活具が十分に「商工業化」されて
市場原理での洗練の洗礼を十分に浴するようになるのは、
事実上、宋代になるんじゃないか? >>387
これで原始人なら、奈良時代の日本でさえ類人猿みたいなものじゃね? >>370
Aの時点では、銅銭による通貨発行益が得られていたのは明らか
そしてこの後、武帝さんの中の人が
信用貨幣の発行に踏み切るが挫折。
その後も数度の試みられるがいずれも失敗
王莽さんは金本位制を導入することでマネー供給量の増大を図るも
結局のとこ額面価値と金属価値の切り離しはできなかったため
市場へ供給されるマネーを増大させることに失敗した 奈良時代どころか江戸時代中期ですらこの水準に達していたか怪しいレベルだぞ >>389
上流階級と都市という領域から、農村部まで貨幣経済と生活水準の平準化が進むのは、多分宋代だろうね
>>392
江戸中期の「東北と山間部を除く」日本の農村部は商品経済の発達に組み込まれ、生活水準も古代とは比較にならんぞ
「東北と山間部は除く」がな(2度目) >>389
ふむぅ、、、
墟市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%9F%E5%B8%82
墟市(きょし)とは、草市(そうし)とも呼ばれ、晩唐以後の中国において、
地方の人口密集地や交通の要所に形成された小規模な定期市の事。
この動きの中心であった江南地域では主として「墟市」と呼ばれる事が多く、他の地域では「草市」などの様々な呼称があった。
律令制(あるいはそれ以前の)中国の市場は、
国家権力が認めた一定の区画(市)以外での商業活動は厳しく禁じられて、
国家による強い規制を受けていた(中国より商業に寛容であったと言われている日本においても、
平城京や平安京の東西両市もこのような思想の元に設置されている)。
ところが、晩唐期になると国内の秩序は崩壊して律令制も破綻をきたすようになった。
そのような中で生産力の高まりとともに余剰物資を生活必需品と交換するために
人口の密集地域や交通の要所において自然的に発生したのが墟市(草市)であった。
「墟市」という名前のように月に数回あるいは何日かに一度の割合で市が開催されるものの、
それ以外の日には文字通りの廃墟も同然の状態になったといわれている(なお、今日の中国においてもこうした形式の市場を「墟市」と呼ぶ場所もある)。
だが、後年には開催間隔が短縮され、中には恒常的に営業される市場も現れて小規模な都市に発展する場合もあった。
これに目をつけた有力な地主や商人の中には環境を整備して墟市(草市)を誘致して地代を得ようとする者もいた。
また、国家や地方権力の中には墟市(草市)の支配を目的として、墟市の安全確保を名目に鎮を設置する例も現れるようになる。
また、逆に取引の安全の確保のために逆に鎮に市が形成される事もあり、これらの鎮と結びついた市を鎮市(ちんし)と称した。
他にも有力な寺院の門前に開かれた廟市(びょうし)が開かれる事があったが、
一般的な墟市(草市)が生活必需品を主として扱っていたのに対して、
広くその名が知れ渡っている寺院の廟市には遠方からも商人が訪れて遠距離貿易・中継貿易の拠点となるケースが多かった。 >>393>>391
ふむぅ、、、
なんで塩は後々までこういうのなかったんだろう
交子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%90
交子(こうし)とは中国北宋代に四川地方で発行された紙幣。世界史上初の紙幣とされる。
概要
宋より前、唐代に堰坊という物があり、ここでは銭・金銀・布帛などを預かり、預り手形を発行していた。
この手形は他の地域において現物と同じ価値を持って支払いに使用することが出来、流通していた。
この堰坊は後に堕落して無頼者の集まる賭博場のごときものとなったが、
この手形発行の方式はここから広まって全国的な広がりを見せて、
交子・会子・関子などの手形が発行されており、交子の発行所は交子鋪と呼ばれた。
五代十国時代に於いては全中国的に商業活動が活発化しており、
主要な貨幣である銅銭の需要は非常に高かった。
しかし四川地方では銅の産出量が少なく、
需要を満たせなかったので当時四川を支配していた前蜀および後蜀政権では産出量の多かった鉄を使用して鉄銭を発行していた。
宋朝に代わった後も全国的に銅不足の状態が続き、
しかも西方に西夏などの新興の非漢民族政権が成立して四川がその勢力圏に近接するようになったため、
四川では引き続いて鉄銭の使用が強制された。 >>391
この時点でも布帛が活躍とありました
恒常的に通貨が不足してたのかなぁ
ローマとの差はどんな感じなんじゃろうか
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
均輸法きんゆほう
https://kotobank.jp/word/%E5%9D%87%E8%BC%B8%E6%B3%95-54546
中国、前漢の武帝時代の経済財政政策。
財貨の円滑な流通を目的とし、桑弘羊(そうこうよう)の立案と指導により、
紀元前115年から部分的に施行され、前110年から全面実施となった。
地方の郡県に均輸官を置き、中央には大司農(だいしのう)に均輸令を長官とする均輸があった。
商品価値のある地方の特産物を賦税にかえて納入させ、
国家はこれを他の地方に転売して物価の調整を実現し、
その利益は国庫の収入となる制度という理解が古典的解釈である。
しかしこの解釈には疑問もあって、均輸法の機能を尽くしているとはいえない。
均輸には賦税の運輸の負担を均平にする意味があったと考えられ、
また均輸法の実際の運営では布帛(ふはく)の強制的賦課とその均輸官への大量の集積があった事実が認められ、
制度の機能と運営の実体については不明の点が多い。[影山 剛] >>396
ローマとの違いだけど、以前読んだ経済史の論文でこういうのがあった。
モンゴル時代より前、
中国を中心とした東ユーラシアでは銅銭ベースの少額決済システムは発達していたが、
高額決済システムが欠けていた。
しかし、
ヨーロッパやイスラーム圏といった西ユーラシアでは金貨・銀貨ベースの高額決済システムは発達していたが、
少額決済システムが未熟だった。
モンゴル帝国の経済政策とは、この両者の結合、つまり高額決済手段と少額決済手段が両方完備したシステム構築であった。 >>370>>391
すばらしく簡潔です
https://rekishinosekai.hatenablog.com/?page=1485375327
前漢・武帝J:運河 漕運/灌漑/治水
前漢・武帝I:算緡令・告緡令/均輸法・平準法/桑弘羊
前漢・武帝H:塩鉄専売/五銖銭と貨幣の中央政府独占発行
前漢・武帝G:第二期対匈奴攻戦
前漢・武帝F: 西域支配 >>390
弥生時代の日本の住居も、瓦を使ってないことを除けば、別に変わらんぞ? ロシア語で金銭のことをジェニギと言うけど、モンゴル経由で入ってきた中国語の「銭」が語源だそうで。
ロシア語にはモンゴル起源の語彙はけっこう多い。モンゴルでは勅書を意味したヤルルィクも現代ロシア語に残ってる。意味は「小包の荷札」まで零落してるけどw >>399
壁や柱と梁といった建築力学的な基礎技術からまるで違うわけだが…… 古代ローマ軍の兵士たちの給料は共和制期から帝政期全般においては金貨や銀貨で支払われてきました。
しかし社会混乱と悪質な造幣により貨幣価値が暴落した西ローマ末期の時代には一時的に塩で支払われていた時期があるといわれています。
当時の人にとっても貴重な必需品だったため、塩でお給料を払うという行為が成立していたのです。
古代ギリシア人も、奴隷を買う際に塩で支払ったとされています。
奴隷の価値は同じ重さの塩と同等だったそうです。
人間の命と同じように扱われるほど、古代では貴重品だったことがわかります。(人間の命が軽く扱われていたともいえますが)
日本でも塩は物々交換にもつかわれてきました。塩を米や穀物と交換していたのです。
中国では、塩に重税をかけていた時代もありました。広い国土の割に塩の産地が少なかったために、国を支えるために重要な財源となっていました。
サラリーマンのサラリーはラテン語の「salarium」を語源にしているといわれています。
これは塩を購入するための手当てや、塩田や塩の輸送ルートを守ったりさせるための現金報酬を意味しています。 >>401
今でも、内陸部の農村なんか、原始人みたいな生活しているぞ? >>397
アテナイ市民がどっぷり首まで浸かっていたというのは聞いておりましたが
ポンペイさんの中の人もどっぷりでございました、、、
http://www.vdgatta.com/note_coin.html
古代ローマの貨幣について考えてみたいと思います。貨幣価値については、意見がさまざまあると思いますが、
河島の感覚で、2007年現在の日本の貨幣価値に置き換えます。
また、ローマにおける物の値段に関して、少しずつ情報を増やしていきたいと思います。
ローマ人の生活や経済活動などを垣間見ることができればと考えています。
参考文献は一番下に掲載してあります。
ポンペイのある家族の場合
あるポンペイの家の5日間の買い物、特に指定の無い単位はアス
ポンペイが噴火によって壊滅したのは79年
古山『西洋古代資料集』 p.166: CIL(Corpus Inscriptionum Latinarum) IV 5380
計15アス 6日 チーズ 1、パン 8、オリーブ油 3、ぶどう酒 3
計23アス 7日 パン 8、オリーブ油 5、玉ねぎ 5、1杯分 1、奴隷用のパン 2、ぶどう酒 2
計15アス 8日 パン 8、奴隷用のパン 4、カラス麦 3
計28アス 9日 勝利のためのぶどう酒 1デーナーリウス(16アス)、パン 8、チーズ 2、ぶどう酒 2
計59アス 10日 …1デーナーリウス、パン 2、女性のためのパン 8、小麦1デーナーリウス、きゅうり 1、ナツメヤシの実 1
乳香 1、チーズ 2、ソーセージ 1、やわらかいチーズ 4、オリーブ油 7 >>400
ドラゴンボールも「ゼニー」でしたが
これもモンゴル経由ですかね、、、
勅書が「小包の荷札」となったのはなんでなんだろ
もしかしてハンコもらうからなのかww 日本語の「ゼニ」とロシア語の「ジェニギ」の語源が同じだとは言われているな
あまり指摘する人がいないけど >>403
中国は2016年に未電化人口ゼロを達成してるんだけど、君の脳内の原始人って電化製品使ってるの?w >>406
両方とも、漢語の「銭」が語源なんだろうね。
案外、漢字の「訓読み」に採用されている「やまとことば」の語彙に、
漢字とセットではない口語で入ってきた漢語起源の語は多いように思える。
有名なのが「うま=馬」と「うめ=梅」だが、今ちょっと思い出せないが怪しいのがかなりいっぱいある。 >>397に追記だが
少額決済システムの未整備だったモンゴル帝国以前の西ユーラシアでは、
金貨銀貨を使うまでもない少額の小売り取引では、
それこそ布や塩などの現物との物々交換が主に行われていたんだと。
つまり、金貨銀貨の信用暴落していない貨幣が有効に機能している時代でも、
少額小売り取引で布や塩などの交換財が不可欠だったようなんだな。 >>405
変化の順序としては
1.ハーンの勅書
2.ハーンの意思をうけた国庫からの支給命令書
3.荷札
らしい。
2→3はまあわかりやすいとして、1から2の特殊な意味への変化は何か特殊な事情でもあったのかな? >>409
まあ、金貨銀貨の場合は、貴金属としての価値が裏付けになっているからな
政府の信用が暴落しても、溶かして地金にすればいいだけ
金と元の朝廷が紙幣を乱発した反動で、明では銀貨が好まれた >>411
明朝の銀貨ってのは、大元ウルスの反動ってわけでもないんだよな。
そもそも、大元ウルスを北方に追い払ったばかりの明朝前半期の時代というのは、
銀本位制を敷いていた大元ウルスにおいて経済規模に対する銀の不足で起きた経済大混乱の危機対応時代。
むしろ、紙幣と布などの現物決済が優先されて貨幣経済としては後退した時期。
この経済混乱期を脱して、日本やスペインから流入した銀で大元ウルス時代の銀決済が民間主導で復活し、
朝廷も民間の追認で銀決済に移行していったのは、明朝後半の現象。 >>397
前漢、唐でも金貨銀貨が使われてた史実を無視しちゃいかんよ >>410
1と2のでちらにも
ハーンコが押してあったことは
想像に硬くないですね
>>408
銭がセントと同じ語源なんじゃないかと
怪しんでおります >>402>>395>>391
塩はおいらの知る限りで塩はモンゴルからですね。
エジプトはさっさと小麦でやってるし
やっぱイノベーション的なものなんすかね
現在に繋がるやつもゴールドスミスの奴ですから >>372
まぁ、銀が決済通貨に使われてる国と貿易したら
そうそうに銀が流出したことは
用意に想像がつきますなぁ
王莽さんはどうすれば良かったんだろうか、、、
重商主義というのはやっぱ必要なのか、どうなのか >>416
もう、前漢の帝国性を支えていた在地の社会システムは雲散霧消している時代だし、
豪族の荘園システムはもうとても潰せる状態ではないし…
いずれは後漢的な豪族連合政権に移行せざるを得ない時代には来てたんだろう。 >ウムウムさん
なんでいつも自己レスにレスつけているの? >>419
多数決合議性の自己学習人工無能なので
自分と会話していますね >>370
白登山の戦い(はくとさんのたたかい)は、
紀元前200年に行われた匈奴と漢の戦いである。
白登の囲みともいう。
この結果、70年ぐらい匈奴への歳幣が続く
その後、武帝さんの中の人が出て
西域経営を始めるのだが
その前後でどっちの方がお金が流出したのだろうか、、、 >>421
関市ではしばしば遊牧民に超絶不利なレートで生活必需品の取引をしてるので
遊牧民に払った金を漢人側が盛大にボッて回収してる
匈奴側もそれを見越して歳幣を貰ってる感あり
プラマイで言うと多分微赤くらいなんじゃないかと推測してる
西域経営は大赤+人的資源の大喪失を起こしてるんで
負けるが勝ち状態じゃねーかなーとか思う、確証ないけどな >>422
政府の営業成績的には
西域経営は大赤字だったでしょうが
中華の富は
増えたんだろうか
減ったんだろうか
そんでもってお金が無くなったのは
始める前と後でどっちなんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています