秦漢帝国
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>>367
結果として反乱は鎮圧され、かえって漢朝の基盤が固まった
この結果が面白くないんじゃないかな?
安史の乱みたいに唐が崩壊するとか、靖難の変みたいに南京の朝廷が引っくり返されるとか、そういう刺激的な結果だったら、もっと良かった >>366
お金ヤバイ、、、
@秦の統一とともに貨幣が統一される
→各国から大量の武具が押収され
官営鋳造所で鋳なおされ大量の金属貨幣が供給される基盤となる
A私設の鋳造が許可され、反乱軍の財政的なバックボーンとして機能する。
B後漢になると金属貨幣をベースにした経済は衰退
布帛が幅をきかすようになる
C董卓さんの中の人が小銭欲しさに銅銭に止めを刺す >>370
>>B後漢になると金属貨幣をベースにした経済は衰退
>>布帛が幅をきかすようになる
前漢代には農民でも人頭税が銅銭納税だったので収穫物を換金する必要があったんだよな。
結局、古代的な郷里共同体の成員が豪族の成長によって浸食されて豪族の隷属民に落ちていったことで
貨幣経済の基盤が掘り崩された、という事なのかな。 >>371
普通に生活してるだけでも
お金が大量流出しちゃったらしいです、、、
あと派手にお金使う人ほど名君とされる法則でもあるんですかねぇ >>372
そりゃあ、おカネを派手に使うほど景気が良くなって民間が喜ぶのは、今も昔も変わらない
財政破綻と、後世に残すツケが問題 漢代の民衆には、竪穴式住居に住み、土器や青銅器で暮らす人も多かった
まだまだ、原始人と文明人が混在していた時代 鉄製農具なら春秋時代から普及してるし「竪穴式住居」と言うのも多分君が連想してるのとは別物だと思うぞ
そもそも前漢代まで都市国家の延長線上で古代ギリシャと同様ほとんどの住人は「里巷」とよばれる城壁で囲まれた都市に住んでおり
散村みたいなのはほとんどなかった >>375
「豪族」っていう新興勢力が勃興してくることで、都市国家ベースの社会が崩れて、
豪族の隷属民に墜ちていく民衆が増えてくるんだよね。
その結果、豪族の荘園に居住する荘民が農民庶民の普通の姿になっていく。
その結果としての豪族連合政権である後漢の成立。 >>375
弥生時代の日本みたいな住居をイメージしておけば間違いない 古墳時代の庶民の竪穴式住居が榛名山の火山噴火で降り注いだ軽石で埋もれたやつが
群馬県の黒井峰遺跡から出てるんだが、
多くの書籍の「竪穴式住居」のイメージからかけ離れているのな。
地面への掘り込みは人の背丈ぐらいに深くやってるし、
その上に載っている屋根も、草ぶき露出じゃなくて
壁土で頑丈に塗りこめられている。
かなり防寒性のある優秀な住居だよ。 あの時代、寒かったのかね。いわゆる北方系の住居だ。
しかしそのあと、平安期になると、少なくとも貴族の家は南方系というべきシロモノに変化している。
「夏を旨とすべし」というやつだ。
その後の小氷期でもそれは変わらなかった。ちょっと不思議。 >>379
黒井峰遺跡は、まぁ、からっ風の吹く北関東の上州だし、
平安貴族の寝殿造邸宅が建っていたのは夏が地獄の蒸し暑さの京都盆地だし・・・ あと、弥生時代の「高床式」の建造物が、「高床式倉庫」なのか「高床式住居」なのか、
検証が難しくて、かなりの「高床式住居」が「高床式倉庫」としてカウントされてしまっている
可能性も考慮すべきかもしれないな。 さらにちょっと付け加えると、
歴史時代の伝統的日本民家ってやつなんだが、
高床式の床敷きの建築と、土間建築を大黒柱のところで接合した構造になっている。
多分、床敷きの部分は高床式住居の系譜をひいていて、
土間の部分は竪穴式住居>平屋住居の系譜をひいている。
両者が接合前の時代には、ひとつの家族が同時に建設されている二棟の別構造の
民家を同時使用していて、季節によって住み替えた可能性もあるんじゃなかろうか。 漢の文明を異様に高く評価してる人たちってのは、一度、博物館で当時の遺物を見てきたらどうなんだろな?
結構、原始人っぽいよ。
もちろん、全部がそうじゃないんだが。 >>384
人によって感性は違うと思うけど、漢代のものは原始人っぽい >>387
漢代の庶民レベルの生活具の「素朴さ」ってのは、「原始人っぽい」のとはちょっと違うと思う。
これは、庶民の生活を支える生活具が「商業生産」されていない、ということを意味してるんじゃないかな。
つまり、都市エリートの生活は十分商業化され、そこに商品を供給する工業も発生しているが、
庶民の生活は十分貨幣経済化されておらず、生活に必要な物資の供給は商工業に依存していなくて、
前漢の段階では郷里制の共同体に属する職人、後漢の段階では豪族の荘園に属する職人が製造していた。
商工業の市場原理にさらされていたわけではないので、
商品としての洗練は見られない素朴な生活具を庶民は用いていたのであって、
それは決して「原始的」な生活というわけではなかったと思うんだが。 >>388承前
そういう意味で、庶民の生活具が十分に「商工業化」されて
市場原理での洗練の洗礼を十分に浴するようになるのは、
事実上、宋代になるんじゃないか? >>387
これで原始人なら、奈良時代の日本でさえ類人猿みたいなものじゃね? >>370
Aの時点では、銅銭による通貨発行益が得られていたのは明らか
そしてこの後、武帝さんの中の人が
信用貨幣の発行に踏み切るが挫折。
その後も数度の試みられるがいずれも失敗
王莽さんは金本位制を導入することでマネー供給量の増大を図るも
結局のとこ額面価値と金属価値の切り離しはできなかったため
市場へ供給されるマネーを増大させることに失敗した 奈良時代どころか江戸時代中期ですらこの水準に達していたか怪しいレベルだぞ >>389
上流階級と都市という領域から、農村部まで貨幣経済と生活水準の平準化が進むのは、多分宋代だろうね
>>392
江戸中期の「東北と山間部を除く」日本の農村部は商品経済の発達に組み込まれ、生活水準も古代とは比較にならんぞ
「東北と山間部は除く」がな(2度目) >>389
ふむぅ、、、
墟市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%9F%E5%B8%82
墟市(きょし)とは、草市(そうし)とも呼ばれ、晩唐以後の中国において、
地方の人口密集地や交通の要所に形成された小規模な定期市の事。
この動きの中心であった江南地域では主として「墟市」と呼ばれる事が多く、他の地域では「草市」などの様々な呼称があった。
律令制(あるいはそれ以前の)中国の市場は、
国家権力が認めた一定の区画(市)以外での商業活動は厳しく禁じられて、
国家による強い規制を受けていた(中国より商業に寛容であったと言われている日本においても、
平城京や平安京の東西両市もこのような思想の元に設置されている)。
ところが、晩唐期になると国内の秩序は崩壊して律令制も破綻をきたすようになった。
そのような中で生産力の高まりとともに余剰物資を生活必需品と交換するために
人口の密集地域や交通の要所において自然的に発生したのが墟市(草市)であった。
「墟市」という名前のように月に数回あるいは何日かに一度の割合で市が開催されるものの、
それ以外の日には文字通りの廃墟も同然の状態になったといわれている(なお、今日の中国においてもこうした形式の市場を「墟市」と呼ぶ場所もある)。
だが、後年には開催間隔が短縮され、中には恒常的に営業される市場も現れて小規模な都市に発展する場合もあった。
これに目をつけた有力な地主や商人の中には環境を整備して墟市(草市)を誘致して地代を得ようとする者もいた。
また、国家や地方権力の中には墟市(草市)の支配を目的として、墟市の安全確保を名目に鎮を設置する例も現れるようになる。
また、逆に取引の安全の確保のために逆に鎮に市が形成される事もあり、これらの鎮と結びついた市を鎮市(ちんし)と称した。
他にも有力な寺院の門前に開かれた廟市(びょうし)が開かれる事があったが、
一般的な墟市(草市)が生活必需品を主として扱っていたのに対して、
広くその名が知れ渡っている寺院の廟市には遠方からも商人が訪れて遠距離貿易・中継貿易の拠点となるケースが多かった。 >>393>>391
ふむぅ、、、
なんで塩は後々までこういうのなかったんだろう
交子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E5%AD%90
交子(こうし)とは中国北宋代に四川地方で発行された紙幣。世界史上初の紙幣とされる。
概要
宋より前、唐代に堰坊という物があり、ここでは銭・金銀・布帛などを預かり、預り手形を発行していた。
この手形は他の地域において現物と同じ価値を持って支払いに使用することが出来、流通していた。
この堰坊は後に堕落して無頼者の集まる賭博場のごときものとなったが、
この手形発行の方式はここから広まって全国的な広がりを見せて、
交子・会子・関子などの手形が発行されており、交子の発行所は交子鋪と呼ばれた。
五代十国時代に於いては全中国的に商業活動が活発化しており、
主要な貨幣である銅銭の需要は非常に高かった。
しかし四川地方では銅の産出量が少なく、
需要を満たせなかったので当時四川を支配していた前蜀および後蜀政権では産出量の多かった鉄を使用して鉄銭を発行していた。
宋朝に代わった後も全国的に銅不足の状態が続き、
しかも西方に西夏などの新興の非漢民族政権が成立して四川がその勢力圏に近接するようになったため、
四川では引き続いて鉄銭の使用が強制された。 >>391
この時点でも布帛が活躍とありました
恒常的に通貨が不足してたのかなぁ
ローマとの差はどんな感じなんじゃろうか
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
均輸法きんゆほう
https://kotobank.jp/word/%E5%9D%87%E8%BC%B8%E6%B3%95-54546
中国、前漢の武帝時代の経済財政政策。
財貨の円滑な流通を目的とし、桑弘羊(そうこうよう)の立案と指導により、
紀元前115年から部分的に施行され、前110年から全面実施となった。
地方の郡県に均輸官を置き、中央には大司農(だいしのう)に均輸令を長官とする均輸があった。
商品価値のある地方の特産物を賦税にかえて納入させ、
国家はこれを他の地方に転売して物価の調整を実現し、
その利益は国庫の収入となる制度という理解が古典的解釈である。
しかしこの解釈には疑問もあって、均輸法の機能を尽くしているとはいえない。
均輸には賦税の運輸の負担を均平にする意味があったと考えられ、
また均輸法の実際の運営では布帛(ふはく)の強制的賦課とその均輸官への大量の集積があった事実が認められ、
制度の機能と運営の実体については不明の点が多い。[影山 剛] >>396
ローマとの違いだけど、以前読んだ経済史の論文でこういうのがあった。
モンゴル時代より前、
中国を中心とした東ユーラシアでは銅銭ベースの少額決済システムは発達していたが、
高額決済システムが欠けていた。
しかし、
ヨーロッパやイスラーム圏といった西ユーラシアでは金貨・銀貨ベースの高額決済システムは発達していたが、
少額決済システムが未熟だった。
モンゴル帝国の経済政策とは、この両者の結合、つまり高額決済手段と少額決済手段が両方完備したシステム構築であった。 >>370>>391
すばらしく簡潔です
https://rekishinosekai.hatenablog.com/?page=1485375327
前漢・武帝J:運河 漕運/灌漑/治水
前漢・武帝I:算緡令・告緡令/均輸法・平準法/桑弘羊
前漢・武帝H:塩鉄専売/五銖銭と貨幣の中央政府独占発行
前漢・武帝G:第二期対匈奴攻戦
前漢・武帝F: 西域支配 >>390
弥生時代の日本の住居も、瓦を使ってないことを除けば、別に変わらんぞ? ロシア語で金銭のことをジェニギと言うけど、モンゴル経由で入ってきた中国語の「銭」が語源だそうで。
ロシア語にはモンゴル起源の語彙はけっこう多い。モンゴルでは勅書を意味したヤルルィクも現代ロシア語に残ってる。意味は「小包の荷札」まで零落してるけどw >>399
壁や柱と梁といった建築力学的な基礎技術からまるで違うわけだが…… 古代ローマ軍の兵士たちの給料は共和制期から帝政期全般においては金貨や銀貨で支払われてきました。
しかし社会混乱と悪質な造幣により貨幣価値が暴落した西ローマ末期の時代には一時的に塩で支払われていた時期があるといわれています。
当時の人にとっても貴重な必需品だったため、塩でお給料を払うという行為が成立していたのです。
古代ギリシア人も、奴隷を買う際に塩で支払ったとされています。
奴隷の価値は同じ重さの塩と同等だったそうです。
人間の命と同じように扱われるほど、古代では貴重品だったことがわかります。(人間の命が軽く扱われていたともいえますが)
日本でも塩は物々交換にもつかわれてきました。塩を米や穀物と交換していたのです。
中国では、塩に重税をかけていた時代もありました。広い国土の割に塩の産地が少なかったために、国を支えるために重要な財源となっていました。
サラリーマンのサラリーはラテン語の「salarium」を語源にしているといわれています。
これは塩を購入するための手当てや、塩田や塩の輸送ルートを守ったりさせるための現金報酬を意味しています。 >>401
今でも、内陸部の農村なんか、原始人みたいな生活しているぞ? >>397
アテナイ市民がどっぷり首まで浸かっていたというのは聞いておりましたが
ポンペイさんの中の人もどっぷりでございました、、、
http://www.vdgatta.com/note_coin.html
古代ローマの貨幣について考えてみたいと思います。貨幣価値については、意見がさまざまあると思いますが、
河島の感覚で、2007年現在の日本の貨幣価値に置き換えます。
また、ローマにおける物の値段に関して、少しずつ情報を増やしていきたいと思います。
ローマ人の生活や経済活動などを垣間見ることができればと考えています。
参考文献は一番下に掲載してあります。
ポンペイのある家族の場合
あるポンペイの家の5日間の買い物、特に指定の無い単位はアス
ポンペイが噴火によって壊滅したのは79年
古山『西洋古代資料集』 p.166: CIL(Corpus Inscriptionum Latinarum) IV 5380
計15アス 6日 チーズ 1、パン 8、オリーブ油 3、ぶどう酒 3
計23アス 7日 パン 8、オリーブ油 5、玉ねぎ 5、1杯分 1、奴隷用のパン 2、ぶどう酒 2
計15アス 8日 パン 8、奴隷用のパン 4、カラス麦 3
計28アス 9日 勝利のためのぶどう酒 1デーナーリウス(16アス)、パン 8、チーズ 2、ぶどう酒 2
計59アス 10日 …1デーナーリウス、パン 2、女性のためのパン 8、小麦1デーナーリウス、きゅうり 1、ナツメヤシの実 1
乳香 1、チーズ 2、ソーセージ 1、やわらかいチーズ 4、オリーブ油 7 >>400
ドラゴンボールも「ゼニー」でしたが
これもモンゴル経由ですかね、、、
勅書が「小包の荷札」となったのはなんでなんだろ
もしかしてハンコもらうからなのかww 日本語の「ゼニ」とロシア語の「ジェニギ」の語源が同じだとは言われているな
あまり指摘する人がいないけど >>403
中国は2016年に未電化人口ゼロを達成してるんだけど、君の脳内の原始人って電化製品使ってるの?w >>406
両方とも、漢語の「銭」が語源なんだろうね。
案外、漢字の「訓読み」に採用されている「やまとことば」の語彙に、
漢字とセットではない口語で入ってきた漢語起源の語は多いように思える。
有名なのが「うま=馬」と「うめ=梅」だが、今ちょっと思い出せないが怪しいのがかなりいっぱいある。 >>397に追記だが
少額決済システムの未整備だったモンゴル帝国以前の西ユーラシアでは、
金貨銀貨を使うまでもない少額の小売り取引では、
それこそ布や塩などの現物との物々交換が主に行われていたんだと。
つまり、金貨銀貨の信用暴落していない貨幣が有効に機能している時代でも、
少額小売り取引で布や塩などの交換財が不可欠だったようなんだな。 >>405
変化の順序としては
1.ハーンの勅書
2.ハーンの意思をうけた国庫からの支給命令書
3.荷札
らしい。
2→3はまあわかりやすいとして、1から2の特殊な意味への変化は何か特殊な事情でもあったのかな? >>409
まあ、金貨銀貨の場合は、貴金属としての価値が裏付けになっているからな
政府の信用が暴落しても、溶かして地金にすればいいだけ
金と元の朝廷が紙幣を乱発した反動で、明では銀貨が好まれた >>411
明朝の銀貨ってのは、大元ウルスの反動ってわけでもないんだよな。
そもそも、大元ウルスを北方に追い払ったばかりの明朝前半期の時代というのは、
銀本位制を敷いていた大元ウルスにおいて経済規模に対する銀の不足で起きた経済大混乱の危機対応時代。
むしろ、紙幣と布などの現物決済が優先されて貨幣経済としては後退した時期。
この経済混乱期を脱して、日本やスペインから流入した銀で大元ウルス時代の銀決済が民間主導で復活し、
朝廷も民間の追認で銀決済に移行していったのは、明朝後半の現象。 >>397
前漢、唐でも金貨銀貨が使われてた史実を無視しちゃいかんよ >>410
1と2のでちらにも
ハーンコが押してあったことは
想像に硬くないですね
>>408
銭がセントと同じ語源なんじゃないかと
怪しんでおります >>402>>395>>391
塩はおいらの知る限りで塩はモンゴルからですね。
エジプトはさっさと小麦でやってるし
やっぱイノベーション的なものなんすかね
現在に繋がるやつもゴールドスミスの奴ですから >>372
まぁ、銀が決済通貨に使われてる国と貿易したら
そうそうに銀が流出したことは
用意に想像がつきますなぁ
王莽さんはどうすれば良かったんだろうか、、、
重商主義というのはやっぱ必要なのか、どうなのか >>416
もう、前漢の帝国性を支えていた在地の社会システムは雲散霧消している時代だし、
豪族の荘園システムはもうとても潰せる状態ではないし…
いずれは後漢的な豪族連合政権に移行せざるを得ない時代には来てたんだろう。 >ウムウムさん
なんでいつも自己レスにレスつけているの? >>419
多数決合議性の自己学習人工無能なので
自分と会話していますね >>370
白登山の戦い(はくとさんのたたかい)は、
紀元前200年に行われた匈奴と漢の戦いである。
白登の囲みともいう。
この結果、70年ぐらい匈奴への歳幣が続く
その後、武帝さんの中の人が出て
西域経営を始めるのだが
その前後でどっちの方がお金が流出したのだろうか、、、 >>421
関市ではしばしば遊牧民に超絶不利なレートで生活必需品の取引をしてるので
遊牧民に払った金を漢人側が盛大にボッて回収してる
匈奴側もそれを見越して歳幣を貰ってる感あり
プラマイで言うと多分微赤くらいなんじゃないかと推測してる
西域経営は大赤+人的資源の大喪失を起こしてるんで
負けるが勝ち状態じゃねーかなーとか思う、確証ないけどな >>422
政府の営業成績的には
西域経営は大赤字だったでしょうが
中華の富は
増えたんだろうか
減ったんだろうか
そんでもってお金が無くなったのは
始める前と後でどっちなんだろうか >>423
まあ、交易が活発化した隋唐ならともかく、武帝の頃は、良馬の確保が大きな目的だったわけだし 自動車やオートバイが生えてくる場所だったのか
三河や遠江地域をめぐる争奪戦のようなものかな >>423
中華世界の銅銭貨幣は中華の外ではほとんど通用しないので、貨幣としての外への流出はないと思う。
確か歴代王朝での銅銭不足のひとつの原因として、銅銭として設定されている価値より、
青銅製の器具に鋳なおした物品の価値が高いために、
民間で銅銭をどんどん鋳つぶして道具に鋳なおしてしまう、という問題があったはず。 古代だからな
馬の調教技術は、当時としてはハイテクの領域 >>426
宋銭は、日本を含むアジア各地で広範に流通していた >>428
あ、言い直すわ。
戦国〜秦漢帝国の時代の銅銭ね。
一応王莽の新の貨幣が弥生時代の日本に来ていた例はあるけど、当時はまだ中華の隣接世界で
貨幣経済が目覚めていない。 >>426
そこでいう中華世界とは、どこまでを指すんだ?
旧ビルマ、インドネシアあたりを含む東南アジアや、日本も含む中華帝国外の国々への銭の流出が問題になったのは
宋・明時代だけの話じゃないんだが
そこまでが中華世界だってんなら、まあその通りだが >>428 >>430
おまえスレタイ読めないのかよ いや、でもやっぱり俺の表現が舌足らずだったわ。
スレタイ別にして、時代限定宣言すべきだった。
でも、本格的に中華王朝版図の隣接地域が貨幣経済に突入して
中華銅銭受け入れるようになるのっていつからなんだろう。
日本の場合は真の意味で浸透するのは日宋貿易も後期以降だとわかるんだが。 >>429
中央アジアやモンゴルは勿論インドも未だ貨幣経済に入るかどうかの時期だからねw
>>426
額面に対する金属としての価値+銅銭の鋳造コストが75%前後 >>426>>433
おいらが知ってるのは
盗鋳が横行していたことなので
通貨発行益は十分あったはずということですね
あとは売官制度が流行る時代になると
金持ちの中の人の家に銭が死蔵されて
通貨としての流通が減って
もっぱら富の蓄積としての役割が増しちゃったはずです >>426
ねーよ
貨幣は金属の値段+政府信用+政策的調整で価値は地金より高く設定されてるわ
歴代王朝共通の政策だぞ
何のために私鋳銭作って儲ける犯罪者とそれを取り締まる官僚が設定されてるのか知らんのか? >>435
東アジアの銭貨はそういうものじゃないよ。
政府の信用とはほとんど関係なく、地金の価値とも最低限しか連動しない。
今で言えば仮想通貨のあり方に近い。
王朝が銭を発行した目的は民間の便宜を図る面が強くて発行益は限られていたから、
私鋳が厳しく取り締まられることも少なかった。 >>436
えっと悪いんだが出典聞いていいか?
何か言ってることおかしくねぇか? >>437
おかしいというのはその通りで、東アジアの銭は西洋的な常識では理解しがたいところがある。
流通するから流通する、交換手段が必要だから流通する。
地域ごとに流通に関する謎のローカルルールが発達する。
金銀との相場は短期的な決済需要に大きく左右されて季節変動が激しい。
いろんな本に出てくる話。 日本では、わりと宋銭を潰して銅にするのが盛んだった
明の時代になっても、日本人は宋銭を要求することがあった
宋銭のほうが良貨だから 宋銭は、日本を含む東アジア各地で流通していたが、現代の米ドルと同じような意味で「基軸通貨」だったわけではない
それぞれの国のローカルルールで勝手に使われていた >>438
王朝の権力の及ぶ領域の外はともかく内部ではちゃんとやってて
その統制が取れなくなると塩鉄の密売と銭の私鋳で経済が滅茶苦茶になって崩壊
って毎度のパターンだから言ってる事おかしいって話 毎度のパターンじゃ無いからな
鉄の専売なんて春秋〜前漢までしかやってない
銭の私鋳も南北朝まで、明の悪銭は地方政府の鋳銭した粗悪品 >>441
清の全盛期ですら私鋳は後を絶たなかった。それも先進地帯の方がひどい。
逆に辺境では兵士の給料を通じて制銭が豊富に供給されたおかげで私鋳銭は少なかった。
銭の流通が混乱したのは銭不足の時期で、
いったん不足が始まると良銭は退蔵されて悪銭ばかりが流通するようになる。 >>442
毎度でしょ
秦漢のスレで何言うてんの? >>439
いやいや日本は銅を輸出して宋銭を買ってたのに
それをまた元の銅に戻すとか意味不明だぞ >>445
日宋貿易、日元貿易の時代にはまだ銅の輸出は本格的に始まってない。
この時代の主要な輸出産品は硫黄と木材。
銅が本格的に輸出されるようになるのは日明貿易からだね。
輸入宋銭が大量に鋳つぶされた好例が鎌倉の大仏だよ。 鎌倉時代だと未だ自給自足物々交換の時代だし青銅器も使われて無いからな 日宋貿易で徐々に入り始めて通貨としての流通が始まった宋銭が日元貿易で
一気に大量流入して日本列島が本格的に貨幣経済に入るのが鎌倉時代後期な。
荘園公領制の秩序外でまわる経済が増大してきて、そういうのを背景に
反幕府的な活動をする武装組織(いわゆる悪党)が活発になってくる時代だ。
貨幣の流通とともに庶民が蓄財してそれを元手に荘園や国衙領の支配を抜けて
一揆結合に基づく村とか町を結成し始めるのも重要な動きとなる。 後漢時代はあんまり印象ないと思ったので
ウィキペディア先生を見ていたら
たしかに科学技術の発達が著しかったです
なにか時代背景的みたいなのあるのかなぁ
紙の発明ぐらいしか説明できる要素を思いつかないですね >>449
後漢時代というと、新石器時代以来の邑制社会の根っこにある郷里制の共同体が
豪族の成長に侵食されて解体してしまった時代。
こういう基礎共同体の解体の時代というのは、庶民目線だと互助的な扶助団体を失う事なので
非常にしんどい時代なんだが、別の見方をすると、共同体の縛りから社会が解放されて
ある種の「自由競争」が到来した時代ともみなすことができる。
豪族、というのも見方を変えると、「自由競争時代」の新進の起業家群とも見ることができるわけで、
こうした豪族の経営組織の中で新規技術が次々に生まれた可能性がある。 >>450
かといって在野の人材が
地方で活躍する感じでもないんですよね
なんか中央にひっぱってくる仕組みみたいなのあったんだろうか、、、
あとは儒教との関係性も気になりますね >>450
国衙料も荘園も残忍酷薄な重税労役に堪えかねた百姓に由る
仏教寺院への亡命や寄進、暴力団の横領が広い地域で進行したものの、一揆惣村は地域的に限られた現象 >>452
むしろ、日本の国衙領や荘園ってのが、暴力団的な「富豪之輩」と呼ばれる新興経営者による
在地社会の実効支配を追認したシステムだよ。
で、国衙領や荘園(後期荘園)による「荘園公領制」というのが成長したのは10〜11世紀。
それに支配された民が貨幣経済を背景に蓄財して「村」や「町(ちょう)」を形成し始めるのは
14世紀末で、全然時代が違う。
だから、鎌倉〜室町初期の武家の所領は国衙領の郡・郷・保や荘園単位だが、
戦国期にそういう所領の単位がどんどん崩れていって、最終的に織豊期〜江戸期には
武家の所領が全部、村・町単位に変貌してしまう。 国津神系の地方領主層が天皇朝廷に粛清され滅ぼされ尽くしたのが8〜9世紀で
新興の貴種暴力団が代わって農奴制支配を広げたのが9〜11世紀
それ等の暴政に因る餓死者が続出して百姓が寺院へ駆け込む時代が10〜13世紀
惣村は畿内近縁に限定的な現象、武家が多少まともに成っていくのも室町時代 後漢は、明の後期と並んで、人口が増えた時代のひとつだろう
もちろん、18世紀以降は別扱いで >>454
そもそも、日本の9世紀までの地方の有力者層は伝統的な共同体からの規制を大きく受けている首長層で、
いわゆる封建的な意味での領主ではない。
それに、武力的に粛清されるどころか、律令制の運用そのものが彼ら地方の首長制共同体に深く依存していた。
例えば、地方に派遣される令制国の国司は、これら地方首長にあいさつ回りをして戸籍を取りまとめてもらったり、
徴税の実務なんかも彼らに丸投げ。
彼らの没落要因は、かなり複雑な共倒れ現象で、私の見たところ、歴史学的にも十分解明されたとはいいがたい状態。
10世紀に地方首長層が没落するのに合わせて台頭した「富豪之輩」にしても、貴種もいれば在地の富裕層から
成長した者もいて、きわめて多様な出自から成長している。
惣村としての組織がしっかりしたものが先進的に発達したのは確かに畿内近国だが、東国や九州でも「村」は
形成されている。 >>451
日本の場合、中央政権を構成する集団に出自する者がどんどの地方に拡散して土着していって
地方の有力者から中央に登用されるってのが稀なんだけど、
中国の場合、地方で有力者になった者が中央に吸い取られて中央政権の構成要素に組み込まれていく、
というパターンが優越している。
後漢の豪族層にしても、中央政権にコミットすることで在地の権力を強固にしている印象がある。 水滸伝では、梁山泊で旗揚げした無頼漢たちが、アッサリと朝廷に投降して、今度は官軍となって方臘の乱の討伐に向かったりする
日本人にとっては違和感ありまくりの展開だけど、中国人にとっては別におかしくない
地方が中央に組み込まれるプロセスってのは、そんなもんだった 源氏も平氏も、出自は天皇家
彼らが全国各地、とくに関東で在野の武士となった 古代中国では、地方の豪族の土地所有のスケールが違ったということだろう
「大陸は広いから」の一言では片付けられない
同じ大帝国でも、西ローマ帝国の地主はトンデモない規模で土地を所有していたが、東ローマ帝国ではそれほどでもなかった そりゃギリシアわ丘陵の間間に平坦地が散在してるからね
>>456
共倒れ現象なんかじゃ無く
天皇朝廷が積極的に国津神系地方領主を様々な謀略や戦闘で殺してる >>419
既においらが誰と話しているのか
さっぱりわからんのですが
皆さんのレスは誰と話しているのですか? >>457>>450
ここで書いてることは
秦〜前漢〜後漢でなぜ後漢時代に
科学技術が発展したかを
説明してないような気がするんですよね
共同体が崩壊すると自由競争が起きる
というのもピンとこないです >>464
そりゃ因果関係逆だしねぇ
社会の流動性が高まる要因が出来て、共同体が崩壊して行くのならありえるけど
再起にいきなり共同体が崩壊してから流動性が高まる、というのは本来ありえない
外的な攻撃で共同体が崩壊して、みたいなことならまあありえるけど後漢には当てはまらないし 後漢の社会変動は、長期安定で人口が増えたのが根本原因だろう
漢・唐・明・清と、みんな長期王朝の後半で大きな社会変動が起きている 乱世は乱世で、人口減少による社会変動が起きるんだが(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています