唐宋変革期4
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都市とわ全く違う唯の大商人、倉庫屋
というか有徳人や問丸や土倉が都市とか完全に意味不明 堺は?というか
京都延暦寺興福寺金剛峯寺熊野神社安濃津博多なんかの少数の都市にわ地方から物運んで来る様な大資本の交易商人が居た
あと、坊津とか兵庫とか堺とか辺りでも都市じゃ無いし一乗谷山口が都市化するのも大分遅くて中世後期 >>92
武家の館なんてのわ日本の豪邸に毛が生えた程度の広さで
建物わ漢代以前の中国の庶民宅並みにショボい作り
時期的に早いのわ山口や駿府や一乗谷、石山本願寺わ山科が焼き討ちされてから >>120
でその「有徳人」は排他的な特権領域である「都市」を形成したの?
「都市的な場」と「都市」の区別がついてないんじゃね 寺内町や境内都市わ略々都市と同じ、完全に都市かと問われると微妙だけど どこまでが都市なのかは本当に難しい。
炭坑の飯場や軍隊の基地、あるいは空母などにも都市機能らしきものはある。 都市国家みたいな特定集団が先に来る構造は都市じゃ無いでしょ
大規模で恒常的な軍隊+補給基地+商人迄行くと都市かもしれんけど >>129
それは一般的な考え方ではないね
都市の成立は、都市国家の成立から始まるってのが、一般的な世界史的見方だから
具体的には、ウル、バビロンなどのメソポタミア都市国家群のことね
>>126
その辺、まさに定義によるんじゃねーかね
例えば欧州の一部の宮廷都市は、特権はなく王家の直轄支配下にあったが、それは都市なのか、とかそういう議論になる 欧州の都市論読んでると結構面白いんだよな
アルプス以北と以南で成立過程がかなり違ったり、王家との関係性で、都市の性格が違ったり
特にアルプス以北の都市領主の城市に隣接して、商人が住み着いて都市の二元化は進むんだけど、
これが一元化することはなかなかなかったり、みたいな話もあって
中国も唐代くらいまでは都市国家の連合体みたいな性格があったわけだけど、欧州とは性格が随分違うよね >>130
ウルその他のシュメール諸邦は宗族と土着神で結び付いた都市国家が
都市国家群として封建体制を確立して行く過程で一部が都市に成った
発展の結果、都市に成ったのであって都市国家時点で都市を形成した訳じゃ無い >>131
都市国家の連合体的な構造は秦漢の統一を以て終わる >>130
ヨーロッパには固定的な「宮廷」とかないぞ
東アジアだと天子の居城である「都城」とか「畿内」が設定されてるのが普通だけど
中世ヨーロッパには厳密に言うと首都という概念がない
国王もあくまで筆頭封建領主に過ぎず有力な封建領主や都市の間をグルグル回って政務を行っていた
所謂「移動宮廷」ってやつ
中国だと殷周時代に遡ってもそういう政体はなかったと思う >>134
ここ、東アジアのスレだから詳しくするのもアレだけど
宮廷都市ってのは、王都ってことではなく領主の政庁が置かれた都市って意味だよ、歴史用語
一時期までのケルン、ミュンヘン、プラハ、その辺の都市
王宮とは限らない
対するのは、アウグスブルグ、ブレーメン、ハンブルク、リューベックと言った自由都市 所謂自由都市の大半は秦統一以前の郷村と何も変わら無い非都市だし
王庭都市も初期わ政治城廓だった所もある 北宋の都市って今で言うところのゲーテッドコミュニティみたいな感じで都市部の住人は繁栄を謳歌しててもそれ以外の住人は無茶苦茶悲惨な生活してたのかも どちらかと云うと今の中国と違って農村の方が都市より締め付け緩め
農村は農村で士大夫が好き勝手やってたけど >>135
自由都市の意味わかってるか?
皇帝に対して軍役や貢納を行う代わりに自由(自治)権を得た都市のことだぞ
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-067.html
>神聖ローマ皇帝に直属し、その直轄領となることで勅許状を得て自治を認めてもらうところが出てきた。
>そのような都市を帝国都市といい、自治都市の一般的な形態となっていった。帝国都市は自由都市とも言われ、
>一定の条件を満たす市民には自由が与えられ、ドイツのことわざで「都市の空気は自由にする」と言われた。 アウグスブルグ、ブレーメン、ハンブルク、リューベックにも皇帝の政庁はあるぞ
神聖ローマ皇帝には固定した治所がなくて自由都市の教会か市庁舎を間借りして政務を執っていたからな
中国だと遼も「捺鉢」と呼ばれる皇帝の治所が各地にあって固定されてないという点で西欧とよく似てる 同じ系統の北魏も始めの頃わ皇帝の居場所季節で変わってたっけ >>140
そう成るのわ異端派が西方分教と宗教闘争やった時
ハプスブルク朝スペイン帝国へ反乱起こすのに際して
皇弟のドイツ王を担ぎ上げる為にオーストリア大公の広範な支配権を認めてから 中国の歴史で云うと周、秦、前漢の頃迄やってた巡幸だから
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S1W 言われてみれば確かに・・・
日本人は「宋の時代より後の中国人」を尊敬しないらしい=中国メディア
http://news.searchina.net/id/1668992
→朱熹は南宋、王陽明は明だよな 朱熹や王陽明を尊敬してると言ってる日本人に出会ったことがない >>146
朱熹はともかく、王陽明にはフォロワーが多い
「宰相の師」こと安岡正篤がその代表格 >>137
それは中国史に一貫して続く社会構造で、宋だけが特別なんてことはない >>134
「神聖ローマ帝国の首都」とか、教科書にも出てこないもんなあ
トルコのセルジューク帝国にもそれは言える トルコ帝国は、皇帝がテント張って絨毯しいたら、そこが首都 倭国も、京都に落ち着くまでは、かなりコロコロ首都が移動してた >>152
都がコロコロ変わっても政治はずっと難波宮でやってたらしい >>146 >>148
陽明学もわかりにくいが、朱子学もわかりにくい。
学者はともかく一般人はちゃんと理解できたんだろうか。 朱子学は
「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」
この八条目に要約できるし 亡国の南宋で、夷狄の侵攻に悲憤慷慨する中華の士大夫たちが遺した、朱子学の経典。
それが、江戸時代の日本の武士に大きな影響を及ぼし、欧米以外で唯一、近代ナショナリズムが形成される土壌となった。 がちがちの朱子学であっても日本ではわりと自由に拡大解釈、
教義の取捨選択などがやれたけど、中国・韓国では官製以外の
解釈は許されなかった。 清では考証学が盛んになり、朱子よりも漢の鄭玄がヒーローになっていった 日本では、平安時代の貴族の世から、鎌倉時代の武士の世となり、見た目からしても大きな変化が感じられる。
でも中国では、唐の貴族と、宋の士大夫では、社会的なポジションが異なるだけで、外見にそう大きな違いはない。
そもそも、唐の貴族というのも、日本でそう呼ばれるだけ。
中国では、「士族」と言っている。 その後、宋が滅んでモンゴル帝国になり、中国の文化は一変した >>158
国学ってぜんぜん自由じゃないじゃん。
廃仏思想むき出し(これも朱子学のパクリ)だし、水戸学に至っては天武を弑逆犯扱いとか朱子学の悪いとこを直輸入。 唐と宋の変化は確かに大きかったが、中国大陸の文明が最も変質したのは、やはり、モンゴル帝国の時代だろう そもそも唐が元朝のプロトタイプだから。
イスラム教やキリスト教を受け入れたのも唐が最初。ペルシャ文化が本格的に入ってきたのもサーサーン朝が潰れて亡命者が唐を頼ってきたから。 唐の先祖は遊牧民かもしれないが、農耕社会の支配者になったら遊牧生活はやめてる。 高宗あたりまでは鮮卑の気風が残ってて武則天あたりから漢族化してきた印象 唐朝の始祖は父方は漢族系の隴西李氏で母方は匈奴系の独孤氏
日本で言うと母系が百済系の桓武みたいなもん 長安は、ラクダを引いた隊商の世界
中央アジアや西アジアとダイレクトにつながっていた 隋の煬帝は、江南に行幸したまま帰ってこず、事実上の遷都といわれた
そのスキを突いて、唐の李淵に長安を乗っ取られてしまった 唐宋変革は、直接には五代十国の乱世に起きた社会変動なわけだが、ほとんどの変化は、唐の後期に始まっていた
日本の戦国時代の乱世が、室町幕府の頃から既に始まっていたように、唐の後期は、既に事実上の乱世が始まっていた 唐の後半は、藩鎮が結託して反乱したことにより、皇帝が長安から脱出する事件が何度も起きた
中興の祖・憲宗のときは盛り返し、一時的に藩鎮を抑え込むこに成功したが、40代に入ると仏教・道教に耽溺する昏君と化し、宦官に暗殺された
その後も、敬宗は宦官に暗殺され、別の宦官によって擁立された文宗も結局は宦官に幽閉され、若くして惨めな晩年を迎えた
武宗にいたっては完全に宦官の傀儡だった 唐の第12代皇帝・徳宗
父代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。
764年(広徳2年)皇太子となり、779年(大暦14年)代宗の崩御にともない即位した。
即位後は唐の財政再建に尽力し、楊炎の進言に従って両税法を施行し税制面の改革に着手した。
節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。
このため784年に『罪己詔』を発して、節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。 反乱鎮圧後に、国民が乱に巻きこまれたのは自身の間違いのためだとして謝った。 唐の中興の祖・第14代憲宗
805年に即位し、藩鎮の勢力削減に取り組んだ。
817年(元和12年)には淮西節度使を討伐した。
儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。
軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
強大な藩鎮勢力を抑え込んで地方を統制することに成功したため、「唐の足利義満」とも呼ばれる (ただし、そう呼んでいる人を、自分以外に見たことはない)。
しかし、晩年には丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。 第17代 文宗
826年に敬宗が宦官・劉克明によって殺害されると、劉克明と対立する宦官の王守澄派により、文帝が皇帝に擁立された。
朝政の実権は王守澄らが掌握し、文宗は皇帝としての実権をほとんど持たず、傀儡に近い存在であった。
親政を計画し、831年に宰相の宋申錫と共に宦官の討滅を謀ったが失敗する。
そして835年に再び李訓らと共に宦官討滅を謀った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、
その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害され、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった(甘露の変)。
文宗は既に実子の荘恪太子永と蒋王宗倹を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の李成美を皇太子としていた。
しかし甘露の変が発生すると、宦官の仇士良らにより李成美は殺害され、文宗の異母弟である潁王李瀍が立太子された。
840年、幽閉されていた文宗は32歳で崩御した。
晩年に「周の赧王・漢の献帝は強臣に制せられたに過ぎないが、朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いたと伝えられている。 五代十国だけが乱世なのではない
安史の乱のあとの唐の後期には、すでに皇帝権力が弱体化して、乱世が始まっていた
唐宋変革とは、この大乱世に起きた社会変動 894年、菅原道真は遣唐使を廃止した
「白紙に戻す遣唐使」という語呂合わせでも有名な、「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期とされている出来事だ
でも、ここで注意すべきなのは、当時の唐は黄巣の乱で荒れており、各地で外国人虐殺事件が起きる、いまでいえばイラク・シリアのような危険地帯と化していたこと
約十年後の907年には唐が滅亡するのだから、菅原道真の遣唐使廃止は、「日本はもう中国から学ぶことがなくなりました」ではなく、
「唐が滅亡したので、遣唐使もなくなりました」と位置づけるべきところだろう 唐の憲宗とポジションが似てるのが醍醐・朱雀天皇かな。
彼らの死後、 唐では皇帝が傀儡となり宦官や藩朕が跋扈する世となり、
日本では律令制が終焉、藤原氏の政権掌握・武士の台頭へと向かう。
やがて、唐王朝と貴族社会の崩壊、 鎌倉幕府の登場と相成る。
中国の方がスクラップアンドビルドの度合いが強烈でハードランディング、
日本は穏便にソフトランディングした感じがする。(致傷寿永の内乱は可愛いもんだw)
日本人はなんつーか、大変革を嫌い、微調整をこまめに行う方が好きだ。(明治維新だけが唯一の例外)
天皇制が永く続いた理由にもつながるが、唐宋変革をみて少しオモタ。 >>183
それは言える
唐末には、高貴な身分の貴族たちが、簀巻きにして黄河に投げ込まれ、貴族社会が荒っぽく終焉した
それに比べて藤原北家は、幕末まで京都で連綿と続いてた 高貴な家柄の貴族たちに代わって、中国社会を主導するようになったのは、四書五経を丸暗記した受験秀才たちであった
唐の貴族社会から、明の学歴社会へ
宋・元はその過渡期であった 江戸時代の武家の子弟も、藩校とか湯島とかで、四書五経を一生懸命にお勉強してた
でも、科挙はなかった
出来が悪くて落第したところで、平民に落とされるわけではないし、
平民でも、科挙に合格すれば老中や家老になれる・・・なんてことは、まったくない世の中
学歴ではなく、家柄でほぼすべてが決まる社会だった いまでは、日本でもフランスでも、難関試験を突破した平民出身の秀才が高級官僚になるのは、当たり前と思われている
でも、これは決して当たり前ではなく、長い歴史の中では、割とつい最近のことなのを忘れてはいけない
何百年も前からこんな制度だったのは、世界でも中国だけ
その頃、日本やフランスでは、家柄でほぼすべてが決まってた >>182
>「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期とされている出来事だ
遣唐使が廃止されたのは安禄山の乱による唐の治安悪化によるもの
当時の日本とかようやく文明国としての体裁を取り始めたばかりでまだまだ未熟
江戸時代半ばに蘭学が伝わるまで学問は漢学一辺倒だったし
で不思議に思うのは中国から伝わったのは机上の学問ばかりで技術的なものはあまり伝わってないこと
例えば羅針盤とか火薬とか西の果てのヨーロッパよりも伝来がおくれている始末 日本が中国から先進文明を吸収し終えるのは早く見積もっても鎌倉中期。禅宗・茶・絵画などが多く入ってきた。
>「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期
そら、律令制とか政治制度・法律限定の話だな。
生糸や砂糖などは日本では高品質なものは作れず18世紀末まで中国製に頼り切っていたし。 >>188
火薬のような新兵器というものは、それを使う敵と対戦して、初めて威力が分かるものだ。
日本人には、モンゴルが攻めてくるまで分からなかった。
それと、日本には天然硝石の資源が無いことが、火薬国産化の大きな壁となった。
もっとも、中国の火薬兵器は、西洋銃のような精巧なものではなく、城壁を破壊することや、爆音で馬を驚かせるのが有効な利用法で、大陸での戦争には有効だが、日本ではそこまでの需要がなかった。
さらに、中国にとって日本はやはり潜在的な脅威であり、ハイテク兵器を渡したい相手ではなかった。
高麗には、倭寇対策のために鉄砲を供与した。 日本には、火薬が伝わるのは非常に遅かったが、紙は西洋よりもずっと早く伝来し、卑弥呼の時代にはもうあったという説もある
天然硝石がないおかげで火薬を国産化するまで何百年もかかったが、その代わり、紙の原料となる植物には恵まれた
この点で不利だったのは朝鮮で、紙の不足が文芸の発展を大きく阻害することとなった >>189
絹織物・陶磁器・茶は、世界に冠たる中国の三大特産品であり、こればっかりは日本に限らず、どこもかなわないのだから仕方ない >>188
日本列島の国が曲り形にも文明国家と成ったのわ徳川王朝以降で
平安時代なんて皇族や藤原族が地方土着の豪族を騙し討ち皆殺しにして共同体を破壊
異常な超重税や頻繁な臨時増税を課して国中に餓死者が満ち溢れた地獄だよ
堪え兼ねた平民の仏教寺院亡命が相次いで成立したのが荘園制だし >>193
んなわけねえだろ、ヴァカか(笑)
古代の世界で、日本のような米と魚がふんだんに取れる気候温暖の地が貧しいわけがない
近現代のハイテク社会じゃあるまいし、技術力の問題じゃねえわ 幾ら恵まれた土地でも超重税を課されて根刮ぎ支配階級に収奪されれば
飢えて死ぬしか無いからな
しかも徴税以外に略奪するし、滞納したら一家全員殺すか奴隷にする連中だし 日本が支那に追い付いたのは田沼時代とみる。 追い越したのは幕末あたり? 何気に清朝って中華文化的にも国力的には最盛期なので、アヘン戦争前後までは追いついていないのではなかろうかね
そもそも、欧州だって清朝最盛期の時代に追い抜いていたかというと微妙 >>197
そりゃ、中国とインドの国家規模がデカいのは当たり前だ
普通の大国の10倍以上の人口があるのに、国力を比べても意味がない >>195
それは、北方民族に支配された、惨めなシナ土人のこと >>198
だから、文化的にもと書いておる
経済的にも、文化的にも強力な国家、地域をどう評価するかって話でもある
ただ、清朝はその人口(というより急激な人口増加)が足枷になって急激に没落するのは皮肉なところでもある 日本と欧米の進化が急加速したのは、18世紀の後半から19世紀だろう
17世紀の世界はなんといっても、オスマン帝国・サファーヴィー朝・ムガール帝国が鼎立するイスラム文明の黄金期
もちろん、清の国力も桁違い
アメリカ・ロシア・日本・ドイツはまだデビュー前の状況 17世紀だと、日本は江戸幕府の鎖国、ドイツは三十年戦争、ロシアは動乱時代を経てポーランド・リトアニアに占領されたりとか、むしろズルズル後退してた衰退途上国
全盛期のイスラム3帝国と清朝は、あまりにも輝かしい存在だった
18世紀の後半から19世紀にかけて大逆転が起きる 田沼時代は初期近代。だが定信のバカが時計の針を逆回りさせた。
ここから日欧の差が広がるが、清は停滞したので幕末あたりで日本はシナには追い越した。 >>203
田沼意次も松平定信も、どちらも徳川吉宗の紀州系幕府の流れを汲んでいる。
つまり、徳川吉宗政権の持っていた異なる側面をそれぞれ代表する政治家だったんじゃないかな。
田沼意次も農政ではいろいろとやらかしてしまっているんで、
実のところ両極端の二人が対立してつぶしあうんじゃなくて、
補いあって助け合う体制が築けていたのなら、日本の歴史もかなり違ってきたんじゃないかと思えてならない。 田沼は人脈的には紀州閥だが、思想・政策的には徳川宗春の系列 唐の後半から五代十国にかけての大乱世を収束しようと、宋の趙匡胤は大改革を実施した
これが、日本でいえば、戦国時代を終わらせた徳川家康の歴史的役割に似ている
これを、「中世が終わって近世が始まった」と言いたくなるのもよくわかる 「権力が分散している」というのが中世社会の大きな特徴のひとつだとすれば、
皇帝権力が弱くて不安定で、国家が地方分権的な、
唐はこの特徴によく当てはまっている
藩鎮の反乱で滅亡寸前になったり、外戚に皇位を簒奪されたり、宦官に皇帝が殺されたり・・・といった、ヘタレなエピソードに事欠かない 「中国史上最弱の統一王朝」といえば、北宋を指すのが通常だが、実際には不安定な唐に比べて、北宋の国家体制はかなり強化されている
見た目の領土の広さはともかく、実態としては、唐こそ「史上最弱王朝」と呼ぶにふさわしい 晩唐以降って考えるなら、唐の権力基盤が弱体であり、中央の統制力が効かない状況であったのは事実かもしれぬ 要するに、宋より前の中国の王朝は、大唐帝国にしたところで国家の軍事を担う
武装集団の一元化が出来てないんだよ。
唐朝の場合には北族系の諸軍閥を束ねただけで、その中には華北に移住してきた
遊牧民の末裔だけじゃなくて、実際に草原地帯で遊牧生活を送っている遊牧諸部族の
軍隊も、唐朝の国家の軍事力の中枢に参画していたりする。
宋朝ではそういう国家の軍事の一元化に成功はしたけど、その状態で軍の精強さの
維持に失敗した、という感じかな。それを、火薬兵器の大規模採用によって
補ってなんとか国境線を維持していた。 >>206
柴栄 −信長 趙匡胤 −秀吉 趙匡義 −家康 という見立てはよくあるね。
>>208
皇帝権力が強化された北宋は江戸幕府に似ている。綱吉以降は特に。
宋は対外的には弱かったが、江戸幕府も対外戦争やったら弱かったもしれない。
攻めてくる国が無かったから「文弱」がばれなかっただけだろう。
中国文明の最盛期は宋代だよね。 昭和後期の日本と同じ。武力はパーだが文明のピーク時だった。 >>211
趙匡義は、たまたま見た中国の時代劇で、兄の趙匡胤をコッソリと毒殺して帝位についた陰険な悪役だったので、そのイメージが強い
でも、宋の国家体制を築いたのは、やはり趙匡義 >>210
ちなみに、北族系の軍事力の一元化が出来ていない、という唐朝の本質的な弱点が露呈したのが安史の乱。
あの当時、唐朝の勃興と突厥遊牧帝国の崩壊があったばかりで、
北族系軍事集団には次のような選択肢が目の前にぶら下がっていたらしい。
・唐朝の軍に参画してさらに唐朝の政権中枢への参画を目指す
・滅亡した突厥の「お家再興」を目指す
・新興のウイグル遊牧帝国への参画を目指す
・吐蕃帝国への参画を目指す
・新政権を樹立してその中核勢力への参画を目指す >>213
北族は、唐を「タクバツ」と呼んでいた
いくら中華皇帝として中原を制覇したといっても、彼らにとっては、やっぱり「タクバツ」 「唐は軍閥連合政権」というのは、その通りだろう
統一王朝としてまとまるのは強力な皇帝がいるときだけで、皇帝の力が弱いと、たちまち結束がゆるんで動乱に突入する
唐がなんとか治まっていたのは太宗の「貞観の治」と、玄宗の「開元の治」のとき、あとは中興の祖・憲宗のときくらいだろう
あとは外戚に簒奪されたり、藩鎮の反乱で崩壊状態になったり、宦官に皇帝が幽閉されたり暗殺されたりの繰り返し どうも、前後の歴史を見ていくと、「唐の中華統一」というのは決して安定相では
なかったように思える。
前時代の「安定相」というのは、
・漠北の柔然
・南モンゴリアと華北の北魏(拓跋鮮卑)
・江南の六朝
の鼎立状態で、これが壊れて権力体の再編に向けた流動的なフェイズの一瞬の見かけの安定相が
・漠北の突厥
・南モンゴリア・華北・江南の隋唐帝国
という対峙状況。
これが
・遊牧ウイグル帝国
・唐朝
・吐蕃
の不安定な鼎立、天下三分状況を経て、結局
・契丹遼帝国
・宋朝
の対峙状況でやっと安定してくるんじゃなかろうか。 モンゴル高原を含めた東アジア世界ということでは、遼と北宋、北元と明も南北朝時代 >>218
確かに似てると思うがな
唐 618年 室町幕府 1336年
宋 960年 江戸幕府 1603年
だいたい、600年から700年遅れで後を追っている 中華世界の邑制社会が秦漢帝国の皇帝のもと統合されたのが紀元前3世紀
日本の初期農耕共同体であるクニが律令国家の天皇のもと統合されたのが8世紀
だいたい1000年ぐらいの周回遅れ
統合の契機になったヤマト政権の連合体形成の3世紀を採用すると
だいたい500年ぐらいの周回遅れ
中華世界の邑制社会の残滓である郷里社会が解体したのを後漢初とすると1世紀
日本の初期農耕共同体であるクニが律令国家の統合の中で解体したのが10世紀
だいたい900年ぐらいの周回遅れ
まぁ、少しずつ周回遅れのレベル差は縮小していっていると言えるのかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています