唐宋変革期4
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>>63
室町後期頃から開発の進んでた地域で本百姓が増えたけど
こちらわこちらで農家から弾かれた次男以下が都市で
産業化初期の英、独、蘭、瑞の労働者並に悲惨な町人に成ったしな 現行日本国は完全な中世だな
法を犯しても貴族は刑4等減じられる
唐帝国より未開野蛮な国、それがアベ朝日本国 >>66
貴族制度は70年前に廃止されましたが?
日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。 >>62
また性懲りもなくデタラメ書いてるな
「天聖令」にある「捕亡令」って一体どういう意味か分かりますか?
中国は戸籍で人口動態をキッチリ管理してのだから上は三公から下は佃戸まで移動の自由なんてないですよ
これは今でも変わらないですね
https://mainichi.jp/articles/20160320/ddm/003/070/134000c
> 都市(非農業)戸籍、農村(農業)戸籍を区別し、出生地からの移動を厳しく制限しています。戸籍地でなければ教育、医療保険(いりょうほけん)、年金などの公的(こうてき)サービスを原則として受けられない仕組みです。 http://www.hagongda.com/shushoku.html
>中国には、「都市戸籍」と「農村戸籍」という戸籍制度があり、
>農村戸籍を持つ者は都市へ引っ越しできません。
>農村戸籍だからと言って農業をしているとは限りませんが、農村戸籍は進学、
>就職、結婚へとつきまといます。中国は階級社会となっています。 共産主義は平等な筈なのに支共も北朝鮮も国民を生まれながらに差別する階級社会という矛盾 どうでもいいが、双方日本語でかいわしてくれないかなぁ >>66
医療先進国の日本では、
水銀を「不老不死」の丹薬として処方しない 唐宋の頃には、日本より中国が先進国だった
明の頃には日本が追い付き、清で追い越した 宋が中華文明の絶頂期であった
その後は、失われた千年の下り坂 >>76
確かに宋の文化大国ぶり、言論の豊かさは凄い。
畏敬に値する。 まー、太平天国の乱と阿片の蔓延で自滅した時期だわな 明代の日本何て町らしい町なんてほとんどなかった時代だぞ
君が住んでる県の城下町がいつ出来たか調べてみろよ
どこも遡って精々織豊政権時代が下限だ うちは兵庫県なんで、大輪田泊が起源と見れば少なくとも平安時代からあるわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 織豊城郭以前は守護大名クラスの居城と雖も掘っ立て柱に茅葺だからな
16世紀半ばの京都ですら外観は農村と大差ない
http://www.yamada-kouji.com/nihonshi/japan_beau/rakuchu_rakugai/uesugi/syogatsu.html
日本人が宗教建築以外で恒常的な建物を造り始めたのはここ数百年のこと
それ以前は明とは比較にはならないし半島と比べても田舎だ >>85
お前は、数百年前の中国のレベルを、あまりにも高く見積もっている
中国の一般人など、20世紀になっても原始人のレベルだ 中国の内陸部には、いまでも地面に穴を掘って住居にしている人々がいる 『東洋旅行記』ポルデノーネのオドリコ (Odorico of Pordenone, 1286~1331)
このマンジ州にはゆうに二千の大都市があり、それ等の大都市は非常に巨大なため、トレヴィソもヴィチェンツアもその数に入れられぬほど
であり、またこの地方の人口は非常に多くて、我等には信じ難い程である。〔そして多くの場所で我々がヴェネチアの昇天祭で見かける群衆
よりも多い人出を見ることが出来た。〕
この地には大量のパン・ぶどう酒・肉・魚・米その他世界の人々が用いるあらゆる種類の食糧があり、またこの州のすべての人々は技芸や商
業を営み、どんな貧困者でも手足でおのれを助けうる間は、決して施与をうけようとはしない。
『中国キリスト教布教史』マッテーオ・リッチ (Matteo Ricci, 1552~1610)
この王国は非常に広大で人口も多く、食糧もあり、船、大砲、その他の武器をつくる材料もあるので、それを用いれば、少なくともすべての
近隣諸国を容易に支配下におくこともできるのだが、それにもかかわらず国王も国民もそれにこだわることもそれを論議することもなく、自
国に満足して他国を欲しがるということがない。
この点はまさしくわたしたちの国々と非常に異なるところだ。
『チナ帝国誌』 ルヴァーロ・セメード (Alvaro Semmedo, 1585~1658)
つぎにこの国の物資の豊かさについて語ろう。国土が非常に広大で、いくつもの緯度にまたがっていて、気候がいたって変化に富んでいるた
めに、この国ではさまざまな産物が収穫され、消費されており、まるで神が世界の他の国々にお分けになる一切のものをここに集中なさった
かのように思えるのである。 『日本巡察記』アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano1539年~1606年)
国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
一般的に言って日本の不毛と貧困さは東洋全域で最もはなはだしい。
というのは、ポルトガル人が支那から彼等のもとに齎し、彼等が衣類として用いる絹のほかには、ほとんど商品ら
しいものは何もないからである。
牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。
したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。 「日本の城 知られざる築城の歴史と構造」 香川元太郎
どちらが城として優れているかはともかくとして、朝鮮式山城が、かなりの費用と労働力を用いて入念に 造られていることは確かである。
石垣一つにしても、その石垣がいまだに残されてるのは、じつは驚異と言える。
戦国時代の城にも、時々石垣が使われているが、現在ではかなり崩れているのが普通だ。
安土城の石垣でさえ、現在でこそ整備や復元がなされているが、一九五五(昭和三十)年頃までは、原形を留めないくらい に崩壊してい
た。ところが、基肄城の石垣は、それより九00年も古いのに、水門部分などが残されていた。
倉庫群にしても、二九ページに見られるように礎石や瓦を用いたもので、これも中世の城のほとんどが掘っ立て柱、板葺や
草葺の建築だったことを思えば、驚くべき手間のかけようである。
「戦国山城を攻略する キャッスリング入門」 森本基嗣
いづれにしても、石垣は部分的にしか使用されず、土塁の土止めや虎口(郭の出入り口)の一部分に付設される程度の技術しかなく、天然の
断崖あるいは人 手を加えて急峻に仕上げた崖(切岸)の方がはるかに堅固であったようです。
また、防備面で尾根を切断する堀切や山の斜面を堅に区画する竪堀、建物も、礎石を用いた本格的 なものは稀で、大概は掘立柱を用いたもの
だったようです。
無論、天守ようなものは存在してなく、せいぜい物見櫓程度であったとのことです。 もともと日本の城には、大した建物はなく、木柵を巡らして掘立て小屋を造る程度であった。
それが今のような姿になったのは、織豊政権からで、明からの渡来人の影響が大きかったと言われる。
安土城の瓦を葺いたのも、一観という明人である。 >>91
そりゃそうだ
もともと中世の城は防衛拠点であって、統治・行政拠点ではなかったのだから(麓に政庁である館があるのが基本)
それが一体化していったのが戦国時代中期以降、小田原や石山あたりがはしりだな
で、織豊期に完全に一体化する 館も檜皮か板葺きの掘立て造りで鎌倉時代と大差ないけどね
町割りして城下町を本格的に整備したのは岐阜城が最古か
12世紀の博多には宋人が住み着いていたそうなので
もしかしたら大陸的な都市が作られていたかもしれない 変なのが湧いてるが、まあ、政治的につくられた計画的首都以外の自然発生的な都市について
世界的に見て、日本が異常に遅れていたのは事実。
室町後半になって、ようやく西日本の最先進地で、村に毛が生えたような「町場」ができる。
関東などについては、結局徳川氏が入ってくる1590年まで、鎌倉の残骸以外では、小田原以外何もなかった。
でもそんな段階で、いきなり妙に民主的な自治組織が組まれるというのも、謎というか正直笑ってしまうような話。 今でも、伊勢神宮は20年ごとに建て直しているくらいだ。
日本と大陸では、建物に対する考え方が異なる。
欧州人の感覚でなら、幕末期の日本でもたいした建築物はない。 明の時代には、すでに中国は文明としての長期的な衰退期に入っていた >>93
寺内町、境内都市わ中世中頃から在ったし
京都や奈良以外でも西国の山口や博多の方が岐阜なんかより全然早い >>94
基本的に西日本の平野部は狭く、東日本は剰りに未開だったからな
それに元々緩傾斜地でやる物だった稲作と都市の相性も良く無いし 江戸時代になるまで、江戸は漁村だった。
京都だって、室町時代の絵に出てくる京都の街並みと、
江戸時代の絵に出てくるそれとが違いすぎるので、
「これは誇張されてるのか、それとも、京都は本当に江戸時代に入ってから急発展したのか?」
ということが、ときどき話題になる。
たぶん、後者が事実。 アルプス以北の欧州と、日本の急発展が、16世紀頃からユーラシアの東西両端で始まった 一方、中国と中近東は、明清帝国とオスマン帝国による600年の、
良く言えば成熟、悪く言えば停滞の時代に入っていた 関東でも品川とか浅草とか古河とかあったんだけどな
中世日本史か郷土史でも読まないと知らないだろうけど
ちなみに江戸は小さな城下町であって漁村ではない
北条氏政の隠居所とかもあったり、そこそこ開発されていた
徳川の江戸入府以前でもな
幕府は利根川の付け替え等たしかに革新的かつ大々的な土木を行ったけど、盛りすぎな部分も多い 明は行政制度が歴朝最糞だけど経済活動や技術は発展してる
清に成って技術の発展が止まる、というか一部は退行してたり
西欧と日本は単純に技術不足で開発途上だった開発為難い土地が
漸く潜在力に見合った発展を遂げ始めただけでしょ 品川が在って古河も在ったけど
西国にわ幾つも有った集積地や都市が
だだっ広い関東に1つと2つだけってのが東西の差を物語ってるとも言える >>103
浅草寺は、聖徳太子の時代くらいからあるな 李存勗って芝居好きで役者もやってたって書かれてるけど、何処でやってたんだ?
廷臣に無理やり見せてたの? >>103
あの網野善彦にしたって、きちんと一次資料や現場の考古学にあたっている学者は、
品川や浅草や江戸前島を、「都市」とは絶対に呼ばないんだよなぁw
都市「的」な場所だというが、まともな学者はそれ以上のことは絶対に言わない。
門外漢の小和田哲男ぐらいになると、いいかげんなことを吹き始めるけどなww
江戸前島といえば鈴木理生だが、鈴木もまた江戸前島を都市だとは言わない。慎重に避けている。
実際、都市らしい遺跡が出てこないのだ。
日本橋から銀座にかけて、意識が高くなったここ20年でも数十箇所で再開発が行われているが、
江戸期や縄文弥生の遺跡が出ることはあっても、戦国期の都市遺跡が出ることは全くない。
おそらく、ちょっとした広場に、筵をかけた露店のような仮設店舗が、少々並んでいただけだろう。
その露店群の香具師連中に睨みを効かせて、治安維持をしていたのが、
今の日本橋室町に住んでいた弾左衛門家だと考えれば合点がいく。
彼らは、静岡からやってくる徳川御一行にゴマをすっておいたのに、
徳川氏が江戸前島を違法占拠して本物の城下町を作ってしまい、従前の仕事がなくなってしまった。 ハッキリと日本史は都市不在の歴史と位置ずけて
城市を中心に発展してきた中国史と比較したほうが建設的なのに
日本史学者は「境内都市」だとか「都市的な場」だとか便利ワード
を作って強引に都市空間を設定しようとするから困る
そんなに農村が嫌いかね 知識が偏ってて、論における定義とか読まずに自分定義当てはめる人間だとだけ理解できた >>94
原始社会わ基本民主的で同時に階級社会でしょ
>>111
現代で都市と言われて思い浮かべる経済活動がベースに在る都市と
城郭系というか団結した集団が先に在る都市国家や政治都市が一般的に区別されて無いよね
境内都市とか寺内町わ中間的だけど 都市の定義って何?
人がいっぱい住んでると都市じゃないん? >>114
ヨーロッパだと都市特許状が持っていて農村とは違う権利を有しているとか
中国だと城壁があって行政府がおかれているとかわかりやすい区分があるけど
中世日本はそういうのないからな
鎌倉や室町時代の「町人」を連想して見てって言っても無理でしょ >>116
でも政治でみると、戦国以降の日本のほうが、都市の定義はまだ明確なんだよな。
これは自検断という考え方があったためだろう。
昔から指摘されてることだけど、中国は伝統的には統治において(首都以外の)都市と農村の違いがない。 自検断は農村にも都市にも有ったからその点は大差無い
違いわ都市民は碌に統治出来て無くて殆ど税金掛かって無えって事
中国はまあ建前として、皇帝より下の臣民は皆平等だし >>116
抑々中世日本に都市わ略々存在して無いからな
極々一握りしか都市が存在せず絶対的大多数が農民と奴隷と暴力団だった >>116
室町時代には有徳人っていう交易商人兼問屋みたいな連中が日本各地にいて、商業流通を司った
彼らは領主から特権が認められ、関所として機能したり、物流拠点として機能したりして、中世的な
都市機能を果たしていた
まあ、スレ違いだが、またトンデモ流している人がいるので一応 都市とわ全く違う唯の大商人、倉庫屋
というか有徳人や問丸や土倉が都市とか完全に意味不明 堺は?というか
京都延暦寺興福寺金剛峯寺熊野神社安濃津博多なんかの少数の都市にわ地方から物運んで来る様な大資本の交易商人が居た
あと、坊津とか兵庫とか堺とか辺りでも都市じゃ無いし一乗谷山口が都市化するのも大分遅くて中世後期 >>92
武家の館なんてのわ日本の豪邸に毛が生えた程度の広さで
建物わ漢代以前の中国の庶民宅並みにショボい作り
時期的に早いのわ山口や駿府や一乗谷、石山本願寺わ山科が焼き討ちされてから >>120
でその「有徳人」は排他的な特権領域である「都市」を形成したの?
「都市的な場」と「都市」の区別がついてないんじゃね 寺内町や境内都市わ略々都市と同じ、完全に都市かと問われると微妙だけど どこまでが都市なのかは本当に難しい。
炭坑の飯場や軍隊の基地、あるいは空母などにも都市機能らしきものはある。 都市国家みたいな特定集団が先に来る構造は都市じゃ無いでしょ
大規模で恒常的な軍隊+補給基地+商人迄行くと都市かもしれんけど >>129
それは一般的な考え方ではないね
都市の成立は、都市国家の成立から始まるってのが、一般的な世界史的見方だから
具体的には、ウル、バビロンなどのメソポタミア都市国家群のことね
>>126
その辺、まさに定義によるんじゃねーかね
例えば欧州の一部の宮廷都市は、特権はなく王家の直轄支配下にあったが、それは都市なのか、とかそういう議論になる 欧州の都市論読んでると結構面白いんだよな
アルプス以北と以南で成立過程がかなり違ったり、王家との関係性で、都市の性格が違ったり
特にアルプス以北の都市領主の城市に隣接して、商人が住み着いて都市の二元化は進むんだけど、
これが一元化することはなかなかなかったり、みたいな話もあって
中国も唐代くらいまでは都市国家の連合体みたいな性格があったわけだけど、欧州とは性格が随分違うよね >>130
ウルその他のシュメール諸邦は宗族と土着神で結び付いた都市国家が
都市国家群として封建体制を確立して行く過程で一部が都市に成った
発展の結果、都市に成ったのであって都市国家時点で都市を形成した訳じゃ無い >>131
都市国家の連合体的な構造は秦漢の統一を以て終わる >>130
ヨーロッパには固定的な「宮廷」とかないぞ
東アジアだと天子の居城である「都城」とか「畿内」が設定されてるのが普通だけど
中世ヨーロッパには厳密に言うと首都という概念がない
国王もあくまで筆頭封建領主に過ぎず有力な封建領主や都市の間をグルグル回って政務を行っていた
所謂「移動宮廷」ってやつ
中国だと殷周時代に遡ってもそういう政体はなかったと思う >>134
ここ、東アジアのスレだから詳しくするのもアレだけど
宮廷都市ってのは、王都ってことではなく領主の政庁が置かれた都市って意味だよ、歴史用語
一時期までのケルン、ミュンヘン、プラハ、その辺の都市
王宮とは限らない
対するのは、アウグスブルグ、ブレーメン、ハンブルク、リューベックと言った自由都市 所謂自由都市の大半は秦統一以前の郷村と何も変わら無い非都市だし
王庭都市も初期わ政治城廓だった所もある 北宋の都市って今で言うところのゲーテッドコミュニティみたいな感じで都市部の住人は繁栄を謳歌しててもそれ以外の住人は無茶苦茶悲惨な生活してたのかも どちらかと云うと今の中国と違って農村の方が都市より締め付け緩め
農村は農村で士大夫が好き勝手やってたけど >>135
自由都市の意味わかってるか?
皇帝に対して軍役や貢納を行う代わりに自由(自治)権を得た都市のことだぞ
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-067.html
>神聖ローマ皇帝に直属し、その直轄領となることで勅許状を得て自治を認めてもらうところが出てきた。
>そのような都市を帝国都市といい、自治都市の一般的な形態となっていった。帝国都市は自由都市とも言われ、
>一定の条件を満たす市民には自由が与えられ、ドイツのことわざで「都市の空気は自由にする」と言われた。 アウグスブルグ、ブレーメン、ハンブルク、リューベックにも皇帝の政庁はあるぞ
神聖ローマ皇帝には固定した治所がなくて自由都市の教会か市庁舎を間借りして政務を執っていたからな
中国だと遼も「捺鉢」と呼ばれる皇帝の治所が各地にあって固定されてないという点で西欧とよく似てる 同じ系統の北魏も始めの頃わ皇帝の居場所季節で変わってたっけ >>140
そう成るのわ異端派が西方分教と宗教闘争やった時
ハプスブルク朝スペイン帝国へ反乱起こすのに際して
皇弟のドイツ王を担ぎ上げる為にオーストリア大公の広範な支配権を認めてから 中国の歴史で云うと周、秦、前漢の頃迄やってた巡幸だから
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S1W 言われてみれば確かに・・・
日本人は「宋の時代より後の中国人」を尊敬しないらしい=中国メディア
http://news.searchina.net/id/1668992
→朱熹は南宋、王陽明は明だよな 朱熹や王陽明を尊敬してると言ってる日本人に出会ったことがない >>146
朱熹はともかく、王陽明にはフォロワーが多い
「宰相の師」こと安岡正篤がその代表格 >>137
それは中国史に一貫して続く社会構造で、宋だけが特別なんてことはない >>134
「神聖ローマ帝国の首都」とか、教科書にも出てこないもんなあ
トルコのセルジューク帝国にもそれは言える トルコ帝国は、皇帝がテント張って絨毯しいたら、そこが首都 倭国も、京都に落ち着くまでは、かなりコロコロ首都が移動してた >>152
都がコロコロ変わっても政治はずっと難波宮でやってたらしい >>146 >>148
陽明学もわかりにくいが、朱子学もわかりにくい。
学者はともかく一般人はちゃんと理解できたんだろうか。 朱子学は
「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」
この八条目に要約できるし 亡国の南宋で、夷狄の侵攻に悲憤慷慨する中華の士大夫たちが遺した、朱子学の経典。
それが、江戸時代の日本の武士に大きな影響を及ぼし、欧米以外で唯一、近代ナショナリズムが形成される土壌となった。 がちがちの朱子学であっても日本ではわりと自由に拡大解釈、
教義の取捨選択などがやれたけど、中国・韓国では官製以外の
解釈は許されなかった。 清では考証学が盛んになり、朱子よりも漢の鄭玄がヒーローになっていった 日本では、平安時代の貴族の世から、鎌倉時代の武士の世となり、見た目からしても大きな変化が感じられる。
でも中国では、唐の貴族と、宋の士大夫では、社会的なポジションが異なるだけで、外見にそう大きな違いはない。
そもそも、唐の貴族というのも、日本でそう呼ばれるだけ。
中国では、「士族」と言っている。 その後、宋が滅んでモンゴル帝国になり、中国の文化は一変した >>158
国学ってぜんぜん自由じゃないじゃん。
廃仏思想むき出し(これも朱子学のパクリ)だし、水戸学に至っては天武を弑逆犯扱いとか朱子学の悪いとこを直輸入。 唐と宋の変化は確かに大きかったが、中国大陸の文明が最も変質したのは、やはり、モンゴル帝国の時代だろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています