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古代の倭国による朝鮮半島支配
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0001世界@名無史さん
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2018/04/14(土) 03:44:25.260
日本が朝鮮を支配していた時期は、歴史上に2度ある。

古代と近代だ。
0029世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 05:41:34.490
隋書  

「新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來」

「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している」
0031世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 12:04:43.090
チョン半島は太平洋に面してないから、カツオとか獲れなかったんじゃね?
0032世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 12:16:52.480
やはり、翡翠か
0033世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 12:29:25.060
 
旧石器時代なら、黒曜石とか翡翠とかだったんだろうけど
おカイコさんから作る<絹>とか?ああ、琥珀もあるみたいだな
扇子が隋唐の頃かな
0034世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 13:02:02.050
>>32
硬玉がそれと認識されたのはもっと後だから当時珍品だったのかねぇ
>>33
黒曜石かどうかは別にして火山性の石や、その組成物は珍品かな
0035世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 13:51:41.450
随書

「有如意寶珠其色大如?卵 夜則有光云魚眼精」

「如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。夜になると光る。魚のひとみだと言っている。新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。常に使者を通わせて往来している。」


この青い宝石が珍品か
光る青い石で日本産を探せばベニトアイトというのが見つかったw
0036世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 17:52:33.890
>>28
朝貢したぐらいで統治していたとなるなら倭国は中国に統治されていたことになるが
人質を出したとかそんなレベルではなくあちらの将軍に任官までされている
まぁこれは朝鮮三国にしてもそうなんだが
0037世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 18:35:27.100
4世紀末の朝鮮半島南部では、百済、新羅、と小国の連合から成る任那伽耶が勃興していた。
このうち百済が最も精強を誇り、371年には高句麗の平壌を落し、故国原王を敗死させている。
しかし、高句麗最大の名君とされる広開土王による攻勢が始まってからは漢江以北の地を奪われるなど勢力に陰りが見え始め、
新羅と共に臣下の礼を取るまでになった。(百済が高句麗と同源という説は、この時に出来たものかもしれない。)

そこで時の百済王は、太子・腆支を以前から通好のあった倭に人質に出すことを、引き換えに援軍を得るも
404年に帯方地方で倭軍は、全滅してしまい(広開土王碑文)、漢江以北奪還の試みは破綻する。
また高句麗は従順であり続けた新羅に対しても、国内に高句麗兵に常駐させ、国王の尼師今(新羅王)の任命や
兵の徴発、また監視用の拠点として国原城を築くなど、圧迫を加えた。(中原高句麗碑)

一方、新羅ほどの被害を免れた百済は北朝、南朝、倭と通行可能な大国すべてに臣下の礼を取る土下座外交で、高句麗に徹底抗戦する
姿勢を見せつつ、とくに倭に対しては任那伽耶と共にテクラノート集団「才伎」の派遣を約束し、倭の文明化を支援するなど、親密な関係を維持した。
0038世界@名無史さん
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2018/04/17(火) 20:35:59.970
>>11
中国は「未回収のモンゴル」にされてしまうね
0039世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 18:27:51.250
まあこれは日本の史学界だけじゃなくて欧米でも普通に認められてる事実だからな。
これはあるソウル大名誉教授による百済がヤマトを建国したというファンタジー論文からの引用だが
当の筆者も日本と欧米の歴史家の間で常識だというこの認識に怒り心頭だし。

>Jonathan W. Best may be regarded as representing the great majority of Japanese and Western historians when he states,
as recently as 2006 CE (through the publication by the Harvard University Asia Center), that “it is clear that neither Paekche
nor Silla ceased to function as independent states,” but “it is evident that the Yamato exercised significant influence in southern
Korea from late in the fourth century to the end of the fifth” [26].
(ハーバード大アジアセンターの出版物を通じてなされた)2006年のジョナサン・ベスト教授の言は大多数の日本・欧米の歴史家の認識の
代表といえるかもしれない。曰く、「百済と新羅が独立国としての機能を失ったわけではないのは明らか」だが「ヤマトが4世紀後半から
5世紀末まで朝鮮半島南部に相当の影響力を行使したのは明白である。」
0040世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 18:30:09.830
あと欧米の著名な言語学者の多くが、プロト朝鮮語族が満州から南下してくる前の朝鮮半島にはプロト日本語族の話者がいたという認識のようだから
南岸の倭系部族or国はその残党と考えると、ヤマトの半島「進出」も合点がいくってわけだろう。向こうの史学界はより学際的傾向があるし。

"When Was Korean First Spoken in Southeastern Korea?" by James Marshall Unger (2005):
"A form of [Japanese] was no doubt spoken on the peninsula. For the time being, I prefer to think of Koguryoan, Paekchean, and
Sillan as three early varieties of Korean that displaced residual Chinese and para-Japonic speech in a north-to-south advance ...
Thinking of Korean as a successful intruder rather than as a survivor in situ from neolithic times should make it easier to
investigate that question and to understand how Japanese got to its present range."

"Northeast Asian Linguistic Ecology and the Advent of Rice Agriculture in Korea and Japan" John Whitman (2011):
"From the standpoint of this paper, the important takeaway lesson from the Koguryo toponymic data is that a language cognate to
Japonic was spoekn on the Korean peninsula. This is a point of consensus for all major scholars who have worked on this material."
0041世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 18:31:01.490
"Why Manchu and Jurchen Look So Non-Tungusic?" Alexander Vovin (2006):
"The existence of a Japonic language spoken in the past on the Korean peninsula is an undeniable fact, [though] in all probability
the existence of this language predates the state of Koguryo."

"Koguryo As A Missing Link" Martine Robbeets (2007)
"During the Three Kingdoms period at least two different language families were simultaneously present on the Korean peninsula:
Koreanic and Japanic. Koreanic consists at least of Shilla, whether or not the immediate ancestor of MK, and Han-Paekche. ...
Japanic consists at least of Japanese-Ryukyu and of Koguryo, that is more closely connected to Japanese than to any other language."

"How many independent rice vocabularies in Asia?" Laurent Sagart (2011):
"There is growing agreement among Japanologists that the settlement of Japan by Japonic speakers was effected in the second half
of the first millennium BCE by a people ('Yayoi') from the Koreanpeninsula ..."
0042世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 18:31:50.830
>「百済と新羅が独立国としての機能を失ったわけではないのは明らか」

ってのはネトウヨにとってかなり「不都合な真実」じゃあねえの
0043世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 18:34:54.750
>>42
いや、いくらネトウヨでも神功皇后の三韓征伐を字義通りに信じてる奴は稀だろ。
0045世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 18:45:24.920
Martine Robbeets (2007) の韓国語は新羅語と百済語で構成されているというのも
都合が悪いんじゃないかね
ネトウヨの歴史観だと新羅人と百済人は日本人ってことになってるようだし
0046世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 19:02:22.410
>>45
百済はともかく新羅は朝鮮人認定されて嫌われてなかったっけ?
俺的には百済より新羅のほうが意外と日本と似た感じの部分があって面白いんだが。
開発が遅れてた部分とかも。
まあいいや。
俺はネトウヨじゃないけど、半島南部に倭人・ヤマトの勢力圏というかエンクレーブが
あったのは間違いないと思うよ。
それで朝鮮語族の部族達がそれを駆逐したというか完全に同化した統一新羅後に今の朝鮮民族というものが定まった。
0047世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 20:22:08.630
新羅が倭人によって作られたことは三国史記を作った高麗人たち自らが認めていたことである

>>40
朝鮮語族がもともと満州にいたとは思えんな
むしろ韓人の祖先が7000年位前に日本列島から追い出されたんだろ?
Y染色体ハプログループO2b2も縄文系の濃い南琉球で最大の比率となっていることから考えると、実際は琉球諸島で発生し九州を経て朝鮮半島を北上したのだろう
0048世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 20:42:53.310
>>46
>>45みたいに「三国史記」の金閼智の家来の瓢公が倭人だったとか
王族の昔氏が倭国の多婆那(丹波とされる)の王が女人国(伝説上の国)の王女に産ませた卵から出てきたという伝説を拡大解釈して
新羅が日本人の国だと言ってるネトウヨをよく見かける

逆に古事記では神功皇后が新羅の王子、アメノヒボコの子孫ということになっている
かつて、それほど両国の関係が悪くなかった時代に造作された伝承であろう
0049世界@名無史さん
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2018/04/18(水) 23:57:21.960
日本と唐が同盟国を使って朝鮮の覇権を握ろうとした結果
日本が負けて朝鮮から手を引き唐の文化や制度を受容したのは
どこか20世紀の日米関係を想起させる
0050世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 00:14:59.120
>>48
最近韓国で左翼を罵倒するトンでもウヨを捕まえたら左翼の自演だった話があるが
そういうネトウヨは想像上のものだったり、誰かの自演だったりしないかね
0051世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 00:17:18.640
>>49
アメの文化は昔から受け入れてたようなw
第二次は中国市場の争いから生まれたが古代の日本にとって朝鮮はナンだったのかね
貴重な鉄などの資源調達先かな
0052世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 01:00:59.460
鉄もあったし何よりも唐に隣に来られて欲しくなかった
そもそもあまり倭は半島の覇権争いに加わろうなんて気はまるで皆無で
512年に任那の四県を百済が併呑したときも532年に金官伽耶が新羅に滅ぼされたときも
ほとんど何ら行動を移していない
0053世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 01:26:43.190
朝鮮三国の中でも最も特異なのが新羅
その時代の遺跡からは遠く離れたローマのガラス製品やガリア地方で作られたケルト剣の柄、ギリシャの装身具など
百済、高句麗ではほとんど見られない品物が見つかっている
これらの品々は恐らく中央アジアとの交易で入って来たものと見られ7世紀末8世紀初頭のサマルカンドのアフラシアブ遺跡の壁画には新羅人の姿が描かれている
中国を重視した高句麗、倭、百済とは違い、西域諸国との交流を持っていたようだ

軍事面でも550年に竹嶺に進出(丹陽赤城碑文)その18年後には咸鏡南道利原郡にまで進出して高句麗の首都平壌を脅かすまでになる(磨雲嶺碑)
不思議なことにこれらの事績は三国史記では触れられておらず謎が多い
0054世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 01:39:10.030
法興王は如何にして新羅の大躍進せしめたのか?
もしかすれば倭人側に新羅を積極的に支援する勢力がいた可能性はないだろうか
0055世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 07:09:23.660
まあ、「倭からやってきた瓢公が、金閼智を発見して、新羅の王位につけた」という三国史記の記述を見れば、
新羅王朝の発足に当たって、倭がなんらかの大きな役割を果たしたという暗示をそこに見いだすのが不自然な解釈とは思えないが。
0056世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 07:25:04.270
従属部族の神の集合体であろう、どこにでも現れるスサノオさんが新羅にも行ってるので
普通に新羅系の有力者が大和政権にいたであろう。
そいつが新羅王家と関係あるかは不明だが、状況的に新羅王家の人質の子とかでもおかしくない
0057世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 16:40:15.730
>>56
いちいち脳内変換するのも大変だな
0058世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 18:50:01.240
「姓氏録」では新羅系氏族として橘守、三宅連、豊原連、海原造、真城史、糸井造、 三宅連、伏丸、日根造が挙げられている
ほか秦氏もおそらくは新羅系だと考えられる
0059世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 19:17:28.830
秦氏は中国系だろ
0060世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 19:45:05.390
秦氏の氏寺が新羅式の瓦を使っていること秦氏の居住地の古墳(大覚寺古墳群)からは新羅式土器が見つかっている事
から考えて恐らく新羅系
秦氏が始皇帝の末裔を名乗っているのは新羅の前身の辰韓がかつて秦人の末裔だと称していたころの名残
0061世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 23:28:34.050
まあ新羅も多民族国家だから新羅系且つ中華系の可能性はゼロではないがな
0062世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 23:33:49.590
ソフトバンクの孫正義は在日朝鮮人系の人間だが、元々中国から朝鮮へ
そっから日本と自称してるな。
現実は不明だが、そういうアイデンティをもつ人間が現代にさえいるってことは古代にもいてもおかしくない
0063世界@名無史さん
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2018/04/19(木) 23:58:35.100
新羅は子だ御日本からの流民だろ
0064世界@名無史さん
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2018/04/20(金) 19:27:03.660
>>62
たしかに、孫正義には、韓国への思い入れがまるで感じられないな。

中国には情熱を燃やしている。
0065世界@名無史さん
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2018/04/25(水) 19:34:12.910
古代の朝鮮半島南部は、日本文明圏
0066世界@名無史さん
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2018/04/25(水) 19:55:53.060
韓人は元々倭人の奴隷や慰安婦として働いていた奉仕民族である
0067世界@名無史さん
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2018/04/30(月) 14:07:20.400
よく百済との関係を云々する人がいるが、新羅との関係の方が遥かに興味深い。
中国の史書では百済に関し、その元来の住民については倭人が頗る多いと記されているが、王族はツングース系の扶余であったという。
しかし新羅の場合、なんと日本列島から渡来した倭人が王になって王統をも伝え、のべ八代の王を輩出したとされる。

初代 赫居世居西干(朴氏)
*2代 南解次次雄(朴氏)
*3代 儒理尼叱今(朴氏)
*4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。
*5代 娑婆尼叱今(朴氏)
*6代 祗摩尼叱今(朴氏)
*7代 逸聖尼叱今(朴氏)
*8代 阿達羅尼叱今(朴氏)
*9代 伐休尼叱今(昔氏) 13代 味鄒尼叱今(金氏)
10代 奈解尼叱今(昔氏) 14代 儒礼尼叱今(昔氏)
11代 助賁尼叱今(昔氏) 15代 基臨尼叱今(昔氏)
12代 沾解尼叱今(昔氏) 16代 訖解尼叱今(昔氏)
..                17代 奈勿尼叱今(金氏)

そしてさらに、それ以上に興味深いのが新羅建国時に宰相となって影の王のように振る舞い活躍した、
瓢箪を腰につけて船で渡来したことから「瓢公」と称された倭人で、実はこの人物が、現代の朝鮮人のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない問題を孕んでいる。
現代の朝鮮人の姓名は"中華"への服属意識を如実に表す、漢字/漢字音を用いた姓=一字、名=二字という漢族式で、
実際の姓自体も漢族が使用するものの借用が殆どという有様だが、新羅初代王の朴赫居世に始まる「朴」という姓だけは、
辰韓の語の「バク」という単語を借字で音写した独自の姓とされ、特殊な姓といえる。
ではこの「バク」という辰韓の語が何を意味するかというと、「瓢」。宰相として影の王のように振る舞った倭人の"瓢"公となんと同じ。
このことから、瓢公と朴赫居世は共に倭国から渡来した同族、あるいは同一人物であるともいわれている。
ちなみに金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代にして第四代新羅王脱解の治世時に、これまた件の倭人宰相瓢公が拾って来たとされている。
瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えたわけです。非常に興味深いですね。
(参考文献:「三国史記」、「三国遺事」、金素雲「三韓昔がたり」)
0068世界@名無史さん
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2018/04/30(月) 14:09:42.820
■考古学的見地からの古代国家の考察

いわゆる「前方後円墳体制論」が主流。おもな提唱者は阪大名誉教授・都出比呂志など。

三角縁神獣鏡の分有関係をもとに、三世紀、近畿に発した「前方後円墳国家」が、
四世紀前半までに西日本の政治支配を確立したとする小林行雄説を継承し、
さらに「前方後円墳国家」が、四世紀の後半代、「鉄の流通機構を掌握する」ために朝鮮半島に軍事進出し、
五世紀代には全国的国家統合をはたしたとする説。

参考資料 :
「日本古代の国家形成過程」1990年度日本史研究会大会全体会シンポジュウム。
「古代国家の胎動」(NHK出版)

〜〜〜

>この13基の前方後円墳は栄山江流域に移住した倭人かその後裔、あるいは倭人と親密な交流をした在地の首長層の墓であろう。

>雄略大王は官人制と軍事制の力を基礎にして有力首長連合体制を解体し、日本列島の南北端と朝鮮半島に対する覇権を更に拡大した。

>権力を高めるには継体大王は地方権力を組織して朝鮮半島に打って出なければならなかった。

>朝鮮半島への進出と交流が、倭の地位を高め、朝鮮半島の13基の前方後円墳を築かせるほどの影響を与えたと見てよい。

都出比呂志「古墳と東アジア」
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/09tsude.pdf
0069世界@名無史さん
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2018/04/30(月) 14:16:33.610
歴代百済王概説

■近肖古 在位345〜375
姓は余。名は句。日本書紀では速古。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。
■近仇首 在位375〜384
姓は余。名は須。日本書紀には貴首と表記される。近肖古の息子。
■枕流 在位384〜385
姓は余。近仇首の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。
■辰斯 在位385〜392
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首の息子。日本書紀には、「(辰斯が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いがあったので、
紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿華)を王位につけて帰国した」とある。
■阿華 在位392〜405
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。国情安定のため日本へ助力を求め息子(のちの腆支)を人質として献上。
■腆支 在位405〜420
姓は余。名は腆。阿華の息子。直支とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との戦争中阿華が死去。帰国して即位。
■久爾辛 在位420〜427
腆支の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。
■斐有 在位427〜455
姓は余。名は斐。久爾辛の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。
■蓋鹵 在位455〜475
姓は余。名は慶。斐有の息子。近蓋鹵ともいう。人質として弟・昆支を日本へ献上。高句麗により百済は一時滅亡。
■文周 在位475〜477
姓は余。名は牟都。あるいは都。蓋鹵の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛殺害されていた。
やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆支の死後、解仇により殺害された。
■三斤 在位477〜479
姓は余。名は壬乞。文周の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。
0070世界@名無史さん
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2018/04/30(月) 14:17:50.110
■東城 在位479〜501
姓は余。名は牟大。昆支の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多と記述。幼少時より優秀で雄略天皇に寵愛される。
三斤急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。臣下の恨みを買い、暗殺された。
■武寧 在位501〜523
姓は余。名は隆。東城の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王と大和言葉の号で呼ばれる。日本書紀では蓋鹵の息子。
また「嶋王」と表記。東城を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇との関係を維持。高句麗と戦う。
■聖 在位523〜554
姓は余。名は明。聖明ともいう。武寧の息子。日本の支援を得て高句麗からの攻撃を撃退。
一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。
■威徳 在位554〜598
姓は余。名は昌。聖の息子。戦死した聖のあとをうけ即位。王子(恵)を日本に人質として献上。
■恵 在位598〜599
姓は余。名は季。聖の息子。554年、聖が戦死。555年、人質として日本へ渡る。556年、帰国(562年日本は高句麗へ出兵)。
■法 在位599〜600
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵の息子。
■武 在位600〜641
姓は余。名は璋。法の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。
■義慈 在位641〜660
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。
この時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族のほとんどが唐に連れ去られた。
■豊璋 在位***〜***
姓は余。名は豊璋。義慈の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で生活。
660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈は捕虜となる。亡国の王子となった豊璋は亡命政府の主となるが、
白村江の戦いで敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。
0071世界@名無史さん
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2018/04/30(月) 14:20:55.600
※ 善光
義慈の息子。豊璋の弟。百済滅亡後日本にて大和朝廷に臣従。
持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。
0072世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/02(水) 20:09:20.250
>■聖 在位523〜554
>姓は余。名は明。聖明ともいう。武寧の息子。日本の支援を得て高句麗からの攻撃を撃退。
>一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。

これ全然違うぞ
最初は倭の欽明と組んで新羅を攻撃するつもりだったが一向に援軍が来ないので倭に見切りをつけて
仇敵である新羅と同盟を結び現ソウルあたりまでともに進出するも領土の取り分を巡って対立
新羅との戦いで自身が戦死するのみならず佐平4人と3万人も共に失うなど百済衰退の原因を作った人やな
0073世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/02(水) 20:47:29.080
>一向に援軍が来ないので倭に見切りをつけて
援軍が来なかったのってなんでだろうなあ
やっぱり倭が新羅の方に肩入れして百済を見捨てる風潮が当時あったんかねえ
0074世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/02(水) 21:23:32.050
当時の新羅は高句麗を圧倒するほどの絶頂期でなるべく敵に回したくなかったから
結局562年には今度は安羅や加羅の倭人たちも攻め滅ぼされて伽耶諸国も併呑されちゃうんだけどね
0075世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/03(木) 11:24:55.110
【三国史記新羅本記】より
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
     私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」と聞いた。
     これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、
     不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、
     常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、
     かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
0076世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/03(木) 11:25:37.150
【三国史記新羅本記】より
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿ン食の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
0077世界@名無史さん
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2018/05/03(木) 18:11:44.070
>>11
金印は対等の印
銀印、銅印は目下の意

ちなみに朝鮮は銅印しか授けられてない
0078世界@名無史さん
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2018/05/03(木) 18:48:17.120
>>75
>始祖に神徳がある
どう見ても瓢公とはスサノオのことです
ありがとうございました
0079世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/03(木) 19:48:38.860
>>77
倭王武が安東大将軍に冊封されたとき百済王は一つ格上の鎮東大将軍
高句麗はそれよりさらに上の征東大将軍に任命されるとともに開府儀同三司を加えられてるけどね
当然格式はみな金印紫綬

そもそも中国には「対等」という概念はありません
0080世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/03(木) 21:00:33.710
>>79
倭王武は、朝鮮半島南部の支配者であることを中国南朝の皇帝から認められた
0081世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/03(木) 22:11:59.390
百済を除外されたあげくそれより低い将軍号を与えられるという屈辱を受けて
朝貢やめちゃったけどね
0082世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 00:32:13.020
>>81
百済の国王は、若い頃は人質として倭国で成長し、大人になったら半島に赴任して国王に即位するという関係だった。

当然、日本語ネイティブで、極めて日本寄りな人物。
0083世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 00:33:14.420
倭と百済の関係は、江戸時代の幕府と藩のような関係だった。
0084世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 00:49:10.900
大日本帝国と満州国のような関係だゾ
0085世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 00:51:31.030
>>79
漢王朝って匈奴に惨敗したくせに、単于に「印綬を下賜」してたからな
敗残者が面目を保つための様式となってるね
0087世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 09:20:24.600
冊封と朝貢はまったく違うもの
冊封は形式的なものと実質的なものがある

と理解しておけばよい

その上で日本とユーラシア大陸東部国家の関係を考えるなら
唐と戦い明を滅ぼした、と
0088世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 09:21:12.420
隋に対等宣言、唐と戦い明を滅ぼした、と
0089世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 09:59:10.650
■日本と関係の深いユーラシア大陸東部における統一的王朝の支配民族

隋 = 鮮卑族(遣隋使)
唐 = 鮮卑族(遣唐使・白村江の戦い)
元 = 蒙古族(元寇)
明 = 漢族(明征服・朝鮮征伐)
清 = 満州族(日清戦争)
0090世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 10:25:29.590
漢族って漢人南人鮮卑の総称じゃない?
0091世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 10:45:43.780
それだと鮮卑が存在しないことになるだろw
0092世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 10:46:54.470
「漢人」とは漢文化を受容した民族の総称だからな
元代の「輟耕錄」では契丹人、女真人、渤海といった本来は狩猟牧畜民だった連中も
蒙古種ではなく漢人種に分類されてる
0093世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 10:50:19.940
それは蒙古の自己アピール
0094世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 11:07:57.760
元氏(元拓跋氏)、宇文氏、段氏、慕容氏は今でも漢民族としてそこそこ生き残っている
でも鮮卑族として漢族から分離独立は難しいだろうな
チワン族は固有の言語と民族衣装が残ってたから復興できたけどレアケース
0095世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 13:10:12.560
>>79
格上とかなんだそりゃ
何の根拠無いぞ
0096世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 13:42:50.500
【アミシャーブ計画】 日本人にとって骨の髄まで凍り付くような恐ろしい話! 【スタクスネット攻撃】
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1525405421/l50


神道、皇室、ダブル解体の危機!
0097世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 13:44:45.090
というか秩序については双方の認識が一致しないと機能しない
だから実際のパワーバランスだけを見ればいいんだよ

人口や農工業生産力、地勢等全く物理的な理由で
ヤマト>>>>>>>新羅百済
ってこと
0098世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 14:03:16.300
今の韓国ですら日本よりずっと小さな国だってのに、新羅や百済なんて、その半分だぞ。

しかも、寒くて水不足な貧しい土地だ。
0099世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 18:05:50.320
>>97
高句麗はどうだったんだろ
白村江で大和、百済軍を撃退したほどだから
めっちゃヤバい奴らのイメージ
0100世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 19:11:40.040
>>95
http://www.vec.gr.jp/mag/338/mag_338.pdf
>序列の高いほうから列記すると次のようになる。 (高)四征将軍、四鎮将軍、中軍将軍、鎮軍将軍、撫軍将軍、四安将軍

>倭王讃が安東将軍号を受けた時期の前 後に、高句麗王は征東大将軍に、百済王は鎮東大将軍に叙せられていること から、宋王朝はこれら諸国よりも倭国を一・二段下に見ていたことになる。

>>99
歴史の授業の時寝てたのか?それともパラレルワールドから来たのか?
白村江で倭と百済が戦って負けたのは唐と新羅だろ
0101世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 19:28:26.350
>>100
やっぱ中華に近い方が偉いっていう小中華主義でしょ
0102世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 19:48:46.700
白村江の戦いで倭では唐と新羅に対抗できないと知った扶余豊璋は高句麗に亡命
しかし高句麗もその数年後に唐新羅軍によって滅ぼされる

唐は同盟の報償として大同江以南の土地を新羅に与えるという約束をしていたのだが
それを反故にして唐は百済を熊津都督府として直轄統治
更には新羅も鶏林都督府として版図に組み込もうとする
これを知った新羅は激怒して熊津都督府に攻め込み長官として赴任していた豊璋の兄弟である隆と唐兵を追っ払う
この勢いに乗って高句麗領もすべて手中にしようと目論むも唐軍は手ごわく負け戦が相次ぎ持久戦に転換
唐側も李謹行と薛仁貴を送り込むもが伎伐浦の戦いで20万の将兵を失って撤退
結局当初の約束通り大同江以南は新羅そっから北は唐ってことで手打ち
ちなみに伎伐浦と白村江は同じ場所だったりする
0103世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 19:53:04.570
支那豚如きの体力では半島全土支配は無理だな
やはりここは海洋民族日本人でなければ
0104世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 19:57:42.070
ここで唐と倭が組んだら新羅は絶体絶命だったのだけど
意外にもこれをスルー
まぁ倭も壬申の乱とか色々ともめてたし仕方ないね
0105世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 20:33:30.240
>>10
中華本土が安定しているのなら、実力的には可能だろう。
ただ、中華が近隣地の朝鮮を直轄地にしなかった理由はなんだろね?
古代の白村江から、近代の朝鮮戦争にいたるまで朝鮮半島を掌握できる実力は示してるのに。
そういや、元も高麗を完全屈服させたが、直接支配はなぜかしなかったな。
0106世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 20:44:59.270
白村江の戦いで倭が新羅の首都には兵を進めなかったのは不自然だな
あくまでも唐と倭の間での朝鮮半島の宗主権争いの体で新羅そのものを滅ぼそうとはしていない
0107世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 20:55:54.940
この戦いはあくまで唐新羅と高句麗との戦い
百済が先ず狙われたのは高句麗の同盟国で新羅側が南部から北上する際に後ろを突かれないため
そもそも倭は「兵有りと雖も征戦なし」(隋書)というぐらい平穏な国で
熾烈な争いを四六時中している大陸や半島勢力の争いに介入できるほどの実戦経験がない
0108世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:04:21.270
>>107
>>75>>76読めよ
当時既に半島に軍事的なプレゼンスを確立してるんだよ
0109世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:05:52.610
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民
<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、
    百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
0110世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:09:47.820
おめえこそちゃんと読んだらどうだ?
それのどこをどう見たら「軍事的なプレゼンスを確立してる」なんて言葉が出てくるんだ?
0111世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:13:28.340
>>110
書いてあるのは海を越えて繰り返し派兵された事実だが

軍事的プレゼンスと政治的プレゼンスが別物だとでもいうのかこのバカは
0112世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:21:09.900
どちらにしろ白村江でより近い何度も占領し馴れた筈の新羅王都を凹ってないのは変だなあ
絶対これは裏に隠し事あるぞ
0113世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:22:54.640
受動的な戦いなんだからおかしくないだろ
敵が攻めてくるのを受けるんだよ
0114世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:35:55.040
>>109
都合の良い所だけ抜粋してる様だが
碑文では最後に倭が蹴散らされて終わりだよな
しかも時代が全然違うし

王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命太王恩後稱其忠□
時違使還告以□訴時違使還告以□訴十年庚子ヘ遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退

王が平壌まで巡行した時、新羅の使節が来てこういった「倭人が新羅の国内に満ちて、城を壊し高句麗の下僕である
新羅を自らの民としております。そこで新羅王は太王に帰服して命令を受けようと思います。」
王は新羅の忠誠を評して使節を帰らせて、計画を新羅王に告げさせた。

時違使還告以□訴十年庚子ヘ遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退

永楽十(400)年庚子に王は歩兵騎兵五万を派遣し、新羅を救わせた。
男居城より新羅城まで倭が満ちていたが高句麗の官軍が至ると倭は退いた。

十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界□□□□至石城□連船□□□王自率□□従平穰
□□□鋒相遇王要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數

永楽十四(404)年甲辰、倭は道を違えて帯方郡に侵入してきた。・・・石城に至るまで・・船を連ね・・
王自ら・・を率いて、平壌から・・・(敵の先)鋒と遭遇した。王の親衛隊は、要撃切断し、
縦横無尽に斬りつくした。倭軍は一人残らず切り殺された。

>>111
時系列を把握できてないのか?最後の500年の派兵から白村江までどれぐらい年代が隔たってるのかと思ってるのかよ
0115世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:40:46.290
>>112
百済復興軍の拠点である周留城が包囲されているわけで
戦略上の目的は百済の復興なんだからまずはそいつらから救うのが順当だろ
0116世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:45:08.880
>>113
朝鮮半島へ派兵した倭軍は亡命を希望する百済の遺臣を回収するための迎えでしかなかったと考えればそれで問題なくなるな
0117世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:47:05.190
>>114
支離滅裂だな
おまえが根拠としているのは隋書の簡素な記述だけだぞ
時間的射程についてどんだけの妄想を膨らましているんだよ
0118世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:49:38.320
半島への恒常的軍事進出を今更否定するとか
頭おかしいんじゃないか
0119世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:52:50.670
支離滅裂なのはお前じゃね?
軍事的プレゼンスとやらを倭が保持していたのなら
何で百済の聖王が何度も援軍要請したときにろくに取り合わなかったんだ?
562年に加羅、安羅が新羅に奪われたときも何で取り返せなかったなんだ?

そもそも倭の権益がそこまで強かったのなら新羅の勢力があそこまで増長することはなかっただろ
0120世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:54:38.280
軍事的プレゼンスがなかったらなんで前方後円墳がいくつも出来るんだよw
0121世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 22:56:16.860
なぜ新羅と百済は王族をヤマトへ人質として供出したのか
なぜその逆がなかったのか
0122世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 23:07:19.830
>>120
だから・・時系列を考えろと何度も・・・
韓国の前方後円墳は6世紀中ごろの海南龍頭里古墳を最後に作られなくなってる
唐が半島に進出してきた「当時」には倭の「軍事的プレゼンス」や「恒常的軍事進出」が行われた時代があってないだろ

>>121
元々百済は小国で真っ向から高句麗と戦うだけの体力はない(まぁ近肖古王は高句麗王を討ち取ったりしたこともあるけどな)
物理的な援助を期待できるのは倭国だけだから下手にでるしかなかった

新羅は人質を出したのは2回あるのだがいづれも高句麗の勢力がすぐそばまで迫っていてにっちもさっちもいかなくなった時期だ
0123世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 23:11:53.370
>>122
だか時系列を考えるのはお前なんだよ
隋書の記述はいつからいつまでのことを記しているんだよw
0124世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 23:21:33.940
じゃあ逆に聞くが白村江以前で倭が半島に出兵して交戦したのは直近でいつになると思う?

書紀の怪しい記述を字面通り信じても最後の戦闘は600年の任那復興戦が最後だ
しかも結局目的を果たせず帰っている
半世紀近く実戦経験がない軍隊が唐が脅威とみなすとでも本気で思っているのか?
0125世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 23:32:07.150
>>124
まずは質問に答えろよ
答えられないなら答えられないといえ

古代であって現代ではないのだから派兵スキームも軍事技術も一朝一夕で変わるわけがないだろ
練度を仔細に評価できるほどの情報があるわけもなく
そもそも練度が脅威か否かの決定的要素である理由がない
0126世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/04(金) 23:54:12.640
つまり答えられないと

唐の戦略目的はあきらかに長年攻め落とせなかった高句麗
そこに麗済同盟で圧迫されていた新羅の思惑が合致した結果だろ
山川の教科書の筋書きではそうなったるし大和政権は新羅との勢力争いにも敗退して退いたということになってるが
「新羅も百済との抗争のなか、562年には伽耶諸国を併合するに至り、ヤマト王権が半島南部に保持していた拠点も、ここに完全に失われた。」(詳説日本史研究45ページ)

半島になおヤマト政権が軍事的な影響力を保持していたと一体どの学者が何を根拠に主張しているんだ?
エビデンスを示してみろ出来ないならお前の負けな
0127世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/05(土) 00:06:36.230
>>126
???
俺は答えて
おまえは答えていない

わかるか?

そして。

「拠点」と「影響力」の混同
これは意図的なものではなく
これを指摘されるだろうというところまで頭が回っていなかったんだろう
なお俺が用いた言葉は「プレゼンス」であり
さらに、政治的プレゼンスと軍事的プレゼンスには
古代といういわば野蛮時代においては有意な差異がない、ということだ
政治的プレゼンスの根拠としては
当時における近過去の戦績情報や首長墓といったレガシー群
人質の一方的供出にみられる非対称的なパワーバランス
などがあげらる
0128世界@名無史さん
垢版 |
2018/05/05(土) 00:08:55.510
>>126
それは変だな

百済と新羅の抗争で百済に与するなら新羅の都城ソラボルに兵を送っていつもの様に包囲して制裁するのがスジってもんだ
新羅の本領までならいくら多勢に無勢の唐の水軍でも補給がままならず継戦能力も削がれる筈
本気で戦うつもりなら航海の難所で地形の入り組んだ鳴梁海峡に軍船を潜ませてゲリラを仕掛けるという手もあった筈だ

しかし倭国がやったのはわざわざ遠い側の百済に船を寄越し亡命者を受け入れて退却しただけ
徹底抗戦とは程遠い

倭国はそもそも新羅と「勢力争い」をする間柄ではなかったのではないか?
その後羅唐戦争が起きた背景としても絶対何かあるぞ
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