>>545 「する側(他動詞の主語)」と「される側(他動詞の目的語)」の違いは重要
印欧語のどの言語でも男性名詞と女性名詞は、単数・複数とも主格と対格が別々の形を持つ
中性名詞だけが単数複数ともに主格と対格が同形なのは、ちゃんと意味がある
原初の印欧語の名詞のジェンダーは、ヒッタイト語がそうであるように、有生/無生の区別しか無かった
有生名詞は他動詞の主語になったり目的語になったりすることが多く、それに適した主格と対格の区別があった
無生名詞は他動詞の目的語になるしかなく、主語になる形はあまり必要なかったので対格と同形で済まされた
印欧祖語はヒッタイト語と分岐した後に男性/女性を区別するようになったと考えられている
中性名詞はたとえ人間名詞であっても主体的に何かを処理することが少なく、受け身の立場が多かった
(ウィキペディア英語版「Animacy」の項目を参照)

そっちの言葉でいうと、男性と女性は異性間でも同性間でもやったりやられたりの関係、
子供のような中性は人間でもモノと同じで一方的にやられるだけの立場だったってこと(「やる」はいろんな他動詞)
現代英語のようにいろんな抽象名詞含む無生物名詞が他動詞の主語になるのは非常に新しい現象で、
古い時代ほど「ありえない」文だったし、世界の言語の多くはふつうはそうしない
現代日本語でも「疲れが私をベッドへ運んだ」とはまず言わず「疲れたのでいつのまにか寝ていた」という
抽象名詞「疲れ」(とここでの「強制力」)を他動詞主語とせず、人間名詞を優先的に主語にして無意志でも自動詞文で済ませている