科挙の歴史
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
軍師の策略の方機智や機微の方が試験マニアより面白いと思う。 袁世凱は科挙に数回落ちたけど科挙とは違う方法でリベンジを果たした 映画「敦煌」の主人公は科挙に落ちて西夏に流れ着きますた
この時の科挙の問題が「西夏に対する政策を書け」 >>6
いくつか種別がある中でガチの暗記の方は廃れたんじゃなかったっけ
結局ガチ暗記プラス詩作政策が流行ったような 科挙に受かって文官となっても軍事指揮はとれるぜっ(エヘン) 中国文化の影響を受けた沖縄でもおこなわれてた科挙(てか広告ジャマすぎw)
ttps://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-41313.html 詩人・李賀は父、李晋粛の晋と進士の進の発音が同じであることに
言いがかりをつけられて科挙を断念したんだっけ。 578ぐらいから1900まで続いた優れた制度であったことは疑う余地がない
興味があるなら新書の
科挙〜中国の受験地獄〜
みたいな本がかなり詳細に長所短所や制度の変遷などに述べてるので一読するのをオススメする
日本人の書いた本なので読みにくさや価値観の違いも少ないと思われる 578ぐらいから1900まで続いた優れた制度であったことは疑う余地がない
興味があるなら新書の
科挙〜中国の受験地獄〜
みたいな本がかなり詳細に長所短所や制度の変遷などに述べてるので一読するのをオススメする
日本人の書いた本なので読みにくさや価値観の違いも少ないと思われる >>9
それを全否定したらシビリアンコントロールなんて成立しないぜ。
幕僚は軍事のプロだが、実際に指揮を執るのは総理大臣や防衛大臣。 科挙に落ちてカルト教団つくって反乱おこした洪秀全
>>15
前線での部隊指揮の事いってんのかも>軍事指揮 >>8
丸暗記の明経科は北宋の時代で終わったね。
残った進士科は論文と詩だから,丸暗記ばかり得意でも合格は出来ない。 明経科:30歳で受けてたら爺さん扱い(「まだ受かってないの」みたいな感じか?)
進士科:50歳で受けても若者扱い
だっけ >>18
科挙から明経が無くなって,超難関の進士だけになって当時の中国人は困らなかったのかね。
もっとも胥吏や幕友から正式の官僚になるルートもあったようなので,どうしても官員になりたい人はそういうルートを使ったんだろうか。 科挙に何度も落ちた人が宦官や軍人になったりってのもあったりして 科挙には受かったもののポストに空きがなかったんでやむなく帰郷した人が
こぞって飛びつこうとしたんかな>幕友
ttps://kotobank.jp/word/%E5%B9%95%E5%8F%8B-113878 >>21
科挙ってのは資格試験であって採用試験じゃない(現代日本の国家公務員総合職も同じ。但し国家総合職合格は3年で失効するが,進士は終身有効)から「無い内定」も発生したらしいね。 明清になると別に官職着けなくても科挙資格さえ有れば紳襟、郷紳地主層としてやっていけたんじゃね?
生員は言わずもがな、挙人が終身資格になったせいで地方に挙人が余りまくったと聞くし
科挙って砕けて言えば「徳のあるだーれだ試験」でしょ
官職につけなくても徳が有ることは変わらないと 袁世凱の死後、各地で発足した軍閥は郷紳地主を自分トコの要職につけるなどして
彼らの協力を得るのに懸命だったんだっけ そういや袁世凱って科挙官僚・李鴻章が作った淮軍で頭角を現したんだよなぁ >>24
協力を得るのもあったろうけど,事務を執ってもらう人材として活用したかった面もあると思う。
事務自体は胥吏だった人なんかでも可能だろうけど,管理経営は名士のほうが向いているだろう。 ベトナムで1919年まで続いてた科挙。
ホー・チ・ミンは科挙合格者じゃなかったのね。 >>10
あった。清では一時期,旗人の文科挙受験資格に「武科挙の騎射に科目合格しておくこと」というのがあって,その時期の旗人は大変だったと思う。 >>27
きっとベトナムでは昭和末期までは合格者が存命だったろうな。
因みに以前「やる夫が科挙を受験するようです」というスレで,最終合格者が記念写真を撮るシーンがあった。
「実際に撮った合格者が存在したかは不明」と註釈があったが,朝鮮で1894年,中国で1905年,ベトナムで1919年まで実施してたんだから,記念写真撮った合格者は絶対実在すると思う。 1986〜1988年に100歳で亡くなった場合(科挙とは関係ないけど同国の
ヴォー・グエン・ザップ将軍も100歳あたりまで生きてたっけ),
生まれたのが1886〜1888年。
科挙廃止手前の1910年代後半当時は30前後だったのね。 科挙試験には理系科目が無いのが痛いな。
文章の美味さ、古典の知識の豊富さが優劣の条件で、
土木や経済、医療など実務的なことはいやしいこととされていた。 >>31
科挙を取り入れなかった日本でも財務担当の勘定方の役人は軽視されてたんだっけ
(「武士のやる仕事じゃない」みたいな感じだったと思ふけど) >>31
現在の中国における官界エリートは科挙の頃と違って理系出身者が多いのよな >>33
最初はね。
勘定奉行所は江戸時代を通じて強化の一途をたどり続けたし,財政担当の勝手掛老中が「首座」として最上位扱いされるようになった。
(「よしの草紙」の中では勝手掛老中のことが「首相」という語で呼ばれでいる) 科挙に数学は必須だよ
>>36最古はバビロニアの官吏登用試験。4000年前。数学を課した >>39
現地の試験官
電信も電話もインターネットも無い時代に天下各地で一律の同じ出題なんて不可能やからな
中央で作成した出題を各所に送ってたら試験実施前の漏洩もまず防げない 問題流出は厳罰だったんだろうか?
地方で不正やってても誰も気づけなさそうだけど 地方での一次試験を不正で乗り越えたとして
中央での2次試験に受かるとは思えんな 出題者が厳罰に問われた"維民所止"事件
日本でも国家安康てのがあったっけ… >>42
郷試に合格(挙人)するだけでも現地ではかなりの社会的地位を得られるし
塾を開いてやって行ける程度の学力的権威は得られる 清朝崩壊後の民国で実務を担った官僚だけど清朝時代の科挙(殿試)合格者と
外国留学経験者との対立・抗争って激しかったんやろか? どうなんだろう
科挙の廃止後ってどんな官吏登用試験だったっけ >>41
監察御史という皇帝直轄の視察官が監督してるから無理
そもそも地方の権力がそこまで強いのなら中央集権自体成り立たないでしょ 科挙の進士合格は四年に3〜400人だったらしいから
当時の支那の人口で割るとだいたい本邦の全国模試100万人分の
20位以内くらいの合格率となる。これは日本の国家公務員試験で
主計局に登用されるような連中かね。
ただ科挙は成人男子であればほぼ全員参加できるので
母集団は大きいが、科挙を受けることができるような立場も
そんなにないのでそこまで過酷だったかは不明。 >>51
割り当て人数の人口比やら土地の豊かさなど地方によって難易度が変わるだろうしね
先進地域ならまだしも落伍した地域なら殿様と変わらないんじゃね、と思ってしまう >>44
自分が果たせなかったことを弟子に託したり、
弟子を教えながら自らも殿試を目指したりって
感じなんかな。 殿試に受かって長年官僚やってた人も引退・帰郷後にひらきそうではある
(むしろそっちに弟子があつまりそう) 日本の大学入試よりは財務官僚(特に主計局採用)になるための
試験というほうが近いかも。
植民地では宗主国に貢ぐための経済政策や財務がすべてだからね。
これは結局、科挙だってどこかからやってきたガイジン皇帝に
仕えるための試験でしかないから、その精神は同じだ。試験によって
より大きく家畜になるか小さい家畜になるかを試しているだけであって、
自分自身の人生の主人公になるための人間になるという概念は科挙にはない。
東アジアの愚かさはこの科挙制度がよく表しているよ。 中国史によく出てくる「学者」というのは結局は科挙に受かってない人達なのか?
それとも単に受けてないだけ? >>17
むしろ、詩の作成こそ丸暗記必須というのが、中国語という言語世界だったりする。
文言というのは、古典のフレーズをパッチワークのように繋いで作るのが正統とされる、かなり特殊な「言語」で、
自然言語(母語としての白話各方言)を話せるからといって、文章を紡げるものではない。
ここに加えて、詩文だから韻律を揃えなければならない。それも口語とは全く違う音で揃える必要がある。
このへんは、
「詠み人の気持ちが乗れば、三十一文字なんて自然に出てくるはずだ」という日本語の詩歌論とは、全く正反対の言語文化がひろがる。
詩文作成を課すことで、さらに丸暗記にかけるべき労力は多大になった。 ベトナムでは科挙に受かった連中が日本に留学する「東遊運動」てのがあったっけ。
もちろん宗主国フランスは留学先の日本に圧力かけてたけど。 >>33
>>37
江戸期の日本では、「軍事のプロ」に対する反対概念として「財政のプロ」がある。この対立は実は大日本帝国まで引き継がれるが、
おおもとは豊臣政権の加藤清正と石田三成の有名な対立ではないかと思う。
武家政権の本来のコア統治要素は、西欧中世と同じく「裁判」だったのだが、豊臣政権以降、武士間での所領争いが事実上無くなったので、
政治の基本要素から裁判(司法)が外れた。それでも江戸期を通じて訴訟件数は今よりはるかに多いけど。
近世以降、司法に変わり、財政が政府の最も重要な問題として浮かび上がってきたが、軍事主義者はなかなか認めなかった。
中国の場合、軍事に対しては、なぜか文字通りの「文官」になり、その文官の要素として財政が軽んじられる伝統が続く。
これは、詩歌を尊ぶ「文官」たちが財政の実務性をバカにしたからで、近世・近代日本の事情とは対立軸が違う。
やっぱり、日本とは大きく異質な世界だ。日本人にとって、「詩歌で国を治める」なんてことは、
「水銀を飲んで不老長寿」並みの心底意味不明な世界だったろう。たとえ地域文明の雄として学ぶべき存在だった時代でもw 詩賦はそんなに重視されてなくね?単にポテンシャルを見る方法の一つだっただけ。
旧中国の政治に求められたことは封建時代の理想の政治を郡県社会の下でどうやって再現するかだから、
財政は言ってみれば戦後日本の軍事みたいな扱いだったんじゃないかと思う。 暗記こそ現代の受験につながる要素
意味ない文章を丸暗記するのも、科目わけしてなんとか意味のあるようにみせかけたものを丸暗記させるのも対して違いはない 清朝末期、進士の中で欧米の大学に留学した人っていなかったんやろか。 科挙で求められるのは官吏になることであって、
学者になることじゃない。
欧州みたいな自然哲学は支那では道家がこれを
担当してた。それと仏僧。今でも支那人が
自然科学と政治を区別できないのは科挙だけが
学問だと思ってるから。道家的なものは在野の
劣った思想として2000年以上も退けられてる。
技術者や道家をもっと大切にしていたら欧州に
指一本で敗北することはなかっただろうね。
科挙というのは結局保守しかできない
アジアの限界でもある。日本も試験や偏差値が
大好きだろ?知性がないのさ。 >>66
官権が強いフランスは結局第二次百年戦争に
自由主義の英国に負けてるのだから
政治家になるのに異常な勉強時間を課す
フランスはダメでしょ 逆だバカもの。
法家思想由来の科挙は方法科学の思想。
「あんたが言うことは本当に正しいんかいな」という
実証を政治に応用したような感じ
対して儒家は支那の宗教
合理を受け付けぬ権威。 古代インド世界の皇帝が戦争好きなのを
チャトランガにて家臣が封止したのと
科挙の精神は似てるかもネ
実証重視 あやめさんは科挙の話題で実際に会試の出題を持ってきたな
このスレはまだ誰も実際の出題も答案も持ってきてない >>73
郷試合格が会試の受験資格
童試合格が郷試の受験資格 科挙はちょっと調べるだけで頭おかしいエピソードが出てきて面白い >>59
それはいつの時代のどこの国でも公文書作成には必須の能力だけどな。
依頼なのか下命なのか通達なのか,内容によって決まった言い回しと特定の用語を使う。つまりパッチワーク。
それがちゃんと出来るかどうかを見られるんだから,科挙で詩を出題したのは正解だろう。 まあ科挙導入で他国と比べて中華の官僚のIQがダントツで高くなったのは事実だろう >>74
童試=郷試の受験資格ってのは明清の話だな
確か唐宋だと天才児に科挙を受けさせてみようぜって試験だったはず
代わりに明清だと特に優秀な人物を地方官僚が推薦して飛び級で郷試受験が出来るようになってたりする
なんて名前の制度だったかな >>65
>技術者や道家をもっと大切にしていたら欧州に 指一本で敗北することはなかっただろうね。
中国に「こんな国,指一本で滅ぼしてやるぅ!」と言ったのはイギリスのマカートニー。
乾隆帝のお情けで謁見だけは出来たが,ゼロ回答されて涙目で逃げ帰ったのはご承知のとおり。
日本にも池乃めだかという,似たような決め台詞で有名な喜劇役者が居ますね。 ジョージ・マカートニー『中国訪問使節日記』
これらの女性はよく日に焼けているが、みめ形は悪くない。髪の毛はいずれも黒くごわごわしているが、それを手ぎわよく編み、頭のてっぺんの所で、かんざしでとめている。
子供たちはきわめて数が多く、ほとんどが素っ裸である。男は概して顔立ちがよく、手足がよく発達しており、たくましく筋骨隆々としている。 (pp. 22-23)
確かに中国政府の機構と権威は、ほとんど即座にどんな困難でも克服し、人間の力でできることなら何でもしでかしてしまうほどによく組織され、強力である。 (p. 27)
ところが、中国人は航海術について並み外れて無知であるために、海岸でしばしば難破して行方不明になる。なぜなら、中国人はヨーロッパ人を知るようになってから
二百五十年以上経過しているにもかかわらず、またわれわれの船や航海ぶりを見て讃嘆するくせに、どんな些細な点でも、船の構造や操縦方法をまねしたことがない。 (p. 33)
儀式を貫く特徴は、アジア的な高貴さに特有な物静かな威厳と目立たないような華やかさにあった。このようなものはヨーロッパ人の洗練さの程度をもってしては、
まだ到達していないところである。 (p. 93)
このあたり[景徳鎮付近]は気持のよい平坦な土地で、自然のままではあまり肥沃ではないのだが、驚くほどによく耕作されている。中国人は確かに世界一の農夫である。(p. 185)
中国人は医術ないしは外科術や科学的知識の点で、いかに他の諸国民に遅れているかということである(もっとも機械工学の若干の部門においては、彼らは優れている)。 (p. 188)
彼らはわれわれの軍隊の持ってるような規律というものを全く知らない。着にくそうな服装を身につけ、武器といえば火縄銃と弓矢と大刀だけである。武器の扱い方も不器用である
し、性格や気質からいっても戦争好きではない。だから、指揮よろしきを得た攻撃に対しては、ろくに抵抗もできないであろう。 (p. 205) >>80
18世紀の水準で言えば,ヨーロッパ医学は別に中国医学より優れてなどいなかったと思うけどね。
まだ手術創の感染防止すら発見してない時代だよ。 >>80
なんだかこれだけ見るとThe平和ボケ国家って感じだな >>55
官僚をやってりゃ賄賂を受け取らない清廉な人ですら大金持ち。
塾の先生なんかやらないだろう。あまり尊敬されなかったらしいしな。 >>82
大学のときに教わった先生に、
「中国の歴史は平和と統一の歴史である」
と言っていた人がいた。
中国シンパな発言の面もあったかもしれんが、
中世以降の欧州との比較だとなるほどとも思える。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています