ところで高句麗語で「山、高い」を意味するとされる「達 *tar」だが、こいつ実は現代朝鮮語に同根の語あるんじゃないかと思うのだ

それは「全く、ことごとく、殆ど」を意味する"다 ta"という言葉だ
この語は吏読では「如」と書かれ、「〜のごとく」という意味から動詞の終止形の語尾にも採用されている(いわゆるなんちゃって朝鮮語のニダのダの部分な)

なぜこれが「山、高い」の意味に繋がるかというと、
この単語には更に姉妹単語として「もっと、更に、よりいっそう」という意味の母音調和反転形”더 te”があり、吏読では「加」と書かれる
また、同系統の言葉に「再び」という意味で"다시 tasi"というのもある

つまり同じものを重ねていけばやがて高くなり山ができあがるということだ

日本書紀の訓註を見るかぎり「正(まかり)」や「上(をり)」などの様に百済語乃至高句麗語において形容詞の連体形には「-り -ri」という接辞が使われている
ならば「達 *tar」の*-rの部分こそがまさにそれの母音が省略された形だろう

現在の朝鮮語において"다리 tari"という言葉には足や橋の意味があるため、これらとの衝突をさけて山の意味は消滅したのだろう
足で立つと高さが加わり、川に通路を加えれば橋になるという発想だ

ところで足の意味の方は丁度日本語の「足り(足る)」に同音である
他動詞形「足す」は”더 te”の訓「加」と同義であり動名詞形「足し」は"다시 tasi"に同音である
日本語の起源は百済語などというトンデモなことはないだろうが借用などなんらかの関係はあったのだろう