>>139
沖ノ島では、縄文時代前期の土器や石器が出ており、はるか昔から海人たちが上陸していたことが知られている。
なので、御身の形(みみのかた)、即ち(おっぱい島)、女神の島として崇められてきた歴史は、はるか長いのだろう。
しかし、御身の形(みみのかた)と呼ばれるようになるのは、やはり4世紀後半からではないか。
秦氏はどのように、この島に関わったか。
(おっぱい)が、なぜ御身(みみ)なのか。
そこで、秦氏は、トルコ語を話すユダヤ人集団であった可能性が高いことを思い起こしていただきたい。

トルコ語
meme(メメ)=おっぱい、乳房、乳頭。

沖ノ島は御身の形(みみのかた)と呼ばれる(おっぱい)の形をした島だ。
その御身(みみ)の由来は、トルコ語meme(めめ)=おっぱい、ではないか。
秦氏が住んだ太秦(うずまさ)のウズは、トルコ語の数詞3(ウス)である可能性が高い。
おっぱい形の島沖ノ島を指す御身(みみ)の形とは、秦氏がもたらしたトルコ語meme(メメ)=おっぱい、が元である可能性が高いのだ。

新羅から沖ノ島、宗像、北部山陽道、京都太秦、近江を結ぶ渡来・交易の道の鍵は、トルコ語を話す秦氏が握っているとみることができる。