>>141
新羅、沖ノ島、宗像、北部山陽道、京都太秦、近江坂本、近江三上の東西路は、太秦の秦氏が握る渡来・交易路であったと考えることができ、
トルコ語を話すその秦氏が関与したのが沖ノ島で、(おっぱい)形をした沖ノ島を御身(ミミ)の形とするその由来は、トルコ語のメメ(おっぱい)にあると推定した。
では、こうした海の交易路で、トルコ語を話す秦氏が関与した他の痕跡はないか。
今回は、壱岐を取り上げる。

壱岐は、平安時代初期の和名抄に壱岐郡の表記がみられる。
この壱岐は、7世紀に壱岐国が設置されたことに由来するもので、その頃にはこの島の名がイキと発音がなされていたことが分かる。
そして、それ以前については、3世紀に成立した魏略に「一支」と書かれている。
この「一支」の読み方については、これまでに議論がある。
「支」は中国上古音ではキェ音であったとされるので、一支はイキェだったと論じられる。
一方、「支」は、中古音ではシェなので、イキではなくイシェと発音されたとの論もある。
そうすると、魏略の時代は、魏志倭人伝の時代と同じ時代であり、中古音への直前の渡過期であるので、「一支」は中古音で発音されたと考えるのがよく、イシェとすべきということになる。
そして、上古音は推定の域を出ないとの指摘もあることから、この中古音(一支=イシェ)を重視することにすると、
和妙抄では壱岐の平野部は壱岐郡、山裾部は石田郡とされていることから、(一支=イシェ)は石(イシ)の音写ではないかと考えることが可能になる。
つまり、7世紀に「壱岐(イキ)」と書かれてイキと発音するそれ以前には、壱岐(イキ)という島名はまだなかったということも考えられる事態になるわけだ。
では、この壱岐(イキ)の読みはどこから来たのか、ということになってくる。
そこで、秦氏のトルコ語がクローズアップされるのだ。

トルコ語
iki(イキ)=数詞2

対馬を1番目の島とすると、壱岐は2番目の島になる。
また、唐津を出発地の1番目とすると、壱岐は2番目になる。
壱岐が2番目の島であるのは事実だ。

                           続く