春秋戦国時代2
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
西欧人はだいぶ世俗化が進んでるし、イエスがアラブ人みたいな顔貌でもそう興奮はしないだろう。これ↓だってbbcが作って放映したんだし。
https://i.imgur.com/JMkevaN.jpg
https://i.imgur.com/iLpJFTk.jpg
問題はアメリカ人だな。 >>851
褐色なのはともかくアラブやレバントならもう少し鼻筋が通ってるんじゃないだろうか
ソクラテスのイメージでも混ざっていそうだ 春秋戦国の話をしろよお前ら
別に古代中国人が白人じゃなくたっていいじゃん 同じ時期のアッシリア帝国やペルシャ帝国と比べたら、かなり遅れた文明だった 食べ物や衣服を贈ったとかかししたとあると貧しいんだなと思う >>859
……産業革命まで、布(生地)やそれを加工した衣服は相当な高級品だし、食べ物は現代でも贈答のお約束だ
お前は何を言っているのかと >>855
春秋戦国の王族公族の中で現在でも続いてる一族ってどのぐらいあるの? >>859
衣と食の問題なのですから、そんなに馬鹿にしたものではないでしょう。
子産と季札の「縞紵の交」は有名ですが、贈答品としては穏当。
紂王が象牙の箸や玉の器を用いるようになって批判されたとか、呉が魯に最大でも十
種類の肉料理を百種類提出させて横暴を非難されたとか、少なくとも『史記』や『春
秋左氏伝』の価値観では、数と希少性に飽かせた行為は嫌われた様ですし。
宰我が「晝寝」をしていて孔子に嫌われたことを「畫寝」で「寝に畫く」、つまり寝
床の設備(当時は床座の時代なので大げさな寝台ではなかったでしょうが)に彫刻し
ていたものとする解釈がありますが、君主の車などへの彫刻でも、それが個人的な好
みに由来するものであれば非難の対象でしたからね。 >>861
唐末にほぼ絶えた
自称「孔子の子孫」とかは今でもいるけど、世界中に300万人だとか >>863
意味不明
アケメネス朝ペルシャ帝国の時代にわ製鉄が普及してる >>863
それならアッシリアやペルシャではなく、
もっとずっと前のヒッタイトや海の民を誇るべきだろう >>866
そりゃ、その時代の中国にも鉄器はあったが、普及の度合いが違う 春秋戦国時代の名門が、唐まで続いたのはいくつかある
滎陽鄭氏は、春秋の鄭の流れを組み、唐でも四大貴族の1つに数えられ、10人の宰相を輩出。
趙郡李氏も、唐の四大貴族の1つで、あの名将・趙の李牧の子孫とされている >>854
チビ胴長短足頭でっかちで黄色の癖に毛深くて足に剛毛生やしてる日本人男性が世界で一番醜いと思う 人種コンプバカは消えてほしいわどっちも
どう見てもブサイクのくせに他人にばっか厳しいとか笑える 曹操の悪人扱いって
孔子の子孫である孔融と司馬遷の子孫である楊修を曖昧な理由で処刑して
荀子の子孫である荀ケを自殺に追いやったのも後世の評価に影響してる? 単純に京劇の影響・・悪役はメイクからして違う
三国志は字を読める人はすくなくても
劇の悪人は文盲でも理解できるし中国全土にひろまった
でも曹操の評価は時代によって異なり
いまの共産党は魏を崇める立場になる
理由は簡単、毛沢東が人民は阿斗になるな、と言ったから
つまり共産中国も。三国志の蜀の後主みたいなるなと じゃぁその京劇というか中国の各地方劇、京劇の元となったいろんな芝居の中での
曹操の悪役イメージはどうやって作られたのか
曹操ではないが諸葛亮孔明の場合、小説の「三国志演義」は芝居の世界では影の薄い
脇役に過ぎない孔明をずいぶんかっこよく描いていて、そこが違うと言う
それは小説版の作者が知識人階級であるためにひいきしているのだという
そこで>>871を見ると、小説の作者が他にも贔屓しそうな人を
バンバン殺している曹操という男は、いかにも悪者に描きたくなる相手に違いない
曹操の場合は小説のイメージが芝居にも影響しているのだろう >>871
そうだ
秦の始皇帝と同じで、儒者を殺したのが良くなかった。
明朝はまったくの儒教社会。評判が悪くなるのは仕方ない 三国志の見方は時代によってことなり宋では魏正統がとなえられ
時代が下がるにつれ朱子学の影響で蜀が優勢になる
モンゴル時代となると三国志は改変が加えられ
蜀は滅亡したが
漢室の血を引く匈奴皇帝・劉淵が主人公になり
漢を再興して、めでたしとなる
つまり劉淵を重ねて、モンゴルが正統であるという >>861
子孫が残っているのはいるけど力はない
ただし、孔子廟の奉仕官だけは万世一系で実は今も残っている
大学入試に失敗しても孔子の子孫だから入学させて批判されたとか
歴史上では宋の時代に周の皇帝の子孫を特別扱いしていたのはある >>875
これ面白いな
劉淵はどうやって漢を復興したんだ 匈奴王族は19氏族のうちレンテイ氏に限られる
遠くの王族や貴族と通婚するのは遊牧民の習慣で
レンテイ氏は劉邦の娘などもらい漢王室と通婚してた
したがって匈奴は血縁の劉氏を名乗れる >>870
一行目だけなら正論なのにくだらん二行目を付け加えるからブーメランになって反ってきてる 戦国初期の覇者・魏の文侯
魏の国は晋が分裂したことがきっかけで建国された国です。
晋が分裂した際に趙・韓そして魏の三国が同時に建国されます。
そして魏には名君と言われる文侯が君主として君臨しておりました。
この国は文侯が名君であったことがきっかけで多くの有能な人材を確保。
また国土も広く国力も充実しておりました。
そのため多くの小国は魏の文侯に付き従っている状態でした。
ある日戦国時代の覇者とも言える魏の文侯へ韓から使者がやってきます。
この使者は文侯へ「趙が生意気なので懲らしめてやりたいのです。
是非兵を貸してくだされ」とお願いしてきます。
しかし文侯は「趙は我が国と兄弟のような国です。
この国を討伐するための兵力をお貸しすることはできません。」と断ります。
数ヵ月後・・・・。
今度は趙の使者が文侯の所へやってきます。
趙の使者は文侯へ「小さい国の癖に色々とやかましいことを言ってくる韓がムカつくので、
兵力を貸してくれないだろうか。」と依頼。
だが文侯は「韓は我が国とは兄弟と同じような関係を保っている国です。
この国を討伐するための兵力をお貸しすることはできません。」と拒否。
趙と韓の要請を断った文侯ですが、この話を聞いた韓と趙の君主は文侯の徳の高さに心服。
両国は文侯の下へ馳せ参じて臣従することになります。 「呉子」と呼ばれる兵法書の作者である呉起(ごき)。
彼は春秋戦国時代の初期に出現した名将で孫子と並んで最高レベルの軍略家でした。
そんな呉起は魯(ろ)という超小さい国の将軍でした。
この国で彼は抜群の武功を立てることに成功するのですが、
魯の群臣からの評判が悪ったので、魯の国を出ていくことにします。
そして彼が仕官先として目をつけたのが文侯率いる魏の国でした。
呉起は早速魏の文侯と謁見する機会を得ることに成功。
そして彼は文侯に兵法や行政など様々な点から自薦していくのですが、
文侯は呉起の話を聞き終わった後に「我が国は戦争を嫌う国なのだ」と
答えて彼を登用しませんでした。
呉起はガックシして宮殿をあとにしていきますが、後に魏の文侯から招集を受けて魏の将軍として
活躍することになります。 いい話っぽく書いてるけど、最後の一文が文侯はアホなのでは?と思わせる
中国の昔話的なそれっぽい逸話ないのか? 魏の文侯といえば、『戦国策』や『韓非子』にある逸話が有名ですね。
文侯が御狩場の管理人と狩猟の約束をしていたが、当日は雨であった。その上飲酒して楽しんでいた。
それでも文侯が宮殿を出て御狩場へ向かうので、近臣は止めた。
「雨な上に、御酒も楽しまれたところです。なんでわざわざ御狩場に出られます。」
「私が約束して決めたのだ。雨だからといって、なんで行かずに済まされよう。」
そう言って、文侯は自ら出向いて狩猟の中止を宣言した。
魏はこれから(君主が約束を守るという信頼を得て)強国となったのである。 一歩まちがえれば魏文帝になりそうな偏屈さ、頑固さを感じる
文帝は光武帝を残忍と非難していたんだよなぁ 覇者には、「信義を守る人物」という自己演出が大事なんだな
魏は、欧米でいえばフランスのようなもので、中央の高度文化国家としての権威はあるけど、力で諸国を抑えるほどの国力があるわけではない >>886
これもいい話っぽく考えてるけど、
狩猟の約束してるのに酒宴開いて酒飲んで酔っぱらってる時点で約束守るのはポーズだろって思ってしまう
「俺は約束守るつもりなんだけどなー )チラッ」って中止にするように圧力かけてるだろ 飲酒・飲み会に現代人は悪いイメージをつけすぎで、当時の扱いも考慮されるべきかと。
しばしば彫刻などの形で後世に伝えられた光景ですからね。
中国では鼎が王権の象徴となり、日本では朱器・台盤が藤氏の長者の証となった。 長らく世界史板を覗いていなかったのですが、春秋戦国スレが継続してあるんですね。
皆さんはどうやって春秋戦国にたどりつかれましたか?
私は吉川英治の「三国志」で諸葛亮が自信を管仲・楽毅になぞらえている、という
記述をみて、これはどんな人たちだろう、と思ったのがはじめですね
もう50年も昔の話ですが・・・ 小室直樹の中国論
紀元前4世紀あたりの戦国時代には、中国の官僚制は現代における近代官僚制と同じような形を取るまでになった。
戦国時代では戦国七雄といわれた7ヶ国がしのぎを削った時代だが、その頃にはもう、近代ヨーロッパ列強並みの人口規模を持ち、製鉄などの技術も開発され、商業も盛んで、経済も発達していた。
戦国七雄は近代列強並の富と力を持ち、また近代列強と同じく、領域国家(領土の確定した国家)になって、そして、戦争専門の兵で組織する常備軍が完成されていった。
王の権力も大きくなり、王の周りには封建的諸勢力に代わって体系的な官僚制度が形作られていった。 (続き)
古来、王の周りの統治階級は、王家親族、有力貴族だった。
ところが、戦国時代に名君と呼ばれた王は、奴隷たちから宰相(総理大臣)を選んでいた。
歴史上有名な、殷の傅説(ふえつ、武帝丁の宰相)、秦の百里奚(ひゃくりけい、穆公の宰相)、は、奴隷だった。
斉の桓公かんこうに仕えた管仲も、捕虜となって死刑を赦された奴隷の身分から宰相に抜擢された。
「宰相」とは、もとは奴隷の一種、という意味だった。
料理人や羊飼い、そういった者たちが総理大臣に抜擢された。
なぜ、奴隷なのか、それは、貴族はときに王に口答えするが、奴隷は無条件で従ったから。
専制君主に従う人間こそが官僚としては有能。
もちろん能力は必要だが、その統治能力さえ認められれば、宰相として就職できた。 殷では宰は奴隷を意味する言葉
大夫で相だと卿と呼ぶ
宰相ではないんだな >>894
修士課程に入ったばかりの時に指導教授から「日本文人史」をやるように言われて、
のめり込んだこともあり、彼らが読んでいた漢籍を読むことになったのが初めです。
かつては普通に読まれていた漢学に関する本が、今の古書肆では本当に安いですね。
得と言えば得ですが、それだけ需要が減ったということで、寂しくもあります。
1980年代までは、まだ水墨画(南画)を通じて知識のある人もいたのですが。 >>898
山野さんもご健在でなによりです
調べてみると、初めに白起さんが「春秋戦国の名将はだれか?」というのを
立てられてのが2002年ですから、もう20年近く前の話なんですね
明治までの知識人は漢籍を白文で読めたんですよね?
春秋戦国時代と言えば、宮城谷昌光氏が小説で取り上げているので、一般の目に
触れる機会も増えたのでしょうが、氏の小説は、初期の夏姫春秋のころは非常に
面白かったのですが、その後は主人公が善人すぎるような気がします
最近のNHK大河ドラマ主人公が、皆平和主義者になって面白くないnのと同じ
感じがします ところで李牧が讒言で殺されなければ、秦の統一はもっと時間がかかったように
思うのですが、どんなもんでしょうか? すでに昭襄王 の時点で秦は蜀も属領とし、楚の大半を占領して植民地化して
中原も領土を深く食い込まれており、
アメリカとソ連を兼ね合わせたような超大国になっていた
秦王政の天下統一に動くか否かはもはや秦国内の貴族の政治問題で
一旦決まれば官僚機構も兵力的にももんだいなくすすんだ
リーボック個人がどうという問題ではない
むしろ秦本国の北半分にすみつく異民族・義渠国の退治が一番手間だった
これは昭襄王の母の宣太后が義渠王を誘惑して風呂で首をはね
義渠の故地に隴西郡・北地郡・上郡を置き、やりとげた 宮城谷昌光の小説は俺には別の不満があって、
資料の少ない時代だから色々と想像に頼らざるを得ないんだろうけど、
姓が某だからこれこれの一族の出で、生き方やものの考え方はこうで、
っていう想定の過程が決めつけすぎてる感がある
フィクションなんだからその辺はもう少し意外性を盛り込んでもいいだろうに >>898
それでもまだ狭い世界では人気ならいいじゃん
>>899
今でもエリートを東大の上位中位に限れば読めるんじゃね
>>900
重臣を全部買収してお金を拒否した人は皆殺しになったんだから無理だけど
秦がこの政策を取らなかったと仮定しても
王せんが秦の全軍に近い兵力で攻めたように
趙も60万の軍で壊滅じゃね
その分楚の滅亡が遅れるかもしれんけど
>>901
アメリカとカナダを併せた程度の国ですよ
圧倒的に強いしどこと戦っても強いけど
アメリカとソ連を併せた国があったらもう天下統一どころじゃないよ
>>902
ただ、姓の数も少ないから遠縁でも同族ではあると思うよ
もっとも晋自体が姫姓じゃなく異民族って話もある >>899
>立てられてのが2002年ですから、もう20年近く前の話なんですね
当時はまだ学部生でした。楽毅や田単は知っている、というレベルでしたね。
>明治までの知識人は漢籍を白文で読めたんですよね?
作家ですと漢学の素養があったのは永井荷風(1879〜1959)、芥川龍之介(1892〜1927)、
中島敦(1909〜1942)まででしょう。
永井は言わずと知れた鷲津毅堂の外孫、芥川は数寄屋坊主の家系、中島も中島撫山の孫で、一族
からは谷文晁系の南画家だった中島杉陰も出ています。
上村松園(1875〜1949)も幼少期を回想して、当時は皆漢学を習っていたと書いています。
しかし、山本夏彦をしてあの世代に生まれたのは奇跡(要約)と言わしめた中島は夭折。
漢学の素養も廃れましたね。芥川の世代には、もう差が出ていたそうです。
志賀直哉(1883〜1971)の弟子である阿川弘之(1920〜2015)が『論語知らずの論語読み』
という本を書いていますが、現代作家の代表があんまり無学なので驚きました。
当時50代の阿川より、不惑を迎えたばかりの私の方がまだこの方面の教養があると思います。 >>900
遅れはするでしょう。ただ結果は変わらないのも、すでに言外におっしゃっておいでの
様に確かなことでしょう。
宮城谷先生の小説はあまり記憶にないのですが、年齢を重ねると
・とにかく理想的な世界を描きたい
・理不尽な悪党が酷い目に遭うのを描きたい
という傾向に陥る人が多いようです。前者はまだしも、後者は話もあまり面白くなく
なります。作者が書きたい展開が優先されて。 個人的に、安能務の小説は好きだけど宮城谷の小説は嫌いだな
世界に浸れんというか春秋戦国っぽさを全く感じられ無い
吉川英治の三国志だと世界観が完全に日本その物でも何故か許せるけどそういう魅力も無いし
>>895
常備兵も多少居たけど皆兵制の時代でしょ、フリードリヒ2世じゃ無くナポレオンの時代 始皇帝の父呂氏のかいた呂氏春秋
「兵士は体格すぐれたものをエリート軍団として弓矢を研ぎ上げても
時の勢いによっては、雑兵・農婦・老人などの農民一揆にも負けるものだ
だからといって、軍の整備が無意味ということはないのだぞ?
王たるものはかならず最高の兵士・よろい・武器を整え、戦にむかうのがつとめである」
ほう。始皇帝は全て呂氏の忠告、そのとおりに実行してるじゃないか・・・ >>906
吉川英治氏の世界観が日本的というのは感じますね
しかし、半世紀前になりますが、中学の定期試験の前になると「三国志」を
読みたくなって困りましたね
完全に現実逃避ですがw
その三国志で、諸葛亮の人物紹介として管仲・樂毅や、太公望あたりの名前が
出てきたわけです
ちょうど徳間書店で「戦国策」「孫子」「史記」などが出版されてたんですよねえ >>903
そうだな、面白いのは姓より氏だ
だがその氏も何代か重なると
出自や元の生業と子孫の生き方が合わなくなり
広い意味での下克上を反映するようになってくるのが面白い 諸葛亮にとっての管仲は、われわれにとっての源義経くらい大昔の人 ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10195621055
管仲の仲って字だったんだな
知らなかった >>912
三国志や隋唐演義の感覚だと、仲が名で、夷吾が字に思えるんだが
どうも、もっと大昔はそうじゃなかったらしいんだな 名を呼ぶのは、主君ぐらいで、目下の者が名を呼ぶのは大変失礼というのは
春秋戦国の頃でもそうだったんでしょうか?
三国志時代はもうはっきりそういう状態になっていますよね
そういえば日本の江戸時代の本だと思うのですが、夢に関羽が出てきて
「劉備殿はお元気ですか?」と問いかけたら、「無礼者!」と一喝されて
切られた、というような話があったような・・・ >>914
戦国時代の斉襄王と田単の関係だと主君でも名前で呼ぶのは良くないって他の人から諫言されてるな
春秋時代の有名な例だと斉桓公が管仲を仲父と呼んで自分の親の如く大事にしてる
さらに言うと斉の始祖呂尚も周武王から太公望という尊称で引き立てられてる
諱で呼ばないというのは相手に対する尊敬、尊重を表す表現だったのは昔から
史記は漢代に書かれたもので司馬遷の漢代の常識で古代の記録を解釈してる可能性もあるけどね あ 補足
斉襄王と田単の例は戦国策からなので史記ではないけど
戦国策も漢代に編集しなおしてるので漢代の感覚で解釈されてる可能性は捨てきれない 仲父って父に継ぐって意味だと思っていたけど
管仲の字でもあるんだよなあ >>914
>そういえば日本の江戸時代の本だと思うのですが、夢に関羽が出てきて
最後に読んだのが20年ほど前なので記憶があいまいですが、『閲微草堂筆記』か
『聊斎志異』、おそらくは後者にあった話だと思います。
異界を訪問した男のところに関羽が訪れたので「劉公はどうしておいでですか」と質問
したところ、関羽が不機嫌になった。
異界の亭主が「早くお帰りなさい」と言うので慌てて席を立ったが、帰宅後死んだと。
諱を呼んだからではなく、敬意を表しながらも皇帝扱いしなかったせいだったかと。
君主と諱といえば、確か『世説新語』にこんな話がありました。
郭璞は博学であったがどもり癖があり、「璞は、璞は」と言っていた。
皇帝がそれをからかって「璞は何人いるのかな」と言ったという。
それに対する返事が「鳳よ、鳳よ」と言うが鳳は一羽という『毛詩』の引用。
『論語』にも出て来ますが。 >君主と諱といえば、確か『世説新
失礼、『世説新語』にあった話です。 ありゃ、さっき見たら一部の文字が消えていたので訂正レスをしたのですが、今見ると出ていますね。
失礼いたしました。 >>921
どもりの人物で大成するとその癖をいじられてる記録結構残りますね
ケ艾なんかも同じく世説新語で「艾艾」とどもった様子を弄られた話が収録されてましたし >>921
「聊斎志異」だったかも知れませんね
百目鬼恭三郎氏の「奇談の時代」で触れられていた記憶があるので、
日本の古い話のように思い込んでいました 劉備の場合、親とか目上の人からは「備」と呼ばれ、謙遜して自称するときも「備」。
通常は「玄徳」と字で呼ばれる。
三国志や隋唐演義だと、名が1文字で、字が2文字というパターンが多い。
それに慣れてると、「夷吾」が名で、「仲」が字というのは、ちょっと意外 日本では、歴史上の人物を劉備とか曹操とか、「姓+名」で呼ぶことが多いけど、
中国では、講談や芝居とかの影響もあって、「姓+字」で呼ぶことが多い
三国志演義の関羽と張飛は、関雲長と張翼徳。
隋唐演義の秦瓊と尉遅恭は、秦叔宝と尉遅敬徳。
きわめて有名 >>928
日本でも柳生十兵衛やら大岡越前やらの官職名呼びや、斎藤道三、上杉謙信、武田信玄みたいな法名が通称に
なってる人おるからな
似たような形ではある 称号で呼ぶのが一番無難で、次悪口じゃないあだ名、字、名ってイメージしてる
日本だと字が名乗りになるんだろうか 松平不味公みたいに号のほうが有名な人は日本にもいるよね とくに任地、封地だな。中国ではこれが大事。
日本だと、羽柴筑前が天下統一して「日本」を「筑前」に国名変更するなど考えられないが、モンゴル帝国以前の中国ならそうなる。 歴史上の人物を名で呼ぶか、字で呼ぶか、それとも号か通称かは、「定着したら、それが呼び名になる」としか言いようがない
孫文を「孫文」と呼ぶ人は中国にはまずおらず、「孫中山」と呼ぶのが普通。
「項羽」は、中国では「項籍」。
「劉基」は、中国では「劉伯温」。
「項羽と劉邦」は、両方とも名で「項籍と劉邦」にするか、両方とも字で「項羽と劉季」じゃないとバランス取れない >>934
「ナントカ公」とか「カントカ丞相」という人を、名前で呼ぶことはまずない
「アベ総理」に「晋三!」と呼びかけるようなものだ >>925
ケ艾は人気があるので、どもりのことは創作物でもたまに拾われていますね。
どうも人づきあいが下手だったようですが、どもりが影響したものか。
>>927
三国時代で複姓だと、司馬、諸葛、皇甫、公孫、夏侯が有名ですね。
司馬勝之、周不疑は諱が二字。
春秋時代だと澹台滅明やら、公山弗擾やら。諱が二字は珍しくもない。
古の陶唐氏(堯もこの姓)は、夏では御竜、商では豕韋、周では唐杜、晋が覇者にな
ると范を名乗ったという。 自分が書き込んだ名前で疑問が生じたのですが、周不疑は享年十七でしたね。
そして、字は元直とも文直とも言われている。
『礼記』では男子が字を持つのは二十歳とされていますが、早まっていたのでしょうか。 なぜ夏侯などという姓があるのか
王とか公とか侯はあっても
国名?付きの侯はこれだけだよな? >>939
基本的には、字とは「一人前になった」ときに自分で名乗るもの。
早熟な神童だから、早く名乗ったのでは? というか世に出て家族以外と交わる様になると必然的に字が必要になる
二十歳以前に字があるってのはそういう面もあるって事だろう >>943
あの時代の孔子の子孫の扱いがあれでしたし、あまり四角四面に重んじられなかったのかもしれませんね。 >>942
夏の滅亡後、禹の後裔は杞に封じられたが、
杞が楚に滅ぼされ、魯に逃れた公族が、
魯の悼公によって夏侯の復姓を与えられた 夏王朝の末裔だった杞では、「天が落ちてきたらどうしよう」と悩む人がいて、「杞憂」の語源になった。
商王朝の末裔だった宋では、「ウサギが走ってきて木に頭をぶつけないか」と期待して待っている人がいて、「待ちぼうけ」のネタになった。
一説には、これらの非現実的な妄想家のエピソードは、旧王朝の移民を嘲るために創作されたものとも言われている。 >>946
曹操が孔融を殺害しているでしょう。
有名な「ただ才のみ求めよ」も儒教的価値観に反したものでした。
>>948
老子は蛮族扱いされた楚の出身、荘子は宋の出身。
周中心のヒエラルキーを肯定してしまうと、元の地位からは永久に抜け出せない。
出身が思想に影響したとも言いますね。
逆に孔子の場合、魯は由緒はあるが力のない国なので尚古思想になる。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。