明清帝国 第三
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明清帝国の再来か
わたしは、中国が従来の20世紀型帝国主義的政策に加えて、近年ますます前近代の明清帝国的ふるまいが露骨になってきたと感じる。
2017年第19回中国共産党大会で、習近平総書記は「新時代の中国の特色ある社会主義の偉大な勝利」「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」を強調し、
しまいに「中国は世界舞台の中心に近づきつつある」と宣言した。舞台の中心で中国は何をしようというのか。
2013年習総書記が提唱した「一帯一路(大陸と海洋のシルクロード)」構想は、中国主導のアジア共同体を企図したものである。
中国は潤沢な財政を背景に東南アジアに多額の投資を行っているが、スリランカが借款の返済不能に陥ると、中国は港湾施設の99年にわたる管理・運営権を手中にした。
パキスタン、モルディブなども中国からの多額の借款返済に苦しんでいる。これを見ると「一帯一路」は明清帝国の冊封体制の再来かと疑う。 __
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l::||:::: |l 静かじゃのぉ。
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| やはり朕が登場せぬと、ここは活性化せぬな。
r┤ ト::::: \___/ || フッフッフッ。
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| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ ネトウヨは即刻、凌遅。
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ 大明を過小評価する者は滅九族。
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/:/ ,イ ! ! 大元ウルスこそ至高。
l/ /:;; ,f三''≡=、 ,r=≡ミ、 jリ 朱元璋め、時代を後戻りさせおって。
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',,,,,,,,_ ', ,' ._,,,,,,,,,,__,、 - リ r ノ.ノ l 日の本の足台にしてくれたものを。
. l┴'‐' i ; '┴'‐''", ' "´ ; ^r'ノ 秀吉
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人リルr‐'  ̄ ,、 -''" |
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/  ̄ ̄ >>2
どうせなら借款じゃなくて中国が自腹切って
出来上がったインフラ設備はプレゼントするぐらいすればいいのに
借金漬けにするから恨まれる 日本と明の貿易(日明貿易)は、「勘合」という割符(ビザのようなもの)を持っていないと明の港に入ることはできませんでした。
「日本国王」は、この勘合を明の皇帝から独占的にもらうことができます。
つまり、事実上この明銭の輸入については室町幕府が統制していたわけです。
ちなみに、勘合は一度に100枚くらいもらえます。
それを誰に配るかは、将軍が決めていました。
西日本の大名や商人は、将軍から勘合をもらえれば明に貿易船を派遣して莫大な利益を得られるので、
あのレームダック状態の中でも将軍に対しては比較的好意的だったのです。
義満が得てくれた「日本国王」の称号が、首の皮一枚で幕府の命脈を繋いでいた…とも言えますね。 明代は社会変動の激しい時代であった。
経済の急速な発展に伴い、さまざまな問題も出てきた。その中で、最も著しい問題は「奢侈」という問題である。
明代中期の1436年(正統年間)、江南地域でこの問題が浮かび上がり、明中後期の嘉靖(嘉靖元年1522年)年間以降、奢侈の風気が強まった。
万暦(万暦元年1573)以後徐々に他の地域にも広まった。つまり、江南地域は他の地域より60、70年ほど早かったのである。 「衣」は明初期に素朴だったが、明中後期になると、経済の飛躍的な発展にともない、江南地域の人々は高級な衣料品を求め始めた。
夏は薄絹、紗、絽など高級的な絹織物を愛用し、冬は狐、貂などの高価な毛皮を着ていた。綿、麻などは全く眼中になかった。
材料の上品さだけではなく、衣服のスタイルもよくなった。「時世装」、つまり流行ファションという言葉も出現した。
「食」の奢侈傾向は宴会に現れた。明初期には食材にこだわらず、種類も量も少なかった。しかし、明中後期になると、ツバメの巣、フカヒレなどもよく食卓に上った。
主人や客は演劇を見ながら、珍味をあじわい、美食を乗せる器にもこだわった。
「住」では庭園の例をあげたい。明朝は私人庭園が非常に盛んであった。今日、景勝地となっている蘇州の拙政園、上海の豫園などは明朝の傑作である。
拙政園は明嘉靖年間に王献臣という役人が造り、豫園は同じ嘉靖年間に潘允端という役人が父親のために18年を費やして造営した。
明初期には、役人が庭園を造営することは禁止されていたが、明中期になって、社会経済の発展によって生活が豊かになり、個人造園ブームが沸き起こったのである。
「行」、つまり交通では、明朝の高級な交通手段は「轎」と「画舫」であった。もともと、轎に乗れたのは高級官吏だけであったが、明中期以降、轎の使用は一般にも普及した。
下級官吏だけではなく、一般庶民も使った。「画舫」は華麗な装飾がある屋形船である。当時の役人は通勤・旅行の手段として購入した。 明中後期の奢侈の特徴は三点にまとめられる。
まず、奢侈の範囲は以前の時代より広かった。以前には高級官吏、貴族、大金持ちなどの上層社会の人々に限られていたが、明中期以降は中下層の市民にも浸透した。
奢侈の風気は町から郊外に侵入し、身分がある家庭から一般的な市民へ、そして農民にまで広まった。
次に、明中期以降、奢侈品は一般的な日常生活用品になった。例えば、明初期にぜいたく品であった綿ネル、葛布、眼鏡、磁器などは明後期に至って誰でも買える商品になった。
理由はいうまでもなく、価格が安くなったからである。商品経済の発展により、手工業製品、贅沢品などの需用が急増し、手工業者が増える一方で、工房も多くなった。
最後に、奢侈は身分の格差を縮めた。庶民は官僚、命婦、士大夫の服飾をまね、娼妓までも轎と画舫に乗るようになった。 明朝はその後期に大きな社会変化があった。商業経済は大幅に発展し、階級社会は崩れはじめ、資本主義の萌芽が現れた。
人々の生活への追求は物質面での満足から精神面に移っていった。それにともない、様々な問題も出てきた。
奢侈の風気がますます激しくなり、人間関係は金銭が中心となった。しかも、詐欺やごまかしは社会潮流になったといえる。
もし、清朝に敗北しなかったら、明朝はその後どうなっただろうかとよく言われる。しかし、歴史は仮定できないことである。
明朝は滅亡の運命から逃れられなかったのである。明のたどった運命は現代の社会風気を戒めていると言えよう。 現代の中国は「拝金思想」とよく言われる。
金銭に対する中国人の執着ぶりにはビックリさせられる。
超エコノミック・アニマルだ。
これが、改革解放以降の高度経済成長によるものと思っている人が多いのだが、そうではない。
これは、明の後期の経済発展から始まった傾向だ。 中国にとって、ここ30年間は、2度目の高度経済成長だ
1度目を、明の後期に経験している 清になると、人口が爆発的に増加して貧民が増える
それ以上に、西欧列強の急発展により、相対的に影が薄くなる
政治や軍事はともかく、経済については、明の後期が中国史上の最盛期 1644年、李自成は40万の兵で北京を陥落させました。明王朝の崇禎帝は宮殿の裏山に逃げ、そこで死んでしまいます。明王朝の滅亡です。
ここに呉三桂(ご・さんけい)という男がいます。
明の将軍で、祖国防衛のため山海関で清軍と対峙していました。
そこへ北京陥落と皇帝の死が伝えられます。
おそらくほぼ同時であったでしょう。呉三桂は李自成からの書状を受取るのです。
新王朝の将軍に任命するから引き続き山海関を守り、清の侵入を防げ、と。
そして目の前の敵である清軍からも書状が届き、『明は滅びたから、今後は清に仕えよ』 といわれるのです。
呉三桂は迷います。
主君を殺した李自成の家臣になるか、昨日までの敵であった清に味方するか、それとも、あくまで明の忠臣であるべきか・・・・
結局呉三桂は清に味方し、清軍の先頭に立って北京に進撃を開始するのです。
ついでにいうと、この呉三桂の寝返りは後世様々な論議を呼びました。
明の将軍のくせに、なぜ祖国を裏切って異民族に投降したのか、ということです。
一説によれば呉三桂は、愛妾の陳円円という女性を北京に住まわせていたが、李自成に奪われてしまったことを怒り、
それで清に寝返ったといいますが、まあ、これは講談、物語の世界でしょうね。こんな理由では家来はついて来ません。
さて、呉三桂は清軍の先鋒として李自成をあっという間に破り、北京に入城。李自成の天下はわずか50日で終わりました。西安に逃れた李自成は、ほどなく地元民に殺されています(1644年) 明の時代には、満州族・モンゴル族に向き合う漢族駐留軍への商品需要が高かったのですが、満州が版図に入ったことで駐在兵が大幅に減り、対中国北部貿易はシュリンク。
その代わり、清朝の領土拡大政策に伴って満州・チベット・新疆ウイグル・ロシアとの市場が拡大。
これら北方新市場は主に、内陸の山西商人と陝西商人がリードしていくことになります。 最大のお客さまだった北中国の駐屯軍との交易は衰退しましたが、
長江流域の内需が拡大した影響で、徽州商人はさらなる飛躍を遂げることになります。
大きな影響を与えたのが新大陸からもたらされたサツマイモとトウモロコシ。
コメやムギの栽培が難しい山間部や貧しい土壌でもたくましく成長するため、これまで人があまり住むことができなかった四川盆地などの長江上流域にも人が大量に移り住むようになります。
それは塩や綿、茶など、生活必需品のマーケットが長江上流域にまで拡大したことになり、さらには奥地の林産品を長江下流域に運んで売りさばくことにもつながったのでした。 徽州商人の中でも有力な商人は、清朝政府と結びつき特権商人として権勢を振るいました。
その中でも有力な商人は「総商」と称され、政府への専売税を一括で請負い、その上前をはねて莫大な利益を上げました。準国営企業みたいなもんですね。
彼らは塩の値段を自由に操作して転売して「利ざや」を稼いだり、商人団の初期資金を投資したりと、現在の銀行や証券会社のような存在となっていきます。
揚州はそのような大資本家となった商人たちの豪華な住宅街が連なり、またオフィス街や歓楽街も作られ大変な賑わいとなりました。
乾隆年間(1736〜1795年)は清朝の文化の最盛期と言われており、この時期には塩商人たちはこぞって文化事業にカネを費やしました。
豪華絢爛な庭園、派手で綺羅びやかな劇団、美食の限りを尽くした揚州料理。
さらに、清朝を代表する学者たちのパトロンも大抵は揚州の塩商人でした。 18世紀末に徽州商人は繁栄のピークを迎えます。
内需は引き続き拡大し続けたのに加え、欧米で茶のブームが起き輸出量が急拡大。
広州での欧米との貿易は莫大な銀の流入をもたらし、中国は好景気に沸きました。
一方イギリスでは産業革命により、安価な綿布の製造が可能になっていました。
安価なイギリス産綿布に押されてインドの綿織物産業は壊滅。
次にイギリスは対中国貿易赤字を解消すべく、インドでアヘンを製造し中国に輸出し始めます。
アヘンの毒にはまった中国人の懐から次々と銀が流出。 深刻なデフレに陥ってしまいます。
インド産の安い綿花の流入や、イギリス製の機械を導入した近代的な紡績・綿布工場が各地に作られ、伝統的な江南デルタの綿布工業は衰退。
さらに塩の独占販売が禁止されたことで、国内物流は一気にシュリンクします。
さらに1851年から発生した太平天国の乱は、主に長江下流域を舞台にしたため、財産や人命に多大な被害が出ます。
これらの影響をモロに受けた徽州商人は、立ち直ることのできないほどのダメージを受け没落していきました。 徽州商人の没落の後に台頭したのは、上海を拠点とする寧波商人でした。
寧波商人は江南の綿布を船に積んで北方に運び、大豆や雑穀に代えて輸入する貿易をリードするようになります。
その後、南京条約により上海が開港されて外国貿易の拠点となると、江南デルタ地帯と海外を直接リンケージする拠点として上海は重要視され、大いに発展していったのでした。 >>22
ジャガイモ・サツマイモ・トウモロコシのおかげで、明清帝国でも、欧州でも人口の爆発的な増加が始まった
新大陸発見は、世界をまったく変えてしまった 「激変する世界情勢をヨソに、延々と停滞した文明を続けていた」というイメージの強い明清帝国だが、実際には西洋列強の世界進出の影響は、清朝にも及んでいた >>22
唐辛子がアジア地域にも広まり、四川料理が確立された 明清には多くの西洋人宣教師が来て、南蛮文化をもたらした 『東亜共同体』『一帯一路』
何処かで見た字面、何処かで聞いた思想。
『大東亜共栄圏』『八紘一宇』
この道は いつか 来た道♪ 明清帝国の550年は長いな
日本でいえば、室町時代から大正時代まで明清 黄土高原の貧しい農民の反乱が、ついに明王朝を滅ぼした。李自成の乱である。乱が成功した原因は何か?明末、政治腐敗が深刻化、人々は貧富の格差と重税にあえいでいた。
李自成は、税の免除と格差解消を宣言することで熱狂的に支持されたのだ。都北京を占領した農民軍。
しかし、1か月あまりで、宮殿を追われることに。新たな王朝・清をうちたてたのは、ドルゴンに率いられた満州族。辺境の異民族が支配者となれた意外な理由とは? >>28
朱元璋は白蓮教と手を切り、劉基や宋濂などの朱子学を採用し、白蓮教を邪教として弾圧する側に回る。
永楽帝は四庫全書を編纂して、儒学思想を固定化。
永楽帝の軍師の姚広孝は僧侶で浄土信仰を広めようとしている。
国家理念としては、中華思想じゃないか?
海禁も安南征服も鄭和大艦隊も華夷秩序維持のためにどんなにコストがかかっても構わない。
天子の徳を演出することが最重要。
ひたすら空想的理想の世界を実現しようとする。
実現させるだけの突出した経済力や軍事力を持ってたから、
周辺諸民族は迎合するしかない。
足利義満みたいに利を求めて、朝貢に応じる。 朱元璋は貧民出身だが、後には地主階級の味方になった 郷紳は、科挙の合格者であり、北京の朝廷から官位をもらっている地方の有力者
官位のない単なる地主のままだと、税金をとられすぎて財産を潰すことになる
だから、一族の誰かが科挙に合格する必要があった 明代に科挙官僚になりたくない。
薄給で賄賂を受け取らないと生活できないのに、
派閥抗争で負け組になっちゃうと糾弾されて、粛清されちゃう。
割りに合わないや。 古いイスラムのモスクである西安大清真寺の現存している主要な建築物は、
明朝の洪武帝の治世のもとで建てられた明朝建築風のもの。 洪武帝の軍団の中には回族部隊があった。
回族とはイスラム教徒たちのこと。
洪武帝は広州などに回族軍を駐屯させた。
成化帝は彼らの宗教活動の便宜のために
小東営清真寺や濠畔街清真寺といったモスクを広州に建てた。
今は観光名所になっていて、
回族の帽子をかぶった男性や、ベールをかぶってる女性がたくさんいたぞ。
寺前の街路の幾つかの食堂には羊肉の塊がたくさんぶら下がってた。
時間がなくて回族料理店に入れなかったけれど、
食べてみたかったなぁ。 当時の中国人ムスリムは豚肉食わなかったり禁酒・断食など
ちゃんと守ってたんだろうか? 回族料理店でビールを注文できたとか。
たぶん昔から戒律は緩い気がする。
広大な地域で活動する商人たちなんか、
現地化に躊躇しないだろうし。 月刊WiLL 2020年2月号
韓(から)の国は嘘の国
■古田博司×久保田 るり子
韓国人の嘘は日本人の千二百五十倍!
http://web-wac.co.jp/magazine/will/2020%e5%b9%b42%e6%9c%88%e5%8f%b7
【古田】 社会科学的歴史学は、昔からなくはなかったんです。ところが、それは学者ではなく実務家が担ってきました。
たとえば、満洲鉄道にかかわった人たちは実務的だから、政治や経済、軍事の歴史を書いてくれます。満鉄総裁室広報課の
嘱託だった園田一亀氏の『明代建州女直史研究』(1948年)なんて、まさにそう。東アジアの外交関係が、これを読むとすべて
わかる。最近でいえば、松本厚治さんの『韓国「反日主義」の起源』(草思社)がそれ。 漢文、唐詩、宋詞、元曲と聞きますが
明と清には何か当てはまる言葉があるんですか? 慣用句として一般的に使われる表現ではないけれど、
明清小説 が時代上の文学の流行を表現しそうだね >>51
サンクス
やはり西遊記、三国志、水滸伝といった所ですか >>52
>>53
あと水滸伝スピンオフの金瓶梅とか
社会風刺オムニバスの儒林外史とか
「あなたの知らない世界」「世にも奇妙な物語」っぽい聊斎志異とか
叙情随筆と私小説の中間どころっぽい浮生六記とか 小説に関してはほぼ明のような気がする
清は考証学ぐらいか、あんま文化は感じないが
人口が爆発的に増えたのが一番か >>55
明代は有名どころの小説が多めだから少数精鋭って感じもあるような
清代は人口や経済力が上がった分、書籍の市場も大きくなって小説の全体数は増えてるんでは
小説それ自体の社会的・文学的存在位置も向上してる感じだし
端的に言えば、有名どころの作風が明代と清代ではかなり違うでしょ
明代は勧善懲悪的でスペクタクルな活劇もの(今でいえばアメリカ映画的)がはやり
清代は善悪渾然一体的で風流な純文学もの(今でいえば欧州映画的)がはやってるんじゃない? 結局明は元の南方に割拠した一地方政権的な性格が出てて
どうしても一方的に敵に勝ちたいという願望が物語として人気を得ちゃうよな >>57
明代に書かれた活劇ものっていえば楊家将演義もあるな
これも宋人視点の対遼戦ものか(水滸伝もそういう展開を含むし) >>50
「漢文・唐詩」が定着したのは、明代の文人たちが「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」といって尊重したおかげ 紙が発明されたのは漢代だけど、まだ高価。
唐代には紙はあったが、巻物だった。
いまのような冊子の本が発明されたのは、宋代。
千年前に書物があり、街に書店もあった北宋はすごい。
明清時代は、書物がすっかり普及しており、小説の大衆化が進んでいる。
同じように見えても、漢唐とは物量がまったく違う。 中国の文化に興味がある人間なんだけど質問いいですか? 清の乾隆帝の後宮での女性関係がなかなか興味深い。
皇子時代から即位して後まで17人の男子が生まれるけど
在位60年で退位しようとした85歳の乾隆帝には50歳の第8子永璇、
44歳の第11子永瑆(二人とも母は淑嘉皇貴妃)、36歳の第15子永琰(嘉慶帝)、
30歳の第17子永璘(二人とも母は孝儀純皇后)の4人しか生き残っていなかった。
継皇后ナラ氏は乾隆帝の親王時代からの側室だったのに、孝賢純皇后の死後
33歳で皇后になってからようやく二男一女を出産。
惇妃も30歳でようやく固倫和孝公主を出産。
孝儀純皇后も19歳で令嬪になってから初産で女児を生むまで11年もかかっている
から女が皇帝の寵愛を得るのは大変なのだなあと痛感。 乾隆帝は年増好きで道光帝はロリコンという
イメージが… 清朝の大奥モノは、中国ドラマの鉄板ネタだな
「今年一番のヒット作」なんてのは、たいていそれだ >>66
万貴妃のためなら子供を何人毒殺されようが
平気さってあたり気が狂っとるわー
19歳も年上の女を死ぬまで愛する皇帝が実際にいようとは…
成化帝と万貴妃がテレビドラマになるとか信じられない 明清帝国の五百年
永楽帝の反乱、明清交代期、太平天国の乱のときは大変だったが、それ以外は非常に安定した時代 明は最初宦官を使わなかったが結局どこかで彼らに入り込まれる 明って、ろくな宦官がいないよな。
まともなのは鄭和くらいか。 鄭和の大航海は90年代に日本で知られてたの?
ネット情報で初めて知った記憶があるw >>74
90年代どころか昔から日本でも普通に知られてたし、
高校の世界史などでも採り上げられてた人物だよ
明の通史の関連だとほぼ確実に名前が出てくるけどね
あなたは10代か20代の人かな? いや、だから高校で世界史でも取ってないと普通に知らんと思う >>75
いや、90年代だと、一般には知られてなかった
今世紀に入って、中国の急速な経済成長と海軍増強により、「15世紀の明朝の海軍力はこんなに凄かった」ということで、鄭和の大艦隊がにわかに注目されてきたという経緯がある。
いまでは、欧米でも普通に知られている。 >>72
明中興の英主と称される弘治帝を支えた懐恩は? 鄭和の大航海は2000年代中頃からTV特集で知られだした気がする
やはり中国経済が強くなりだしたのがきっかけかもしれん 日本人は中国を知らん
ジャッキーチェンとか餃子とかしか出てこない
それも変わるよ >>77
90年代どころか、80年代以前にも、高校教材とかで普通に出てた人だよ
知らない人は、それこそ世界史の全般的概略に目を通したことがたまたま無かった(または見たあと忘れた)のだろうと思うし、
たとえば>>76 の人がいう「世界史でも取ってないと」というのも、暫く前のことだろう
今の時代の高校は世界史そのものがほぼ必修に近いんじゃなかったか >>79
経済成長もさることながら、海軍増強だな
それが世界に衝撃をもたらしている >>80
オッサンはそうだろうな
今の若者はジャッキーチェンは知らない子が多いがいまは自分たちが使ってる「日本製」の衣服や家電パソコンスマホが
一体どこの国で作らているかは大体知っている それがどうした
世界にメイドインジャパンが席捲した時は日本通になったのか? Wikipediaでは明の記事が少ないな。
明の人物、事件、戦乱でも日本語版がなかったりするし。三国時代はマイナーな人物でも記事が豊富なのに。 聖徳太子の頃はただの強がりだけど、
豊臣秀吉の頃にはすでに中国を甘く見るようになってたよね >>90
甘くは見てないでしょ。潜在的な憧れはあったと思う
日本の方が戦は強いと思ったかもしれんが現実は甘くなかった 某医師のエッセイで、晩年の秀吉の行動を鑑みるに典型的な認知症の初期症状だ、
と書いてあった。 清代の中国は、世界中から銀を吸い込んでいたな
とくに乾隆帝の治世はすごかった 乾隆帝の時代の中国は、好況のなか、爆発的な人口増加がすすんだ
18世紀の初めに1億だった人口は、19世紀に入るころには、4億を超えた
すでに開発された土地からあぶれた人々は、なお未開だった江西・湖北・湖南・四川の
山地に向かい、そこで粗末なバラックを建てて暮らした
新大陸原産の煙草・甘藷・トウモロコシは傾斜地でも栽培でき、後二者は主穀の
代わりにもなる救荒作物だった 清はけして弱いわけじゃない、軍が弱いわけじゃなかったのに倒れたからな
センゲルチンは実力以前に屈強な軍人として求心力が高く軍神扱いだった
戦争に次ぐ戦争を重ねて負けも経験したが精神的に強かった
けど中国は固有の「膨大な軍をもってしても広大な領土を同時にまもれず、少数に極地制圧されると集団包囲戦に持ち込めず、各個撃破され惨敗する」
この弱点で敵は少数1-2万でも北京首都制圧のプレッシャーをかけることができ
味方はどこに敵が来るかわからないから分散されて首都を守れない
この弱点性でアロー戦争でボコボコにされる
日清戦争でも北京の前で折れた、それは精神的に折れてたのと、アロー戦争敗戦の経験から
物質的にはアロー戦争ですら持久戦で勝てた戦いだった >>93
永楽帝の母親が高麗人だってのはよく知られた史実
初代皇帝の朱元璋は実は女真人だったとも高麗人だったとも色々な説がある
また永楽帝の父は元のトゴン・テムルとも言われている
中国のネトウヨこと糞青が明を漢族王朝と決めつけて新しい文献が出るたびに事実を認められず発狂している >>91
日本より人口も経済力も遥かに小さい後金に、わりとアッサリ滅ぼされたことを考えれば、日本が明を征服しても別に不思議はなかった
朝鮮半島に築いた拠点を守りきることさえできればな 清のベンパツだけど、日本のちょんまげ知ってたら
逆に「日本のがええやんけ、ちょんまげ使うわ」ってならへん? >>101
明を滅ぼしたのは李自成の大成ですけど?
後金はサルフの戦いを除けば負け戦続きで太祖ヌルハチが明軍との戦闘で追った傷で死んでしまう始末
たまたま呉三桂が日和ってくれたおかげで入関は果たせたけど八旗では南明軍には歯が立たず
明軍の投降者で編成した緑営が主力という有様
あと弘光帝があまりにもポンコツだったのと張献忠とかいうキチゲェが反清勢力を勝手に自滅に
追い込んでくれたこともデカいな
この二人がいなかったら精々かつての金朝程度の版図しか築けなかっただろう 運も必要だな
あと、諦めずに何度でもトライすること、これが大事 加藤清正は女真族居住地域を侵攻してみて、
この地を突破するのは困難と判断した報告を出してる。
この頃から女真族はかなり手強い。 独力で明を征服できないだろうな。
人たらしの秀吉さんも明内部の勢力を味方につけるべきだった。 鄭成功勢力が徳川幕府に支援を要請したときに幕府はそれを拒絶してしまった。
合法的大陸進出の唯一の機会だったのをフイにしたのではなかろうか? 秀吉は倭寇の繋がりで明の海洋交易勢力と同盟すべきだった。 サルフの戦いは後世の人間から見ても爽快感があるな
あれほど見事なcomplete victoryは世界史でも稀だろう
明の悪質な周辺民族搾取はひどかった 現在の中国では、倭寇は全員日本人だったということになっているのかな? >>112
なってないよ。
一部に日本と通じた売国奴視はあるみたい。
例えば倭寇の頭目の王直は倭寇と結託した漢奸であるとする
中国人の大学教員2名によって王直の墓に記された名前の
一部が削り取られる事件が発生してる。 逆にネトウヨブログだと倭寇は最初から中国人のみで日本人の海賊だとするのは
日本人を貶めるための陰謀ってことになってるな
足利義満が明や高麗から倭寇の取締りを求められて応じていることや
秀吉の海賊停止令以降に倭寇が激減したことはなかったことになってるらしい 最近のファンタジー時代劇で、侵略してくる悪役が倭寇だったのでビックリした
普通はモンゴル人なんだけどな ファンタジー時代劇らしく、倭寇は江戸時代のサムライたちだったがw 乾隆帝の時代は清朝の黄金時代だったが、日が沈む前の最期の輝きという感じがするな
茶の対価としておびただしい量の銀が流入して、この時期の中国が世界のGDPの
三分の一を占めていた、という統計もある
その頃の日本は生糸・茶・木綿・砂糖などの輸入代替化に励んでいた
西洋諸国も植民地に中国の産物を移植し始めていた 乾隆帝までの清は、当時は世界的に見て超大国だよな。 >>111
清代のモンゴル人も、漢人にひどい目に遭わされているよな
漢人の農民が牧草地を農地に変えようとして砂漠化したり、
茶を法外な値で売りつけられたり >>118
うん。
その後、英国は石炭の利用と新大陸の資源を活用して発展し続けたが、
清は資源枯渇で、人口増加に伴い一人あたりGDPが急低下。 林則徐を罷免せずに広東防衛を続行してたら、
最終的に英国軍を撃退できたよな。
主戦方針を貫く胆力に欠けてふらつき過ぎ。 ネルチンスク条約で対等の条約を結んだ当たり
ロシアは強いと清で認識されたんですか? >>122
ネルチンスク条約は清朝にメチャクチャ有利な国境線
このまま現在まで続いてたら、ハバロフスクもウラジオストクも中国領だった
太平天国の乱やアロー戦争のドサクサ紛れに、沿海州などがロシア領になった アヘン戦争以降の衰勢の清ならともかく、康熙帝、雍正帝の頃によくネルチンスク条約やキャフタ条約をそれぞれ結べたよな。華夷思想が支配的だったのにね。 「国境」という近代欧州の概念を極東に持ち込んだだけでも凄い出来事 >>126
そこで重要なのがモンゴルのボルジギンの血脈じゃないかな
康熙帝の父方のお祖母さん(ホンタイジの側室)の孝荘文皇后て、実家はボルジギン氏のカサル統
ロマノフ家も、ジョチ・オルス承継諸国家との関わりでボルジギン氏と薄くつながってるでしょ 満州族の聖地で、漢人の入植はかなり後まで禁止されていた
あまりにも人口希薄な地 ネルチンスク条約って内容も国境線も普通に清国側の負けだよ。
ロシアに押し切られているし。交渉経過や条約内容知ってるのかね?>123
ただ歴史地図見て、「今より広いじゃん」ってだけで書いてる? 摂政ソフィア・アレクセーエヴナは事実上の女性君主として
ネルチンスク条約を推進した。
ネルチンスク条約でロシア側としては
清との交易の利益を得たものの
念願だった不凍港を獲得できなかったので不満が残り
ソフィアへの批判が高まっていた。
後にソフィアは失脚し修道院に幽閉され、ピュートル親政が開始。
一方、清側の交渉責任者ソンゴトゥは十数年後に失脚し、投獄。
獄中で死去した。
清はジュンガルと戦争中で、
ジュンガルはロシア製大砲を所持し、
さらにロシア経由で工業技術を得ようとしていた。
清としてはロシアにジュンガル支援を止めさせて、
ジュンガルを孤立させることが最優先でロシアと条約を締結した。
両国の思惑と妥協の産物じゃないかな? 政府当局が外国政府と話し合って妥協した結果、どちらの国でも「弱腰外交だ」と批判される・・・
昔も今もアリガチな状況だ
外国とは常にケンカしてないと納得しないという人々が、世間には多い >>131
>ネルチンスク条約って内容も国境線も普通に清国側の負けだよ。
じゃあ何でロシア側のヴァシーリー・ゴリツィンは責任を取らされて失脚したのですかね
不凍港を獲得するという当初の目的を達成できないどころか反ってロシア側が半世紀近くかけて整備してきた
アムール川の水運をそのままごっそり清に武力で掠め取られるとかどう見てもロシアの負けだろ ロシアも清も国土広すぎ。
ズルい。
少しはこっちに寄越せ。 >>132
ジュンガルは最後の遊牧帝国。
清軍によるジュンガル滅亡後の北アジア、中央アジアの諸民族は
ロシアか清のどちらかに服さないといけなくなったんだろうな。
19世紀ぐらいから英国が参入。
ヤクブ・ベクが英国から武器援助を受けて王国建設。
英国とロシアがヤクブ・ベク王国を承認、
英国とロシアのにらみ合いが中央アジアで続くが、
清朝が意外な猛攻を実行してヤクブ・ベク王国を滅亡させてしまった。
するとロシアと清が対立を深め、開戦寸前までになる。
両国の長い協議の末にイリ条約が成立。
条約成立をうけて清は新疆省を設置し、ウィグル藩部を完全に中国化した。
弱体化しながらも清朝は強かった。 >>136
長いこと勝てた試しのない遊牧帝国を最終的に屈服させたのは、西洋伝来の鉄砲や大砲の威力
時期も手段も西洋列強によるアジア諸国の植民地化と同じであり、同列に語られるべきテーマ ・初代皇帝である洪武帝による君主独裁体制の確立
・靖難の役で永楽帝が帝位に就く(この時点で明の衰退の兆候が')
・北虜南倭で苦しめられる(倭寇討伐や北方民族の対応など)
・土木の変でオイラトのエセン=ハンに正統帝が囚われの身になる
・宦官の専横(顧憲成の東林派vs魏忠賢の非東林派の政争で前者が破れる)
・万暦帝の三大遠征で軍事費が増大し、国庫が窮乏する
・極めつけの李自成の乱がトドメをさした
明がイマイチパッとしない理由は挙げてみるとこんな感じ >>138
良くも悪くも巨大経済国家たる現代中国の基礎が明。
パットしないだなんて、言わないで。 日本では、明朝のイメージは良くない
でも欧米では「中国文明の最盛期」と見られているように思う 明は暗黒時代という説があるが、政治に関してはそうかもしれないな。 巨大な国土と増え続ける人口を抱えた国家機構を
皇帝独裁で運営できるものなのか? 洪武帝や清の雍正帝のような真面目な皇帝は
寝る間を惜しんで全土から押し寄せる決裁事項に追われてるイメージがあるが、
正徳帝、万歴帝なんかは遊んでばかりのイメージ。
それでも絶対権力は有してるから厄介。 明朝の皇帝は行政を官僚に任せっきりで、自分は引きこもっていた
でも、たまに朝政に顔を出したときは、大臣をクビにできる権力を持っていた >>140
>中国文明の最盛期
どっちかというと、宋や清のほうがそれっぽいけどねえ 最近の中国の海洋軍拡を見て、「鄭和の大艦隊」の話が欧米でも注目されるようになり、明朝の国力が知れ渡ってきている
それ以前から、「明代の江南は、あれほど経済発展していながら産業革命に至らなかったのは何故か?」というのが経済史における大きな謎とされてきた 明は一応兀良哈三衛女真、東南アジアのほとんどの国は冊封体制に置いてまだ世界帝国の
体裁を保っていたからね
朝鮮出兵の時もビルマや苗族から徴兵を行っているしそれなりに影響力はあった 今年の出生数は85万割れ、来年は80万割れというニュースをさっき読んだ。
急激すぎる少子化を前提に今後の大学は運営されていくだろうから、
いろいろなところで人も予算も容赦なく削減されていくだろう。
ほんとにポスト、どうなるんだろ。 明の皇帝は暗君が多いが、初代洪武帝によって編纂された子孫への訓戒である「皇明祖訓」を果たして真面目に読んでいたのかね。 >>153
建文帝だけは真面目に読んでたんじゃない? >>147
それだけ官僚制度がしっかり機能してたということ。
忘れるべきでないのは悪者扱いの宦官たち。
頭でっかちの科挙官僚だけでは体制を持続できない。
世知に長けた宦官と科挙官僚の相互牽制作用が体制維持に貢献したんじゃないか? 建文帝は真面目にお祖父様の教えに従い、
宦官を抑圧し、
科挙官僚だけに頼るから失敗したんだよ。
清濁合わせ飲まないと成功しない。 >>150
世界帝国として明は漢や唐や宋を上回る。
ただ日本人は唐から受けた影響が強過ぎて、明を知らない。
唐を見たければ日本へ行け。
宋を見たければ越南へ行け。
明を見たければ韓国へ行け。
とか言われてて、
周辺諸国に与えた影響度が王朝別に違ってたりする。 >>157
本国にはそれらの文化が消えてしまったというのが落ち。 官僚だって私利私欲はあるだろうがバカじゃないからな
宦官は宮中以外何も考えてないバカって感じがする >>149
人口急増で食糧増産が間に合わず貧困化したことと、
石炭採掘地との距離で、
産業革命が起きなかったんだろうね。
英国は新大陸から輸入でき、炭田があって、資源枯渇に悩まないので
経済成長を続行できた。 >>159
馬鹿な宦官だけいたわけじゃないよ。
教養があって肝の座った人格者もいて、皇帝を励ましてた。
宦官が教育を受けることは洪武帝遺訓に背くのだが、
遺訓は守られず、教育レベルが超高い太監がいたりする。
しかも科挙教育よりお題目にとらわれない分、
実用的実戦的教育だったんだろう。
なので優秀なのも多い。
しかし史書は科挙官僚が記すので、
宦官への悪口が多くなる。 >>160
石炭というよりは、蒸気機関の有無じゃない?
石炭そのものは北宋の頃から大量採掘・大量消費されてたからね
なぜかというと、華北方面を中心に森林資源が枯渇して、窯業用木材燃料が確保しにくくなったために、
代替燃料として石炭の利用が増えたんだよ
また、その産業廃棄物・副産物としてのコークスの生産量が増加して、
それが調理用燃料として広く活用されるようになり、結果として、火力の強弱を重視する現在の中華料理の様式が発達し始めた
方位磁針を古くから活用してた文化圏だから、
もしも誰かが何らかのきっかけで発電機を発明できてたら、
蒸気機関の段階すら跳ばして電気機関を創れてたかもしれないけどね
エネルギー源は火力に限らず大河川の水力もあるし(平原では位置エネルギーをどう確保するかの課題はあるけど) >>157
「中華民国を見たければ台湾に行け」もいうのもある
満州国が存続していたら、「清を見たければ満州に行け」と言われただろうに、惜しいことをした
そのうち、「中華人民共和国を見たければ北朝鮮に行け」と言われるかもしれない それはともかく、明朝から絶大な影響を受けたのは、なんといっても朝鮮
明清交替してからも、明朝の伝統を守り続けた >>163
正統的な清朝文化を見ようとすれば、満洲語文化を主軸とする多言語併用社会背景は決して外せない
しかし、かつての日本は満洲語文化の復興には関心がほとんど無く、むしろ日本語を持ち込もうとした
こういう政策を採っていた時点で既に、日本の大陸統治は歴史的・文化的に自ら大失敗していた感がある
あとそれから 唐在日本 宋在越南 明在韓国 中華民国在台湾 のスラングのほかに
元在蒙古 のスラングもあるのをお忘れなく 日本が満州でやろうとしたことは、ヨーロッパ人がアメリカ大陸で行ったことと
同じだよな
20世紀という時代に、時代錯誤きわまりなかった 清代中期の段階で近代学術用語は満洲語にも漢語にも既に導入されてきてたところだからね
康熙帝が自ら満洲語訳のエウクレイデス原論を学んだり教会式ラテン語を学んだりしてたほどだ
後付けで日本語を無理に導入しなければならないほどの必要性も必然性も、実際には無かった >>168-169
基本的構文や、補助動詞などの用法については、近似な点もあるのは確かだが、
そもそも語彙も発音も全く別の言語なので、
日本語をモデルに、というのは筆が滑りすぎだろう
短文だけで説明抜きのまま言い切るなら、根拠の出典の明示くらいは必要だが、それも無いのはどうしたことか 清朝末期の洋務運動家たちは、
「……ベトナム人、ビルマ人そしてインド・マラヤ・アラブの人たちにしてもいずれも
顔つきはみな真っ黒、背が低く愚かで教養の高い中国人民や白くて立派な体格の
欧州各国人と比べるとその差は雲泥の差に止まらない」
と書いている。伝統的な夷狄観に変化が生じ、西洋人を中国人とほぼ同列に
格上げしている。 何か勘違いしてる奴多いけどベトナム人は中国人より色白だぞ
あとアジア蔑視論は日本の方が余程根深いのけどな
福沢諭吉や夏目漱石と言った比較的「進歩的」な知識人ですら
日本が武力をもって覇を唱えることによってのみアジア人種を文明化することできると
本気で信じていたぐらいだから 日本の知識人がアジアや中国蔑視に凝り固まっていく一方
逆に中国の変法派と言われる革新勢力は日本の明治維新を理想とし
清と日本が共同して列強に立ち向かうという青写真を思い描いていた
まぁ一方的な片思いであっさり裏切られるのだけどね 欧米人には、鄭和の大航海を持ち出して、中国は周辺諸国に朝貢は要求しても
征服はしなかったから、中国は平和的な国だと主張する人も多いね >>174
ヨーロッパの大航海時代の横暴が酷すぎるんだよ。
それと比べたら、みんな平和国家に見える。 >>167
満洲語って満洲人も話せなくなったんだっけ? >>170
和製漢語や日本語発音の単語が数多く朝鮮語に入るようになったとか言えば良かったのにね。 >>177
そういう面での日本語の影響も大きいが、朝鮮総督府が実施した標準朝鮮語の整備はそれとはまた別物 >>176
清朝末期にはほとんど死語
ラストエンペラー傅儀も満州語なんて話せない >>179
死語でも意地で公文書に満洲語を併用してたんだな。 リットン調査団の一人であるハインリッヒ・シュネーの日記には満州人がもはや中国語しか話せないことを
記述しているので民国時点ですでに満州語は廃れたとみて良い
>>170
音節数や活用だとむしろ朝鮮語は日本語より満州語やエヴェンキ語に近い
確かに肯定の〜ダとか使役表現のセヨとか日本語と一緒だったりするけど
朝鮮語の方が圧倒的に発音や活用が複雑で語彙も全然違う
おそらく祖語は同じなのだけど朝鮮の方が異文化圏と接する機会が多く
より複雑化したのじゃないかなと思われる「 >>180
孫文たちの革命勢力やフィリピンや朝鮮民族運動を右翼思想家が支援してるんだよねぇ。 何かと言えば「ケンポー違反だあ!」と騒ぐのも、戦前は右翼の専売特許 >>183
その雑多な方言の寄せ集めに過ぎなかった朝鮮語を整備して、一国の言語としたのが朝鮮総督府 >>183
日本人が満州国で満州語話してる集団を探したけど結局見つからなかったんだっけか
もしかして山間部とかだといたのかもしれないが >>188
現代世界で満洲語文化を実際的・実用的に残してる地域は
新疆のチャブチャル・シベ族自治県
乾隆代に国境警備目的で配属されたシベ族の人々の末裔が、今も満洲語文化を保持してる
チャブチャルでは、シベ語の放送や新聞もある
日本国内の大学で満洲語や清史の研究をしてる人たちの中にも、チャブチャル出身のシベ族の人たちがいる 清の入関時に、満州人全部引き連れて北京入りしたのがイケナイ
瀋陽の宮殿に満州人の副王置いて、満州人の風俗習慣存続すべきだった >>183
>肯定の〜ダとか使役表現のセヨとか
一応指摘させてもらうと、
「ダ」は肯定ではなくて、用言語尾(否定助動詞語末でもごく普通に使う)なのと、
「セヨ」は使役表現ではなくて、尊敬表現「シ」と口語用言語尾「オ」と軽度丁寧表現「ヨ」の合成表現・発音変化 >>183
あとそれから、用言の活用の種類は、日本語よりも韓国語のほうがずっと簡素だよ 戦前の朝鮮の新聞
カナをハングルに置き換えただけで、ほとんど同じ
後に朴正熙大統領は、反日民族主義者の要求に折れて漢字廃止に踏み切った
「漢字廃止」というと「中国文化の影響を排除したいんだな?」と日本では思われがちだが、
実際にはそうではなく、漢字ハングル混じり文があまりにも日本語のコピーなので「日帝残滓の排除」として行われた
https://i.imgur.com/6VQcalT.jpg 物事をどう解釈するかは人それぞれだろうが、当の韓国人たちは「漢字廃止」する以前の韓国語の文章を「日帝残滓」と見なして敵視していた
それが歴史的事実 要するに韓国人は、近代韓国語のを文体を「日帝が創って我々に押し付けたもの」と認識していた 連投演説に割り込みで反論入れさせてもらうけど、
1970年代以降の韓国での漢字使用の抑制策っていうのは、そう単純な事情ではない
そもそもそれ以前の文書類で漢字が多用されてたということは、読める人は普通に読めたということだ
韓国国内の学会でハングル専用論派の(政治力学的)勢力が強まったのと、
南北間体制競争下での識字率競争において後れを取るわけにいかなかった背景があった
もちろん、漢字教育の必要性を強く主張する学派もずっと存在し続けていて
つい先日も、初等教育での漢字教育計画の再開を求める声が韓国の国会議員グループから出たところだ
ていうか、そもそもここ明清史スレなんだから、明清史の議論に戻るべきだな ネット上にある中国史資料は
当然ながら日本語より中国語のものが豊富。
いつも思うのだが
なんで日中別々に漢字を簡略化しちゃうんだよぉ。
同じ漢字文化圏にあるんだから簡略化も共同でやって欲しいぜ。
おかげで中国語資料の歴史人物名の漢字をいちいち日本漢字に変換する手間がかかる。 >>196
> 1970年代以降の韓国での漢字使用の抑制策っていうのは、そう単純な事情ではない
いやいや、そんなことない
朴正熙が日韓国交正常化を強引に進めるにあたって、「日帝残滓の排除」を叫ぶ漢字廃止論者の声を抑えきれず妥協策を打ち出さざるを得なかったというのが真相
意外と単純な事情だよ 皆さんは漢典、康煕字典のネット版なんかでお調べなさるのかしらん。
それで検索するのもメンドイ。 >>197
さらに台湾では繁体字を使ってるから漢字が3種類
当方は3種類ともたいてい知ってるから気にならんけど、話し合いで解決するのは無理でしょうなあ 大陸情報なのか台湾情報なのかが一目で分かるのはメリットだけどな >>200
よく使う漢字なら3種類覚えられるし、慣れれば類推で済ませられる。
でも固有名詞で使われる滅多に使われない字まで覚えられないや。 めったに使われない漢字は、「中国語に特有の文字」と割りきるしかない >>198
日韓国交正常化が西暦何年か知ってて書いてるレスとは思えない
きみ、どう見ても時系列を間違えてるでしょ
この件もう終わり
きみもスレの本題に戻りなさい
それが嫌なら、他スレに行きなさい >>204
そこが、左翼の爺さんの浅はかさだ(笑
最後は自分の一方的勝利で締めくくろうと必ず一言つけ加えるので、スレ違いの話が終わらない(笑) ちなみに、朴正熙が大統領になったのは1963年、国内の反対を押し切って日韓国交正常化したのが1965年
漢字廃止政策が始まったのは1970年で、朴正熙が暗殺されたのは1979年のことだ >>179
康熙帝は漢語、満洲語の他にモンゴル語を話せたというのに、
子孫の情けなや。 漢語でも方言差があって大変そう。
役所の公的言語(官話)と地域住民の日常言語がまるで違うことも多いんだろ? そりゃ違うわな
官話はあくまで官話、地方の日常語とは別物 中国全土では満州人やモンゴル人は圧倒的な少数派だが、首都・北京に限っていえばかなりの人口比率
しかも上流階級を形成している層だが、言語や文化に及ぼす影響は大きい 北京語は北方人の影響を何百年も受けて大きく変質した
それが全国の標準語になった >>205
あのさあ
どっちかいうと自分自身は右に近い立場だぞ
自分の意見と違う者はとにかく左の年配者って、どういう見当違い
とにかくきみ、関係ない話するならよそでやってくれ >>207
康熙帝の場合、むしろ、満洲語とモンゴル語のほかに漢語も話せる、というほうが近いだろうね
康熙帝の養育の実質的責任者は、ホンタイジの側室でボルジギン氏カサル統ホルチン部出身の孝荘文皇后、
つまり、康熙帝の父方のモンゴル人祖母だった
しかも康熙帝はカトリック宣教師からラテン語も学んでいた
そして、アイシンギョロ家も含む満州族貴族の信仰する宗旨はチベット仏教で、
清朝皇帝としてのアイシンギョロ家当主は云うなれば檀家総代に当たる立場だったから、
チベット語も一定程度は学んでいたはずだ >>213
満洲族 の用字のほうが歴史的に本来の用字だな
自分で訂正しておく >>213
中華ドラマ『康熙王朝』で
孝荘文皇后の存在感がすごかった。
この婆さんの胆力で次々と生じる国家的危機を乗り切ってるんじゃないかっちゅう描き方だった。 中国人は、「中華民国のままであれば、日本よりも繁栄していた!」と言う。
理由を聞いてみると、「日本は資源のない小国でアレだけ発展した。中国は資源が多い。
列強に侵略されず、共産主義でもなければ、発展したのは間違いない!」とのこと。 >>216
いずれは発展する。
中国史は発展期、繁栄期、衰退期の繰り返し。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78823?page=2
魯迅が批判的に描き出したように、たしかに中国では、社会が変化したり、
外から新しい文化がもたらされた時に、古典にその原型となるものを探しだし、
「中国起源」にすることで初めて受け入れることが多かった。
一九世紀にヨーロッパの議会制度が中国へ伝えられたとき、人々はそれが漢代の
郷挙里選の理想を実現するものと考えた。郷挙里選は地方豪族を官吏に取り立てる
制度で、今日の議会とは全くの別物だった。だが彼らはヨーロッパと中国では
文化的背景が異なることを無視して、ヨーロッパの制度を中国文明のあるべき姿を
実現する手段として評価した。長く文明の中心として栄えてきた中国には、異文化を
自分たちとは異なる一つの文明として理解するという発想がなかったのである。 >>212
自分の意見と違うからというより、「スレ違いの話は終わりだ、終わりだ」連呼しつつ、
最後は自分の一方的勝利で締めくくろうと必ず一言つけ加えるところが、毎度おなじみの左翼の爺さんっぽかった(笑) >>216
それも一概に否定できない
中華民国の最盛期である1920年代は、中国では「四大財閥一族に支配された暗黒時代」と位置づけられているが、実際には急速に経済成長していた
あのまま行ってれば、少なくとも上海がニューヨーク・ロンドンに勝るとも劣らない国際金融センターになったのはまず間違いない >>213
康煕帝、偉大過ぎる。
こちとら中国語学習に挫折しかかってるちゅうに。 >>221
「海外留学して最高の家庭教師が何人もついている」
というのに相当する状況 乾隆帝あたりからは、もう漢語がメインだっただろうな >>223
それが多言語帝国としての衰退の始まりかも。 その代わり、北京語がアルタイ化して大きく変質
料理も「満漢全席」となり、中国文化は満人と漢人の文化を足して2で割ったような折衷文化になった >>223
>>224
実際、乾隆代あたりから、
通訳・翻訳担当者を選抜するための翻訳科挙の受験者数が大幅減少したのではあるらしい
とはいえ、乾隆帝自身が硃批をしてる満文奏摺(満洲語で書かれた直接密奏書)も数多い
ちなみに、乾隆代からは五体合璧(五言語同時併用)の事例もいろいろ出てくる
例えば、乾隆代に「御製五体清文鑑」という辞典が発行されたり、
承徳にある清朝離宮の避暑山荘にある、麗正門の額が、
五体合璧で表記(左方← モンゴル語(縦書き1行) ウイグル語(右横書き3行) 漢語(縦書き1行) チベット語(左横書き3行) 満洲語(縦書き1行) →右方)
されたりしてる モンゴル人や満洲人にチベット仏教が浸透できたのはなぜなんだろう?
チベットなんて秘境の山奥じゃん。 >>227
チベット高原の位置関係みてみなよ
標高こそものすごく高い文字どおりの高原だけど、
インドシナ半島、インド亜大陸、トルキスタンステップ、中国、モンゴル高原のちょうど間という、要衝中の要衝だよ
ラサもギャンツェもシガツェも、歴史的にそういう交易路の重要な拠点だったというわけ
そして、古今東西、経済拠点は人が集まるところもあり、そこから学術拠点も生まれてくるってわけだな
また、チベットは遊牧文化圏でもあるから、そうした文化圏で発展してきた様式を持つ宗教文化はモンゴル人にも馴染みやすかった >>228
人が集まるところもあり → 人が集まるところでもあり >>228
イスラム教文化は馴染まなかったんですかね?
チベットよりウィグルの方がアクセスしやすい気がしてたのですが。 >>231
13世紀中期、モンゴル帝国が拡大していった時期に、
オゴデイの息子でグユクの弟のコデンがチベットに侵攻した
その際、当時のチベットに存立していた仏教各宗派のうち、
サキャ派がモンゴルとの和平交渉に成功し、その後、モンゴル皇室はサキャ派の檀家になった
それ以後、モンゴル高原に居住するモンゴル民族の間では、
時代変遷に応じて主流の宗派の入れ替わりはあったものの、チベット仏教を宗教文化の基盤とする社会状況がその後も継続した 明朝の正徳帝がチベット仏教に凝ってて
作った豹房という邪淫の寺での秘儀には興味ある。 元朝でも、ラマ教の「帝師」が受戒と称して貴族の夫人たちを一室に閉じ込めて
逸楽に耽ったという話があったな
地位を利用しての不正蓄財も跡を絶たなかったし 現在のチベット仏教で最大宗派のゲルク派は、他のチベット仏教主要各宗派よりずっと後の、14世紀末〜15世紀初の頃に出てきた宗派だけど、
宗派の開祖のツォンカパが、
「顕教の課程を修了し、かつ、僧侶として厳格に持戒を保ち続ける者であると客観的に認められていなければ、密教を修めてはいけません」
という方針を採った
密教思想というのは、人間の欲望をも悟りへのエネルギーとして充当する、という側面を持つ思想なんで、
本来、誰でも彼でもは扱っちゃいけないものだからね
密教のお坊さんの資格というのは、或る意味、危険物取扱免許であるわけだ
日本でも、天台宗の密教(いわゆる「台密」)は、チベット仏教のゲルク派と同様に、
顕教を修了したお坊さんでないと修めてはいけないことになってるそうな 北京の頤和園に2度行ったことがある。
小高い山の上にチベット様式の建物があったっけ。
清朝にとってもチベット仏教は重要。
満洲という民族名は文殊菩薩(マンジュシュリー)の「マンジュ」からとった説がある。
ダライ・ラマは清朝皇帝に文殊皇帝の称号を授けてる。
皇帝は文殊菩薩の化身。 >>237
北京のチベット仏教関係施設といえば、やはり雍和宮だろうね
雍和宮はそこ自体がお寺さんだから
満洲(マンジュ)=文殊師利(マンジュシュリー)菩薩名称由来説は、後付けの掛けことばらしいよ
実際の語源ではないらしい 清朝だけではなく、元朝の時代にも、漢民族の中には北方民族特有の辮髪をしたり、
筒袖の衣服にズボンを着用したり、モンゴル風の姓名を名乗る者も存在したとか
朱元璋はこれを再び伝統的な衣装に改め、モンゴル名・モンゴル語の使用も厳禁した >>238
また北京に行きたいな。
杭州や西安、チベット、ウィグルもいいところだ。
早くコロナが終わらないかしらん。 >>239
強制されたわけでもないのに、モンゴル貴族に憧れて自発的に真似する漢人が続出した >>241
やはり人間は強いものに憧れるものなのか 元朝の皇帝たちは、たんにチベット仏教を盲信するだけではなく、
湯水のように金を使って造寺・造塔を行い、盛大な法要を営んだ
その額は年々増加し、国家財政に大きな負担を与えることになった >>239
朱元璋はそれでも元朝の制度は踏襲しているんだよな。 元朝の宮廷で、漢人官僚に対して「廷杖」と呼ばれる刑罰が行われていたが、
朱元璋はこのやり方をそっくり踏襲し、官僚の言動に少しでも気にくわないことが
あれば、たびたびこの刑を命じて官僚に恥辱を与えた 前王朝の官僚は新王朝が基本引き継ぐ。
清朝も辮髪に応じた明朝官僚を元職に任じることが多い。
そうしないと統治できないからだが、
官僚組織はそのままで
政権トップが交代しただけとも言える。
元朝から清朝までが連続した北京帝国と考えても良い。 >>246
その流れは現在の中華人民共和国に受け継がれている。
元こそが、現在の中国の基礎かもしれないな。 廷杖はモンゴルじゃなくて元から中国にある風習だよ
唐代のイスラム商によって書かれた「中国とインドの諸情報」にも記述がある
もっとすごいのになると「使持節」ってのがあってこれは平時非常時問わず2千石以下の官吏を
独断で殺害しても罪にならないという殺人特権
あまりにもひどすぎる制度なので宋代になって廃止された 謝肇淛の随筆の「五雑俎」によると明末では苛政に耐えかねた農民たちが韃靼に逃げ込む
と言うことが社会問題になっていたらしい
彼によると韃靼人は中原の官吏のように威張ったり棒で殴ったりしない
王侯貴族も民に交じって自ら働いており座食の徒はおらずそのため税金も安い
これが民草をして韃靼のもとに走らせる要因だと指摘している >>247
そういう考えは中国人にもある
歴史ドラマに出てくるフビライ・ハーンは、北京帝国の創立者で英雄そのものの扱いだ
ローマ帝国なんか、王朝はコロコロ交替しているし、首都がローマから移転していた時期も長い。
西洋史の感覚からすれば、元・明・清は一貫した帝国だろう >>249
農民だけではなく、北辺防備の軍人たちの中にも、危険な任務と軍糧の欠乏に
不満をとなえて反乱を起こし、懲罰を恐れてモンゴル側についてしまう人々も
現れたとか >>251
北京郊外の八達嶺長城と慕田峪長城に行ったことがあるが、
険しい尾根の上に延々とレンガ作りの城壁が続き
歩くだけでもフラフラ。
よくまぁ明朝はあんなものを作ったものだ。
その労力を考えると気が遠くなる。
それでも結局は長城は突破され、侵略者を食い止めることはできなかった。
一方、清朝は長城を作らずに、チベット仏教の寺を作ってモンゴル人を懐柔していった。
どちらに費用対効果が優れていたかは言うまでもない。 明朝成立後、いったんモンゴリアに撤退したモンゴル人の中には、再び明朝治下の
中国に戻ってきた連中もいたとか
100年近く遊牧生活から離れていたモンゴル人たちにとって、北方の草原は決して
住みよい所ではなくなっていた >>250
中華帝国は秦漢〜隋唐の古代帝国期と間に宋を挟んでの元〜中華人民共和国までの
北京帝国期の2つに分けられると思う。その北京帝国期も明時代は元が北に存在して
事実上の南北朝時代になっていたり、中華民国時代は実質分裂時代だったり、
一貫して統一されていたわけでは無いが。 >>252
モンゴル人側の見解では、万里の長城というのは「漢人側の北進の前線要塞」と映るそうな
わざわざ城壁など無くても良さそうなところにまでがっちり作ってたり、結局そこより境界が北上したり、
という歴史上の実態からすれば、モンゴル人側の南進ばかり強調しないでよ、ってことでね
>>254 氏が言うように、アイシンギョロ氏のホンタイジがモンゴルのハーンを兼務するようになったときまでは元は存続してた、という見解もあるので >>241
清朝の辮髪と旗袍の強制も成人男性だけで子供、女性、仏僧及び道士は対象外だった。
八旗漢人でない一般漢族女性の旗袍着用は制限されていたが同光帝の時代に
漢族に対する旗袍の着用規制が撤廃された。あくまで着用制限の撤廃なのに、
それ以降一般漢族は女性も子供も旗袍を着るようになった。旗人=貴族の認識で憧れがあったんだろう。
でも、清朝の官職についてない漢族は丈の短い短袍しか着れなかったから、
金持ちの女性は短袍にスカートを合せた感じのを着た。それが、現代でも中国人女性の結婚式衣装になっている。 >>255
そもそも北京の北の張家口は元々モンゴル語でカルガンと呼ばれてた。 北京の人口の何割かがモンゴル人や満州人
大陸全体では少数派でも、北京語に及ぼした影響は絶大で、それが今の共通語 >>256
旗服と旗袍は実は違うよね
チャイナドレス=旗袍というのは世間一般で見られる認識ではあるけど、
しかしこれとて漢服の存在の認識がすっとんでしまってて、
さらに、旗袍=(女性用)旗服という見方はこれまたそもそも誤認識だということで 清代には、中国本土での人口爆発に伴って、山東省、河北省、山西省等から
モンゴル人の住む地域に非合法な形で入植していく漢人は跡を絶たなかった
漢人が牧草地を農地に変えようとした結果、土地が砂漠化したりもした >>260
だから、モンゴル人は満州族を嫌ってる。
モンゴル人からしたら、奴らが十分な取締をしなかったから、
漢族がモンゴル地域に入り込んだと思っている。
内モンゴル自治区のモンゴル族は満州族が後からモンゴル文字から
満州文字を作り出したのにあっという間に満州文字も満州語も
忘れ去った間抜けな民族とまで言っている。
モンゴル国の時代劇で丁度日本の時代劇の悪代官と悪徳商人的な
役回りをしているのが満州族旗人と漢族の従者や使用人。
満州族と漢族の区別は満州族は長袍を着て革のブーツを履いて
騎乗しているが漢族は短袍を着て布靴履いて徒歩。
モンゴル族の勇者に殺られる時は満州族は投げ縄で
落馬させられてから革袋に入れて馬で踏むか落馬して
倒れているところに毒蛇を投げつけて蛇に噛ませる。
漢族はヘトヘトなる迄馬で追い回したあとに敢えて鈍い鏃を
つけた矢を大量に撃ち込む。
満州族は全員旗人だから身分の高い者を殺る場合は地面に血を
流さない様にするが旗人でない漢族には気遣い不要だから、
苦しませて蒙古弓で射殺する。 >>259
中国人が日本でチャイナドレスと言っているの普通に旗袍と言ってるぞ。
正確にはチャイナドレスは新式旗袍、本来の満州族の旗服を
老式旗袍とか伝統旗砲と呼んで区別してる。 時代劇でステレオタイプ表現ていうのはどこの国の作品でもありがちだけど
「『旗人すなわち満洲系部族』なのではない」ということが一般的にはあまり認識されてない、または故意に無視されてる、
っていう部分が東アジアで全般的にあるってことなのかな
八旗には、漢人八旗や蒙古八旗もあったよね
そもそも、元来の満洲八旗それ自体の内部にも、モンゴル系ニルや漢系ニルや朝鮮系ニルや、
それどころかロシア系ニルもあったりしたほどだし、
漢人八旗も、漢系ニルだけではなくてモンゴル系ニルや朝鮮系ニルもあったね
でも、蒙古八旗だけは、モンゴル系ニルに特化されてたようだよね
さらに、モンゴル系部族に関しては、外藩蒙古や内属蒙古も蒙古八旗とは別個にあったとなると、
やはりモンゴル系部族のひろがりが昔から大きかった分、
満洲族の側も、硬軟織り交ぜ、または分割統治に近い手法も採りながら、
モンゴル系を何とか満洲系に引き付けようとしていた、って感じだなあ
なんだか、ハプスブルク帝国でのハンガリー系諸侯の扱いに近くも見える
まあハプスブルク帝国ではハプスブルク家を含めてドイツ系が相対的に(飽くまで、相対的にだけど)多かったから、
清の皇室を輩出しながらも漢系より人口が大幅に少なかった満洲系の立場・状況とは、やや違うけど >>251
地元に残してきた家族・親戚が責めを負う恐れは無かったのかな
そのことすら度外視してでも叛旗を翻し、場合によってはそのまま相手側に付いたほどだったとすれば、
明末の軍役というのがどんだけ不合理できつい状況だったことかと思う 清朝の大いなる秘密、それは
満洲八旗が弱兵にして役立たずだったこと。
いや周知だったかもしれないが。
結局、全土を制圧できたのは
明軍の寝返り将軍や、漢人の優秀な人材を抜擢して率いらせた漢人部隊のおかげ。
三藩の乱や台湾の平定も同じ。
これが満洲人にできて、日本人にできなかった技なんだろうな。 >>265
崇禎帝が袁崇煥を凌遅刑に処したのを知ったら
優秀な将兵ほど寝返りたくなるよ。 ホンタイジの時代には明の官僚や軍人が次々と投降して政権の一翼を担っていたな
中には一万余りの軍隊を率い、ホンタイジが欲しがっていた西洋式の大砲を手土産に
後金に投降してきた者もいた >>266
清末期には漢軍八旗と緑衛も使い物にならなくなっていた。
八旗軍で最後まで使えたのは蒙古八旗。
その蒙古八旗もセンゲリンチンが余りにあちこちに転戦して
兵力の損耗が激しく。最後は衆寡敵せず捻軍に敗れ、最後まで
付き従った残りの蒙古八旗兵共々全滅した。
これでモンゴル族の人口が大きく減少してしまったこともモンゴル族が
満州族を嫌う原因の一つ。 漢軍八旗は満洲人と同じく娘に纏足をしない。
なので漢軍八旗出身の曹雪芹の著作 紅楼夢 に登場する美少女たちはみんな纏足してないらしい。 __
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ
l::||:::: |l 朕の愛する馬皇后は纏足をしておらぬ。
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 朕はかつて戯れに纏足してないことを
r┤ ト::::: \___/ || からかったことがあるが、
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 皇后は纏足してないからこそ
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ 朕のために存分に働けたと返されたわ。
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ 臣民たる者は皆、国母たる我が皇后の徳に倣い
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 纏足してはならぬのじゃ。 明の永楽帝はベトナムの抵抗を制圧すると、徹底的な同化政策を強行したが、
ベトナムを中国の一部にしてしまうつもりだったんだろうか? >>272
永楽帝はベトナムで内地と同じようや郡県制を敷いた。
このときがベトナム千年の歴史の中でも最大の危機だったと言える
隣の広東省だって文化的には「中国」の一部と言えるのかどうか微妙だったが、宋あたりから「中国」らしくなった
ベトナムも「中国」になる一歩手前だった 清の乾隆帝に至って、ついに「ベトナムは中国ではなく、別の国である」と認めて断念するに至った 明はベトナム人の伝統、風俗、古来の文化を捨て去ることを命じた
1414年には、統治した全府州県に孔子廟と土地の神と五穀の神、風雲、山川などの
神壇をつくらせ、祭礼を行うことを命じた
学校を開設し、四書五経を配布し、儒学と性理学を教え、僧侶を派遣して、
仏教、道教を普及させた
ベトナム人の古来からの風習である男子の刺青、女子のお歯黒の風習を禁じた
ビンロウ樹の実を噛む風習も禁じた
男女ともに髪を切って短くすることを禁じた
女子の短衣・長いすその衣服、つまりベトナム人の民族服を着用することも禁じて、
中国風の衣服・髪型を強要した >>274
>>275
でも、後黎朝の時に清から強制されてないのに、
旗袍を南国向けにアレンジし直したアオザイがそれまでの
漢服や日本の甚平に似た短い上衣とモンペの様なズボンとの組合せの
アオババから置き換わりアオババは田舎者と老人の服になった。 >>270
元気者娘としてキャラ付けされてる史湘雲の服装や行動の描写とかを見ると、まさしくそういうことだろうね 日本のように、遠方にあって中国の軍事力が届かない国は朝貢貿易で
儲けることができるが、ベトナムのように中国と地続きの国は
明からエグい搾取を受けた ベトナムは中国化を免れたが、雲南は中国化されてしまったな >>270
清末民初に纏足しない女性こそ
革命女子の象徴で
纏足は辮髪と同じく遅れた封建国家清王朝の負のイメージの一部。
でも実際は満洲人は纏足しないし、
皇帝は幾度も纏足禁止を布告。
それに従わなかった漢民族が悪いんじゃ。 >>276
近代の日本人が、欧米による植民地化に対抗して戦いつつ、服装はどんどん洋風化されていったのと同じだな 中国の田舎では、強制されたわけでもないのに習近平の御真影を飾っている家が多い
「特に理由はないが、昔から歴代主席の写真を飾るのが習慣になってるから」という話だった 朝鮮は清朝に征服され属国として支配されつつも、服装その他では明朝の伝統を守ろうとした
ベトナムは清朝の侵略を撃退しつつも、服装その他では清朝の文化を取り入れることに熱心だった 1802年に、ベトナム最後の王朝となるグエン朝が樹立されると、清朝に対して、
国号を「南越」にしたいと申し出た
ところが清朝は「南越」という国号を使うことは許さなかった
紀元前207年、秦末期の混乱期に、中国南部に秦に対して反逆した政権があったが、
国号と「南越」と名乗り、今の広東を首都・番禺と呼び、広大な中国南部一帯を
支配した。こういう嫌な故事を思い出したのかもしれない。 >>280
むかし纏足をしていたのは、
漢系の女性のうち、八旗に属さず、かつ、伝統的な都市富裕階層の家庭の出身である場合に限られるんじゃない?
例えば、客家系女性の慣習には纏足は無かった >>283
朝鮮は清の従属国となったのに、弁髪は強制されなかったんだな。服装は明代のままなのに。 清朝末期には、漢人自らが、辮髪を中国の伝統としてこだわるまでになっていた >>285
当初は纏足は富裕層だけだった。
農作業する必要がない中流以上の暮らしの象徴となる。
纏足してない娘は貧乏人としか結婚できないことを意味する。
下層民でも娘を中流以上に嫁がせたいじゃん。
貧乏人だからこそ無理してでも纏足をするようになって、農村部にも広まった。 >>289
生活に余裕が無い状況でさらに無理に行動の円滑性をそいででも纏足をさせようとしたというのは、或る種の面子へのこだわりからだろうか?
それを以て絶対確実に良縁や資産に恵まれるということでもなかっただろうにそれでも、というのは、それも人の業というものの深さかね
それとも、例えば一族郎党全体の相互扶助などの形式でどうにかこうにか生活を支えるシステムが最低限はあったということだろうか?
客家系の人々の場合は、もともと居住地の条件があまり良くなかったことから、
男女を問わず勤勉性を尊ぶ気風があった、というかそうでないと現実的にも生活が困難だった事情があったね
纏足をしない慣習の漢人社会集団が客家や漢系旗人以外にもあったとすれば、例えばどういう集団だったのかな 欧米で上流階級だけでなく、中産階級や労働者階級の女性もコルセットを
着用するようになったのと同じかねえ? >>286
清は冊封国には弁髪と旗服は強制しなかった。
国内では満州族は人口的に圧倒的な少数派なので、
満州族の服装で目立ってしまうと少数派なのを侮られて
反乱を起こされてしまう畏れがあるが、
冊封国は直接満州旗人が総督として八旗兵と共に駐屯してないから、
そう言う心配かない。 >>286
琉球は明清後退期に薩摩藩からの指導もあり、
明清どちらからも冊封を受けられる様に対応した。
衣冠を旗服に改める準備までして朝貢使を派遣したが、
服装を改める必要なしとの回答を受け、
礼服は明代の冠服のままとなった。 >>293
朝鮮は明朝に忠誠を誓うあまり、清を野蛮人あつかいして本気で怒らせてしまった
琉球や越南とはえらい違いだった >>288
最近中国では漢服復興運動があり、漢服のことを知る人も増えてきたが、
少し前は漢服を見ても「朝鮮族?」という藩王をする中国人も多かった。 >>283
チマチョゴリは、明代の漢服でも庶民の服装の襖裙のパクリ何だよな。
上着の丈が短いのは中国では庶民の服で士大夫階級や豊かな商人は
上着の丈の長い桂裙を着ていたし、帯をしめていた。 >>295
反日デモで荒れてた頃は、漢服を来た人が和服姿の日本人と間違えられて襲撃されたケースがあった >>296
ちょい待ち
李氏朝鮮時代の前には高麗時代があるわけだが、
今に伝わる伝統衣装についても、原型としては高麗時代からあって、
上位のデザインがだんだん簡素化していったという流行推移があったそうだ
高麗時代の服装は、上衣のたけや袖の幅がずっとゆったりしたデザインだったようだよ
旧2ch・現5chじゃ、コリアンカルチャー系談議はどうしても重箱の隅をつつくような揶揄が出てきがちだけど、
時間的になり地理的になり、少し余裕を持った見方をしてはどうかなとも思うんだけどね
他地域の事例で言うなら、満洲人の旗服とモンゴル人のデールだって、
素人目には一見似てるように見えたりするかもしれないけど、
よくよく観察すると明確な違いがすぐ分かるものだ
でも、そのことをあれこれ揶揄するようなレスって、少なくとも自分は2ch・5chでも見たことが無いし >>299 4行目訂正
上位のデザイン → 上衣のデザイン >>299
高麗時代は単に宋代の襖裙をパクってただけだろ。
唐代の女性の服装が極端なハイウエストの裙と身頃がダブダブで
オッパイの谷間が見える様な上衣からの反動で南北朝時代の様式に
先祖返りシツツあった形式の漢服の模倣なだけ。 >>299
満州族の旗服とモンゴルのデールが似だしたのは清代から。
それまでは、元の皇帝の肖像にある様な和服の様な襟の
トルコのカフタンというか、現代のカザフ族の民族衣装とほぼ同じ服装。
今のデールの様に立ち襟になったのは清代に旗服の影響を受けてから。
八旗蒙古は満州族と同じ髪型と服装を強制されたが、外藩蒙古は
ウィグルやチベットと同じ様に強制はされなかった。
ウィグルやチベットは辮髪と旗服の強制されないというより、
逆に着用が制限されてた。
清朝は一般漢族よりも外藩蒙古のモンゴル族を優遇したから、
モンゴル族が自主的に旗服の真似をするのは制限しなかった。
但し、旗服の影響を受けたデールでも旗服と大きく違うのは帯を
締めること。旗服は乗馬用でない限り帯やベルトはしない。 最近中国でも韓国並に整形や写真の修整が横行してるが、
漢族の女性の整形や写真の修整は細面で顎を尖らせて目を切れ長に
するのが多いが、それって満州族の容貌なんだよな。
整形や修整だから、素の満州族の顔立ちよりもバランス取れているけど。
10年程前に満州族の留学生と交流あったけど、まさに今漢族が整形や
修整で真似している顔立ち。
その留学生は美人と言うには少し微妙だったが、細くて吊り上がっているが、
切れ長の目と漢族と違って鼻筋が通っていて漢族より色白で
スタイルがよく(漢族は細くても寸胴)、妖艶な感じがした。
康煕帝の皇后を出した赫舎里氏だと言ってた。
こちらが満州語で挨拶したら、無茶苦茶驚いていた。
中国人一般に日本人よりオーバーアクションだから、こっちが引いてしまった。 >>304
確かにな。チマチョゴリのシカート(チマ)はパニエ入れて膨らませてるわけだが、そんなの李朝時代にあるわけがないもんな。 >>305
化学繊維も蛍光塗料も、李朝時代にはなかった >>306
チマチョゴリに合わせるハイヒールのコッシン(チマチョゴリ用靴)も李朝時代には存在しなかった。 >>303
清朝は后妃を家柄(満州旗人の有力氏族かモンゴル族のボルジギン氏)と教養で選んでたからブスが多かった。
西太后の若い時に既に銀板写真が入って来てたが、若い時の写真hなく、残っているのは晩年の写真ばかり。
それは修整が容易な干板式写真が開発されてから写真を撮らせる様になったから。
でも、修正入れても顎のないボテッとしたブスだから修正入れなければ一部に悪意のある肖像並のドブスだった。 満州国の帝宮では、清朝時代の習慣で、病気にかかっても中国式の呪文、祈祷を捧げ、
漢方医や漢方薬に頼るだけで、近代医学を全然受け付けなかったのだとか
20世紀になっても西洋式の近代医学を受け入れようとしなかったのは、
伝統墨守なのか、近代医学に対する拒否反応があったのか… >>307
もちろんハイヒールは伝統式の韓服には無いでしょ
フラットなのが本式だな
まあ、時代が経つにつれデザインが変化していくのは、どの国の伝統衣装にもよくあることではあるけど
前の議論で挙がってた、纏足とかコルセットの事情にも似た話だけど、
正直、今の世の中、西洋式ドレス含めて一般的に、
ハイヒールは外反母趾のもとになりやすかったりそもそも力学的に不安定だったりで、
わざわざ使わなくてよさそうに思う
ハイヒールのデザインそれ自体、近代以前の欧州では元々男性用・女性用いずれの靴にも使われてたそうだけど、
男性用ハイヒールが廃れたのは、ナポレオン時代以降、男性靴が機能性の重視に大幅移行したからだとか >>309
清朝は開明的革新的な部分と
保守的伝統墨守な部分の両面を持ってたと思う。
だから長期政権になれたんじゃないか?
革新的ばかりだったら、国民がついていけない。 >>310
欧州のハイヒールは王宮ですらトイレがなくて庭園の隅に野糞が
放置されてたから、それらを踏んづけても足汚さない為だろ。
ナポレオン時代はハーフパンツのキュロットからフルレングスの
パンツへの移行期で当時のパンツはレギンスみたいにピチピチ
だったから軍人以外でもブーツ履くようになり、ウンコ踏んでも
足汚さなくなったからだろ。 >>309
癌のかかった晩年の溥儀は本人が希望しても近代医療での治療を
受けさせてもらえなかった。丁度文革も時期で清皇室に連なる
一族や満州旗人の有力家系の一族がかなり文革での粛清ターゲットになって殺された。
満州族は漢名のみ名のり、満州族であることを隠すようになった。 >>312
汚物除け説って、実証的な説ではなくて、どうやら後付けの思い付き話が広まったことらしいよ
直接的にはファッション、特に見かけ上の背丈を稼ぐための目的が強かった
・・・みんながハイヒール履いたら結局同じだな
女性用も今どき別に無くてよさげだけど・・・このスレ女性参加者さんいます? ご意見いかがでしょう(なお、自分は男性ですが) >>314
ガリレオ・ガリレイの伝記にガリレイがベネチアを訪れた際、
海面が上昇した時に備えてハイヒールというか厚底靴を男女とも
履いていたっていう描写があるな。 日本人が中国の伝統文化と思っているものは、実は清代の、
比較的新しい時代のものが多いよな
満漢全席とか 中国の伝統衣装ってカッコよいのに清代から急にダサくなったな
韓国歴史ドラマでよく見かける網巾(バンダナ)巻いてお団子状の髷作って簪を挿すスタイルも
本当は宋代から明代までの中国の伝統的な髪形 弁髪は、前から見るとスキンヘッドに見える
時代劇でも清朝モノは、男がみんなスキンヘッドで、パジャマみたいな服
せっかくイケメン俳優で固めても台無し
何事も合う合わないがあるので、ハマる人はハマるんだが この人に関しては、清朝スタイルのほうが普段よりカッコいい
「宮廷女官ジャクギ」の第四皇子(雍正帝)
https://i.imgur.com/7i4Nst2.jpg >>321
まあそれ言ったら、戦国末もの〜幕末ものの日本時代劇って、
丁髷ゆったうえに月代剃り上げという、世界屈指の珍奇な髪形の男性ばっかりだよ 最近の日本人の顔は明らかに変わった
朝鮮人にどんどん近づいている 洪武帝の海禁政策のせいで、東南アジアに中国船が来なくなり、
中国商人に代わってイスラーム商人がこの地域に進出して、
東南アジアのイスラーム化が進んだという説があるけど、
実際はどうだったのかな
明の政策がどうであろうと、いずれはイスラームが広まったのかな >>323
モンゴルの辮髪の方がもっと奇抜だけどな。 日本でも、公家や儒者は月代を剃らずに総髪のままだったけどね
あと、幕末になると武家でも総髪にする者が増えた 中国人のイメージとして、辮髪を思い浮かべる人が少なからずいるよね。本来は北方民族の髪型なんだけれども。 >>324
変わってねーよ。二重瞼の率は圧倒的に日本人の高い。
チョンみたいに男女で二重瞼率が異なるってこともない。
二重瞼率は性別で差はないのが普通なのにチョンでは差があるのは
女の整形率が高いから。 >>328
戦乱のない江戸時代は兜を被ることもないから総髪でいいはずなのに、
武士どころか一般庶民も月代を剃るようになったんだよね。
しかも、江戸時代時代は室町中期には庶民も含めて被ってた烏帽子も
被らなくなったし。 >>330
おまえ外に出て人間と触れ合った方がいいぞ >>333
だから、韓国人が男女の二重瞼の出現率の差は
整形率の差から来るものだと教えたくれたのだが。
お前と違って韓国人に直接実情を聞いたのだが。 >>333
韓国人みたいにドリルで開けたような真ん丸な鼻の穴の日本人は少ない。 じゃあこれはナニ人だよ?
://i.imgur.com/t8pAkCH.png 日本が朝鮮半島を植民地にせず、タイ王国ぐらいの国際的地位にとどまる、
という道はなかったのかな
日本近現代史に別の道はなかったのか… >>338
そもそも、朝鮮半島を「植民地」とする認識が誤り >>336
>>337
スレ違いだいい加減にしろ。スレのタイトル通り読めないのか?
この知障土人。 罵り合いしてる人らはどっちもよそ行ってやってくれ
明清史の議論はどこ行った 明朝では、官僚の官棒は歴代王朝の中でもっとも低かったのだとか >>342
薄給なんで賄賂を受け取って暮らすしかない。
実務を担当する胥吏は無給。
いくら汚職を取り締まっても
構造的な問題がある。 >>343
でも、胥吏は今で言う役所の窓口兼行政書士という感じでしょ。
庶民だと文盲も多かったから、代書業務による手数料は取らざる得ないと思う。
その額が妥当かどうかは別として。 官員は任期が定まってて、同一地位にずっといることはないが
胥吏はずっと留まってる。
結果、官庁の実権が胥吏が握る。
胥吏たちが上官に対しストライキ(散堂)をすることもある。 明朝の武宗は、チベット仏教に現を抜かし、房中術にはまって淫楽の限りをつくした
さらに取り巻きとして8人の宦官を重用し、政治の実権は彼らが握ることになった 宦官って、どこの国でも、異民族出身者がけっこういるよな >>348
東南アジアでは、アラビア商人から輸入していた モンゴル帝国の宮廷では、高麗出身の宦官が活躍していた
民族の誇りだ 元王朝で高麗人が最も活躍したのは意外なことに主に軍事面だな
趙仁規、鄭仁卿とかが嚆矢だが元朝で栄達した後に故国に錦を飾るのが高麗武官の典型的な出世コース
高麗軍も精強として知られていて元寇の時の元帥であるクドゥンも対馬、壱岐での高麗軍の働きを評して
「蒙古人は戦に慣れると雖も何をもってこれに加えようか」と述べている 至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、
倭請降、後來戰、茶丘與之亮・卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、
所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、
弱゚大喝、倭辟易而走、之亮・忻・卞・李唐公・金天祿・申奕等力戰、
倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、
一岐島に至ると、倭兵が岸上に陣を敷いていたので、之亮と方慶の婿である趙卞がこれを待ち構えた。
倭は降ることを請うも、後に戦いを挑んで来たが、茶丘と之亮・卞らが撃殺得た首級は千余りにも上った。
高麗軍は三郎浦で船を捨て分かれて進軍し、当たるを幸いとばかりに多くの倭兵をなぎ倒した。
倭兵が突進して中軍を衝き左右入り乱れての白兵戦になるも、方慶はまるで地面に植えられたかのように
少しも退かず、流れ矢を引き抜き大喝すると倭兵は恐れをなして逃げ出した。
之亮・忻・卞・李唐公・金天禄・申奕等が力戦すると倭兵は大敗し、その屍が折り重なった様は
麻糸がもつれ乱れたかのようであった。
忽敦は言った。「モンゴル人は戦に慣れているといえども、これほどの戦働きはできまい」と 対馬・壱岐を奇襲して島民を虐殺したのは、モンゴル人ではなく高麗人の仕業
「高麗寇」と呼ぶべき ゴーストオブツシマとか史実通りに描くと高麗軍無双やな 高麗の金允侯なんて多勢に無勢でムカリ軍団を率いる権皇帝サリクタイを敗死に追いやってるぐらいやからな
無力な百姓イジメしか能がない鎌倉武士風情が高麗将に敵うはずないで >>355
対馬や壱岐にいきなり奇襲をかけ、平和な島民を虐殺した卑劣な連中
そんな奴らが本当に強かった試しはないだろ(笑) >>357
平和といったのは対馬と壱岐の島民のことなんだが?
ひょっとして、小学生の頃から社会科が苦手だった? あんたらほんとよそでやれ
ここ明清史スレだろ
時分は過去レスで何度かコリアンヒストリー関連の指摘したことがある者だが、
そういう自分が傍から見ていてすら、今週は単なる罵り合いの応酬だな
完全にスレ趣旨から逸脱してる そろそろ頭冷やして本題に戻りなよ >>359
おまえこれがナニ人か分かるか?
日本人なんだよ
://i.imgur.com/S0qgjyo.png >>358
文永の役で高麗軍にほとんど全滅に追い込まれた松浦党は対馬の島民と組んで1223年頃から
散々高麗で海賊行為を働いていたわけですけどこれがどこが平和なんですか
ついでに書いておくと元側は入朝しないと兵を送ると再三親書を送っていたし
日本側も1271年から幕府が御家人を九州に送って迎撃態勢を整えていたので
朝鮮出兵と違って奇襲でも何でもないぞ 「玉葉」
嘉禄三年三年(1227)五月小十四 晴れ 高麗国より書状が届いたので今日に及んで披露された。その書にはこう書かれていた。
高麗国全羅州の監察官より日本国の太宰府長官殿へ。
あなた方の国民である対馬人は古来より我が国へ贈り物をしては、長きにわたり仲良くしておりました。
また我が国でも特別に館を設けては彼らを労っておりました。
対馬人との交易に従事する海辺の州県や島民たちも仲良くやっており、対馬人を疑ったり嫌ったりすることはありませんでした。
彼らが言うには金海府は対馬人が古くから寝泊まりしていた場所だそうです。このことはご存じでしょうか?
去年の六月、対馬人らは夜に乗じて城の穴倉より侵入し、家々を略奪していきました。
これほど甚だしい悪事はございません。また辺境の村々にも対馬の略奪者が現れては無辜の百姓をいじめているのです。
現在、朝廷ではこの問題が取り上げられ、役人20人が派遣され以前から捜査を開始しております。
嘗ては対馬人は入国の際に名簿を提出することになっていましたがそれも行われず、無数の船が途切れなく往来しては
悪事を働いています。これは一体いかなる理由からでしょうか?
すみやかな対処をお願いします。 李朝時代の朝鮮は、明清帝国の出先機関に過ぎなかった そういえば東系紅巾軍は元の上都を占領した後に高麗へ攻め込んで全滅してたな
高麗の空城の計に見事にはまって関先生、沙劉二、破頭潘なども全員討ち死に
その際に略奪した元帝の玉璽が高麗の手にわたるがちゃんとモンゴルに返したらしく
のちにヌルハチがリンダン・ハーンから献上されている 歴代の高麗王は、モンゴルから王妃を降嫁され続けたため、高麗人→ハーフの高麗人→クォーター高麗人・・・と、代を経るごとに高麗の血が薄まり、次第にモンゴル人そのものと化していった
少年期は北京の宮廷で育ち、成人したら開城に赴任して王位に就くのだが、なかには「こんな田舎は嫌だ」と北京に帰ってしまい、そのまま戻ってこない国王も出るありさま
末期の高麗は完全にモンゴルの一行政区域に過ぎなくなっていた 同民族間しか嫁を取らない日本の皇室が異常なだけで外国だと王室は国際結婚が当たり前だけどな
ヨーロッパの王室の家系図とか見てみろ
それと高麗は元朝から国璽が与えられているので元から見ても独立国
そもそも高麗王はウイグル王、コンギラト王に並ぶ四大駙馬なので
モンゴル内の序列ではティムールよりもずっと上 >>370
そこが朝鮮人の浅はかさだな
「ウリはモンゴル帝国の忠実な子分ニダ。日本みたいな化外の地とは違うニダ」と威張る(笑) 倭王武の上表文
順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠,作藩于外
順帝昇明二年、倭王武が使いを遣わし上表文を献上した。そこにはこう書いてあった。
「我が国は属国でありますが、遠く辺境にありますので、化外の地に藩屏をなしております・・・ >>370
ダルガチが駐在してるからキプチャク汗国のルーシ諸侯と同じ扱いだろ。
つまり、モンゴル帝国内の土着領主の身分。 >>372
倭王武はこの上奏文により、新羅と百済の支配者であることを皇帝に認めさせた >>373
常駐してません
それどころか高麗王朝の官僚が兼任していた征東行省は東寧府や双城総管府のダルガチの人事権すら握っています
>>374
何さらっとすぐバレるウソついてるんだ
倭王武の安東大将軍は百済王余映が叙任された鎮東大将軍より2階級下だぞ あのー 昨日あたりからレス往復させてる人たち
続きはモンゴル帝国スレかどっかで論じてくれる? モンゴル帝国の急速な衰退を見て、満州と高麗の国境付近にいた満州人の李成桂は、ただちに高麗を裏切って南下し、半島を乗っ取って朝鮮を建国した
「朝鮮」という国号は、明の太祖・朱元璋に決めてもらった
北京と違って、明朝の首都・南京は朝鮮半島から遠く離れた南方にある。
みずから従属国とはなったものの、朝鮮にとっては大陸からのプレッシャーがしばし緩んだ時期だった >>375
忠宣王、忠粛王、忠恵王といった3代の高麗王が征東等処行中書省の元朝の行政官によって廃位させられているが。
キプチャク汗国のルーシ諸侯や元のチベットのコン氏族(サキャパンディタ、パスパ等)に比べるべくもない扱いだろーが。
国王が廃位されれ流刑にされるってどんだけだよ。
すれ違いの朝鮮ファンタジーの妄言書き散らすのもいい加減にしろ。 レスの応酬してるどっち側も、これ以上やり合うならもう他スレで議論つづけなって
元史の関係スレは、モンゴル帝国スレとモンゴル帝国総合スレになぜか分かれてるみたいじゃあるが、
とにかく、ここじゃなくてそっちのスレでやってくれ 朝鮮上げのバカチョン一匹がスレ違いの妄想書き込んでいる。
噸する飲んで寝てろ。 >>378
その3人が廃位されたのは胡服辮髪の強制を急いだりなど現地人からの不況をかったから何だが
と言うか征東等処行中書省のトップである丞相(長官)って忠烈王以降は高麗王自身だぞ
>キプチャク汗国のルーシ諸侯や元のチベットのコン氏族(サキャパンディタ、パスパ等)に比べるべくもない扱いだろーが。
徴税や徴兵権がバスカクに握られていたルーシが高麗と「比べるべくもない扱い」とか
とにかくウヨおじさんは森平雅彦氏の「モンゴル覇権下の高麗」 という基礎研究に目を通して反論してくれないか?
都合の良い情報を探しにググっておしまい程度で終わってるから知識の偏りや誤認が多すぎる >>382
高麗王は左丞相。モンゴルでは右の方が上位だから所詮次官。
とにかくいい加減にしろ。モンゴル帝国スレでやれ。 高麗王家とモンゴル皇族の通婚關係に關する覺書 (特集東アジア史の中での韓國・朝鮮史)389ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152117/1/JOR_67_3_363.pdf
>かたや高麗王家は一二八七年以降、高麗における元の最高統治機関たる征東行省の長官(丞相)を兼任し、東方三王家
>と日本をひかえた元朝東邉のおさえとして位置づけられ、自らもそのような自負を表明していた。
征東行省では丞相が高麗王の兼任で補佐としてモンゴル人官僚が配置されることになっていたが
有事の際を除いて置かれなかった
もうこれ以上は書かないけどせめて基礎となる論文ぐらいは読んで勉強してからにしてくれ
ソースがwikipdiaとかお話にならない 中華料理の話だが、
南宋の頃から南方の食材が使われるようになった
元代になるとモンゴル風が加わり、あぶり羊肉や角子(ぎょうざ)が
あらわれた
明代になると一日三食になり、末期には燕巣やフカヒレが姿をみせ、
清代になって、料理と献立はほぼ現在のそれと同じものになった 中華料理といえば、満漢全席
満人文化と漢人文化を足して2で割ったのが現代の中国文化 明代になると、新大陸原産のジャガイモ、トウモロコシ、落花生、タバコなどが
将来される >>384
元の統治機構の中に組み込まれている段階で属国以下の存在。
ウィグル、チベットと何が違う?完全に元の内地の地方政府の
原住民官僚扱いだろ。帝師を出しているチベットの方が格上。 清朝の北洋艦隊についてだが、兵卒は広東と福建、つまり海沿いの省から
集めたが、将官が満州人であり、提督が安徽人だった
つまり作戦を指揮するのは内陸の人間で、海に縁がない人達が縁故で
上層部に入っている組織だった >>388
ほんとしつこいなスレチだからこれで最後だぞ
まず征東行省はカーンではなく高麗王直轄の組織であり他の行省と違って
管轄する州県をもたず東方を監視するための軍事機構であるという特殊性をもつ
征東行省が高麗に属するとモンゴル側と認識していたことはラシード=アッデイーンの
「集史」にも「独立した王国である高麗(Kouli)の省」(クビライ=カーン紀第2部)
とあることから伺える
倭王武が倭国王と同時に宋の都督府の将軍を兼ねていた例と比べると分かりやすいかな?
ウヨ君は専門板でレスバに勝ちたいのなら読書の習慣をつけよう >>390
お前がスレチの話題書き出したんだろ。
バカチョンは自分で言い出したことすら守れない。
捏造と条約違反のかの国の民族的特性だな。 >>390
扱いは帝師を出してるチベットの下だろ。
大都に出仕させられている王族もパスパの前にひざまづいてた。 きみらみんな、元代の議論の続きはモンゴル帝国スレでしてくれ
このスレとは直接には関係ないんだから
モンゴル帝国
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1535883775 ていうか、元代の話の続きは、明代に移行すればいいだろ 満州人の李成桂は、モンゴル帝国の崩壊を見るやいなや、南下して高麗を滅ぼした >>393
チョンと大和民族は別民族。
Y染色体のD因子はチョンには存在しない。
遺伝子レベルで別物。 高麗が朝鮮半島の王朝の理想形だったのかも。
李氏朝鮮になってから、事大主義、儒教の毒が骨の髄まで浸透した。 >>399
つくぞ。鼻の穴の形。耳たぶ。
整形ない状態での両眼の間隔。
二重瞼の自然発生率。 >>401
おまえバカだな
ナチスもアーリア人の見分け方とかで頭蓋骨の幅を測ってたりしたけど
それ並のアホさを感じる >>400
高麗の初期は、大陸が五代十国だったり歴代最弱王朝の宋だったり、プレッシャーが緩んだ時期だった (遼には攻め込まれたが)
後期はモンゴル帝国の一部 >>402
ドリルで開けたような鼻の穴は大和民族では出現率は極めて少ない。
チョンはサムスンのイ・ジェヨンと妹のブジンが典型的ドリル穿孔鼻。
ブジンなんて莫大な金かけて整形しても直せない位の
豚鼻でドリル穿孔鼻。 モンゴル支配下の高麗は、世界史にも稀な生き地獄、残酷物語だ
これを美化する人がいるとはビックリ >>402
なんといってもチンコが短い。
チョンのチンコは途中でぶった切ったみたいに短い。
あの、故野村元監督が風呂で見た張本のチンコが
小さくて「大きな体なのに獅子唐みたいに小さい」と他の選手に
漏らしたら、張本が怒ってわざと空振りしてノムさんの
ヘルメットにバット当てたという有名な事件があった。
温泉でチョンの客が居たがチンコ小さかった。寸詰まりで短い。 >>404
朝鮮人のほとんどはモンゴル人やキルギス人と一緒で鷲鼻だけど
と言うかお前マレー人やタイ人と朝鮮人の区別がついてないカッペだろ >>409
だから、鼻の穴と言ってるだろ。大和民族は鼻の穴が三角形。
チョンはドリル穿孔穴。これって整形でも直んねーから、
チョンを見分ける目印だよ。 >>409
高麗時代にモンゴル人にレイプされまくったからモンゴル人と同じ様に
短小チンコになったんだろ。元力士の知り合いからモンゴル人も体格から不釣り合いにチンコ小さいと聞いている。 >>410
じゃあやっぱり同一民族だな
そんな奴はいくらでもいる >>412
同一の訳ねーだろ。医学統計でチョンの短小チンコがはっきりしてる。
そもそも、温泉でチョン共のチンコの実物をこの目で見たが、まぁ寸詰まりなこと。
生殖器官の平均が日本人平均の2/3って明らかにDNAレベルで別物だろ。 日本と朝鮮人を見分ける最大の方法は男の足を見ることだな
脛毛生えて無くてツルツルだったらほぼ間違いなく朝鮮人
女はともかく日本の男でそんな奴はおらん
マレー鼻は日本人でも松本穂香、永野芽郁、のん、波瑠、松本穂香、高橋真麻、松井愛莉、宮崎あおい、西野七瀬
吉岡聖恵とか女の場合は芸能人でも滅茶苦茶多いのであてにはならん まあ信じてほしければ社会に出て堂々と主張することだな
笑われるか袋叩きに合う覚悟があるならな >>415
物理的に小さい物は小さい。Seeing is believing.
自分の目で見て間違いなく小さいというか寸詰まりの朝鮮チンコ。 >>415
男性生殖器官のサイズはモロにY染色体の因子の違いが影響するものだ。
共通テストの生物すら満足な点取れぬ文系野郎にはわかるまい。
泌尿器科の国際専門誌のBJUインターナショナルで公式発表の数字で朝鮮人の陰茎サイズは小さいんだよ。 >>419
在日のお前がチョン半島の連中と言うことだろ。
何自己紹介してんだ。 朝鮮人のチンコのサイズなんか、明清帝国と関係ないだろ 清も同一民族だろ
溥儀なんかどう見ても滝廉太郎じゃねーか ノムさんの名言。
「ハリ、お前態度と体デカイのにちいせーな。」 明から清への王朝交代は、朝鮮史では最大級の事件だったんだが
日本ではさほどのインパクトが無かった >>425
秀吉の朝鮮侵攻が失敗した痛手が大きくて
大陸に手を出す気にならなかった。
鄭成功や南明政権が幾度も日本に援軍要請したが
江戸幕府が断った。
明末清初に朱舜水など幾人かの儒学者が日本に逃れてきた。
大名家が彼らを厚遇して、漢籍文化を得ようとしている。 >>426
鄭成功の日本訖帥には紀州徳川の徳川頼宣が乗り気だった。
幕府も一時は煙たい頼宣に浪人を付けて片道切符で送り出すことによる厄介払いも考えてはいた。 >>425
琉球が薩摩藩と打ち合わせをして明清どちらからでも冊封を
受けられる様に対応した。 朝鮮は「我が国こそは大明の1の子分ニダ」と威張り、清を野蛮人あつかいして無礼な外交を行った
おかげで清を本気で怒らせてしまい、ボコボコに侵略されてしまった
今になって、韓国ではこの時の「教訓」が声高に語られている >>429
どうせなら服属の証に旗服と辮髪強制してやれば良かったのにな。
ある意味北宋の徽宗が金に対してしたのと同じ位の約束違反してるから、
洗衣苑の朝鮮版でも作れば良かったよな。 清の役人がソウルに来ると、朝鮮国王は土下座して叩頭で迎えた。
朝鮮の王宮なのに、清の役人が正門から入り、国王は裏門からコソコソ出入りしなければいけなかった
こんなに厳しくなったのは清朝になってからの話で、明朝の頃はまだ緩かった
よく言われる「朝鮮は中国に対して形式的に服属していただけであり、実際に支配されていたわけではなかった」というのは、清代には当てはまらない 日本乞師に応じていれば面白かったのに
言い方は悪いけど国内の浪人50万のよい口減らしになるし
上手くいけば清と南明が鼎立して第二次南北朝時代が到来したかもな 江戸から見ると、中国・朝鮮は遠すぎるんだよなあ
大阪で感じるそれとはまったく違う。
わざわざ出ていく気にならない 「官邸がまったく、機能していない」
そう語るのは、政権の中枢を知る政府関係者の一人である。
「菅総理に直接、進言をする人間が誰もいない。総理が話すのは、側近の和泉洋人補佐官だけ。菅さんは、自分の意に反する意見を聞くとキレて激怒してしまうから、誰も何も言えなくなった。
田村(憲久)厚労相すら、『コロナの感染状況が危機的だ』という報告をしたら逆鱗に触れ、同席した官僚が渡したペーパーを机の上に投げ捨てられたほど。田村大臣は精神的にかなり追い詰められ、心身ともに参っています」
話を聞かない、信用しない
菅が執念を燃やしているのは、コロナ対策よりも、「情報統制」だ。1月5日、朝日新聞が、「外国人新規入国、全面停止へ」という記事を報じた。
イギリス、南アフリカなどで確認されている変異ウイルスの国内への侵入を防ぐため、中国・韓国を含む外国人の入国を全面停止することを、政府が検討に入ったとする記事だった。
これに菅は、「漏らしたのは誰だ!」と激怒し、官邸内で厳しい「犯人捜し」が始まったという。
「菅総理に言わせると、検討中に過ぎない情報を漏洩したのは内閣官房の人間に違いないということで、和泉補佐官に指示を出し、躍起になって『犯人』を割り出そうとしました。メディアと付き合いがあるスタッフは、LINEで情報をやり取りしていないかなど、徹底的に調べられたようです。
菅さんは一部の外部有識者とは会って話を聞きますが、身内をまったく信用しない。部下は無能か、裏切り者ばかりと思っている。周囲もそんな総理の態度に辟易して、何も言わなくなる。すべてが悪循環になっている」(官邸スタッフ)
菅本人が宣言した通り、現在は緊急事態、日本にとっての国難だ。
コロナの感染拡大は止めなければならない。だが、経済を崩壊させるわけにはいかず、同時に国民の生活を守らなければならない—。
そこに明確な「正解」はない。そんなことは誰もが分かっている。だからこそ、国のトップは多種多様な意見に耳を傾け最善策を探り、
その中で決断を下し、結果には責任を負うという、強い覚悟を示す必要がある。
なんか明王朝の末期みたいになってきたな… >>433
日本が合法的に、誰もが納得できる大義名分でもって
大陸に進出できる唯一の機会だったな。 >>436
幕府当初案の由井正雪との関係の疑いもある頼宣と
同じくいつまた反乱の火種になりかねない浪人を
片道切符で大陸に捨民するでよかったと思う。
頼宣率いる浪人武士団が満州族を撃破したなら、
それでよいし、あえなく壊滅しても幕府としては損はない。
頼宣は人材払底の南明政権下では、比類無い位有能だから、
頼宣存命中は清から奪い返した土地の王に封ぜられるだろうけど、
彼の没後は中国定番の権力闘争で浪人武士団共々、
虐殺されてしまうんじゃないかと。 >>437
それは甘すぎる
長期にわたって根気よく、かつ組織的に取り組まなければ大陸征服どころか半島征服すらできっこない 地続きの清ですら、朝鮮を完全に屈服させるまで5度の戦争を必要とした
中国征服に至っては、李自成の乱と呉三桂の裏切りという超ラッキーに恵まれつつも、最終的に呉三桂たちを打倒して完全統一した康熙帝の代まで、何十年もかかっている
その間ずっと、組織的に粘り強く取り組んできた。
「棄民を送り込む」とか、テキトーにやってたんじゃ無理。
モンゴル帝国による金や南宋・高麗の征服も同様 >>439
倭寇繋がりのよしみで
南方海洋商業勢力と連合しても難しいですか? もともと、シーパワーの日本が中国内陸部を征服するなどということがあり得ない
広東省や福建省の沿岸部を狙うべき この人は大谷翔平という野球の有名な人らしいですが朝鮮人ですか?
違うとしたら見分けがつかないのですが?
://i.imgur.com/ZJ92hYy.jpg >>442
あの世のノムさんに風呂でチンコ見てもらえばわかるだろ。 >>443
よく考えたら見分けられなくて当然でした
同一民族なのだから >>440
棄民で遠征軍編成とかを大陸の征服戦争ではよくある戦略だけど
古代ローマのマリウスのロバとかモンゴルのタンマチもそうだな
過剰人口で遠征軍を組織して占領地に半永久的に駐屯させる
負けたら負けたで元々いらない連中がいなくなっただけの話なので痛くもかゆくもない 在日のお前と半島の奴は同一民族だがな。
日本人と在日は異民族。DNAのY染色体のD因子はチョンは持ってない。
ダカラ、チンコが寸詰まり。 >>447
モンゴル族が寸詰まり。高麗時代に元のモンゴル兵にレイプされまくったから。
モンゴル族が小さいのは元力士の知り合いから聞いて確認済み。 よく言われる「朝鮮は2千年にわたって中国の属国だった」というのは、正確な認識ではない
正確には、中国と朝鮮は両方ともモンゴルや満州に支配されていた 朝鮮人は、もともと日本人から枝分かれした同じ民族だった
でも、モンゴル人や満州人が続々と南下してきたおかげで今ではまったくの異民族 日本人はYハプロは縄文系が残っているがミトコンドリアハプロはほぼ韓国人と一緒
いわば韓国は母の国 このスクショの上ふたり、ナニ人か分かりますか?
朝鮮人ですか? 日本人ですか?
私には全く見分けがつきません
://i.imgur.com/HdPKgvf.png つまり日本は在チョンの国なんですね
まあそれもいいか
同一民族だし >>454
顔なんか整形で変えられる。
KPOPアイドルも顔よりも背の高さとスタイルだ選ばれる。
後天的に変えにくいチンコマンコを晒してから質問しろ。
さすがに、性器の絶対的大きさは整形では変えられないからな。 >>456
バカいうな
朝鮮人は人間のランクが低いわ
一緒にするな 朝鮮はシナの属国でしたから、宗主国に対して貢物を奉らなければなりません。ところが貧しいのでシナの皇帝や高官が喜ぶような物がありません。
そこで歴代の朝鮮の王朝は、高価な物の代りに人間を奉っていました。具体的には、少年や美少女を奉っていたのです。
少年は宦官用でした。男の生殖器を切除するのは非常に危険なので、誰もなりたがりません。
シナでは犯罪者や捕虜を宦官にしていました。このような事情で、支那人は朝鮮人の少年を贈られるのを喜びました。
美少女を贈る(貢女)というのは性奴隷にするためです。朝鮮では古くから貢女を贈る習慣があり、5世紀の高句麗や新羅も支那の高官に贈っていたようです。
李氏朝鮮4代目の世宗は、フビライに日本侵略を提言した者ですが、朝鮮では非常な名君ということになっています。
この彼は処女をシナ人に奉るために、「十二歳以下の女子については婚姻を禁じる」という命令を出しています『朝鮮王朝実録』。 明は、定期的に貢女を選ぶ役職の「採紅使」を朝鮮に派遣していました。
世宗の父の太宗は、身寄りがない少女や捨て子を集めて「貢女」にしたのですが、明の採紅使が怒って朝鮮人官吏を殴るという事件が起き、朝鮮人たちは狼狽しました。
太宗の息子の世宗は、貢女集めのために「進献色」という役所を設け、役人が全国を巡って、美少女を見つけ次第問答無用に連行しました。
自分の可愛い娘を支那人の性奴隷にしたくはないので、民衆はそれを防ごうとして娘を幼いうちに結婚させました。
そこで世宗は、12歳以下の娘の結婚を禁止したのです。
当時、何人ぐらいが貢女として支那に贈られたのかは、はっきり分かっていません。
ただ、少し時代は後になりますが、清に対して貢女を贈った記録が『朝鮮王朝実録 仁祖実録』に書かれています。
李氏朝鮮は清に対して、黄金100両・白銀1000両・朝鮮人美女・牛・馬・豚など各々3000などの20余種を毎年献上したと記されています。
朝鮮人美女は牛・馬・豚などと同列の家畜として扱われていますが、その数は毎年3000人でした。世宗のときもそのぐらいの数だったのではないでしょうか。 みなさん、質問に答えていただきありがとうございました
正解は、二人ともバリバリの日本人でした
日本人と朝鮮人はやはり同一民族でした
最近、街の若い人はみんなこんな感じですしね
://youtu.be/gH8eEue_PKE >>462
朝鮮人はもともと日本列島から半島に移住して日本人から枝分かれしたのだが、モンゴル人と混血しすぎて今ではまったくの別物 >>462
何言ってんてんだ。
お前がチョンとしているのは、お前も含めて日本人手本に整形してる奴だろ。
チョンは医療関係の安全基準ガバガバだから、日本で規制されている頭蓋骨切削や、
健康な顎の骨のチタンへの置換えも平気でやるし。
ソン・ダンビという松下直を手本に整形した歌手など、
何も金属製の物を持ってなくても空港の金属探知機に引っ掛かる位、
頭蓋骨改造してるしな。 最近支那人も整形酷いよな。
でも支那人は細面で顎が尖った満州族を整形の手本にしてる。 朝鮮人と日本人は同一民族だと認めないキチガイが一匹いますからね >>472
Y染色体のD因子の出現率が0%のチョンが同一の訳ねーだろ。
クソバカ文系チョンコロ。 日本はずっと独立した別世界だったが、朝鮮人は明清帝国に五百年にわたっえ土下座し叩頭し続け、慰安婦を献上し続けた
五百年だからな
あまりにも長い
朝鮮人も、もとは日本人から枝分かれした同じ民族だったが、奴隷根性を刷り込まれて心性がまったく異なる存在になった 生まれた子供が美少女だと「慰安婦にして北京に献上される」と恐れて顔に傷をつけたり、子供なのに嫁に出したり
生まれた子供が美少年だと「チンポを切って去勢奴隷にされ、北京に献上される」と恐れる
中国人が連れていくわけではない。朝鮮王朝の役人に連れていかれるのだ
そんな地獄が五百年つづいた >>474
日本語とチョン語は基礎語彙ですら共通語がなく、分岐したのも8000年以前にさかのぼるだろ。
欧州のラテン系言語など、分岐しだしたのは5世紀でそれでも、スペイン人もイタリア人もフランス人も
全て異民族だろ。
8000年も言語差異が隔たって同一民族って言語学という文系学問でもお前の認識がとてつもなく気違いであることを証明している。 >>479
犬の鳴き声がモンモンと聞こえること自体、チョンは完全な異民族。
中国語ですら犬はワンワンだし、英語のバウワウの方がまだワンワンに近い。
猫の鳴き声をもヤウォンでなんだよ。中国語でも英語でもミャウで、
チョン語より日本語に近い。
身近の動物の鳴き声の擬音語が英語や中国語よりも違うってのは全く別民族の証拠。 ベルの擬音語も英語はリングリング(ngを区別してるだけで発音的にはリンリン)、
中国語もリンリン。で、チョン語はタルルンって全く似ても似つかない。
身近な擬音語が英語や中国語よりも日本語と違ってて何が同民族だ。
チョン語は受身表現が未発達で形容詞と形容動詞の区別がない。
モンゴル語でも受身表現は発達してるし、形容動詞相当の表現がある。
語彙だけでなく、文法すら日本より地理的に遠い所の言語より隔たりが大きい。
まだ、日本人とブリヤート人が同型民族と言う方が説得力あるよな。 モンゴルや清とは違って、明は朝鮮を軍事的に制圧したわけではなく、侵攻したことすらない
あくまでも、朝鮮の側からの自発的な従属だった。
それでも、国じゅうの女をカキ集めて大勢の慰安婦を北京に送るほど、朝鮮の宮廷は媚びへつらっていた。
国民は、明朝ではなく朝鮮王朝を深く恨んでいた。
豊臣秀吉の日本軍が攻めてくると聞いて、王侯貴族はあっさりとソウルを放棄して逃亡。
民衆が王宮に押し寄せて暴行略奪したため、首都は廃墟になった こういう歴史的な経緯を見ただけでも、朝鮮の支配層と土着民は、お互いき同胞意識など持っていなかったことがよく分かる まあ普通に考えて同一民族だよな
朝鮮から日本列島に渡ってきたんだろうな >>485
じゃいつ盲腸半島からやって来たと言うんだ? 知るかバカ(笑)
顔見て同一と分からんか?
めくらか? >>487
顔見てだったら、チョンはエベンキだろ。
民謡のアリランとか、チョン語では意味不明で
エベンキ語で初めて意味がある歌詞があるもんな。
顔と言語の類似だからお前の根拠より遥かに確実だな。 区別がつかなかった時点で同一確定
何をほざこうが無駄(笑) >>490
じゃ、チョンとエベンキは区別がつかないから同類だな。 >>493
日本人とチョンが同類ならなんで言語分岐が8000年以上も遡るのか説明してみろ。
モンゴル語よりも言語分岐が古いんだぞ。 >>495
勝手に似ているから同族というお前の知能が幼稚園児未満。
さもなくば真正気違い。 >>500
お前一人が関係ないスレで喚いているだけ。
スレに関係ない話題はいい加減にしろ。 明代には、皇帝の地位は中国史上、比類のない高さまで押し上げられたな
大臣たちもその前では立つことを許されず、跪いて謁見しなければならなかった 皇帝専制が明朝で完成された
フランスのブルボン王朝に比すべき絶対帝政に、2世紀ほど先んじて突入 明朝の、皇帝独裁による専制的中央集権体制は、
宋代以来の政治の流れの帰結だったな
そしてこれは清朝にも引き継がれる 清朝は部族合議制の名残りがあった分
皇帝独裁の弊害が減ったんじゃないか?
変な皇帝がいないし、宦官が出しゃばらない。 明末の内廷には女官9000人、宦官10万人がいたとされるが、
清の宮廷には両方合わせて400〜500人を抱えるにすぎなかった
このため清は宦官の専横に悩まされることがなかった 漢も唐も宦官勢力が跋扈して国内が混乱したのに、明は何で同じ轍を踏んだのかな。 >>508
逆に考えよう。
明朝は頭の固い科挙官僚に対して
宦官勢力が常に掣肘して緊張感を保てたからこそ
長続きできたんじゃないかと。 >>508
洪武帝は宦官を重用するなと厳命したのに、
クーデター起こした永楽帝が宦官重用した
大航海した鄭和も宦官 明朝は強力な官僚機構を持つ社会主義国だからな
放っておけば行政組織が肥大するのは避けられない 永楽帝は、主家を滅ぼして帝位を簒奪したことを科挙官僚の儒教倫理で批判されたため、うるさくない宦官を好んだ
「人権問題にうるさいアメリカ民主党より、トランプが良かった」みたいな感じ 崇禎帝の最期に従ったのは宦官の王承恩のみ。
皇帝にとって信頼できるのは宦官のみ。
官僚どもは口はうるさいわ、役に立たないわ、裏切るわで信頼性に欠ける。 >>507
北京に入城した順治帝は
明朝の宦官数千人をそのまま採用。
9千人という数字がどこかにあった。
順治帝は宦官を減らせという遺言を残していて
康熙帝が400人台まで減らした。
でも乾隆帝は2800人台、嘉慶帝は2600人台、溥儀退位時でも900人。
気を抜くと増える。 質実剛健だった清朝も、乾隆帝の長い長い治世のなかで、かなり緩みかけた
昔の王朝と同じになりかけたな
あそこで踏みとどまったのは偉い 乾隆帝は、晩年には奸臣の和�d用して宮廷を腐敗させた
乾隆帝の死後、国じゅうの恨みを買っていた和�ヘただちに誅殺されたが、その蓄財は国家財政の十数年ぶんに及んでいたという
現代でいえば「アメリカ合衆国」にも相当する世界最大の経済規模を誇っていた当時の清朝だけに、
アメリカの国家予算500兆円を基準にすると、数千兆円の蓄財に相当することになる 乾隆帝の時代の清朝は、前二代の健全財政を引き継いで、
国庫には莫大な余剰金が蓄積されていたとか
しかし乾隆の後半期には政界の綱紀は乱れ、汚職の風が蔓延しつつあった
寵臣和珅が不動産を含めて数億両の私財をためこんだ >>514
順治帝はのちの3代に比べて扱いが地味すぎる 世祖は13歳にして親政を開始
そして叔父の路線を改めず、有能な臣僚の補佐もあって国政を誤らなかった
彼は中国文明の価値を理解し、古典や文学書に親しみ、書画骨董に趣味を持ち、
ときには自ら画を描いた 「順治帝は早死にしたことになっているが、じつは生きていた。出家して寺で余生を過ごしたのだ」は歴史モノの定番ネタで、当たり前の史実みたいに語られている 中国で人気ドラマとなった還珠格格も乾隆帝が民間から皇女を
迎えたという伝説を膨らませたフィクションだしな。 「李自成は生きていた。呉三桂のもとに身を寄せていた」も定番だな
あと、「乾隆帝はじつは漢人の子だった」とかも 明朝では、永楽帝のような強力なリーダーシップを持った皇帝が優秀な宦官を
重用したときはうまくいくが、暗愚な皇帝が宦官を重用すると政治混乱の
もととなるな
正統帝の時代の王振とか 正徳帝の劉瑾、天啓帝の魏忠賢とか、
大悪党の宦官に事欠かない。
明朝の特徴はどんなに権勢を誇った人物でも
皇帝が代替わりすると粛清される。 正徳帝は、宦官の劉瑾らを重用し、宮廷内にしつらえた「豹房」にこもって
歌舞音曲や房中の楽しみに耽った
武芸を好んだ彼はまた、自らを武将になぞらえて北辺を巡行し、その途上、
美女をさらって楽しんだ
続く嘉靖帝も、即位当初は前代の弊政の改革に取り組んだものの、しだいに道教の
長生術にのめりこみ、軍事的な危機をよそに、道教の儀式に大金を費消した
政務に無関心な嘉靖帝のもとで、20年余り朝政を牛耳ったのが、賄賂政治で
悪名高い厳嵩父子。 そんな無気力・無関心・無責任の三拍子そろったバカ皇帝でも、その気になればいきなり朝政に顔を出し、その場で大臣をクビにするほどの権力があった
それくらい、大明帝国の皇帝専制は確立されていた
それだけでなく、じつはバカ皇帝はバカではなく頭脳明晰だった
日頃はヤル気がないだけだったのだ >>530
皇帝に即位できるか、できないかで
天国と地獄の差ができる。
できない皇子は富貴な暮らしができるが
監視付きの飼い殺し状態。
やることないから子作りに励む者が多く
皇族の数がねずみ算の如くに増え続け
国家財政の負担となった。
中国語のネット情報だが明末に子孫百万人という推定値を見た。
明滅亡時、李自成軍などの手で子孫の大半が虐殺されたとか。 明は暗君が多かったが、それでも300年近く続いたのは法律や制度がしっかり整備されていたからなのかな? >>533
清朝が明の制度をほぼそのまま引き継いでる。当時としては先進的だったんじゃない? >>532
困窮する庶民から収奪して贅沢な暮らしをしてた皇族は恨まれてたんじゃないかな? 李自成と洪秀全は
朱元璋とどこで差が出たんだろう? >>531
洪武帝は部下を全く信用せず、
子息たちだけを信用して次々と藩王に封じた。
まるで封建体制を目指していたみたいだった。
そんな藩王が反乱を起こして殺し合いをしたり
結局、子孫の大半が根絶やしにされる未来を予測できなかったんか >>536
自己レス。
李自成は清軍+明残軍の攻撃という不運があるが、
自軍の統率ができてないか?
資産階級殺しの張献忠の乱暴狼藉を押さえられてないし。
洪秀全の太平天国も内部分裂抗争で弱体化。
一方、
朱元璋は農民反乱+新興宗教勢力+漢民族復興という面では洪秀全と共通してるが、
自陣営を完全統御してる。
時の運+統率力の違いという気がしてきた。 >>534
清の順治帝が臣下たちに対し、
漢の高祖から明代までの皇帝の中で一番は洪武だと述べた。
洪武が定めた条例・章程は、規則の鑑にして周密。
歴代の君主が洪武に及ばないゆえんである。
だそうだ。
明朝の法体系はしっかりしてたんだろう。 チンピラヤクザみたいな連中を集めて創業したベンチャー企業が、いつの間にかエリート社員を集めて「一流上場企業でございます」とやっているケースがたまにある
なかなか、できそうでできない
朱元璋は、その切り替えに成功した稀有な事例 かつて、宋文洲が「チンピラ社員を集めて創業した会社が発展し、エリート社員が入ってくる時代になった。この切り替えは大変だった」と語っていた
一介のベンチャー企業でもそうなのだから、ましてや朱元璋の明朝は大変だ
農民反乱に加わった乞食あがりのゴロツキみたいな家臣と、地主階級で高度な儒学の教養を持つ家臣が混在する宮廷
有名な大粛清は、朱元璋本人の残虐さもさることながら、家臣団内部の内ゲバという面が大きい >>537
西晋もそんな感じだったな。魏が司馬氏によって乗っ取られてしまったから、今度は乗っ取った自分達がそれを防ぐために皇族の力を強めたが、それが祟って八王の乱が起きてしまった。 その前に、前漢で起きた呉楚七国の乱という前例があるだろ 葉伯巨が洪武帝に上奏して
諸王分封の危険を訴えた。
すると洪武帝は我が骨肉を割くつもりかと激怒。
葉伯巨は入獄、獄中で餓死した。
その後の展開は葉伯巨の危惧したとおりになっていった。 洪武帝が功臣を粛清し過ぎて建文帝を護るべき人材居なくなって、
永楽帝のクーデターが成功した
過ぎたるは及ばざるが如し かつて、堺屋太一は朱元璋を絶賛して「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を足して何十倍にも拡大したような人物」とまで言ってたが
死後ただちに史上最大級の内戦が起きて、勝った永楽帝が北京でほとんど別モノの帝国を建設したのだから、少なくとも徳川家康に匹敵する安定感はないw 建文帝生存伝説があるな。
鄭和艦隊を南海に派遣したのは、
その捜索とかいうのも。 叔父と甥による内戦といえば、日本では壬申の乱が有名
このときも永楽帝と同様、叔父の天武天皇が勝利して大改革を行ったら
あとは内戦というほどではないが平安初期の承和の変
このときは甥の仁明天皇が勝利している イギリス王室では、別の叔父/甥の状況が起こります。エドワード4世が1483年の4月に亡くなったとき、彼は王冠を12歳の息子に渡した。
彼の息子は12歳だったので、彼は彼の兄弟、リチャード3世に、彼が支配するほどの年齢になるまで彼の超大切な世話をするようにしました。
リチャード3世は、エドワードの息子がすぐに姿を消し、悲しみのある叔父のリチャード王を王に残すまで、約3ヶ月間、彼の好きな甥と楽しい時を過ごした超クールな叔父でした。
だから少なくとも子供は消え、最悪の場合、あなたの国は粉々になるでしょう。 >>545
永楽帝も楽にクーデターに成功したわけではない。
圧倒的兵力の差で何度も追い詰められ
絶体絶命の危機に幾度も陥ってる。
すると建文帝が叔父殺しを嫌い
攻撃中止しちゃう。
永楽帝は本人の胆力と悪運の強さと
建文帝の気の弱さで4年間の激闘を勝利した。 父親が早死せず二代目皇帝になってれば話は違った
帝位がじいさんから孫にスキップするのは俺が永楽でも不愉快だ そうだ
結果だけを見れば永楽帝の圧勝みたいだが、実際には必敗の状況からスタートしての奇跡の逆転勝利
だいたい、地方にいる皇族が反乱を起こすなどというのは中国史ではよくあることだが、普通は失敗する。
クーデターに成功したのは永楽帝くらいのものだろう
実際、約百年の後に、遠い親戚の寧王・朱宸濠が寧王の乱を起こしたが、あえなく鎮圧された
普通なら失敗した反乱などよくあることと片付けられ忘れ去られるところなのだが、
このときは鎮圧した官軍の司令官がかの高名なる儒者の王陽明先生だったおかげで、「王陽明の武勇伝」として語り継がれることとなった 足利義満は遣明使を送って、永楽帝に国書を提出した。
実はもう一通、建文帝向けの国書も用意していた。
というか、こちらが本来のもの。
日本に靖難の変の情報が届いたので
どちらが勝っていてもいいように、
もう一通を予備に用意してた。
使者は永楽帝向けの即位を慶賀する方の国書を提出し、
永楽帝を大いに喜ばせた。
外交は苦労する。 >>554
明の朝廷の意図は、官学である朱子学を批判する煙たい存在の王陽明を、危険な戦地に送り込んで消してしまおうという肚だったと言われるが、見事な軍略で勝利してしまった >>555
若い頃は武芸に熱中してたんじゃなかったっけ?
侠客ともやりあったり。
戦場では少数精鋭の肉弾戦を好む好戦家。
しかも議論好きで寺の僧侶を宗教問答で打ち負かして泣かせた。
はっきり言って扱いづらい嫌な奴。 中国は優秀な奴は消してしまえみたいな力学が凄く強い
毛沢東も文革でそれをやった
日本の歴史上だと藤原氏ぐらいじゃないか
まあ日常にはありふれてるけど >>553
トランプとバイデンの両方に「就任おめでとうございます」を言うのと同じだな >>553
建文帝向けの国書は現存しているのかな? >>558
同じといえば同じだが、少し複雑な事情がある。
洪武帝が九州の南朝勢力懐良親王を日本国王に封じてしまっていたので
既に足利義満の遣明使が2度追い返されてしまっていた。
そこへ靖難の変が発生し、建文帝政権が苦しい状況を見た義満が3度目の遣明使を建文帝に送った。
案の定、建文帝側は義満を日本国王に封じた。味方が欲しい弱みを義満は狙っていた。
義満は日本に来た明使に謁見し、
お礼の答使を送るわけだが、もしかして建文帝側が負けて、燕王朱棣の天下になるかもしれぬと2通の国書を持たせたわけ。
靖難の変を利用しての綱渡り外交だった。 >>559
そんなのが永楽帝側に渡ったら大変。
さっさと処分したんじゃない? 形式的でも明に従属するなんてどんなに利益があってもお断り。と朝貢貿易を中断した足利義持はネトウヨ。
朝貢貿易を再開した足利義教は経団連パヨク。 日本が冊封体制に入って臣従してくれることは明朝がモンゴル帝国より上であることの証。
明朝にとって重要な意味があった。 元朝の使者は鎌倉幕府に斬られたが、
明朝の使者は室町幕府に斬られなかった違いは大きい 懐良親王は明使の国書が高圧的だったのを怒り使節団を殺害してる。
再度の明使には応じて日本国王として冊封。
懐良親王勢力が衰えても、日本国王は変わらない。
北朝や薩摩は懐良親王を詐称して遣明使を送ってた。 遣唐使の頃はどうでしたか?
誰かが冊封を受けたんでしょうか?
冊封なしに交流出来たんだとしたら幸運でしたかね そりゃ、遣唐使は朝貢の礼を取っている
そうしなきゃ唐とは付き合えないんだから当たり前 >>566
朝貢は冊封を受けるてなくても出来る。
日本はアッバース朝と同様な唐と通行のある善隣国の資格で朝貢のみしてた。 互市を開いて交易しろ!
さもないと暴れちゃうぞ!!
>アルタン・ハーン しょうがないなぁ。
市を開いて、海禁も緩めてあげるよ。
大明帝国の豊かな物産を分けたるわい。
代わりにもっと銀を寄越せや。
>嘉靖帝、隆慶帝 ワシを日本国王に冊封するだと!?
寝惚けてんじゃねぇ!!
フザケンナ!
また出兵じゃぁ。
>秀吉 大きな地震だったんで思い出した。
明代に史上最悪の大地震があったのを。
1556年1月23日(嘉靖34年)の華県地震。
朝廷に報告されたもので死者83万人。
実数はもっと多い。
推定マグニチュード8.0。 明の神宗は、政務を放棄し、自己の快楽の追求に余念がなく、25年もの間、
一度も朝廷に出ず、大臣とも会わないという新記録をつくった
しかも、寧夏ではモンゴル出身の将軍ボバイの反乱がおこり、
豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、播州の士官・楊応龍の反乱が相次ぐという時代だった >>574
豊臣秀吉の朝鮮出兵のときだけは突如として朝政に顔を出し、怒りに満ちた表情で「絶対に撃退しろ!」と言ったとか
それまでが20年間ヒキコモリだっただけに、周囲は驚きを隠せなかったという >>575
引きこもりでも絶対権力があったんだね。
張居正の締め付けが厳し過ぎて、反動で怠け者に。 >>574
治世前半は海外からの銀の流入で好景気。経済は絶好調。
それが明朝は万暦に滅ぶと書かれてしまうまでに落ちぶれた。 >>577
仮に真面目が続いてたとしても
停滞期なんだろう。
税制改革の副作用かもしれぬが人口急増。
一人当たりのGDPは低下。
元々は英明な皇帝なんで、もうどうにもならないとわかってたんじゃないか? 「君臨すれども統治せず」の体制にしようとしてたんじゃないかな 日清戦争勃発の時点で、
清朝の最高権力者は誰?
光緒帝?西太后?李鴻章? 光緒帝はお飾り、李鴻章に最終決定権はない
全権握ってるのは西太后 明の歴代皇帝の中で、嘉靖帝は道教と女色に溺れていたな
後宮に入れた女性には、8歳から14歳までの少女が多かったという
ひょっとしてロリコン? >>583
清廉潔白な官僚として名高い海瑞は嘉靖帝の道教への傾倒ぶりを上疏し激しく諫めたため投獄された。
この出来事を京劇にした「海瑞罷官」に対し批判論文が新聞に掲載される。
彭徳懐を罷免した毛沢東を暗に批判する反革命的京劇だとされた。
作者の明代史学者は投獄されて死亡。
これが文化大革命の始まりとなった。 オウム真理教の麻原彰晃は自分の前世は朱元璋だと主張した。
信者たちを引き連れ洪武帝陵を詣でて、朱元璋の霊力を受けたそうな。
上海のホテルでの説法で日本国家の打倒とオウム国家建設を表明。
サリンを70トン東京に散布するとも。 神宗は金銭にけた外れの執着を示した
不正不法の手段をもって集められた金銭は、すべて宮廷費として浪費された
豪奢な生活のため大金が投じられ、芸術品といえる絹織物や陶磁器が発注され、
海外の珍宝が買い集められた
宴会費も激増した
皇子の結婚に常例の10倍もの金額を支出し、焼失した宮殿の再建と
壮麗な帝陵の造営にもそれぞれ数百万両が使われた >>586
白蓮教という終末論を掲げる新興宗教から台頭した朱元璋を自分に重ねていた。 そうか、新興宗教から政治に転じて天下を取ったなど、朱元璋くらいのものか >>589
朱元璋は教祖や教主ではない。
韓林児(小明王=救世主たる明王の子)を奉り、その配下の左副元帥や呉王として振舞った。
朱元璋は自分の本拠地の応天府へ小明王を招いた。
だが途上で小明王を乗せた船が転覆。
小明王は溺死。
朱元璋は大いに泣き、盛大な葬儀を執り行う。
普通に考えれば宗教的権威を集める小明王が邪魔なんで、朱元璋が殺したんだろう。
何食わぬ顔でその葬儀を主催した。
「明」という国号は白蓮教由来だと思う。
明は白蓮教を邪教として禁止するけれど。 清代でも白蓮教徒の乱が発生してるな。
八旗が鎮圧に役立たなかったのは太平天国と同じ。
白蓮教から派生した天理教による天理教徒の乱では紫禁城が襲撃され、
乱入してきた天理教徒相手に皇子だった道光帝が自ら銃を発射してる。 >>591
日本だと、地方の農民反乱が江戸城までなだれ込むなんて考えられないが、明清帝国では、このときと李自成の乱の2回も起きている >>591
この頃八旗は蒙古八旗以外は弱体化して役立たずだったからね。
蒙古八旗もセンゲリンチン率いる部隊が壊滅してからは、
漢族の軍閥に軍権を握られることになってしまった。 義和団20万人が北京に入城した際は
清朝が義和団に味方して列強に宣戦布告するという挙に出た。 紫禁城、見に行ったけどめっちゃ広くて建物がいっぱい。
最初は興味津々で一つ一つ丁寧に見学してたが
だんだん疲労がたまり、どうでも良くなって、何の建物か確認する気力も失った。
足が棒になるし。
太和殿のような巨大なところは人が一杯で余計に疲れるし。
軍機処がずいぶんと小さくて目立たないのが目立つ。
近くは天安門や国家博物館や景山公園と見どころがありすぎてお腹いっぱい。 >>593
さすがにオノボリさんが千代田の御城に雪崩れ込んだ例は無いが、
東京とその近郊の場末の人民が突っ込んだことはあるぞ。
「米よこせデモ」を知らねえか? 中国では民衆による秘密結社も、指導部のみが全体を把握し、
構成員は横のつながりをもたないという組織原則にならざるを得なかった
中国社会が「散砂の社会」と呼ばれる所以 「少林寺拳法奥義」 著者 宗道臣 出版社 東京書店 刊行年 昭和50
敗戦のさい、脱出行の途中で、私はこんな腹立たしい経験をした。
私の周囲には、いつか子供連づれの婦人グループが何組か、寄り添うように歩いていたのだが、思いがけぬ日本軍のトラック
の出現を見て、必死になって手を振り、止めようとした。
「同じ、日本人同士じゃありませんか。せめて、足の弱いこの人たちだけでも乗せててやってください。
見れば、荷台はほとんどカラッポじゃありませんか。」
しかし、伍長の返事は冷たかった。
「貴様ら地方人を乗せろと言う命令は受領しとらん。」
日本の軍隊は、この期に及んでも、民間人を地方人とさげすんでいる。
私はは危難に遭えば遭うほど団結し、助けあう中国人の幇の仲間の結束とくらべ、暗然となったものである。
戦前、戦中を通じて、日本人をどうにか団結させていたのは、忠君愛国というイデオロギーであった。
しかし、この鉄鎖は、タテにしかつながっていなかったから、一旦敗戦によって、それがずたずたに
切られてしまうと、日本人の一人一人がばらばらになって、自分のことだけしか考えずに行動するよう
になってしまったのである。
これは、日本人をヨコにつなぐものがほとんど存在しなかったことをよく表している。 続き
続き
砂粒のような日本民族
日本の占領行政にあたったアイケルバーガー将軍は、日本人を「砂粒のような民族」だと評した。
残念ながら、これはまことに的を得た評だといわざるを得ない。
アメリカにいくつかある支部の門下生の話では、チャイナタウンはギャングに襲われることはほとんどないのに、
日本人街はよくねらわれるという。
中国人の郷党意識の強さは定評のあるところであり、私も長い大陸生活で、いやというほど見せられているが、
例えばギャングが押し入ったとなると、同胞を救うために老人や婦人までが、われ先にとかけつけ、石つぶてを
投げまくるので、ギャングもおのずか敬遠するわけである。
ところが、日本人街では、我が身大事とばかり、閉じこもってしまうので、彼らには絶好の稼ぎ場になるのであ
ろう。
外国生活と言う特殊な条件のもとで、当然お互いに助けあわなければならない同胞が、反発しあい足を引っ張り
合って、我が身の利益と安全だけしか考えない傾向は、日本人特有のものであるらしい。 明代に権勢をふるった宦官として有名なのが魏忠賢
彼は権力を一手に握り、凄惨な恐怖政治を繰り広げた
東林党に対する弾圧は、冷酷かつ激烈をきわめ、逮捕、拷問、惨殺は
日常茶飯事となり、東林党人は政治の現場から一掃された
当然、その権勢におもねる者が現れ、彼のために生祠を建てようと
言いだすにいたった
彼の像の前で、人々は皇帝の「万歳」から千歳を減じて
「九千歳」と唱えるように強制された >>602
男の征服欲や上昇志向や闘争心の根源は男根と睾丸である
−−という巷説に対する生きた物証を、宦官なるバケモノどもは提示しているな。 どんな権勢家も皇帝が代替わりすればお終いさ。
バッドエンドしかない。 洪武帝は宦官が政治に関与することを絶対に認めず、彼らが学問をすることを厳禁した
しかし永楽帝は靖難の変に際して、宦官が彼の簒奪を援助してくれたことに感謝して、
帝位につくとおおいに宦官を重用し、彼らを外交使節に用いたり、軍事の監督に
あたらせたりした
これがそもそもの間違い 唐の皇帝なんか、宦官に幽閉されたり暗殺されたり、ボロボロだったからな
明では改善されかけたが、永楽以後はかえって悪化した >>607
ローマ帝国やアッバース朝やオスマン帝国だと、むしろ親衛隊に君主が
いいようにされる、というパターンが多いな >>605
明清では皇帝の絶対権力が確立されたおかげで、中国史に恒例の「禅譲・簒奪」が起きなかった 現在見ることができる万里の長城は、ほとんどが明代に造られたものだけど、
結局、北方遊牧民の侵略を防ぐことはできなかったな
清代になると国家の領域はモンゴル高原にも拡大したから、その意味を失った >>611
明の滅亡の遠因は北虜南倭というぐらいだからな。
大清グルンは構造的に「北虜」を止揚した筈なのに
北方から攻め込む「倭」になす術無く敗れたのは皮肉としか云いようが無い。
これはその後を継いだ「民」王朝も同じだったが。 清朝は元朝の後継。
元朝の玉璽とハーンの称号を持ってる。
明代がモンゴルを韃靼と呼んでたのを
蒙古、モンゴル呼称を復活させた。 明末になると、漢人が中国国内の社会不安、政治的弾圧を逃れて
北へ逃亡するようになったな >>611
呉三桂が明朝を裏切って開城したのが原因だけどな 崇偵帝は自殺せずに李自成に禅譲すればよかった
そうなれば明朝の仇を討つ、と言う呉三桂や清朝の大義名分は成り立たなかった 中国歴代王朝の中で、明代ほど皇帝が文化に無関心であった王朝はない、
また明代ほど文化人が冷遇された王朝もない、といわれる
この時代の文化はほとんど権力の保護の外で、いわば勝手に発達したものだった 朱元璋は、毛沢東と並んで史上最も知識人を嫌った権力者 >>619
朱元璋はまだ解る。
自身が知性皆無の愚者だから。
毛沢東はあれだけ高い知性を持ちながら何故知識人を弾圧したかねえ。 >>618
庶民文化が発達したから良かったじゃん。 >>620
フランスに留学したサロトサルも知識人弾圧してたよな 明代にポルトガル人がやってくると、彼らは沿海の郷村に侵入して、
郷民を捕らえ、また旅行者を連行して、屯門島に要塞を建築し、
ここを永久に占拠しようとした
彼らがインドや東南アジアでやってきた海賊的行為を中国でも
くりかえしたわけである 16世紀末の頃スペイン人商人に連れられ宣教師のラーダ、アルファロ、ロヨラがタイビンコ(大明国)という国に辿りつくのだが
その国はそれまでの船旅と違い現地の人々は無武装な平和な国で3人は安堵した
ところが現地の官吏や軍人の話ではこれより東にはハポン(日本)という島国があり、その国の男どもは戦や略奪しか知らず
このタイビンコの沿岸地帯にしばしば現れては男を殺し女や食料を奪い海上に消えていくと聞き一行は戦慄したという ポルトガル人は武力で中国に拠点を築けなかったので、広東の地方官に贈賄して、
目的を達成しようとした
1557年には、彼らは勝手にマカオの居住地を拡充し、砲台を築き、ポルトガルの
官吏を任命して、ここを統治し続けた
香港のように敗戦によって奪われたのではなく、ポルトガル人の詐欺的行為と、
これを許した地方官僚の腐敗、堕落によって、マカオは一世紀にわたり、
ポルトガル植民地となった >>622
ポルポトは留学先で勉強について行けなくて
唯一理解出来たのがスターリンのプロパガンダ的著作のみだったから、
西欧的最新知識をマスター出来た他の留学生に
嫉妬とコンプレックスを抱いていた。 北虜南倭といわれるが、辺境に住む漢人の中にはモンゴル側に投降し、
彼らの中国侵入の際にガイド役を演ずる者も現れたとか
1530年ごろから、韃靼は毎年のように侵入を繰り返すようになった
ことに、1542年6月、アルタン自ら軍を率いて山西へ侵入し、
その被害は十衛三十八州県におよび、男女二十余万人が殺害され、
田畑の蹂躙されたものは一千万畝におよび、二百万頭におよぶ
牛馬などの家畜が奪い去られた 倭寇だって、だんだん中国人ばかりにたっていったのは有名な話 明はヌルハチに対して大軍を派遣して対戦したが、党争の煽りをうけて
作戦は動揺し続け、ポルトガルから輸入した紅夷砲を所有していたにも
かかわらず、敗戦と後退を重ねていた
もはや末期症状だな ヌルハチの無敵騎馬軍団の脅威を前にして、明の袁崇煥は広東省からポルトガル製の大砲・鉄砲を持ってきた
ヌルハチは生涯で初めての大敗を喫し、その戦いで死亡した
だが、袁崇煥は謀叛の疑いで処刑され、今度は清の鉄砲隊が攻めてきた ヌルハチが寧遠城を攻めたとき、明軍の持つポルトガル砲に苦しめられたので、
後金でも大砲の必要を痛感し、はやくに投降していた漢人に命じて製造させたとか
以後、大砲はもっぱら漢人が取り扱ったので、彼らは火器部隊として重用され、
やがて漢軍八旗を形成した 銃砲で武装した清軍は、やがてモンゴルやウイグルを屈服させ、史上最大最強の帝国となる。
その版図の大部分が中華人民共和国にも受け継がれた
西洋列強と、やってたことも時期も同じ
それなのに、西洋列強のは「植民地支配」と言われるのに対し、中国のは、昔から中国の一部だったかのように錯覚させることに成功している >>632
なぜか欧米の左派知識人の中には、
「チベットやウイグルは中国人が中国の一部とみなしてきた地域だから」
と弁護する連中がいるんだよな >>632
成功してるか?
そうは思えねえけどな。
「ウイグルは中国」「チベットは(略)」「モンg(略)」なんつったって失笑を買ってるだけだろうに。 >>633
その論法が通用するなら、
「朝鮮や台湾は日本人が日本の一部とみなしてきた地域だから」
でもよくないか? 現代中国の少数民族に対するかたくなな態度は、やっぱり19〜20世紀前半に
列強にやられっぱなしの屈辱の時代を過ごしたことがトラウマになってんのかね 内地の人口が過剰だから移民させたい
もともと、これが最大の動機 >>636
ウィグルと内モンゴルは石炭、レアメタルや天然ガスといった資源があるから。
超大国である2は自国内に資源が豊富であることも鍵。
ロシアは資源輸出があるから経済力からみたら不釣り合いの保有出来る。
中共の本音は「ウィグルも内モンゴルは土地を開け渡せ。仕事が欲しけりゃ
深センの工場で奴隷工員になれ。さもなくば絶滅しろ。」だろう。 要するにウィグルと内モンゴルを白人にとっての北米大陸みたいにしたいんだな 結局どの国も叩けば埃が出るわけよ
中国にだけ目くじら立てるのはアホらしい
喜ぶのは白人 >>643
孫文の三民主義には民族自決をそれをあからさまに反故にした支那人は悪質。
内モンゴル、チベット、ウィグルは支那人の実力で版図に加えられたことはない。
清はオーストリア・ハンガリー帝国や連合王国の様に清の皇帝がそれぞれの地域の君主を兼任することによる同君連合。
だから、君主制廃止したならオーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国と同様に民族毎の国家に分割するのが自然。 >>645
清朝ならオーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国並には
内モンゴル、チベット、ウィグル領有の正統性はあるが、中凶にはない。
あのレーニンとスターリンが揃ってた旧ソ連ですロマノフ王朝が
倒れた後はポーランドとバルト諸国の独立は認めたから旧ソ連よりも悪質。 やっぱりロシア(旧ソ連)は帝政時代から西欧の文明を学んできたから、
中国よりは進んでいるんだろうな
旧ソ連を構成していた共和国はみな独立国になったし 辛亥革命のときは、夢の全省独立が一時的とはいえ実現したのだが 20世紀に入ると中国では省を単位とした連邦政府構想である
「聯省自治」論が模索された
だがいっぽうでそれを「軍閥割拠」あるいは外国勢力と結託する
「分裂主義」と批判する傾向も強まった 一方、日本は隣近所が不気味な世の中となり国民はバラバラに分断され衰退してゆくのだった 宋教仁が暗殺されなかったら、中国の歴史は変わっていたんだろうか? >>651
大して変わらないと思う。
結局は政治的勝利者に権力が集中する一種の帝政となる。
勝利者が変わるかもしれないが、誰がなっても同じことをする。
宋教仁が勝利者になれば、彼が「皇帝」的存在になる。 宮脇淳子は孫文が嫌いで、宋教仁をやたら持ち上げてたけどな >>652
それはどうかなあ?
「誰がやっても同じ」っていう見方もあるだろうけど、基本思想がだいぶ違ってたのは事実 伊藤博文は権力者だったけど、上からの改革で憲政や政党政治を実現した
伊藤博文じゃなくて山県有朋だったら、そんなの絶対やってない >>654
本人の思想がどうあれ大陸国家の体質は変わらない。
いずれ圧制的専制的手段を採用する。
そうしないと無秩序と荒廃しかなくなる。 胡錦濤のときは「普通の国になりつつある」と国際的に評価されてたけどな
習近平になって、昔に逆戻りだ >>657
胡錦濤はチベット弾圧の責任者。
やるときはやる恐ろしい男。
メディアの統制、インターネットの監視を推進。
和諧社会、以民為本、親民政治などスローガンで騙されてはいけない。 おそらくこれから自由民主主義諸国は過去の問題も含めて
より倫理性を問われる一方で、中国、そして程度には
グラデーションがあるにせよロシアやインド、トルコあたりの
現在進行形の人権侵害やナショナリズム・宗派主義は
不問になる現象が起きてくる 自国のちょっとした人権侵害には異常に厳しいリベラル左派が、なぜか中国の体制を賛美する
これは日本に限らず欧米にも見られる傾向で、世界的な問題になっている 先進国のリベラル左派は社会が分断され、既存の制度や秩序が破壊され、
家族が解体し、伝統文化が消滅すれば、国家はおのずと弱体化して崩壊し、
革命が成就すると考えているのかもしれない 第二次世界大戦後、中国が共産化しなかったら、日本に対して非軍事化、
多額の賠償の義務付け、占領軍による経済統制などが行われ、
日本の復興はなかったかも
そして中国はアメリカの援助と資本のおかげで経済発展する >>662
中共の存在が日本にそのような恩恵をもたらした一方、
毛沢東は日本の大陸侵略こそが中共革命を成功させてくれたと感謝していた。
わあい、にっぽんとちうごくはなかよくできるねー(棒) 明はイマイチな皇帝が多かったけど、それでも長続きしたのは、
世界中から銀を吸い込んでいたからなのかな? 皇帝専制体制が確立していたからだな
昔の王朝によくあった、「宰相に禅譲を迫られる」とか、そういうことが起きない >>662
もし国民党が統一しても欧米の傀儡政権に限りなく近いので遅かれ早かれ華北と華南と東北と少数民族地区が入り乱れて分裂、合従連衡を繰り返してたとおもう欧米とソ連の手に負えないほどに
巻き込まれた朝鮮半島と東南アジアも大混乱
中央アジアにも波及して地獄
そうなると日本の地政学な位置が戦略上物凄く意味があるので対日政策が史実通りに逆コース化してやっぱ日本は復興したとおもう 豊臣秀吉の朝鮮侵略は、日明両軍が、のべ40万人もの兵士を動員した、
16世紀の世界最大の戦争だったんだよな
東アジアは人口だけは多いから もし日本のアジア侵略がなかったら、チベットは保護者としての英国を失うことはなく、
中共がチベットを制圧することもなかったかもしれない >>669
> もし日本のアジア侵略がなかったら
ベトナムもマレーシアもシンガポールもインドネシアもブルネイもニューギニアもバングラデシュもインドも独立できなかっただろうよ。
もちろん大日本帝國の掲げた亜細亜解放のスローガンなんざ嘘八百だったわけだが、
あくまでも結果として諸国に独立への動機と信念と勇気と機会を与えたのもまた事実。 >>667
清朝のせいでチベット、ウイグルは中国領になった
その清朝を創った遠因は、明朝を衰退させた豊臣秀吉の遠征にある
明朝続いてたら、チベット、ウイグルは中国領にはなっていなかった 戦後、大陸での共産党政権成立も日本軍が遠因
日本軍が国民党軍を重慶の山奥に追いやっため、
華北で共産党が勢力伸ばした
日本敗北時には、日本軍の武器弾薬がゴッソリ共産党軍に接収されて共産党軍の勝利に繋がった >>674
なんでも豊臣秀吉のせいにするのは朝鮮人にありがちな傾向 中国は海軍力を増強しているが、日清戦争で日本海軍に敗れたことが
トラウマになっているのか?
それともアメリカ海軍に対抗できる海軍をつくろうとしている? >>677
スペイン→オランダ→イギリス→アメリカと、海洋を制した国が世界の覇権国家となってきた
そういう歴史から学んでいる >>675
朝鮮に囚われるな
朝鮮脳から解放されろ 明が朝鮮に大軍送った結果、
満州防衛が手薄になった隙を突いてヌルハチが挙兵した
これが清朝建国に繋がる
豊臣秀吉が南方の台湾やルソンにでも出兵してたら、ヌルハチは挙兵出来ただろうか? >>681
ヌルハチは結局、明の袁崇煥の鉄砲隊に撃退されて死ぬわけだが、袁崇煥が鉄砲隊を編成しようと思ったキッカケとして、日本軍と明軍の戦いで鉄砲の威力を知ったことが大きいのではなかろうか? ロシアは定住民が騎馬民族を破ったのに、
中国では明が女真族に破れて逆戻りしてしまった
ロシアが中国より進んでいたとは思わないが、
ここでロシアは次のステージに進んだ一方、
中国は停滞した気がする ウクライナやポーランドから見れば、ロシア人が女真族に見えるだろうな 清が中国を支配したときに、大多数の漢民族の間で民族主義闘争が起きても良かったのにな。 >>686
大衆は実利主義だからな。
名前とは裏腹の暗黒帝国だった明よりも大清グルンの治政の方がマシ、と体感したら民族なんて空虚な幻想に命を懸けたりはしない。 >>678
中国に、海洋の覇権を握ることは無理だと思うけどな
アメリカに比べて、圧倒的に経験値が足りない 明てどの程度海洋国家だったんだろうか
鄭和大遠征あるけども国家戦略っていうより倭寇が勝手に民間交易してたのが実態というか
有史以来チャイナて海洋帝国だったことないんじゃない
人工島→領土拡張って発想がそもそも海洋的じゃないよね
面より点(港と島)を抑えたネットワーク、そのためのシーレーン確保が軍事力という海洋帝国の定石で動いてない >>689
南宋は海洋帝国だったと言っていいんじゃないか >>686
明朝の中枢にいる高級官僚たちですら、北京に進軍した李自成の反乱軍を歓呼で迎えたくらいだからな
「漢人王朝」のわりには、漢人たちからあまりにも忌み嫌われていた 中国人民解放軍海軍は、海外にいくつ海軍基地を持っているんだろうか? >>692
今のところ、ジブチだけじゃないかな
エチオピアやソマリアの近隣にある要衝
アメリカと違って同盟国がほとんど無いから、そう簡単には増やせない 中国がアメリカに「太平洋東西分割」を持ちかけたことがあるけど、
海も陸と同じように分割できると思っているんだろうな
点と線でつなぐネットワークというものを理解していない 中国海軍の艦隊が出没してるところは、ガダルカナル、サイパン、ラバウルと、なんたが聞いたことのある地名ばかりだ アルフレッド・マハンが、フランスの海軍政策は、絶対主義権力による強行された
ものであったのに対し、イギリスのそれは海軍の育成と海運の発展とを巧みに
結び付けたものであったと論じている
だから、フランスの海軍政策は長続きせず、政府の重点政策が変化すると
たちまち衰微してしまったと
中国海軍もフランス海軍のようになったりして >>683
インド、イラン、東ローマはみんな
トルコ系騎馬民族に征服されてコースを逆戻りすることになった >>693
>アメリカと違って同盟国がほとんど無いから、そう簡単には増やせない
上海協力機構も知らんのか
中東とかほとんど中国になびいちゃってるのだが >>696
海上コンテナ取扱量で圧倒的に世界一の中国なんだが。
港湾設備からしてまるで規模が違うぞ。 海上コンテナとか言い出したらシンガポール韓国マレーシアUAEが最強海洋国家の仲間入りだね そいつらが束になっても勝てないとか中国SUGEEEEEEE 造船竣工隻数やトン数も圧倒的世界一。
この生産力のほんの一部を軍事に振り向けるだけで、
侮り難い海軍力となるよ。 >>703
少し前まで旧式艦船が多かったけれど
驚異的なスピードで最新鋭艦に替わってる。
最近就航した075型強襲揚陸艦なんてすげぇぞ。空母に準じてる。電子戦もバッチリ対応。 >>689
鄭和の大航海の理由は何なんだろうな。
鄭和の死後ピタリと大航海は止まってしまったし。それ以降再開されることはなかった。 >>706
皇位簒奪した永楽帝が、世間の関心を外に向けさせるため アメリカは世界50カ国に800の軍事基地を置いている アメリカを本気で敵に回すだけで、メリットのない愚策
第一次大戦前のドイツ帝国を想起させるな >>706
大航海も朝貢貿易に限定するから
大赤字だったろうな。 明清共に銀の流入で経済拡大。
貿易の最大受益者なのに
貿易、物流の重要性を全く理解しようとしない。
商業を軽視する儒学の悪弊。 現代世界は事実上、英米エスタブリッシュメント+ユダヤ勢力に牛耳られている
中国がそれにとってかわることはできるかな? >>714
元々、米国資本が中国に投資して支援していた。
明清最盛期のGDPが巨大だったことから
中国の経済ポテンシャルが非常に大きいと判断しての投資。
現状はアメリカが撒いた種が育ったもの。 >明清最盛期のGDP
んなもんを考慮に入れる投資家が居るかよww 「19世紀には中国・インドが世界経済の半分以上」
新興国への投資を煽るファンドの宣伝文句としては定番ですな アメリカ人です
翻訳機を使っています書き込みです
なぜ朝鮮人と日本人は同一民族なのに争いますか
統一すればパワーです 日本は中国を中心とする国際体系の周辺に位置してきたため、外国の文物を
導入することに慣れている
それでも近代化の過程では苦しんだのだから、国際体系の中心にあり、
外国の文物の導入に慣れていない中国人の苦しみは一層大きいのである >>720
> 外国の文物の導入に慣れていない中国人の苦しみは一層大きいのである
んなこたあない >>718
インドの富が英国を惹きつけた。
ロシアの南下政策を警戒したのはインドへの影響を恐れてたから。 清に辮髪を強要された際に何の抵抗もなく蛮族の風習として蔑視していた辮髪に平気で切り替えたように漢族は実利的
日本人みたいに名誉や恥のために命を自ら断つという概念はない アメリカでも、中国人はたいてい「ジャッキー・チェン」だの「ブルース・リー」だのと通称を名乗っている
日本人にそういう人は少ない だいたい、「中国」を日本やドイツとフランスみたいな普通の国と並べて比較すること自体がおかしい
「中国」は、「欧州」とか「中近東」とか、そういう文明圏と比較すべきだろ ttps://news.yahoo.co.jp/articles/47f28e85c5e18778dcc0e0b4b2abb02f1dc8fbb5
国際社会は米中二つの経済大国の間でバランスの取り方に苦慮している。
シンガポールのリー・シェンロン首相は今月、英BBCのインタビューで
「米中のどちらとも非常に強く広範な結び付きがあり、二者択一は不可能だ。
これはシンガポールだけのジレンマではない」と指摘した。 >>734
清朝が没落しただけで日本文明が抜いたわけではあるまい。
江戸時代を通じて清国から輸入される書籍の需要がとても高い。 明治維新が成功し、
洋務運動が失敗したのは何故かを問うべきだろう。
洋務運動の方が時期的に早く規模もはるかに大きいのに。 >>735
書籍を輸入してたら、文明が追い抜いてないことになるのか?
むしろ逆だろ >>737
通常は高い文明から低い文明に情報が多く流れる。
高い文明に憧れるから。 なまじ洋務運動が軌道に乗ったもんだから、
却って古い体質が生き残る。 清が北洋艦隊なんてすげぇの作ったんで日本が仰天する。
でも設備更新や艦船新規購入を怠り、北洋艦隊は老朽化。
作って満足、後は手抜きという官僚主義の悪弊なんだろう。 洋務運動の最大の成果はヤクブ・ベクの乱を鎮圧できたこと。
あれで新疆を失わずに巨大な版図を維持できた。 >>738
んなことねえわ
フランス人はニューギニアの文化を熱心に研究したが、ニューギニア人はフランス文化のことなど知らなかったぞ 情報ってのは、文明の水準が高いところに集まってくるもんだ >>742
ニューギニア人は遅れたフランス文化を知らないだろうが、
英語で教育を受けてる。
パプアニューギニアの君主はエリザベス女王。 明治日本の発展後は
中国人が日本を学ぶ。
現代中国語に和製漢語が非常に多い。
情報の向きが逆転したため。
現在は日本のオタク文化が中国に伝わってる。
まだまだ日本文化の水準が高い。 中国のマンガでヒロインが主人公に怒って、変態! って叫ぶ。
いやいやそこまで和式にせんでもと思う。 簡体字のIMEをPCに入れてるんだが、
de と打つと「的」「得」とかの他にひらがなの「の」が出てくる。
中国人は「の」が好きだよね。
看板にもよく「の」の字が入ってて、
微妙に日本語文法と違うのが微笑ましい。 清朝の時代、満州人やモンゴル人の人口比率は全国的には低かったが、首都・北京に限っていえば何割かを占めていた
しかも上流階級で文化的な影響力は強く、一般人が争って真似する存在
「てにをは」に当たる助詞も、そんな中で北京語に定着していった 日本人は、異民族に支配されたことがない
(強いて言えば例外はアメリカの占領軍)
なので、異民族の異文化を受容することにかけては、実は中国人より慣れていない そもそも、上海にとって北京は、気持ちの上ではほとんど異国
他の地域についても同様
異文化と接する機会は、やはり大陸のほうが圧倒的に多い >>751
ラーメンもカレーライスも豚カツも餡パンも見事に受容したばかりか本家より旨いものに仕上げちゃったけどな。
自動車その他西洋近代文明の製品も性能や品質にかけては今なお日本製が世界一だし。 「外国文化を取り入れるのが上手い国」みたいのは時代によって変わるので、なんの意味もない
中国は昔は粗悪なパクリしか作れなかったけど、
今では本家を凌駕してるし >>754
だと思うだろ?
表層だけの印象操作に嵌まってるよ。
「鎖の強さは一番弱い環で決まる」。
最先端、最高水準の強化ばかり急いで日本のように裾野からの積み上げを怠った中国の工業は、真に信頼性を問われる分野では今も全く使い物にならない。
通信機器や家電製品なんか中国製ばかりじゃないか!と反論するかもしれないが、
ああいう方面は信頼性、耐久性、安全性など工業製品本来の評価基準からすれば五流以下でも上市できてしまう分野だからな。 何いってんだこいつ
製鉄業とか中国は日本を抜き去って久しいが
日本上げってネトウヨか >>757
お前さん、モノ作りに関わった経験がねえだろ?
中国の鉄のウリはただ一つ、「安い」だけだ。
質に関してはもう、語る言葉も失うレベルだ。 なんで嘘つくんだ?
日本の職人を引き抜いてんだから質が低いわけがない >>759
いくら指導層をカネで引き抜いたって現場の意識が王朝時代の農奴そのまんまなんだから質の上がりようがない。
曲げれば割れる。伸ばせば穴が開く。
HCFの試験なのにLCFですか?ってサイクル数で亀裂が走りまくる。
顕微鏡で組織検査をした材料屋は何も言わないでヘラヘラ笑うだけだった。
それが中国の鉄の現実。 なるほど
それで日本の質も下がったわけか
民度が下がったから >>761
最初っから赤い尻尾が見えてたことにそろそろ気付きなさい。
故郷は北京かな?大連かな?
来日して何年経ちましたか? そんなに中国が嫌いなウヨおじはさっさと今着ている服もメガネもパソコンも家電も全部窓から投げ捨てろ
それ作ってるの全部中国人だからな ネトウヨって世間知らずの中高年が多いから日本製=日本人が作ってるとか思ってそう 俺は子供の頃からブルース・リーとか三国志が好きだったから
ちっぽけでバカなネトウヨみると殴りたくなる >>763
最近はそうでもないぞ
生産基地はバングラデシュとかミャンマーあたりに移動している
中国は一丁アガリの国 >>765
ブルースリーは香港だし、吉川英治は日本だ 中国はすでに労働人口が減り始めているし、数年後には総人口が減り始める
「3年で1千万人減少」というくらいの、未曾有のスケールで超・人口減少時代だ その一方ではまだ不動産バブルが続いており、都心まで2時間かかるような郊外で高層マンションがじゃんじゃん建っている 中国のことだから、おそらく経済が崩壊しても軍備増強・海洋進出は続けるだろう 北朝鮮と同じで、むしろ本当に危険なのはそうなってからだろう 中華圏の膨張は止めようもないな。
購買力平価補正による実質GDPで既に世界一。
高層ビル数が世界一。
高速道路総距離が世界一。
自動車生産台数が世界一。
造船竣工総トン数が世界一。
高速鉄道総距離が世界一。
地下鉄総距離が世界一。
輸出金額ランキングが世界一。
このランキングリストはいくらでも続く。
世界一が未達なのは軍事力と購買力平価補正なしGDP、金融資産保有高、宇宙開発ぐらいか。
一人当たりGDPは小国が有利でランキングに乗れない。 >>777
すでに造りすぎて限界に達したものばかりだ
10年前でも、住む人がいない廃墟の超高層ビル街が話題になり、観光名所になったりしてたのに
それでも造り続けなければならない。
でないと、建設業界が崩壊する ネトウヨは日本の技術力を過信してるけど、
科学論文数と論文の被引用数を見る限り
日本の後退が著しいんだよねぇ。
危機感無さ過ぎ。 乗る人がいなくても鉄道をメチャクチャ造り続けなければいけないし、走る車がなくても高速道路をメチャクチャ造り続けなければならない
どこかで終わることはなく、いつまでも続けなければならない。減らしたら経済はマイナス成長になる。
そうなったらバブルが崩壊して破綻の連鎖だ。止めたら終わりの無間地獄 >>779
限界に達したら、外に向かいたくなる。
だから衝突が起きやすくなる。 中国も、これからは人口が減る縮小社会だからなあ
マンション建てまくってる場合じゃないんだよね >>781
中国の某地方都市で車に乗せてもらった。
高速道路がガラガラで超快適。
広大なPAにトイレ休憩したが
他の車が1台もない。
トイレはキレいなままで快適。
正直、他人事ながら心配になる。 >>783
日本が先を行ってる。
日本の心配をした方がいい。 科学論文数、特許取得数で中国に大きく追い抜かれ、
技術力を蓄積してる日本企業や事業部門は次々と中国企業に買収されてる。 >>785
いや、高齢化に関しては急速に追いつかれている
「十年後の中国の人口構成」の図を見たところ、現在の日本とあまりに似ていてビックリした
中国の人口構成は極端だからな
20歳代の人間が、30歳代より4割くらい少ない
十年後には、彼らが10歳ずつ年を取る 中国の高齢化など中国政府にとってなんら問題ではない うちの近所に高層マンションがニョキニョキと建ってるんだが
ほとんど中国人が購入してるんだろ?
中国バブル崩壊で一番痛手を被るのは日本だったということになるぜ。 >>789
一応、日本が経験してることを研究して対策を考えてる。
これは中国だけでなく世界中で日本のようになりたくないと思って研究してる。
うまく対策できるかどうかは知らん。 日本はバカだから多数派である老人が支配する国となる
老人に手厚い政党しか選挙で勝てないから
エリート政治の中国にそんな心配はない
必要ならば核兵器でも姥捨山でも作る
まあ実際にはそこまで冷酷でなく、配給制に落ち着くだろう >>791
そのせいで、「いかなる手段を用いてでも、不動産価格の暴落だけは絶対に阻止しなければならない」と中国政府は思い込んだ
その結果が、現在の超バブルだ
実際には、ときには価格調整の時期もあったほうが良い
だが、もう手遅れ 不動産バブルで住宅事情が悪化しすぎたおかげで、出生率がさらに下がる悪循環
あわてて「1人っ子政策」を止めたが、それでも出生率低下に歯止めがかからず、今では日本より低い
上にも書いたが、「30代より4割少ない」というほど20代の人口が少ないので、今後も少子化はますます激化する 解決策を示しても見えないふりをするあわれなネトウヨ
対話の放棄 >>796
だから、「日本みたいなバブル崩壊にはなりたくない」と必死で頑張った結果が、今の超・不動産バブルなんだっての
その結果、住宅事情が悪化しすぎて極端な高齢化が進行している 20年間くらいずっと「中国は崩壊寸前」っていってる気がする
その間に家電でもなんでもメイドインジャパンの価値は大暴落した >>797
だから高齢化は問題ないと理由も書いた
バカか? 最近は習近平が「国賓で招待してくれ」とかなんとか、日本にスリ寄ってきている
それはやっぱり、経済が悪化して困っているから
日本しか頼る相手がいない まあ、経済成長も人口爆発も、始まったのは明清時代だから
現代中国において、たいていのことは明清にさかのぼる 後漢から6千万人が基本だった中国の人口
明の中期から人口爆発が始まり、明の後期で1億、清で4億に増加
毛沢東時代には「8億」と言われてた
今は14億 歴史の教訓とすれば
驕り高ぶって相手を見下した方が痛い目に遭う。
天朝に不足なし。蛮人へ情けで交易したるわい→英国艦隊にボコボコ。
東洋一の北洋艦隊で日本を威圧→日清戦争でフルボッコ。
中国兵は弱々しい。簡単に征服できるぜ。→泥沼の長期消耗戦。資源と兵力の限界の挙げ句に国際孤立で米軍にフルボッコ。
ジャパンあずNO1、日本製品質最高→バブル崩壊、長期低迷。
学校成績世界トップじゃわい→理数系の凋落。大学評価ダウン。海外留学意欲の低下。 明代には、浙江省舟山列島の双嶼港が、華人・ポルトガル人・東南アジア人・
日本人などが終結する、密貿易の拠点となっていた
ある意味グローバル化のはしり? >>806
グローバル化の走りはモンゴルだと思う。
明代は反グローバリゼーションじゃないか? 明朝の朝貢体制の受益者は
琉球王国とマラッカ王国。 現代の華僑のほとんどは明清代に中国から移民していった人の末裔だから最も漢民族が拡大した時代の一つ
そういえば漫画家の名島啓二は東南アジアに旅行に行った際に上流階級は白人や中国人ばかりで
現地民は底辺暮らしを強いられていて暗澹たる気持ちになったとか漫画のコラムで書いてたな >>809
移民の多くは低賃金労働に甘んじる。
そこからのし上がった人達。
生存競争を生き抜いただけあって、非常に逞しい。 清末には満洲への移民多くなる。
山東省で食いっぱぐれて東北三省に移った人たちが多く、
山東省人は東北三省人を蔑む向きがあると聞いた。 >>806
密貿易扱いじゃなく、公認貿易にすべきだった。
倭寇頭目を海軍司令官に抜擢して大航海時代に入るべきだった。 琉球王国は、周辺諸国が貿易に力を入れ出したらたちまち没落してしまったな >>814
琉球王国に限らず、清代に広東省が貿易大国として台頭したおかげで周辺の貿易立国はみんな衰退した 昆布ルート。
蝦夷→富山→薩摩→琉球→清。
これで沖縄料理と中華料理が大きく変わった。
漢方薬ルート。
清→琉球→薩摩→富山→全国津々浦々。
薩摩が交易で得た利益が倒幕への力となった。 昔、『琉球の風』という大河ドラマがあったけど、
日本では琉球王国が過大評価されているように思える >>818
明清の皇帝が冊封した王国を軽んじてはいけない。 >>818
東アジアの国際秩序では、朝鮮王国より格が上だった 秀吉は台湾に「高山国」があると思って人を派遣したら、存在しない。
未開の島とわかった。
さっさと占領すれば良かったのに。 >>816
琉球王国は、ヴァネツィアやオランダのような欧州の小規模な通商国家を連想させる 九州や台湾は、人口・面積ともオランダと大差ない
独立してやっていければ良かったのだ オランダ東インド会社は当初、澎(ぼう)湖諸島に拠点を置いた。
すると明軍が激しく反撃。
オランダは明と交渉し、台湾本島に移ることになる。
言わばオランダによる台湾占拠は明の承諾を得て行われた。
明にとって台湾島は未開のどうでもよい場所だったので、
体よくオランダを未開の地へ追い払ったつもりだった。 オランダ東インド会社は台湾開発のために
中国人を多数雇った。
本格的な漢人の台湾入植の始まり。
ジャングルで覆われていて、現住民族は野蛮、伝染病もあるし、開拓するのは大変な場所。 宮古島の漂流者たち数十名を台湾原住民が虐殺する事件があって、
明治政府は清に厳重抗議した。
すると清は台湾は化外なので自国に責任はないと主張。
化外の地で清の統治権が及ばないなら、
日本が成敗しても文句言うなと出兵。
すると清は台湾は清の属領なりと言い出す。
日本による琉球処分にも清は激しく反発。
日本側は清に譲歩し、
八重山諸島や宮古列島を清領とする条件まで出したが、
琉球王国復活を狙う清は応じなかった。 >>828
八重山とか割譲してたら、今に続く尖閣問題もなかったんだろか >>829
尖閣問題は、割とつい最近になって発生した新しい問題
過去から引きずっているわけではない >>811
東北三省は満洲人の故郷。
清はずっと漢人の立ち入りを禁じてたのに、
解禁したとたんに漢人の世界になっちゃった。 沿海州だって満洲人の故地。
ロシア人に乗っ取られた。 >>810
何というか漢人の生存競争の厳しさというのは日本人には恐ろしい。
これがハングリー精神やバイタリティーを産み
貧乏人家庭でも高等教育を求め続けて、
上昇志向と起業意欲を高めてるんじゃないかと。 そうなったのも明清時代からの傾向
それ以前の中国は、むしろ人口密度が低くて余裕があった 明清時代の爆発的な人口増加で!生存競争が厳しくなった 昔の中国は広々とした国だったのに、いまじゃどこに行っても人が多すぎて狭苦しい国
「中国人が行きたい旅行先アンケート」なんかを見ると、「広々とした北海道に行きたい」とかが上位になってて笑ってしまう といっても、日本の2〜30倍の国土面積に、日本の10倍の人口。
しかも、日本ほど山また山の山岳国家でもないのだから、数字の上ではそこまで狭苦しいはずもないのだが
中国の場合は、ヨーロッパと違って人口が一部の地域に偏っている
とくに華北平原がひどい。
フランスは60万平方キロの国土に6千万人の人口。
華北平原は40万平方キロの平野に人口4億人。
思わず、ウッと吐き気がするほどの密度だ >>837
台湾人も、昔は台湾語をしゃべってた
中国語をしゃべるようになったのは20世紀の後半から >>842
満洲人が典型だが
漢人を征服する民族が漢化する。
日中戦争で勝ってれば
日本も漢化してた。
っと以前に書いたら
ネトウヨがムキになって反論してた。
また火が付くかしらん? >>844
モンゴルの漢化が進まなかったのは
中華以外の文明地域を広く征服してたことと
統治期間が短いからじゃないかな? もし、西洋人が中国を征服しても漢化しなかったと思う スペインとしては
先に日本をキリスト教国化してから
日本人の力を利用して明を征服したかったんじゃないか? 去年放送のNHKスペシャル『戦国?激動の世界と日本』によれば
中国を征服することは、
日本の軍事力によって可能ということを
宣教師がスペインに報告してた。
一方、秀吉も彼らの狙いを熟知してて、
朝鮮出兵の最前線でキリシタン大名を戦わせることで、
彼らの軍事力を消耗させることを狙う。
秀吉は、フィリピンへ密偵を派遣し、
明征服の軍事費をフィリピンから産出される金によって賄うことすら考えていた。
スペインvs日本の世界戦争になるかというところで
フェリペ2世の死去の5日後に秀吉が死去。 現実の中国を見ろ
思いっきり、日本化してるじゃないか 数十年前の中国は、日本とはまるきり別世界だった。
その後の数十年で、急速に日本に似てきた
奈良時代の日本が唐から受けた影響も、これほどではない 七世紀半ばを過ぎ、遣唐使が派遣されていても、
倭国ではまだ中国南北朝文化の影響が強かった
それがわずか50年足らずで、高度な唐風化が達成される
まさに幕末の開国から明治の文明開化までに匹敵する変化が、
同様な速度で行われた
その変化は、これが千年以上前の出来事だったことを考えれば、
明治の西欧化より、はるかに急速だったといっても言い過ぎではないだろう >>850
漢文化は多くの民族の影響を受けてる。
辮髪させたし。
でも満洲語を話せない満洲人になっちゃった。 中国人の商人は、なぜインドや中東方面には行かなかったのだろう?
東アジア・東南アジア諸国には来ているのに 洪武帝はモンゴル風習を排除しようとしたけど、
統治方法は元朝を踏襲してるんじゃないか? >>856
インド洋に進出しない理由はわからない。
東アジア、東南アジアは朝貢交易の形式で、
インド洋は自由商業というイメージがある。 明朝は海賊退治の功績があったポルトガル人にマカオ居住を認め、
毎年500両の地租を課した。
明朝の出先機関が設置されており、あくまでも明の領土のままであった。
マカオが植民地化したのは1887年で遅い。
1847年にカジノを合法化。
今じゃカジノ収益やリゾート面積でラスベガスを抜いて世界一。 >>858
宋代に中国に輸入されたのは、香薬・犀角・象牙・真珠・珊瑚などの
熱帯物産の奢侈品だから、わざわざインドや中東までいかなくても、
東南アジア方面で間に合っていたのかもしれない 明清朝て強力な水軍海軍もってたのだろうか
同時代のスペインとオスマンや南インド諸王国、北イタリア都市国家と海戦して戦える? >>861
海戦は苦手。
倭寇でさんざ苦労し、
鄭氏政権の台湾平定に手こずり、
鄭氏政権から寝返った将軍のおかげでやっと平定。
北洋艦隊は東洋一を誇ったけど日本海軍に叩きのめされる。 >>861
強力な海軍があったら、
ポルトガルやスペイン、オランダ人の好き勝手にさせてないだろう。 鄭和の南海遠征は、結局明の国威発揚だけに終わってしまったのかな 海洋進出に意欲的だったのは、モンゴル帝国と永楽帝だけ
明清帝国は基本的に、日本の江戸幕府と同じで鎖国志向 >>864
うん。
大型船の造り方も忘れ去られてしまった。 中国からインド洋は遠すぎる
そこはアラビア商人の世界
帆船、海図、航海術
アラビア人は独特なものを発達させてきた 鄭和の南海遠征も、アラビア商人のネットワークのおかげで実現した
鄭和がイスラム教徒だからできたこと 他にイラン系シーア派、アルメニア系キリスト教徒、ヒンズー教系、ユダヤ人商人も活躍。
長崎奉行にモール通使というペルシア語通訳もいたんだね。
オランダ東インド会社の収益の7割が長崎貿易だったことがある。
オランダ船が長崎に運んだものの大半が明清の産品。
欧州産物は少なかった。
東インド会社の収益の多くがアジア域内交易の利潤。 明清の物産に対する世界の需要は高く
対価として世界中の銀が明清に集まった。
そのくせ貿易や海運にほとんど関心を持たないという謎。 >>870
「地大物博」という考え方があまりにも強すぎたせいじゃね? >>861
明(14世紀〜15世紀初頭)だと同時代のヨーロッパと言えばハンザコグぐらいしかないので
多分ジャンク船体当たりしてるだけで勝てるぞ 元明清の三代で、
ヨーロッパに大きく遅れをとるようになったのはなぜか 明治維新くらいの時点だと、農業だの音楽だの絵画だのすべての面でヨーロッパが他の世界を
圧倒的に引き離してる >>872
その時代だと、まだバスコ・ダ・ガマが喜望峰回りルートを発見する前だし、もちろんスエズ運河なんか無い
欧州までたどりつけないので、欧州海軍と戦うのは無理
インド洋の制海権を握るアラビア勢が相手になる >>870
広東省や福建省の経済力が大きくなりすぎて、コントロールできなくなるのを恐れたんだな
昔も今もそんなもんだ、北京の権力者なんて ヨーロッパに例えれば、モスクワがスペインやポルトガルを支配して、
自由に貿易できないように抑えつけているという状況
日本の江戸幕府も似たようなものだが 元明どころか清の後期ぐらいにならないとヨーロッパでは到底中国に太刀打ちできないと思うが
ゴンサーレス・デ・メンドーサとか明は本気になれば容易で世界征服を可能とする軍隊を保有と大袈裟な評価をしている
まぁ当時のヨーロッパなんぞ最強陸軍国のスペインですらようやく万単位の常備軍が精々だし 「シナ大王国誌」ゴンサーレス・デ メンドーサ
およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と
射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。
これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。 その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界の
どの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服
することができるであろう、とおもったほどである。 >>879
その割には、隣のオイラートやモンゴルにしょっちゅう攻め込まれてボロボロだったが ゴンサーレス・デ メンドーサの頃の16世紀のオイラト部と言えばアルタン・ハーンに蹂躙されてボロボロ
そのアルタン・ハーンもたびたび戚継光率いる戚家軍に侵入を阻まれ明からの冊封を受け入れるような時代だったから >>876
明清代に、イエズス会の宣教師が西洋の文化を伝えたけれど、
体制を揺るがしかねない思想は排除した
徳川吉宗が洋書の禁を緩め、その後日本で蘭学が盛んになったのとは対照的 銃を発展させないといつまでも北方民族の侵略をふせげない
国の力が強い時は押さえつけることができても、
根本的な解決にはならない >>881
オイラートに代わって、ダヤン・ハーンの再統一によりモンゴルが復活した
たびたび北京を脅かされた 晩年のティムールは、明を征服しようと北京に向かって進軍する途上で陣没した
明にとっては最大の危機だった >>885
英宗は人質になった先で人気者。
エセン・ハーンとお友達になった。
明との交渉材料だからだが、
人柄の良さがあって、会う人たちから好まれる。
その分、権力を得たい悪い連中に利用される。 エセン・ハーンは明の物産が欲しかった。明の物産がないとオイラトの勢力を保てない。
もっと交易してよーー。 茶の木の葉っぱにお湯を注ぐと美味しい飲み物になることを発見した人も
その葉っぱが世界の政治、経済、文化を動かす戦略物資になるとは想像しなかっただろうな。
べらぼうな値段の器が生まれ、
飲み方の作法が高度化し、
飲む為の部屋や建物が設計され、
葉っぱを求めて貿易船が海を超え、
清朝を大いに富まし、
茶税が原因で独立戦争が起き、
手軽に飲めるペットボトルで環境を汚染し、
茶粉入りの緑のアイスクリームが絶品。
まさに悪魔の葉っぱ。 >>886
永楽帝とのガチバトルは見たかったな。
ティムールにとってオスマン帝国との対決があったために
靖難の変に乗じる機会を逸してしまった。 日本ではあまり知られていないけど、明代に、フィリピンでは中国から安価な綿布が
輸入されたため、原住民による綿布生産が衰退してしまった
メキシコにも中国産の生糸が大量に輸出され、スペイン産生糸から
市場を奪ってしまった >>891
日本で中国絹に匹敵できる品質の絹を生産できるようになったのは江戸時代中期。
それまでは中国絹の人気が高かった。
1909年に日本絹の生産量が清を上回り、日本の外貨獲得源として重要となる。 イギリスの産業革命って、ある意味アジアの物産
(インドの綿布)に対する輸入代替工業化の試みだよな >>894
インドの綿布の質が高くて、機械織で対抗できるまで時間がかかった。
インド綿布は日本でも人気で縦縞の着物が粋に見えた。
インドの更紗も陣羽織や小袖、帯などに使われた。 オランダ東インド会社の輸入額の割合で17世紀前半ぐらいまでは香辛料がトップ。
それが1790年に輸入額の54.4%が茶になった。 イギリス東インド会社が英中間貿易を独占し、茶に高い関税(110%)を課してた。
ところがスウェーデンとフランスも広州から茶を輸入してからイギリスに密輸していた。
スウェーデン東インド会社が存続した80年間に行ったアジアへの航海は132回。そのうち129回が広州。輸入額品目の70〜80%が茶。 乾隆帝の時代、当時の西洋諸国、とりわけイギリスの中国貿易は、
量的にきわだって大きかった
だから客観的に見れば、貿易が当時の中国経済全体に及ぼす影響は、
決して小さくなかった
イギリスとの貿易こそが、18世紀後半の中国の好景気拡大、
乾隆の盛世を支えた原動力だといっても過言ではない
それにもかかわらず、当時の中国はそうした対外貿易の価値を認めない、
アウタルキー的な経済観念に染まっていた まあ、地球儀を見回してみても、世界で最も広大で肥沃な温帯の地を占有しているのは、アメリカと中国だな
ロシアは寒すぎるし、インドやブラジルは暑すぎる。日本や欧州は狭い 一条鞭法や地丁銀制は銀が豊富に流通してないと成り立たない。
一方、銀の産地だった日本は銭納から米の物納に退行。 >>899
アルゼンチンはいい線いっていると思わね? >>901
たしかに、アルゼンチンはアメリカ合衆国みたいに発展しても不思議はない地ではある。
なんでダメになったのか?
ブラジルだって、大統領みずから「国民を日本人と総入れ替えすれば、凄い国になる」と自虐発言していたが >>901
1930年以降の政治不安定が響いてる。
クーデターや軍事政権が続いてた。
それでもアルゼンチンは1960年代までは一人当たりGDPがスペイン、イタリア、日本を上回る。 あんな良い土地を占めてるんだから、ある意味、世界の人類に責任を負ってるんだが(笑) >>904
ミュージカル『エビータ』を見て満足しよう。
アルゼンチンへの愛が深まる。
映画版のエビータ役はマドンナだが。 >>898
中国船が欧米まで航海してないよね?
物流を制する者、船を持つ者が覇権を握る時代なのを理解できなかった。
商業軽視、物流軽視は儒教の悪弊。 中国とインドの貿易でさえ、アラビア商人がやっていた >>906
情報も軽視していた
「彼を知り己を知れば、百戦あやうからず」
という孫子の知恵を、清代の中国人は発揮できなかった
清朝官僚の中から外国語および外国事情を学習する者はついに出なかった
英語・外国文化の学習は、公行や一部の華僑によって行われただけ 日本も朱印船貿易止めちゃった。
止めずに世界に日本人町をもっと作っておけばよかった。
自国で船を仕立てずに
長崎に外国船が来るのを黙って見るだけ。 >>909
薩摩藩は、それでも琉球を取りに行ったけどな
それくらいが限界だったようだ でも日本は鎖国していても海外の情報は収集していたんだよな >>912
オランダ風説書なんかオランダの都合にいい情報しか入らないじゃん。
オランダ本国が征服されてても長崎にだけオランダ国旗がかかってたり、
英語の重要性に気付くのが遅くて蘭語ばっかり勉強してたり。 >>913
長崎のオランダ商館はアメリカ合衆国の船を雇ってオランダ船として入港させてたりする。
黒船より数十年前からアメリカ船が長崎に来ていた。 >>898
>イギリスとの貿易こそが、18世紀後半の中国の好景気拡大、
>乾隆の盛世を支えた原動力だといっても過言ではない
こんなバカが世界板に平気で書き込む時代なんだな
世界史の授業の時寝てたでしょ?イギリスが三角貿易を始めた理由をググって調べてみたら 貿易でもうけてたとかいう話よりも、清でどんな技術的進歩があったんだ? 日本から清へは、銀や銅の他に
いりなまこ、アワビ、フカヒレ、昆布、鰹節なんかが売れた。
中華料理が美味しくなった。 北海道の海産物を、清への輸出商品として開発した
田沼意次は偉かった >>919
石見銀山などの産出量が激減しちゃって
金銀を輸出できなくなってたからね。 足尾銅山や別子銅山などがあって
銅はまだ輸出できた。
清は銅銭の鋳造に大量に銅を必要としてた。
昔の日本は世界的な金銀銅の生産地。
今はみんな枯渇。硫黄と石灰ぐらいしか。 >>917
技術力は重要だが、巨大な市場に何を売るかがもっと重要。
イギリスの機械織りの綿布は清に売れなかった。清の綿布に負けた。産業革命の技術はまだ通用しなかった。
銀がイギリスから清へ流れるばかりになった。
そこでイギリスはアヘンに目をつける。 ロシアは清とキャフタ貿易で毛皮を売って茶を買ってた。
アメリカ船が広州にやって来るようになると
毛皮市場もアメリカに圧倒され始める。
そこでロシアも船で広東に毛皮を輸送しようと計画した。実現しなかったが。 現在のインドは合法アヘンの最大のいや唯一の輸出国。
正規の医薬品の原料として需要が高い。
日本に輸送する際の警戒ぶりが凄い。どの船に載せてるかすら超極秘。 日清戦争における黄海海戦は、世界最初の汽走艦隊の海戦だったんだよな ヌルハチは後金のハンとして氏族名をアイシンギョロと名乗ったが、
金の皇室直系ではなくても傍系の完顔氏も有力部族長で残ってた。
完顔氏とすれば、元を正せば成り上がりの何処の馬の骨ともしれない
新興部族長が金の氏族と名乗っているなんかプゲラだったんだろうな。
他にも、耶律氏の後裔の伊拉里だって女真族の有力部族長として残ってた。
これらの遼や金の宗室の末裔は金の時代の渤海の王族の末裔の大氏の様な扱いだったのかな。 >>928
最近、日本人と朝鮮人の見分けがつかなくて困っている また、サッカーの日韓戦でケガ人が出たな
冨安健洋は韓国選手のヒジ打ちで前歯が折れて流血
ボールを奪い合うような場面でなく、不可解な行為だった。
韓国との試合ではいつものことだが こういう事件が起きるたび、「韓国選手は日本にライバル意識を燃やしているから」という説明がなされるが、そういう問題ではない
代表戦でもリーグ戦でも、韓国選手との試合でケガ人が多いのは世界的に有名で問題視されている 元の中国支配は100年もたなかったのに対し、清は300年近い命脈を保ったな 明朝で、皇帝専制体制が確立された。
皇帝は日頃は引きこもりで遊び呆けていても、その気になれば大臣をいつでもクビにできるほどの絶対権力を手に入れた
それに加えて清朝では、仕事熱心な実力皇帝が続いたのだから体制が強いに決まっている
欧米列強や日本に揺さぶられなければ、もっとずっと長く続いたのではないか モンゴル族の元、女真族の金、清、
今の中華人民共和国だけでなく
北虜南倭に苦しめられた明ですら大半は首都が
北京であった 万里の長城の真南が首都で
良いなら日本の都が太宰府の近くの博多や小倉、
下関でも良いだろう
いや実は中原の漢族にとって北方交易は
魅力的だったから万里の長城はあまり意味
なかったのではないか?普通、あれだけ
攻められて北京のままはあり得ない 明朝が築いた長城は、北京を重点的に防衛するようにできている
清朝では北方民族の脅威がなくなった (ロシアを除く) >>934
1616年〜1912年の296年間
1368年〜1644年の276年間
対して変わらん。
遊んでた方がいい。 清はデカすぎて防衛できないのが気の毒だった
外国を突っぱねて追い返してもキリがない
どのみち戦争するか条約するかしかなかった >元の中国支配は100年もたなかった
明に負けた北元はそれでも中華皇帝の印璽を保持し続け(のち後金の太宗に献上し降伏)
独自のハーンを建てカラコルムを支配した後元(ハルハ部)がジュンガル帝国に滅ぼされたのは1688年
すでに明も南明も後明(鄭氏台湾)も存在しなかった >>937
自分だけと自覚してりならつまらんこと書き込むな。 チョンの鼻の穴の形はドリルであけた様なまん丸。
https://www.google.com/search?q=%E9%BC%BB%E3%81%AE%E7%A9%B4+%E5%BD%A2+%E4%B8%B8%E3%81%84&sa=X&ved=2ahUKEwivrKDe2tLvAhWGHXAKHS_SDJYQ1QIwIXoECCkQAQ&biw=600&bih=960&dpr=2
日本人は団子鼻気味で整形の対象となる人でも長円形。
https://www.google.com/search?q=%E9%BC%BB%E3%81%AE%E7%A9%B4+%E5%BD%A2&tbm=isch&prmd=isvn&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwiQ5Lao3NLvAhXbAYgKHf20CsoQ_AUIFygB&biw=600&bih=960&dpr=2 ざっとスレを見たけど、20年以上飽きもせず
金太郎飴な嫌韓ネタやってるジャイアンだけ浮いてるよなw
日本人ヘイトネタも同じ奴がやってるみたいだけど
こいつら一体どこの回し者なんだ? 20年前といったら世界史板全盛期の頃だが
その時代は隙あらば中韓叩きを始める政治厨とかまずいなかったな
まぁそれだけ日本が貧しくなったということだろう 日本sage厨がいなかっただろ、その頃は
在日が追い込まれてるんじゃないか 20年前にも嫌韓はいたが、日本ヘイトはここ数年のような気がするんだよなあ 街歩いてると若い奴らが朝鮮人に見える
化粧してんのか色白でピチピチのズボンはいて 別に日本がそんなに素晴らしいと思ってるわけじゃないんだが、妙に必死で日本サゲするキモい奴を見ると、朝鮮人への怒りがフツフツとわいてくる
ふだんはキムチも食べるし、韓国のことなど特に考えることもないんだが >>957
ここは日本だ
調子に乗って日本人を煽ってると、そのうち酷い目に合うぞ 日本とはなんだ?
エロ産業の街宣車が大音量で走り回る国のことだな
それがどうした? これ日本人らしいぞ
朝鮮人と何が違うか全く分からない
://i.imgur.com/vQkb8Wx.jpg
://i.imgur.com/DVD1Bfc.jpg >>940
中国ドラマ「康熙王朝」で
「お前たちは先祖の夢が忘れられず再び大都(北京)に攻めこむ気か」
と清の皇帝に言われる蒙古の使者が後元
北元の皇帝は途中でフビライ・ハーンの血筋から換わってしまったからな 明の体制は、皇帝独裁による専制的中央集権制度であり、
皇帝の地位は、中国史上、比類のない高さににまで押し上げられた
大臣たちもその前では立つことを許されず、跪いて謁見しなければならなかった 皇帝の座に誰かが座っていればいいのか?
明の英宗がオイラトの捕虜になると、さっさと弟を即位させる。
オイラトは英宗を人質に要求を出すが、明は知らん顔。
元皇帝に何の価値もないし。
やむなくオイラトは無条件で英宗を送り返す。
明側は余計なものを返されて困惑。
やむなく拘禁しておいた。
元気な現皇帝だけが大事、元皇帝はゴミ扱い。
弟帝が病に伏すと、元皇帝を担ぎ出す連中が現れる。
弟帝を閉じ込め、病死させる。
皇帝の座には元気な人を座らせておけばいいらしいな。 上皇になってからが本番の日本とは異なり、明では基本的に、退位したら過去の人
オイラートの捕虜から戻ってきた元皇帝は特殊な事例で例外 >>959
南チョンはなんだ。世界中に売春輸出し、9cmチンポのチョン野郎はレイプ犯罪を繰り返す。 >>965
弟の景泰帝の立場からしたら、兄の英宗は明に帰還して欲しくなかっただろうな。
時代は遡るが、南宋の高宗は、靖康の変で金に連れ去られた兄の欽宗の帰還計画が持ち上がった際、遠回しに抑留継続を金に対して要望したそうだな。 >>971
皇帝になれるかなれないかで天地の差。
康熙帝の息子たちで繰り広げた九王奪嫡なんて敗者たちは最悪拷問や獄死。
息子たちがみんな優秀で才を有してたが故に有力満洲貴族や官僚派閥等の諸勢力を巻き込んだ熾烈な跡目争いとなった。
>>972
謝謝。 明代の日本は、現代でいえばソマリアみたいなものかな
国が分裂して内戦状態だし、海賊は出るし >>974
実質的な全国統一政府がないという意味ではYes。
「海賊」認定は明の一方的認識。
商取引を主業とする武装した商船じゃないか。
ポルトガル、スペイン、オランダ等の船団の所業の方が情け容赦なしの海賊だわ。 >>976
後期倭寇で真倭はほとんどおらず偽倭みたいだが、
初期は南朝方の菊池氏や肥前の松浦党(松浦氏)じゃないかという説がある。 >>973
中華ドラマのジャクギが
九王奪嫡を背景にしたストーリーだった。
皇子たちが皆イケメンで、揃ってヒロインに求愛するというぶっ飛んだストーリーが面白かった。 ジャクギは、大河ドラマの「康熙王朝」や「雍正王朝」を見てたおかげで、九王奪嫡の経緯をよく知っていた
そのせいで、ますます皇子たちの争いに深く巻き込まれ、板ばさみになる・・・という話だった 中国人は、「皇帝の跡目を巡る兄弟の争い」というテーマがよほど好きなようだ
唐の太宗と、清の雍正帝はもはや時代劇に欠かせないスーパースター 明代後期の倭寇の大部分は江蘇、浙江、福建、広東沿海居住の住民だった >>975
それは屁理屈も良いとこだな
太平記の「欲心強盛の溢物」を見ても分かる通り倭寇は当時の日本人の眼から見ても賊に他ならないぞ
大体一番倭寇の被害を被ったのはとうの日本人自身だからな >>985
別に、「日本人の海賊はいなかった」とは誰も言ってないだろ(笑)
いいから、さっさと祖国に帰って臭いキムチ喰ってろ 日本人がアメリカとフランスで襲われてるな
間違われてじゃなくてアジア人だからって理由で
まあ確かに朝鮮人と日本人は同一民族だが、さすがに東南アジアとは違うだろと言いたいわ >>987
悪いことばかりしてると、来世は朝鮮人に生まれるぞ >>989
その猿に慰安婦を献上してたのがお前ら(笑) 明清帝国に献上する貢女を集めるのが、朝鮮国王の任務だった 毎年、明に献上する貢女を集める時期になると、朝鮮全土に泣きわめく声が満ちた
朝鮮国王はそれをビシビシ取り締まった
豊臣秀吉の日本軍が攻めてくると、朝鮮国王は首都を捨てて逃亡した。
国王を深く恨んでいた民衆は王宮を焼き討ちして略奪の限りを尽くした >>984
チャイナがその辺だけから成り立つ国ならアジアで共存共栄できそうなのに
貧しい華北が常に統一圧力かけてくる >>996
東アジアがヨーロッパみたいな地形だったらよかったのにな 松浦党は元寇に対する報復で高麗へ侵攻。海賊行為ではなく報復行為。 このスレッドは1000を超えました。
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