明清帝国 第三
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
現実の中国を見ろ
思いっきり、日本化してるじゃないか 数十年前の中国は、日本とはまるきり別世界だった。
その後の数十年で、急速に日本に似てきた
奈良時代の日本が唐から受けた影響も、これほどではない 七世紀半ばを過ぎ、遣唐使が派遣されていても、
倭国ではまだ中国南北朝文化の影響が強かった
それがわずか50年足らずで、高度な唐風化が達成される
まさに幕末の開国から明治の文明開化までに匹敵する変化が、
同様な速度で行われた
その変化は、これが千年以上前の出来事だったことを考えれば、
明治の西欧化より、はるかに急速だったといっても言い過ぎではないだろう >>850
漢文化は多くの民族の影響を受けてる。
辮髪させたし。
でも満洲語を話せない満洲人になっちゃった。 中国人の商人は、なぜインドや中東方面には行かなかったのだろう?
東アジア・東南アジア諸国には来ているのに 洪武帝はモンゴル風習を排除しようとしたけど、
統治方法は元朝を踏襲してるんじゃないか? >>856
インド洋に進出しない理由はわからない。
東アジア、東南アジアは朝貢交易の形式で、
インド洋は自由商業というイメージがある。 明朝は海賊退治の功績があったポルトガル人にマカオ居住を認め、
毎年500両の地租を課した。
明朝の出先機関が設置されており、あくまでも明の領土のままであった。
マカオが植民地化したのは1887年で遅い。
1847年にカジノを合法化。
今じゃカジノ収益やリゾート面積でラスベガスを抜いて世界一。 >>858
宋代に中国に輸入されたのは、香薬・犀角・象牙・真珠・珊瑚などの
熱帯物産の奢侈品だから、わざわざインドや中東までいかなくても、
東南アジア方面で間に合っていたのかもしれない 明清朝て強力な水軍海軍もってたのだろうか
同時代のスペインとオスマンや南インド諸王国、北イタリア都市国家と海戦して戦える? >>861
海戦は苦手。
倭寇でさんざ苦労し、
鄭氏政権の台湾平定に手こずり、
鄭氏政権から寝返った将軍のおかげでやっと平定。
北洋艦隊は東洋一を誇ったけど日本海軍に叩きのめされる。 >>861
強力な海軍があったら、
ポルトガルやスペイン、オランダ人の好き勝手にさせてないだろう。 鄭和の南海遠征は、結局明の国威発揚だけに終わってしまったのかな 海洋進出に意欲的だったのは、モンゴル帝国と永楽帝だけ
明清帝国は基本的に、日本の江戸幕府と同じで鎖国志向 >>864
うん。
大型船の造り方も忘れ去られてしまった。 中国からインド洋は遠すぎる
そこはアラビア商人の世界
帆船、海図、航海術
アラビア人は独特なものを発達させてきた 鄭和の南海遠征も、アラビア商人のネットワークのおかげで実現した
鄭和がイスラム教徒だからできたこと 他にイラン系シーア派、アルメニア系キリスト教徒、ヒンズー教系、ユダヤ人商人も活躍。
長崎奉行にモール通使というペルシア語通訳もいたんだね。
オランダ東インド会社の収益の7割が長崎貿易だったことがある。
オランダ船が長崎に運んだものの大半が明清の産品。
欧州産物は少なかった。
東インド会社の収益の多くがアジア域内交易の利潤。 明清の物産に対する世界の需要は高く
対価として世界中の銀が明清に集まった。
そのくせ貿易や海運にほとんど関心を持たないという謎。 >>870
「地大物博」という考え方があまりにも強すぎたせいじゃね? >>861
明(14世紀〜15世紀初頭)だと同時代のヨーロッパと言えばハンザコグぐらいしかないので
多分ジャンク船体当たりしてるだけで勝てるぞ 元明清の三代で、
ヨーロッパに大きく遅れをとるようになったのはなぜか 明治維新くらいの時点だと、農業だの音楽だの絵画だのすべての面でヨーロッパが他の世界を
圧倒的に引き離してる >>872
その時代だと、まだバスコ・ダ・ガマが喜望峰回りルートを発見する前だし、もちろんスエズ運河なんか無い
欧州までたどりつけないので、欧州海軍と戦うのは無理
インド洋の制海権を握るアラビア勢が相手になる >>870
広東省や福建省の経済力が大きくなりすぎて、コントロールできなくなるのを恐れたんだな
昔も今もそんなもんだ、北京の権力者なんて ヨーロッパに例えれば、モスクワがスペインやポルトガルを支配して、
自由に貿易できないように抑えつけているという状況
日本の江戸幕府も似たようなものだが 元明どころか清の後期ぐらいにならないとヨーロッパでは到底中国に太刀打ちできないと思うが
ゴンサーレス・デ・メンドーサとか明は本気になれば容易で世界征服を可能とする軍隊を保有と大袈裟な評価をしている
まぁ当時のヨーロッパなんぞ最強陸軍国のスペインですらようやく万単位の常備軍が精々だし 「シナ大王国誌」ゴンサーレス・デ メンドーサ
およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と
射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。
これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。 その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界の
どの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服
することができるであろう、とおもったほどである。 >>879
その割には、隣のオイラートやモンゴルにしょっちゅう攻め込まれてボロボロだったが ゴンサーレス・デ メンドーサの頃の16世紀のオイラト部と言えばアルタン・ハーンに蹂躙されてボロボロ
そのアルタン・ハーンもたびたび戚継光率いる戚家軍に侵入を阻まれ明からの冊封を受け入れるような時代だったから >>876
明清代に、イエズス会の宣教師が西洋の文化を伝えたけれど、
体制を揺るがしかねない思想は排除した
徳川吉宗が洋書の禁を緩め、その後日本で蘭学が盛んになったのとは対照的 銃を発展させないといつまでも北方民族の侵略をふせげない
国の力が強い時は押さえつけることができても、
根本的な解決にはならない >>881
オイラートに代わって、ダヤン・ハーンの再統一によりモンゴルが復活した
たびたび北京を脅かされた 晩年のティムールは、明を征服しようと北京に向かって進軍する途上で陣没した
明にとっては最大の危機だった >>885
英宗は人質になった先で人気者。
エセン・ハーンとお友達になった。
明との交渉材料だからだが、
人柄の良さがあって、会う人たちから好まれる。
その分、権力を得たい悪い連中に利用される。 エセン・ハーンは明の物産が欲しかった。明の物産がないとオイラトの勢力を保てない。
もっと交易してよーー。 茶の木の葉っぱにお湯を注ぐと美味しい飲み物になることを発見した人も
その葉っぱが世界の政治、経済、文化を動かす戦略物資になるとは想像しなかっただろうな。
べらぼうな値段の器が生まれ、
飲み方の作法が高度化し、
飲む為の部屋や建物が設計され、
葉っぱを求めて貿易船が海を超え、
清朝を大いに富まし、
茶税が原因で独立戦争が起き、
手軽に飲めるペットボトルで環境を汚染し、
茶粉入りの緑のアイスクリームが絶品。
まさに悪魔の葉っぱ。 >>886
永楽帝とのガチバトルは見たかったな。
ティムールにとってオスマン帝国との対決があったために
靖難の変に乗じる機会を逸してしまった。 日本ではあまり知られていないけど、明代に、フィリピンでは中国から安価な綿布が
輸入されたため、原住民による綿布生産が衰退してしまった
メキシコにも中国産の生糸が大量に輸出され、スペイン産生糸から
市場を奪ってしまった >>891
日本で中国絹に匹敵できる品質の絹を生産できるようになったのは江戸時代中期。
それまでは中国絹の人気が高かった。
1909年に日本絹の生産量が清を上回り、日本の外貨獲得源として重要となる。 イギリスの産業革命って、ある意味アジアの物産
(インドの綿布)に対する輸入代替工業化の試みだよな >>894
インドの綿布の質が高くて、機械織で対抗できるまで時間がかかった。
インド綿布は日本でも人気で縦縞の着物が粋に見えた。
インドの更紗も陣羽織や小袖、帯などに使われた。 オランダ東インド会社の輸入額の割合で17世紀前半ぐらいまでは香辛料がトップ。
それが1790年に輸入額の54.4%が茶になった。 イギリス東インド会社が英中間貿易を独占し、茶に高い関税(110%)を課してた。
ところがスウェーデンとフランスも広州から茶を輸入してからイギリスに密輸していた。
スウェーデン東インド会社が存続した80年間に行ったアジアへの航海は132回。そのうち129回が広州。輸入額品目の70〜80%が茶。 乾隆帝の時代、当時の西洋諸国、とりわけイギリスの中国貿易は、
量的にきわだって大きかった
だから客観的に見れば、貿易が当時の中国経済全体に及ぼす影響は、
決して小さくなかった
イギリスとの貿易こそが、18世紀後半の中国の好景気拡大、
乾隆の盛世を支えた原動力だといっても過言ではない
それにもかかわらず、当時の中国はそうした対外貿易の価値を認めない、
アウタルキー的な経済観念に染まっていた まあ、地球儀を見回してみても、世界で最も広大で肥沃な温帯の地を占有しているのは、アメリカと中国だな
ロシアは寒すぎるし、インドやブラジルは暑すぎる。日本や欧州は狭い 一条鞭法や地丁銀制は銀が豊富に流通してないと成り立たない。
一方、銀の産地だった日本は銭納から米の物納に退行。 >>899
アルゼンチンはいい線いっていると思わね? >>901
たしかに、アルゼンチンはアメリカ合衆国みたいに発展しても不思議はない地ではある。
なんでダメになったのか?
ブラジルだって、大統領みずから「国民を日本人と総入れ替えすれば、凄い国になる」と自虐発言していたが >>901
1930年以降の政治不安定が響いてる。
クーデターや軍事政権が続いてた。
それでもアルゼンチンは1960年代までは一人当たりGDPがスペイン、イタリア、日本を上回る。 あんな良い土地を占めてるんだから、ある意味、世界の人類に責任を負ってるんだが(笑) >>904
ミュージカル『エビータ』を見て満足しよう。
アルゼンチンへの愛が深まる。
映画版のエビータ役はマドンナだが。 >>898
中国船が欧米まで航海してないよね?
物流を制する者、船を持つ者が覇権を握る時代なのを理解できなかった。
商業軽視、物流軽視は儒教の悪弊。 中国とインドの貿易でさえ、アラビア商人がやっていた >>906
情報も軽視していた
「彼を知り己を知れば、百戦あやうからず」
という孫子の知恵を、清代の中国人は発揮できなかった
清朝官僚の中から外国語および外国事情を学習する者はついに出なかった
英語・外国文化の学習は、公行や一部の華僑によって行われただけ 日本も朱印船貿易止めちゃった。
止めずに世界に日本人町をもっと作っておけばよかった。
自国で船を仕立てずに
長崎に外国船が来るのを黙って見るだけ。 >>909
薩摩藩は、それでも琉球を取りに行ったけどな
それくらいが限界だったようだ でも日本は鎖国していても海外の情報は収集していたんだよな >>912
オランダ風説書なんかオランダの都合にいい情報しか入らないじゃん。
オランダ本国が征服されてても長崎にだけオランダ国旗がかかってたり、
英語の重要性に気付くのが遅くて蘭語ばっかり勉強してたり。 >>913
長崎のオランダ商館はアメリカ合衆国の船を雇ってオランダ船として入港させてたりする。
黒船より数十年前からアメリカ船が長崎に来ていた。 >>898
>イギリスとの貿易こそが、18世紀後半の中国の好景気拡大、
>乾隆の盛世を支えた原動力だといっても過言ではない
こんなバカが世界板に平気で書き込む時代なんだな
世界史の授業の時寝てたでしょ?イギリスが三角貿易を始めた理由をググって調べてみたら 貿易でもうけてたとかいう話よりも、清でどんな技術的進歩があったんだ? 日本から清へは、銀や銅の他に
いりなまこ、アワビ、フカヒレ、昆布、鰹節なんかが売れた。
中華料理が美味しくなった。 北海道の海産物を、清への輸出商品として開発した
田沼意次は偉かった >>919
石見銀山などの産出量が激減しちゃって
金銀を輸出できなくなってたからね。 足尾銅山や別子銅山などがあって
銅はまだ輸出できた。
清は銅銭の鋳造に大量に銅を必要としてた。
昔の日本は世界的な金銀銅の生産地。
今はみんな枯渇。硫黄と石灰ぐらいしか。 >>917
技術力は重要だが、巨大な市場に何を売るかがもっと重要。
イギリスの機械織りの綿布は清に売れなかった。清の綿布に負けた。産業革命の技術はまだ通用しなかった。
銀がイギリスから清へ流れるばかりになった。
そこでイギリスはアヘンに目をつける。 ロシアは清とキャフタ貿易で毛皮を売って茶を買ってた。
アメリカ船が広州にやって来るようになると
毛皮市場もアメリカに圧倒され始める。
そこでロシアも船で広東に毛皮を輸送しようと計画した。実現しなかったが。 現在のインドは合法アヘンの最大のいや唯一の輸出国。
正規の医薬品の原料として需要が高い。
日本に輸送する際の警戒ぶりが凄い。どの船に載せてるかすら超極秘。 日清戦争における黄海海戦は、世界最初の汽走艦隊の海戦だったんだよな ヌルハチは後金のハンとして氏族名をアイシンギョロと名乗ったが、
金の皇室直系ではなくても傍系の完顔氏も有力部族長で残ってた。
完顔氏とすれば、元を正せば成り上がりの何処の馬の骨ともしれない
新興部族長が金の氏族と名乗っているなんかプゲラだったんだろうな。
他にも、耶律氏の後裔の伊拉里だって女真族の有力部族長として残ってた。
これらの遼や金の宗室の末裔は金の時代の渤海の王族の末裔の大氏の様な扱いだったのかな。 >>928
最近、日本人と朝鮮人の見分けがつかなくて困っている また、サッカーの日韓戦でケガ人が出たな
冨安健洋は韓国選手のヒジ打ちで前歯が折れて流血
ボールを奪い合うような場面でなく、不可解な行為だった。
韓国との試合ではいつものことだが こういう事件が起きるたび、「韓国選手は日本にライバル意識を燃やしているから」という説明がなされるが、そういう問題ではない
代表戦でもリーグ戦でも、韓国選手との試合でケガ人が多いのは世界的に有名で問題視されている 元の中国支配は100年もたなかったのに対し、清は300年近い命脈を保ったな 明朝で、皇帝専制体制が確立された。
皇帝は日頃は引きこもりで遊び呆けていても、その気になれば大臣をいつでもクビにできるほどの絶対権力を手に入れた
それに加えて清朝では、仕事熱心な実力皇帝が続いたのだから体制が強いに決まっている
欧米列強や日本に揺さぶられなければ、もっとずっと長く続いたのではないか モンゴル族の元、女真族の金、清、
今の中華人民共和国だけでなく
北虜南倭に苦しめられた明ですら大半は首都が
北京であった 万里の長城の真南が首都で
良いなら日本の都が太宰府の近くの博多や小倉、
下関でも良いだろう
いや実は中原の漢族にとって北方交易は
魅力的だったから万里の長城はあまり意味
なかったのではないか?普通、あれだけ
攻められて北京のままはあり得ない 明朝が築いた長城は、北京を重点的に防衛するようにできている
清朝では北方民族の脅威がなくなった (ロシアを除く) >>934
1616年〜1912年の296年間
1368年〜1644年の276年間
対して変わらん。
遊んでた方がいい。 清はデカすぎて防衛できないのが気の毒だった
外国を突っぱねて追い返してもキリがない
どのみち戦争するか条約するかしかなかった >元の中国支配は100年もたなかった
明に負けた北元はそれでも中華皇帝の印璽を保持し続け(のち後金の太宗に献上し降伏)
独自のハーンを建てカラコルムを支配した後元(ハルハ部)がジュンガル帝国に滅ぼされたのは1688年
すでに明も南明も後明(鄭氏台湾)も存在しなかった >>937
自分だけと自覚してりならつまらんこと書き込むな。 チョンの鼻の穴の形はドリルであけた様なまん丸。
https://www.google.com/search?q=%E9%BC%BB%E3%81%AE%E7%A9%B4+%E5%BD%A2+%E4%B8%B8%E3%81%84&sa=X&ved=2ahUKEwivrKDe2tLvAhWGHXAKHS_SDJYQ1QIwIXoECCkQAQ&biw=600&bih=960&dpr=2
日本人は団子鼻気味で整形の対象となる人でも長円形。
https://www.google.com/search?q=%E9%BC%BB%E3%81%AE%E7%A9%B4+%E5%BD%A2&tbm=isch&prmd=isvn&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwiQ5Lao3NLvAhXbAYgKHf20CsoQ_AUIFygB&biw=600&bih=960&dpr=2 ざっとスレを見たけど、20年以上飽きもせず
金太郎飴な嫌韓ネタやってるジャイアンだけ浮いてるよなw
日本人ヘイトネタも同じ奴がやってるみたいだけど
こいつら一体どこの回し者なんだ? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。