【ソクラテス】西洋哲学【プラトン】
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主に西洋思想全般を語るスレ ギリシャ哲学、共産主義、実存主義、ドイツ観念論、ポストモダンなど 哲学板はダメだな メチャクチャに荒らされててまともな状態じゃない 大陸合理論とイギリス経験論の融合を分かり易く説明してくれ タレス フランスの大手電機企業で、名の由来は哲学者。 新プラトン主義が西欧の思想史に与えた影響の大きさ。半端ない。 もはや国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。国を開くことは私の中に流れる一貫した哲学 哲学に答えはない。 あれば哲学の問題ではなく別の分野の問題。 アリストテレス抜きにキリスト教の教理って成立するんだろうか。 何で他のプラトンの書物が削り取られ再利用される中(削り方が雑だから後に修復可能になったけど) 中世ヨーロッパの人がキリスト教以前の人物としては例外的に認めていたキケロが「わけわからん対話編」とこきろおしていたティマイオスだけ残ってたの? おれっちがキケロを超えてみせるぜ! おれっち天才。うひゃひゃ! >ティマイオスだけ残ってたの? キリスト教に対するグノーシス主義の影響だろう。 月と円盤は同じ大きさと言ったのはエピクロスだったかな?これって天体望遠鏡や人工衛星の無かった時代では論破不可能だよね? >>17 いやいや、そんなことはない 月がかなり遠いところにあるってことくらいは、古代ギリシャ人には分かっていた。 実際、地球と月の距離を計算する試みは、いろいろとなされていた >>15 演説の天才・ドナルドトランプはすでにキケロを超えた >>13 成り立つことは成り立つが、教義内容が非常に乏しくなるのは避けられない >>18 ほほう、月と地球の距離を計算した人がいたのか。どれだけ正確かはさておき、計算してみようって姿勢がすごいよな >>21 月食が地球の影による現象だというのは分かっていたので、それを元に大きさと距離を推測した 現代の科学から見れば、月の大きさ・地球からの距離とも、あまりにも過小評価していたが 「日時計の影の長さの変化」を観察することが、古代の天文学者が地球と太陽の位置関係を考える上での重要な手がかりだった ギリシャだけでなく、漢にも、地球と太陽の距離を計算した天文学者がいた。 なぜか、それでも「地球は球体」という考えには至らず、地球平面説だったのだが 古代ギリシャの哲学者には、「地球は球体である」という事実がすでに知られていた なぜか、中世ヨーロッパではこれが退行する 日蓮の弟子の日持は大陸へ渡る際こう言い残したそうな。「この円の世界を旅して来る」と。人間同士や様々な生き物同士が支え合う様子を円の世界に例えたのだろうか?それとも地球が丸い事を知っていたのか? >>26 その頃の日本人や中国人が、地球球体説を知っていたとは考えにくい。 織田信長や豊臣秀吉は、南蛮から渡来した地球儀を所有しており、世界情勢をよく認識していた。 江戸時代に入り、コチコチな儒者の林羅山が地球方形説を主張したおかげで、地球球体説は再び衰退した。 >>27 そうかあ、円の世界を旅する云々は何か仏教的な意味合いかも知れないね >>24 でもそのアリスタルコスのその地動説について触れた著書は燃やされずに残っていた不思議 アナクサゴラスは、「太陽は燃え盛る巨大な石の塊であり、ペロポネソス半島よりも大きい」という説を唱えたおかげで、太陽神アポロンに対する不敬罪に問われた >>13 余裕 西欧にアリストテレスが再導入されたのは12世紀 それまでは教父たちを通して間接的にか、せいぜいボエティウスのいくつかの翻訳があった程度 それまでにはキリスト教教理はほぼ完成している そもそもアリストテレスはプラトンよりもマイナー哲学者と見なされてたので仮にアリストテレスがそれ以前に伝わっていても影響は少なかったであろう アリストテレスが俄然重視されるようになるのはイスラーム圏においてから アリストテレス直系ペリパトス派の哲学者はアレクサンドロスあたりが最後で、それ以降のテミスティオスやピロポノス、シンプリキオスなんかみんな(ネオ・)プラトニスト 上記のボエティウスもプラトニスト アリストテレスはプラトンのサブとして学ばれただけ 専門分野が数学・物理学のプラトンとは異なり、アリストテレスの本業は生物学。 アリストテレスの最大の功績は、「生物の分類」を始めたこと。 これが科学の基礎になった。 アリストテレスの『動物誌』では動物分類は次のようになる 1、有血動物 胎生 人類 胎生四足類 鯨類 卵胎生 軟骨魚類 卵生 鳥類 卵生四足類 無足類 不完全卵生 魚類 2、無血動物 不完全卵生 軟体類 軟殻類 蛆生あるいは自然発生 有節類 無性生殖または自然発生 殻は類 その他 アリストテレスの権威が絶対とされた中世は、この動物分類が支配的であった 中世イスラムでは、知識人といえば医者だった 医者は生物学に興味があるので、アリストテレスが好まれた 物理学をやってる人には、宇宙の神秘に魅せられ、神秘主義者になる人が多い その点、生物学者は現実主義のカタマリだ 「生命の神秘が・・・」というような人もたまにはいるが、たいていの場合、そうはならない プラトンとアリストテレスの個性の違いは、ここに由来する プラトンの「イデア」で、典型的な例は三角形 現実の三角形は、オニギリにしろ、山にしろ、人間が描いたものにしろ、必ずドコかが歪んでいる。 完全な三角形は、イデア界にある。 つまるところ、イデアとは、人間の意識の中にある「観念」。 このため、デカルト以降は(というより、中世の後期あたりからは)、イデアといえば「観念」を意味するようになった。 現実主義者のアリストテレスは、どこかにある「イデア界」の存在など信じられなかった。 アリストテレスは、代わりに「形相(エイドス)」を唱えた。 犬には犬の形相、猫には猫の形相がある。形相はどこか他の世界にあるのではなく、犬や猫といった個別存在と不可分に存在しているという。 つまるところ、これは人間が分類して付けた「名前」。 このため、中世以降は、アリストテレスは「唯名論の祖」とされるようになる。 アリストテレスは唯名論とも実念論とも関係ないがな 後代の勝手な当てはめにすぎない 古代ギリシャで最初の哲学者は誰か。 それは古来から決まっていて、異論がない。 タレスだ。 ソクラテスとプラトンのおかげで、ギリシャ哲学といえばアテナイのイメージが強いわけだが、 初期のタレスたちはイオニアの人。 イオニアというのは、今でいうトルコの地中海沿岸だ。 ここは、古代にはギリシャ人の植民地だった。 第一次世界大戦の直後に、ギリシャは「ここは、元はといえば俺たちの国土なのだ」と主張して トルコと戦争し、ムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北した。 イオニア(古代ギリシア語:Ιωνία)とは、エーゲ海に面した、アナトリア半島(現・トルコ)南西部に古代に存在した地方のことである。近くにスミルナ(現・イズミル)があった。 アナトリア半島にはイオニア人(古代ギリシア人を構成する1集団)が植民(でなければ、少なくとも支配)した様々な都市国家があり、それらで構成されたイオニア同盟の、北の地域を指す。 http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/B/BungeiBaicai/20150930/20150930175741.jpg >古代ギリシャで最初の哲学者は誰か。 タレス「だれっす?」 グノーシスとかも元を辿るとギリシャの霊的二元論の思想が源流にあって、さらにそれを辿るとピタゴラスの宗教結社の密議的な思想が発端と行きつくらしい プラトンもその思想に影響を受けてたらしいが、後に霊的二元論はヘレニズムの一神教の文化あい混ざってグノーシスに進化してったとのこと ディオゲネス・ラエルティオスはギリシア哲学の起源を、アナクシマンドロスから始まるイオニア学派(厳密にはミレトス学派)と、ピタゴラスから始まるイタリア学派(ピタゴラス教団のこと)に大別し、 ソクラテス(ソクラテス学派)やプラトン(古アカデメイア学派)は前者の系譜で、パルメニデス、ゼノン(ともにエレア派)、エピクロス(エピクロス学派)らは後者の系譜であると主張している。 世間の一般人は通常、「古代ギリシャ哲学」というと、現代のギリシャ共和国を思い浮かべ、「なんで、あんなところで哲学が流行ったのだろう?」と不思議がるのだが、実際にはそうではない。 ヘラクレイトスは今でいうトルコ西部、パルメニデスは今でいうイタリア南部の人だ。 前者をイオニア学派、後者をイタリア学派と呼び、ギリシャ本土より、むしろこの2つが主流なのである。 ギリシャ哲学と聞いて多くの人が思い浮かべる、「万物の根源は水である」、「いや、火である」、「空気である」・・・といった自然哲学は、イオニア学派だ。 それこそがイオニア学派の最大の特徴であり、代表的な哲学者には、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトス、アナクサゴラス、アポロニアのディオゲネス、アルケラオス、ヒッポンなどがいる。 一方、イタリア学派といえば、代表格はピタゴラス。 というより、イタリア学派というのは、ピタゴラス教団のことだと言ってもよい。 この系統に属するのは、パルメニデス、エンペドクレス、ゼノンがいる。 >>41 >>アリストテレスは唯名論とも実念論とも関係ないがな ????? なんじゃこりゃ 普遍論争ではアリストテレスを引用した膨大な議論がなされていて唯名論実在論の双方に深く関係しているのに・・・ もっともそこで議論されているアリストテレスはイスラーム経由の解釈の入った アリストテレスであってオリジナルのアリストテレスとは違うというようなことはいえるが ミレトスは、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、 トルコのアナトリア半島西海岸にあったギリシア人の植民市である。 青銅器時代から人が住んでいた。 タレスなどミレトス学派をうんだことで有名である。 現代では海に接していないが、これはメンデレス川の堆積によって湾が埋まってしまったためであり、古代においては港町だった。 ソクラテス・プラトン・アリストテレスの時代にはアテナイが哲学の中心地となったが、かつてはミレトスだった https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/25/Milet_amfiteatr_RB.jpg/220px-Milet_amfiteatr_RB.jpg タレス(Thales、ミレトスのタレス、前624年頃〜前546年頃)が 哲学の創始者、最初の哲学者とされるのは、 ひとまずは、アリストテレスの以下の記述によります。 最初に哲学に携わった人びとのうち、 大部分の者は、 質料(素材)としての原理だけを、 万物の始原と考えた。… 哲学(philosophia、知の愛求)の始祖であるタレスは、 水がそれであると言っている。 (アリストテレス『形而上学』第一巻、第三章) 0043 考える名無しさん 2017/11/26 19:15:12 哲学の創始者であるタレスは、「水だ」と言った。 ・・・この、200年後の人物・アリストテレスの断片的な言葉によって、タレスは「史上最初の哲学者」となった。 本人の断片ならともかく、アリストテレスの言葉のおかげ。 >>33 修正 テミスティオスは別にプラトニストじゃなかったみたいだわ ソクラテスか、プラトンか ニーチェか、サルトルか 今時サルトルって話題になるのかね。 サルトルは「なぜ世界のベビーブーマーの知的ヒーローになったのか」 「なぜ1980年代には語られなくなり冷戦終結後には完全に忘れ去られたのか」 について総括しなければならないだろうね 印象としては正直言って彼の思想の何がよかったのかさっぱりわからん サルトルはある年代にはやたらと有名だが、 その名は知っているが思想の中身はほとんど知らない覚えていないという人が多い。 思想と、社会現象とそれぞれ別の見方ができるのかな。 現代の若者にとって全共闘時代の人間の発想には何一つ共感できるものがない。 猿取るなど連中が有難がっていたガラクタの一つといういう認識しかない。 実存主義の時代だったからな。 神もいなければ、死後の世界もない。 「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」という人生観。 今でも、こんな風に考える人は少なくないはずだが、新鮮味はなくなった。 その精一杯に生きようっていうのが「ごちゃごちゃ長々と屁理屈言ってるけど要は言いたいことはそれだけ?」って思っちゃうんだよな。ハイデガーもそうだけど 当時の人には「精一杯に生きよう」ですら目新しい発想だったのかな?? はっきり言わせてもらう 西洋哲学は過大評価され過ぎ デカルトもニーチェもキェルケゴールもハイデガーもたいしたことない 哲学と宗教を同じように考えるのは単なる無知 全く別物 悟りの境地は哲学では表現出来ません 19世紀の西洋の哲学者たちはそれを理解してなかったようだが 連中の言ってることは言葉遊びの枠を出ていない 以上 神が不在となった時代、 人々はメディアを介して互いを知り、メディアを自分自身を知る手がかりとした。 何の権力の代弁もしていないように見えるサルトルは、メディアの象徴、偶像として とても都合がよかったのではないだろうか。 神はいない、と言いつつ絶対存在の不在に人が不安を感じたころの偶像だった。 今は神の不在に不安を覚えている暇などない。 悟りっていうのは悟らないとわからないもので これを言葉で説明するのは無理なこと 悟りって「感覚」だからね 一言説明するとその辺にいる高校球児に全盛期のイチローのバッティング感覚を身に付けろと言ってるのと同じことだからね 解説だけを聞いてれば全盛期のイチローのバッティング感覚は身に付かないだろ 本人が練習してその感覚を身に付けるしかないな そのことが西洋の哲学者たちは理解できなかった 何でも言葉で説明できると思ってたからな いわゆる実証主義だね 悟ってない奴があれこれ言っても単なる言葉遊びの枠を出ないよね もう一度言うが西洋哲学の視点で悟りを語っても言葉遊びの次元を出ていない 理屈ばかりで行動がともなってない人間を頭でっかちと言う 何か反論があるならどうぞ 西洋の哲学者たちは頭でっかち キリスト教、神学、西洋哲学は親戚みたいなものでしょ 西洋の価値観で東洋のことを語ってもズレた認識にしかならんわけよ そのことを西洋の哲学者たちは理解できなかった EUの政治家もエリートだから哲学を学んでるだろうけど 口だけでちっとも行動がともなってないじゃないか 日本で哲学者が生まれにくいのは日本の文化や土壌もあるかもしれんが 口だけで行動がともなわない人間は頭でっかちと軽蔑されるからじゃないのか はっきり言って単なる言葉遊びで役にたちません ひろゆきに馬鹿にされるのもわかる https://youtu.be/c-yR1JWo-kc https://youtu.be/VszJOxqOchc トンデモ説ばかり唱える武田邦彦先生の哲学についての意見だけは同意する ひろゆきにまで思想書なんて役にたたんと馬鹿にされてるくらいだし 5ちゃんねらーは西洋の哲学者たちを高尚なものだと思って評価してるのかわからん こいらの本は100冊読もうが1000冊読もうが役にたちません ちょっと読んで理解できる程度のたいしたことを語ってないからね 役に立たないと思えば捨てればいいだろ。 自分が自由に役に立つことやってればいいだろ。 >>67 精一杯生きる、ことが手段でなく目的になってしまったのは目新しかったし 個人の信条だけでなく、当時は社会的に共有できる価値観が混乱していたんだろうと想像する。 神や来世、絶対的真理の存在は20世紀初頭までは西欧社会での現世での道徳感に大きな影響が あったんのだろうが、それがなくなり人々は正しく迷える子羊になったのではないだろうか? ごちゃごちゃ言っているのは、「精一杯生きる」が単なる信条でなく社会的に他者を説得する意見だったから。 現在はみんな虚無慣れしたというか、神に代わるアイドルなど必要とはされていないのだろう。 >>67 精一杯生きる、ことが手段でなく目的になってしまったのは目新しかったし 個人の信条だけでなく、当時は社会的に共有できる価値観が混乱していたんだろうと想像する。 神や来世、絶対的真理の存在は20世紀初頭までは西欧社会での現世での道徳感に大きな影響が あったんのだろうが、それがなくなり人々は正しく迷える子羊になったのではないだろうか? ごちゃごちゃ言っているのは、「精一杯生きる」が単なる信条でなく社会的に他者を説得する意見だったから。 現在はみんな虚無慣れしたというか、神に代わるアイドルなど必要とはされていないのだろう。 >>77 例えばサルトルの「存在と無」が出たのが20世紀初頭だったのならその意見も少しはわかるのだが、1943年だからな。 ちょっと時代がずれている。19世紀の「神は死んだ」からすでに半世紀以上が過ぎていた。 大戦争とその後だから、死はもっと若者の身近にあった。 死を意識すれば哲学か神への関心は当然強まる。 今の若者にとって死とは、はるか彼方にある他人事に過ぎない。 「人はいつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」 ・・・ハイデッガー哲学も、第一次世界大戦で死と隣り合わせの日々だったことと切り離せない 「死を意識すれば哲学か神への関心は当然強まる」ってのが身近に死を感じたことのない人の浅はかな思い込みなんだよな 余命宣告された人の多くが哲学や神に走っていると思うのだろうか 死が若者に共通するテーマじゃなくなったのだろう。 生きるのも死ぬのも勝手、 生きたい者は自分の生き方を探す。 好きか嫌いか、嫌いなら好きなものに出会うまでネットで探し続ける。 探しているだけで一生費やす。考える暇もない。 死にたい者はネットで仲間を見つけ、遂行する。 ???? サルトルって死について論じてたりしてたっけ? >>85 サルトルなんか全く読んだことなくて、単に若者とネットが大嫌いなだけの偏屈老人なんだろう 自分は死が近いからサルトルだろうが何だろうがとにかく死に結び付けて何か書きたいっていう哀れな老人 >>84 生きたい、死にたいというような心情的なものではなく 若い頃は特に誰でもとは言わないが死に対して異常に興味を持つ時期がある 死とは何かという疑問に付きまとわれる時期がある なぜ死のことばっかりなんだこのお爺さんは 死をテーマにした哲学者なんてせいぜいキルケゴールとハイデガーぐらいだぞ。哲学に興味ないんか? さては>>85 は『存在と無』を読んだことが無いな。 「人間存在の無」すなわち死。 >>88 それは言える 「死」を真正面から取り上げたのがハイデガーの新しさで、西洋の思想界に深甚な衝撃をもたらした 逆にいえば、それ以前にはそういうものがなかった それ以前は「死」は人間の理性の及ばない神学の領域であるというトマス・アクィナス以来の伝統が影響したから誰も手を出さなかったんじゃないか? 今でも死は哲学というより宗教のテーマだと思っている人多そう 聖書は死んだあとの世界について詳しく書いてないんだが そういうことはまずは聖書を読んでみてから言え。死ぬほどいっぱい書いてあるじゃん 死んだ後、信仰を持っていたものはラザロとアブラハムの話にあるように「アブラハムの懐」に行けるとか。信仰を持っていなかった者はラザロを助けなかった金持ちのような目に遭うとか 最後の審判前のよみがえりで教会関係者は携挙でイエスのそばに行って、そこは黙示録に描写されているような世界であるとか 最後の審判でダメだったヤツは火と硫黄の燃える池に投げ込まれるとか・・・ >>93 俺、何回も読んだけど 天国についての書いてる場面なんて皆無 それにその例だと死後の世界について具体的に語ってないだろ >>93 旧約聖書には、死後の世界というか、「天国と地獄」みたいな話がほとんど出てこないんだよな。 だから、マルクスやフロイトみたいに、唯物的な思想の元締めはユダヤ人が多い。 キリスト教では、最後の審判の日に、死者の魂は墓場から甦る。そして、選ばれた魂は永遠の生命を与えられ、そうでない魂は消される。 これに対して、「アッラーを信仰する者は天国に行く。不信仰者は地獄に行く」というのを、極めて明確に打ち出したのがイスラム教の特徴。 聖書で死後のことを語ってないって俺の意見は正しいってことを証明しただけじゃないか 例えば「アブラハムの懐」にいけるっていうのは抽象的な表現だし 死んだあとは何をすればいいのか具体的に語ってないだろ 世間でカルト宗教扱いされているエホバ証人では死後には楽園にいけると言ってるけどな じゃあ、その楽園はどんなところか一言で言えば畑仕事とか畜産とか 田舎で農業をするところだ ここまでいってはじめて具体的に死後世界について語ったと言える 抽象的な表現なら死後世界について語ってないってことだよね >>死んだ後、信仰を持っていたものはラザロとアブラハムの話にあるように「アブラハムの懐」に行けるとか。信仰を持っていなかった者はラザロを助けなかった金持ちのような目に遭うとか 最後の審判前のよみがえりで教会関係者は携挙でイエスのそばに行って、そこは黙示録に描写されているような世界であるとか 最後の審判でダメだったヤツは火と硫黄の燃える池に投げ込まれるとか・・・ 参考までに、「旧約聖書が、どれほど死後の世界のことをまったく書いてないか」について、ある人がまとめたサイトがある ↓ http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/afterlife.html >>94 >俺、何回も読んだけど >天国についての書いてる場面なんて皆無 皆無ww >天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、 >その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。 >また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。 >御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。 >御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。 >第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。 何回も読んだのに頭には全く残っていないんだね ただ、それは「聖書には書いてない」という話であって、実際には、キリスト教徒は誰もが死後の救済を信じていた。 それが、宗教ってものだけどな。 >>98 ヨハネの黙示録から引用する教会もあるね いずれにしろ聖書では死後の世界について具体的に語ってないね 例えばイスラム教では天国についての記述はハディースにあるし 仏教を例にとると大乗仏典では阿弥陀経 テーラワーダ仏教の経典では天界に生まれたことを語る天宮事経 餓鬼界に落ちた人について語る餓鬼事経という経典がある いずれにしろキリスト教の天国は曖昧なのはたしか これ、ヨハネの黙示録だろ キリスト教の天国をイメージさせるためにヨハネの黙示録から引用する教会もあるってことだろ 逆の言い方をすればヨハネの黙示録から無理やり引用してくるしかないってこと これが天国だと言われたら、う〜んだな 天国についてイメージさせるにはこれしかないのかね ちなみにヨハネの黙示録は最後まで聖書にいれるかいれないか揉めたみたいだね いまの聖書の形は397年のカルタゴ会議で編纂されたものだし >天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、 >その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。 >また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。 >御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。 >御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。 >第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。 ギリシャ神話のような人間的な神を具体的に設定したくなかったんじゃないのかな だからプラトンに飛びついた ちなみに、棄教した元クリスチャン(クリスチャンホーム)はヨハネの黙示録からの引用についてこのように述べている >>私が小学生の頃、教会学校で天国の風景について教わったことがあります。 もちろん、最初に書いたような、楽園のような風景だと教わりました。 その時に同時に教わったのが、聖書にその天国の風景が描かれている箇所です。 なんと、あのヨハネの黙示録です。 聖書の他の書物と あまりにもかけ離れた世界が描かれているため、 聖書の正典に含めるかどうか物議を醸したほどの問題作です。 天国が金銀宝石でできた素晴らしい場所だと描かれているのは、 ヨハネの黙示録21章だと教わりました。 その箇所を抜粋します。 わたしに語りかけた天使は、都とその門と城壁とを測るために、金の物差しを持っていた。 この都は四角い形で、長さと幅が同じであった。 天使が物差しで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。また、城壁を測ると、百四十四ペキスであった。 これは人間の物差しによって測ったもので、天使が用いたものもこれである。都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。 第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。 (ヨハネの黙示録21章15〜21節) この箇所に、はっきりと具体的な宝石の名前までが記されています。 では、その金銀宝石でできた天国(都)はどこにあるのでしょうか。 クリスチャンは、なんとなく天国が雲の上にあるイメージを 持っていますよね。 しかし、黙示録には正反対のことが書かれています。 おなじく21章からの抜粋です。 >>更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った 花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。(21章2節) この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。( 21章10節=j どうですか、皆さん。 その金銀宝石でできた都は、地上に下って来たと書かれているのです。 そして、黙示録の21章とその前後を良くお読み下さい。 これが、死後、神によって罪が赦された人が昇って行く 天国なのでしょうか。 黙示録にはずいぶんとグロテスクなことが書かれていて、 とても楽園のイメージを感じません。 クリスチャンは本当にこんなところに行きたくて信仰しているのでしょうか。 結局、今までに何度もブログで発言してきたように、クリスチャンは聖書の中の都合の良い箇所を都合よく解釈し、それに酔いしれているだけです。 実はちゃんと聖書なんか読んでいないのです。天国の情景も、聖書の中の都合の良い断片を集めて、脳内でファンタジックな世界を作り上げているだけです。 ところで、エホバの証人はキリスト教の中では異端とされていますが、 キリスト教とエホバの証人の共通点は、「(正しい神を)信じる者は救われる」です。しかし、その救われ方の解釈が違うのです。キリスト教では、死後、罪を赦されたものが天国に行けることになっていますが、エホバの証人は、黙示録16章に記されている ハルマゲドンが起こったのち、この現生、つまり今私たちが住んでいる地上が楽園になり、 神を信じる者だけが生き残って 永遠に暮らせるということになっています。 黙示録を読む限りでは、エホバの証人の解釈の方が合っているように思えます。 ちゃんと都が地上に下りてくると記されていますから。 さて、エホバの証人なんかとは違って自分は正統派だと主張するクリスチャンの皆さん、 自分達が信じていることの根拠が、 聖書のどこにあるかお確かめになってはいかがですか? 最後に言い忘れたが ヨハネの黙示録は暗号だよ暗号 今尚さまざまな解釈がある 個人的な意見としてヨハネの黙示録の一部を天国だと解釈するのは ちょっと違うかなって気がする >>80 19世紀に神が死んだ。 しかし、世の中すぐに虚無主義になったのではないだろう。 虚無は欺瞞がない歓びだ、といってたら狂人扱いされる。 これからは典拠のない、思想じゃなく歴史の解釈。 神が死んだあとも人々は絶対的な価値観を求め、それを生きる根拠にしようとした。 科学が証明する事実と科学技術により願望が実現する未来、とか 因習を打破した合理的社会、とか 歴史の必然によって導かれる闘争が終わった世界、とか。 または、力への意志を共有した同胞との生存のための闘争とか。 そして、人々が求めてきた価値観が、善き生をもたらしたのだろうか、 それは大戦と破壊をもたらすのではないか、という失望が 神が死んで半世紀後に世界で表面化した。 何も確かな価値観も目的もなく、存在しているというだけ、 ということが共感されるまでに人々は幾つかの幻滅を経験しなければならなかった。 >これが天国だと言われたら、う〜んだな これがこの難癖オヤジの本音 自分の思ってたのと違う → 死後の世界について具体的に語ってない こういう単細胞思考 >>108 突然エホバなんかを持ち出してくるんだからどういう人間か察しろよ キリスト教の死についての哲学はキリスト教が死後の世界について曖昧だったが故に哲学で語られたのかもしれん >>109 え?突然エホバ? エホバの関係者じゃないし何でそんな誤解されるの? キリスト教の天国は曖昧であってそこをキリスト系の新興宗教団体が弱点としてついてきたのだろうと言いたかっただけ >>111 死後の世界について聖書以上に語った哲学なんてないんだが >>113 それ聖書じゃなくて神学の話でしょ 聖書よりも具体的に語ってる経典が他の宗教にあるだろって話になるし それに哲学と宗教には境界線があると思うよ もし聖書が哲学だというのなら信じる必要もないから 宗教は信じることが前提に書かれているから イエスの十字架に磔にされて復活したのもそうだけど 宗教で必要なのはまず信じることだよね 哲学の場合は信じる必要はない それに哲学は人を救済するのが目的じゃないから >>112 そういう言い逃れをしたいのなら、エホバが死後の世界について「具体的」に語っているところとやらを示してもらわないとな 具体的に語っていないのならここでエホバを持ち出してくる必然性がない ちゃんと「具体的」に語っているところとやらを示してもらわないとな >>114 >>111 、>>113 のレスの流れとどういう関係があるんだそのレスは。つながりが見えない。 これ、死後の世界のことじゃないじゃん これじゃあ指摘されても仕方がないよ 死んだら○○のいくって話なら 古事記でも日本書紀でもいいわけだよ その世界にいったらどうなるのかを語るのが死後の世界について語ってるのであって○○にいくだけなら具体的じゃないよね >>そういうことはまずは聖書を読んでみてから言え。死ぬほどいっぱい書いてあるじゃん 死んだ後、信仰を持っていたものはラザロとアブラハムの話にあるように「アブラハムの懐」に行けるとか。信仰を持っていなかった者はラザロを助けなかった金持ちのような目に遭うとか 最後の審判前のよみがえりで教会関係者は携挙でイエスのそばに行って、そこは黙示録に描写されているような世界であるとか 最後の審判でダメだったヤツは火と硫黄の燃える池に投げ込まれるとか・・・ 聖書に書いてある死についてのまとめ ここにハッキリと聖書では死について具体的に語ってないと書いてある これでも反論するのならたんなる負けず嫌いか自分の間違いを認めたくないんだろう http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/afterlife.html >>97 で貼ったURLをふたたび宣伝するねちっこさにワラタ こいつにカネでも入ってくるのか? >>119 おい、エホバ! "これじゃあ指摘されても仕方がないよ"とか別人を装うんじゃねえよクズ。長々と他人のレスを文尾に引用する書き方が>>96 と全く同じじゃねえか。何でお前らいつもそんな風にコソコソしてんだ? 「エホバの証人」元信者女性が自分の体験を漫画にした理由 「私は普通でありたかった」 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54011 そう言えばユダヤ教の死後の世界は死んだら土にかえるだけらしいな(間違ってたらゴメン) 一神教が誕生する前のエジプトの古代宗教の方が死後について具体的かな 肉体の再生を願ってミイラにするんだよね ふと思ったが、古代エジプトの宗教って、他の宗教やギリシャ哲学みたいに何か後世の思想界に影響を及ぼすことはなかったんだろうか。 その後エジプトを支配した古代ローマやイスラム世界の考え方に一部取り入れられたとか、●●の哲学は古代エジプトから影響を受けている、なんてことはないのかな。 >>107 >19世紀に神が死んだ。 しかし、世の中すぐに虚無主義になったのではないだろう 「神は死んだ」から虚無主義になるんじゃなくて、ニーチェにとっては、むしろ逆なんだよね。 現実とは違うところにイデアの世界を求めたり、現在の生を軽んじて死後の救済を求めたりすることが、ニーチェにとっての虚無主義。 >>126 よく言われるのは、「死者の魂が死後に審判を受け、地下の冥界を通って楽園で復活する」という古代エジプト特有の死生観が、キリスト教やイスラム教に大きな影響を及ぼしたということ。 上に「旧約聖書には死後の世界のことが書かれていない」というのが出ているが、じゃあ、どこに死後の世界のことが書かれているのかというと、「エジプト死者の書」というのが答え。 現代に至るまで、「死後の世界」の話は大なり小なり、これに深い影響を受けている。 「輪廻転生」の元ネタがインド思想なのと同じで、もはや人類が共有する基盤といっていい。 >>127 ニーチェは既存の価値観を否定する立場を虚無主義と呼んでいたのだから、そういうイデアだとか死後の救済という既存の概念にすがる生き方はニーチェにとっての虚無主義ではない はるか昔、古代エジプトでは人が死に埋葬と一緒にある書物を遺体にもたせたとされています。 その書物の名前は『死者の書』と呼ばれていて、死んでからの道しるべが書かれているのです。 当時のエジプト人は『人が逝去されても異世界で生き返り神の元に行く』説を信じていました。そのためには条件が2つあり 器(肉体)を腐らせてはならない⇨ミイラを作った(1体にかかる日数70日間) 道案内が必要⇨死者の書をもたせた 器(肉体)を腐らせないために肉体をミイラに仕立て、 道案内図として『死者の書』という巻物を棺へと入れました。 死者の書の目的は、神のいる楽園へと向かうための道案内図の役割を果たすのです。 ■死者の裁判 死者は、裁判にかけられます。秤には真実の羽根と死者の心臓がそれぞれ乗っており、魂が罪で重いと、秤が傾きます。秤の目盛りを見つめるのはアヌビス神です。 死者が真実を語れば、ホルスによってオシリスの治める死後の国へ導かれます。嘘偽りであれば、アメミットという魂を食らう鰐に似た怪物に食べられます。 http://www.gregorius.jp/presentation/charts_41/s41_02.jpg >>129 そうだな。 >>127 で書いたのは、どっちかっていったら、ニーチェ本人というより、ハイデガー的なニーチェ解釈かもしれない。 コピペ 心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。 1、何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。 2、すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。 ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。 ハイデッガーによれば、ニヒリズムの温床は、現実や現世からの超越を主張する形而上学的立場だとされる。 >>133 このうちの2の「積極的ニヒリズム」こそが、「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」という、サルトルの実存主義につながってくるわけだな。 >>126 フリーメイソンに影響を与えたんじゃないの ピラミッド=三角形にオシリスの目だし 部外者だから、よお知らんけど フリーメイソンは「復活したエジプト」という感じがする そして、1の「消極的ニヒリズム」は、ハイデガーのいう「人はいつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」につながっている。 人は、死ねば無になる。 どんなに勉強して賢くなったり、商売して金持ちになったり、体を鍛えてたくましくなっても、最後にはすべて無くなる。 それを思えば、生きることが虚しく、人生が嫌になっても不思議はない。それなのに、なぜ、世間の一般人は平気で生きていけるのか? ハイデガーによれば、それは、「人はいつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」という信念のおかげ。 それによって、世間の一般人は日常生活に埋没し、「人は、死ねば無になる」という現実を見ないで生きているという。 >>128 キリスト教が生まれた当時のユダヤ地域とエジプトって何か接点あったか? 古代エジプトの死生観が直接キリスト教の教義に影響を与える機会なんてあったんだろうか >>137 同じローマ帝国の隣の属州だし、イエス・キリストの前半生は謎に包まれているので、どこでどんな影響を浮けたかは分からない ギリシャ神話も、エジプト神話の死生観には影響を受けている。 冥界の王ハデスとタナトスは、オシリスやアヌビスと同一視される。 ただし、エジプト神話と違って、ギリシャ神話における冥界は、「そういう話もある」という程度で存在感が小さい。 >>138 洗礼してもらった洗礼者ヨハネからは影響受けたかも イエスはヨハネのもとで洗礼活動もしていた しかしヨハネは世間を拒絶していたけどイエスは逆にしつこいほど世間に関わろうとした 旧約聖書でも、ヨセフがエジプトに移住して、モーセが紅海を真っ二つに割って脱出するまで、ユダヤ民族はエジプトにいた かつて異端のファラオ、イクナートンが一神教のアトン信仰を始めたことがあったが、ユダヤ教はその影響を受けたともいわれる >>138 ハデスとオシリスって同一視されてるか? 単に冥界の神ってことだけで結びつけたんじゃないのか? フロイトもチベット仏教とか東洋の宗教や思想の影響を受けてるからね 旧約聖書・新約聖書だけでは死について明確に答えるのは難しいかな ユダヤ教自体が一般的な宗教にみられる死後の世界が存在しないらしいから キリスト教はユダヤ教から派生した宗教だろ 同じアブラハム系のイスラム教なら死後の世界について明確に語っているが こちらはイエス・キリストの死後500年か600年くらいたってから出来た後発の宗教だからね ↑ なにこの支離滅裂なレス。フロイトの話と死だとかイスラム教の話がどうつながるんだ。統合失調症か? >>142 まあ、どっちにしても、ギリシャ神話におけるハデスは、エジプト神話におけるオシリスやアヌビスと比べて、扱いはずっと小さい ギリシャ神話も、死後の世界について、あまり語らない。 英雄の魂はどこか遠くの楽園にいるらしいのだが、普通の人の死後は地下に眠る亡霊みたいな感じ。 それに比べて古代エジプト人の死後の世界にかける情熱は、輪廻転生に対する古代インド人のそれとともに熱いものがある。 >>143 イスラム教は、文明の十字路のアラビアで生まれた宗教だからな。当時としては、中国を除く世界のすべての宗教を取り込んでいる。 当時のシリアやエジプトはキリスト教圏。ペルシャはゾロアスター教だし、エジプトには「死者の書」の伝統も脈々と流れている。今とは違って、仏教も中央アジアを中心にもっと広がっていた。 エジプトは、ナイル河畔の生命に満ちた世界と砂漠との 生と死のコントラストが鮮やか。 生は移ろい儚く、死は永遠不変にも見える。永遠の命とは生と死の合一なのかな。 >>140 なら古代エジプト→ユダヤ教→キリスト教の順番で死生観が受け継がれたということか 古代エジプト特有の死生観が直接キリスト教やイスラム教に影響を及ぼしたわけじゃないんだな >>146 「すべての宗教を取り込んでいる」 イスラム教が仏教をどう取り込んだのか教えてくれ >>149 ユダヤ教やキリスト教は、輪廻転生について、まったく何も語っていない。わざわざ否定するまでもなく、無関心もいいとこ。 それに対して、イスラム教では、「輪廻転生は謬説である」とコーランに明記して明確に否定し、「死後の裁きと永遠の命」説を正しいとしている。 これはやはり、インド思想やピタゴラス思想など、輪廻転生説と接する機会の多いアラビア人ならではの国際性の表れで、ユダヤ人にないものだ。 ただし、イスラム教でも例外的にアラウィー派とドゥルーズ派は輪廻転生の思想があるけどな 一説にはイスラム教の皮を被った民俗宗教なのではないかとも言われている 独自の経典も持ってるし イスラム教は輪廻転生の他にも三位一体も否定してるから イスラム教は当時としては最先端の宗教だったんだが その一方で近代化に対応出来なかった宗教だから キリスト教の場合はユダヤ教やイスラム教ほど厳格でなかったが故に近代化できたプロテスタンティズムが大きかったかな カルヴァンの予定説で世俗的禁欲が生まれ仕事に集中する合理的精神が育まれた ちなみに日本の仏教は何とか近代化出来ました 仏教そのものはイスラム教よりは近代化に対応できる宗教ではある イスラム教では政教分離とはまず無理だしどうしても祭政一致になるからね トルコみたいなのは例外かね そのトルコもエルドアンみたいな独裁者が誕生して最近は怪しいが マホメットは、当初はユダヤ教やキリスト教を先行する預言者として尊重していたが、やがて、これらの宗教からの非難や攻撃が熾烈になるにつれて、対抗意識を燃やすようになる。アッラーの啓示も、次第に批判的になっていった。 この辺りは、世界宗教といえども、多くの新興宗教がたどる道を通った。 イスラム教にとって大きな脅威だったのは、ギリシャ哲学だ。 日本でも、神道の主宰者であるはずの天皇が、自ら仏教に帰依して寺を建てたように、イスラム帝国でも、カリフ自身がギリシャ哲学に傾倒する知識人で、バグダッドに「知恵の館」を建てた。 イスラム教の教義は、単純な繰り返しが多くて一般大衆むけ。哲学ヲタの知識人には物足りない。 その折り合いを、どうやって付けるか。そこが大きな問題だった。 ペルシャではそれに加えて、長い伝統を誇るゾロアスター教という大きな壁もある。 この辺りは、ほとんど教義らしい教義を持たない神道を信仰する日本人にとって、インド哲学や中国哲学をどう受容するかが大問題だったのと一緒。 昭和の時代に盛んだった「日本人論」を見ると、「なにごとも黒白ハッキリつける外人とは違って、神道と仏教を習合してしまった日本人の曖昧さと包容力」なんてことが強調されているのだが、これはいかがなものか。。 中国でも、朱子学なんかは、儒教というより儒仏道3教の習合だ。 カトリックの教義も、聖トマス・アクィナスが、キリスト教とギリシャ哲学を統合して構築した体系によるもの。 ただし、日本みたいに、お寺の境内に小さな神社が建ってたりとか、そういうことはさすがに無い。 宗教は新しければ優れてるって言う単純なものではないし 鎌倉新仏教が旧仏教よりも優れてるかと言われたら必ずしもそうとは言えない なぜなら鎌倉新仏教では身体や宇宙に関して述べているところが皆無だからだ そういう点では天台宗や真言宗みたいな旧仏教の方がずっと豊か オウム真理教が信者を獲得できた背景には身体や宇宙といった体験を通して宗教的真理に迫りたいという現代人のニーズにあっていた点もあげられる ちなみにイスラム教も異端ではあるが一応は神との合一を目指すスーフィズムと言う思想がある 意外なようだけど一神教で一番仏教を評価してるのがユダヤ人 そう言えばアインシュタインもユダヤ人だったな 禅宗のお寺で学びにくるのはユダヤ人が多いみたいだし 頭がよい人ほど仏教にのめり込むみたいなスレを立てると 反論としてノーベル賞やフィールズ賞はキリスト教やユダヤ教が圧倒的に多くて 仏教徒は少ないと反論されるが そういう人は物事を見る目がない 単純に数だけで判断できるわけではない 仏教はお釈迦様自体が誰にも理解できないから教えを説くのを躊躇してたくらいだから そんなにそんなに広がる教えではないはずだし そういう点では一神教の方が布教には圧倒的に有利かな >頭がよい人ほど仏教にのめり込むみたいなスレを立てると そんなスレを立てたんかい(>_<) よくやるよ 近代は、イギリスを初めとする欧州列強がインドに進出し、インド哲学と出会った 最も強い影響を受けたのは、ショーペンハウアー。 「意志と表象の世界」の第一部は、「この世は幻影(マーヤー)である」という、体裁はドイツ哲学だけど、中身はインドそのものな内容。 ショーペンハウアーは、幻影からの解脱を説いた。 ニーチェもウィトゲンシュタインも、この本を最も愛読していた。 ニーチェは、原始仏典のスッタニパータを切り抜いて目の前に貼っていた。 >>158 俺はそんなスレは立ててないが 何を言いたいのかと言うと宗教は信者数とか数が多いから優れてるわけではない 宗教は新しい宗教だから古い宗教よりも優れてるわけではないってこと キリスト教とかイスラム教とかの一神教は組織とか経済とかそういった面は発達してるけど 我慢するとか人間性を磨くとか人としてどう生きるかといった人間としての精神的な成長はあまり期待できないかなと そういう面では東洋思想の方が西洋思想よりも優れてるかもしれない あくまでも自分が持ってるイメージだけどね サッカー見ててもそうだけど南米とか中東とかは民度が高いとは言えないな 南米は気性が荒いイメージがあるし中東 は狡猾なイメージがある 南米のサッカー選手はスラム街とかの出身の選手もいるし教育もあんまり受けてないからね >>150 仏教を「取り込んだ」のではなく否定したんじゃないか! まずは日本語を勉強しろ 昔は仏教国は沢山あったんだがイスラム教に押されてしまい仏教国は少なくなってしまった >>161 朝鮮は気性が荒くて狡猾なイメージがあるんだが? やっぱり小乗の教えでは一般人には魅力が薄い 東アジアの大乗仏教が度重なる弾圧に抗して生き残っているのと対照的 >>161 こらジジイ。キリスト教に「人間としての成長」を求めるのはそもそも根本的にお門違いだぞ。キリスト教は「主」に自分を明け渡して聖霊の力で自分を支配してもらうという発想だ。 人間はそもそも罪にまみれたどうしようもない存在であり、それを神の恵みで一方的に救済してもらうという考え方。自分の力で何とかするだとか、人間として成長する、という概念はない。 キリスト教徒から見ると、仏教は悟りだー悟りだーとか言っておきながら現実には解脱できる人なんていないじゃん、人間にほとんど不可能なことを目指させておきながら助けてはくれない神なんだね、とのこと。 >>167 え?現世利益って言葉をご存知じゃないの 浄土真宗を例にとると 一つ言い忘れたちなみに家の宗派は浄土真宗(真宗大谷派)です 真宗門徒です 親鸞聖人は、それを現生 (げんしょう) に十種の益が あると述べておられます。 一 目に見えぬ方々から護られる (冥衆護持の益・みょうしゅごじのやく) 二 この上もなく尊い功徳が身にそなわる (至徳具足の益・しとくそくのやく) 三 罪悪を転じて念仏の善と一味になる(転悪成善の益・てんまくじょうぜんのやく) 四 諸仏に護られる(諸仏護念の益・しょぶつごねんのやく) 五 諸仏にほめたたえられる(諸仏称讃の益・しょぶつしょうさんのやく) 六 阿弥陀如来の光明につつまれて、つねに護られる(心光照護の益・しんこうしょうごのやく) 七 心が真によろこびに満たされる (心多歓喜の益・しんたかんぎのやく) 八 如来のご恩を知らされ、報謝の生活をする(知恩報徳の益・ちおんほうとくのやく) 九 如来の大悲を人に伝えることができる(常行大悲の益・じょうぎょうだいひのやく) 十 やがて仏になると定まった正定聚の位に入る(入正定聚の益・にゅうしょうじょうじゅのやく) 浄土真宗は普通に生きてるうちに救われる教えだよ >>167 ちなみに親鸞聖人は死んでから救われると言う教えを否定してます 三大諍論の一つである 体失不体失往生の諍論(たいしつふたいしつ おうじょうのじょうろん) >>親鸞は34歳の時、同じ法然門下の法友と、仏法上の大論争を三度したと伝えられている。これは今日「三大諍論」といわれる。 「諍論」とは、「どちらが正しい仏法か」についての争いをいう。 第一の諍論の相手は、後に浄土宗西山派を開いた善慧房証空で、親鸞と首席を争う高弟だった。 親鸞が「阿弥陀仏の本願は、生きているただ今、救ってくださるというお約束です。」断言した 時、善慧房は真っ向から対立した。 「何をいわれる、親鸞殿。この世で救われた、ということがありましょうか。念仏さえ称えれば、死んだ後に極楽へ生まれさせていただけるのが、阿弥陀仏の本願ではありませんか」 これが論争の発端だった。 ●弥陀の救いは現在か、死後かで衝突 親鸞は 「阿弥陀仏の本願は、生きている時、大満足の身に救う約束だ」と説いたから、これを 「不体失往生」という。「不体失」とは"肉体を失わず"ということで、「生きている時」の意味である。「往生」とは「弥陀に救われること」である。それに対し善慧房は、「生きている時に弥陀に救われるということはない。弥陀の本願は、死んだら助ける約束だ」 といったので、彼の主張を「たいしつ体失おうじょう往生」という。 「体失」と は"肉体を失う"で「死後」のことだからである。 阿弥陀仏の本願の救い(往生)は「生きている時(不体失)」という親鸞と、「死んだ後(体失)」 と言い立てる善慧房との一騎打ちだったので、この争いは「体失・不体失論の諍論」といわれる。 親鸞の曾孫、覚如の著した 「口伝鈔」という本に記されている論争である。 弥陀の本願は、ただ今 高弟二人の激しい衝突に、周囲の弟子は混乱した。法然は、生きている平生に救う「不体失往生」が弥陀の本願だと裁断を下す。 >>167 ●二人の論争は平行線だった この世で阿弥陀仏にハッキリ救われた親鸞は、臆することなく、こう明言する。 「善慧房殿、あなたは弥陀の本願は死後(体失)でなければ助けて(往生)くださらないといわれ ましたが、親鸞はただ今救われた(往生)ことを喜んでおります。弥陀の本願は生きているただ今、助けてくださる不体失往生です」 すかさず善慧房は反撃した。 「どうして私たち凡夫が、この世で救われることができましょうぞ。この世は、どうにもならないものでありませんか」 「この世さえどうにもならぬ者が、死んで、どうなれましょうか」 論戦を見守っていた弟子たちは動揺し、混乱した。 どちらの言い分が正しいのか、師の法然に尋ねずにおれなかった。 ●「不体失往生」が弥陀の本願 集まった大勢の弟子から、法然は論争の一部始終を詳細に聞き、次のように判定している。 「"死ぬまで救いはない"というのは、弥陀の本願ではない。親鸞のいうとおり、生きている時" 大満足の身に救い摂る"というのが阿弥陀仏の本願である。経典のご文を見れば明白であろう」 今、おぼれて苦しんでいる人に、おぼれ死んだら助けるという者はない。今、腹痛で苦しんでいる人に、死んだら治すという医者もいない。 ましていわんや大慈悲心の阿弥陀仏が、「この世の苦悩はどうにもできぬ、苦しくても我慢しなさい。死んだら助けよう」と誓う道理がないのだ。 誤りを正された善慧房は、顔色を失った。 これが「体失・不体失論の諍論」の結末である。 だから大乗仏教が生まれたのはそのためだし 元々仏教は出家して自力で修行して悟りを開く修行だった それでは在家は悟りを開けないからって大乗仏教が誕生した経緯があるし それでも悟りが開けないからってどうしたらいいかってことで浄土教が誕生した 大乗仏教の場合は自利利他の精神があり 自らの悟りのために修行し努力することと、他の人の救済のために尽くす 現世で悟りを開く以上に生きているうちに人格の完成を目指すのは大事だと思うよ >>こらジジイ。キリスト教に「人間としての成長」を求めるのはそもそも根本的にお門違いだぞ。キリスト教は「主」に自分を明け渡して聖霊の力で自分を支配してもらうという発想だ。 人間はそもそも罪にまみれたどうしようもない存在であり、それを神の恵みで一方的に救済してもらうという考え方。自分の力で何とかするだとか、人間として成長する、という概念はない。 キリスト教徒から見ると、仏教は悟りだー悟りだーとか言っておきながら現実には解脱できる人なんていないじゃん、人間にほとんど不可能なことを目指させておきながら助けてはくれない神なんだね、とのこと。 話をスレの本題に戻すと西洋思想とは何かと言われたら ギリシャ哲学、キリスト教、スコラ哲学、神学、ユダヤ教?イスラム教?辺りかなそららをまとめて西洋思想かな 東洋思想ならインド哲学、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教 、シーク教、儒教 、道教 、朱子学、神道あたりをまとめて東洋思想かな 話をスレの本題に戻すと西洋思想とは何かと言われたら ギリシャ哲学、キリスト教、スコラ哲学、神学、ユダヤ教?イスラム教?辺りをまとめて西洋思想かな 東洋思想ならインド哲学、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教 、シーク教、儒教 、道教 、朱子学、神道あたりをまとめて東洋思想かな 浄土真宗ってそもそも仏教なのか? 根本原理のはずの三方印すらまったくド無視 諸法無我どころか、現生で益をくれー益をくれー 一切皆苦どころか、「「この世の苦悩はどうにもできぬと誓う道理がないのだ」! 「それでは在家は悟りを開けないから」 →大乗仏教 「それでも悟りが開けないから」 →浄土教 こうやって信者獲得のために民衆に媚を売ってせっかく釈迦が説いた教えをめちゃくちゃにした。 確かに無我というよりは我に固執する宗派だよな浄土真宗 それを言ったらキリスト教はイエス・キリストの教えなのかと言われたら反論出来ないだろ カトリックのマリア崇拝や煉獄はイエスの教えなの?新約聖書自体もイエスの言葉以外の言葉も入ってるし それにキリスト教は実質的な開祖がパウロだといわれてるからね 神学自体が西洋人が作った学問だろスコラ哲学とかはギリシャ哲学の影響を受けて作られてるから 原罪、マリア崇拝、聖人崇拝、煉獄、神学といったものはのちの人間が作ったものだろ それとクリスマスもイースターもハロウィンも本来はキリスト教とは関係ない他宗教のイベントだし クリスマスなんて真っ赤なお鼻のトナカイだよ トナカイなんて中東にいるはずない >>174 >>175 >>176 あきらかに勉強不足だし書き込みを見ただけで理解出来てないのがわかるな 簡単に言えば、この人は原始仏教、禅宗、浄土教、密教をバラバラのものとして見ているんだなと 一つ一つの教えをバラバラのものとして見てるから別の宗教に見えるだけであり 本来は繋がってて一つの教えなのを理解してない チベット仏教の抗議を聞いたことがないんだな 勿論、チベットにも浄土信仰はある 一言で言えばチベット仏教は総合病院で日本の仏教は麻酔科とか内科とか外科とか産婦人科とか専門ごとにバラバラに別れている状態だから この人、あきらかに勉強不足だよね これ以上書くとスレの本題から外れるのでこの話は終わりにするね 今後は仏教の話はしません もう一度言うがあきらかに勉強不足なのがわかる 昔有名なz宗の僧がいったことは、J宗やN宗は末法の衆生を救うために 仏の教えを簡素化したものらしい。 救うという目的のためには仕方ないかもしれないが、簡素化した挙句 世界や心の考察洞察はそこそこにして自己正当化ばかりするようになり さらにはそれが他宗との争いのもとになるのは良いことではないとその僧は言った。 ギリシャ哲学は普遍的真実を目指しているように見えて、歴史的視点でみれば 金や暇や知識を備えた階層にしか受け入れられず、 四の五の言わずに服従しろ、というイスラム教は急速に広まった。 ローマ帝国では、ギリシャに学んだ元老院の権威は帝国の拡大とともに 蛮族には理解不能で受け入れられなくなり、帝国の権威はキリスト教によって 保証されるようになった。 議論とか論証とかいういのは、思想の内容は豊か確実にするとしても 一面ではめんどくさくて思想が広がる妨げになるのだろうな。 >>174 >>175 >>176 抗議× 講義○ あきらかに勉強不足だし書き込みを見ただけで理解出来てないのがわかるな 簡単に言えば、この人は原始仏教、禅宗、浄土教、密教をバラバラのものとして見ているんだなと 一つ一つの教えをバラバラのものとして見てるから別の宗教に見えるだけであり 本来は繋がってて一つの教えなのを理解してない チベット仏教の講義を聞いたことがないんだな 勿論、チベットにも浄土信仰はある 一言で言えばチベット仏教は総合病院で日本の仏教は麻酔科とか内科とか外科とか産婦人科とか専門ごとにバラバラに別れている状態だから この人、あきらかに勉強不足だよね これ以上書くとスレの本題から外れるのでこの話は終わりにするね 今後は仏教の話はしません もう一度言うがあきらかに勉強不足なのがわかる <詭弁オヤジの中身のない抗弁の真似> >>177 あきらかに勉強不足だし書き込みを見ただけで理解出来てないのがわかるな 簡単に言えば、この人は原罪、マリア崇拝、聖人崇拝、煉獄、神学をバラバラのものとして見ているんだなと 一つ一つの教えをバラバラのものとして見てるから別の宗教に見えるだけであり 本来は繋がってて一つの教えなのを理解してない カトリックの講義を聞いたことがないんだな 勿論、カトリックにもイエスの御言葉信仰はある 一言で言えばカトリックは総合病院でキリスト教の他宗派は麻酔科とか内科とか外科とか産婦人科とか専門ごとにバラバラに別れている状態だから この人、あきらかに勉強不足だよね これ以上書くとスレの本題から外れるのでこの話は終わりにするね 今後はキリスト教の話はしません もう一度言うがあきらかに勉強不足なのがわかる 統一教会の言いぐさ 「原始キリスト教、カトリック、プロテスタント、統一教会をバラバラのものとして見ているんだなと」 「本来は繋がってて一つの教えなのを理解してない」 浄土真宗の言いぐさ 「原始仏教、禅宗、浄土教、密教をバラバラのものとして見ているんだなと」 「本来は繋がってて一つの教えなのを理解してない」 >>180 オウム真理教も浄土真宗と繋がってて一つの教えなん? 儒教徒の言い草 儒教道教禅宗の三教は本来同じことを説いている そりゃ後発の宗派は旧来の宗派の信徒も奪いたいからもともとの教えと繋がりはあるんだって言い張るよな チベットまで持ち出して繋がってるって言ってるけど、サムイェー寺の宗論すら知らなそうだなこの人 ギリシャ哲学も暇つぶしで 人生とはとか結婚とはとかってどうでもいいことをああだこうだと言い合ってたのが始まりみたいだし インド哲学の場合はインドでは昼寝の習慣があるからそこで発展したのかもしれない 哲学と聞くと高尚なものを思い浮かべるが単なる暇つぶしだから サムイェー寺の宗論は国際政治というファクターを無視できないけどさ、 チベット仏教における19世紀の超宗派運動、そして宗派横断的であるばかりか俗人で虹の身体を獲得した者が崇敬されるゾクチェンの位置付けの問題もある オウム真理教は、我の実在を認めている点でヒンドゥー教(そのような統一体が歴史的に存在するかどうかは議論の余地があるが)であり、仏教では絶対にないと言い切ることができる だからこそ霊的革命論と結合することができた ソクラテス、プラトン、アリストテレスは、ギリシャ本土のアテナイで活躍した。 なので、世間の一般人には、ギリシャ哲学といえば、今のギリシャ共和国の地で行われていたと思っている人が多い。 でも、そうではない。ソクラテス以前で最大の哲学者の1人とされるヘラクレイトスは、今でいうトルコ西部の人。 もう1人の巨頭、パルメニデスは今でいうイタリア南部の人だ。 「最初の哲学者」タレス以来、哲学はイオニア地方、つまり、トルコ西岸で続いてきた。ここが、哲学発祥の地。 ピタゴラスが南イタリアに移住してから、この地で哲学が始まる。 南イタリア人が哲学をやり始めたというより、ピタゴラスが哲学を持って南イタリアに移住したのだ。 後に、アナクサゴラスがアテナイに移住してから、やっとギリシャ本土の哲学史が始まる。 アテナイ人が哲学をやり始めたというより、アナクサゴラスが哲学を持ってアテナイに移住したのだ。 遥か後のローマ帝国の時代、パルメニデスが新プラトン主義を始めた。 新プラトン主義は一世を風靡し、アラビアやペルシャ、中央アジア、モロッコ、スペインにまで広がった。 中世イスラムの人々は、主にパルメニデスの新プラトン主義を通じてプラトンを受容していた。当時は、「プラトンの思想とは、こういうものだったのだ」と思われていた。 そのパルメニデスは、今でいうエジプトの人。 現代人が思う「ギリシャ」は、古代のギリシャ文化圏の、ほんの一部を占めるにすぎない。 コピペ(抜粋) プロティノスと新プラトン主義 プロティノス(204-270)は、ギリシャの古典哲学の最後の巨人であったともに、それ以後に続くキリスト教的な世界観にとっては、端緒となる考え方を提供した思想家である。 プロティノスが展開した新プラトン主義は、「一なるもの、精神、霊魂」の三位一体の形而上学に帰着するが、それはキリスト教における「父と子と精霊」の三位一体の神学に対応し、プラトンが教える永遠のイデアと神の永遠性の観念を橋渡しするものであった。 プロティノスが生きた時代は、ローマ帝国の箍がゆるんで、ゲルマン人やペルシャの侵略をうけ、国家は疲弊して、人びとには明日が見えない時代であった。 こんな時代背景のもとでは、人びとは現世に希望を持てず、ただあの世だけが救いに思われた。プロティノスの展開した新プラトン主義は、こうしたあの世への願望を体系化したものだったともいえる。 プロティノスの思想はプラトンからインスピレーションを受けたものであるが、プラトンの広範囲にわたる思想のうち、彼が採用したものは、イデアに関する教説のみだといっても過言ではない。 プロティノスはプラトンがたどり着いたイデアの世界を出発点にして、そこから議論を下降的に進め、世界のあり方を順序だてて説明するという方法を取っている。 「一なるもの」に精神、霊魂を加えた三つの階層から世界は成り立っている。「一なるもの」が根源であり、それが自ら放射あるいは流出することによって「精神」が、 さらに「精神」が流出することによって「霊魂」が生まれる。我々が現実に生きる世界は、この「霊魂」が自ら流出することによって形成されるのである。 このように、プロティノスの説は、「一なるもの」から順次下位の階層へと流出する過程を説くことから、「流出説」とも呼ばれている。 ・・・プロティノスの新プラトン主義の思想は、中世のキリスト教義を支えたばかりか、ルネサンスや宗教改革の思想的動向にも、大きな影を及ぼすようになるのである。 >>189 パルメニデスじゃない、プロティノスだ。 スマホやタブレットは、勝手にどんどん変換するから、思いがけない結果になる(笑) イスラム哲学史に出てくる最初の哲学者といえば、キンディーだ。 キンディーは、アリストテレスの哲学を、アラビアに紹介した人。 でも、キンディーが紹介したアリストテレスの「神学」は、実際にはプロティノスの主著「エネアデス」だった。 キンディーは、「これがアリストテレスの思想だ」と言って、プロティノスの流出説を紹介してしまった。 コピペ キンディーは、バグダードを活動の中心にして莫大な量の翻訳や著作を手がけ、その数は250を超えたといわれている。(しかし、現存するものは40作品程度である)。 キンディーは哲学者は経験界のあらゆるものの本質を究めなくてはならないという百科全書的な考えを持っており、地理・歴史・数学・音楽・医学・政治など広範なジャンルに渡り知識を持ち合わせていた。 彼自身はギリシア語を解さなかったようだが、ギリシア語文献からの翻訳の依頼や、生粋のアラブの名族のひとりとして豊富なアラビア語の知識を生かしたその翻訳指導にあたっていた。特に、アラビア語による哲学語彙の確立に多大な貢献をしている。 アリストテレス関連で言えば、『形而上学』や『神学』(しかし実際これは、アリストテレスの著作ではなくプロティノスの「エネアデス」である)からプトレマイオスの『地理学』など重要なものが多かった。 キンディーは、人間の知性を4つにわけ、能動的知性、可能態における知性、獲得された知性、現実態における知性と後のイスラーム哲学の基礎になる知性論を展開した(すでに、この時点でアリストテレスではなく、ネオプラトニズムの考え方になっている)。 彼は、神を真理(ハック)と認識し、哲学独自の目標を「人間の能力の限界内において可能な限り事物に真にあるがままに認識すること」であるとし、このように獲得した真理(これはイスラーム信者のみに保証されるものではないという)こそ普遍であると主張した。 また、神による無からの創造や啓示の優位性など、「完全なる一者」から創造がはじまったとするプロティノス系の流出論が優位となる後世の哲学者たちには見られない思想的特徴を持つ。このようにキンディーはイスラーム哲学に独自の道を開いた人物であるといえる。 キンディーなんて名前は、「巨匠」井筒俊彦の著書を愛読するイスラム思想マニアを除けば、まず知る必要ないだろう。 それよりも、「中世において、プロティノスの新プラトン主義が、プラトンやアリストテレスの哲学として受容されていた」というのが、歴史的には重要だ。 インターネットのグーグル翻訳はもちろん、紙と印刷すらない時代。 緻密な文献考証とかいう以前に、「この話、ホントかよ?」と裏を取って確認することすら困難だ。 プラトン哲学やアリストテレス哲学といったって、現代のように正確に知られていたわけではない。 それらは新プラトン主義と混ざりあい、イスラム教やキリスト教とも自然に混ざりあっていった。 アリストテレスは晦渋な文章で翻訳も大変だろう。 逐一翻訳してたら訳が分からなかったのではないかな。 今なら図表やグラフにすればよかったものを、 無理に文字だけで説明しているような分かりにくさがある。 >>197 アリストテレスが説いた論のうち、グラフにすればよかったものって何? >>198 ごめんなさい、アリストテレスで知ったかぶりしてみたかっただけなんです。 >>175 今さら何言ってるのか。阿弥陀如来を崇める浄土真宗はもとより釈迦が説いた教えなんて眼中にない >>98 黙示録は終末の幻想であって死後の世界の天国の描写じゃないが >>198 そりゃ、まずは生物の分類図だろうな あれをスッキリ見やすくしただけでも、だいぶ印象は変わる 十代にして当時のあらゆる学問を習得したイブン・シーナーでさえ、アリストテレスの形而上学には苦戦したという。以下コピペ ・・・しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている。 ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した。 彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた。 >>93 ラザロと金持ちの話はたとえ話だろうがw 天国の描写でもなんでもないw >>204 そう、それは言える。 ケインズの「雇用・利子・貨幣の一般理論」だって、当初は意味不明な悪文で有名だったが、その後のフォロワーたちが、数式にしたりグラフにしてスッキリまとめていった。 それを見たケインズ本人は、「ハンバーガーみたいにつまらなくなった」とこぼしたそうだが。 偉大な先駆者というのは、そういうものなのであろう ageとsageを分けて一人連投を続ける哀れなえせ仏教信徒 >>207 どの宗教にも言えることだけど本当に凄いのは師の功績をのちに伝えた弟子たちの力だけどね 孔子も釈迦もイエスもムハンマドも師の功績を弟子たちが伝えた >>209 ていうか、キリスト教の事実上の創始者はパウロ >>209 なんか、新興宗教団体が「もっと信者を勧誘しろ!」と煽るときに言いそうなセリフだな キリストて本当にいたの 義の教師がいたという説もある プロティノスって後世に与えた影響はすごいのに なんていうか結構謎の人だよね >>215 中世のイスラム圏では、プロティノスの新プラトン主義を、「プラトン哲学とはこういうものだ」と思っていた人が多かった 仏教の唯識派とデイヴィッド・ヒュームの知覚の束って同じような考え方? >>215 サカ族のインド人アンモニオスに哲学習って、後には皇帝の遠征軍にくっついてインドにまで行こうとした その時に対峙したササン朝のシャープール一世の軍にはマニ教の開祖マニがいたという激動の時代 最近、地球平面説を唱える集団が出てきたり 今回のコロナも神の思し召しと考える人が多数居たり 派手で大規模なショーみたいな事をする教会が勢いがあったりしてるのを見ると 西洋系、要は白人にはサイクルがあって 再び西洋哲学を捨てるフェーズに入りつつあるのかと考えてしまう。 今回の西洋哲学の引き受け手が極東アジアっぽいが そうなると独裁国で倫理観ゼロの研究と実使用が好きな支那が覇権を握ってしまうからマズイし >>217 仏教の説一切有部 「人間の意識は一刹那の間に生成消滅(刹那生滅)を繰り返す心の相続運動である」 デイビッド・ヒューム 「(自我とは)想像を絶する速さでたがいに継起し、絶え間のない変化と動きのただなかにある、たがいに異なる、知覚の束あるいは集まりである」 基本的な考え方は似ている。 どちらも、“自我には実体が無い”という点では共通している。 でも、それを主張している目的が大きく異なる。 仏教の場合は、自我は空であり、諸行は無常である。だから、無我を悟って解脱しましょう・・・というのが目的。 ヒュームの場合は、そういうことが言いたいわけではない。 では、ヒュームが何を言いたいのかというと、こういうことになる。 近代哲学の祖、デカルトは言った。「この世は存在しないかもしれない。 目の前にある机やイスが存在するということは、確実とは言えない。 この世界は、自分が見ている夢かもしれないし、悪霊が自分に見せている幻想かもしれない。 だが、これだけは言える。自分自身が存在することだけは、絶対に疑う余地がないと」 ・・・というような理屈。「我思う。ゆえに我在り」。これが近代哲学のスタートだった。 ジョージ・バークリは、「物質は存在しない。本当に存在するのは、物質を認識し、表象する自分自身なのである」という説を唱えた。 これに対して、デイヴィッド・ヒュームは、「自分自身が存在することだけは疑う余地がなく絶対確実だなんて、 そんなことないですわ。自分が存在することだって、十分に疑わしいですぜ」というような異論を唱えている。 仏教のような「無我思想」とか「自我の空性」とか、そういうことが言いたいわけではない。 つまり、ヒュームによれば、自我という実体はない。 脳神経系が引き起こす(18世紀には、まだ現代のような脳科学など無かったが)、 思考や感情、知覚があるだけだ。 個別の知覚はバラバラだ。でも、次から次へと、ものすごい速さで表象が現れる。 細切れのフィルムでも、速く動かせば連続して見える。 それと同じように、知覚の束も、本当はバラバラなんだけど、ものすごい速さで 続くから、まるで切れ目なく連続しているかのように錯覚する。 自我とは、そういう錯覚の産物にすぎない。 自我には、実体がない。 >>222 >ヒュームによれば、自我という実体はない。 ということは、仏教の「無我思想」と同じってことか 違いは解脱という目的があるかないか、だけ? >>223 この考えに至った経緯と、主張する目的が異なる でも、それを除けば、驚くほど同じ内容の結論 >>224 ふーん。その時代に仏教の考え方がヒュームにまで伝わったわけではないだろうし、しょせんは人間って同じようなことを思いつくものなのかもな 禁欲的に生きて無情念(アパテイア)の境地を目指すストア派の主張も、苦の原因たる煩悩を滅して解脱を目指す仏教の考え方と似てるのか? >>221 そこまで崩すと思考に関して何の土台も無くなるわけやが それに関してヒュームはコメント無し? 土台が無いという事は哲学そのものを否定してるのに 自我すら怪しいですぜで投げっぱなしで終わってたら皆さま困るやろう。 ヒュームによると因果性や同一性は繰り返しや習慣による人間の錯誤、 思い込みにすぎないという。 人間の自己同一性もテセウスの船よろしく 1年前や1分前の自分と現在の自分は心身共に同一ではないということになるらしい。 ヒューム式の考えからすると、 「三角形の内角の和は180度である」 ・・・これは確実に正しい。 「明日の朝になれば、また太陽が東から昇る」 ・・・これは絶対に確実とは言い切れない。今までの経験からすれば、これは確からしく思えるというだけ。 こんな考え方をしていたのでは、「正しいと確信できるのは数学だけ。物理学はかなり怪しく、それ以外の学はもっと怪しい。ましてや、哲学なんて」ということにならざるを得ない。 カントはここに衝撃を受け、強い危機感を抱いた。 「純粋理性批判」は、そのために書かれた >>228 ヒューム式の考えだと、何百回測っても三角形の内角の和は180度になるから、人間はそのような経験に基づいて絶対に180度になるものと信じ込んでいる だが次に測ったときは180度にならないかもしれないのだ。180度になるというのは人間の思い込みにすぎない、ってなるんじゃないの? >>230 自明のものと観測するものとの差やろ。 三角形の内角が180度なのは自明。 平行する2線が永久に交わらないのと同じ。 1+1=2と同じ。 物理法則は観測したデータから導きだされた数式やからな。 東から太陽が昇ったり、林檎が地面に落ちるのは 数式で説明できて予測も出来るが、 いつまでその数式どおり動くかの保証は無い 理由は観測した結果を数式モデルにしただけで自明では無いから >>231 イギリス経験論は、「客観的なもの」や「自明なもの」が世界に存在するかどうかは誰も証明できない、 あらゆる知識は全て経験によって得られた主観的なものだと考えるんだろ。 だから「三角形の内角が180度」というのも経験(観測)によって得られたもの。 人間に生まれる前からあらかじめ備わっている知識ではない。自分で三角形を測って知った知識だ。 >>226 その、何もかも疑わしくなって崩れた信頼の土台を、回復させようというのが、カントやフッサールの哲学 >>232 人間に生まれつき「生得観念」が備わっているかどうかは、フランス合理論とイギリス経験論の最大の争点だった。 西洋哲学の開祖プラトンは生得観念はあるとしており、「生まれる前から知ってたことを思い出す」という想起説を唱えた。 デカルトの立場では、人間には生まれつき生得観念が備わっている。 「何を疑おうとも、その疑っている自分自身が存在することだけは確実だ」という話は、 「その確実に存在する自分に、神という観念が生まれつき備わっている」となり、 「ゆえに、神が存在することは疑う余地がない」と続く。 これに対してジョン・ロックは、「人間は、生まれるときには、まっさらな白紙状態で生まれてくる」という、タブララサ(白紙)論を唱えた。 これだと、すべての観念は、この世で身につけた習得観念だということになる。 三角形の内角って1000度とかではダメなのって何で 三で割り切れないから?おいらみたいな馬鹿にも教えて >>235 円が360度だからだ それを元に三角形の内角を計算するとそうなる なぜ、円が360度なのかについては、地球の一年が何日なのかを考えてみれば、だいたい見当がつく >>232 それについては、カントが結論を出した 数学の定理は、アプリオリな綜合判断によるもの。 つまり、経験ではなく、論理によって導かれる >>236 地球の一ねんということは、物理的なものに由来しているということやね これは経験ということでよいの? >>237 カントの「悟性のカテゴリー」って、単にカントが口で言っただけで本当に実在するなんて誰も証明していない カントって何を根拠にそんなこと言ったんだろうな それこそ経験に由来するカントの思い込み、だったりして >>238 それは360度の度数で表記すればの話。 弧度法で表記すれば、「三角形の内角の和はπ」となる。 これは、「半径の長さを1としたときの、弧の長さ」でそう決まった >>239 カテゴリーの元ネタはアリストテレス 朱子や王陽明が「子のたまわく・・・」と、論語や孟子を引用しつつ、言ってる内容は独自の説なのと同じで、カントもアリストテレスのカテゴリー論をすっかり自分流に変えてしまった 哲学者って体系化が好きだから なんでもカテゴライズしてしまう >>242 それはその通りなんだけど、その体系化を始めた最初の人がアリストテレス >>241 カントってアリストテレスのカテゴリー論を焼き直しただけなのか じゃあ>>237 のいう「カントが結論を出した」ていうのも眉唾だな アリストテレスのカテゴリー論なんてイギリス経験論と大陸合理論の論争のはるか昔からあったんだし アリストテレスはプラトンの脚注を書いたと言った人がいたような 体系化大嫌いな哲学者もけっこういるけど でも主張は一過性なことが多い。 立派な体系を作ったら大物哲学者呼ばわりされる。 カントの認識論はアリストテレスの形而上学の基礎づけである ソクラテスの対話 これが民主主義の原点だろうね コロナとは何かね >>248 なんでソクラテスの対話が民主主義と関係あるんだよ? 問答ぐらい中国共産党の指導部内でもやってるぞ 禅宗でも問答あるよね。それで悟りの境地に達しようという 釈迦はそんなことひとかけらも言ってないのに、教義の改変ぶりがすさまじい まあ、南無阿弥陀仏と唱えりゃそれだけでOKっていう浄土真宗ほどひどくはないが カントの認識論と仏陀の悟りと言ってる内容や目的は違うが元になる論拠に 人間には何が正しいかなんか分からない。今見えている世界は全部嘘かもしれない。 としてる所は同じよな。 カントはそれを基に五感で確認しようが無いものは考えるなと言い、 仏陀はそれを基に苦しみも本当にあるのかどうか分からないものやから苦しく感じる必要が無いやろと言ってるよな。 >>245 正確には、「ヨーロッパの哲学伝統の最も安全な一般的性格づけは、それがプラトンについての一連の脚注からなっているということである」 by ホワイトヘッド >>253 >カントはそれを基に五感で確認しようが無いものは考えるなと言い そうではない 「論理で証明できないことを議論するのは止めよう」というのが、カントの主張 >>251 悪法もまた法なりで死んだんだから民主的だろう ソクラテスの奥さんが悪妻呼ばわりされるが、水をぶっかけただけ 普通の奥さんなら愛想つかして蒸発しちゃいます ニーチェはキリスト教の道徳は奴隷道徳だ!と言った 確かにキリスト教では強い者、金持ちは悪とされているから、キリスト教の教義が弱者の強者に対するルサンチマンの原因となったのは分かる しかし、キリスト教社会ではない日本でも弱者のルサンチマンは大いにあるではないか 前澤が美術品を買ったりツイッターでカネを配ったりすると、自分のカネを使ってるだけなのに批判が起こる 石田純一が沖縄にゴルフに行っただけで、他人に感染させたかどうかなどは関係なく、ひたすら猛烈なバッシング 有名人はとかく凡人のルサンチマンの対象になりやすい このようにルサンチマンはキリスト教に関係なく人間の本性に備わったものなのだから、奴隷道徳を持ち出してキリスト教批判をするニーチェは間違っているのではないか 釈迦とかタレスとか同じ時代に出てきてるけど、あの頃の時代背景とかあったりするんかな? 世界的な哲学が発達する素地とか >>262 ヤスパースのいう「枢軸時代」だな 人類が精神的に覚醒するプロセスの第三段階 高校の倫理政経という科目名が解せないわ 哲学政経やろw なんで哲学の一分野にすぎない倫理が科目名になってんねん あそこからズレるよな 何も知らない高校生からしたら「道徳」とかそんな科目と勘違いしたまま キーワードを機械的に覚えて終わり 高校生からしたら大昔の瀬戸内寂聴の人らの人物名と有名な言葉覚えてるつもりで終わるわな 俗っぽい人生哲学と西洋哲学は別物という事に全く気付かずに終わるやろう。 >>268 科目名が倫理と言いながら西洋哲学、東洋哲学のメジャーどころ超薄膜で全部網羅 ソクラテスから全部やる。やるというか 有名人ー著作などの組み合わせを機械的に覚えるだけ。 「イデア」と「IKEA」は似てる とかそんな感じで覚えていって中身がなんなのかなんか気にしない単なる記憶テストの肴になってるだけの科目 だからソクラテスプラトンもカントも大昔のみつおや瀬戸内寂聴みたいな人なんやろうと誤解したまま終わる。 せめて科目名を哲学にして、別教科の物理や化学や数学やらとリンクしたものという所は説明しないと なんか完全にそれらとは別個の存在の、例えたら神学部みたいなミステリアスな科目に見えるわ。 「哲学」なんて科目があっても、教えられる教師がいないだろ プラトン「ソクラテスはこう弁明している」 検察官「その弁明は失当だ」 裁判官「はい有罪で処刑な」 どうせくだらない弁明したんだろなw これだから哲学者は馬鹿で困る 昔から、法学>経済学>文学部哲学科 ソクラテスは歴史に輝かしい名を残した。 裁いた側は無名に終わった。これが現実。 輝かしいと思ってるのは、文学部哲学科だけだろ 裁いた訴訟実務は、綿々とローマ法から大陸法英米法へと受け継がれ米国でも陪審員制度として使われている ソクラテスの詭弁なんぞ、なんの科学にも法学にも経済学にも寄与してないぞ 全人類に漫画ソクラテスを読ませたい 賢いフリして知ったかをするより知らないってのを知ってるほうが賢い 現代人の師匠にもなれる人だ ・賢いフリして知ったかをする人…知らない ・知らないってのを知ってる人…やっぱり知らない どっちも役立たずだろ 人間全てを知っている奴はいない むしろ知らないことの方が多い 知っているかのように語ると墓穴を掘る >>280 わかったフリして偉そうにしてる人間のが多いだろ? そんな時代の中でわからない事・知らない事を理解してるソクラテスがアテネで最高の賢者とみなされた 哲学の最初はこのわからないことをわからないままで置いておかないというところから始まり 哲学から科学や数学が起こった 人はどのような事象にも詭弁のようなこじつけでごまかすきらいがある それがどんな原始社会であっても、そういう人間はごまかしをするだけで解決を考えない それを考え解決に向かわせるのもソクラテス「のような」人間だろう 詭弁・ごまかす者ではないのだ ソクラテス「わからない事・知らない事を理解してるぞ、どやぁ」 アテネ人「だからなにw 役立たずに変わりはないだろ」 知っている事分かる事と、知らない事わからない事を ちゃんと認識、区別していないと学問も何も始まらない >>285 知識人の無知をさらして公開処刑したんだよね 当時の知識なんて科学的観念もなくただ煙に巻くようなもんだっただろうし でも今も同じかもしれないよ 良い学生「知っています。AAです。」 人事「良く勉強しているね、是非、我が社へ」 普通の学生「知ってます。BBでしたでしょうか?」 人事「違うねえ…。でもまあ採用しとくか」 悪い学生「…良く分かりません。知らないです」 人事「ああそう…頑張ってね。うちは不採用かな」 ソクラテス「私は知らないということを私は知っています」 人事「だからなにw 不採用!」 >>288 あの野郎なんでも知っているというから雇ったのに なにも知らんじゃないか、首、首 あの野郎、「知らないことを知っている」というから雇ったのに、要するになにも知らんじゃないか、首、首 良いソクラテス「私は知らないということを私は知っています。御社で勉強させてください」 人事「謙虚な若者だ。採用して鍛えてみるか」 普通のソクラテス「私は知らないということを私は知っています。以上」 人事「ふーん、それで? やる気あんの?まあ保留だなぁ」 悪いソクラテス「私は知らないということを私は知っています。これ以上、知りたいとも思いません」 人事「なんだこのやる気のない馬鹿? はい不採用」 >>290 「知らないことを知っている」というから雇ったというのは なかなか感心じゃないか ソクラテスに学んだんだな 法学部ソクラテス「私はまだまだ分かっていない。そういうことを痛感しております。御社で勉強させてください」 文学部哲学科ソクラテス「私は知らないということを私は知っています。以上」 お前らソクラテス「私は知らないということを私は知っています。新しいことを知りたいとも思いません。だるいし」 知らないことを知らないと言わない言えない人間に対する対比だからな それに対する教訓というか 俺の地元に「ポプラ」というコンビニがある。 先日、父親の運転で親戚の家に行ったんだが、帰り道に「ポプラ」へ寄ることとなった。 で、ポプラ何処か分かるか聞かれたんで俺が何気なく「分からねえことは分かってる。無知の知。むちちw」って口走ったら、運転中にも関わらず父親が俺を殴り始めた。 それだけでなく「33歳にもなって、そんなことしか喋れないのか!」とか意味不明なことを言い出して 終いには涙をボロボロ流し始めた。 何が父親に起こったかわからないが、とにかく不気味な何かを感じたな。 哲学の最初はこのわからないことをわからないままで置いておかないというところから始まり 哲学から科学や数学が起こった その後、科学や数学は研鑽を続けて、巨大な知の体系を築きます神の領域に迫りつつある 一方、哲学は言葉遊びを続けて、偏差値最底辺の文学部哲学科で最期のときを迎えている どこで差がついたか 環境の差?慢心 >>296 哲学は形而上学のみにあらず 数々の問題提起が哲学者によってなされている 今の科学者も未知に挑まずわかってる範囲のことを教えて「かしこく見せる」みたいなのが多いか 無知の知とかいう言葉遊びより ソクラテスはそいつらまとめて「悪」にしたてあげたことが重要なのかも 無知の知って誤訳みたいね 本来は不知の自覚、だそうだ そもそも知ることが出来るのは、全知全能の神だけ だから、自分が知っていない、そのことを知っているのも人間である自分ではできない ただ知らないことを自分で気づいている 知らないことを自分で気づいている だけじゃ何に役にも立たんからな 科学者はそこから自力で知り始めた かたや哲学者はそこで止まったまま 差がついて当たり前だよ >>300 なんかやたらむずかしくしたがるのもアンチと同じだろうか 「知ったかヤメロ恥ずかしい」ってことだよ 難しい概念にすればケムにまけると思ってる奴ら こいつらも同じだ >>278 >ソクラテスの詭弁なんぞ、なんの科学にも法学にも経済学にも寄与してないぞ 科学と経済学は知らんがソクラテス・メソッドは現代日本の法教育でも現役で使われているぞ ソクラテス「知らないということを知っています」 ロー教授「予習してこい無能が、はいじゃあ次の学生」 >>295 ホントの話なら面白いね〜。何が起こったんだろうね親父さんの中で。(笑) でも単に小賢しく言ってきたことに腹が立っただけかも知らんし、にしても殴るのは相当だ。 んでソクラテスに関しての議論が飛び交ってるようだけど、私の印象ではあの人結構な切れ者ですよ。 少なくとも知らないの知ってるってふんぞり返る人じゃない。ただ、切れすぎる。それ故めんどくさい。 『ゴルギアス』読んだことある人ならわかると思いますが、興味本位で手を付けると跳ね返されます。 作中のゴルギアスに共感する人は多いでしょう。ですが徹頭徹尾、理屈理論を外れていないのはソクラテス。 あとはやはり死に様が大きいのでは? 「死ぬことを知る者は(当然死んでいるので)いない。知らないものを恐れることない。そもそも知らないのだから。だから僕は死ぬことは(死刑判決受け)怖くない(控訴も裏工作もしない)」 んでその後あーだこーだ言って、最後はキッチリ毒(植物の根?)をあおって死んだ。最後に言ったことは誰それに借りてた金だかウサギだかを返しといてくれと言い残して。死んだ。 これ程強烈な言動一致は流石に説得力を持つんじゃないか。真似をしたいともしようとも思わないが。そして似てないけど松陰のそれと重なる部分があったりする。 イデアは人間が恣意的に付与したレッテルに過ぎません カント 検証不能な事はいくら考えても意味がないので学問の枠から切り離すわ。例えば「死後の世界は存在するか否か」とか「宇宙は有限か無限か」といった。 ヘーゲル 矛盾→進歩→自由、世界精神 万人の脳の中のソクラテスは自分がソクラテスであることを知らない Socrates in everyone's brain does not know that he is Socrates kiwami os ってのだけど哲学板のソクラテスの弁明のとこきて 面白いの作ってみた まぁ作り方知らんなら教えてあるが、死ぬぞ まぁネットで散見するから探してみろ 俺の予測では、あのスレに東大哲学科はきずいてない 俺が立てた だから、なんかすごいと思う 俺も結構ビビッて、周りno hito ni hanasi tara sugoi uwawawawawaaaaaaaw だからたぶん、哲学の専門家と知恵の会話したら、すごい驚くと思う ただ秘密にしとけ、これはすごい さらに、俺まだ完成してないから まだまだすごい、哲学の世界すげーーーきもちええええええwwwww >>295 どこにあるかはしらないが、もともとポプラがどのように作られたかは理性によってすでに決まっている。 新ポプラトン主義、新ポプラ。情けない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる