なぜ神聖ローマ帝国をフランスは併合しなかったのか
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神聖ローマ帝国はフランス語圏を領内に含んでいたが結果的にその殆どをフランスに奪われ
結果的に独仏の国境は(厳密には違うが)ゲルマン系とラテン系の民族境界線となった
両者の間には自然国境はなく、フランスが全ドイツを併呑するという道も有りえた
けれども、双方とも同じフランク王国から分裂したにもかかわらず再統合されることはついぞなく
フランスは神聖ローマ帝国の領土を少しずつ削っていくだけで、ナポレオンすらもドイツの大部分を併合することはなかった
一体何が独仏の統合をここまで拒ませ続けたのだろうか?
前スレ:
なぜ神聖ローマ帝国は分裂しフランスは統一したのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1583939853/ 中世初期は東フランク王国のほうが王権が強かったから、
併合なんてできなかった 王権が強かったところに手を出しても返り討ちにあうだけだろ
ブーヴィーヌで皇帝オットー四世がフランス王フィリップ二世に負けたのが痛かった >>1
ナポレオンの時代にはフランスがドイツを支配してるじゃん 中国みたいにここをとっとけば天下取れるみたいな場所がないから
逆に拮抗してしまうのか? ドイツも一時期ロレーヌ地方やブルゴーニュを支配していた時期があったからフランスの一部を併合したといえなくないの? >>7
フランス語が成立したよりも以前から取っていた筈なのになぜここがフランス語地域になってしまったのか?
一度もフランス王権に支配されたことのない筈の現イタリア領アオスタ谷まで
そこまでフランス語は便利だとはとても思えないが 王国を統一した後のフランスは、神聖ローマよりも
イタリアの方に関心があったからでは? けどブルゴーニュとはギヌガットの戦いで負けたからあきらめたでしょ
少なくともイタリア諸国よりは神聖ローマのマクシミリアンのが強い
ランツクネヒト強いしな とりあえずネーデルラントとれれば毎回皇帝選出で神聖ローマの諸侯を支配するというのもありえたかな 結局ブルゴーニュフランスが持ってっちゃってるんよな
シャルル軽率公ェ… フランスは、西フランク王国の時代に比べれば領土を広げてるけど、
結局今現在の国土が限界だったということじゃないかな
神聖ローマ帝国を全部併呑するほどの国力はなかった ナポレオンもドイツ西部のライン地方の領邦を併合しただけでオーストリアやプロイセンを征服した訳ではないからな フランスがイタリアを手に入れていたらどうなっていたかな
同じラテン系の国だから意外にうまくいったかも
地中海はフランスの海になっていたりして フランスはラテン系というよりガリア系(ケルト系)でありフランク系もいる
イタリアはもっと複雑でラテン系に加え北部のロンバルディ系(ランゴバルド)と南部のノルマン系 フランス人の先祖がガリア人ということが強調されるようになったのは、
普仏戦争でドイツに負けてから
ドイツ(ゲルマン系)への反発から先祖がフランク人とはいわれなくなった >>13
ドイツ帝国ですら全諸侯併合してないし
神聖ローマ皇帝になるならそこまで条件きつくない
そして神聖ローマ皇帝になれれば名実ともに欧州のトップ
神聖ローマ皇帝は神聖ローマ全諸侯の首領で帝国議会での発言権が一番あるわけだから
ヴォルテールの意に反して結構政治的影響力でかいんだよね 欧州にはバランス・オブ・パワーという考え方があったから、
フランスが神聖ローマを征服しようとしても、他の国が邪魔をしただろう 神聖ローマ帝国は成立時から統一の兆しはなかったよ
というのも神聖ローマ帝国はドイツ(東フランク王国)、イタリア、ブルグンドの各王国の集合体で、その中心地ドイツ自体もザクセン、フランケン、シュヴァーベン、バイエルンというほぼ自立した部族大公領からなる王国だったので そんなのが統一した皇帝を頂こうって思うのも訳わからんな
トップがいない状態で各個撃破されたらチンカスだからか フランスがイングランドに乗っ取られそうになって風前の灯状態になっていた筈なのにその時点で神聖ローマ帝国に攻め入って領土を奪ってるの本当に訳が分からない
イングランドと神聖ローマ帝国とトゥールーズ伯領とで共謀して同時に攻め込んでフランス王権を打ち倒そうって動きがなかったのが不思議
でもフランス王国という既存の権力構造をぶっ壊すよりその中で偉くなろうとしたってのは実に中世的 >>22
フランスと神聖ローマ帝国で同君連合、ということになっていたんじゃないの?
カスティーリャ王国とアラゴン・カタルーニャ連合王国のようなもの カール5世が若い頃からスペインの当地のみに集中して、スペイン対フランス+神聖ローマでヨーロッパが真っ二つになってたかも。 フランス王国と神聖ローマ帝国が同君連合を組んでも、
ナショナリズムが勃興する時代になったら分離したんじゃね? 言語が全く異なるからね
東西フランク王国が分裂したのは自然なこと 逆にいえば、中国語はあれだけ方言の差が激しくて、
ほとんど外国語と言っていいほどなのに、
なぜ統一を維持できたんだろう 中央にいる東洋的専制君主が強大な権力をふるっていたことと、地方の行政官が中世ヨーロッパの封建的領主のように自立するということがあまりなかったことと、
もう一つモンゴルや女真やトルコ系の遊牧民が支配することが多く彼らの機動力は半端ではなかったのであれだけの広大な領土を支配出来たのではないだろうか >>28
中原という一つの地理的まとまりを一度征服事業に乗り出したら最後まで行かざるを得ない「天下」がある
中原を統一できたら関中・河西走廊・巴蜀・ビン越を征服できる国力も自然とつく
それに始皇帝が漢字を統一したのはデカい
あれで方言差は無意味になった 逆にハプスブルク家がフランスを支配する、
あるいはフランスを極度に弱体化させるという
シナリオはなかったのだろうか マクシミリアン1世の頃にハプスブルグがスペイン支配してたらフランス侵略はあり得たかも。
カール5世以降だと神聖ローマ帝国はプロテスタント、スペインはアメリカ進出でフランスどころじゃない。 >>31
間に天敵のスイスがいるから飛び地支配になってあまりメリットないだろ
オーストリアはベーメン、ハンガリーを足掛かりに東方に活路を見いだしていた なぜかドイツは東へ東へと延びたがるな
中世から東方植民をしていたし カール5世は、東方からのオスマン帝国の脅威だけでなく、
南の地中海方面ではバルバリア海賊の脅威にも対処しなければならなかった
だから神聖ローマ帝国がフランスを併呑するなんて無理だったと思う ドイツは東へ東へと延びていって、最終的にはオーストリア・プロイセン・ロシアの
三国でポーランドを分割した
神聖ローマはフランスを併呑することはできなかったが、
代わりにポーランドを手に入れることはできた >>36
そうだね
ポーランドはなぜかフランスと馴染み深い
自由選挙時代、ヘンリク・ヴァレージィ(フランス国王アンリ三世)がポーランド国王に選ばれたというのがきっかけとなったのであろうか?
時代はもっと後になるがフランス皇帝ナポレオン一世にも好意的で最後の自由選挙時代の国王の一門から出たユゼフ・ポニャトフスキは皇帝の配下の将軍だったし
音楽家のショパン、物理学者のマリー・キュリーもポーランド出身でフランスで活躍した アラゴン王国+バルセロナ伯領+プロヴァンス伯領+ジェヴォーダン伯領+
カマンジュ伯領+ベアルン子爵領で一つの国になっていれば、南仏とスペインが
一つの国になっていたかも
そして北フランスは神聖ローマ帝国の西部を手に入れようとしたかもしれない 中世人の考え方だと、天国が唯一神によって治められているのとまったく同様に、
現世の世界もただ一人の皇帝が治め、全世界の教会はただ一人の教皇が治める
ものだった
だから、本来はビザンツのような専制帝国がキリスト教世界の
理想だったんだろうけど、西欧は封建社会になってしまったから
それができなかった 中国は秦帝国が統一したから次も統一されるようになったのか、
もともと統一される素地があったのか
でも夏から秦まで2000年もかかってるしな >>41
始皇帝が一度統一したら再度統一が容易になるようなインフラを整えた >>41
漢が崩壊してから、隋の統一まで400年かかったが >>42
「始皇帝」ではなく「フビライ・ハーン」なら、その意見に賛成できる キリスト教が無ければ中世以降のヨーロッパに大帝国があった可能性も >>44
始皇帝はそれまでゴチャゴチャしていた漢字の字体を今見る形に統一し
各国でバラバラだった度量衡も統一し
車輪の幅も統一したそうだ
なんでフビライなら? クロ―ヴィスやカール大帝のフランク王国も、しょせん未開の部族社会に
毛が生えた程度だからな
中国のような長い文明の歴史がある地域とは違うだろ 秦は大陸に広範囲に広がっていた中国人を統一したが、
中国人が広範囲に広がったのは
戦国の七勇が広範囲に中国人を入植させたり、
異民族を中国化させたから
だからまず植民が無いといけない ヨーロッパの場合、漢族のように圧倒的に優位な民族がいなかったからじゃね
ラテン系、ケルト系、ゲルマン系、スラヴ系と勢力が拮抗していた >>37
実際はドイツの方がはるかに関係深いけどね
隣国だから当たり前だけど >>47
五胡16国時代は似たような感じだと思うけどね
ただ南部は征服されなかったらそこが違う >>51
フランク王国より、五胡十六国時代の中国北部のほうが遥かにバラバラなカオス >>53
でも中国では結局異民族が漢族の文化に同化してしまった
ゲルマン人はローマ文化に完全に同化しなかった >>47
中国の支配者ってたいていが北方の異民族じゃないか >>54
それは、後世の解釈が違うだけ
実際には似たようなもんだ ポルトガルは、隣国スペインとの違いを際立たせるため、ポルトガル語をわざとフランス語に似せたという話だ
本当かどうかは知らないが ヨーロッパや日本の封建制というのは、未開の部族社会に、
ローマ法や律令という高度に発達した制度が入ってきた
ことによってうまれた特殊な状況だからな >>56
隋唐も北方異民族(北周の鮮卑)という説もある 明の永楽帝はトゴンテムルの子供らしいな
となると明ですら蒙古系王朝だったことになる
隋唐は鮮卑族だし宋は沙陀族だし漢人王朝はゼロに近い 永楽帝の母親は高麗人で元はトゴンテムルの側室だったが,明が大都を攻略したときに逃げ遅れ,美女狩りに捕まって朱元璋の後宮に入ることになった
ところが彼女は既にトゴンテムルの子供を懐妊していて,やがて産まれたのが永楽帝だったとされる この明の大都攻略の時代の話は,奇皇后という韓流時代劇に描かれていて面白い
主人公の奇皇后は,高麗出身の美女でトゴンテムルの次の皇帝アユルシリダラの母親という位置付け ルーツが北方異民族でも皇帝や政府は漢文化、漢人で構成されてるから浸透王朝というんだが
先祖がどうこういうなら日本の皇室も朝鮮系と言い張ることもできるぞ 中国の場合、ヨーロッパよりもオリエントの専制帝国と比べるのが
ふさわしいんじゃね
アケメネス朝ペルシアとか 中世では、11世紀の初めまで旧ガリアの地域は森におおわれ、
農民は貧しく、耕地もいまだわずかであって、貨幣も流通しない
部族社会が所々に点在するにすぎないものであった
このような状態では神聖ローマ帝国の併合など無理だろう 古代日本の部族社会の解体には荘園制が貢献したとの事
平安時代に中期になり荘園化が進むと、日本各地の農民たちは最適な場所に最適な人数が配置される農業労働者と化し、弥生時代からの農村共同体はほぼ消滅するに至る
ガリアやゲルマニアでも荘園制が部族社会解体に貢献したとするなら、近代国民国家の基礎はその時代に築かれたといって良いのかもしれない 16世紀初頭にイングランドの教会は国土の約3分の1を所有し、
しかも教会の富はローマ教皇のもとへ流れていたので、
イングランドの反聖職者感情は一種の初期的な「ナショナリズム」の
表現でもあった
主権国家とナショナリズムが出てきた時点で、
欧州の統一は不可能になったのではないか >>63
>主人公の奇皇后は,高麗出身の美女でトゴンテムルの次の皇帝アユルシリダラの母親という位置付け
あのドラマにおける史実はそこだけ。
あとはすべて創作、ファンタジー >>64
そこが「後世の解釈の問題」だというんだ
ゲルマン人は、ローマの文字を使い、ラテン語を学び、キリスト教に帰依して欧州人になった。
鮮卑も、漢字を使い、漢文を学び、中国思想を身につけて中国人になった。
やってることは同じだが、解釈が異なる 欧州史では「民族大移動」を強調し、中国史では「漢の文化に同化された」を強調する
それは政治的なイデオロギーの違いであり、起きた現象は似たようなものだ 早い話がそれは、「我々は古代のゲルマン人の末裔なのだ」を強調したいドイツ人と、「我々は古代黄河文明から一貫して中国人なのだ」を強調したい中国人の、思惑の違いにすぎない
「北から移住してきて定住し、南の文化を吸収して土着化した」という点では、どちらも一緒 >>56
五胡十六国のあれこれ、北朝、隋、唐、遼、金、元、清
中国北部の支配者は異民族なことが多いんじゃね 古代ゲルマン人とドイツ人、黄河文明と古代中国人も遺伝子工学的にも確実に連続性があるでしょ
少なくとも遺伝的にはそれほど連続性がない縄文人を自らの祖先と位置付けている日本史よりかはよほど確実性があるよ >>46
フビライハーン以後は、長期にわたって分裂したことがない >>71
ゲルマン人がラテン語話してる国がどこにあるの? >>32
ヴァロア朝が断絶してブルボン朝が発足したときに、スペイン軍が介入してフランス全国各地を転戦している。
三十年戦争のときも、スペイン軍がパリに向かって侵攻した。このときは危なかったが、スペイン軍が途中で進撃を中止したので助かった。
この時代は南ネーデルラントがスペインの領土で、そこにスペイン陸軍の精鋭が駐屯していた。
フランスにとっては大きな脅威だった。 >>71
ゲルマン人はローマの国制や元老院を導入してないが
隋唐ら中華文明に帰依して中華思想を利用した >>80
均田制、府兵制、租庸調制
隋唐の主な制度は、北朝が始めたものばかり 中華文明と比べるべきなのはビザンツ文明だろ
カール大帝の帝国や神聖ローマ帝国なんて、
しょせん「なんちゃってローマ帝国」だし 「古代ローマ帝国と神聖ローマ帝国に連続性は無いが、秦漢帝国と隋唐帝国は連続している」
というのは、まったく主観の産物というか、表面的なイメージによるもの
どちらも断絶していると思えば断絶しているし、連続していると思えば連続している >>85
宗室が北方異民族系だから連続性がないというのが論点だが
そのような主張は単なる詭弁ということだな 中国(漢族)はなぜ朝鮮とベトナムを同化することができなかったのか
どちらも地続きなのに 朝鮮に関しては結局のところ日本との緩衝地帯として有用だから
ベトナムはなんやろな?
宋が大越を併合にかかってもおかしくはないのに
漢土の北側を遼に取られた実質的な分裂状態では外部への拡張もままならないか インドシナ半島も統一されずに、いくつもの国に分かれているな
あの辺も統一帝国ができてもよさそうなものだが 朝貢国を征服する必要がないんだわ
皇帝の徳を慕って朝貢する国が多いほど、皇帝の統治の正当性が高まる >>89
インドシナ半島はわりと平坦な地形だが、無数の河川と湖沼に寸断された濃密なジャングルは、非常に統一しにくい風土
それでも、クメール帝国は大きかった 雲南省から南下してきた民族と、インドネシアから北上してきた民族、さらには華僑や印僑が混ざりあう
中国文化圏の北ベトナムと、インド文化圏のそれ以外に分かれる >>88
宋の神宗の大軍が南下してきたのは、ベトナム史上でも屈指の危機のひとつだった 英獨佛の中世の歴史を俯瞰するとスタート地点では獨に比べ英佛は結構間抜けなことばかりやってんのに何故か近世になってからは宗教問題で揉めたり領邦の自立性が顕著になった獨と違って中央集権化がいっそう進んだんだよなあ 東アジアでも、スタート地点では日本は中国・朝鮮・ベトナムといった
大陸の国々より劣っていた
唐をモデルにした律令制もうまくいかなかったし
それが長い間のブレークスルーの期間を経て大陸の国々を追い越す >>95
それは現代の欧州地図に影響されすぎた見方
中世前期の神聖ローマ帝国は「ドイツ」ではない。
当時の最先進地域である北イタリアを主力としていた >>81
それ全部後漢時代の民屯、兵戸制、租庸調から来てるけど >>96
「律令制がうまくいかなかった」というのが何を指してるのかがわからないが、律令制を体系的・組織的に実行したのは、唐を除けば日本だけ >>100
まあ、そうだろうな
日本と違って記録が残っていないので、「おそらくやってただろう」という話なんだが イングランドでは、ウィリアム1世のノルマン征服王朝が
アングロ・サクソン期の領邦君主領を解体し、
王が全国土の支配者となって司法・課税権を一手に集中した
貴族も課税対象となる
地方における王権の代理人には、王に納付金を納める代わりに
職務を請け負う「シェリフ」がなるが、大陸にも片足を置く王権に対して
土着勢力としての独立性を帯びる
たとえシェリフが王に反抗しても、王権の代理人というその機能が確立
しているため、王政そのものの解体ではなく、王政の枠組み内での
発言権を確保する方向に働いた
このためイングランドは、統一国家の成立と地方自治システムが
バランスを保って進行した
フランスの三部会にあたる議会についても、王政と貴族とのバランスが
保たれている >>102
たしかに、征服王朝だってのが大きいな。
1人の封建領主が、周囲の封建領主を次々に併合していくのは並大抵のことではない。 ノルマン人はシチリアも征服したけど、ここはイングランドとは逆に、
近代になってからは欧州の後進地域になってしまったな >>104
それはシチリアだけでなく、南欧全体にいえることなので仕方ない >>99
>「律令制がうまくいかなかった」というのが何を指してるのかがわからないが、律令制を体系的・組織的に実行したのは、唐を除けば日本だけ
高麗王朝や李王朝の人たちはジャップの野蛮なサムライ国家制度を見て昔はこんな連中でも我らと同じ律令国家だったのだと嘆いていたよ 唐も新羅も律令体制なんてうまくいかなくて群雄割拠までは日本と一緒
中国は宋から徹底した文治官僚主義で以後清まで律令による中央集権
朝鮮は真聖女王の頃から各地で封建領主が割拠するが高麗の成宗による中央集権政策によって
廃藩置県が行われ地方豪族の子弟を開城に集めて官僚化に成功
高麗末に再び封建領主層が割拠するが李朝が勃興すると封建軍は解体され義興三軍府に吸収
地方豪族は両班になるかさもなければ郷吏になり律令機構の下部組織になる
日本は平安末期から封建領主が割拠していたが秀吉の惣無事令以降はそのまま安定期に入ってしまい
以後明治政府が成立するまでずっと封建制 グレゴリー・ヘンダーソンは、朝鮮は国家と個人の間に存在する
中間諸団体が形成されない「大衆社会」ととらえ、そういう社会の
ありかたは基本的に中国と共通しているとみている。 ドイツ中心の三十年戦争史では、フランス対スペインの戦いに触れられることが
少ないな
フランスとスペインは、1643年、ネーデルラント国境に近いフランス北部の
ロクロワで、史上に残る大会戦を演じた。
この戦いは、スペインからフランスへ、西欧の覇者の交代を告げる、
17世紀ヨーロッパでもっとも重大な会戦であった。 >>109
それは中村千枝の分析した日本の社会構造そのものだな
日本では個人が「タテ」に分割されて国家や企業に直轄支配されていて「ヨコ」の関係が存在しない
そのため日本では企業や国家の前には個人は無権利に近い状態に押しとどめられている
一方中国やインドでは同業者間の「ヨコ」の連帯意識が強く一人の労働者の権利が脅かされると
同業者全体が立ち上がって労働争議を起こす現象がみられる
これはヨーロッパ特にフランスやドイツに通じる行動様式である これから米中新冷戦が始まるが、確実に中国側の敗北に終わるだろうな
英仏もアメリカ側についた >>109
中世の朝鮮半島には封建制というものがなかったからな
高麗時代の武臣政権と日本の鎌倉時代における武家政権(征夷大将軍と御家人との関係)を比較してみるとよくわかるよ
日本の武家政権にみられる御恩と奉公は欧州のレーエン制におけるBenefizialwesenとVasallitätによく似ている
残念ながら中国、朝鮮半島にはこのような制度は見られない 近世のフランスは、中世末以来の王権強化の勢いにはずみがついた
その間接的な原因は、イタリア戦争に求めることができる
長期にわたるイタリア戦争を通じて、フランソワ1世とアンリ2世は、
政策決定・執行の迅速化と、膨大な軍事支出に対応できる国家財政の基礎強化とが
必要であることを痛感した
その対策として、少数の忠臣からなる国務会議を重用し、中央の財務行政機構の
改革に着手する
特権身分や特権都市を除外して、所得にかかる直接税であるタイユ税と、
塩税その他の間接税とからなる国王税の課税強化を行うとともに、聖職者に対しては
上納金を要求する。国庫を潤すべく、さらに司法・財政の官職を大量に売りさばく その結果、国王裁判所の司法官、直接税の配分・徴収を担当する財務官が増えていく
このことは結局、国自体の司法・行政機構を充実させ、したがって王権による
支配の強化につながる
フランスはイタリアを手に入れることはできなかったけれど、
その代わりに王権の強化が進んだ 中国はあと10年で少子高齢化社会に突入する
つまり豊かになる前に社会全体が老いるということ
これで覇権国家になれるのか? >>1
もしフランスに神聖ローマ帝国を併合するだけの国力があったとしても、
イギリスが対仏大同盟を組んでそれを邪魔したんじゃね? >>124
全然似てないけど
というか今の史学会では「職の体系」を指して封建制とは呼ばなくなってる
ヨーロッパや中東の封建制は土地の私有を前提としているけど職の体系はそもそも土地の私有を認めてない
例えば得宗家が地頭を鉢から植木入れ替えるみたいに別の土地にやったり荘園領主が散田(土地の割り当ての変更)やってるけど
これなんて「職の体系」が封建制ではなく東アジア的な公地公民制のもとに成り立っている証拠
また西洋の封建制は双務関係を前提とする土地契約だけど日本の武士団の場合は「御恩と奉公」の言葉が表す通り明確な主従関係
家臣は名簿を提出した以上は土地の安堵に関係なく絶対服従だし家臣の側から君臣関係を破棄できない点も西洋と異なる
むしろ中世ドイツのゲジンデに近い存在 日本人で、中世ヨーロッパの騎士にロマンチックな幻想を
抱いている人がいるが、現実の騎士は夜盗に等しい存在だったよな
そもそも前近代の社会では掠奪が悪いことだとは思われていなかったし 中世の国づくりは否応なく王朝が中心になるが、ドイツの場合その王朝が
安定しなかった
そして大空位時代に地方的国家権力を固めてしまった諸侯にとって、
強大な国王=皇帝の出現はもはや好ましくない >>134
日本も天皇と将軍の二本柱だから不安定なんかな 実際、日本も戦国時代までは不安定だったからな
内乱がしょっちゅう起こっているし ドイツでは皇帝権の弱体化とともに、帝国のタガがゆるみ、司教・大司教などの
聖界領が世俗領邦と並んで半独立の地位を得るに至っていた
これは教皇権力がもっとも入り込みやすい状況であるといえる
そして教皇は実際にこれを利用し、ドイツからさまざまな形で金を
吸い上げていたのであって、まさにこの意味でドイツは「ローマの雌牛」
と呼ばれていたのである
やはり王権がしっかりしていたイングランド、フランスに比べて、
ドイツは損してるな ヒトラーの第三帝国などを見るとあの国は地方にある程度の自治権を持たせないとあのよう暴走が起こるので皇帝権力=強大な中央集権って本当に必要な事かどうか疑問に思うことがある EUも、完全に政治統合までして中央政府をつくったらおかしなことになったりして ローマに対する反発から宗教改革を起こしたものの、結局は諸侯権力を強化し、
領邦の国家体制をさらに固める結果になった
西欧ではイギリス、フランスといった単位で推し進められた国家の教会統制が、
ドイツの場合は領邦ごとに行われ、中世来の国家的分裂が宗教的にも
徹底されてしまった >>141
宗教的寛容という観点おいてはドイツの方がいいよ
カトリック一色、アングリカンチャーチ一色なんて何か嫌じゃん 別に、神聖ローマ皇帝にこだわることないだろ
プロイセン王国とかバイエルン王国とかが強大な国家になればいいだけ。
実際にそうなったし 第二帝国も第三帝国も寿命が短かったことを考えれば1000年続いた第一帝国の体制が正解だったということ
特に第三帝国の崩壊の仕方は悲惨だった 世界中を見渡せば、国民国家というシステムが向いていない地域のほうが
多数派じゃないのかね。
オスマン帝国はアルメニア人虐殺事件を起こしたし、
バルカン諸国は民族浄化を起こしたし、
インドはインドとパキスタンに分裂したし、
中国は現在進行形でウイグル人を民族浄化してる カール5世の時代の神聖ローマ帝国は、東からのオスマン帝国の脅威にさらされていた
戦争のためには資金が必要であり、その資金の捻出のためにはドイツ諸侯の協力が
必要であり、そのためには諸侯への譲歩が必要だった
やっぱり神聖ローマ帝国はフランスに比べて地理的条件で不利だったと思う >>147
フランスは、神聖ローマ帝国の脅威にさらされていた >>147
フランスは周囲を強敵に囲まれた厳しい位置にある 第二帝国・第三帝国は、神聖ローマ帝国ではなくプロイセン王国
神聖ローマ帝国はオーストリア帝国に受け継がれた 中世の北ドイツは、森林と湖沼に覆われた湿地帯だった
イングランドや北フランスに比べて、開発が遅れた >>145
異民族がいたり部族間抗争の激しいところは国民国家に向かないかも知れないよね
ドイツの場合は明らかに後者
日本はアイヌや琉球王国などがあったが「日本は大和民族による単一民族」というイデオロギーの基に力技で無理矢理国民国家にした様な感じがする >>152
アイヌはもともと日本人に経済的技術的に完全に依存していてどうせ独立した民族として長くはもたなかった
琉球も弥生文化大和朝廷を経ていないとはいえ結局日本語族の話者に過ぎない
辺境の民族ですらキリスト教を受容し印欧語族の到来より以前から農耕生活を送っていたヨーロッパとは訳が違う >>152
ヨーロッパには国民国家に向かない地域がたくさんあるから、
EUというのはある意味それを乗り越えようとする試みだったんだろうけど、
EUもうまくいっていないんだよな
いったんナショナリズムが広まってしまうと、神聖ローマのような
中世的普遍帝国の時代に戻すのは不可能だろうし フランスというのはフランク人の国家という意味(ドイツ語でフランスのことをFrankreichという)でフランス語ではドイツの事をAllemagneといい「アレマン人」の国という意味らしい
要するに欧州中原を抑えたフランク人たちは今のフランスを中心に周囲にいたゲルマン人を次々と征服していった
イタリアのランゴバルド族、イベリア半島の西ゴート族、南フランスのブルグンド族、北ドイツのザクセン族、そして南西ドイツのアレマン族など
大きくなり過ぎたフランク人の帝国は分裂せざるを得ず、西フランク→フランスはフランク人の国民国家を形成し、東フランクはザクセン人、フランク人、アレマン人、バイエルン人(他にブルグンド人、フリージア人、チューリンゲン人など)といった
諸部族による連合国家を形成し、それがカール大帝の築いた帝国理念を継承し神聖ローマ帝国になっていく >>152
「ドイツはゲルマン民族による単一民族」というイデオロギーの基に力技で無理矢理国民国家にしたのは、ドイツも同じ
それも、19世紀後半以降のほぼ同じ時期に 近代の国民国家というのは、大なり小なりそういうものだ >>154
「ベルギーなどという小さな枠におさめようとするから、フラマン人とワロン人の対立が終わらないのだ。
ヨーロッパという大きな枠に広げれば変わるだろう」
というような期待が、統合前には各地であった
結果として、その期待は裏切られた 1988年に、イタリアのオリベッティ財閥の総帥カルロ・デ・ベネデッティが、
ベルギーの「ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック」を乗っ取ろうとした
するとナショナリズムとは普段は縁が遠いベルギーで、
「ソシエテ・ジェネラルをイタリアに奪われるな!」という強い声が各方面から
起こった
人工的に創られた国でもナショナリズムは存在する ウィーン会議の後、メッテルニヒがつくった「ドイツ連邦」は長持ちしなかったな
やはりナショナリズムには勝てなかったのか ドイツの権力の変遷
ザクセン→フランケン→アレマン(=シュヴァーベン)→バイエルン(オーストリア)→ザクセン(ブランデンブルク・プロイセン) 中東でも、エジプトとシリアが「アラブ連邦共和国」をつくったことがあったが、
結局解体してしまった
汎アラブ主義なんて実現不可能だろうな 同じ漢民族の国である中華人民共和国と中華民国が別の国で、
中華人民共和国の中に多数の異民族がいたりする 日本だって大和朝廷が統一する前は全然同じ民族じゃなかったかもしれんぞ 隼人や毛人、土蜘蛛とか明らかに違いそうだしな……
部族も弥生系と縄文系で言語もだいぶ違うだろうし ローマ帝国やオスマン帝国のような、前近代の多民族帝国を、
「多民族が共存していた」
といって持ち上げる人がいるけど、あれは人権も民主主義もない時代だから
機能したのであって、現代にそのまま持って来るのは不可能だろう 日本のような、山あり谷ありの寸断された国土では、言語が無数に分かれているのが当たり前 >>165
マダガスカル人は言語はマレー・ポリネシア系だが黒人の遺伝子を過半数持つ
一方的にアフリカ大陸から奴隷として黒人を連れて行ったからだ
黒人系とマレー系の部族が独立して存在する訳ではない
日本においても同様だろう
大陸から貢女や技術者を連れ出していったことは記紀や三国史記三国遺事にも記録されている
>>167
それはおかしい
縄文時代から既に海によって交易路が確保されているのになぜ無数に分かれていると断言できるのか?
言語が無数に分かれている土地の方が異常なのではないか? >>168
「山あり谷ありの寸断された国土では、言語が無数に分かれているのが当たり前」というのは、あくまでも一般論
「古代の倭も、おそらくそうだったであろう」という類推であり断定できない スイスの場合、アレマン族の定住した地域がドイツ語圏となり、
ブルグント族の入った地域がフランス語圏となり、
アレマン族に追われたラエティア人はアルプス地域に移り、
その地域がレートロマンス語圏となった
アルプスの南側のティチーノ地方はランゴバルト族の侵入を
受けたので、イタリア語を使用する地域となった
スイスの言語の多様性は地形よりもゲルマン諸部族の
移動・定住の結果なのかもしれない >>168
交易路が整備されてるから言語が統一されるという発想が妄想だろ
古代地中海世界はローマによる統一権力が打ち立てられるまで言語的にもバラバラだったじゃないか >>171
なぜ広さも環境も全然違う地域を引き合いに出す?
陸続きで途轍もなく広いなら無数の民族に分かれるのは当然のこと
二重の海峡で隔てられ、限られた者しかたどり着けない細い島国とは全く違う >>172
普遍的に成立する話だからだぞ
島国なら違うと言うなら、ニューギニア島やフィリピンにどんだけ言語があるか知ってるか?
無数の言語があるぞ
古代の日本も部族ごとに違う言語を使っていたとしてもなんら不思議はない 朝鮮海峡、対馬海峡、壱岐海峡
間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡
三重だった >>173
フィリピンの言語は全てマレー・ポリネシア系
本来の原住民である筈のネグリトまで彼らの固有の言語は喪失している
ニューギニアに至っては熱帯であること、中央高地という冷涼な地域が沿岸部とは異なる文化圏となっていること
そこで営まれる焼畑農業が定住と富の集中を妨げることなどの要因により
一つの民族が強い力を持って国家社会を形成し統一に向かうという流れが起きない
個々の事例を自分の頭で考えることなく、同様に違いないと合点するのは思慮が足りないよ 熱帯気候ということは道を整備してもすぐに植物が繁茂したり大雨で壊されて使い物にならなくなるということ
インフラ開発の難易度が段違い >>175
反論になってないなあ
こっちは交易路が整備されてたら島国では言語が統一されるってのに反論しているんだよ
だいたい、島国の中でも文化圏が異なれば言語が異なり混交しないって自分でも書いてるじゃないか
日本列島のように細長く地勢が多様で、人口的にも希薄な時代であればそれぞれ隔離された部族間では違う言葉を使ってても不思議はないんだよ
日本語自体が北方系言語や南方系言語のミックスだという説もあるんだしルーツが異なる言語集団が複数存在してただろうね
まあ交易によって交流があったとしても本格的な言語統合が進んだのは大和朝廷による支配が及んでからだろう 日本列島が大和朝廷によって統一されず、いくつもの国に分裂したまま、
というシナリオはあったんだろうか
そうなると北九州の国は東北よりも朝鮮半島との関係のほうが
強くなっていたりして >>177
日本は温帯道を拓けばきちんと拓ける
なぜ熱帯土人諸島しか引き合いに出せない?
それはお前の教養がないからだろう
縄文時代の日本列島では遠方との交易の痕跡が多く確認されており部族が隔離などされていない
そもそも日本全国どの都道府県も最低標高が1000mを超えることがない
標高の違いは生活様式の違いとなり、民族の違いとなりうる
日本列島は一番内陸でも海から大して離れておらず、そこら中に盆地がある
高地だけの独立した経済圏は営めない
本州よりもはるかに狭いにも関わらず標高の高い台湾や面積が広大な上に冷涼で住みやすく熱帯特有の疫病から守られる高原が広くあるニューギニア島
これらは民族が細分化する条件を備えている
日本はそうではない
逆に同化する条件がとても強い たとえば越中富山を例にとると、南の名古屋との距離や途中の地形は、アルプス山脈をはさんだ南ドイツと北イタリアの関係にクリソツだ。
東の新潟に行くには、「親不知・子不知」と呼ばれる険しい海岸の難所しか通るところがない。
普通に通行可能なのは唯一、西の金沢方面だけ。
でも、そこから先の京都に行こうと思ったら、やはり琵琶湖と山地にはさまれた米原あたりの狭い回廊しか通るところがない。
東日本から京都に行くには、どっちにしても、ここしか通るところがないので、ここさえ抑えればシャットアウトできる。
このため、古来から壬申の乱、関ヶ原の戦いと、天下分け目の決戦が何度も起きた。 >>177
そもそも日本語はどこかの既存の語族のミックスなどではない
むしろ逆に日本語こそが始原の言語からいち早く分かれた
豊富なオノマトペイアは外部に由来せず自然の音から言語を創生した証拠
アプラウトによる倍数法の数詞は世界の他のどこにも類例を見ない
補充形の一切ない極めて整った格助詞システムは朝鮮語にもアルタイ諸語にもドラヴィダ語族にもない
音韻体系は極めて単純明快で、限られた母音と子音からなる開音節、そこに2段のトーンアクセントが加わり、これこそがありとあらゆる多重子音が摩滅した結果である
これらの特徴は大陸から適度に隔離された島国という環境で何千年もの期間をかけて育まれた特徴だ >>180
それはもしも船が使えなかったらという仮定に過ぎない
イタリアとドイツを海路で行き来するにはイベリア半島を回らなければいけないが
親不知は小舟でも楽勝 >>165
隼人、蝦夷、土蜘蛛は縄文系だけど
それらは同じものだったのかどうか >>178
同化後でも、戦国時代とかが長く続けば分裂することはありえるな >>183
土蜘蛛というのは朝廷の支配下にない集団を指すのであって縄文人とはどこにも書いていないぞ
隼人にしろ蝦夷にしろそれを縄文系と断言するのは今日の遺伝的勾配に基づいた「既出の研究の合成」という「独自研究」に過ぎない >>179 >>181
温帯だから拓けば拓けるとかワロタ
日本の森林の繁殖力知らないんだね
それに最初に古代地中海世界の例をあげてんのに熱帯しかあげてないとかなんで嘘つくんだろ?
日本も世界有数の山岳地帯で、多くの島嶼に別れているのにそういう要素はまるっと無視するのね
日本語の大方言分布が縄文時代の言語分布の名残という説もあるんだぜ?
古代の時点で地方ごとに異なる基礎語彙があったらしいというのもこれを裏付けている
始原の言語とかいきなりオカルトワード言い出した時点でなんかまともな言語学の知識が乏しそうだけど
開音節わオノマトペが豊富なのは南方系言語の要素、
格助詞や数詞は北方系言語の要素って昔から言われてるんだよなあ
船による交流があったことは否定しないけどそれが言語を統一するほどの統合力はないよ
そもそも古代の交易ルートって基本的には近い集団同士の小さな交易ルートがたくさん結合したものであって、交易対象の物品は驚くほど遠方まで運ばれるけど、人間はそこまで移動してないことが多いんだわ
だから交流といっても近隣部族とのやりとりが中心で遠方の部族と直接接触するわけではないんだよね 原始的な交易って沈黙交易が主体だったらしいし
その場合そもそも相手と喋らないから言葉も違ったままじゃね >>187
まーた北方系南方系なんて科学的根拠のない説に縋ってるや気持ち悪っ!
それこそオカルトワードやんけ
「人を煽りたい時に使う悪口は自分が言われて嫌な事」っていうガイジの行動パターンそのまんまで草
馬車も使えない険しい地形だからこそ水運が発達した
船で運ばれた物資の量は陸運とは比較にならない程多い
これは地勢と交通を語る上で義務教育レベルの常識である >>189
はあ?
君の言う始原の言語説こそ科学的根拠ゼロの妄想乙なんだけど?
現代日本人の祖先がいろんなルートから到来した様々な集団であることは
DNAの研究からも既に明らかになってるんだけど、
それじゃあ、あなたの言う「始原の言語」とやらを話してた集団ってどこの誰なのさ?
まさか日本列島内で独自に進化した民族集団が縄文人だとか言わないよなあ?w
そもそも言語学をかじってればわかるけど基本的に文字やラジオ、テレビがないような時代、
人間の集団って離れていれば言語もどんどん変化して離れていくもんなんだよ
日本が同化力の強い土地柄で、水運によって自然と言語が統合されるというなら
いま現に日本各地に残っている方言はいつどうやって生まれたんだよw 確認される世界最古の往復航海は3万8000年前の本州と伊豆諸島との間で行われた
この事からも日本列島で如何に海運を古くから発展していたのかが窺い知れる
>>187くんは更新世には日本は大陸と陸続きだったと未だに信じていそうだね
でもその説は覆されたよ
氷河期でも対馬海峡は海で、船を使わないと人間は渡ってこれない
だから北京原人は日本へ渡ってこれなかったしゴッドハンドはインチキだった
縄文人の遺伝子は北方と南方の混合ではなく両系統のモンゴロイドが分かれる以前に分岐したもの
日本語も然り >>191
>確認される世界最古の往復航海は3万8000年前の本州と伊豆諸島との間で行われた
それも何の反論にもならないな。ちょっと考えてみればわかるが、
遠く離れた土地Aの民と土地Bの民の間で交易が行われていたからといって、
その交易に従事している人間の数は一握りなのだから、
交易に直接関わっていないA民とB民の言語が統合されるわけではない
縄文時代には複数の文化圏があったことが考古学的もわかってきているし
人口密度もとても低かったから、離れたところに住んでいる部族同士では言葉は通じないままでしょ
そういう状況が変わってくるのは稲作が本格化して人口が増大する弥生期以降な
後半に至ってはさらに意味不明w
考古学や遺伝子研究の結果を知らないで語ってるだけとしか思えない
そもそも日本に到来した古モンゴロイドも、台湾や東南アジア方面の南ルートや
シベリアを経由した北ルートとあって非常に多様性がある >>190
始原の言語が一つだと思っているガイジよ
双子語って知ってるか?
ニカラグア手話は?
お前の知識は所詮その程度だ
本州の内陸部で言語島になっているものに井川方言、奈良田方言、十津川方言があるが
これらはどう見ても他言語とのクレオールなどではない
最大で日本祖語まで遡る古い特徴の保存と独自変化に周囲とも共通する特徴が幾分かといったものに過ぎず、文法に大差はない
お前の思う日本語の方言の起源とまさに同じくして生まれた言語を教えてやろう
ヴェッダ語だ
このヴェッダ語は印欧系のシンハラ語とスリランカの原住民の話していた現存しない言語とのクレオールだ
シンハラ語ではnaa(ない)、epaa(〜しない)、baa(〜できない)、nemee(〜ではない)、nattaN(〜でなければ)、bari(〜ができない)を区別するが
ヴェッダ語ではそれらは全てkoduy一つに統合される
こんな風に文法の単純化はクレオールの特徴だ >>192
無知を晒すな単芝おじさんよ
その縄文人が北方南方両方からやって来た時代にはモンゴロイドが北方南方どころか新モンゴロイドすらいなかった
https://livedoor.blogimg.jp/ishiwi/imgs/2/8/28510bc7.jpg >>192
土器を見ると(中には高さ 1 メートルにも達する重量級もある)、縄文時代の狩猟採集民は遊牧ではなく定住だったはずだと述べた。
定住のさらなる証拠は、その重い石器にも見られるし、半地下式で改築の跡が見られる住居や、百以上の住戸を持つ大集落遺跡や墓地などでも見られる。
こうした特徴はすべて、数週間ごとに拠点を移し、作るのは小屋程度で、所有物も少なく簡単に持ち運びできるものだけという現代の狩猟採集民とは大きくちがっている。
この定住生活が可能なのは、ある中心的な居住地からわずかな距離内で縄文人の手に入った、多様な資源豊富な居住地があったからだ。内陸の森林、川、海岸、湾、海洋などにすぐ到達できたのだ。
縄文人は、狩猟採集民としては史上最高クラスの人口密度で暮らしていた。特にナッツの豊かな森林、鮭の季節、生産性の高い海のある中央日本と北部日本ではそれが顕著だった。
縄文時代の日本の人口は最高25万人??もちろん現代日本と比べればわずかだが、狩猟採集民としては相当な数だ。現代でこれに比肩する規模といえば、太平洋北西岸やカリフォルニアのアメリカインディアンくらいだ。
かれらも同様にナッツの豊かな森林、鮭の季節、生産性の高い海を持っている――人間社会の収束進化の事例としては見事なものだ。
(ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』) >>193-194
おやおや、自分で煽りワードを否定しておきながら、
自分でも使うとは、破たんしてないか?
「人を煽りたい時に使う悪口は自分が言われて嫌な事」なのだから
君は自分がガイジだと自覚していてガイジと言われるのが嫌な人間だという自己紹介なのか?w
なら君のいう「始原の言語」とやらの定義をまずはっきりさせるべきだね
君以外内容を把握してないものについて後出しでいろいろ言われてもキチンとした議論にならないよ
単に煽りカスになりたいだけなら、勝手にしてという感じだが
で、北方南方から独自に到来した古モンゴロイドは、地理的隔絶から
異なる言語を用いていただろうから、結局論旨に変わりはないんだよなあ >>192
日本人の先祖は6300年前に朝鮮人の先祖を豊かで暖かい日本列島から寒くて貧しい朝鮮半島へ追い出した >>196「私は言語学も地理もできないただのヒョーロクダマです」
まで読んだ なんだ、いきなり罵倒にレベルを落とすのか
反論不可能に陥ったということで、試合は終了だな
ごくろーさんw で、始原の言語ってなに?
ボクのかんがえたさいきょうのにほんごのるーつでちゅかあw? >>196
もしかしてこいつハングル板で暴れてたクルチガイジって荒らし?
改行の癖が似てるけど ハングル板とか覗いたことすらないけどw
あ〜つまりは縄文時代から日本語が独自発展したという歴史観を開陳したいだけのネトウヨか、こいつ
悪いけど歴史に自分の政治的嗜好を持ち込むのってやめた方がいいよw >>196
まず>>193に答えてはいかがですか?
おガイジ様 >>207
ガイジ連呼のガイジ君へ
まず日本祖語とは何か、始原の言語とやらは何か
きちんと定義してからはじめましょうんw 「ガイジの行動パターンそのままで草」
↑自己紹介すぎるw >>208
常勝無敗の神聖ガイジ大皇帝さま!
まず双子語とニカラグア手話が何なのかお答えいただけませんか?
もちろんウィキペディアは御覧あそばせてはいけませんよ? ガイジ連呼君はなんか発狂しちゃったけど結局何が言いたいのか
・縄文人は始原の言語(?)を操る集団だった
・日本中の縄文人は始原の言語を使って意思疎通できてた
・その理由は海運が発達してたから
・日本語はどこかの既存の言語のミックスなどではなくこの始原の言語から発展して生まれた
う〜ん、全部無根拠の妄想やね >>213
双子語とニカラグア手話についてご存じないのですか?
おガイジ天皇さま! >>214
知ってるけど、お前の態度が悪いから教えてやんない 実際縄文文化がなかったから先住民を塗り替えた筈の南琉球の宮古語八重山語与那国語にさえ基層言語の存在は確認できないよ
先日本祖語から分かれた日本語族の言語Xの基層に日本祖語から分かれた琉球祖語の基層の上に中古日本語の文語の影響が乗っかって無限ループ構造 草とかチー牛など他人の言う事を真似ばかりして自分の頭で考えないのは、遅延性エコラリアといって自閉症スペクトラム障害の特徴の一つである まあ仮にガイジ連呼君の言う始原の言語(?)=縄文祖語的なものを認めたとして
1万年の縄文時代の間に列島中で変化しまくった方言・別言語が生まれただろうということは容易に想像できるだろう >>219
一万年も遡ったらそれこそ朝鮮語アイヌ語日本語の共通祖先が存在できる
それが縄文語である >>214
ニカラグア手話と双子語で何を主張したかったんだコイツは >>221「最後にレスした方が勝ちガイ」
まで読んだ >222
いや、純粋に何が言いたいのかわからん
まあ全体的に説明がないまま、ガイジ連呼で発狂しちゃったから
本当に何が言いたかったのかわからないままなんだけど ガイジとかまで読んだ。など他人の言う事を真似ばかりして自分の頭で考えないのは、遅延性エコラリアといって自閉症スペクトラム障害の特徴の一つである >>220
そんなものは古すぎて資料もなく再構すら不可能 政子みたいなバーサーカーがウジャウジャ居たんでしょ(鼻ホジー
マジレスすると渡洋侵攻をマトモに展開できるようになるのはアメリカ海兵隊以降の話やぞ ドイツが統一せずに、プロイセン、バイエルン、ザクセン、ハノーファーみたいな
各領邦がそれぞれ独立国家になっていたほうがよかったんじゃね?
ヨーロッパにはルクセンブルクやリヒテンシュタインのようなミニ国家もあるし、
統一しなくてもなんとかやっていけたと思う 民族主義という無茶な幻想のせいでドイツは3度も滅んだ ドイツに限らず、西欧起源の思想・文化が広まったせいでおかしくなった国は多いよな
インドでは、ヒンドゥー至上主義政党の中で最も過激として知られる
シヴ・セーナーが、カースト制度最上位階層の多くを占めるといわれる
アーリア系について優生学的擁護を訴える政策をしばしば提言し、
じわじわと支持を広げている。 ドイツ連邦ってアメリカ合衆国とはちょっと趣きが異なるよね ドイツ統一運動は、少なくとも主観的には、「弱者」の運動であった
多くのドイツ人は強い国家を持たないドイツがヨーロッパの国際関係において、
不当にも二流の地位しか与えられていないと考えていた プロイセンは単独でも欧州列強の一角、
バイエルンもかなりの大国だな カリフォルニアは独立すればイギリス・フランスに匹敵する大国、
テキサスやフロリダもかなりの大国だ ドイツ統一って元々は下からの改革なんだよな
ブルシェンシャフトのような大学の学生組合のような >>228
攻められたら弱い
第一次大戦のベルギーみたいになる ドイツという国はやはり覇権国家には向いていないのかな
現在のユーロだってドイツだけが得をする仕組みになっているし、
他国にも利益を分け与えるようなシステムではない >>237
>現在のユーロだってドイツだけが得をする仕組み
その割にはこれに反発する国々がユーロ圏離脱する動きって見かけんような >>236
だからメッテルニヒはドイツ連邦を創ったんじゃね?
オーストリア、プロイセンを中心に39の独立邦国が、
国家主権を維持したまま相互の安全保障をはかる体制 ドイツの地理的位置が問題なんだよ
ドイツはヨーロッパの中原に位置し様々な民族の通り道になっている
古今東西、こういう場所に位置する地域には統一国家は生じにくい >>241
春秋時代の中原だろ
周囲に晋・秦・斉・楚と大国が台頭する中、都市国家が林立して草刈り場になっていた >>241
中央アジアや西アジアがそうだね
西アジアで長く統一国家が続いたのはオスマン帝国ぐらいじゃないかな?
中央アジアなんて一時チンギスハーンまとめたけどすぐに崩壊した >>240
地形的には平野だが
昔は森が鬱蒼としてたんよな >>243
>西アジアで長く統一国家が続いたのはオスマン帝国ぐらいじゃないかな?
オスマン帝国が台頭したのは、イギリスやフランスの統一が進んだのと同じ頃ではないか?
それ以前の西アジアは確かにバラバラだったが、西欧だってその頃はバラバラだった ヨーロッパの中原って頭悪い単語だなw
平原レベルでいえばポーランドリトアニアあたりのが上だけど強大な国家になったぞ
>>243
そりゃ遊牧民の性質に起因する流れだろ
いろんな民族が入り乱れたメソポタミアなんかも強大な王国が成立したし
なんかアテにならん説だな >ポーランドリトアニア
ここもドイツみたいな選挙王制でしたね ヨーロッパの中原が何を指すかわからないけど
文化の中心で豊かな土地というならパリ周辺が中原ダルォ? イタリア(ローマ)→フランス(パリ)→ドイツ(ベルリン)と欧州の中心が移ろっている様に見えるんだよなあ >>249
それは政治の中心であり、表面的な問題
西欧文明の本当の中心軸は、昔も今も北イタリアのポー川平野からライン川を通ってフランドルに至る「ブルーバナナ」 かつての欧州の先進国は、イタリア・ギリシャ・スペイン・南仏・トルコといった南欧だった
17世紀頃から、イギリス・フランス・オランダ・ドイツといったアルプス以北に移動した >>250
ベルリンはブランデンブルク辺境伯というぐらいだから東の辺境ですね
フランクフルトとかあの辺 経済力を背景に政治面でもEUの主導権を握ろうとするドイツとそれに猛反発するフランス。
EU内部は親独派、親仏派、そのどちらでもない国の派閥抗争が激しかったりして ロタールの国(ロタリンギア)はフランク王国の中で最も豊かな地域だったから、
東西両フランク王国の垂涎の的だった フランドル時代は先進地域だったベルギーだが現在はオランダ人・フランス人双方から
田舎呼ばわりされてたりする?
オランダ人はフラマン語、フランス人はベルギーのフランス語をバカにしてるってどっかで
見たおぼえあるが ベルギーは一時オランダに併合された時期があるが、その時代には公用語は
オランダ語だけとされ、大臣や役人の多くがオランダ人によって占められた ベルギーってずっとオランダ(ネーデルランド)の一部だと思ってた ネーデルラント独立戦争で宗教上により離脱した後の南部がスペイン側について
戦ってたとしたら,北部(オランダ)と南部(ベルギー)は現在でもその事で
深い因縁持ってたりして 15Cのネーデルラントは南部(フランドル)の繁栄ぶりがよく語られるけど
同時期の北部は存在感が薄いような。
17Cに入ると逆に北部のほうが繁栄してった感あるが >>262
ネーデルラントは、もともと森林と沼沢に覆われた湿地帯だったのを人間が干拓して創った新しい土地で、歴史に登場するのは12世紀のこと。
江戸や上海と同じで、近現代における重要性のわりには、わりと歴史が浅い。
それに比べてフランドルは、中世から先進国で別格だった。15世紀だと、まだその伝統の重みが違った。 ブーヴィーヌの戦いでフランスが負けていたら、その後の欧州の歴史は
変わっていたんだろうか >>1
ガリアとゲルマニアは、ローマ時代には全く異質な地域だったし、
むしろフランク王国によって統一されていた時期のほうが例外的だったんじゃね? 日本は外部から侵入した勢力が王になったことですぐに統一されたのかもしれん >>266
外部から侵入した権力者など、マッカーサー元帥しかいない もし日本から天皇制が消滅したら、日本という国はバラバラになってしまうんだろうか 神聖ローマ帝国など創らずに、単なる東フランク王国のままでいればよかった
もちろんイタリア王国とは別の国になる
そうすればドイツもイタリアも早期に統一できたかもしれない >>268
今はならないでしょ
むしろ前近代の各時代に
天皇がいなくなってたらどうなってたのか気になる 江戸時代は初期と末期以外なら、
天皇がいなくなってもとくに問題はなさそう >>269
神聖ローマ帝国は東フランク王国の延長線上にあり東フランク国王がローマ教皇の戴冠を受けることで神聖ローマ皇帝になっただけだよ
元々、イタリアにあった中フランクのカロリング家ならびにその縁者が持っていたローマ皇帝の称号(924年ベレンガーリョ1世の逝去により長らく空位になっていた)を東フランク王のオットー1世が引き継いだだけの話
恐らく皇帝のイタリア政策を批判しているのだと思うけどそれとドイツが統一出来なかったという話はあまり関係ないと思う
これは古くからジーベルとフィッカーの論争で知られているが 西フランク王にも、ローマ皇帝の称号を引き継ぎたいという気持ちはあったけど、
当時は東フランクのほうが強力だったからそれができなかったということかな >>273
西フランク王のシャルル禿頭王は875年に教皇ヨハネス8世よりローマ皇帝カロルス2世として戴冠されています
876年兄の東フランク王のルートヴィヒ2世(ドイツ人王)の死去に伴い三子が遺領を分割相続するという事態に乗じ領土拡大を目論見、アーヘンとケルンを侵攻するが、ルートヴィヒ3世(のちの東フランク王)を中心とする三子連合軍にアンデルナハの戦いで敗北する
シャルル禿頭王は877年に死去し西フランク王は息子のルイ2世(吃音王)が継承しますが、879年彼の死後、西フランク王国の継承争いに先のルートヴィヒ3世が介入し、880年のリブモント条約によって西ロレーヌの獲得に成功します
西フランク王国はパリ伯など諸侯の力が強くその後の歴代の王もあまり賢くなかったので奮いませんでした
一方東フランクではルートヴィヒ3世の死後、弟のカール3世(肥満王)が継ぐことになり、一時は西フランク国王も兼ね、881年に教皇ヨハネス8世から戴冠されて皇帝カロルス3世となる
しかし、888年彼の死後ローマ皇帝位はアルヌルフの一時的な即位を除いてカロリング家から離れ他家に移ることになります そもそもなぜ西ローマ帝国を復興しなければならなかったのかわからん ローマ教皇を軍事的に守護するものが必要だったんだろ
下手すると東ローマに食われてたかも知れんし >>275
西ローマ帝国が崩壊して、西欧社会は貨幣経済から物々交換にまで後退したからな
失われた古代文明を取り戻したいのは当たり前 中世初期、フランク王国の支配を支えたのは教会だった
当時は、全国にわたって張り巡らされる統治組織など存在しない
東ローマ帝国は、よく整えられたローマ帝国の世俗的統治組織を受け継いだが、
フランク王国にはそれがなかった
それを代替したのが教会組織である 聖像が、東ローマの場合は平面的なイコンだったのに対し、
カトリック教会は立体的な彫像を認めたけど、
そのほうがゲルマン人には受け入れやすかったのかな >>275
ローマ教会がビザンツと対立してたから
西の皇帝が必要だった >>279
東ローマは偶像崇拝に厳しくて、「イコンは偶像崇拝ではない」という屁理屈を編み出したが彫刻はさすがにNG
西ローマはその点がもっとイイカゲンだった 「476年にオドアケルが西ローマ帝国を滅ぼした」というのは後世の解釈であり、当時の人々は「西ローマ帝国が滅亡した」と思っていなかっただろうというのは、よく言われるところ
「800年のシャルルマーニュ戴冠により西ローマ帝国が復活した」だって、当時の人々がそう解釈していたかは疑わしい フランク族はガリア住民の5%程度であり、残りはガロ・ローマ人だった
これに対しゲルマニアの住民はほとんどがゲルマン人
だからやっぱり仏独が別の国になるのは歴史の必然だったんじゃないか ただ、それまでは東ローマ皇帝が西欧を含む全欧州の最高権威だったのは確か カール大帝もオットー1世も、彼らの皇帝称号を認めてもらうべく、
コンスタンティノープルに使節を送っている
この時点まではやはり東ローマのほうが格上だという意識があったのだろう >>275
カール大帝が即位したローマ皇帝って、
西ローマの皇帝ではないだろう
そのきっかけは東ローマで女帝が即位し、
ローマ皇帝が不在になったとみなされたからだったし カールが単に「皇帝」と称していたのに対して、
オットー1世は「ローマ皇帝」と称した 西ローマ帝国にとっては、穀倉地帯である北アフリカを
ヴァンダル族に奪われたのが痛かったよな 仮にフランスが神聖ローマ帝国を併合したとして、共通語は
フランス語になったんだろうか
さらに文化はどんなものになったのか
日本では「クラシック音楽=ドイツ」のイメージだけど、
フランス人やイタリア人にとっては「ドイツ音楽=小難しくて楽しくない音楽」
というイメージらしい 現在のゲルマンとラテン系の民族の境界が西ローマ帝国時代も同じ様だったんだろうか?
当然ながら先住民のケルトは消滅していると考えて >>290
クラシック音楽はドイツといっても、実際に音楽が盛んだったのはオーストリア
オーストリアは、ドイツとイタリアにはさまれた国。
音楽が盛んになったのは、ドイツの隣にったさらではなく、イタリアの隣にあったおかげ カール5世がスペイン王になると、まもなくカスティーリャでは、羊毛を
輸出するばかりでは結局は経済的な繁栄は得られないのではないかという
不安が生じた。
一方、ネーデルラントでは、自分たちと関係のない地域のために税金を
支払うことへの不満が沸き起こることになった。
1527年、スペイン議会はハンガリーでオスマン軍を撃退するための軍事遠征に
資金を出すことを拒否した。スペインには、バルバリア海賊というオスマン軍より
もっと別の危機が迫っていた。
ナショナリズムがまだ勃興していない時代でさえ、このような不満があった。
だから現在のEUがうまくいっていないのもよくわかる >>293
歴史シミュレーションゲームみたいにはうまくいかんなあ現実は というかフランス語って本当にラテン語系なんすか?
どう聞いてもスペイン語やイタリア語とは違う系統の言語に聞こえる
ケルト(ゲール語)系統じゃないのでしょうか? >>288
バスク人だからヨーロッパとはちょっと違う意識があったのかもしれん カール5世は故郷ブルゴーニュの豪華な風習を、スペインの宮廷に持ち込んだ
そのためカトリック両王時代の質実剛健な気風になじんでいたスペインの
貴族たちは、ブルゴーニュ的な華やかさを贅沢だと感じ、
なかなか受け入れることができなかった >>295
発音はそうだが、文章を読み比べてみるといい
単語のつづりも語順も、あまり変わらない 中国語もそうだ
長年の民族大移動にもかかわらず、漢文の書き言葉は維持された
でも異民族なので、発音が古代とは大きく異なる フランス国王が神聖ローマ帝国の皇帝選挙に立候補したことは
あっただろう? フランス語は、書き言葉(エクリチュール)と話し言葉(パロール)が大きく乖離している
20世紀のフランスから世界に広がった「言語哲学」では、ここに強くこだわっているのだが、日本人にはピンと来ない 神聖ローマ帝国の皇帝は東フランクの男系が絶えた後の女系の子孫だろ 神聖ローマ帝国では、16世紀になっても、他のヨーロッパの国では常識となった
長子相続制が存在せず、ゲルマン法に由来する分割相続制が実施されていた
おかげで諸港の死後、領土は相続者の間で分割され、あたかも鼠算式に
領邦国家の数がどんどん増えていく結果となった。
一方でこのおびただしい増加に対する防禦策も考え出された。
相続者が途絶えると近親諸侯によって相続併合したり、近隣のより強力な
領邦国家に合併するという方法である。
やっぱりドイツは英仏に比べて遅れていたといって差し支えないんじゃね? >>303
>やっぱりドイツは英仏に比べて遅れていたといって差し支えないんじゃね?
そりゃそうだ
19世紀まで英仏に比べて後進国だったのは、自他ともに認めている。
まあ、日本ほど国民所得が低くはなかっあが。 やはりフランス(ガリア)と較べてドイツ(ゲルマニア)は遅くまで森が切り開かれなかったのがデカいか >>303
いや僕はそう思わない
ドイツはサリカ法を厳格に守った結果そうなっただけだよ ドイツにとって栄光の時代は中世なのかな
シュタウフェン朝では、ドイツのみならずブルグントとイタリアを支配するという
神聖ローマ皇帝の権利要求がもっとも実質的に満たされた
フリードリヒ2世はシチリアも支配していたし >>307
>フリードリヒ2世はシチリアも支配していたし
逆だ
シチリア王フェデリーコが「皇帝フリードリヒ2世」と称してドイツを支配したのだ
(失敗したけど) >>309
欧州列強の一角を占めるに至った新興国のプロイセンにとって、ナポレオンのフランス軍に占領されたのは挫折
最終的には、ナポレオン打倒の原動力になったが 天才ナポレオンに凡人が勝つにはと言う事で参謀本部の設立等近代軍制を確立している >>1
シャルル・ダンジューは、シチリアを手に入れたあと、
甥のフランス王フィリップ3世を神聖ローマ皇帝位につけようとした
いわば神聖ローマ帝国理念の拡大フランス版 >>313
最終目標はビザンチン帝国の征服だったと言われている >>303
16世紀はアウグスブルクのフッガー家が欧州の金融支配してたし遅れてないよ >>304
ライン川沿いは産業革命がはやかったよ
だから統一ドイツが圧倒的に大国になったのはそういったところだな
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_GDP_(PPP)_in_the_nineteenth_century
1890年比較だとドイツのがフランスよりGDPが上 歴史統計の本だとフランスとドイツの一人当たりGDPは中世から現代までほとんど変わらない
1870年の統一時だとフランスとドイツの人口はほぼ同じでGDPもほぼ同じ
ドイツはその後の領土拡張と人口増で第一次大戦前だとGDPがフランスの1.6倍、イギリスをわずかに上まってる
ただイギリスの一人当たりGDPはドイツとフランスの1.4倍はある
第二次大戦前だとフランスが簡単に落ちたのもわかる
ttps://www.quora.com/How-did-Germany-get-so-strong-after-WWI-How-did-they-manage-to-rebuild-a-military-so-powerful-that-it-conquered-neighboring-countries-and-fought-the-USSR-UK-and-the-US-at-the-same-time 神聖ローマ皇帝は、ドイツ国王よりも「ヨーロッパの君主」として
みられるべき存在だった
そして、豊かな北イタリアの諸都市国家を制し、さらには地中海交易の要に位置する
シチリアを支配下におさめようとするのは、ヨーロッパ的君主の権力政策として、
むしろ当然のことだった シャルル・ダンジューも、シチリアを含むイタリアを中心に、
東ローマと聖地までも射程におさめた普遍的キリスト教的地中海帝国の
夢を抱いていたわけだし
中世人の発想としては別に特異なものではないだろう 神聖ローマ皇帝のイタリア政策は、皇帝の意図とは別に、続く時代のための
発展の種をまいたところもある
「ゲルフ」「ギベリン」がせめぎあった北イタリア諸都市のその後の
合従連衡の中から、「勢力均衡」という政治の論理が生み出されてくるのである
それはやがて成長途上の主権的諸国家をとらえ、全ヨーロッパで国際政治を
律する原理となってゆく 神聖ローマ帝国がフランスをつぶす最大のチャンスっていつ頃? オットー1世はじめ、中世の神聖ローマ皇帝たちは、自分のことを
「ドイツ人」ではなく「ローマ人」、あるいは「キリスト教徒」と
考えていたんだろうな
だから彼らがドイツの利益を考えて行動しなかったという非難は筋違い 中世ローマ帝国というと一般的に現在のドイツ、イタリア、ブルグンドから成る訳だがそれぞれが今のように国民国家的な枠組みがあったのではないからドイツ全体の利害という考え方はまずないだろう
ただ一つ、イタリアに対してはアルプスの向こうの異なった言語を話す地域という認識はあっただろうと思う 国民国家と言う概念そのものが神聖ローマ帝国を解体させたウェストファリア条約によるものだからな 上流階級は国を越えたサークル作ってたからね
庶民も含めた一つの国民という意識はないでしょ 国や領邦は大貴族の所有物で
欧州上流階級クラブの戦略ゲームみたいなもん オットー大帝はドイツ全体のことよりもザクセン部族の利害は常に考えていたと思うわ 主権国家の理念は、自らより上位の存在を認めない
したがって、主権国家体制が確立した時点で、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝は
不要のものとなっていたのかもしれない ドイツにとって最も幸福だった時代は18世紀かも
「詩人と思想家の国」としてヨーロッパ中から愛された 阿部謹也氏は、神聖ローマ皇帝のイタリア政策は周囲の勢力との関係を
維持するために必要な政策だったのであり、帝冠を求めず、イタリア遠征をも
行わなかったら、ドイツ王権を維持することもできなかったであろうと書いている
ドイツ国王の権威・権力はそれほどまでに脆弱なものだったのか? >>331
オーストリアとプロイセンの2大国が対立し、周囲の国々も戦場になって大変だった ヨーロッパの王族とか上流階級って昔からコスモポリタン的な考え方を
持つ人が多かった? >>332
>ドイツ国王の権威・権力はそれほどまでに脆弱なものだったのか?
非常に脆弱だった
神聖ローマ帝国の開祖オットー大帝にしてからが、弟に反乱されて滅亡寸前まで追い込まれ、息子にも反乱されて、また滅亡寸前まで追い込まれた
諸侯は「勝ち馬に乗る」主義なので、負けそうになったら一斉に離れていく。
宗教的な権威なしでは、とても抑えきれるものではない >>335
じゃあやっぱりドイツは分裂する運命だったんじゃないのか ハインリヒ4世が「カノッサの屈辱」をあえて耐え忍んで教皇に破門を
解いてもらったのは、さもなくば諸侯の離反が避けられなかったから ドイツ国王の地位を守るためにはローマに行って教皇に戴冠してもらうことが必要
しかしイタリア遠征には諸侯の協力が必要
もう最初から詰んでる そもそも中世にはドイツ国やドイツ人という概念は皆無だったんだわ
ヨーロッパの中央に位置するゲルマン諸部族の間から選挙で選ばれた王がローマにいる教皇から戴冠されてそれがローマ皇帝呼ばれただけ
その王もローマ王もしくは東フランク王と呼ばれた人たちで公文書では「ドイツ王」と書かれたこともあったが、rex teutonicorum すなわちそれは「民衆から選ばれた王」という意味であった
「ドイツ」の語源は民衆 中世においては、国王の対外政策のゴールは、ローマ皇帝を継承して
キリスト教世界の盟主となり、普遍帝国を打ち立てることだったが、
現代人にはこの感覚がなかなかわかりにくい カール5世がシュマルカルデン戦争にスペイン軍を動員したこと、またそのスペイン軍を
ドイツに留めたことは、カトリック派を含めてドイツ諸侯を皇帝から離反させた
その上、カール5世が息子でスペインの継承者フェリペを、フェルディナントの後の
皇位継承者にしてスペインとドイツの再結合をはかったことが、ドイツ諸侯を決定的に
離反させた
彼らにとってそれは「スペインへの隷属」を意味したのであり、彼らは「ドイツの自由」
の名のもとに皇帝に抵抗する
そして1552年にはその抵抗が戦争にさえなり、皇帝はドイツ諸侯軍に敗れてイタリアに
敗走する憂き目に遭う フリードリヒ2世、カール5世はホーエンシュタウフェン、ハプスブルクといったローマ皇帝の王朝の血を受け継ぐ者というだけで彼らにはドイツ人という意識は皆無だったからな 中世は、交通事情が悪いし、通信技術も未発達だから、シュタウフェン家の
大帝国のような、ドイツからシチリアまで至る広大な帝国を統治すること自体が
無理だったんじゃないかな
むしろ小規模でコンパクトにまとまった国土を持つ国のほうがやりやすかった フリードリヒもカールも本拠地はシチリア島やスペイン(ネーデルランドという説もある)であって、ドイツに関しては息子(フリードリヒの長子ハインリヒ(7世))や弟(カールの弟フェルディナント1世)のローマ王に全てを委ねていたようだ 一応調べたらナポリやハンガリーの兵も動員してたみたいだな
スペインの兵は基本現地兵雇うから国際色豊かなんだよね
カールはベルギー生まれの帝国の人間だったがフェリペはスペイン育ちで全然違うし
継承問題では弟を怒らせたのがまずかった
戦争に勝って調子に乗り過ぎた
フェリペ以外にもう一人息子がいてネーデルラント継承できればよかったんだけどね
フェリペが外国事情にうとかったのもネーデルラント反乱の原因でもあるからな
ちなみにカールの娘とフランソワ1世の次子シャルルを結婚させてネーデルランントを継承させるという案もあった
もちろんフランスとの合同は禁止な前提で、シャルルが死んで流れたけど あとカール5世は逃げた先は精確に言うとイタリアじゃなくてイタリアに近いvillachってところ
その後すぐロレーヌのメッツ攻略に参加してる
カール5世にとってスペインは本拠地だけどスペイン語ヘタクソで外人扱いされてたから
人としてはスぺイン人ではない
58年の人生でスペインにいたのは18年、帝国にいたのはネーデルラントとドイツ足して35年だから
ドイツ諸侯から外人扱いはされていない、息子のフェリペは100%外人だから継承問題で反発された
弟のフェルディナントはスペイン育ちだが、16歳からは死ぬまで45年間帝国ですごして性格も穏和なんでドイツ諸侯とはうまくやってた ドイツの旧教新教の争いはほぼカールのせいだったと思うよ
フェルディナントだったらもうちょっ上手く立ち回っていたんじゃない?
どうもカール5世って安倍晋三みたいなことをやってたように思うよ カール5世はヴォルムスの国会の後ドイツを去り、10年間もドイツを留守にしていた
その間皇帝代理をつとめたのはフェルディナントだが、オスマン帝国の脅威にさらされ、
ルターの処置にまともに取り組むような状況ではなかった ポーランドみたいに新旧共存でいくしかなかっただろうね
スペインからイエズス会とか持ちこむからめんどくさくなる
スペインの継承でカール5世は強力になった反面帝国は余計混乱したと思う
外国継承できるならイギリスがよかったな >>349
カール5世と安倍首相の共通点について詳しくお願いします。 横からだけど漠然と保守的なところだけ似てるな
性格は全く似てない 騎士戦争と農民戦争はいずれもドイツ諸侯の軍によって鎮圧された
皇帝がドイツにおらず、ルターもまた、治安回復と秩序だった改革の
主導権を諸侯に期待するほかはなかった 12世紀になると、フライジングの司祭オットーは「帝国移転の理論」を用いて、
世界を支配する帝国が古代ローマ帝国から東ローマ帝国、そしてカール大帝の
フランク帝国を経て、最後にオットー大帝の神聖ローマ帝国に移転したという
説をとなえた
この思想は神聖ローマ帝国の永遠の支配を示すために利用された フライジングのオットーって赤髭王の伝記を書いた人やで 中世人にとって、神聖ローマ帝国が終わるときというのは最後の審判のときだったらしい フランスは神聖ローマを併合することはできなかったけれど、
プロイセン・オーストリアはロシアとともにポーランドを分割して
その一部を手に入れることができた
ポーランド分割があっさり成功した理由は何だったのか? 19〜20世紀のドイツの歴史家たちは、オットー1世以下のドイツの支配者が
帝冠を求めて南下し、イタリア経営にエネルギーを注いだことを批判し、
それよりもドイツの東方経営こそ重視すべきであったと主張した ジーベルフィッカー論争として有名な話だがランケの高弟ハインリヒ・フォン・ジーベルらプロシア学派はごりごりの小ドイツ主義者だからそう主張するのは当然だよ
でも最近ではそういったステレオタイプの中世ドイツ皇帝政策批判は見直されつつあるんだよ >>357
一方哲学者ヘーゲルは滅びゆく神聖ローマ帝国を尻目に皇帝ナポレオンを馬上の精神世界といって称えたのは有名な話だ そういや、ドイツの歴史の本見てて思ったんだけど、中世のドイツ(神聖ローマ帝国)って、領域内ではあんまり大きな戦争起こしてないんだよね、ボヘミアとか現スイスとかの戦争除いて
小競り合い的紛争は色々あったろうけど
実際、ルター登場まで日本の戦国時代のような大きな内戦見当たらないような気がする
戦国時代並に多くの領主が入り乱れてたわりには
やっぱり、イタリアなどの外国侵略を続けたおかげで、内側は最低限まとまってたのかな 「『神聖』でも、『ローマ的』でもなければ、ましてや『帝国』でもない」
というヴォルテールの言葉は、彼が理性だけで世界と人間を理解しようとした
18世紀の思想的急進派、啓蒙主義の指導的立場にあったからこそ可能だったともいえる
近代以前のヨーロッパにおいては、この政治共同体が「神聖」で「ローマ」的で
「帝国」でなくてはならなかった
ラテン=キリスト教世界観にもとづけば、天地創造から最後の審判にいたるまでの
神の救済計画において、4番目にして最後の世界帝国であるローマ帝国の滅亡は
最後の審判の兆候だった
その兆候がないなら、神に嘉されたローマ帝国が存続しているはずである >>364
フェーデはしょっちゅうあり、それに対して神の平和(pax dei)運動が起こり、やがてそれは国王権に回収されていき、時の皇帝がラント平和令(Landesfrieden)を発布しフェーデを禁止しようとするのだが、それあくまでもそれは部分的なものであり、期限も四年ということであまり効果がなかった
ラント平和令の最も最古のものは1103年ハインリヒ4世によるものとされる
その後、1235年フリードリヒ2世が公布したマインツのラント平和令(Mainzer Landfriede)は、従来までのラテン語ではなく、ドイツ語によって記述された点が特筆に価する
さらに1495年8月7日にマクシミリアン1世によって制定された永久ラント平和令によって、帝国等族諸身分は自力救済権としてのフェーデを完全に失った
仰るようにイタリア遠征など外へのエネルギーでドイツ領内での大戦争というものはあまりなかったが、中世後期から近世にかけて帝国の範疇からイタリアが消失して以降は、宗教改革に伴う宗教的分裂も絡み、ドイツ農民戦争や三十年戦争といったような大規模な戦乱が帝国内でみられるようになる 神聖ローマ皇帝は初期にドイツ人の王とセットになってて、教会が強い時代にはあり得ない
フランス王家はイギリス王家にもなるが百年戦争へ、そんときも無理
ブルゴーニュが強国で、継承時にフランスとハプスブルクで分割して2強体制になった
ドイツ国家とオーストリアを併合とかとても無理
ナポレオンは唯一チャンスあった フランソワ1世が神聖ローマ皇帝選挙で勝利して、さらにイタリア戦争でも勝って
フランスがイタリアを手に入れていたら普遍帝国を打ち立てることができた >>364
伯爵や公爵等の貴族は平時から子供達を政略結婚で送り出してるからね
子供や孫、親戚が多ければ多い程=不可侵及び同盟数だから
遠いカモな辺境伯の親戚が実は自分の上司の遠戚だったりね
もはや何処が何処と親戚だかわからないぐらい入り乱れた世界で
よっぽどの基地外暴君でない限り手頃な開戦事由を見つけるのはそれだけで骨が折れる
逆にそういうので継承権争いも多くなるけどあまり激しくやると皇帝や教皇が介入してくるし フランスには皇帝ナポレオンがいたし大英帝国という用語もあるがそれは所詮、平民からの成り上がりの皇帝であったり、植民地に対する「帝国」であって、それらはいわゆるローマ帝国やその後継の神聖ローマ帝国の「帝国」とは決定的に異なる それに対してロシア皇帝は東ローマの後継だから由緒正しき帝国
フランス帝国、大英帝国、アメリカ帝国は偽物の帝国 ナポレオンはローマ教皇からの戴冠でイギリスはキングダム インド皇帝ってローマ的じゃなくてムガールの継承なのかな わかってはいると思うけど皇帝とかの名詞は日本語に訳した時に
ざっくりとそれに当てはまるであろう物を当てはめてるだけだからね
全世界統一で皇帝(エンペラー)と言う肩書が同一では無いし在り方も経緯も違う ローマでの政治闘争や東ローマのギリシア正教との対抗関係などにより、
ローマ教皇は強力な後ろ盾を必要としており、シャルルマーニュに
白羽の矢を立て、西ローマ皇帝の冠を授けた 中世ヨーロッパの王国にはまだ首都は存在しなかった
中世の未発達な交通条件や通信手段では中央に宮殿を構え、
そこから王令を発し統治することはできなかった
国王のほうが支配すべき領地に出向いて、統治をおこない奉仕を受けた
また国王は絶えず親族や有力者の反乱に苦しめられて、各地の戦場に赴いた
その上にドイツ国王はイタリア遠征や対外遠征も繰り返し、まさに国王の
生涯は支配のための果てることのない旅の連続だった
やはり首都ローマにいたままで帝国を支配できた古代ローマ皇帝とは違っている 西フランクも最初は王権が脆弱だった
初期カペー朝のもとでは、カロリング朝末期から続いていた王権の権威凋落が加速し、
南フランスを中心として、大諸侯が離脱していった
フィリップ1世のとき、カペー朝の支配領域は最少となった
よくこんな状態から巻き返したなと思う フランス王家は精神錯乱してるやつが王になっても持ちこたえるからな
なんか強いぞ
それに比べて他国の王家はすぐ断絶するしもろいよな 神聖ローマ皇帝はローマ教皇に戴冠してもらったけど、
フランス王はランス大司教と結びついた ヨーロッパ諸国はたいてい同君連合という形を取って統一したから地方分権的だが、
フランスだけがやけに中央集権的だよな
むしろヨーロッパの中ではフランスのほうが特殊なのかもしれない >>384
フランク王の根拠は教皇にローマ皇帝を戴冠してもらいカール大帝の後継者と言うのが代々の慣習だった
しかし神聖ローマ皇帝に先にローマ王戴冠を奪われた為、王の根拠をカロリング朝前のメロヴィング朝に求めた
メロヴィング朝初代フランク王クロヴィスの洗礼の地ランスで聖別しフランス王として根拠を作り
以降フランス王はランスにて戴冠する事が慣習になった クロ―ヴィスの時代、フランク族がガリアを統治するためには、在地の有力者の
協力が必要であり、その協力者がセナトール貴族だった
彼らはキリスト教の拡大につれ、争って主要都市の司教職に進出しており、
カトリックとの提携は彼らとの提携をも意味していた >>388
それはアエギディウス やシアグリウスといった連中か? >>386
絶対王政時代は、分権的な面もあったんで、フランス革命以降の特質やろうな
実際、フランス革命って明治維新並みの伝統破壊伴ってたから >>386
イギリスも、スコットランドやウェールズを除いた「イングランド」だけで見れば非常に中央集権的
中央集権的なのは英仏の特徴で、地方分権的なのは独伊の特徴 ドイツの場合、ドイツ語という概念そのものが現れるのも遅かった
言語の面からみると、低地ドイツ語、中部ドイツ語、高地ドイツ語、フリース語、
スラヴ語派に属するソルブ語などがあった 中世のイングランド人の評判は、
「暴れん坊で喧嘩好き、しかも戦わせるとめっぽう強い」
というものだったらしい >>391
そう言えば、フランスって今でも県知事は、選挙じゃなくて、国から任命された官僚なんだよな
戦前かよっw >>394
若い人たちは知らないかもしれないけど、サッチャー政権時代、「ヘイゼルの悲劇」
という事件があった
イングランド人のサポーターが、サッカーの試合で興奮して、イタリア人観客39人を
死なせた事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87
ヘイゼルの悲劇 フランスと言うかヨーロッパが中世貴族の末裔が未だに世界遺産とか私有地の所有者になってるのザラだから
国家単位で抑制しないと多分豪族が好き放題出来ちゃう フランスは、首都パリだけが極端な巨大都市で、それ以外はすべて単なる地方都市
日本の「東京一極集中」とは比べ物にならないほどのパリ一極 日本は戦国時代を経て、さらに藩があったから東京以外にも大都市があるわけか パリからベルサイユとかあったにせよ遷都を殆んどしてない 100年戦争でパリ取られて落ち延びて南に身を潜めてたけど遷都はしなかったもんな たしかルイ11世が一時期フランスのど真ん中に遷都したよ 英仏百年戦争というけれど、イングランドの民衆は別にひどい目に遭ってないよな
戦場は常にフランスだったから、この戦争で一番悲惨な目にあったのはフランスの民衆 イギリスでは農奴制度は14世紀の終わりごろにおいて事実上消滅しており、
フランスにおいても18世紀には貴族・聖職者の土地所有は既に全国の
30〜40%を上らなかったといわれるのに対して、ドイツにおいては農奴制度は
少しもその力を失っていなかったばかりでなく、地域によってはかえって
近世以降に強化されさえもした プロイセンとかな
税金上げる代わりに貴族にめっちゃ特権渡した
けどそれで強力な軍隊作れたから必ずしもマイナスじゃなかった >>403
戦費調達による酷税、ペストの流行、農奴制の強化
耐えかねたイングランドの農民は、1381年にワットタイラーの乱を起こした エルベ以東では再版農奴制(Gutsherrschaft)というのがあって現在のドイツ経済の東西格差はここにあると見ている イタリア王国は、各地の有力貴族党派が、各々外部から統治者を招聘しては
追放するという方策を繰り返したせいで、極度の混乱状態が続いた
教皇フォルモススは、グイードを891年に皇帝に、翌年には息子ランベルトを
共同皇帝に相次いで戴冠した
ところが、その後両者と不和になったフォルモススは、東フランク国王に
救援を要請した
アルヌルフがローマを攻略し対立皇帝に戴冠されたのは、896年2月のことである ルドヴィーコ・イル・モーロもそうだけど、イタリアは貴族が自分の利益のために
外国勢力を引き入れるというパターンが多いのかな スペインやラテンアメリカ諸国のナショナリストは、ハプスブルク家がスペインの
支配者にならなかったら、スペインは新大陸での植民地経営に専念できて、
そのほうがスペインの国益にかなっていたと考えているらしい
ハプスブルク家に支配されたおかげで、スペインに関係のない
ヨーロッパのあちこちの戦争にスペイン人が駆り出された >>410
フランドルの経済力がスペインを支えてた オットー1世の時代のヨーロッパは、異教徒・異民族に攻められて大変な状況だった
地中海はイスラム教徒に抑えられている
イスラーム世界は北アフリカからイベリア半島の大半を覆い、その影響はシチリア、
サルデーニャ、コルシカの島々にも及んでいた
そのうえ北からはデーン人とノルマン人のヴァイキングがヨーロッパ各地に侵入して
劫掠を繰り返し、北東方面からはスラヴ人が押し寄せてくる
オットーは当時の東の国境エルベ川の外域に「マルク」という辺境区を設け、
有力な貴族を辺境伯としてそこに配しているが、これはスラヴ人対策のためである
なお南ドイツ・バイエルンの東の辺境区が「オストマルク」。これがのちに
「オーストリア」になるのだが、このオストマルクやバイエルンも突破して
ヨーロッパになだれこんできたのがマジャール人である レヒフェルトの戦いの後、オットーは皇帝に戴冠するためイタリア遠征を
おこなったが、オットーが重武装した軍隊とともに入城したときから、
ローマ市民は既に違和感を持ち、皇帝の滞在が長引くにつれて、
これを「異民族の支配」と感ずる市民も増えたようである 神聖ローマ皇帝によるイタリア遠征って日本の歴史でいうと信長の上洛&比叡山焼き討ちみたいなものか? 徳川も禁中並公家諸法度を定めて天皇の動きをコントロールしたからな
時の為政者(主に征夷大将軍)=神聖ローマ皇帝
天皇 =ローマ教皇
なんだろうな 徳川は南朝系の子孫を自称してたから出来た話でローマ教皇相手だとワケが違う オットー1世は、自分のことを「ローマ人」だと思っていたかもしれんが、
イタリア半島の住人にしてみれば、異なる言葉を話す異民族、って感じだったんだろうな その時代のイタリア半島に住んでる奴らも既にローマ人では無いからな ドイツの領邦の中で、ヘッセン=カッセルなどは傭兵を外国に輸出して、財源にしていた 「西ローマ帝国の再興」という企て自体が非現実的だったんじゃね?
単に東フランク王国とイタリア王国、ブルグント王国に分かれて
存在していたほうがよかったと思う 東ローマ帝国は中身がギリシア人
神聖ローマ帝国は中身がドイツ人 ローマ皇帝名乗るにはイタリア王を持ってる事が前提
そしてフランク王は>>387に書いてあるようにローマ皇帝位が前提
つまりカロリング家は分割相続で得た領域を正当化させるのには
ローマ皇帝位が必要だし=イタリア王も取らなければ行けない オットー大帝の帝国は、西ローマ帝国の後継国家であり、
カール大帝のフランク帝国の再興でもあった
オットー大帝の称号も「インペラトール・アウグストゥス」 フリードリヒ1世バルバロッサは合計6回のイタリア遠征をおこない、
在位38年のうち13年をイタリアで過ごすことになった
イタリアは法的には「王国」でも、実際にはいくつもの分国に分かれ、
北イタリアにはコムーネに成長しつつある諸都市が群立し、
これらは容易に皇帝の支配を受け入れなかったからである
フリードリヒ1世はロンバルディア同盟に結集した諸都市との間に
何度も戦争を行い、大敗北もあるし、夜陰に紛れて逃げたというような
苦い経験もなめている 初期には在位期間(短かったが)の大半をローマですごした皇帝もいた
「ドイツがイタリアを侵略していた」というのは、20世紀の地図にとらわれた錯覚 >>422
ローマ名乗りながら、公用語がギリシア語ってウケるよな なぜ?
ローマの上流階級はみんなギリシャに憧れてたのに いや、実質ギリシャ人なのにローマ名乗ってたわけでしょ、ヒザンツは
それが、奇妙に見えるということ、現代から見れば 「カエサル」や「アウグストゥス」が個人名から「皇帝」を意味する言葉に変わったように、「ローマ」も単なる地名じゃなくなった 中国だって、鮮卑族が建てた北辺の地・いまでいう山西省大同市の王朝が「魏」を名乗ってた
それを思えば、皇帝がゲルマン人で首都がドイツのどこかでも「ローマ帝国」でおかしくない >>432
魏の国名を名乗ったときは、まだ内モンゴル自治区にいた
大同に遷都したのはその後 神聖ローマ皇帝はカトリック世界最高の世俗君主として、カトリック世界、
なかんずくその中心であるローマ教皇を外敵・動乱から守護しなければならない
そしてそれを実質的に行うためには、イタリアにおける皇帝の支配権の確立が
不可欠である
中世の神聖ローマ皇帝たちが盛んにイタリア遠征をおこなったのは、
「ドイツ」の勢力圏を広げるというより、まず第一に、ローマ皇帝としての
いわば当然の務めを果たすためだった 「12世紀ルネサンス」の時代、ヨーロッパ各地に大学ができたが、圧倒的に多いのが
イタリアで、さらにイベリア半島にいくつもできた。あとはフランスとイングランド。
そしてこれらの大学はすべて古代ローマの文明圏におさまっている。
ドイツは、この時代にはまだ「圏外」である。新しい学問に触れたいドイツ人は、
みな外国に行かなければならなかった。 ビザンツがローマを名乗り続けたのは、中世に入ってローマ帝国の概念が「キリスト教理念の帝国」という意味にすり替わったから
だから今のアメリカもロシアもある意味でローマ帝国なんだよ
アメリカが西ローマでロシアが東ローマ ビザンツなんてのはあくまで歴史学上の用語で正式名称は新ローマを首都とするローマ帝国 ムスリムはビザンツ帝国のことを「ローマ」と呼んでいた
西欧人のことは「フランク」 「天における神の支配の、地上における模倣がローマ帝国」
これが中世におけるキリスト教世界のローマ理念
どことなく中国的な香りがする 近世になって、主権国家とプロテスタントが現れると、ヨーロッパは分裂した 今みたいにここからドイツここからイタリアという区分はなくてドイツ出身の皇帝でもローマにいったときラテン語みたいなのを喋れば言葉も通じるし今ほどの違いはなかったと思うよ 18世紀のアメリカは、フライジングの司祭オットーの「帝国移転の理論」を知っていた
「帝国の移転」は「帝国の西進」と理解された
帝国は西へ西へと移動し、ついにアメリカに至る。人々は「ダニエル記」を
アメリカ流に解釈した
アメリカは「さまざまな古代の預言」の「完全な実現」を示す帝国と理解された
アメリカは「天命」を持った「帝国」として残余の世界に君臨し、法を与える存在だった
それは「自由の帝国」であり、「理性の帝国」「愛の帝国」そして「偉大で強力な帝国、
世界がかつて見たことのない最大の帝国」と意識された 「ドイツ人」という呼び名が初めて記録に登場するのは、10世紀の半ば頃、
それを用いたのはイタリア人である
ところが、「ドイツ人」と呼ばれた人々の側では、互いにライヴァル関係にある
下位の四つの民族(フランク人、ザクセン人、アレマン人、バイエルン人)の
いずれかに帰属しているとの意識しか持っていなかった ハインリヒ6世は1194年自身に子が生まれた際、事実上世襲させるため、
その子フリードリヒをすぐに共同王に選出させようとしたが、これは諸侯の
猛反発で失敗した
そこで、ハインリヒは大幅な特権と引き換えに王位の世襲を認めさせようとした
この「世襲帝国計画」は失敗に終わったが、ハインリヒがもし長命であれば
もしかすると神聖ローマ帝国は世襲制になっていたかもしれない >>444
奴隷制度拡大させちゃったけどな、南部限定とはいえ >>448
有色人種は人間の数に入れていないから無問題 もしノルマン・コンクェストがなかったら、イングランドも独伊と同じような
地方分権的な国になっていたんだろうか >>450
イングランドは山らしい山もない平坦な大草原という、島国らしからぬ地形
統一しやすい地形なので時間の問題 フリードリヒ(フェデリーコ)2世が南イタリアで行った経済政策について、
「都市工業の衰退と北イタリア商人の台頭の結果、南イタリアに北・中部イタリアから
製品を輸入し、食料と原材料を輸出する経済構造が確立された」
といわれているけど、フリードリヒは別に南イタリアのことだけを考えていた
わけではないんだよな
彼が目指したのはイタリアを中心とした普遍的キリスト教的地中海帝国 それにつけても、日本が統一国家なのは奇跡
「細長い山岳国家」という、最も分裂しやすい地形なんだが ただし、日本の場合は細長いといっても
東西に長いからまだマシ
イタリアみたいに南北に長いと、南と北で気候が違いすぎるからさらに難しい 前期カペー王はカロリング家の伝統を継いで「フランク人たちの王」と称していた
ユーグ・カペーも「ガリア人、ブルターニュ人、デーン人、アキテーヌ人、ゴート人…」
らの王として選ばれたと同時代の史料にはある
つまりは王国という領域の君主というよりも、諸民族集団の首長という自己意識を
持っていたのである ノルマン・コンクェストの後、15世紀まで、イングランドの貴族たちは、
子弟をノルマンディーに送り、正しいフランス語を学ばせていた 東アジアの場合、中国・朝鮮・ベトナムは中央集権的で、日本は地方分権的だよな
なぜそうなったのかはわからないが 征服王朝ができると、そこで中央集権が一気に進む
日本も、マッカーサー元帥の大改革で中央政府の権力が極めて大きくなり、開発独裁国家体制に変身した >>458
> 中国・朝鮮・ベトナムは中央集権的
ベトナムはともかく中国・朝鮮に関しては、モンゴル軍や満州軍に全土を制圧され、首都から強権支配を受けたおかげ >>461
> その前から中央集権的なんですが
いや、そんなことはない
唐の皇帝は、常に地方軍閥との闘争に追われて東奔西走する忙しい人
室町幕府の将軍や、神聖ローマ帝国の皇帝と同じ 朝鮮はなぜあんなにソウル一極集中なんだろう
日本の場合、京都、大阪、江戸などの同規模の大都市がいくつもあるのに >>459
日本の中央集権体制は戦時体制構築から始まってる。
資料を読み直しな。 >>456
南アジアや東南アジアの王権は土地ではなく人を支配した
実は欧州や日本のような、人ではなく土地を支配するというやり方のほうが
特殊なのかもしれない >>467
まあ、それを言ったら英仏の中央集権体制も、百年戦争の戦時体制を構築した結果とされているけどな 明清帝国は、地方の豪族に重税をかけて没落させ、北京から派遣した科挙官僚に置き換えるという緩慢な社会主義革命を五百年かけてやり遂げた 百年戦争で、フランスでは諸侯・騎士が没落し、シャルル7世は大商人と結んで
財政を立て直し、常備軍を設置したので、中央集権化はますます進展した >>469
源流があるというのと体制が今でも引き継がれているというのは意味するところが大きく異なる。
日本の中央集権は太政官政府が構築を目指し、昭和15年にほぼ完成して現在にも引き継がれているものだが
英仏は源流どまりでは?
ヴァロア朝と第五共和制の類似性は? フリードリヒ1世が即位したとき、シュタウフェン家の家領は出身地である
西南ドイツのシュヴァーベン地方に限られていた
実力としてはむしろ、ライバルであったヴェルフェン家のザクセン公ハインリヒ
「獅子公」のほうが上であって、フリードリヒは即位にあたって獅子公の
要求を認め、ザクセンに加えてバイエルンをも授封しなければならなかった
ドイツ国王が、フランス国王のように広大な王領地を持つ方法はなかったんだろうか カペー家の国王たちのように、妻を何度も取り換えればよかった
例えばフィリップ1世は最初の妻ベルト・ド・オランを離別し、当時アンジュー伯の
妻だったベルトラード・ド・モンフォールを奪い取り、次の妻とした
「カペー家の奇跡」はそうした努力の成果でもあった 満洲人は高句麗の辺民の末裔
契丹人もそうだと分かった
清王朝の統治には高句麗以来のノウハウがあった もし日本が東日本と西日本に分裂していたら、東日本の歴史教科書には、
「代々の将軍は京都と朝廷に関わっていたが、それよりも東日本の統一を
優先させるべきだった」
とか書かれていたんだろうか >>478
鎌倉幕府は、京都の朝廷のことより関東・東北の平定を重視していた ローマと北ドイツは、東京とカムチャッカ半島くらい離れてるんだよなあ
南下して東京を取ろうとしてるときに、樺太で反乱が起きたって興味はイマイチでしょうな ドイツ、オーストリア、スイス、オランダ、ベルギーなど、ヨーロッパには
連邦制の国が多い
実は中央集権的な英仏のほうが特殊で、そこで生まれた国民国家というものが
各地に広まったせいで、世界中でおかしなことになっているのではないか ロシアも、あれだけ広いのに驚くほどモスクワ一極集中 先進国にはない、ロシアに特有の事情として「モスクワと地方では所得格差が何倍も開いている」というのがある
このため、単に人口が集中してるだけでなく経済規模の差はそれ以上、都市国家の「モスクワ王国」とさえ言われる 一極集中といえば、最近の大阪の都心の建設ラッシュは凄いな
今までは、カラオケのバックに流れる夜景の映像といえば新宿が定番だったが、これからは梅田になるんじゃないかと思わせる ドイツの哲学者ヘルムート・プレスナーは、ドイツの国民的問題の解決は
「普遍的帝国か、ヨーロッパ合衆国か」によるしかないと論じた
しかしEUが成立した後も、相変わらず各国はEU全体の利益よりも自国の国益を
優先している
いったん国民国家が成立したら、もはや近代以前の状態に戻るなど不可能なのでは >>482
首都圏一極集中型の国家は英仏だけでなく、他にもいくつかある
オーストリア (ウィーン)
チェコ (プラハ)
ハンガリー (ブダペスト)
ルーマニア (ブカレスト)
スペインも今でこそマドリッドとバルセロナの二大都市だが、カタロニアが分離独立すれば、それぞれが国内で突出した都市になる 今の若い人たちには信じられないかもしれないが、2000年ごろには、
「21世紀がヨーロッパの世紀、すなわちヨーロッパの二度目の黄金期になる
可能性も大いにある」
などと主張する知識人がいた 可能性はあっただろwでも民主主義の弱点とも言える怠け者連合の意見が重視される惨状になった EU全体はともかく、ドイツはつい最近まで絶賛されてたけどな 今の若い人たちには信じられないかもしれないが90年初頭まで日本の一人当たりGDPはヨーロッパのどの国よりも高かった
と書いた方が正解だがな
昭和のおっさんの頭の中では未だにじゃぱんあずなんばーわんが続いているようだが西ヨーロッパで一人当たりGDPが低い国と言えば
もはやイタリア、スペイン、ポルトガルぐらいしかない
経済アナリストの予想を上回るレベルで日本経済は絶賛縮小中で韓国にすら負ける可能性があるというのにこの板のオッサンどもときたら剣呑なものだな EUで経済の優等生と言えばアイルランドで実質経済成長率はダントツで一位
2018年の1人当たりGDPランキングは世界5位(日本は26位)
ドイツ何てギリシャ、イタリアと最下位争いしてる落ちこぼれ
この板のオヤジって時事ネタに疎いからそんなことも知らなさそう >>495
アイルランドは経済の優等生というより、グローバル化の申し子だ
日本だって、人口が500万人くらいで、英語を公用語にして、法人税を激安にして、アメリカ企業をガンガン誘致すればアイルランドみたいになれる
どこの国も、別にそうなりたがってはいない その代わり、2008年のリーマンショックでアメリカ経済がコケたときは、一気に多重債務国に転落した リーマンショックのときは、「ポルトガル・イタリア・ギリシャ・スペイン」の頭文字を並べて「PIGS」と呼んでたが、
いつのまにか「アイルランドも入れてPIIGS」と言われるようになった
2007年までは「アイルランドは経済の優等生」と言われていたよ。
まさに、天国から地獄へストーンと落ちた、
これがグローバル経済の怖さ アウグスブルク同盟戦争中の1690年の時点で、フランスの兵員数は43万4000人だった
同時期のロシアの兵員数が22万、オーストリアが10万、プロイセンが3万とされるのと
比べれば、ルイ14世がいかに強大な軍隊を作り上げたかがわかる
この兵力と戦費を支えたのは、1700年ごろでヨーロッパの4人に1人は
フランス人とされる、フランスの人口の多さである
もっともルイ14世が手に入れたのはフランドルの一部、アルトワ、アルザス、
フランシュ・コンテだけだったけれど サッコ・ディ・ローマのときのランツクネヒトの無法は限りなかったが、
もともと彼らは貧しい農村出身者で大半が占められていた
彼らは常日頃から、聖職者の貪欲な搾取や目に余る腐敗や、
教会に支払う十分の一税の重さなどに憤懣を抱いていたが、
それがイタリアに来て一気にあふれ出し、教会や僧院と聞くと逆上した >>500
ナポレオン戦争のときに動員しすぎたせいで、多くのフランス青年の生命が浪費された でも生き残った徴兵の対象の一般庶民は皇帝派となって行った ナポレオン戦争の時点で、フランスの人口は2900万人
イギリスは866万人 1860年代以降、ドイツの人口がフランスの人口を追い抜く 植民地膨大に抱えこんだら本国は集権化しとかないと機能不全 フランス革命の後、陸軍は幹部を一新し、戦力を強めたが、
海軍は多数の士官が亡命してしまい、技術的知識を要する任務だけに、
後継者の補充がとても間に合わなかった >>503
ナポレオン戦争時の大陸軍の動員率って最盛期でせいぜい6%
第二次世界大戦で最後まで志願兵制をとっていたイングランドですら兵役可能人口の20%を動員したことを考えると極めて低い数値 ナポレオンに対して兵士の命を喰らう”食人鬼”という指弾が始まりだしたのは
1809年ごろからで、スペイン出兵でにわかに兵士の犠牲が増えた時期と一致している
アウステルリッツ、フリードランド、ワグラムといった栄光の勝利はすべて
1809年までに終わっており、後期はスペイン出兵、ロシア遠征、ライプツィヒ、
ワーテルローと、すべて敗北の連続だった
敗戦となれば当然に戦死者のみならず、凍死、餓死のほか、ゲリラや伝染病の
犠牲まで増えるのは必然である >>510
講談調に語ればそうだが、実際はドレスデンの戦いに勝利している。 ナポレオン戦争の犠牲者は、少なく見積もっても350万人はこえるようだ 七月王政はナポレオン帝政期にスペインで対ゲリラ戦を遂行したビュジョーなどの
軍人たちを、アルジェリア侵略戦争に投入した
彼らは若い兵士らとともに先住民の村々を焼き討ちにした
女、子供、老人までもが犠牲となった
博愛主義者のラマルチーヌはまるでヴァンデの内戦のようだと嘆いた
このアルジェリアで経験を積んだカヴェニャックのような軍人たちが、
1848年6月、パリで蜂起した労働者を鎮圧した(六月蜂起) >>455
イタリアは統一の歴史が浅いからもあるんだろうが、イタリア人というナショナルアイデンティティーが脆弱で、代わりに郷土意識が強い、なんて言われるよな
お陰で、ヨーロッパでも例を見ないほど、明確な少数民族(移民でなく、土着の)は少ない国なのに、単一民族国家という意識を持ちにくいようだ イタリア半島を偉大なるローマ帝国があった場所なんて誰でも知ってるしな
そしてローマ帝国も単一民族国家では無かった事ぐらい誰でも知ってる
そこに単一民族を説いたら世界中から笑い物にされるだけ >>515
俺が言ったのは、現代のイタリアには、土着のエスニックマイノリティが極めて少ないということであって、古代ローマのことではないんだけどね
郷土意識の強さに加えて、北部と南部の対立、感情的隔たりも大きいようだ
南部との分離を主張する北部の政党(北部同盟)もあったぐらいだからな
こういった意識の背景には、自治都市の伝統を有する北部と、中央集権的支配が長かった南部というような、歩んできた歴史の違いもあるようだ また、イタリア統一が一応なされたのも1861年のことにすぎない(しかも、圧倒的に北部主導だった)
まあ、なんやかんやで、一応自分はイタリア人という認識はあっても、積極的に同じ国民という意識、一体感は持ちづらいようだ(繰り返すが、郷土意識はその代わり強いという) 日本は古代国家の成立以来、常に一つの国家であり続けた
日本にも戦国時代のように権力が分裂していた時期はあったが、そうした時期であっても、
律令国家の枠組みは基本的に維持され、それゆえ明治維新は当初、王政復古という形を
とることになった
また、ドイツ地域には中世の早い段階から「神聖ローマ帝国」という枠組みが存在していた
それは近代国家とは異なる象徴的な存在であり、実際、その内部にはさまざまな国家が
存在していた。しかし、16世紀以降、それが「ドイツ人の帝国」という別称を冠して
いたことに示されるように、象徴的に諸国家を糾合する役割を果たしていた
イタリアの場合、それまで全く互いに一体感を持つことのなかった複数の国家が
統一されたので、「イタリア」という国家の存在を民衆に自覚させることは、
とてつもなく困難な事業であった イングランドが一極集中、という話が以前出ていたが、イングランドには
「地方都市の文化」といえるものはない
あるのは、都会の文化としてのロンドンの文化と、地方の農村文化のみ 幕末百話に明治の御維新以降はみな同じ国民ということになったが
それまで他領の人間と言えば西洋人に比べれば我々に近い「外国の人」って感じで
同じ日本人とは思ってなかったという話が出てくるな 一極集中の国家にはファシズムを誕生させる必要性はない >>521
リバプールって独特さないんか?
少なくとも言語的にはスカウズってのがあるやろ? >>522
だから、藩の意識からいち早く脱して「日本」の国民国家を創ろうとした坂本龍馬や吉田松陰が、時代の先駆者だったわけだな
一般の国民には、そんな意識なかった 巨大都市のパリやロンドンと比べて、国内第二の都市のリヨンやマンチェスターは小さな街であり、大阪などとは比べられない
でもサッカーに関しては、マンチェスター・リヴァプール都市圏は世界的なビッグクラブを3つ抱えている 日本ではどうして「東京一極集中」がこれほど叫ばれるのかというと、要するに「関西の衰退」が問題なわけだな
釜山やリヨンやマンチェスターなどと比べて、関西圏は極めて巨大な都市圏であり、むしろソウルやパリやロンドンと比較すべき存在。
ヘタにそういう存在があるからこそ、日本ではかえって「一極集中」が懸念される。
まあ、最近は大阪の発展がすごいと言われているが 国民国家という概念がどうやって出てきたか考えないとただの司馬遼史観の残骸になる >>524
近代以降は、世界的に見ると、京阪神都市圏はロサンゼルスに匹敵する人口と経済力を持つ巨大都市圏だよ
東京都は比較にならんが イタリア版「維新の三傑」といえば、マッツィーニ・カブール・ガリバルディ
でも、カブールの関心は北イタリアの統一のみであり、南イタリアには関心を示さなかった。
南イタリアの併合にあくまでこだわったのはガリバルディ >>530
東京首都圏が異常にデカすぎるんだよなあ
普通の国なら、大阪が首都
名古屋や福岡も国内第二の都市として十分な規模を備えている >>526
いっぱしの先進国ならマンチェスターとリヴァプールはくっついて一緒の都市圏になっててもおかしくない程近いんよな
ところが現実には両都市の間はド田舎が広がっているっていう 江戸時代の日本は、江戸の人口集中ははなはだしかったが、経済の核としての大坂、
文化的権威の中心としての京都の存在があったから、ロンドン一極のイングランドに
比べれば、日本は三都制であったといえなくもない
英仏は一極集中、二極ないし三極構造になっていた日本、
独伊は多数の中心地に分散したと区別できるかもしれない リヴァプールは港町だし、マンチェスターでさえ、工業都市というよりは商業都市
煙を吐く工場群は、むしろその周辺に位置していた
圧倒的なメガロポリス・ロンドンは、世界の商業・金融の核となった ロシアも、あれほど広いわりにはモスクワへの一極集中がはなはだしい
先進国と違ってモスクワ首都圏と地方の所得格差が数倍に広がってるし、ほとんど都市国家 >>535
ちょうど大阪と神戸みたいな感じだな
でもサッカー界では、マンチェスターユナイテッド対リヴァプールが長らく「ナショナルダービー」と言われてた イングランドでは、粘土質ゆえに近代的な農法に不適合であった北西部に対して、
根菜栽培と家畜の飼育を含む近代農業に適していた軽土質の南東部との対比がある
そのほかに、17世紀の革命では、南部が議会派、北部が王党派となった 中国も北京と上海の2極構造、今では広州も加わって3極
でも北京は政治の中心だから繁栄してるんで、首都を移転したら確実に衰退する ロンドンを中心として、イングランドほど都市化の徹底的に進行した国は少ない
都市国家であったヴェネツィアなどを別にすると、これほど都市に人口が
集中した国は、アムステルダムからロッテルダムまでの都市ベルトが成立した、
かつてのオランダぐらいしかないだろう ドイツのバイエルン州はカトリックだけど、ITや航空機、航空宇宙、バイオテクノロジー、
医用光学などが盛ん
カトリック・プロテスタントは経済発展には関係ないのかな ドイツの製造業は、南部が支えてるんだよな
ちょっと意外だけど、北部ではない アメリカ合衆国の製造業は、ドイツ系移民が支えている
これは周知の事実 アメリカ、日本、ドイツ
中国が「製造強国2025計画」で追いつき追い越す目標とした世界3大ハイテク国家だが、アメリカの製造業を支えてるのはドイツ系
要するに、世界の製造業の先端にいるのは日本人とドイツ人 フォルクスワーゲンはニーダーザクセン、ダイムラーはシュツットガルトだけど、BMWとアウディ(VW傘下)はバイエルンなんだよね
ドイツ製造業とハイテク産業におけるバイエルンの存在感は極めて大きい
金融はフランクフルトでこれも北部ではないという
北部はハンブルクが気を吐いているけど、全体的には印象薄い ヨーロッパで最も製造業が盛んなのは、南ドイツと北イタリア
つまり神聖ローマ帝国の領域 現在のドイツでは、伝統的な工業地域だったルール、ザール地方が停滞ないし
衰退しているのに対し、ヘッセン、バイエルン、バーデン=ヴュルテンベルク地方
のほうが活気に満ちている >>543
バイエルン・バーデンヴュルテンベルクの南ドイツ2州がドイツ経済を牽引するようになったのは、ここ50年ほどの傾向
東ドイツが社会主義化したおかげで、ベルリン周辺が最貧困地帯になってしまったという特殊事情もあるし ドイツは北半分が共産化してたという特殊事情があるうえに、北部工業地域はイスラム系移民が非常に多く貧困階級が多い。
街の人の2割はトルコ人という感じだったかな。
基本的にトルコ人は親切な人が多かった。
ユーゴ人は黄色人種と見るやヘイト投げまくりでヤバかった。何であんなに黄色人種が憎いのか理解不能。 コロナの何年も前だったけれども、ユーゴ人たちには黄色人種に親でも殺されたのかというくらい、街中でヒステリーに悪口言われまくった。
イタリアではアルバニア人がヤバかったが、やはりユーゴ人に悪口言われた。
コロナ禍の今は怖くて欧州いけないわ。 >>527
大阪は大阪維新のせいで壊滅状態だよ
冗談は松井一郎の顔だけにしてくれw ザクセン州はドイツ産業革命揺籃の地だった
ケムニッツは「ドイツのマンチェスター」と呼ばれ、ライプツィヒとともに
主要な産業都市だった
東ドイツ時代に生産装置の近代化がなされなかったため、ザクセン州は再統一後に
厳しい産業空洞化を被った
しかし、その後は、西からの莫大な支援を手に、着実に発展。
今、ライプツィヒ、ドレスデン、ケムニッツと、ザクセン州の諸都市の景気は好調 ザクセンって現在のドイツ連邦共和国の州でいうとザクセン州、ザクセンアンハルト州、ニーダーザクセン州に分かれているけど何でそうなったの?
東西ドイツに分かれる前からバラバラになってたような気がする >>556
古くは全部ひっくるめてザクセン公国の領地
1400年代に2つに分裂して片方はプロイセンに吸収されたり領地またいで別国家になった
その後ナポレオン時代ドイツ革命ソ連占領からの東西ドイツ統一等幾度となく再編成行われて
1990年に今の形に落ち着いてる ドイツの南部諸州にはイタリア人が多い
ポーランド人は新連邦州やニーダーザクセン州、バイエルン州北部に多い
トルコ人は多くがベルリン(西部)やノルトライン=ヴェストファーレン州、
さらにライン=ルール地方の大都市に住んでいる バイエルン州はもともとかなり伝統的で、石炭資源がなかったので、
長い間農村的かつ前工業化の段階にとどまっていたので、1950年代初頭には
西ドイツの「貧困の家」と見なされていた
1945年以降、バイエルンは東ドイツからのさまざまな産業活動を受け入れて、
かなりの利潤を得た
その象徴的なものが、ベルリンからミュンヘンに移ったシーメンスである フランスの場合、パリ都市圏では日用品工業や自動車工業、航空機産業
北フランスでは炭田と石油の輸入でダンケルクの鉄鋼・石油化学工業
リヨンは絹織物
マルセイユ、フォスは中東や北アフリカからの石油を利用した港湾立地型の
石油化学工業
トゥールーズは航空機産業
グルノーブルはアルミニウム工業
ボルドーはワイン醸造業 神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位した
オーストリア皇帝フランツ1世として即位した 信長もオドアケル同様に追放した将軍の後釜の足利流を立てなかったため唐突に室町幕府が終了する事になる 織田信長とオドアケルを比較するなんて凄いスレだなここw
そんな見方はした事がなかった
目からウロコ セリム1世もアッバース朝カリフを滅ぼしたが、後にオスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねるようになった 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
●色川高志「高添沼田の息子の金属バット集団殴打撲殺を熱望します」
龍神連合五代目総長・高添沼田の息子(葛飾区青戸6−26−6)の挑発
●高添沼田の息子「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合五代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状)
492盗聴盗撮犯罪者色川高志(青戸6−23−21ハイツニュー青戸1032021/02/03(水) 13:53:22.55ID:QtP78E4Z
●青戸六丁目被害者住民一同「盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父の逮捕を要請します」
長木親父&長木よしあき(盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−20
●盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父
高添沼田ハゲエロ老義父の住所=東京都葛飾区青戸6−26−6
【通報先】亀有警察署=東京都葛飾区新宿4ー22ー19 рO3ー3607ー0110
盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父の盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/愛人変態メス豚家畜清水婆婆(青戸6−23−19)の
五十路後半強制脱糞
http://img.erogazou-pinkline.com/img/2169/scatology_anal_injection-2169-027.jpg
アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父によりバスタブで清水婆婆の巨尻の肛門にシャワーのキャップをはずしてずっぽり挿入。
そして、大量浣腸。 勢い良く噴出!腸内洗浄状態です。 そうなの?
フランスの王様が神聖ローマ帝国の皇帝になる選挙に出ようとしたりしてなかったっけ? >>570
フランス王ジャン2世妃ボンヌ・ド・リュクサンブルを介して入ってるよ。ボヘミア王ヨハンの娘で神聖ローマ皇帝カール4世の姉だぜ 血はカロリング家時代の初期だけ
カロリング家断絶後は選帝侯による選出+教皇の戴冠 血縁が全く関係ないかというと、選挙における影響力という形で影響力あったりしたんで、その辺りはなんともなあ 麻生太郎が血筋による影響力で総理大臣務めてた日本は民主主義じゃないと言ってるのと同じ
ただの屁理屈 >>574
屁理屈とかそういうんじゃなくてだな
そもそも選挙王政とはなにか、事実上の被選挙権はどの範囲なのかとか、検討すべき要素は割と多くてだね
我々が良く知るドイツの選挙(7大選帝侯による選挙)が固まるのは相当後世のカール4世の時だったりするからね
ボーエンシュタウフェン朝とかザクセン朝とか、血縁こそが被選挙権を保障していた時期もあるんだよね ドイツの選挙王制は血統原理に基づく選挙王制で、王朝が断絶した際は前王朝の男系、女系に関わらずその血統を受け継いだ家系から選ばれる
大空位時代のあと1273年にドイツ国王に選ばれたハプスブルク家のルドルフ1世もその一人で、その祖グントラム金満公(ブライスガウの上アルザス伯)でエティション家に繋がる
グントラムの父はHugo III. im Nordgau (Etichonen) でそこをさらに遡ればカロリング家のルートヴィヒ敬虔帝にいきつく フランスにしろ神聖ローマにしろ、
互いの国を征服してフランク王国再興だーとは思わなかったの?
それとも、やろうとしたけど無理だったの? >>578
そもそも、併合という概念が……
フランス王やフランス王族の中には帝国等族(諸侯)を兼ねている者もいたし、逆に帝国諸侯がフランスの諸侯であるものもいた
別に綺麗に二分されていたわけではない
フランスやドイツという主権国家概念が導入されたのは三十年戦争以降だし、それ以降でも必ずしも綺麗に二分さるていたわけでもない >>578
ローマ帝国分裂からいまだに続いているよ。
一応、穏やかになったのは、三十年戦争終結・ウェストファリア条約だけれど、
ナポレオンで再燃し、ヒトラーの第三帝国構想でまた持ち上がり、今はEU。 >>580
そもそも、ヒトラーにしても、ヴィリーにしても、東方をドイツの領土または勢力圏にしようという意図はあったが、フランスを併合する意図はなかった
別にフランスに敬意とかじゃなく、統治に色々と面倒だからだが ヨーロッパの王侯貴族なんて14世紀にはみんな親戚じゃん?
なんだかんだでカールマルテルやらピピンやらの子孫 14世紀?くらいから中東欧の諸侯が西欧王朝から王を頂き傘下に入りはじめたのはなんでなの? >>585
9世紀〜14世紀の間に、スウェーデン、ポーランド、ボヘミア、ハンガリーの王族貴族を介して、
西欧の王侯貴族と、ビザンツ帝国やロシア諸邦の支配層と、血が行ったり来たりしているでよ。 >>579
綺麗に分かれるはず無いじゃん。綺麗どころか、全く分けようが無い。
旧帝国の再統一が究極的な目標、ローマ帝国なしいはローマ帝冠を受けたフランク王国の再統一。
いうたらヨーロッパの天下取り。
戦国時代のような状態から統一を一旦諦めてしまうのがウェストファリア条約よ。 >>587
全く分けようがない
わけではない
フランス語圏とドイツ語圏は中世以降にはすでに分たれていたし、フランスとドイツは別の国という意識も中世末期、百年戦争の終盤以降には醸成されてる
ただし、その境界は不文明であり、かつ流動的でもあったって話だ >>588
分かれてねえよ。
現役にほぼ半々のベルギーみたいな国あるじゃん。
王様は民草の人種や言語なんて意に介してねえよ。人種・言語・文化の境界なんてお構いなしに、領地を斬り渡したり受け取ったり王族の縁組が有ったりが普通。
ここら一体の住民はみんなドイツ語を喋ってるからドイツの領地にすべきだ、みたいなのが出てくるのは19世紀後半からで、戦争の大義名分になるのは20世紀に入ってからだ。
それでも、戦略的・経済的なメリットが上回れば、人種・言語・文化お構いなしの国境を設定する。
ここ界隈ドイツ語喋る人多いから、ドイツに統治されて方が良いって住民の多数が言うなら、ドイツに引き渡すよ、なんて素直に言い出したのは、20世後半だよ。ザールラント条約とか。 ベルギー、スイス、アルザスロレーヌは旧ロタール領の残骸。 スイス独立は難攻不落の山岳聖域かつ緩衝地帯だからわかる
なぜネーションがうまれる前に独仏蘭べ統一王国が成立しなかったのか
宗派が違うじゃ納得できない >>589
王侯がコスモポリタンなグループで、欧州圏内で一体的な存在であることと、主権国家概念成立以前の言語文化圏における地域差生まれ、ナショナリズムの萌芽が存在したことは矛盾しない
ハノーヴァー朝の大ブリテンとハノーヴァーの人的同君連合と、中世中期以前の私領(相続財産)としての同君連合は同一ではない 中世中期までに、現代につながる「フランス」なる地域が生まれたのは、カペー朝の相続力の偉大さは間違いなく影響している
フランス王は、その臣下の使い方含め、やはり英邁or有能な王が多かった
ドイツはザクセン朝、ボーエンシュタウフェン朝の頃に皇帝・王がローマ帝国の夢を追いすぎたのが後々まで影響してるだろうな >>589
ついでに突っ込んでおくと、そのレスで言ってるのはフランス語圏とドイツ語圏のまさに周縁部の話で(旧ロタールの国)、
文化圏的にコアな領域
フランスであれば、イル・ド・フランスであったり、シャンパーニュ、ブロア、アンジューといった領域
ドイツであれば、大ザクセン、フランケン、シュバーベンと言った領域
これらの領域において、ドイツとフランスが別の国であるという意識が生まれていたって話を>>588でしている オラ達の圏域は他と違う一緒にしてくれるなって共同体の存在と主張はわかる
でもさ実際問題として王様諸侯が強ければそんなのおかまいなしに併合分割交換統一できたのでは?とおもってしまう
地理的障壁が独仏語地域にはほとんどないし
ロシア中華イスラームだと国民国家以前には地理的に手が出せない地域を除いて基本広域統一王朝だった
なぜ西欧中欧だけネーション以前にもあんなに細かく領土がわかれ何々伯爵領だの公国だのが群雄割拠して末長く存続できたのかがわからない
ウェストファリアでなぜ諦めてしまったのか >>591
地面ごと脱藩したんだよ。あの王様に統治されるの嫌ってふうに。
代わりの王様も要らんって。本邦で言うと、加賀国人一揆みたいなものよ。 >>595
その辺いろんな説があるけど、「銃・病原菌・鉄」は人為によらない客観的理由を検討してるから一読おすすめ
必ずしも同意しきれない(あと、検討が雑な)部分はあるけど、それ込みでも面白いよ >>593
で、チャネル諸島はなんでフランスに引き渡されてないの? >>598
エリザベス2世に聞けよ
あそこは彼女の私領だ >>599
私領だから好き勝手指定医なんて時代ではないでしょうに。 >>594
生まれてないだろ。
ドイツなんて小国割拠状態だったし、ナポレオンなんて全方面に攻めて取ってってやってる >>601
ツッコミどころしかないが、ドイツの領邦国家は別に民族・文化意識の反映ではない
ドイツ語を母語とするドイツ人意識は、16世紀には存在していたと言われ、ルターはその現象に方向性を与えた
(初期のプロテスタントは文化的なドイツ化とも言われる)
>>600
法的には彼女がどうするかの問題でしかない
英国議会の支配下にないから >>602
だからずっと言ってんじゃん、王様は民草の民族文化言語に関心なんか無い、民族意識・文化・言語の境界なんて無関係に領地のやりとり縁組なんかをやっていた、って。
で、16世紀? 神聖ローマ帝国からオランダが逃げて今に至ってんじゃん?
ドイツの北海沿岸地域とか、ずーっと、うちらの喋りはドイツ語違うんちゃうか?ってのはくすぶり続けていた。ニーダーザクセン方言群、どれも、標準的なドイツ語やらそれに近い
中部・南部のとは話が通じにくくて、オランダ語は素で理解するからね。
新しめの話なら、20世紀も終わり賭けの時期になって、欧州評議会のヨーロッパ地方言語・少数言語憲章の対象の扱いを受ける運びになった。
南は南で、なんとなくドイツになってるだけで、やはり、ドイツ人意識は薄く、バイエルン州はドイツ基本法み批准していいないし。 >>603
それ、議論の我田引水
ドイツの領邦国家はそれそのものがナショナリズムの拠り所ではないからこそ、ドイツ人としての共同体としての帝国を必要としたって話
神聖ローマ帝国研究の本読めば必ず出てくるぞ >>604
そんなのは、それこそ、第三帝国構想でしょうに、二十世紀も中盤の フランスというはフランクのことをオイル語で言った形
つまりフランスはフランク王国の継承国家であるがドイツはイタリア半島との関わりでカール大帝から連綿と続く皇帝権だけ受け継いだという事
この腸捻転現象がこの両国に紛争をもたらしたといっても過言ではない >>605
ヴェストファーレンで死亡宣告書書かれた帝国が、その後もナポレオンに至るまでなぜなくならなかったのか
それ以前に「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と中世末期には呼ばれ始めた「ドイツ人」の意味
20世紀の第三帝国構想なんて19世紀のロマン主義の焼き直しだし、ロマン主義の先祖は、ゲーテによるドイツ連邦論持ち出すまでもなく、源流としてルター以来あったんだよ 16世紀にドイツ人意識があったとしたら統一までに時間かかりすぎじゃね
350年近く経ってるよ帝国誕生まで
英蘭西葡スイス仏が17世紀までにそれらしい形を整えてるのと対照的
18世紀までなら絶頂期の仏が独併合しててもおかしくないよな、やっぱり
当時から仏とすみわけてて独文化圏がそれを阻んだってのは論拠が弱い いやいやこの議論の流れだと母語がドイツ語ってことでしょ>>602
そんな衒学ぶることないよ オーストリア人、スイス人の一部、アルザスロレーヌ人もドイツ人だと そうなるね>>602がそういってんだもん
まあ、だから破綻してる論理なんだけど >>611
オーストリア人とかドイツ人のど真ん中だろ カトリックのドイツ人
ほぼバイエルン人みたいなもんね ナチス統治後のオーストリア人はドイツ人意識を避けている >>608
16世紀ったら、オストマルクとかプロイセンとか、王侯貴族がドイツ人、農民牧童木こりはスラブ人、みたいな状況だろ。
原住民比率を下げる新領土統治の定石で、他地域からドイツ人農民連れてきて素回したり、捕まって奴隷らされて上等、足軽に駆り出す、みたいなことしてたろ。 >>607
イタリアを喪失というか離反されてしまったからだろ
ボヘミアとかシレジアとか、王侯貴族はドイツ人、農民商工民はスラブ人みたいなところも含んでたしな。 東フランクの継承だからイタリアはそんなに必要ではない ローマ帝国の継承国が本領のローマ獲らずしてどうするよ?天下取りに成んねえぞ >>619
に、こだわったザクセン朝とホーエンシュタウフェン朝のドイツ政策の結果が領邦国家の乱立という結果になった >>620
6世紀のユスティニアヌス皇帝とかちゃんと本領回復してたよ >>616
16世紀にはプロイセンはようやくドイツ騎士団領から世俗化して公国となった時代であり、ポーランド王の勢力下にあった
また、プロイセンは帝国の領域に入ったことはない 何言ってんだ?特に二行目。プロイセン王国の王様がドイツ帝国の皇帝に成ったろ。
ドイツの北半分くらいプロイセン領だったべ。 違う
ブランデンブルク選帝侯が「帝国外の」プロイセン公国で国王を称することを皇帝に認められただけ
そのブランデンブルク=プロイセン王国が、最終的にドイツ帝国の母体となるわけだが
ブランデンブルクとプロイセンの関係と違いすら知らんとドイツについて語ってるとかいくらなんでもありえんだろう >>617
ナショナリズムは敗北から生まれる部分もあってだな
英国のナショナリズムは、百年戦争による大陸領地の喪失から生まれたと説明する研究者もいて、割と有力 >>627
対伊、対仏、対丁、対瑞、対波、対露、対墺、対洪、全面的に小競り合いして勝ったり負けたり取ったり取られたりしてんじゃん >>608
日本も廃藩置県が1971年だから国家統一まで相当時間がかかったと言えるぞ
それまで日本には統一国家はなかったんだからな >>629
何を以って統一とするかはあんたの基準は解らんけど、
武官は江戸の将軍の招集に応ずる義務があって、地方領主は定期的に江戸と領地を往来、18世紀に殿様ったらあらかた江戸生まれ。
領主家間の縁組やら領主の代替わりには江戸の将軍の予め承認が必要、ついでに、琉球藩王の縁組や代替わりには鹿児島城主の承認が必要で、その鹿児島城主も
江戸将軍の配下の領主として縁組やら領主の代替わりには江戸の将軍の予め承認が必要。
そりゃ、「諸侯の家中は大君の与る所に非ず」(大名の領地経営は(江戸の将軍の関与するところでない)というのが幕府の方針だったけれども、独立までは認めてない。
呼んだら来い命令した場所平家、定期的に呼ぶ、跡継ぎや結婚には関与する、ってガッツリ統制されてたで。
呼んだら来い命令した場所へ行けの一環で、参勤交代に、領地替え。
そもそも江戸の将軍には、官位の推挙権はあっても任命権は無い、朝廷が管轄。外交も、交易の一部を江戸の将軍を介して松前藩・対州藩・薩摩藩・琉球藩王・長崎奉行に
預託していたけれども、基本、天皇の大権で、既に交わされた条約を改廃したり新たな条約を結ぶ権限は辺地諸藩にも江戸将軍にも与えていなかった。
これで統一国家でないんかな?
その前にも、太閤豊臣秀吉が、全国の領主に戦役や普請の命令を出して、北は松前の蠣崎から南は琉球まで応じてるで。
南北朝時代・戦国時代はなかなか命令が届かなかったり従わなかったりだったが、その前の鎌倉時代には、これまた幕府が各地の領主に動員をかけて応じている。
元寇の時分には、朝廷から遣わされた宮様が鎌倉将軍をやっていて、執権の北条時宗に武家の統制は丸投げなんだが、奥羽から薩摩大隅まで全国から兵員を動員かけたで。
更に前の律令時代には、国司を派遣していた。
統一国家でなきゃあできんことではないんかい? 封建国家ではあるが
統一国家というと中央集権的な官僚システムイメージするから違うかな そういうと武士も官僚がぁぁとか言い出すだろうけど
やっぱり国家の土地を小国家的な大名(諸侯)に分割してるってのがどうもね 幕藩体制は幕末に外国勢力と接するあっさりひっくり返ったからな
日本が地理的に外圧をうけにくいから長期に安定したけど
幕藩体制の統制力が神聖ローマよりはずっとましだとしても大名の存在がある以上
強力な大諸侯がほぼ消滅したフランスやイギリスなどに比べれば中央集権は全然進んでなかったと考えるのが妥当だろうね そもそも幕府は諸侯の盟主であって諸侯は幕府に従属してるが原則は独立勢力だからなあ
各地の大名が独自の領土・君統・法律・統治体制を持ってた 1871年はドイツも日本も封建制諸国連合から君主制の中央集権国家に変わった記念すべき年 いったん中央集権やっとかないと国民国家意識が芽生えないからね
近世以降はすごく重要なこと
イスラームの惨状みるとつくづくそうおもう >>635
独立勢力じゃないよ? 徳川本家に、内大臣以上の官職で内政権利を、征夷大将軍として武官の任免権を与えられてる。
だから、大名は、削封や転封や改易があるし、代替わりごとに誓詞を出して封土の安堵を受ける、言い換えたら、封土の統治権の分与と武官としての任官を受ける。 >>641
しかし幕府には藩政への直接介入権はなかった >>641-642
これを合わせると、欧州よりは中央集権度は高いが、典型的な封建制度の成立を見ることができる
通説通りの話だな
フランスの封建制度は、ブルボン朝の成立をもって事実上終止符が打たれるが(王政府における中央集権が固まる)、
ドイツはヴェストファーレン条約で終止符が打たれる(領邦国家の主権が事実上認められる)という、対照的な結論
に至るのは面白いな >>642
介入権が無いのではなくて、幕府の自由意志による施政方針として、「家中は大君の与るところに非ず」(大名の領地経営に幕府は責任を関与しない)。
但し、お家騒動や百姓一揆が起こると、改易や削封や隠居命令や転封が行われた。 >>644
改易転封は「直接介入」じゃないよ。
幕臣が直接藩政を指揮したことはないし、各藩邸は現在の大使館のような扱いで奉行所などは直接踏み込めなかった。
現実としてやっていなかったことなのに「施政方針としてそうしていただけだ」とこだわるようだけど
それと「権利として認めていた」というのの差はどこに?
明文化してなくても世の中には慣習法というものがあるからね。 >>645
一機が起こる → 統治が巧く行ってない → 改易(お前らの藩はお取り潰し)・隠居(代替わり)命令、削封(大きな藩は納められないんだろ)、転封(別の大名に治めてもらう) 幕府が強い力行使できたのも強力な外国勢力と接してなかったからじゃね
神聖ローマは皇帝自体の領土はオーストリアとボヘミアで帝国内の3割を占めてさらに帝国外にハンガリーをもってたが
さらに巨大な国家フランスが横にいて介入してくるから諸侯も強気で反抗してきて譲歩せざるを得なかった
まぁ幕府は直臣領も含めると国内5割だったけど最後は親藩の尾張に裏切られるからな >>647
紀伊にも彦根にも裏切られてるあたり、当時の時勢というのがあったとしか思えん >>647
実際に強力な外国勢力が船で乗り付けてきたら、めっちゃ揺らいで、中央集権的な明治政府に取って代わられてんじゃん廃藩置県じゃん。 >>622
> 6世紀のユスティニアヌス皇帝とかちゃんと本領回復してたよ
むしろローマと仲違いしてローマを失いかけた人だけどな そもそも西ローマはその領域に12世紀までローマも
含んでるから前提が間違ってる
名称が神聖ローマ帝国になった時代以降だけを話してるなら別だが ナポレオンが実質併合してたじゃん
でもナポレオン倒した連合が国がでかすぎるからってまた分けた
そしてフランスも消さなかった。バランスとるために >>620
コンスタンティノープルの正式名称は新ローマ
4世紀以降はここがローマだ ビザンツ人ですらローマと言ったら西側を意味したからな アラブ人トルコ人ペルシャ人にとってローマといえばコンスタンティノープル以東だが それよりも、何故デンマークやらハンガリーやらクロアチアやらトランシルバニアは併合されてなかったの?
結構な時期、神聖ローマ帝国に本領を持ってる王家が支配していたよね >>657
デンマークは逆
デンマーク王(中世は強国)が帝国内の諸侯位を持ってる形
スペイン領ネーデルラントみたいなもん
ハンガリーは中世中期まで帝国に伍する大国で、王が誰であろうと諸侯の力が強く、帝国に併合とか夢のまた夢だった 神聖ローマに入るにはハンガリーやデンマーク側の王や貴族連中が神聖ローマに入る合意の意思表示をして
神聖ローマ側の貴族たちが受け入れを認めるって条件じゃないかな
ボヘミアやブルグンドを後から参入したけどハンガリーやデンマークは入る気なかったんでしょ
デンマークは帝国内のオルデンブルク家、ハンガリーはハプスブルク家、ポーランドはザクセンのヴェッティン家が継承したけど
帝国に参入する流れはなかった
フランスは30年戦争で獲得したアルザスを通して帝国議会に参入する気まんまんだったけど帝国貴族が拒否した結果アルザスは帝国から除外された
もちろんフランスはアルザスだけ帝国内にとどめておくつもりでフランス全体を帝国にいれるつもりはない
ルイ14世がプファルツ選帝侯位やケルン司教領を臨んだのも帝国議会にフランスを参加させて帝国内で影響力増大をはかったというところかな デンマークの場合帝国内にあるオルデンブルクは分家が継承するが途中で断絶するから17世紀後半にデンマークのものに
同じ帝国内にあるホルシュタインは分家2つとデンマーク王家で分割しててややこしい
スペインやイギリスも帝国内の公家と同君連合はある
フランスは分家が帝国内の公家になることはあるが王家の同君連合はない
アンジューヴァロア家が断絶した時プロヴァンスを勝手にフランス王国に編入したのもイタリア戦争で最終的に認められる 帝国から王様かりた国も帝国の一部
ってやったら、1000以上かかって再統一できないみたいな
万年戦国時代でもなかったろうにな フランスの方が人口多いのにどうやって併合するんだw 推定人口見る限りイタリア抜いても長期にわたって帝国の方がやや多い感じ
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1500
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1600
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1700
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1800
1800年はフランスの方が多いがナポレオン帝国なんでフランス部分だけだとハプスブルク領イタリア抜きの帝国より1000万以上も人口少ない
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1000
西暦1000年ぐらいだとイタリア抜きのドイツより人口が多い
中世末期以降は30年戦争期をいれても帝国の人口が安定してでかい
経済力もドイツとフランスは経済史の本で中世から現代まで一人当たりGDPも似たようなもんだし
遺伝子検査でもドイツとフランスは近縁で同属グループに分類されるし
言語は違うがドイツとフランスは兄弟国家 フランス人が遺伝的に一番近いのはスイス、オーストリアや南ドイツと
ちょうど古代ケルト文化(ラテーヌ文化)の地域とかぶる
次に近いのがスペイン人でイタリア人とは結構遠い
イタリアはアルプスのせいか遺伝的に他の欧州地域と遺伝的に離れてる
ローマがあれほど拡大したのだがローマ人はほとんど現地人と交わらないか任務が終わったらさっさとイタリアに帰ったんだろう >>664
ガリア・キサルピナって、ルビコン川からアルプスまでローマ本国に編入されたケルト地域あったじゃん。 >>665
ケルトと言っても遺伝的一体のグループじゃないからね
アイルランドのケルトも遺伝的には遠いし
ただケルトの中核地だったハルシュタットやラテーヌなどアルプス以北の地域は遺伝的に近縁グループが形成されている
ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/1/16/Hallstatt.png >>89
クメール人が統一しかけたが、
その後侵入してきたベトナム人とタイ人と
ミャンマー人はそれなりに全部大勢力だもんな
プロイセンが台頭する前のドイツと同じで
一強になりにくい 余程の物理的障壁が存在しないのならば、時間がありゃそのうち統一するようなもんだと思うんだがな〜
日本の戦国時代だって信長→秀吉→家康という流れで統一したし、
中国だって群雄割拠の時代があっても始皇帝や楊堅や趙匡胤が統一した訳だし。 >>670
インドは英国が進出するまで統一しなかったし、北アフリカも統一してる時期の方が短い >>670
よほどの物理障壁だらけのペルシャは割かし政治的に一まとまりになっている期間が長いし今のイラン国もそうだよな。
向かいのジッジーラはこれといった物理的障壁が無いのに、むしろ障壁たるネジドの砂漠が唯一の統一箇所って感じだよな。 フランソワ1世がカール5世に皇帝選挙で勝っていたらフランスに併合されて新フランク帝国が誕生していたかも知れん ブルグンド王国とブルグンド公国とブルゴーニュ自由伯(フランシュ・コンテ)の違いについて教えて下さい
ワイン等で有名なフランスのブルゴーニュ地方とは現在のフランシュ・コンテに相当すると思うのですが、ブルグンド王国やブルグンド公国のあった地域はブルゴーニュ地方には含まれないのでしょうか? ブルグンド王国はプロバンスやドーファンも含まれる
ブルゴーニュ公国とフランシュコンテはブルゴーニュだよ ブルゴーニュ公国はフランス王国に含まれてて
ブルゴーニュ伯国はブルグンド王国に含まれてて
どちらも地域としてはブルゴーニュ ブルゴーニュ公
・ボゾン家(アルデンヌ伯家)
リシャール (898年 - 921年)(正義公)
ラウール (921年 - 923年)
ユーグ黒公 (923年 - 952年)
・ヴェルジー家
ジルベール (952年 - 956年)
ユーグ大公 (956年 - 956年)
・ロベール家(カペー家)
オトン (956年 - 965年)
アンリ1世 (965年 - 1002年)(偉大公)
・ブルゴーニュ=イヴレ家(イヴレーア家)
オット=ギヨーム (1002年 - 1004年)
1004年 - 1032年フランス王国に統合
初代のリシャール正義公の兄はプロバンス王ボソ(キスユラブルグンド王)
ブルグンド自由伯
・ブルゴーニュ=イヴレ家(アンスカリ家)
オット=ギヨーム(986年 - 1026年)
ルノー1世(1026年 - 1057年)
ギヨーム1世(1057年 - 1087年)
ルノー2世(1087年 - 1097年)
エティエンヌ1世(1065年 - 1102年)
ルノー3世(1102年 - 1148年)
ギヨーム2世(1097年 - 1125年)
ギヨーム3世(1125年 - 1127年)
ベアトリス1世(1148年 - 1184年)※皇帝フリードリヒ・バルバロッサ妃
1184年以降はホーエンシュタウフェン家が相続 初代ブルグンド伯のオットー=ギョームの母ジェルベルガ・ディ・マコンよりのちのブルグンド自由伯領となるドル付近の地を相続(986年)
ジュルベルガはイタリア王アダルベルト2世(オットー=ギョームの父)との死別後はフランス王ユーグ・カペーの弟ブルゴーニュ公アンリ1世と再婚
アンリ1世には男子がいなかったためジェルベルガの継子のオットー=ギョームが後継者となるとなるが、ソーヌ川左岸のブルゴーニュ公領を巡りフランス王ロベール2世と抗争、結果ブルゴーニュ公国は1004年にフランス王ロベール2世によりフランス王領とされた
その一方でオットー=ギョームは1016年、ブザンソン大司教の叙任を巡り、ブルグンド王国(ユラブルグンド王国)最後の王ルドルフ3世と争うが、王と皇帝ハインリヒ2世はストラスブールで会い、交渉の末皇帝はルドルフの後継者になることに成功し、次いで皇帝はオットー=ギョームに対し軍を派遣し、オットーをはじめとするブルゴーニュの貴族はそれに服従する
ハインリヒのブルグンド王国継承は1018年のマインツでの議会で確認され、ブルグンド自由伯領は以後神聖ローマ帝国の支配下に入ることとなった >>672
ただし現代のイランは40%が少数民族の多民族国家 >>681
民族は政治的なまとまりにあんまし関係無いよ? 神聖ローマなんて名前だけの帝国
EUみたいなもんで、国家としての力はない 神聖ローマ帝国はほとんど今のドイツ
当時はフランスの方が先進国で後進国のドイツに魅力がなかったのでは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています